弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

しばし休筆のお知らせ

新年、あけましておめでとうございます。

年明けより長年挑戦したかった小説の執筆にとりかかります。

ゆえ、当ブログはしばらくお休み致します。足掛け六年このブログを続けて参りました。むろんここでやめるわけではありません。私はこれからも自由にこの場を借りて文章を書いて参る所存です。

四年間書き継いできた「皇位継承」シリーズも保元・平治の乱が勃発し、まもなく平安時代が終わり、いよいよ源平の争乱に突入というところまできました。が、ここで一区切りとして、小説に集中し、小説が脱稿した後、諸々温めてながら、次の鎌倉時代に入りたいと存じます。

しばし休筆させていだきますが、また戻って参りますので、その節はよろしくお願い申し上げます。いつもありがとうございます。

令和四年元旦 多摩丘陵にて なおすけ

皇位継承一大乱前夜一

平安時代天皇は概ね三十代から四十代の壮年で崩御されている。現代では働き盛りであるが、平均寿命が今よりはるかに若い当時、世の人々はだいたい四十代で亡くなることが多かった。人生五十年は本当のことで、そもそも人間の定命とはそのくらいなのであろう。八十二歳の陽成天皇や、七十七才の白河天皇、七十歳の桓武天皇は異例と云える。なかで近衛天皇は、わずか十七歳の若さで崩御された。幼くして天皇となられ、御誕生から崩御されるまで、天皇家摂関家の骨肉の争いの真っ只中におられたことほど、辛く恐ろしいことはなかったであろう。そのストレスたるや察するに余りある。

近衛天皇の次がどうなるのかは、元来、天皇家でも摂関家でも、朝廷の第一の論議となっていた。崇徳天皇から近衛天皇に譲位の際、崇徳院はわが子たる重仁親王立太子に望みをかけられた。しかし鳥羽院はそれをも阻まれる。どこまでも鳥羽院崇徳院が相入れられることはなかった。久寿二年(1155)七月、近衛天皇崩御をうけて、崇徳院の弟の雅仁親王践祚後白河天皇となられた。崇徳院後白河天皇の因果も凄まじい。名目上、御二人は鳥羽院と待賢門院の皇子であるが、これまで述べてきたとおり、実際には崇徳院の父は白河院で、鳥羽院崇徳院を叔父子と呼ばれ疎まれた。雅仁親王は幼い頃より奇行が目立ち、今様狂いの変わった親王さまであるとの噂が絶えず、誰も即位されるとは思ってはいなかった。それゆえ鳥羽院は異例のことながら、上皇の皇子として御誕生された近衛天皇を強引に即位させたのである。十二歳歳下の異母弟に先を越されても、雅仁親王の自由奔放なお振る舞いは変わることなく、はじめは御自身も皇位継承など望んではおられなかった。これまでの天皇像を覆してしまわれるのではと危惧されていたのは、雅仁親王も自覚されていたと思う。しかし、鳥羽院崇徳院の系統の皇位継承阻止に並々ならぬ執念を持たれ、雅仁親王皇位に就けられたのである。鳥羽院の最晩年は病を押されてのこの執着に尽きる。

そして元号が保元となる。鳥羽院は近い将来、皇位継承や激化する摂関家の内紛を憂い、天下大乱の因となることを予期され、源平の武士団を招集し、内裏や鳥羽殿の警護強化を命じられた。しかし病は重くなって、保元元年(1156)七月二日、鳥羽院は五十四歳で崩御された。 鳥羽院崩御の後、廟堂で権力を集めたのは、近衛天皇の実母美福門院と、後白河天皇の乳母藤原朝子の夫高階通憲で、今や出家して信西入道と呼ばれる男であった。元は信西は学者で下級貴族であったゆえか、野心家であり、権力の猛者であり、同時に平安王朝時代の終幕を予見して、朝廷改革と国に未来を見据えた思考を持っていた。その思考を実際に行動に移す気概とパワーもあった。美福門院は信西と共に後白河天皇即位にも助力し、待賢門院亡き後の後宮の支配を維持しようとされた。崇徳院はこれを大いに不満とされ、鳥羽院崩御を機に挙兵に至るのだが、事此処に至る経緯と成り行きをもう少しみてゆこう。

深刻な内部対立を抱えていた天皇家摂関家、それに有力武家を二分していった。鳥羽院の後ろ楯を失って窮地に立たされたのが藤原忠実と頼長親子だ。この二人の反対勢力はこの機を逃さずに武士を集め、頼長の邸に乗りこみ、後白河天皇への謀反の証拠を見つけたとして、頼長に流罪を言い渡した。進退窮まった頼長は挙兵を決断し、朝敵の汚名を逃れんと崇徳院に接近する。崇徳院後白河天皇を倒して皇位継承権を手に入れるために頼長と手を結ぶことを決意される。この頃武士勢力が大きな勢力となりつつあったのが平氏であった。平清盛の父平忠盛は、白河院に気に入られ、平氏は大きく躍進し、武士として初めて従四位下に進み、内裏昇殿を許される殿上人になっていた。清盛は忠盛が苦労して築いた平氏の土台の上で、それをさらに磐石とするべく向上心と野心を持って突き進んでゆく。そこには常に後白河天皇が高みにおわし、天皇が院となられてからも二人三脚で、時に対立しながらも、激動の平安末をダイナミックに.泳ぎ、煽動してゆく。その一方で源氏を率いていた源為義は猜疑心の固まりで、度量も小さく、白河院にうまく取り入った平氏と違い、不遇を囲っていた。息子の義朝はそれに見切りを付けて東国に武者修行に出かけ、逞しくなって帰還。大乱が起こるのはその矢先のことであった。崇徳院・頼長側には、平家一門から清盛の叔父平忠正、源氏一門からは義朝の父源為義が味方することになった。一方、後白河天皇と忠実の長男である藤原忠通側には平清盛源義朝が加わった。かくして上皇方と天皇の戦いは、摂関と最大の武士団である源平を二分すると云う、平安王朝始まって以来の最大の危機を迎えたのである。

京都の東山七条から東大路通を少し南へゆくと、 右手に新熊野神社の鳥居と御神木の大楠が見えてくる。 「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。 この社は後白河院の発願で、平清盛が寄進した。 後白河院の熊野信仰は崇敬厚きもので、生涯に三十四度も熊野詣をされた。 ここまで熊野に執着されたのは、信仰心だけとは思えない。 源平を巧みに利用され、後に源頼朝から「日本国第一の大天狗」と揶揄された後白河院。熊野を厚く敬ったのは、熊野を信仰する山伏や木樵などの山人、那智を信仰する漁師や水軍を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。 聖護院にある熊野神社が、京都で一番古い熊野神社だが、そちらに敬意を表して、こちらは新熊野と称されたのであろう。後白河院永観堂の鎮守として熊野若王子神社も建立され、三社を京都三熊野とされた。 泉涌寺にも弘法大師が開山の今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、京の熊野と呼ばれ都人から信仰を集めていた。その麓に後白河院は、法住寺殿を建て院の御所とされた。そして鎮守として新熊野神社を建て、別当寺として蓮華王院、すなわち三十三間堂を建立されたのである。ゆえにこの社は蓮華王院の縁起と云える。 さて、いよいよ後白河院が登場され、源平の時代が幕を開けようとしている。足かけ二年余り書き継いできた長い長い平安時代もようやく終わろうとしている。そんな時代のターニングポイントが保元・平治の乱である。

なおすけの古寺巡礼 腰越満福寺

此処は腰越。京から鎌倉に至る玄関口にあたり、江ノ島は目と鼻である。江ノ電腰越駅から歩いて3分ほどの小高い場所に満福寺は在る。天平十六年(744)、行基による開山で鎌倉屈指の古寺である。

西海に墜えた平家に代わり、源氏の世が始まろうとしていた頃、平家追討にもっとも活躍した源義経は、都へと凱旋した。一ノ谷の合戦後、後白河院より検非違使に任官された義経は、壇ノ浦の合戦後、今度は兄頼朝から伊予守を授かり兼任した。だが、これは許されないことであった。義経に従っていた西国武士団が、鎌倉の許しなく朝廷より任官されたことに頼朝は激怒し、これを預かり知らぬこととして、美濃の墨俣川より東へ入ることまかりならぬと触れをだした。義経としては、畏くも院より賜りし職を無碍に返上はできず、また兄への敬慕も強かった。鎌倉より天下に号令を発したい頼朝には、朝廷による任官を妨げ、西国武士に武家の棟梁は誰であるかを示す手段でもあったと思う。

此処に至るまで、頼朝と義経は良好な関係を築いており、頼朝はかわいい弟の活躍に喜んでいた。が、壇ノ浦で戦目付を務めた梶原景時は、義経の独断専行は兵法を逸して、統帥に乱れを生じ、あまつさえ、戦後処理までやろうとしていると頼朝に讒言した。頼朝は義経との絶縁を宿命と心得ていたのかも知れない。鎌倉殿と会見したいと下ってきた義経の鎌倉入りを断じて許さず、義経主従は腰越のこの寺に止め置かれた。

義経は取次の大江広元に弁明状をしたためた。いわゆる『腰越状』である。それは『吾妻鏡』に掲載されており、義経が自らの武功を讃え、任官恩賞の正当性を主張しつつ、涙ながらに頼朝に会いたいと切に願っている。

〈原文〉

元暦二年五月二十四日

廿四日戊午。源廷尉(義経)如思平 朝敵訖。剰相具前内府参上。其賞兼不疑之処。日来依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間。愁欝之余。付因幡前司広元。奉一通款状。広元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。彼書云。

左衛門少尉源義経乍恐申上候。意趣者被撰御代官其一為。勅宣之御使傾。朝敵。顕累代弓箭之芸。雪会稽恥辱。可被抽賞之処。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘気之間。空沈紅涙。倩案事意。・良薬苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者実否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送数日。当于此時。永不奉拝恩顔。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉。此条。故亡父尊霊不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懐。義経受身体髪膚於父母。不経幾時節。故頭殿御他界之間。成無実之子。被抱母之懐中。赴大和国宇多郡竜門牧之以来。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。剰義経補任五位尉之条。当家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非仏神御助之外者。争達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王宝印之裏。全不挿野心之旨。奉請驚日本国中大少神祇冥道。雖書進数通起請文。猶以無御宥免。其我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。 元暦二年五月日 左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿

〈訳〉

義経、恐れながら申し上げます。この度、兄上の代官の一人に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、父上の汚名を晴らすことができました。私は、その勲功によって、ご褒美をいただけるものとばかり思っておりましたが、あらぬ男の讒言により、お褒めの言葉すらいただいてはおりません。私は、手柄をこそたてましたが、お叱りを受けるいわれはありません。悔しさで、涙に血が滲む思いでございます。言い分もお聞き下さらず、鎌倉にも入れず、私は気持の置き場もないまま、この数日を腰越の地で虚しく過ごしております。兄上、どうか慈悲深き御顔をお見せください。誠の兄弟としてお会いしたいのです。それが叶わぬのなら、兄弟に何の意味がありましょう。何故このような巡り合わせとなってしまったのでしょうか。亡くなった父上の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、私は、どなたにも胸のうちを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。再会した折り、あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、既に父上はなく、母上に抱かれて、大和の山野をさまよい、それ以来、一日たりとも、安らかに過ごした日々はありませんでした。その当時、京の都は戦乱が続き、身の危険もありましたので、数多の里を流れ歩き、里の民百姓にも世話になり、何とかこれまで生き長らえてきました。その時、兄上が旗揚げをなさったという心ときめく報に接し、矢も盾もたまらず馳せ参じたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに木曽義仲を倒し、次ぎに平家を攻めたてました。その後は、ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父上の御霊を鎮めました。私には父上の汚名を晴らす以外、いかなる望みもありませんでした。私が法皇様より、五位の尉に任命されましたのは、ひとり私だけではなく、兄上と源氏の名誉を考えてのこと。私には野心など毛頭ございませんでした。にもかかわらず、このようにきついお叱りを受けるとは。これ以上、この義経の気持をどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。度々「神仏に誓って偽りを申しません」と、起請文を差し上げましたが、いまだお許しのご返事はいただいてはおりません。わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、大江広元殿の御慈悲に頼る以外はありません。どうか、情けをもって義経の胸のうちを、兄上にお伝えいただきたいと思います。もしも願いが叶い、疑いが晴れて許されることがあれば、ご恩は一生忘れません。今はただ長い不安が取り除かれて、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申し上げます。
義経恐惶謹言 元暦二年五月二十四日 左衛門少尉源義経 

進上 因幡前司(大江広元)殿

だが結局、許されることはなかった。鎌倉を目前にしてのこの仕打ちに、義経は嘆き、失意のうちに都へ帰ってゆくのであった。この後、兄弟は骨肉の争いを演じてゆく。満福寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が遺されている。潮騒や行き交う江ノ電の音まで、どこか物寂しい腰越の満福寺である。

なおすけの古寺巡礼 龍口寺

鎌倉と藤沢の境目に在る日蓮宗の古刹。江ノ電江ノ島駅の傍らに在って、車窓からも大寺とわかる。私はかつてこの門前に暮らしたことがあるが、朝夕の鐘を聴きながらも、日蓮にさほど関心がなかった若かりし当時、一度も参詣しておらず、此度改めて御参りした。

寺の建っている場所はもともと聖地であったり、葬送の地であったりすることが多い。此処、龍口寺も寺が建つ前は刑場であった。鎌倉で裁かれた罪人は此処へ護送され、露と消えた。此処は日蓮聖人”龍ノ口法難”の地で、日蓮宗の聖地のひとつとなっている。

鎌倉後期、内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、まさに終末期の様相を呈していた。それを憂えた日蓮は、鎌倉幕府に国主諫暁(こくしゅかんぎょう)を行うも三度失敗。国主諫暁とは、日蓮の信ずる法華経を尊び、法華経にのみ帰心せよと説く幕府への奏上であり、かの「立正安国論」を引っさげての一大問答である。

だが、そのあまりに激烈で過激な説法は、他宗派を蔑み、排除せよと続けた結果、大非難を浴び、幕府中枢も日蓮に靡く者はなく、幕政に対する中傷と受け止め、日蓮は捕らえられ、斬首するために、龍ノ口刑場へ連行された。

いよいよ最期と覚悟を決めたその時、突如江ノ島の方より満月のような光が飛来した。強烈な光で首斬り役人の目が眩み、畏れおののき倒れた。日蓮斬首の刑は中止となったと云う。龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮をおいて他にいない。その聖跡に寺を建立したのは弟子の日法聖人で、延元二年(1337)のことである。

五重塔もある大きな寺だが、山上にある仏舎利塔は特に目を惹く。潮の香りが漂うその場所からは、江ノ島はむろん、相模湾が広々と見渡せる。遠くに烏帽子岩が見え、富士の高嶺も拝めた。

師走の嵐の朝に訪ねたが、奇しくも雲間からは龍ノ口法難の再現かと思わせる陽光が真っ直ぐに本堂に延びていた。観光客などいない静かな寺だが、やはり此処はただならぬ境域であると実感した。

寒川神社

かねてより「相模の寒川さんは凄い」と聞いていたので、一度は参拝したいと思っていたが、私の今の住まいからは1時間くらいでゆけることを知って、先月、ようやく参拝した。創建がいつか定かではないと云うたいへん古い社だ。祭神は寒川比古命寒川比女命の二柱で、社伝では千六百年の歴史があり、全国唯一の八方除の守護神とされる。朝廷から源頼朝武田信玄徳川将軍家にまで崇敬され、むろん庶民にも篤く信仰された。さすがに相模一之宮に背かぬ堂々たる佇まいで、広々と開放感に溢れた境内は清々しく、空がよく見渡せる。神奈川県の神社では鶴岡八幡宮に次ぐ参拝客を誇るが、何でも昇殿して祈祷する人の数は日本一だとか。

拝殿前には”渾天儀”のレプリカが置かれている。渾天儀とは天体の位置や星を観測する器具である。星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をも握るとも云う。昔から天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われた。寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事に倣い四隅に龍が配され、台座では青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が守護している。星空が近い冬。私も多摩丘陵で天体観測を始めようと思う。何が見え、何を見るだろうか。

なおすけの古寺巡礼 大雄山

先月まさに錦秋の候、私は大雄山最乗寺に参詣した。私は神奈川県も方々歩いたが、南足柄市に降り立つのは初めて。”足柄山の金太郎”で有名な場所だ。小田原から大雄山線に乗って20分、終点の大雄山からはバスに乗って10分ほどで着くが、周辺はまことに長閑な雰囲気。そしてすぐそばに箱根の嶮が迫って来る。その向こうには富士が大きな頭を出している。足柄は富士が見下ろす町なのだ。足柄峠はちょうど相模と駿河の国境であり、東海道が整備されるよりずっと古くから、交通の要衝であった。

最乗寺の創建は応永元年(1394)で、永平寺総持寺に次ぐ格式を有す曹洞宗の禅寺である。鞍馬や高尾山のように天狗の棲む山との謂れからか、禅寺と云うよりも、修験道の聖地と云う印象が強い。創建に貢献した”道了”という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝承され、”道了尊”とも呼ばれている。この道了に因み、境内には多くの高下駄が奉納されている。

仁王門からの参道約3kmには樹齢500年以上の鬱蒼たる杉並木が続き、あたりは深山幽谷の霊気が充満している。最乗寺は紅葉の名所として名高く、いつか訪ねてみたいと思っていたが、果たして見事であった。境内は広く、ゆったりとしており、気持ちが良い。伽藍と紅葉群が織り成すポリフォニックな景色に見惚れない者はあるまい。奥の院へは354段の急な石段を登るが、此処がこの寺の背骨の様な場所で、寒気と山気と妖気が支配している。此処まで来れば誰もが正気に還るであろう。

なおすけの古寺巡礼 原当麻の無量光寺

JR相模線に原当麻(はらたいま)と云う駅がある。当麻と云えば大和にある當麻寺が思い浮かぶが、私が今棲んでいる武相地域には原当麻のほかにも、大和、奈良、岡上、三輪、小野路、香具山、竹内など大和に通ずる地名が多い。かつて武蔵や相模に国分寺が造られて、大和から移り住んだ人々が望郷の念を込めて名付けたのではないだろうか。

原当麻に在る無量光寺は、山号を当麻山と号するが、西に横たわる大山を起点として丹沢山系の山々が織りなすこのあたりの光景は、たしかに大和の二上山や葛城の峰々を彷彿とさせる。その先に箱根の嶮が控え、さらに奥には霊峰富士も遥拝できるこの場所がパワースポットとなったのも必然であったと思う。

無量光寺時宗の寺で、総本山遊行寺の祖院のような存在である。ゆえか”本寺”とも呼ばれる。ただし時宗開祖の一遍上人はこちらへ来てはいない。開山は遊行寺同様一遍の弟子の真教である。時宗では、阿弥陀如来への信、不信を問わず、念仏さえ唱えれば、往生できると説く。時宗のトップは代々「遊行上人」と呼ばれた。遊行上人第二代の真教は、建治三年(1277)、九州を遊行中の一遍と出会い門下となった。以後、一遍の全国遊行に付き従う。

正応二年(1289)、一遍が没すると、真教は弟子衆に推されて後継者になる。真教も十六年間遊行したが、一遍のように全国は巡らずに、北陸と関東を往復し布教した。真教は教団の確立と勢力拡大に努め、寺や道場を増やしてゆく。それは百ヵ寺以上に及んだと云うから、彼には突き動かす信仰心に加えて政治力も備わっていたと思われる。或いは一途に師一遍に対する敬慕のみであったかも知れない。

真教は、『帰命戒(きみょうかい)』と云う衆徒の決まりを作った。一遍がどこまでも理想を追う宗教家であったのに対して、真教はその教えを守り、伝えるための仕組みと方法を考えて、実行した組織者であった。鎌倉武士や都の公家衆にも衆徒を得て、時衆は隆盛した。さらに相模国当麻に無量光寺を建立し、布教の拠点としたのである。

その後、三代智得へ受け継ぎ、智得が没すると、真教から智得の次に遊行上人を継ぐように指名されていた呑海がいたが、呑海は遊行中で、執権北条高時の命により智得の弟子の真光が無量光寺の住持になる。無量光寺に入れなかった呑海は、正中ニ年(1325)、兄の俣野景平の援助を得て、藤沢の地に道場を開いた。これが現在の遊行寺である。無量光寺にもさまざまな歴史的な経緯があるが、今でも時宗の有力寺院のひとつである。

私が参詣した日はちょうど秋分の日の頃であったが、寺の周りは住宅地が迫ってはいるものの、その反対側は広大な田園風景が広がっており、黄金色の稲田と高い秋空が遠くへ来た錯覚を想起させるに充分であった。