弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

面授これもまた一会と心得よ

この秋から私は茶の湯の稽古を始めた。六十ならぬ四十の手習いである。これは大きな決断であった。長年、井伊直弼をはじめとした大名茶人と茶道に強い関心を寄せてきたので、歴史探訪をする折や文章を書くときは付かず離れずであったが、自分が稽古をするとなると、なかなか勇気が持てず、踏み込めずにいた。しかしこの夏のある日、ふと、「今やらねばいつやるか」という気持ちが澎湃として湧き上がってきた。それからは行動が早かった。すぐに稽古場を探し始め、三日後には師匠の門を叩いていた。 今、家から程近い表千家の先生のご自宅に通っている。

本能寺の光秀の如く、時は今、と意気揚々と茶道に取り組んではいるが、何にしてもまだ始めたばかり。茶道のいろはから、袱紗捌き、茶筅通しなどの割稽古中。であるから、何もここで茶の湯のことをだらだらと書き述べるつもりはない。それこそシロウトの何とやらになってしまう。ただ、十一月になり風炉から炉に変わり、いよいよ初冬から正月に向けて、奥深き茶の湯の真髄に触れる想いをいたしたところで、少しばかり「私の茶の湯の初心」を書いてみようと思った次第である。

道元禅師の正法眼蔵に面授の章がある。辞書をひいてみると、面授とは「文章などで広く教えるものではない重要な教えを、師から弟子へと直接伝授すること」とある。 今こういう機会は明らかに少ない。無論、寺の師弟関係とか伝統工芸や伝統芸能を生業として生きる人々は、こうした面授により子々孫々へと教えや技というものを受け継いでいくのだろうが、やはり一般には馴染みが薄い。教科書通り、マニュアル通りが横行し、それが当たり前の今日、パソコン、スマホ、SNS等のインターネットを介する極めて間接指導な世の中を私たちは生きている。それが悪いとは言わない。現に私もこのブログをそれらを駆使して書いているし、もはやSNSを使わない日はない。歴史も昔も好きだが、すべて昔に還る必要もあるまい。しかし、今私の体験している茶の湯の稽古は、真に面授なのである。これはなかなか貴重なことで、おそらくこの先の人生観を大きく変えることであろう。仏道、武道、茶道、華道、香道、芸道など、およそ師と弟子が同じ道を歩み、師の道を弟子が辿る世界においては、教え授かるには面授が唯一であろう。面授でしか真に伝えることはできないと思う。

私も割稽古をしながら、先生や先輩の点前をいただき、そのひとつひとつの所作を見て学ぶ。茶の稽古で私が一番感じ入ったことは面授であった。私は別に人間が嫌いなわけではないし、対人恐怖症でもない。気の合う仲間とはいつでも語り明かしたいけれども、どちらかといえば孤独を愛し、ひと気のないほう無い方へと赴く私にしては、茶の湯の交流が今一番の刺激かもしれない。茶の湯の稽古は普段なるべく人と関わるのを避けがちの私にとって、新鮮でもあり、数少ない社交の場。老若男女が集い、めいめい点前を披露し、一服の茶をいただく。仕事も様々、学生さんもいる。茶室に入れば皆平等に茶の湯に心を寄せる。日常から離れて、悩みも忘れて、ひたすらに茶の湯に専心する。なんと清々しいことか。二時間ほどの正座で脚はひどく痺れるが、稽古が終わるとなんとも晴れ晴れとした気持ちで家路につく。

茶の湯はまた今の私にとって、心身修養の場であり、喧騒から離れて己を開放する場である。存分に季節を感じさせる菓子をいただき、一服の茶を喫する。単純に美味しい。そうなのだ。美味しい、それだけなのかもしれない。余計な考えはいらない。これは總持寺で教わった坐禅とも共通することだ。だが曹洞禅は何も考えないで、浮かんだ考えを後ろに置き去りにして、ひたすらに坐禅するのであるが、茶の湯は少し思考を要する。亭主は客を心からもてなし、客はそんな亭主の心遣いを心身で感じ取る。井伊直弼は大名茶人の大家で有名だが、彼の著した茶湯一会集には、ただひたすらにただこればかりだと言っている。つまり一期一会だ。私などが事新たに、このあまりに有名な言葉にどうこうはないが、一期一会は何も茶事茶会のみではなく、日々の稽古、面授もまたその日、その時限りというものだと、稽古を始めてみて痛感させられている。

茶の湯とは音の癒しである。釜の中の沸き立つ湯音、はぜる 炭音、捌く袱紗の音、湯を汲む音、茶を点てる音、茶を飲む音。何とも心地よい水音が茶室に響く。茶の湯は水音の世界。その音は或る時はどこまでも深く降りてゆき、また或る時はどこまでも高く昇ってゆく。これから私は茶の湯とともに生きていく所存である。

THE WEST WING

いよいよアメリカ大統領選挙の日がやってくる。オリンピックイヤーは私にとって、このアメリカ大統領選挙もまた、とても関心を抱くニュースなのだが、今年ほどいろいろな意味に於いて不思議な大統領選挙もかつてなかった。まさに泥仕合の様相を呈しており、本当にこれがアメリカ大統領選挙なのかと、アメリカ国民でなくとも唖然としてしまうが、日本にとっては、両候補どちらが当選しても、少なくとも向こう四年間は、難儀な道が予想される。それ故、合衆国大統領選挙は気になる。アメリカの斜陽が始まっていると世界中が認識するが、少なくとも現時点では経済も軍事力も世界一である。いまだ唯一の超大国といえよう。そして日本の唯一の同盟国アメリカ。その国のトップが決まるのだから、関心を抱かないわけがない。

私が物心ついてはじめて知ったアメリカ大統領は、第四十代ドナルド・レーガンである。政治的評価は賛否分かれるが、私が生きているこの四十年間では、在任中も退任後も、もっとも人気があった大統領であろう。俳優出身のレーガンは、男前なルックスと、抜群の話術で大衆を惹きつけた。その演説は今見ても、引き込まれるほど聴き入ってしまう。日本でも田中角栄元首相は、うなるような凄い演説をしたが、レーガンの演説はもっとスマートで、独特の低い声と間の取り方が演説全体に重厚感を与えている。まさに現代アメリカの自由と繁栄の象徴的な存在で、強く偉大なアメリカと資本主義の最高到達点はレーガンの時代であったと思う。「悪の帝国」とまで呼んだソ連とはいつのまにかの急転直下で冷戦終結へ漕ぎ着けて、その後およそ三十年間、世界はアメリカ一強となった。その高みへと導いたのレーガン大統領であった。

私は今年の春から夏にほぼ毎晩「THE WEST WING」というアメリカのドラマを観ていた。日本でもかつてNHKで「ホワイトハウス」というタイトルで放映されていた。ウエストウイングとはホワイトハウスの西棟のことで、大統領執務室や上級スタッフのオフィス、ブリィーフィングルームがある、まさにアメリカ政府の中枢である。シーズン1~4までNHKで放映されたが、韓流ドラマブームに圧されて、残念ながらNHKでは放映しなくなった。その後、衛星放送のどこかで放映されたみたいだが、私は見ること叶わず、あの時は韓流ブームを恨めしく思ったものだ。以来、このドラマのことはずっと気になっていて、ようやく今年の春からDVDを借りてきて、シーズン7まですべて見ることができたのだ。

全154話を毎晩一話ずつ見ていたので、四ヶ月もかかったが、実に面白かった。原語版も吹替版もどちらもすばらしいが、原語版はアメリカ人でも聞き取れないことがあるほど、物凄いスピードの台詞回しで有名なドラマである。また、極めて緻密にアメリカ政府の実情を考証した上で作られた、架空の政権と架空の物語であるが、展開も目まぐるしく、しっかりと見ておかないと、後につながる話もあるので、ついていけなくなる。ホワイトハウスの内部やエアフォースワンなど、私たちが生涯目にすることも無いところも、余すことなく存分に再現してある。オーバルオフィスやシチュエーションルームでの引き込まれる緊迫感、また大統領や側近たちのプライベートな表情も繊細に描かれており、壮大な現代アメリカの政治ドラマでありながら、家族愛を描いたホームドラマでもあり、恋愛ドラマの様相も盛り込まれている。ことにブリーフィングルームでの大統領報道官の記者会見は秀逸だ。だが、すべてはあくまでフィクションなのだ。

そうとわかっていても、皆、本物に見えてくるのがこのドラマの凄いところだ。バートレット大統領役のマーティン・シーンは本当に大統領にしか見えない。私個人的には、首席補佐官レオ・マクギャリー役のジョン・スペンサーと報道官CJ・クレッグ役のアリソン・ジャーニーがお気に入り。故にジョン・スペンサーが死去により最終回までいなかったのは哀しいことであったが、その死をドラマでも気高く描いてくれていたのはうれしかった。草葉の陰から彼自身も喜んだに違いない。シーズン7の大統領選挙のキャンペーンも実にリアルで、大統領選挙というものがアメリカにとって、ただ単にリーダーを決めるという単純なものでないことを如実に語っている。そして何といっても私は、このドラマでいつも感服したのが、回毎のエンディングであった。まるで日本の古典文学のような余韻の残し方で、そのまますぐに次回を見たくてたまらなくなるのである。音楽もクラシックあり、壮大な映画音楽やオリジナル曲あり、ジャズあり、ロックありとその時々で的を射た選曲がすばらしい。かつてこれほど嵌った海外ドラマはなかった。良くも悪くも極めてアメリカ的なドラマである。それでも長い長いアメリカの大河ドラマを見終わった時、私はとても爽快な気分になった。

もちろんこれはドラマであるから、現実はまったく違うであろう。あくまでドラマだ。現実は簡単ではなく、ドラマは理想であろう。しかしながら、世界一の国の抱える問題、そのトップで国を動かす人々の苦悩、そして威厳と誇りを持った仕事ぶりに私は深い深い感動を覚えたのである。アメリカは今、いやアメリカのみでない、世界は今、大きな転換点に来ている。そんな大事な分水嶺をアメリカは、世界はどのように越えてゆくのだろう。混迷の世界情勢、その舵取りを担うべき船長ともいえる次の合衆国大統領がまもなく決まる。今回の選挙はアメリカ国民だけではなく、世界中が注視しなくてはいけないと思うのだが。

輩考

日本シリーズは日ハムが四連勝して十年ぶりの日本一になった。今年のプロ野球は例年以上に面白かった。各球団大物ルーキーがいて、若手の躍進もあり見応えがあった。ことに大谷翔平選手は輝いていた。今年彼は、一段も二段も三段も大きく飛躍したと思う。ここへ来て大輪の花が開いた感である。また惜しむらく、今年の球界はベテランの相次ぐ引退もあった。一方で、野球賭博が暗い影を落としたが、それさえも吹き飛ばすような、どのチームもすばらしい試合を見せてくれたと思う。ことにこの日本シリーズは、近年稀にみる大接戦で、そのすべてが名勝負であった。私は大谷翔平贔屓なので、日ハムを応援したが、優勝インタビューで栗山監督が、今年の野球界を牽引したのは間違いなく広島であったと言っていた。至極もっともだと感じ入った。私も心からそう思う。ここでこういうことが言える栗山監督とは何と凄い人だろう。こういう監督だからこそ、日本一を勝ち得たに相違ない。そしてまた、大悲願の日本一を夢見た広島カープファンは悔しかっただろうが、栗山監督とファイターズに惜しみない拍手を送っていたのも感動的であった。広島ファンはマナーの良いことで定評があるらしい。相手チームの健闘もしっかりと称える。そういえば日本人は、源平の時代からそういうところがある。屋島に於いて、那須与一が舟上の扇を見事に射抜いた時、はらはらと宙に舞う扇を見て、源平双方声をあげての拍手喝采であったというから、こういう血が日本人には文字通り脈々と受け継がれているはずだ。現代日本人も間違ってもフーリガンなどにはならぬのではないだろうか。

時にまたハロウィンの季節がやってきた。日本ではいつの頃からか、ハロウィンが仮装パーティーとして定着したが、それは結構なことだと思う。皆で楽しむことも悪いことではない。子供や二十代くらいまでの若者は大いに楽しんだら良いと思う。ただ、そこに便乗する大人たちはいただけない。便乗して商売するのはまぁ仕方ないだろう。パーティにいい歳をした大人が、若者と一緒になって参加したり、それを追いかけるマスコミに、私は強烈な嫌悪感を抱く。はっきり言って気持ち悪い。反吐が出そうである。日本人は太古の昔から祭好きであった。だから、伝統的な祭を老若男女が一同で盛り上がるのは共感できる。でもなぜハロウィンには共感できないのだろう。私自身がおかしいのかもしれない。でも、ハロウィンは外国の祭であって、少なくともアメリカあたりまでは子供が楽しむ祭である。どう捻じ曲がって日本に不時着したのか私は知らないが、せめて二十代までがはじける遊びだと思うのだが。恥ずかしいとも思わぬ大人が多いことが、哀しくもありこの国のこれからに危機感すら覚えるのは私だけだろうか。このままで日本は本当に大丈夫なのだろうか。まぁ、そういう大人たちは普段から何事にも一生懸命なのだろう。だから、年に一度童心に返ることも否定はしたくない。

嗚呼、やはり私がおかしいのだ。でも私には到底できない。やる必要もまったくない。

何でも、俄かファンや便乗する輩とはいるものだ。ちょっと注目されたり、流行りだすとそこに乗っかるタイプの人間だ。それがその人の生き方なのだから、他人がとやかくいうことでないことも重々承知している。私が思うに彼らは寂しいのだろう。私も寂しい。でも私はその寂しさをどう耐えて、それを切り抜け、どうやって一人で生きていくかをいつも模索している。そして、何となくどうすればいいのか少しずつわかってきたつもりだ。でも彼らはその光さえ見えないのではなかろうか。そう思うと気の毒でならない。だから、誰かの喜びに乗っかったり、右向け右で皆と行動を共にしたいのだろうか。思えば幕末の「ええじゃないか」も、趣旨や目的があったとも言われるが、それは最初に始めた連中だけで、あとは私が思うに今日のハロウィンと似たような出来事であったのかもしれない。人間は群れを成さねば生きていけないのならば、彼らこそが正しく人間なのだと思う。とすれば私は人間ではない一匹狼か。いや、そんな格好良いモノではない。さしずめ根性曲がりの天邪鬼だ。或いは魔物に憑かれているのかもしれない。とにもかくにも秋の夜長をどう楽しむかは各々自由である。私は静かに読書でもしたい。それだけは揺ぎない。

日本仏教見聞録 總持寺

これまで日本各地の寺を訪ねてきた。私は初めて訪れる土地に行く前は、仕事であっても、遊びであっても、必ずその土地の地図を見る癖がある。土地の歴史や史跡、寺社を調べて、時間が許せばちょっと訪ねてみようと地図を広げる。思えば私は地図を見ることは幼い頃からの趣味であった。唯一の趣味といえるだろう。歴史を学ぶこと、史跡や寺社を訪ねること、読書、美術鑑賞などは、自身の明日への糧として培っているものであり、趣味ではない。この夏からは茶の湯の稽古をはじめたが、茶の湯は心身修養であり、決して趣味ではない。地図は気楽で楽しい。眺めているだけで、私はいつでもその場所へ行ける。日本地図も世界地図も飽くことなく延々と眺めていたい。この本山を巡る旅も、地図を眺めながら目的のお寺を訪ねるだけではなく、時に道草を食いながらになるだろう。

川崎大師を後にして、私とT君は鶴見の總持寺へ向かう。私もT君も方々の寺を訪ねてきたが、總持寺にはついぞ行ったことがない。私はかつて横浜の磯子に住んでいたが、一度も行く機会がなかった。電車の窓や首都高横羽線から總持寺の大屋根が見える度に、横浜にもあんな大寺があるのかと感心していた。そのあと都内へ移ったが、總持寺は今の私の住まいからは、中途半端な位置にあるのだ。都心部の寺ほど近くもなく、多摩地区よりもアクセスが不便。私の家から京浜地区には品川方面へ回るか、南武線で川崎へ出るか、いずれも回り道なのである。そしてどうせ横浜方面へ出るならと、鶴見を通り越して鎌倉へ向かってしまう。でも、總持寺永平寺と並ぶ曹洞宗大本山であることは知っていたので、どうしたって行かねばと思っていた。 鶴見駅の周辺は今では京浜工業地帯の真っ只中であるが、江戸の頃は海を臨む東海道筋であり、少しばかり寺社が点在したが、静かな漁村であった。ここより少し横浜方面へ行くと生麦がある。幕末、文久二年八月二十一日、薩摩藩国父の島津久光率いる行列が、東海道を西へと上っていた。久光は幕政改革を唱え意気揚々と江戸へ乗り込んだが、目論みはあえなく潰えてしまい、失意の道中であった。そんな鬱屈した行列と、横浜の居留地から、馬を駆った四人の外国人がすれ違う。四人は川崎大師へ向かうために東海道を下っていたという。薩摩藩の供回りが下馬するように言ったが、相通じず、四人はそのまま乗馬で進行、その後、あまりに藩士が激高するので引き返そうとしたところ、いきなり藩士数人が斬りかかり、乗じて銃声が響いた。女性一人は流れ弾がかすめたが無傷で、何とか居留地へ舞い戻ったが、他三人は負傷。そのうち英国商人のチャールス・リチャードソンが深手を負い死亡した。これが生麦事件である。この事件は薩英戦争の火種となり、英国は徳川幕府にも多額の賠償金を請求。幕府瓦解のいったんとなったのは間違いない。この頃から、このあたりの景色も様変わりしていく。横浜開港後は急激に開発が進み、東海道は文字通り明治維新の大動脈となっていった。明治五年(1872)新橋横浜間に鉄道が開業し、鶴見駅が設置されたことも、このあたりの都市化に拍車をかけた。それから百五十年余り、今では鶴見地区は日本を代表する工業地帯となっている。

話もついつい道草を食ったが、そんなところに日本の禅宗の一翼を担う曹洞宗大本山總持寺の伽藍が甍を並べている。ここは横浜屈指の大寺院である。総門を入り、緩やかに坂を上がると、堂々たる三門が高く聳えている。通称鶴見が丘と呼ばれる山上は、そのまま天へと抜けるように広大で、七堂伽藍が整然と配されている。いかにも禅宗大寺院の風格を備えているが、それに威圧されるというよりも、何か心身をズドンを打ち抜かれるような感覚だ。残暑厳しい中にお参りしたが、境内は意外に緑が多く、禅宗大本山の霊気が涼やかな風を運んでくる。道元禅師によって開かれた曹洞宗は、四世螢山禅師によって広められた。道元は越前に永平寺を開き、螢山は能登總持寺を開いた。 私は二十年ほど前に能登總持寺祖院を訪ねたことがある。どんよりとした暮れの寒い昼さがりであった。日本海は冬の荒々しい波飛沫が、繰り返し岸壁に押し寄せていた。そんな日であったからか、祖院の境内は静寂であった。その時は曹洞禅にさほどの関心もなく、一回りしただけであったが、静かな山内は清清しく、いかにも北陸の寺を思わせる力強くも楚々とした佇まいが印象的であった。付近には門前町というより、寺内町といった風の町並があり、あの地域の人にとって總持寺は今も大きな存在であることがうかがえた。

開山の螢山禅師は鎌倉時代末の文永五年(1268)越前国坂井郡多禰というところに生まれた。弘安三年(1280)十三歳で永平寺二世の孤雲懐奘について得度し、三世の徹通義介について修行をつんだ。十八歳の時、大野の宝慶寺の寂円に参じ、京の万寿寺東福寺さらには紀州の興国寺で、五山派臨済禅を学んだ。やがて越前に戻り、加賀大乗寺に入りさらに禅の修行に打ち込む。一度、阿波国の城満寺に住したが、三度越前へ戻り、大乗寺二世となった。四十三歳で大乗寺を退き、加賀の浄住寺に入ったが、正和二年(1313)熱烈な支持者である能登の滋野信直夫妻に寄進された土地に永光寺を開いた。ここまで見ても流転の僧といった感があるが、曹洞禅のみではあきたらず、臨済禅も学ぶなど、この螢山という人はとても広い心の持ち主ではなかったか。ここに曹洞宗が広がり、今では日本仏教第二位の檀信徒を抱えることになる萌芽があったと思う。

では總持寺はいかにして開かれたのだろうか。かつて奥能登の櫛比庄に霊験あらたかな観音を祀る諸嶽寺という寺があった。元享元年(1321)四月十八日の晩、この寺の住職定賢は不思議な夢を見る。「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と観音菩薩に告げられた。その五日後、能登の永光寺で坐禅をしていた瑩山も同じようなお告げを聴いた。「教院を禅院にするために、一寺を与えよう」と。教院とは諸嶽寺のことで、当時は真言律宗であった。螢山はかねてよりここも禅院にしたいと念じていたという。夢の中で螢山は、諸岳寺へと誘われ、多くの僧や白山権現などの神々に迎えられる。螢山は思わず「総持の一門八字に打開す」と唱えた。しばらくして螢山は諸嶽寺を訪れ、定賢と互いに見た夢告が符合することに感動し、定賢は一山を寄進した。螢山はこれを快諾し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と、寺号を仏法(真言)が満ち保たれている総府として「總持寺」、山号は諸嶽寺にちなんで「諸嶽山」とした。これが總持寺由緒である。以来、五百九十一年もの間、永平寺と並ぶ曹洞禅の道場として能登の地にあった。厳冬期日本海から吹きすさぶ風雪に耐えて、ひたすらに修行する雲水たちの姿が偲ばれる。曹洞宗では開祖で永平寺派派祖の道元を高祖、螢山派派祖の螢山を太祖と尊称する。曹洞宗に禅の厳しくも清浄な息吹を感じるのは、永平寺總持寺も北陸という茫漠の僻地で育ってきたからに他ならないと私は思う。

この日私たちも、修行僧の一人に案内を請うた。盆正月や大きな行事がなければあらかじめお願いしておくと、毎日定時に雲水が諸堂を案内してくれる。この案内が実に丁寧で気持ちがよかった。これも修行なのだろう。巨大伽藍を一時間ほどかけて一巡するが、總持寺の由緒から、雲水たちが日一日をどのように生きているのか、ほんの僅かばかり垣間見ることができる。まずは有名な百間廊下だ。長さ百六十四メートルもあり端から端が霞んで見える。廊下は雲水たちが毎日雑巾がけするため鏡のように輝いている。早い人はここをわずか二十秒ほどで韋駄天の如く駆け抜けるらしい。これだけでも凄いが、雲水たちの雑巾がけは諸堂をつなぐ回廊を一巡するというのだから、私など聞いただけで息が切れそうであった。上山したばかりの雲水はまずこの雑巾がけだけで、満身創痍だろう。だが毎日毎日繰り返すことで少しずつ身体は慣れていき、ひと月もやれば体力も備わってきて、こなせるようになるという。何事も鍛錬次第で人間はこなせるようになるのだと思うが、やはりある程度の基礎体力や気力がないと成せぬこともある。雲水たちはだいたいが十代後半から三十代前半くらいに見える。若さが成せることもあろう。そもそも彼らは上山の日に、屋外で二時間ばかり立ち尽くしたまま、上山の許しを待つのだという。事前に上山願は届けてあるので、これは儀礼的なものだというが、夏の灼熱の下でも、しんしんと降る雪の日でも、新入りの雲水は上山許可を寺の外でひたすら待つ。ここからもう試されているのだ。ここで根をあげるようではとても修行はつとまらない。これは永平寺も同じだと聞く。越前の冬はさらに過酷で想像を絶する。私たちを案内してくれた修行僧も、今年二月に上山したとか。誰もが通る最初の行を経て半年。眉目秀麗でおそらくは二十代後半だろうと思うが、堂々落ち着き払っている。現代社会はいくつになっても浮き足立っている人が多く、何おう私などその典型であるが、ここにいる雲水たちにはそういうモノは感じない。人生は苦難の連続で、迷い道ばかりだが、そういう時にどうすれば、自分の道を見出して、歩き続けることができるのだろうか。人はしばしばこんなことを考え、試し、また転ぶ。そんな時に一番求められるものは、冷静さと待ちの姿勢ではないかと私は思う。結果はすぐには出ないことが多い。待つこともまた人生だ。その待ちの間に良い考えが浮かんだり、或いは風向きが変わる。止まぬ雨はなく、吹く風も決して一定ではない。昔から船乗りは風待ちをやった。自分にとって追い風が吹くまでは、じっと待つのだ。私は雲水たちと接して、自分は出家はせずとも彼らの振る舞いからそういうものを感じた。

百間廊下の真ん中に中雀門があり、そこからちょうど正面にこの寺の本堂である仏殿が屹立している。入母屋二重屋根の中国風の禅宗様式で、大正四年建立というが、百年もたてばさすがに古色蒼然としてきて、七堂伽藍の中心にどっしりと佇んでいる。本尊は釈迦牟尼如来。ここでは月に二度祈祷を行っているらしいが、堂内は一般には非公開で、修行僧も滅多に入ることはできない特別な場所だという。

百間廊下を突き当たると大僧堂がある。この大僧堂こそが、總持寺の禅の根本道場となる場所だ。雲水たちが起居し、食事も、朝夕の坐禅もここで行う。雲水一人の暮らしのスペースは起きて半畳寝て一畳。ここで生きるにはこれだけで十分なのだ。内部はひたすら禅の道で修行する者以外は入れぬ神聖な場所のため、私たちは敷居の外から見学させてもらった。日中は誰もいないのだが、昼でも薄暗い堂内は清浄な空気に満ち、修行僧たちの秘められた根気と禅道に打ち込む静かなる息遣いが染みついている。ここでは多い時には百五十人もの修行僧が寝起きするらしい。無論、エアコンなどなく、夏は蒸し暑く、真冬は極寒であろう。さらに夏場は蚊が多く出るそうで、蚊と線香の煙の苦しみもあると聞かされた。

雲水たちは毎朝四時の振鈴を合図に起床し、顔を洗うと朝の坐禅。それから朝課という朝の勤行が大祖堂である。この間雲水たちの食事を司る典座寮の修行僧は朝食を作る。ここでは食事を作ることも修行で、もちろん食事をいただくことも修行なのである。朝食は粥と胡麻塩と漬物のみ、雲水たちは整然と自分の畳の上に正座し、粥をすする音も、漬物を噛む音もたてずにいただく。昼と夜はそれに多少煮物などの小鉢がつくが、無論、肉魚はない。そして時々、カレーやカレーうどんがお昼に出ることもあると案内してくれた雲水は教えてくれた。それから總持寺では、雲水が檀信徒などの客あしらいから、寺務所での作業、諸堂案内まで行うため、風呂には毎日入るが、一方の永平寺は風呂は月にわずか二、三度だという。朝は寺内の掃除や寺務所での雑務、檀家の案内、諸堂拝観の案内、こういうことはすべて作務になるのだろう。その他、仏道、禅道の勉学、僧として身につけねばならぬ教養、学問、所作、戒律、禅問答、年中行事、時には托鉢まで、睡眠中以外は一日中何かしている。そしてあとはひたすら坐禅する。この時が唯一無碍の境地に入る時なのだ。道元禅師の教えのとおり只管打座、ただ坐禅する。このために日一日を無駄にしない。ここでの雲水たちの生き方、暮らしを見ると、私は何と愚かで、無駄が多い人生なのかと今さらのように痛感する。部屋一つとっても、彼らの畳一畳に比べたらどれだけ広くありがたいことか。三度、三度、好きなだけ御飯をいただけることが何と贅沢なことか。何もしないぼーっと過ごす時間を、さも思索に耽るなどど言って気取っている自分自身の誤魔化しの人生に、半ば呆れ、恥ずかしさも通り越して、嫌悪感すら抱いてしまった。それほど、雲水の生き方は堂に入り、美しく、気高く、眩しかった。

ここで私達も即席だが、参禅させてもらう。大僧堂の隣には、一般の人が坐禅できる衆寮という建物があり、大僧堂より一回り小さいが内部は同じような作りになっている。雲水の声かけにより坐禅。しばし瞑想する。目は閉じずに半開きで斜め四十五度視線を落とす。私は平等院阿弥陀さまをイメージして坐禅した。雲水は頭に何か考えが浮かんできても、後ろに置き去りにしてくださいという。次にまた別な考えが浮かんできたら、それも置き去りにする。そしてだんだんと空になってゆく。ほんの三分ほどであったが、静謐で涼やかな時が流れてゆく。残暑の日で、頬からは汗がしたたるのに、なぜか心身ともに爽やかな心地になる。雲水の静かな声かけで、合掌し坐禅は終わった。根本道場で坐禅を体験できたことは、私にとっても、同行したT君にとっても感慨深いものであった。これから、方々でまた坐禅を組みたいと思っている。それは場所や時にとらわれることなく、己が心のままに。

 諸堂拝観では他に位牌堂である放光堂や、尾張徳川家の屋敷を移築した待鳳館はこの寺の迎賓館だと聞いた。そして圧倒的量感を見せるのが、大祖堂である。私が首都高の車窓から良く眺めたのは、この大祖堂の大屋根であった。緑青の銅板瓦が折りからの夕日を受けてきらきらと光っている。千畳敷の堂内は螢山禅師をはじめ、歴代の祖師を祀り、朝課、晩課はここで行われる。ここがこの寺の芯柱のような印象を受けた。浄土真宗に次ぐ、国内信徒数二位を誇り、現代まで生き続ける曹洞宗大本山たるこの寺の位置づけをまざまざと感じさせられる場所である。

最後に案内されのが、紫雲臺(しうんたい)という大書院だ。ここは住持が宗門の僧侶や檀信徒と引見する部屋で、外観は質朴だが、内部の襖絵は花鳥や山水が鮮やか絢爛に描かれている。東郷平八郎の書も掲げられ、ここが禅寺であることをしばし忘れてしまう。中で私は印象的な人物画を拝観した。明治時代末に總持寺能登から鶴見に移した石川素堂禅師を描いた大きな軸である。紫衣を纏って、見る者を睥睨しておられるが、その眼差しは決して威圧的なものではなく、実に堂々たる慈愛に満ち溢れたお顔である。私はただただ圧倒されてしまった。まるで今、目の前に禅師が座っておられるようだ。生き仏に見える。写真で見るよりもこの絵の方が遥かに生き生きとしており、黙して禅の今を見て、対座する者にその姿のみで心に寄り添ってくれる気がした。

明治三十一年(1898)四月十三日夜、能登總持寺の本堂より出火、瞬時にして全山が紅蓮の炎に包まれた。慈雲閣、伝燈院を残し、伽藍の多くは灰燼に帰した。總持寺、檀信徒、ひいては曹洞宗全体を襲った大災厄であった。明治三十八年五月、本山貫首となられた石川素堂禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、總持寺存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、明治四十年三月に官許を得、明治四十四年(1911)に現在の地に移転を決断した。これは大英断であった。能登ではかなりの移転反対の声があったらしいが、今に曹洞宗の繁栄があるのは、都会に移って、布教に成功したからに他ならない。罹災して力強く復活するには、これで良かったのだと思う。石川禅師には先見の明が合ったのだ。 今から百年前の鶴見は、生見尾村(生麦・鶴見・寺尾)といい、眺望の素晴らしい閑静な漁村であった。その上、帝都東京と開港された横浜の中間にあり、交通の便に恵まれていた。正面は海、遠く房総半島、西南は富士と箱根を望む風光明媚なところで、現地を視察した時の記録によれば、「地味豊穣にして禾黍穣々、樹木は繁茂し、清水は湧き、遠く俗塵を隔だて、解脱悟道の霊場となすに適当なる地勢」と記されている。当時は總持寺を建立するのに相応しい景勝の良さと檀信徒の訪問にも最良の土地であったのだ。更に、鶴見移転が有力になった最大の理由は、副監院の栗山泰音師と、この地にあった成願寺の加藤海応住職が親しい関係であったからだ。能登の住民は總持寺の再建に期待を抱いていたが、明治三十九年七月十日には永平寺貫主森田悟由禅師から移転同意の承諾を得ている。鶴見の住民は移転には大変協力的であった。でも能登の住民には移転は死活問題になりかねない。六百年近くも總持寺と共存してきたのだ。生活も信仰も、地域の絆のためにも總持寺は不可欠で、あまりに大きな拠り所であったことだろう。こうした様々な困難、それこそ禅問答のような議論を経て曹洞宗大本山總持寺は、鶴見が丘に建立されることになり、成願寺が土地を献納した。現在、成願寺は山の麓に移転しているが、總持寺から色衣着用、内部寺院という待遇を受けている。また、總持寺の禅師の交代行列は成願寺から出発することになっている。元来、ここには寺があったのだ。こういう紆余曲折の歴史を調べてみて、私はようやく鶴見移転の意味がわかった。石川禅師は今でも移転を決断した總持寺中興の祖として、雲水や檀信徒に崇敬されている。石川禅師が、臨機応変な時代の流れを読む力を持っておられたのも、やはり明治という日本史上最大の変革期を生き揉まれたからに違いない。總持寺という寺は鶴見に移転する運命だったのだろう。曹洞宗にはやはりどうしても、かの永平寺と鶴見の總持寺の二つの大本山が必要なのだ。一方は曹洞禅の第一道場として、一方は宗門と曹洞禅の世界的な布教のための前線基地として、それぞれが役割をしっかりと担っている。こう考えると実に合理的でシンプルな体制だと思う。これが現代の日本仏教の一つの形と言ってよいだろう。

境内を一巡したあと、私たちは黄昏の大祖堂で今日一日を振り返った。ひと気のない堂内では、新入りの雲水に、先輩の雲水が一所懸命、なにか教えている。朝夕の勤行のためなのか、あるいは仏事の段取りなのか丁寧に指導していた。こうやって何百年も受け継いできたのだろう。千畳敷の大祖堂にこだまするのは若い坊さんの声だけで、ここが横浜であり、それも京浜工業地帯であることを忘れさせる。帰りがけに、もう一度大僧堂の前に行った。庭には小さな日時計の台座のような石のテーブルが置いてある。ここには雲水たちが、小鳥たちのために残してあるご飯を置くのだと聞いた。圧倒的大伽藍にあって、私はここに厳しさと優しさを兼ね備えた曹洞禅を見た思いがする。總持寺には観るべき仏像も、文化財も大したものはない。だが、そんな歴史的価値云々よりも、大切なものがここにはたくさんある。それは現代を生きる私たちに合った、いや必要であるはずの、現代の仏教と禅の姿であった。

文学VS音楽

今年のノーベル文学賞にボブディランが選ばれた。正直驚いたが、ノーベル委員会もなかなか粋なことをするなとも思う。文学賞は世界中に数多くあるが、ノーベル文学賞はもともと少し異色な気がする。そして今回のボブディランの受賞。さもありなん、世界的権威のノーベル賞が真っ先に革新的な選考をしたことが何とも気持ちが良い。私はボブディランをよく知らないが、「Blowin'The Wind~風に吹かれて~」という曲は好きだ。というより、私はそれしか知らないのだが、この曲はアメリカンフォークソングの極みともいえる一曲であろう。反戦歌であるが、どこか仏教的な慈悲や悟りの境地までをも内包したかのような詞が印象的である。そして風に吹かれて生きていたいという想いは、人間誰もが心に抱き、人生において何度か感じるものであろう。いやもしかすると私たちは、いつも風に吹かれて生きているともいえなくもない。この曲には、詞にも曲にもそういう隠者の孤独の魂と、それへの憧れが凝縮されているように私は思う。

そして改めて痛切に感じたのは、やはり文学は音楽には敵わないのかという、少しばかりやるせない気持ちだ。およそ芸術を一括りになどできないし、するものではないが、やはり音楽には敵わないのだろうか。確かに、文学は読者に読むという作業を強いなくてはならない。これが長編や文献や古典ともなれば、ある種の苦痛すら伴うこともある。好きで読むならば、それもまた楽しであれど、無理強いさせられたのでは、ますます読み手は遠のいてゆく。今もあるのか知らないが、小中学校の読書感想文などはその典型であろう。感想文を書かねばならぬ為に本を読むなど苦行に等しい。その点、音楽はまず耳から入ってくる。歌詞と音が調和し、聴き手の脳髄に響いた時、人と音楽は融合してその詞の世界に入りこむことができる。これが現代音楽の真骨頂だと思う。

ボードレールは言った。「私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家と考える」と。小林秀雄は言った。「音楽における浪漫主義運動は、いわば文学からその富を奪回しようという運動であった。音楽は詩を食べて肥ったが、詩は音楽という魔に憑かれて痩せた」と。ボードレール小林秀雄も、文学の最上位は詩であり、その後に小説などの散文、批評が続くのだという。活字離れが叫ばれて久しいが、実はすでに十九世紀から始まっていたのだ。崩壊とか瓦解とかいうものとは違うが、果たして今、文学と音楽は共存できているのか。またこれから共栄できるのであろうか。音楽に圧倒的な差をつけられているような気がするのは私だけであろうか。ここでノーベル文学賞をシンガーソングライターが受賞したというのも、またいっそう拍車がかかるであろう。ただ、そうとも限らないと私は信じたい。これを天晴れな警告と受け止め、世界中の文士文豪が決起することを私は切に望む。不肖私も、その末端の端くれの端くれとして、奮起奮戦すること厭わぬ所存である。

沙汰の限り

言語道断。呆れ返っている。豊洲市場の問題だ。よくもまあ、ここまでいい加減にやってきたものだ。東京都は財政も黒字で、日本の中にあって違う世界に映る。何もかも一人勝ちの独り歩き。だが、勝って、勝って、勝ちまくっても、東京は兜の緒を締めなかった。締め忘れたのだろうか。調子に乗るからこういうことが起きたのだと思う。

私は職場が築地にある。毎朝築地本願寺を通り出勤する。築地で働く人、築地の魚を愛する人、物見高い外国人、毎日築地には様々な人が行き交う。東京でも指折りのインターナショナルな街である。なぜここではいけないのか。豊洲は開場前にすでに魚河岸のブランド力を失ってしまった。あそこに水揚げされた魚を食べたいと思うか?誰も思わないだろう。築地でよいではないか。「築地こそ魚河岸」である。思えば、関東大震災のあと、日本橋から築地へ魚河岸が移転したときも、やはり反対する人々が多くいただろう。築地はたかだが九十何年だが、日本橋は江戸時代から三百年も魚河岸があったのだから、当時の人々からすれば「日本橋こそ魚河岸」であっただろう。だが、当時は大震災という壊滅的な打撃があった。今はそうではない。一部の人の利己主義ではないか。築地市場は老朽化して危険であったり、衛生的な面も改善が必要であることはわかっている。ならばそれを少しずつ直していくという選択はなかったのか。はじめから移転ありきで強引にやるからこういう事態になったのではないか。外国ではこんなことはしない。その土地の空気や息づいてきたイメージを大切にする。いかにも日本だけが、いや東京だけがこういうことを軽々にやる。

五輪の件もそうだ。何から何まで、結局は当初のプランはほとんど実現不可能で、結局カネ、カネ、カネである。そもそも私は東京で五輪をやること事体反対であった。なぜならば、こうなることがはじめから解っていたからである。ここ三十年ほどの五輪は国家の威信をかけて、ド派手にやるのが通例。それを見ていれば、日本がコンパクトになんてできるわけがない。無論、財政的に苦しい地方で開催なんかできるはずもない。五輪開催は確実に後から後から、予算が膨張するであろうことは、烏が見ても明らかである。だから予算がオーバーしていくことにはまったく驚きはない。当然だと思う。故に最初から反対だったのだ。東京都もいよいよお先が見えてきたという感じがする。いつの世も奢れる者は久しからずなのだ。

日本よ、東京よ、そんなことをしている場合なのか。この国には明日をも困る人が山ほど溢れているではないか。年間にどれほどの人が貧困で亡くなっていると思うのか。貧困や虐めでの自殺者も痕を絶たない。七十年以上戦争のない国で、これは異常なことではないのか。都市でさえも、夕張市のように財政再建団体に陥っているところがあるのだ。それなのに東京は何なの?一人勝ちしていればそれでいいの?大災害も頻発し、東北も九州もいまだに仮設住宅で暮らす人がたくさんいる。東京よ、それはほったらかしなのか。築地移転は老朽化や狭いという問題だけではない。あの場所に道路を作りたいからだという。

私も五輪を観戦するのは大好きだ。選手の活躍には感動し涙もする。彼らが日の丸を背負って戦っている姿には大いにエールを送りたいし、それは本当に素晴らしいことだ。これに勝るものはなかろうと思う。だが、それとこれとは別の問題だ。ここまで税金を無駄使いし、これから確実にまたカネ、カネ、カネとなる。誰がこれを負担するのか。私たち都民であり、国民である。ここにこれだけカネを使うのであれば、他に今すぐやらねばならんことがあるのではないか。そしてもちろん、我々市民にも責任はある。豊洲の問題はいざ知らず、五輪のことがこれだけいろいろ揉めるということを、鼻っから想像しなくてはいけない。誰に責任があるのかといえば、それは私も含め大人全員だ。政府も、都庁も、議会も、マスコミも、市民も、すべてが五輪の華やかな部分だけに憧れ、獲り憑かれていたのである。私たちはもっと先を見据えて議論し行動しなくてはならない。私らの作ったツケを未来を担う若者や子供達に押し付けていいのか?そこまで考えなくてはいけないのだ。感性だけで行動していいのは、子供と芸術家とアスリートだけである。他の全ての大人は老若男女、学歴、職業関係なく社会というものを大局的に考え、創造しなくてはいけない。いや、今現在、路頭に迷い、明日が見えない人はそんなことは考えなくていい。自分の明日と明日の自分のことだけ考えればいい。そうでない大人は考えて生きてほしい。

一昨日は銀座通りで五輪メダリストのパレードがあった。沿道は八十万人の大観衆であったという。大いにけっこうなことだと思う。活躍した選手を祝福し、元気や勇気を与えてくれた選手を労い、共に喜びを分かち合う。すばらしいことだ。こういことは続けていってもらいたい。くり返すが、私は五輪そのものを否定しているわけではない。選手のことは尊敬し心から応援している。そしてその選手達に熱い声援を送ることも、もちろん素敵なことだと思う。だが、そこに便乗する行動、事業には疑問を抱いてしまう。悪乗りとしか思えないこともたくさんある。そのおかげで結果的に五輪のイメージ、東京のイメージを損ねていることが、哀しく悔しいのである。五輪開催は決まっていることだから、せめて今からでもカネをかけなくてもできるところはどんどんそうしてもらいたい。何にせよ、苦しい生活を強いられている日本人は数多いる。国や東京都は市民の血税で、やっていることを忘れてくれるな。

今度の都知事に最期の望みを賭けたい。男はだらしなく嘘つきばかりだ。女都知事で何とかならぬであろうか。幕末、江戸無血開城と徳川家存続に大きく行動したのは、天璋院と静観院であった。天武帝亡きあとの揺らぐ大和朝廷の礎を固めたのは持統女帝であったし、承久の乱を収めたのは尼将軍政子であった。歴史的に見ても、男が散らかした後始末は女性にしかできないのかもしれない。

 

 

 

 

日本仏教見聞録 川崎大師

仏教が誕生して二千有余年。あと数十年すると日本へ仏教が伝来して千五百年を迎える。日本人は仏教から多くのモノを得てきた。信仰、経典、美術、音楽、文学。四方の海に囲まれた敷島に、仏教は大陸の文化を運んできた風であった。その風は時に嵐の如く荒々しく、時にはそよ風のようになびきながらこの国に根ざしてきた。日本には古代から八百万の神々がいたが、仏教は土着の神と喧嘩をせず、静かに共存する道を選んだ。正確に言えば、まったく争いがなかったわけではないが、互いに付かず離れず上手に付き合ってきたのだ。連綿と紡がれてきたその理由は何か。信仰だけではあるまい。いや、真実はただ信仰のみなのかもしれない。答えは永遠に見つからぬかもしれないが、ひとまず私なりに探しに行こうと思う。日本仏教の本山と呼ばれる寺院を訪ねてみたい。私はかねてよりずっとそう思ってきた。すでに何度も訪れている寺院も、まだ一度も行ったことがない寺も、宗派を問わず本山寺院を巡礼し、日本仏教とは何かを確かめてみたい。そして二十一世紀の日本仏教を肌で、心で感じる旅である。いつ終わるとも知れぬ長い旅であり、生涯のライフワークとなるであろう。

私は個人的には寺院の大小にはあまり関心はなく、東大寺のような巨大伽藍にも圧倒されるし、浅草寺のような庶民信仰の寺も心惹かれる。また、高野山大徳寺が擁する子院や塔頭にも趣き深い寺が多くある。むしろ好ましいのは江戸や京都の一隅で肩を寄せ合うように立つささやかな寺や庵である。しかし、この旅ではあえてそういう自分の趣味で行きたい寺ではなく、本山を訪ねる旅としたい。本山に行けば、その宗派の根本が何かしら掴めるのではないか。ひいては日本仏教が生き続けて来た意味がわかりはしないだろうか。という至極単純な思いつきなのだが、果たしてどうだろうか。そしてこの旅を通じて自分自身の信仰心を突き止めたいのだ。菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、そもそも仏教に関心を抱くきっかけとなったことは自覚している。数年前には東京生活のすべてを放り出して、一人高野山の宿坊で働いた。だが果たして、それがきっかけで信心深くなることはなかった。これまで信仰心は希薄であったと思う。寺を訪ねても、先祖の墓参りでも熱心にお経をあげることもなかった。寺巡りを始めたのは歴史が好きで、それが昂じていつのまにか日本仏教にも関心を抱くようになったからだ。熱心な信者の方からすれば、にわか物見のような輩なのである。それでもここ最近は、自分が死ぬ時はやはり南無阿弥陀仏真言を唱えるであろうし、私を生涯守護するのは般若心経だと強く思うようになってきた。ここで改めて歴史的興味だけではなく、その寺、宗派に息づく信仰、日本仏教の信仰の形を再発見してみたい。

私は日本の仏教寺院の特色は三つに分けられると思う。

一、先祖の永代供養と葬祭を引き受ける菩提寺
二、祈祷を行い縁日や開帳、祭祀を行う祈願寺
三、座禅や作務から己を見つめ、心身修養を行する禅寺

どの寺院も私にとっては違う魅力があるが、これから向かう巡礼ではこの三つの観点をしっかりと学び、確認しながら、私なりに日本仏教の本質を考えてみたい。順番は向かうところ気の向くままに、全国各地の本山を訪ねていく。日本には本山と呼ばれる寺院がおおまかにわけても七十余りある。そのすべてを訪ねることは容易ではないが、一歩ずつ進んで行こう。そして創建年代は仏教伝来から江戸時代までとする。故にこの巡礼は極めて私の個人的な選定であるが、これを「私の本山巡礼の旅」としたい。

はじめに選んだ寺は川崎大師である。川崎大師には若い頃、近くに友人が住んでいて何度も行ったのでよく知っている。本当はここから程近い鶴見の總持寺からこの本山巡礼を始めるつもりだったが、總持寺の拝観まで少し時間もあり、この巡礼に同行してくれるT君も川崎大師はお参りしたことがないと言うので、ちょっと寄るつもりで行ってみた。私自身も十四年ぶりのお参りであった。改めてじっくりとお参りしてみると、この寺が経てきた長い歴史や格式をまざまざと感じることになった。いかにもこの巡礼の最初に相応しいではないか。それにこの寺は真言宗智山派大本山と掲げている。よって川崎大師からこの巡礼をスタートすることにした。

川崎大師は大治三年(1128)高野山の尊賢上人によって開かれた。正式には金剛山金乗院平間寺と号する。尊賢上人は高野聖として諸国を巡っていた折、多摩川近くのこのあたりである漁師と出会う。寺伝によれば、漁師は名を平間兼乗といい、元は尾張の武士であったが、父の兼豊ともども無実の罪に問われ、生国を追われてこの地に流れてきた。貧しく漁師暮らしをしていたが、兼乗は弘法大師を深く崇拝し、日夜祈願していたところ、ある晩、夢枕に空海と思しき僧が立ち「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられた。翌朝ただちに海に出ると、光り輝いている場所があり、網を投じ引き上げると、果たして弘法大師の木像であったという。尊賢上人はこの霊験を聞いて感涙し、兼乗とともに寺を建立、本尊として木像を祀った。平間寺はこの平間兼乗の姓からで、このあたりは夜光町と呼ぶようになった。今も寺から海の方に少し行ったところに夜光という地名がある。そういえばここより多摩川を少し上流に行くと、平間とか矢向という地名があり、南武線の駅名にもなっている。ひょっとするとあのあたりもかつては寺域だったのであろうか。だとすれば相当に広大であり、頼朝の昔から徳川将軍家まで一目置かれた寺院であったことも頷ける。これが川崎大師の縁起であるが、だいたい日本の寺院創立の起源にはどこも似たような話が多く、ことに弘法大師はこういう話には枚挙に暇がない。すべてを鵜呑みにはできないが、それでもこれだけ長い間人々の尊崇を集めてきたのだから、一概に伝説という言葉だけでは片付けられないと私は思う。

本堂の大屋根には菊の御紋が輝いている。皇室の勅願寺であるため、特別に許されているのだという。これまで戦災や災害で度々焼失してきたが、そのたびに力強く復活してきた。戦後も少しずつ伽藍を復興していき、ついに平成十六年の経蔵の落慶により、七堂伽藍が整った。山門、本堂、八角五重塔も大きくて圧倒されるが、異彩を放つのがインドの寺院を模した薬師殿だ。ここはもともとは自動車祈祷殿であったが、平成十八年に大師線の線路を挟んだ多摩川のほとりにこの薬師殿と同じ様式で一回りほど大きい新自動車祈祷殿が落慶し、こちらは薬師如来を祀る薬師殿となった。この薬師殿では静かに仏教音楽が流れ、香が焚かれている。薬師如来の住むといわれる東方浄瑠璃浄土を再現してあるのか、蒸し暑い晩夏の昼時、ここだけは爽快な空気に満ちていて、眠気を誘う心地がした。 新自動車祈祷殿には毎日たくさんの人と車が交通安全祈願にやってくる。京浜工業地帯のど真ん中で、川向こうの目と鼻にある羽田空港からは頻繁に飛行機が離着陸している。そんなところに川崎大師はある。大師といえば弘法大師。ここはつくづく弘法大師の寺。大師信仰の坩堝と言ってもよい。京急大師線、多摩川にかかる大師橋、首都高の大師インター、大師パーキングエリアまで大師の名を冠している。また、全山が平坦で全国の寺院でもここほどバリアフリーな寺もないのではないか。私は山寺が大好きであるが、こういう街のど真ん中にある寺は、我々の最も近くまで下りてきていて、世俗にどっぷり浸かっているところがありがたい。空海衆生を救わんという願いに呼応していて、これが空海仏教の本来の姿なのではないかと思う。

川崎大師の近くには若宮八幡神社があるが、そこに金山神社という社がある。奇祭「かなまら祭」で有名な神社だが、この社の御神体は鉄でできた男根なのである。境内にはあちこちに男根を象ったモニュメントがあり、思わずはにかんでしまうが、ここまで堂々と存在すると、いやらしさなどは微塵も感じない。日本人は記紀の時代からこうしたものを神聖視してきた。巨石や大樹は男性器や女性器に見立てられ、陰陽石とか胎内くぐりと称して各地に残っている。豊作、子宝、安産、子孫繁栄という切なる願いが込められており、一概に猥雑なものと決め付けるものではない。境内には幼稚園もあり、子供たちが運動会の徒競走の練習をやっていた。あんなに小さいのに、きちんと並んで、走る順番を待つ。そして自分たちの出番が来たら懸命に走る。微笑ましく思うとともに、今も昔も日本の神仏は私たちのすぐ近くで見守っているのだとつくづく思った。

川崎大師は、参道を歩いてみても庶民信仰の寺だという印象が強いが、代々国家権力の祈願所でもあり、やはりそこは真言密教の道場の一つでもある。成田山新勝寺高尾山薬王院と並び真言宗智山派の関東三山であり、西新井大師、香取の観福寺とともに関東の厄除け三大師とも称される。この「厄除け」がこの寺の根本使命であり、あまねく土地から人々が詣でてくる由縁なのである。毎日七度から八度も、護摩修行が行われ、本堂には十数人の僧侶の読経がこだまして護摩の炎が焚き上がる。この度私たちも護摩修行に参列する機会を得た。密教法具で何というか私は知らないが、鉦や鈴を鳴らして、灯明から火種を摂り、護摩壇にくべる。僧侶たちの声明はまるで荘厳な管弦楽のように聴こえてくる。やがて大太鼓と読経の声が乱舞するが如く響き渡り、その声と音が大きくなるに連れ、護摩の炎も大きく高くなってゆく。焔、太鼓、読経のすべてがピークに達すると、井桁に積まれた人々の願いは、黒煙ともにへ天へと昇る。そこで弘法大師衆生を救わんという願いと交わるのであろう。

読経の続く中、私たちも本尊の前まで案内されて、真下で弘法大師空海に手を合わせた。その時である、私は頭のてっぺんから雷に打たれたような感じを受けた。こういう護摩焚きにはこれまでも方々で参加したことがあるが、今回はこれまでとは違う何か特別なものを感じたのだ。先に述べたが、私はいっとき高野山で暮らしたことがあり、これまでも方々の真言密教の寺を訪ねてきた。それは弘法大師空海という人物に並々ならぬ関心を寄せてきたからで、常々一人の日本人として、この国に空海という天才がいたことを誇りに思ってきたからだ。だが同時に当然のことながら空海には容易に近づくことはできないでいた。今でもそうだ。あまりにも大きすぎる存在なのである。それがこの日、川崎大師の本尊前まで歩み寄り、手を合わせた瞬間、私は初めて、少しだけ、ほんの少しだけ空海に近づけたような気がした。同行二人。これが結縁と信じて、私はこれから日本仏教の本山を訪ねる旅を続けて行こうと決心した。