弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

元禄レクイエム

私が歴史に興味を持つことになったきっかけのひとつが、元禄赤穂事件である。浅野内匠頭が、吉良上野介にどのような遺恨があって刃傷に及んだのか、真相は闇の中であるが、この事件は三百十四年を経た今日でも様々な説が飛び交い、日本人の心を捉えて離さない。私は物心ついた時分から、時代劇を見るのが好きだった。祖父が歴史や時代劇が好きだった影響もある。もちろん忠臣蔵も、映画、テレビ、芝居などで何度も見てきた。私は昔から忠臣蔵のヒーローたる大石内蔵助や、悲劇の貴公子とされる浅野の殿様よりも、ヒール役の吉良の殿様へ関心があった。炭小屋から引っ張り出された無抵抗な老人を、武装した四十七人の浪士が襲撃する。弱い者虐めのような恐ろしい光景に、私は吉良上野介を憐れんだ。実際にはあのようなシーンはなく、台所の隅に隠れていたところを見つかって、あっけなく槍で突かれて亡くなったらしい。それにしても、夜寒の中、息を殺して隠れていた吉良上野介はどんなにか怖ろしかったであろうか。やはり吉良の殿様に同情せずにはいられない。どうしてここまで私は吉良上野介に執心するのかというと、江戸幕府の組織や職制に興味を持つきっかけを与えてくれた人だからである。私が時代劇を好きになり、江戸の時代考証を勉強するきっかけとなったのは、忠臣蔵なのである。テレビや映画の忠臣蔵を見て、高家とか側用人という役職を知った。さらには幕藩体制とはどういうものであったか、五代将軍綱吉の時代がどういう時代であったのか、徳川幕府が開府から幕末まで、二百六十年どのような行程を歩んだのかに、関心が深まるきっかけとなったのが、何おうこの元禄赤穂事件なのである。

ここで私なりに赤穂事件を捜査してみよう。これは極めて私見であるからして、大いに吉良上野介義央への同情がある上での見解であることをお断りしておく。単刀直入だが、事の発端となった松の大廊下の刃傷事件、あれはどう考えても浅野の殿様が悪い。一方的に斬りつけたことよりも、問題はその場所である。ここは天下人のおわす殿中表御殿。しかも松の大廊下はただの廊下ではない。江戸城本丸御殿で、もっとも広大で格式の高い大広間から、白書院を結ぶ長大な廊下である。また単に通路として使われていたわけではなく、白書院で将軍に謁見する際や、大名総登城の折、諸侯の控える場としての役割も担っていた。また襖の向こうは、御三家や加賀前田家の控えの間が並んでいる格の高い場所であった。余談だが、映画やテレビでは、廊下の片方は開け放たれているが、実際には引き戸や障子が嵌め込まれており、昼間でも薄暗いところであった。また襖絵も、映画やテレビでは巨大な松が描かれることが多いが、実際には海辺に小ぶりの松ノ木が点在し、雲間には千鳥が飛び交うという優美な絵であった。江戸城本丸御殿は何度か焼失しているが、松の大廊下の襖絵は再建の度に同じような雰囲気の絵が描かれている。そのような場所で、事もあろうに浅野の殿様は刃傷沙汰を起こしたのである。薄暗い大廊下で。忍び寄る不気味な通り魔の如く。しかも御城ではこの日、将軍が勅使を迎えて年賀の答礼を受けるという、徳川政権にとって、年中で最も重大なる典礼の日であった。浅野内匠頭の乱心でそのすべてが台無しとなり、幕府の面子は丸つぶれ、犬公方は激怒した。

きっと吉良の殿様は、あっけにとられたに違いない。そして事の沙汰は、上意によりすぐに決した。浅野は即日切腹、吉良はお咎めなし。当たり前である。どのような恨みつらみがあったかは闇の中だが、浅野の殿様は卑しくも一国一城の主である。どんなことがあっても、ここは我慢をせねばならぬところ。仕える家臣や領民のことは何も考えずに、自分のことばかりの印象は否めない。もともと吉良の殿様は、浅野の殿様を評価していたとも云われる。内匠頭はこれより十八年前にも勅使饗応役を務めており、この時も指南役は吉良上野介であった。首尾うまくやり遂げたことに双方安堵し、未だ紅顔の少年であった内匠頭に対して、上野介は息子のように目をかけたともいわれる。さらにその一年ほど前には、朝鮮通信使の饗応役も勤めており、内匠頭はいわばこうした役目はまったくの無知ではなかったはずである。そこに上野介は期待もしていたであろうし、実直な浅野に任せておこうという気持ちも、多少なりともあったと思う。

内匠頭自身、赤穂では塩田開発を奨励し、質実剛健で真面目な殿様として家臣領民から名君の誉れ高かった。だが、病弱で癇癪持ちであったとも言われる。早くに父を亡くし、わずか九歳で家督をついだ浅野内匠頭長矩は、おそらくいつも心細く、プレッシャーに押しつぶされそうなつらい少年時代を過ごしたであろう。大名の継嗣問題でよくあることだが、若年の藩主は毒を盛られたり、命の危険にさらされたことも、一度や二度はあったのではないか。そして次第に疑心暗鬼となり、心身疲弊して、時に癇癪を起すようになったのかもしれない。またそれが己が敵を遠ざける、唯一の武装だったのではなかったか。それは歳を重ねるごとにひどくなり、鬱病になっていたのだと推察する。そして再びこの大役が廻ってきた。頭の中は真っ白で、かつての経験は何も活かされず、それが上野介を失望させ、また苛立たせたのであろう。

そういえば内匠頭の叔父にあたる内藤忠勝が、延宝八年(1680)増上寺で刃傷沙汰を起しており、血は争えないとの噂もあるが、私は血筋というよりも、何か因縁めいたものを感じずにはいられない。内藤忠勝は志摩鳥羽藩の第三代藩主で、浅野内匠頭の母は姉である。その日、増上寺では四代将軍家綱の法要が行われており、忠勝は参詣口門の警備を命ぜられていた。常日頃忠勝と折り合いの悪かった、丹後宮津藩の第二代藩主の永井尚長という大名は、出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため、忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書を忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長が無視したため、忠勝は脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを、刺し殺した。忠勝は切腹、御家断絶となった。これには諸説あり、逆に尚長が斬りかかったが、忠勝に返り討ちにされたとも云われる。いずれこの時十三歳であった長矩少年は、大きなショックを受けたに違いない。そして自分はぜったいに叔父と同じ轍は踏むまいと決意したであろう。そのことがさらに彼を追い詰めていき、繊細で神経質な人間を形成したと私は思う。歴史とは時に無情で皮肉なことをやる。思えば徳川綱吉浅野内匠頭には、性格的に共通するところもあるように思う。思慮深く心優しい面を持ち合わせ、いかにも名君ともいえる一方で、物事を対極的に、あるいは主体的に見るというトップに立つ者としてもっとも問われる資質が、この二人には著しく欠乏していた。突発的な出来事に耐えられず、短慮な判断をしてしまう。これも元禄赤穂事件の背景にはあったと思う。

芝居や映画のように、確かにある意味、上野介による虐めともとれる出来事がなかったとはいえぬ。いつも申しているが、火の無い所に煙は立たぬものだ。しかし、仮名手本が生まれた時に、大胆に脚色されたことも間違いなかろう。吉良上野介高家肝煎として京都へ上り、徳川幕府の代表として将軍に代わり、天皇や公家へ年賀の挨拶をしていた。その緊張から解きほぐれ、ようやく春の江戸へと帰ってきたら、すぐに勅使院使の答礼の下向があり、これを取り仕切らなければならない。年末から春先まで、高家は繁忙極まりなかった。普段から有職故実を学び、武家と公家の伝承や儀式に精通、さらには茶の湯、和歌といった文化芸術にも高い見識と術を兼ね備えていた。高家は大名より家格は低いが、宮中や殿中での席次は、外様の小大名より遥かに上で、まぁ多少は鼻につくそぶりも見せたことはあるだろう。武家の中にはそれを好ましく思わぬ輩も、関ヶ原から百年余りのこの頃まではまだいたのである。浅野、吉良双方がどこかでほんの少しだけ譲れぬことがあったのだ。そしてその瞬間まで両者ともに、よもやここまでの大事件になるとは想像もしていなかったはずである。魔が差すとはまさしくこのことだと思う。

殿中で乱心した浅野内匠頭に斬りつけられ、その二年半後、武装したテロリスト集団に襲撃されて命を落とした吉良上野介。人と人との関係とはほんの少しの歪み、軋みでこういうことになる。吉良の殿様は亡くなる寸前まで「なぜ、私が殺されなければならぬのか。」と憤っていたに違いない。元禄赤穂事件の張本人たる二人をクローズアップしてみると、私は両者ともに気の毒であったと思う。ひいてはこの事件に関わり、巻き込まれていった人たち、内匠頭の妻である亜久利、弟の大学、大石内蔵助以下四十七士、その家族、最後まで討ち入りに参加するはずだったが、故あって参加できず埋もれていった志士、ある日突然解雇され浪人となった赤穂藩士やその家人たち、上野介の孫で上杉家より養子となっていた当代の吉良義周(討ち入りで深手を負うも助かったが、その後改易となり、信州諏訪藩にお預け。病に伏しがちとなりわずか二十一歳で逝去)、吉良家家臣団、皆一様に気の毒でならない。多くの人々の人生が波乱破滅となった。封建制の黒い部分といえばそれまで。だが、私は元禄赤穂事件が、現代を生きる日本人に多くのことを問うているように思う。後世、美談として語られている忠臣蔵であるが、どうもそれだけでは片付けられそうもない。いつかそのあたりを私は小説に書いてみようと思っている。今日、泉岳寺では義士祭が行われる。元禄赤穂事件に関わったすべての人へ心より冥福を祈念したい。

悪魔のトリル

晩秋の夜、紀尾井ホールに再び三浦文彰君のヴァイオリンを聴きに行く。プログラムはクライスラードヴォルザーク真田丸組曲ラヴェルサラサーテなど至福の二時間であった。此度は、ソロリサイタルで伴奏はピアノのみ。じっくりと彼のヴァイオリンを堪能した。中で私がもっとも聴きたかったのが、タルティーニのヴァイオリンソナタト短調「悪魔のトリル」である。超絶技巧が必要とされる曲で、世のヴァイオリニストにとってはこの曲を弾きこなせるかどうかは、自身の演奏家人生において試金石であり、ひとつの指標ともいえる曲であろう。トリルとは演奏技法のひとつである。弦楽器の場合ハンマリングオンというフレット間の弦を叩いて演奏する技法と、プリングオフという指板上の指で弦を引っ掻いて演奏する技法を交互に行うことをトリルという。こう書いていても素人の私にはさっぱりわからぬが、演奏家でなくとも高難易度の演奏技法であることは想像くらいはつく。「悪魔のトリル」はこの技法を用い、高音部ではトリルを奏しながら、下音部でもうひとつの旋律を奏でるという二重音の譜面になっており、現代の演奏技術をもってしてもかなりの至難曲なのである。三浦文彰君は小学生の頃この曲に挑み、なかなかうまく弾けず練習の帰り道では悔しくて涙したという。しかし彼は天才であり努力家である。いつの日かこの曲を弾けるようになった。天才をそこまで虜にし苦しめた「悪魔のトリル」を私はどうしても彼の演奏で聴きたかった。

この曲を作曲したジュゼッペ・タルティーニは1692年にイストリア半島ピラーノで生まれた。ピラーノは現スロベニア領で、タルティーニの頃は、歴史上最も長く続いた共和国であるヴェネツィア共和国であった。両親は彼を修道士にしようとしたらしく、少年の頃から教会で音楽に触れる機会はあったが、やがて法律の勉強やフェンシングの名手となるなど、およそ音楽家やヴァイオリニストとはかけ離れた生活を送る。でも運命はやはり彼をヴァイオリンへと導いてゆく。紆余曲折あるも、その後再び修道院に入ってヴァイオリンに没頭するようになった。そこから彼は音楽家として七十七年の人生を生き抜いた。この頃の人としては相当な長生きである。1716年、タルティーニはすでにイタリアヴァイオリン界の名手となっていた、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴き衝撃を受ける。自身の技能の未熟さに不満を持った彼は、練習のために自室に閉じこもり、何人も寄せ付けず精進した。その後、彼のヴァイオリンは大きく成長するが、彼はいつまでたっても自分のヴァイオリンに満足しなかった。そんなある晩、タルティーニは夢の中で悪魔に魂を売り渡し、その代償に悪魔はヴァイオリンでソナタを奏でた。目覚めたタルティーニはすぐにその曲を書きとめた。それが「悪魔のトリル」である。その後はヴェネツィアのみならず、イタリアから果てはヨーロッパ中にその名を轟かせるようになり、教室も開いて多くの弟子もできた。また、和声や音響学に興味を持ち、この分野の学術論文も多く記した。こういうある意味理論的な彼の性格からして、作曲も演奏も常に完璧を求めたであろうことは想像に難くは無い。自身の目指す高みに到達すべく、何度も何度も登ることを諦めなかった。そんなタルティーニという人が作った彼の代表作が「悪魔のトリル」なのである。この曲は、今も昔もこれからもヴァイオリニスト達の飽くなき挑戦を受け続けるであろう。

曲は三つの楽章からなり、静かに哀愁を帯びて始まる。有名な悪魔のトリルは第三楽章の主部に現れる。二声の重音の上に絶え間なくトリルが続き、華麗にして荘厳。だが、そこにはやはり奏でる者を呪縛する悪魔が覗いているような気がする。神ではなく悪魔なのである。あくまでも悪魔なのである。アドリア海の女王と呼ばれたヴェネツィアで、紺碧の海を見て育ったタルティーニにして、なぜこのような曲が生まれたのだろうか。思えば、イタリアジェノバ出身のパガニーニも似たような伝説があり、彼のヴァイオリンはあまりに超絶であったが故に、悪魔に魂を売って手に入れた技法であるとさえ言われたとか。彼の演奏は、皆怖いモノ見たさで聴きに来て、十字を切る者さえいたという。アドリア海や地中海沿岸の独自の気候は、芸術の分野で多くの天才を生んだ。音楽も絵画も彫刻も永劫燦然と輝いている。だが、どこか謎めいた不気味な印象があることもまた一理あり、それは絵画でも音楽でもいえることだ。私などには想像もつかないが、あまりに美しい青い海と穏やかな陽光とカラリとした空気は、陽気な人間を作るとついイメージしてしまうが、それは時として表裏一体真逆の人間を形成するのかもしれない。完璧であるが、このような憂いを帯びた屈折した曲を作ったタルティーニもまた、心はいつも枯渇しそうで、その生涯において潤いを求め続けていたのではなかろうか。

そんな「悪魔のトリル」を三浦文彰君は事も無げにやってのけた。この曲を演奏している時、まさしく彼にも悪魔が憑依していたと思う。私たち聴衆も息を呑む「悪魔のトリル」であった。でも演奏後の彼はいつものように優しくはにかみ、私たちに一礼した。そこにはもう悪魔は立ち去って居なかった。

日本仏教見聞録 身延山

秋深まりし十月下旬、T君の運転で身延山に向かった。東京から西へ向かう中央道は、私が好きな道のひとつ。日本の屋根に向かってぐんぐん進む。迫る山並みは私好みの旅情に駆られる。「中央フリーウェイ」の歌詞そのままに、調布飛行場、府中競馬場、ビール工場を瞬く間に過ぎると、左手に高尾山が見えてくる。このあたりから急に山の景色となり、相模湖、大月、勝沼を走り抜ければ、眼下にふわっとお釈迦様が手を広げたような甲府盆地が現れる。さすがに果実王国甲州とだけあって、葡萄、梨、栗、柿、蜜柑など果樹園が点在しているのが車窓から見える。もう二十年以上前になるが、真冬の夜、このあたりをドライブした時に私は忘れえぬ光景を目にした。どこか小高い丘の上だったと記憶するが、場所は定かではない。そこからの眺めは、眼下には宝石を散りばめたような甲府盆地の夜景。見上げれば満天の冬の星空で、引っ切り無しに流星が零れ落ちてきた。あの光景は私のこれまで見たどの夜景よりも一番である。私は眺める景色にも一期一会があると思っている。生涯でたった一度の景色。それは同じ場所に何度行っても見ることはできないのだ。狐に抓まれるとはああいう体験をいうのであろうか。あのとき以来、甲府盆地は私にとって桃源郷となった。今でも、隠居するならば近江がいいと思っているが、なかなかこの甲州というのも捨てがたいものだ。あの暖かな光の海の中で暮らしてみたい。私もその光の一つとなりたい。何とも大いに迷うところである。

甲府から富士川沿いに入ると、左の空の彼方に富士山が見えつ隠れつする。この日は晴れてはいたが、快晴ではなく少し靄ががっていた。富士も雲の上に薄い日光に照らされて浮かび上がっている。それは横山大観の富士の絵そのままの光景で、私たちの胸は高鳴った。富士川日本三大急流のひとつである。南アルプス北部の険峻な鋸岳を発し、釜無川と呼ばれて、甲斐の国を流れる支流と合流しながら、富士川町笛吹川と合流する。ここから先は富士山の西側をうねりながら流れて、果ては駿河湾に達するまでを富士川と呼ぶ。明治維新後、日本を訪れたとある外国人は、日本の川は滝であると評した。その流れは、山から一気呵成に駆け下りて、逆巻きながら海へと注ぐからだ。澱まず流れる日本の川だからこそ澄んでいるともいえる。富士川といえば「富士川の戦い」を思い出すが、平家物語源平盛衰記の水鳥の話の真偽はともかく、源平勢力図が変わる決定打となったことは間違いない。そういう由縁かは知らないが、富士川や支流の早川沿いにはいくつかの落人伝説もあると聞く。そういえば富士川をずっと下って、静岡県富士宮市の稲子というところには、平維盛の墓と伝えられるところもあるという。維盛は那智の海へ入水しているはずだから、墓ではなく供養塔だろうが、ひょっとするとここへと落ちてきたのかもしれない。私はこういう伝説をすべて信じるわけではないが、まったく否定もしたくはない。歴史や伝承は否定をすると途端につまらなくなる。滔々たる富士川の流れは、何度も湾曲しながら、多くの秘められた歴史とともに遥かなる駿河の海へと注いでいく。平家はどうも急流に縁が深い。富士川も、宇治川も、壇ノ浦も急流で負けた。早瀬は今は埋もれた多くの歴史をも飲み込んでいったのではなかろうか。富士川を眺めているとそんな想いに駆られずにはいられない。

富士川沿いを身延山へ向けて奥へ奥へと進む。このあたりは川の両側に山々が聳えたっており、平地はほとんどない。川と山の間にへばりつくように集落が点々と続いている。身延は日蓮宗総本山の地であるが、かの木喰上人縁の地でもある。木喰上人は享保三年(1718)身延山近くの古関村丸畑の名主の家に生まれた。縁あって仏門に入り、日本諸国を巡る廻国修行へと旅立つ。何と五十六歳の時であった。北は蝦夷から南は薩摩まで、各地に仏像を残している。廻国中もここへ度々戻っているのをみると、故郷への思慕とやはりこの地の霊的な力を、自らの生きる糧としていたような気がしてならない。そして所願成就した八十四歳の時が最後の帰郷であった。その後、甲州にいくつかの足跡があるが、どこでどう果てたのかわかってはいない。忽然と消息が絶えるという。私もこれまで津々浦々で木喰仏に遭遇してきた。円空仏とはまたちがう、柔和だが芯の強い、ただそこにはいつも笑顔が溢れる優しいほとけたちである。木喰仏は柳宗悦に発掘されてから、にわかに注目されるようになったが、もともとは地元民のみが手を合わせるほとけであった。ゆえに手垢のついていない純真無垢ほとけなのである。木喰上人が木の国で育ったことは、仏像製作の礎となり、夥しい数を彫り上げる霊的な力もまた、樹木から得たに違いない。古代より連綿と続く立木信仰は木喰上人によって完成し、一応の終幕をみたといえるのではないだろうか。木喰上人は目と鼻にある身延山にもおそらく上山したであろう。本当は丸畑の地を訪ねてみたいのだが、今回は先を急ぐので、残念ではあるがまたの機会にしたい。やがて、富士川の右手に険峻な岩肌をあらわにした身延山が見えてきた。

総門をくぐり参道を進むと身延山の山号を掲げる巨大な山門に出た。が、私たちはまず西谷と呼ばれる日蓮聖人の霊廟と草庵跡へ向かう。身延山には今も多くの塔頭があるが、それでも往時からするとずいぶん少なくなったらしい。江戸時代までは百三十六もの末寺塔頭があったとか。今残る塔頭の多くは宿坊も兼ねており、身延山と谷一つ隔てた七面山にも宿坊がある。西谷へ入るには身延川を渡る。山国のこととて、身延川を渡るとさらに冷気は増してゆく。あたりには鳥の啼き声すらなく、ただ風と川の音だけで、その轟音に威圧される。ここはただならぬ雰囲気である。それは霊気でもあろうか。とにかく何かに導かれるようにして、私たちは巨大な日蓮聖人の御廟へとたどりついた。南無妙法蓮華経の御題目が、例の流麗な金字で掲げられた日蓮聖人のお墓の前に出たとき、「いやぁ、凄い!」私は思わず声を上げた。昔から方々の寺社巡りをしている私は、今さらパワースポットとか騒がれている昨今の風潮には、いささか距離を置いているのだが、そんな私が久しぶりに大きく動揺させられたのである。ここは凄まじい霊的な力を感じる場所である。なんであろうか。こういう場所を本当に知っている人であれば、わかるであろう。言葉では言い表せぬ、あの感じ、あの雰囲気である。日蓮聖人の廟を前にして、背後にはおそらく雲の彼方に霊峰富士がこちらを睥睨しているはずだ。私たちはちょうどその間に立っており、前からも後ろからも、圧倒的なパワーを今まさに全身全霊にびしびしと受けまくっているのだ。私もT君もしばし茫然自失としてしまい、これから菩提梯を昇り、奥の院まで行こうという前に、ここだけでも来た甲斐があり、ここだけでもう充分すぎるほど身延山を満喫した心地がした。

御廟の少し下に身延山の原点とも云える草庵跡が残されている。玉垣に囲まれた草庵跡の周りには、いくつもの杉の大木が御神木となって聳えており、どっしりとした日蓮聖人のイメージを彷彿とさせる。日蓮聖人が身延山に入山したのは、文永十一年(1274)五月十七日のことで、鎌倉幕府に国主諫暁(こくしゅかんぎょう)を行うも三度失敗し、失意のうちのことであった。国主諫暁とは、極々簡単にいうと、日蓮の信ずる法華経を尊び、法華経にのみ帰心せよと説く幕府への奏上であり、かの「立正安国論」を引っさげての一大問答であった。だが、そのあまりに激烈で過激な説法は、他宗派を蔑み、排除せよと続けた結果、他宗門徒からは大非難を浴びることになる。幕府中枢もほとんどが日蓮の教えに靡く者はなく、依然として浄土宗系や禅宗系が日蓮の排斥に大きく動いていた。伊豆や佐渡に流されたり、何度も命の危機にさらされながらも、しかし諦めない人日蓮は、この艱難辛苦を乗り越え、その度に大きくなり立ち上がっていった。そんな日蓮を、身延の地を領していた御家人南部長実は積極的に匿い保護した。草庵の地も南部長実が寄進した。鎌倉幕府は無論知っていたと思うが、さすがに鎌倉から遠い山間の僻地までは監視の目も及ばず、ここで九年間日蓮は思索に耽り、弟子を育成し、自身の集大成ともいえる濃密な晩年を送ることになる。聞くところによれば、ここでの暮らしは相当に貧しいもので、食い扶持に困り、弟子の何人かはやむなく下山させたこともあったらしいが、そういう時も何かと便宜を図ってくれたのが、南部長実であった。私が思うには、南部長実は日蓮に帰依していたことには違いないが、鎌倉幕府の信頼も厚いものがあり、幕府もある意味監視させていたのではあるまいか。南部長実の元にあれば日蓮もそうそう動けまいと思っていただろうし、事実そうであった。あれほど行動的な日蓮が九年間もこの地にじっとしていたのである。それは日蓮の生涯に於いて、もっとも長く充実した日々であったに違いない。初めてここにゆっくりと腰を落ち着けて、これまでの我が人生を振り返り、さらに自身の理想と現実との葛藤、法華経へのさらなる信心を完璧に昇華させたのが、この身延山であった。そういう意味では南部長実の功績はとても大きい。少し想像を逞しくすると、まるで日蓮聖人を守護する、仁王の様な人物なのではなかったか。いずれにしろ、この御廟と草庵跡からはとてつもなく大きな霊力を感じずにはいられない。その理由はやはり日蓮聖人がその波乱の生涯において、もっとも円熟し、真に法華経一筋の道がここに極まった場所であるからではないかと私は思う。

霊気はこの山全体を支配するが、私たちもこの雄大な山塊に抱かれるが如き感がしてきた。ここは日蓮宗総本山。身延山妙法華院久遠寺。山門の奥へ歩を進めると、亭々と聳える杉木立の向こうに巨大な壁が現れる。これがかの菩提梯である。私は身延山を訪ねるにあたり、一番楽しみにしていたのがこの菩提梯であった。菩提梯は本堂のある山上の伽藍へと誘う二百八十七段の石段で、高さ百四メートル。これがとてもつもなく急峻でひとつの石段の高さは四十センチもあり、幅はかなり狭い。まるで絶壁のように屹立している。ここで私は再び声をあげた。「これかぁ!やっぱり凄い!」その名も菩提梯。悟りに至る梯子で、ここを昇りきれば涅槃の本堂へと行ける。これまで何人も救急車で運ばれたり、行き倒れた人もいるというこの石段。果たして頂上まで行けるであろうか。私とT君もいざ一歩と昇り始める。男坂とか女坂もあり、キツイ人はそちらから昇ればよいし、今は斜行エレベーターまであるので、いつでも楽に昇れるのだが、やはりここへ来たからには、まず一度はこの菩提梯を昇りきりたい。が、やはりキツイ。歳若のT君は息も切らさずスイスイ昇るが、四十を越して運動不足の私はかなり苦しい。まさに苦行である。それでも途中休憩ができる区切りがあり、休み休み昇ってゆく。菩提梯は、御題目「南無妙法蓮華経」の七文字になぞらえて七区画に区切られている。そしてついに最後の一段を昇りきった。息を切らせながら下を見ると、やはり相当な傾斜で怖かったが、素直にうれしい気持ちのほうが勝る。菩提梯踏破の喜びは、ここでまたひとつ自分自身の殻を破り捨てられた感慨さえあった。

その山上には大伽藍が甍を並べている。明治の頃大きな火災があったとかで、そんなに古い堂宇は残ってはいないが、総本山らしく堂々たる佇まいである。ことさら映える鮮やかな朱色の五重塔は最近になって建てられたものだが、不思議と周囲の山々の緑にしっとりと溶け込んでいる。これも久遠寺の長い歴史の成せる術であろう。本堂内部には天井に巨大な龍。その奥に須弥壇が設けられている。日蓮聖人真筆の「大曼荼羅御本尊」がこの寺の本尊であるが、御会式の時のみ公開される。宝物館には複製があるが、この大曼荼羅御本尊を立体的に表現したのが、本堂の須弥壇である。須弥壇は眩いばかりの黄金に輝いており、どこか東南アジアや中東の王宮のような印象である。ちょうど本堂を御参りした頃に正午となり、お昼のお勤めが始まった。祖師堂や仏殿から御題目が高らかに聴こえてくる。私たちも仏殿の勤行に参加させていただく。日蓮宗の勤行は、密教禅宗のそれとはまた違った猛々しい勤行で、やはり御題目「南無妙法蓮華経」に始まり、「南無妙法蓮華経」に終わる。修行中の若い坊さんもたくさんいたが、廊下や境内のどこですれ違っても、気持ちよく挨拶をしてくれて、それだけでこちらも晴れやかで柔和な気持ちになった。門徒たちは集団でやってくる。私は門徒ではないので、そのあたりの事情に明るくはないのだが、町内会とか婦人会の文字が見えた。地域住民で講のようなものがあるのだろうか。皆歩きながらしきりに御題目を唱えている。さすがに総本山たる風景であるが、最初は少し異色に見えた。だが身延山にいる間、一日中その声を聴いていると、不思議に心地よい音色に聴こえてくる。声に出さずとも、私も心の中では同じように「南無妙法蓮華経」を唱え始めていた。

これまで私は日蓮聖人に対して特別な思いはなかった。寧ろ失礼ながら、あまり良いイメージは持っていなかった。他宗を非難し自分の信念を押し通そうとする気骨の坊さま。悪くいえば法華経被れの荒法師とさえ思っていた。ひいては日蓮宗という宗派自体にも、どうもいつも何かと闘っている教団というイメージが今も拭い切れずにいる。法然親鸞道元など他の鎌倉仏教の祖師には関心を寄せてきたが、日蓮には自ら少し遠ざかってきた感がある。故に訪ね歩いてきた寺も、日蓮宗の大寺院といえば池上本門寺に行ったくらいであった。だが、身延山久遠寺を訪ねるにあたり、また訪ねたことで私の日蓮聖人に対する知識は少しずつ増え、それに伴い日蓮という一人の人間、一人の僧侶について深く考える機会を得た。やはり何事も行ってみるもの、見てみるもの、感じてみるものである。おかげで私の日蓮日蓮宗に対する想いにも変化の兆しが現れ始めている。この巡礼を試みなければ、あえてわざわざ日蓮宗に近づくこともなく、身延山へも詣でる機会はなかったと思う。

賢しらに私如きが日蓮聖人のことを語るつもりはないが、ひとつだけ思うのは、日蓮聖人はいつもがっかりの連続だったのではなかろうか。何か事を起こす度に出鼻を挫かれたり、反対されたり、非難されたり、無視されたり、およそそのくり返しであった。また仏法や教義、仏道修行においても、叡山にも、真言密教にも、浄土系宗派にも、禅宗にも、そして時の権力者にも失望した故に、自ら帰結した正法たる法華経と釈迦への回帰を声高に叫び続け、闘い続けたのではないか。そうした反骨精神が、日蓮を揺り動かし、支えたのだと思う。そしてようやく晩年に至り、この身延の山中で、無碍の境地に達すること叶ったのであろう。身延の山の霊気と閑寂が、日蓮を心身ともにクールダウンした。心から澄み切った日蓮に、もはや敵も見方もなく、ただ一念に自らが法華経を信じていたい。そうすれば後の世まで永劫、その情熱の華は枯れることはないと確信したであろう。明治維新後に開かれた仏教系の新興宗教は、なんと九割以上が日蓮宗系だという。その信仰や教義は如何ともしがたいところもあるかもしれないが、ここに日蓮聖人の願いは大きく華開いたといえよう。

最後に私たちは、奥の院へと足を延ばすことにした。奥の院は標高千百五十三メートルの身延山頂にあり、二時間半ほどかければ歩いて登れるのだが、今は本堂の裏手からロープウェイで七分で行ける。ロープウェイは関東一の高低差と云われる七百六十三メートルを一気に上がる。すぐに五重塔などの伽藍は小さくなってゆき、山裾を這う龍の如くに富士川の流れが遥か下界に見えてくる。この日はすっきりとした晴れではなく、いかにも山の天気という感じで、ひっきりなしに雲が動いてゆく。それでも山上からの眺めはすばらしかった。南にはすぐそばに七面山、西から北にかけては南アルプス八ヶ岳の峰々、東には天守山地が重畳と見渡される景色は、言葉もないほど雄大かつ爽快であった。と同時に、東の方からは物凄い冷気と霊気が真っ直ぐこちらへ向かって放たれてくる。東の天守山地の後ろに聳えるのは霊峰富士。雲の中にいて姿を現さないが、身延山の山頂に立つと富士の圧倒的な霊力が心底わかる気がする。身延山は広い。この山塊の至るところに堂宇や塔頭が点在し、信仰の山、霊山なのであることが、高いところへくると実感として迫ってくる。

奥の院には親を思うと書いて「思親閣」というお堂がある。ここには日蓮聖人の両親、父妙日と母妙蓮が祀られている。参道下には故郷の安房に向かい遥拝する聖人の像があり、背後には聖人御手植えの樹齢七百年を超える杉の大木が見守っている。日蓮聖人は身延入山九年の間一度も下山しなかったが、片時も故郷を思わぬ日はなかった。そしてこの山頂へ度々登り、故郷を遥拝し、両親への思慕に想いを致したのであろう。ここに来ると、日夜朝暮に両親やふるさとのために祈るとても優しい日蓮聖人の姿が彷彿として浮かんでくる。そこにはあの情熱的な荒法師の姿は皆無である。親を思う気持ちは誰しもある。ここに登ってきた時に日蓮聖人はおだやかな気持ちになり、僧籍からも離れることができたに違いない。身延山を降りて安房の地へ赴く日蓮聖人は、池上で力尽きて入滅するが、遺骸はこの身延の地に埋葬するように遺言した。身延を降りる時の日蓮聖人にはもう激烈さはなく、ただ一念に望郷の念に駆られていたような気がする。この地で過ごした九年の月日は彼をおだやかで、包容力のある人間へ変えたのであろう。それが本来のその人であったと私は思う。

個人的な話でまことに恐縮であるが、この寺に来て私がもっとも感じたことを最後に記したい。これを書くべきか書かざるべきか迷いに迷ったが、やはり今の私の心に従い記すことにした。いささか巡礼記からそれることになるがお許し願いたい。

私は両親が離婚し、決して幸せとは云えない幼少期を過ごした。両親ともに再婚していまだ健在である。私は母を思う気持ちは今も変わらないし、年老いた母の面倒もみて、最期も看取るつもりでいる。だが、父に関しては金輪際関わりを持ちたくない。父には強い嫌悪感を持っている。両親の離婚の原因が父にあるからなのだが、ここに今そのことを詳しく書くことはできない。私は今もどうしても父を許すことができずにいる。おそらく、父が私と母と妹を捨てて、今新しい家族と幸せに暮らしていることに対する妬みと、ずっと苦労している母への想いがそうさせるのだろう。極端な話であるが、もしも神仏がこの世の中でただ一人呪詛してもよいと許してくれるならば、私は躊躇なく己が父を呪うであろう。今の私はこうなのである。正直にこれが今の私なのである。この気持ちはここ思親閣に来ても変わらなかった。私はたぶん本当の優しさとか愛情とかを持ち得ずに生きてきた。私はとても冷たく、人にやさしくできない愚物なのである。心から人にやさしくできないのだ。その術も正直わからない。近頃それがとても苦しく思えて仕方ないことがある。私はなんなのだろう。こんな人間が寺参りなぞしてもいいのだろうか。いや、それだからこそ始めた巡礼ではないか。葛藤の日々は続く。でも今はそれしかできない。他に道が見えないのである。いつの日にか、この巡礼を続けていくうちに、もしかしたら父を許せる日が来るのであれば、心から人を愛し、人にやさしくなれたならば、その時こそ、この本山巡礼が本当に意味を持ってくるのかもしれない。今のところそんな気持ちにはさらさらなっていないが、これから様々な寺やほとけさまや信仰の姿に触れることで、この気持ちが変わることがあれば、素直に喜びたいとは思っている。奥の院の足湯に浸りながら、私はそんなことを考えていた。

山の空気を満腹に吸い込んで、私たちは下山した。帰りがけに山門前でもうひとつ、もの凄い光景を目の当たりにする。百人近くの白装束の門徒の一団である。老若男女皆白装束で肩からは御題目の袈裟をかけている。全員大声で御題目を唱え、山内に「南無妙法蓮華経」がこだまする。白い装束は無垢で清くも見えるが、これだけの人々が同じ装いで目的を一にしているのを見ると、どこか少し薄気味悪くも感じた。私はだんだんその光景が夢のように思えてきて、月日が経っても瞼に焼き付いている。あの甲府盆地の夜景を見た夜のように、やはりまた狐に抓まれたのであろうか。

面授これもまた一会と心得よ

この秋から私は茶の湯の稽古を始めた。六十ならぬ四十の手習いである。これは大きな決断であった。長年、井伊直弼をはじめとした大名茶人と茶道に強い関心を寄せてきたので、歴史探訪をする折や文章を書くときは付かず離れずであったが、自分が稽古をするとなると、なかなか勇気が持てず、踏み込めずにいた。しかしこの夏のある日、ふと、「今やらねばいつやるか」という気持ちが澎湃として湧き上がってきた。それからは行動が早かった。すぐに稽古場を探し始め、三日後には師匠の門を叩いていた。 今、家から程近い表千家の先生のご自宅に通っている。

本能寺の光秀の如く、時は今、と意気揚々と茶道に取り組んではいるが、何にしてもまだ始めたばかり。茶道のいろはから、袱紗捌き、茶筅通しなどの割稽古中。であるから、何もここで茶の湯のことをだらだらと書き述べるつもりはない。それこそシロウトの何とやらになってしまう。ただ、十一月になり風炉から炉に変わり、いよいよ初冬から正月に向けて、奥深き茶の湯の真髄に触れる想いをいたしたところで、少しばかり「私の茶の湯の初心」を書いてみようと思った次第である。

道元禅師の正法眼蔵に面授の章がある。辞書をひいてみると、面授とは「文章などで広く教えるものではない重要な教えを、師から弟子へと直接伝授すること」とある。 今こういう機会は明らかに少ない。無論、寺の師弟関係とか伝統工芸や伝統芸能を生業として生きる人々は、こうした面授により子々孫々へと教えや技というものを受け継いでいくのだろうが、やはり一般には馴染みが薄い。教科書通り、マニュアル通りが横行し、それが当たり前の今日、パソコン、スマホ、SNS等のインターネットを介する極めて間接指導な世の中を私たちは生きている。それが悪いとは言わない。現に私もこのブログをそれらを駆使して書いているし、もはやSNSを使わない日はない。歴史も昔も好きだが、すべて昔に還る必要もあるまい。しかし、今私の体験している茶の湯の稽古は、真に面授なのである。これはなかなか貴重なことで、おそらくこの先の人生観を大きく変えることであろう。仏道、武道、茶道、華道、香道、芸道など、およそ師と弟子が同じ道を歩み、師の道を弟子が辿る世界においては、教え授かるには面授が唯一であろう。面授でしか真に伝えることはできないと思う。

私も割稽古をしながら、先生や先輩の点前をいただき、そのひとつひとつの所作を見て学ぶ。茶の稽古で私が一番感じ入ったことは面授であった。私は別に人間が嫌いなわけではないし、対人恐怖症でもない。気の合う仲間とはいつでも語り明かしたいけれども、どちらかといえば孤独を愛し、ひと気のないほう無い方へと赴く私にしては、茶の湯の交流が今一番の刺激かもしれない。茶の湯の稽古は普段なるべく人と関わるのを避けがちの私にとって、新鮮でもあり、数少ない社交の場。老若男女が集い、めいめい点前を披露し、一服の茶をいただく。仕事も様々、学生さんもいる。茶室に入れば皆平等に茶の湯に心を寄せる。日常から離れて、悩みも忘れて、ひたすらに茶の湯に専心する。なんと清々しいことか。二時間ほどの正座で脚はひどく痺れるが、稽古が終わるとなんとも晴れ晴れとした気持ちで家路につく。

茶の湯はまた今の私にとって、心身修養の場であり、喧騒から離れて己を開放する場である。存分に季節を感じさせる菓子をいただき、一服の茶を喫する。単純に美味しい。そうなのだ。美味しい、それだけなのかもしれない。余計な考えはいらない。これは總持寺で教わった坐禅とも共通することだ。だが曹洞禅は何も考えないで、浮かんだ考えを後ろに置き去りにして、ひたすらに坐禅するのであるが、茶の湯は少し思考を要する。亭主は客を心からもてなし、客はそんな亭主の心遣いを心身で感じ取る。井伊直弼は大名茶人の大家で有名だが、彼の著した茶湯一会集には、ただひたすらにただこればかりだと言っている。つまり一期一会だ。私などが事新たに、このあまりに有名な言葉にどうこうはないが、一期一会は何も茶事茶会のみではなく、日々の稽古、面授もまたその日、その時限りというものだと、稽古を始めてみて痛感させられている。

茶の湯とは音の癒しである。釜の中の沸き立つ湯音、はぜる 炭音、捌く袱紗の音、湯を汲む音、茶を点てる音、茶を飲む音。何とも心地よい水音が茶室に響く。茶の湯は水音の世界。その音は或る時はどこまでも深く降りてゆき、また或る時はどこまでも高く昇ってゆく。これから私は茶の湯とともに生きていく所存である。

THE WEST WING

いよいよアメリカ大統領選挙の日がやってくる。オリンピックイヤーは私にとって、このアメリカ大統領選挙もまた、とても関心を抱くニュースなのだが、今年ほどいろいろな意味に於いて不思議な大統領選挙もかつてなかった。まさに泥仕合の様相を呈しており、本当にこれがアメリカ大統領選挙なのかと、アメリカ国民でなくとも唖然としてしまうが、日本にとっては、両候補どちらが当選しても、少なくとも向こう四年間は、難儀な道が予想される。それ故、合衆国大統領選挙は気になる。アメリカの斜陽が始まっていると世界中が認識するが、少なくとも現時点では経済も軍事力も世界一である。いまだ唯一の超大国といえよう。そして日本の唯一の同盟国アメリカ。その国のトップが決まるのだから、関心を抱かないわけがない。

私が物心ついてはじめて知ったアメリカ大統領は、第四十代ドナルド・レーガンである。政治的評価は賛否分かれるが、私が生きているこの四十年間では、在任中も退任後も、もっとも人気があった大統領であろう。俳優出身のレーガンは、男前なルックスと、抜群の話術で大衆を惹きつけた。その演説は今見ても、引き込まれるほど聴き入ってしまう。日本でも田中角栄元首相は、うなるような凄い演説をしたが、レーガンの演説はもっとスマートで、独特の低い声と間の取り方が演説全体に重厚感を与えている。まさに現代アメリカの自由と繁栄の象徴的な存在で、強く偉大なアメリカと資本主義の最高到達点はレーガンの時代であったと思う。「悪の帝国」とまで呼んだソ連とはいつのまにかの急転直下で冷戦終結へ漕ぎ着けて、その後およそ三十年間、世界はアメリカ一強となった。その高みへと導いたのレーガン大統領であった。

私は今年の春から夏にほぼ毎晩「THE WEST WING」というアメリカのドラマを観ていた。日本でもかつてNHKで「ホワイトハウス」というタイトルで放映されていた。ウエストウイングとはホワイトハウスの西棟のことで、大統領執務室や上級スタッフのオフィス、ブリィーフィングルームがある、まさにアメリカ政府の中枢である。シーズン1~4までNHKで放映されたが、韓流ドラマブームに圧されて、残念ながらNHKでは放映しなくなった。その後、衛星放送のどこかで放映されたみたいだが、私は見ること叶わず、あの時は韓流ブームを恨めしく思ったものだ。以来、このドラマのことはずっと気になっていて、ようやく今年の春からDVDを借りてきて、シーズン7まですべて見ることができたのだ。

全154話を毎晩一話ずつ見ていたので、四ヶ月もかかったが、実に面白かった。原語版も吹替版もどちらもすばらしいが、原語版はアメリカ人でも聞き取れないことがあるほど、物凄いスピードの台詞回しで有名なドラマである。また、極めて緻密にアメリカ政府の実情を考証した上で作られた、架空の政権と架空の物語であるが、展開も目まぐるしく、しっかりと見ておかないと、後につながる話もあるので、ついていけなくなる。ホワイトハウスの内部やエアフォースワンなど、私たちが生涯目にすることも無いところも、余すことなく存分に再現してある。オーバルオフィスやシチュエーションルームでの引き込まれる緊迫感、また大統領や側近たちのプライベートな表情も繊細に描かれており、壮大な現代アメリカの政治ドラマでありながら、家族愛を描いたホームドラマでもあり、恋愛ドラマの様相も盛り込まれている。ことにブリーフィングルームでの大統領報道官の記者会見は秀逸だ。だが、すべてはあくまでフィクションなのだ。

そうとわかっていても、皆、本物に見えてくるのがこのドラマの凄いところだ。バートレット大統領役のマーティン・シーンは本当に大統領にしか見えない。私個人的には、首席補佐官レオ・マクギャリー役のジョン・スペンサーと報道官CJ・クレッグ役のアリソン・ジャーニーがお気に入り。故にジョン・スペンサーが死去により最終回までいなかったのは哀しいことであったが、その死をドラマでも気高く描いてくれていたのはうれしかった。草葉の陰から彼自身も喜んだに違いない。シーズン7の大統領選挙のキャンペーンも実にリアルで、大統領選挙というものがアメリカにとって、ただ単にリーダーを決めるという単純なものでないことを如実に語っている。そして何といっても私は、このドラマでいつも感服したのが、回毎のエンディングであった。まるで日本の古典文学のような余韻の残し方で、そのまますぐに次回を見たくてたまらなくなるのである。音楽もクラシックあり、壮大な映画音楽やオリジナル曲あり、ジャズあり、ロックありとその時々で的を射た選曲がすばらしい。かつてこれほど嵌った海外ドラマはなかった。良くも悪くも極めてアメリカ的なドラマである。それでも長い長いアメリカの大河ドラマを見終わった時、私はとても爽快な気分になった。

もちろんこれはドラマであるから、現実はまったく違うであろう。あくまでドラマだ。現実は簡単ではなく、ドラマは理想であろう。しかしながら、世界一の国の抱える問題、そのトップで国を動かす人々の苦悩、そして威厳と誇りを持った仕事ぶりに私は深い深い感動を覚えたのである。アメリカは今、いやアメリカのみでない、世界は今、大きな転換点に来ている。そんな大事な分水嶺をアメリカは、世界はどのように越えてゆくのだろう。混迷の世界情勢、その舵取りを担うべき船長ともいえる次の合衆国大統領がまもなく決まる。今回の選挙はアメリカ国民だけではなく、世界中が注視しなくてはいけないと思うのだが。

輩考

日本シリーズは日ハムが四連勝して十年ぶりの日本一になった。今年のプロ野球は例年以上に面白かった。各球団大物ルーキーがいて、若手の躍進もあり見応えがあった。ことに大谷翔平選手は輝いていた。今年彼は、一段も二段も三段も大きく飛躍したと思う。ここへ来て大輪の花が開いた感である。また惜しむらく、今年の球界はベテランの相次ぐ引退もあった。一方で、野球賭博が暗い影を落としたが、それさえも吹き飛ばすような、どのチームもすばらしい試合を見せてくれたと思う。ことにこの日本シリーズは、近年稀にみる大接戦で、そのすべてが名勝負であった。私は大谷翔平贔屓なので、日ハムを応援したが、優勝インタビューで栗山監督が、今年の野球界を牽引したのは間違いなく広島であったと言っていた。至極もっともだと感じ入った。私も心からそう思う。ここでこういうことが言える栗山監督とは何と凄い人だろう。こういう監督だからこそ、日本一を勝ち得たに相違ない。そしてまた、大悲願の日本一を夢見た広島カープファンは悔しかっただろうが、栗山監督とファイターズに惜しみない拍手を送っていたのも感動的であった。広島ファンはマナーの良いことで定評があるらしい。相手チームの健闘もしっかりと称える。そういえば日本人は、源平の時代からそういうところがある。屋島に於いて、那須与一が舟上の扇を見事に射抜いた時、はらはらと宙に舞う扇を見て、源平双方声をあげての拍手喝采であったというから、こういう血が日本人には文字通り脈々と受け継がれているはずだ。現代日本人も間違ってもフーリガンなどにはならぬのではないだろうか。

時にまたハロウィンの季節がやってきた。日本ではいつの頃からか、ハロウィンが仮装パーティーとして定着したが、それは結構なことだと思う。皆で楽しむことも悪いことではない。子供や二十代くらいまでの若者は大いに楽しんだら良いと思う。ただ、そこに便乗する大人たちはいただけない。便乗して商売するのはまぁ仕方ないだろう。パーティにいい歳をした大人が、若者と一緒になって参加したり、それを追いかけるマスコミに、私は強烈な嫌悪感を抱く。はっきり言って気持ち悪い。反吐が出そうである。日本人は太古の昔から祭好きであった。だから、伝統的な祭を老若男女が一同で盛り上がるのは共感できる。でもなぜハロウィンには共感できないのだろう。私自身がおかしいのかもしれない。でも、ハロウィンは外国の祭であって、少なくともアメリカあたりまでは子供が楽しむ祭である。どう捻じ曲がって日本に不時着したのか私は知らないが、せめて二十代までがはじける遊びだと思うのだが。恥ずかしいとも思わぬ大人が多いことが、哀しくもありこの国のこれからに危機感すら覚えるのは私だけだろうか。このままで日本は本当に大丈夫なのだろうか。まぁ、そういう大人たちは普段から何事にも一生懸命なのだろう。だから、年に一度童心に返ることも否定はしたくない。

嗚呼、やはり私がおかしいのだ。でも私には到底できない。やる必要もまったくない。

何でも、俄かファンや便乗する輩とはいるものだ。ちょっと注目されたり、流行りだすとそこに乗っかるタイプの人間だ。それがその人の生き方なのだから、他人がとやかくいうことでないことも重々承知している。私が思うに彼らは寂しいのだろう。私も寂しい。でも私はその寂しさをどう耐えて、それを切り抜け、どうやって一人で生きていくかをいつも模索している。そして、何となくどうすればいいのか少しずつわかってきたつもりだ。でも彼らはその光さえ見えないのではなかろうか。そう思うと気の毒でならない。だから、誰かの喜びに乗っかったり、右向け右で皆と行動を共にしたいのだろうか。思えば幕末の「ええじゃないか」も、趣旨や目的があったとも言われるが、それは最初に始めた連中だけで、あとは私が思うに今日のハロウィンと似たような出来事であったのかもしれない。人間は群れを成さねば生きていけないのならば、彼らこそが正しく人間なのだと思う。とすれば私は人間ではない一匹狼か。いや、そんな格好良いモノではない。さしずめ根性曲がりの天邪鬼だ。或いは魔物に憑かれているのかもしれない。とにもかくにも秋の夜長をどう楽しむかは各々自由である。私は静かに読書でもしたい。それだけは揺ぎない。

日本仏教見聞録 總持寺

これまで日本各地の寺を訪ねてきた。私は初めて訪れる土地に行く前は、仕事であっても、遊びであっても、必ずその土地の地図を見る癖がある。土地の歴史や史跡、寺社を調べて、時間が許せばちょっと訪ねてみようと地図を広げる。思えば私は地図を見ることは幼い頃からの趣味であった。唯一の趣味といえるだろう。歴史を学ぶこと、史跡や寺社を訪ねること、読書、美術鑑賞などは、自身の明日への糧として培っているものであり、趣味ではない。この夏からは茶の湯の稽古をはじめたが、茶の湯は心身修養であり、決して趣味ではない。地図は気楽で楽しい。眺めているだけで、私はいつでもその場所へ行ける。日本地図も世界地図も飽くことなく延々と眺めていたい。この本山を巡る旅も、地図を眺めながら目的のお寺を訪ねるだけではなく、時に道草を食いながらになるだろう。

川崎大師を後にして、私とT君は鶴見の總持寺へ向かう。私もT君も方々の寺を訪ねてきたが、總持寺にはついぞ行ったことがない。私はかつて横浜の磯子に住んでいたが、一度も行く機会がなかった。電車の窓や首都高横羽線から總持寺の大屋根が見える度に、横浜にもあんな大寺があるのかと感心していた。そのあと都内へ移ったが、總持寺は今の私の住まいからは、中途半端な位置にあるのだ。都心部の寺ほど近くもなく、多摩地区よりもアクセスが不便。私の家から京浜地区には品川方面へ回るか、南武線で川崎へ出るか、いずれも回り道なのである。そしてどうせ横浜方面へ出るならと、鶴見を通り越して鎌倉へ向かってしまう。でも、總持寺永平寺と並ぶ曹洞宗大本山であることは知っていたので、どうしたって行かねばと思っていた。 鶴見駅の周辺は今では京浜工業地帯の真っ只中であるが、江戸の頃は海を臨む東海道筋であり、少しばかり寺社が点在したが、静かな漁村であった。ここより少し横浜方面へ行くと生麦がある。幕末、文久二年八月二十一日、薩摩藩国父の島津久光率いる行列が、東海道を西へと上っていた。久光は幕政改革を唱え意気揚々と江戸へ乗り込んだが、目論みはあえなく潰えてしまい、失意の道中であった。そんな鬱屈した行列と、横浜の居留地から、馬を駆った四人の外国人がすれ違う。四人は川崎大師へ向かうために東海道を下っていたという。薩摩藩の供回りが下馬するように言ったが、相通じず、四人はそのまま乗馬で進行、その後、あまりに藩士が激高するので引き返そうとしたところ、いきなり藩士数人が斬りかかり、乗じて銃声が響いた。女性一人は流れ弾がかすめたが無傷で、何とか居留地へ舞い戻ったが、他三人は負傷。そのうち英国商人のチャールス・リチャードソンが深手を負い死亡した。これが生麦事件である。この事件は薩英戦争の火種となり、英国は徳川幕府にも多額の賠償金を請求。幕府瓦解のいったんとなったのは間違いない。この頃から、このあたりの景色も様変わりしていく。横浜開港後は急激に開発が進み、東海道は文字通り明治維新の大動脈となっていった。明治五年(1872)新橋横浜間に鉄道が開業し、鶴見駅が設置されたことも、このあたりの都市化に拍車をかけた。それから百五十年余り、今では鶴見地区は日本を代表する工業地帯となっている。

話もついつい道草を食ったが、そんなところに日本の禅宗の一翼を担う曹洞宗大本山總持寺の伽藍が甍を並べている。ここは横浜屈指の大寺院である。総門を入り、緩やかに坂を上がると、堂々たる三門が高く聳えている。通称鶴見が丘と呼ばれる山上は、そのまま天へと抜けるように広大で、七堂伽藍が整然と配されている。いかにも禅宗大寺院の風格を備えているが、それに威圧されるというよりも、何か心身をズドンを打ち抜かれるような感覚だ。残暑厳しい中にお参りしたが、境内は意外に緑が多く、禅宗大本山の霊気が涼やかな風を運んでくる。道元禅師によって開かれた曹洞宗は、四世螢山禅師によって広められた。道元は越前に永平寺を開き、螢山は能登總持寺を開いた。 私は二十年ほど前に能登總持寺祖院を訪ねたことがある。どんよりとした暮れの寒い昼さがりであった。日本海は冬の荒々しい波飛沫が、繰り返し岸壁に押し寄せていた。そんな日であったからか、祖院の境内は静寂であった。その時は曹洞禅にさほどの関心もなく、一回りしただけであったが、静かな山内は清清しく、いかにも北陸の寺を思わせる力強くも楚々とした佇まいが印象的であった。付近には門前町というより、寺内町といった風の町並があり、あの地域の人にとって總持寺は今も大きな存在であることがうかがえた。

開山の螢山禅師は鎌倉時代末の文永五年(1268)越前国坂井郡多禰というところに生まれた。弘安三年(1280)十三歳で永平寺二世の孤雲懐奘について得度し、三世の徹通義介について修行をつんだ。十八歳の時、大野の宝慶寺の寂円に参じ、京の万寿寺東福寺さらには紀州の興国寺で、五山派臨済禅を学んだ。やがて越前に戻り、加賀大乗寺に入りさらに禅の修行に打ち込む。一度、阿波国の城満寺に住したが、三度越前へ戻り、大乗寺二世となった。四十三歳で大乗寺を退き、加賀の浄住寺に入ったが、正和二年(1313)熱烈な支持者である能登の滋野信直夫妻に寄進された土地に永光寺を開いた。ここまで見ても流転の僧といった感があるが、曹洞禅のみではあきたらず、臨済禅も学ぶなど、この螢山という人はとても広い心の持ち主ではなかったか。ここに曹洞宗が広がり、今では日本仏教第二位の檀信徒を抱えることになる萌芽があったと思う。

では總持寺はいかにして開かれたのだろうか。かつて奥能登の櫛比庄に霊験あらたかな観音を祀る諸嶽寺という寺があった。元享元年(1321)四月十八日の晩、この寺の住職定賢は不思議な夢を見る。「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と観音菩薩に告げられた。その五日後、能登の永光寺で坐禅をしていた瑩山も同じようなお告げを聴いた。「教院を禅院にするために、一寺を与えよう」と。教院とは諸嶽寺のことで、当時は真言律宗であった。螢山はかねてよりここも禅院にしたいと念じていたという。夢の中で螢山は、諸岳寺へと誘われ、多くの僧や白山権現などの神々に迎えられる。螢山は思わず「総持の一門八字に打開す」と唱えた。しばらくして螢山は諸嶽寺を訪れ、定賢と互いに見た夢告が符合することに感動し、定賢は一山を寄進した。螢山はこれを快諾し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と、寺号を仏法(真言)が満ち保たれている総府として「總持寺」、山号は諸嶽寺にちなんで「諸嶽山」とした。これが總持寺由緒である。以来、五百九十一年もの間、永平寺と並ぶ曹洞禅の道場として能登の地にあった。厳冬期日本海から吹きすさぶ風雪に耐えて、ひたすらに修行する雲水たちの姿が偲ばれる。曹洞宗では開祖で永平寺派派祖の道元を高祖、螢山派派祖の螢山を太祖と尊称する。曹洞宗に禅の厳しくも清浄な息吹を感じるのは、永平寺總持寺も北陸という茫漠の僻地で育ってきたからに他ならないと私は思う。

この日私たちも、修行僧の一人に案内を請うた。盆正月や大きな行事がなければあらかじめお願いしておくと、毎日定時に雲水が諸堂を案内してくれる。この案内が実に丁寧で気持ちがよかった。これも修行なのだろう。巨大伽藍を一時間ほどかけて一巡するが、總持寺の由緒から、雲水たちが日一日をどのように生きているのか、ほんの僅かばかり垣間見ることができる。まずは有名な百間廊下だ。長さ百六十四メートルもあり端から端が霞んで見える。廊下は雲水たちが毎日雑巾がけするため鏡のように輝いている。早い人はここをわずか二十秒ほどで韋駄天の如く駆け抜けるらしい。これだけでも凄いが、雲水たちの雑巾がけは諸堂をつなぐ回廊を一巡するというのだから、私など聞いただけで息が切れそうであった。上山したばかりの雲水はまずこの雑巾がけだけで、満身創痍だろう。だが毎日毎日繰り返すことで少しずつ身体は慣れていき、ひと月もやれば体力も備わってきて、こなせるようになるという。何事も鍛錬次第で人間はこなせるようになるのだと思うが、やはりある程度の基礎体力や気力がないと成せぬこともある。雲水たちはだいたいが十代後半から三十代前半くらいに見える。若さが成せることもあろう。そもそも彼らは上山の日に、屋外で二時間ばかり立ち尽くしたまま、上山の許しを待つのだという。事前に上山願は届けてあるので、これは儀礼的なものだというが、夏の灼熱の下でも、しんしんと降る雪の日でも、新入りの雲水は上山許可を寺の外でひたすら待つ。ここからもう試されているのだ。ここで根をあげるようではとても修行はつとまらない。これは永平寺も同じだと聞く。越前の冬はさらに過酷で想像を絶する。私たちを案内してくれた修行僧も、今年二月に上山したとか。誰もが通る最初の行を経て半年。眉目秀麗でおそらくは二十代後半だろうと思うが、堂々落ち着き払っている。現代社会はいくつになっても浮き足立っている人が多く、何おう私などその典型であるが、ここにいる雲水たちにはそういうモノは感じない。人生は苦難の連続で、迷い道ばかりだが、そういう時にどうすれば、自分の道を見出して、歩き続けることができるのだろうか。人はしばしばこんなことを考え、試し、また転ぶ。そんな時に一番求められるものは、冷静さと待ちの姿勢ではないかと私は思う。結果はすぐには出ないことが多い。待つこともまた人生だ。その待ちの間に良い考えが浮かんだり、或いは風向きが変わる。止まぬ雨はなく、吹く風も決して一定ではない。昔から船乗りは風待ちをやった。自分にとって追い風が吹くまでは、じっと待つのだ。私は雲水たちと接して、自分は出家はせずとも彼らの振る舞いからそういうものを感じた。

百間廊下の真ん中に中雀門があり、そこからちょうど正面にこの寺の本堂である仏殿が屹立している。入母屋二重屋根の中国風の禅宗様式で、大正四年建立というが、百年もたてばさすがに古色蒼然としてきて、七堂伽藍の中心にどっしりと佇んでいる。本尊は釈迦牟尼如来。ここでは月に二度祈祷を行っているらしいが、堂内は一般には非公開で、修行僧も滅多に入ることはできない特別な場所だという。

百間廊下を突き当たると大僧堂がある。この大僧堂こそが、總持寺の禅の根本道場となる場所だ。雲水たちが起居し、食事も、朝夕の坐禅もここで行う。雲水一人の暮らしのスペースは起きて半畳寝て一畳。ここで生きるにはこれだけで十分なのだ。内部はひたすら禅の道で修行する者以外は入れぬ神聖な場所のため、私たちは敷居の外から見学させてもらった。日中は誰もいないのだが、昼でも薄暗い堂内は清浄な空気に満ち、修行僧たちの秘められた根気と禅道に打ち込む静かなる息遣いが染みついている。ここでは多い時には百五十人もの修行僧が寝起きするらしい。無論、エアコンなどなく、夏は蒸し暑く、真冬は極寒であろう。さらに夏場は蚊が多く出るそうで、蚊と線香の煙の苦しみもあると聞かされた。

雲水たちは毎朝四時の振鈴を合図に起床し、顔を洗うと朝の坐禅。それから朝課という朝の勤行が大祖堂である。この間雲水たちの食事を司る典座寮の修行僧は朝食を作る。ここでは食事を作ることも修行で、もちろん食事をいただくことも修行なのである。朝食は粥と胡麻塩と漬物のみ、雲水たちは整然と自分の畳の上に正座し、粥をすする音も、漬物を噛む音もたてずにいただく。昼と夜はそれに多少煮物などの小鉢がつくが、無論、肉魚はない。そして時々、カレーやカレーうどんがお昼に出ることもあると案内してくれた雲水は教えてくれた。それから總持寺では、雲水が檀信徒などの客あしらいから、寺務所での作業、諸堂案内まで行うため、風呂には毎日入るが、一方の永平寺は風呂は月にわずか二、三度だという。朝は寺内の掃除や寺務所での雑務、檀家の案内、諸堂拝観の案内、こういうことはすべて作務になるのだろう。その他、仏道、禅道の勉学、僧として身につけねばならぬ教養、学問、所作、戒律、禅問答、年中行事、時には托鉢まで、睡眠中以外は一日中何かしている。そしてあとはひたすら坐禅する。この時が唯一無碍の境地に入る時なのだ。道元禅師の教えのとおり只管打座、ただ坐禅する。このために日一日を無駄にしない。ここでの雲水たちの生き方、暮らしを見ると、私は何と愚かで、無駄が多い人生なのかと今さらのように痛感する。部屋一つとっても、彼らの畳一畳に比べたらどれだけ広くありがたいことか。三度、三度、好きなだけ御飯をいただけることが何と贅沢なことか。何もしないぼーっと過ごす時間を、さも思索に耽るなどど言って気取っている自分自身の誤魔化しの人生に、半ば呆れ、恥ずかしさも通り越して、嫌悪感すら抱いてしまった。それほど、雲水の生き方は堂に入り、美しく、気高く、眩しかった。

ここで私達も即席だが、参禅させてもらう。大僧堂の隣には、一般の人が坐禅できる衆寮という建物があり、大僧堂より一回り小さいが内部は同じような作りになっている。雲水の声かけにより坐禅。しばし瞑想する。目は閉じずに半開きで斜め四十五度視線を落とす。私は平等院阿弥陀さまをイメージして坐禅した。雲水は頭に何か考えが浮かんできても、後ろに置き去りにしてくださいという。次にまた別な考えが浮かんできたら、それも置き去りにする。そしてだんだんと空になってゆく。ほんの三分ほどであったが、静謐で涼やかな時が流れてゆく。残暑の日で、頬からは汗がしたたるのに、なぜか心身ともに爽やかな心地になる。雲水の静かな声かけで、合掌し坐禅は終わった。根本道場で坐禅を体験できたことは、私にとっても、同行したT君にとっても感慨深いものであった。これから、方々でまた坐禅を組みたいと思っている。それは場所や時にとらわれることなく、己が心のままに。

 諸堂拝観では他に位牌堂である放光堂や、尾張徳川家の屋敷を移築した待鳳館はこの寺の迎賓館だと聞いた。そして圧倒的量感を見せるのが、大祖堂である。私が首都高の車窓から良く眺めたのは、この大祖堂の大屋根であった。緑青の銅板瓦が折りからの夕日を受けてきらきらと光っている。千畳敷の堂内は螢山禅師をはじめ、歴代の祖師を祀り、朝課、晩課はここで行われる。ここがこの寺の芯柱のような印象を受けた。浄土真宗に次ぐ、国内信徒数二位を誇り、現代まで生き続ける曹洞宗大本山たるこの寺の位置づけをまざまざと感じさせられる場所である。

最後に案内されのが、紫雲臺(しうんたい)という大書院だ。ここは住持が宗門の僧侶や檀信徒と引見する部屋で、外観は質朴だが、内部の襖絵は花鳥や山水が鮮やか絢爛に描かれている。東郷平八郎の書も掲げられ、ここが禅寺であることをしばし忘れてしまう。中で私は印象的な人物画を拝観した。明治時代末に總持寺能登から鶴見に移した石川素堂禅師を描いた大きな軸である。紫衣を纏って、見る者を睥睨しておられるが、その眼差しは決して威圧的なものではなく、実に堂々たる慈愛に満ち溢れたお顔である。私はただただ圧倒されてしまった。まるで今、目の前に禅師が座っておられるようだ。生き仏に見える。写真で見るよりもこの絵の方が遥かに生き生きとしており、黙して禅の今を見て、対座する者にその姿のみで心に寄り添ってくれる気がした。

明治三十一年(1898)四月十三日夜、能登總持寺の本堂より出火、瞬時にして全山が紅蓮の炎に包まれた。慈雲閣、伝燈院を残し、伽藍の多くは灰燼に帰した。總持寺、檀信徒、ひいては曹洞宗全体を襲った大災厄であった。明治三十八年五月、本山貫首となられた石川素堂禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、總持寺存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、明治四十年三月に官許を得、明治四十四年(1911)に現在の地に移転を決断した。これは大英断であった。能登ではかなりの移転反対の声があったらしいが、今に曹洞宗の繁栄があるのは、都会に移って、布教に成功したからに他ならない。罹災して力強く復活するには、これで良かったのだと思う。石川禅師には先見の明が合ったのだ。 今から百年前の鶴見は、生見尾村(生麦・鶴見・寺尾)といい、眺望の素晴らしい閑静な漁村であった。その上、帝都東京と開港された横浜の中間にあり、交通の便に恵まれていた。正面は海、遠く房総半島、西南は富士と箱根を望む風光明媚なところで、現地を視察した時の記録によれば、「地味豊穣にして禾黍穣々、樹木は繁茂し、清水は湧き、遠く俗塵を隔だて、解脱悟道の霊場となすに適当なる地勢」と記されている。当時は總持寺を建立するのに相応しい景勝の良さと檀信徒の訪問にも最良の土地であったのだ。更に、鶴見移転が有力になった最大の理由は、副監院の栗山泰音師と、この地にあった成願寺の加藤海応住職が親しい関係であったからだ。能登の住民は總持寺の再建に期待を抱いていたが、明治三十九年七月十日には永平寺貫主森田悟由禅師から移転同意の承諾を得ている。鶴見の住民は移転には大変協力的であった。でも能登の住民には移転は死活問題になりかねない。六百年近くも總持寺と共存してきたのだ。生活も信仰も、地域の絆のためにも總持寺は不可欠で、あまりに大きな拠り所であったことだろう。こうした様々な困難、それこそ禅問答のような議論を経て曹洞宗大本山總持寺は、鶴見が丘に建立されることになり、成願寺が土地を献納した。現在、成願寺は山の麓に移転しているが、總持寺から色衣着用、内部寺院という待遇を受けている。また、總持寺の禅師の交代行列は成願寺から出発することになっている。元来、ここには寺があったのだ。こういう紆余曲折の歴史を調べてみて、私はようやく鶴見移転の意味がわかった。石川禅師は今でも移転を決断した總持寺中興の祖として、雲水や檀信徒に崇敬されている。石川禅師が、臨機応変な時代の流れを読む力を持っておられたのも、やはり明治という日本史上最大の変革期を生き揉まれたからに違いない。總持寺という寺は鶴見に移転する運命だったのだろう。曹洞宗にはやはりどうしても、かの永平寺と鶴見の總持寺の二つの大本山が必要なのだ。一方は曹洞禅の第一道場として、一方は宗門と曹洞禅の世界的な布教のための前線基地として、それぞれが役割をしっかりと担っている。こう考えると実に合理的でシンプルな体制だと思う。これが現代の日本仏教の一つの形と言ってよいだろう。

境内を一巡したあと、私たちは黄昏の大祖堂で今日一日を振り返った。ひと気のない堂内では、新入りの雲水に、先輩の雲水が一所懸命、なにか教えている。朝夕の勤行のためなのか、あるいは仏事の段取りなのか丁寧に指導していた。こうやって何百年も受け継いできたのだろう。千畳敷の大祖堂にこだまするのは若い坊さんの声だけで、ここが横浜であり、それも京浜工業地帯であることを忘れさせる。帰りがけに、もう一度大僧堂の前に行った。庭には小さな日時計の台座のような石のテーブルが置いてある。ここには雲水たちが、小鳥たちのために残してあるご飯を置くのだと聞いた。圧倒的大伽藍にあって、私はここに厳しさと優しさを兼ね備えた曹洞禅を見た思いがする。總持寺には観るべき仏像も、文化財も大したものはない。だが、そんな歴史的価値云々よりも、大切なものがここにはたくさんある。それは現代を生きる私たちに合った、いや必要であるはずの、現代の仏教と禅の姿であった。