弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 増上寺

私は二十数年東京に住み、私なりに大好きな江戸時代と徳川家を覗き見てきた。そんなワケで、今まで増上寺には数え切れぬほど来ている。東京にいる限りは、毎年暮れに増上寺へ参詣し、初詣は上野の寛永寺と決めている。徳川に心酔している私にとって、この二つの寺と、小石川の伝通院、音羽護国寺は、徳川家ゆかりの江戸四大寺院なので、最低でも年に一度は必ず御参りする。此度の本山巡礼にあたり、浄土宗七大本山のひとつに挙げられるこの寺を、避けては通れまい。年末年始の増上寺は混むため、比較的静かな日時を選んで、一年無事に過ごせたことを感謝する、年末恒例のお礼参りを兼ねて訪ねてみた。増上寺には徳川将軍の霊廟がある。個人的な御参り以外にも、観光に来た人にボランティアで案内したこともあるし、歴史や寺社が好きだという友人を連れて歩いたことも多い。現代の東京にこれほどの巨寺は、増上寺浅草寺以外に見当たらない。だが、浅草寺と決定的に違うところは、普段の増上寺はとても静かであることだ。初詣や節分、近頃ではライブとか薪能なんかも催されているが、そんなイベントの日以外は、実に静かなのである。浅草寺のそれはそれでいい。あれが浅草である。増上寺は浅草の賑わいには劣れど、天まで突き抜けるような広々とした境内は、いつ来ても気分が良い。

浜松町から増上寺総門である大門をくぐれば、日比谷通りの向こうに朱塗りの立派な三門が、葵の御紋の幔幕をはためかせてその雄姿を見せる。三門は正式には三解脱門という。貪り、怒り、愚かさの三つの毒から離れて、極楽浄土に入る心をつくるための門だと云われる。広重など江戸の一流絵師たちにも、挙って描かれてきた三門は、伽藍のほとんどを戦災で失った増上寺に、平成の今も江戸の残影としてここに在る。私は数年前に、この三門に登ったことがある。階上には、釈迦三尊像十六羅漢像が安置されていた。上からの眺めは、今はビルの群ればかりであるが、江戸の頃は芝浦沖から房総まで見渡されたとか。私はしばらくそこから離れられず、遠い昔に想いを馳せた。毎年正月、箱根駅伝の選手は、往復この門前を走る。この三門が今に残ってくれて本当に良かった。この門があるだけで、浄土宗大本山の名に背かない。三門をくぐると、いつも不思議な感覚になる。本堂にあたる大殿の背後に聳える東京タワーが、あたかも五重塔か、ストゥーパの如き仏塔に見えてくるからだ。京都や奈良ではお目にかかれない、東京ならではの寺の風景である。東京タワーのあたりは、もともと増上寺の墓地があったところだから、鎮魂の塔といってもいいかもしれない。タワーが建ってから五十年以上が過ぎてみれば、今では増上寺にはなくてはならぬ絵となった。

三縁山広度院増上寺は、明徳四年(1393)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により、江戸貝塚(今の紀尾井町あたり)に開かれた。徳川家康が江戸に入り、江戸城の増改築のため日比谷へ移転、さらに江戸城外曲輪が広がるに連れて、付近の寺社はさらなる移転を命じられた。神田明神は湯島へ、山王社は溜池へ、増上寺は芝へ。家康のふるさと三河岡崎にある大樹寺が、もともと徳川家の菩提寺であり、浄土宗であったゆえ、家康が江戸入府の際、割合すんなりと増上寺菩提寺に定めた。いきさつは諸説あるようで、煩いので省くが、そもそも浄土宗は、鎌倉北条政権以来、武家政権に厚く信仰されてきた。それは権門とも、他宗派とも争わぬ、闘わぬ一派であったからで、浄土宗の開祖法然上人の人柄が、そのまま宗派の教えとなり、色となったように思う。同じ浄土門で、のちに袂を分かつ浄土真宗は、一向一揆を見るように、闘う一団になっていった。同じ浄土門でも、教義や行動に違いがあるのが、いかにも日本仏教らしくておもしろい。真宗のことは、いずれ真宗寺院を訪ねた時にまた書くとして、浄土宗は争わない宗派ゆえに、徳川幕府からも庇護されて、大きくなっていったのだ。思うに古来、農耕民族として生きてきた日本人に流れる血を、もっともよく顕した宗派が浄土宗であり、浄土宗は禅宗と並ぶ、日本仏教の代名詞的存在とも言えるのではないだろうか。因みに、「増上」とは仏語で、「力が加わり増大して、強大であること」を意味する。法然が興した易行念仏の教義は、権力者から民衆まで、余すところなく広がり、今日も信仰され続けている。

いうまでもなく浄土宗総本山は、京都の知恩院であるが、徳川時代増上寺は、知恩院を凌駕するほど大きな力をつけていた。ここは、常時三千名を超える浄土宗の学僧が修学に励む、関東十八壇林の筆頭寺院であった。壇林とは僧侶の養成所、または学問所で、浄土宗においては、関東十八檀林のみが幕府より許可された檀林であった。知恩院法然聖蹟として、格式は高い寺院であったが、当時は総本山という位置付けは明確ではなく、公方様のお膝元に在る増上寺が、浄土宗の中心であったことは間違いないだろう。徳川将軍十五代で、家康と家光は日光、慶喜谷中霊園に埋葬されたが、残りの六人ずつが増上寺寛永寺に埋葬されている。増上寺寛永寺は双璧の菩提寺となるが、江戸開府以前から徳川家に付き従い、家康の葬儀も増上寺で行われたことから、増上寺としては将軍家の菩提寺は当山という自負があり、はじめのうちは寛永寺と悶着もあったらしい。だが、六代家宣を増上寺に埋葬し、以後は交互に歴代将軍を埋葬するというのが慣例となる。さらには寛永寺江戸城の鬼門を、増上寺は裏鬼門を守護するという役割も担っていた。最後まで揉めずに、現実を受け入れる姿勢を持ったところに、浄土宗らしい争わぬ寛容さが垣間見える。それが結果的に、増上寺をさらに大きくし、日本有数の大寺院へと発展させるのである。

今でも境内は一万五千坪以上あるが、往時は二十五万坪もあった。寺領は大名並の一万余石。境内には、四十八の塔頭子院、学寮百数十軒が立ち並び、寺格百万石とも称えられた。かつては伽藍を取り巻くように、徳川家の霊廟が配されていて、日光に匹敵するほどの絢爛な佇まいを魅せていたが、昭和の戦争で灰燼に帰した。当時の古写真が残っており、その壮麗さが偲ばれる。実に残念至極。今、此処にあの荘厳な霊廟があれば、きっと世界遺産であろう。私は明治三十四年に描かれた、増上寺の鳥瞰図を持っているが、今の芝公園から東京タワー、飯倉のあたりまですべて増上寺である。それを見ているだけで心が躍る。

永井荷風は幼い頃に両親とこの霊廟を訪ねて以来、ここに魅せられた一人である。明治四十三年に書かれた随筆「霊廟」では、ヴェルサイユ宮殿にも劣らないと絶賛している。荷風は、同じく徳川家の菩提寺である小石川伝通院の近くで育ち、随筆「伝通院」でも、パリにはノートルダムがあり、浅草には観音堂があり、小石川には伝通院があるという。荷風が、増上寺霊廟も、伝通院も、フランスの世界的名建築と比較しても劣らないと言ったのも、いかにも明治人として、西洋への対抗心を露にした感があるが、これはあながちハッタリとも思えない。かつてそれほどのものが、圧倒的存在感を放ちここに建っていたことは事実である。鬱蒼たる森に囲まれて、歴代将軍と徳川一族の霊廟が、燦然と点在していたのだ。増上寺は徳川家の総菩提所であった。

二代秀忠の正室お江と、十四代家茂の正室和宮。いずれも御台所として、一人は戦国を生き抜き、徳川政権初期を支え、一人は幕末動乱を生き、江戸無血開城と徳川家存続に多大なる働きをした。この二人の波乱に満ちた生涯は、実にドラマティックで、いつか私も描いてみたい人物である。二人とも今は、一箇所に肩を寄せ合うように並べられた徳川家霊廟で、最愛の夫の横で安らかに眠っている。大殿に隣接する安国殿には、家康の念持仏として有名な黒本尊が安置されている。黒本尊は長い間、香に燻されて黒いお姿となった阿弥陀如来立像で、和宮は家茂が上洛の折、この黒本尊を大奥へ勧請し、毎日御百度を踏み、熱心に夫の無事を祈願されたと云われる。明治以前、男たちの荒らした後の始末は、女たちが担うのが、この国の伝統であった。昔の人は、男も女もそれを重々わかっていたから、あえて男尊女卑な振る舞いを許し、名目上は男を立てて誤魔化したのかもしれない。そのあたりが、今、声高に叫ばれる男女同権よりも、はるかに格好良く、日本人には合っていると私は思う。本当にここぞという時に、力を発揮するのに男女の別などありはしない。ひけらかす今の風潮に、先人たちは何を思うであろうか。

巨大な増上寺の伽藍にあって、圓光大師堂は、最近の増上寺で、私が一番のお気に入りの場所である。いつも閑散としていて、静かなのが何よりで、大殿のいかめしい甍を眺めながら、ぼんやりと佇むのは心地よいものだ。景光殿に寄り添うように、和宮ゆかりの貞恭庵という茶室があり、このあたりにさらに落ち着いた風情を添えている。

増上寺周辺には、江戸時代からの見所も多い。今ではずいぶん数が少なくなったものの、戦前までは多くの子院塔頭がひしめいていて、寺町を形成していた。秀忠廟の手前には今も残る芝東照宮がある。今はこじんまりと佇む芝東照宮だが、神君家康公を祀る東照宮は、昔はかなり大きく、家康の院号から東照宮安国院殿とも呼ばれていた。

大門の近くには、芝神明宮がある。関東のお伊勢様と呼ばれ、幕府大名から江戸庶民に崇敬された。このあたりには昔、岡場所や陰間茶屋などの売春宿から、芝居小屋まであり、東海道往来の旅人や、おかげ参りをする人々で大いに賑わった。芝居や講談で有名な「め組の喧嘩」の舞台はここである。

北に少し、江戸城の方に行けば愛宕山がある。山頂には、家康が京都の愛宕山より勧請した愛宕神社が鎮座している。私はここが大好きだ。江戸の名残を随所に感じることができる。漂う空気が江戸なのである。愛宕山は東京23区で最も高い山で、出世の石段と呼ばれる階段は、相当に急な傾斜である。この日もちょっと寄ってみたが、身延山久遠寺の菩提梯には及ばぬものの、久しぶりにそれを思い出しながら登ってみた。愛宕山は江戸時代、八百八町をみはるかす風光明媚な名所中の名所であった。浮世絵や錦絵にも多く描かれている。また、幕末の桜田事変の当日、決行の浪士たちは、品川宿の旅籠を三々五々に出て、愛宕山頂に集い、降り頻る雪の中、桜田門へ向かった。境内にその記念碑があるが、愛宕神社の裏手には、その時の烈士たちの血の気を含んだ、怨念のようなものを感じる薄気味悪い一角が確かに今も存在する。

愛宕山から増上寺へ歩いていく途中に、曹洞宗の古刹青松寺がある。青松寺はもともと増上寺と同じく貝塚の地にあったが、江戸城拡張により移転、おそらくは増上寺とともに移転したのだろう。あの駒澤大学の前身となった寺であり、今でも東京を代表する曹洞禅の寺である。江戸時代には、高輪泉岳寺駒込吉祥寺と並び江戸曹洞宗の三大道場であった。寺伝によれば、寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。明治八年(1875)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校し、翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併して、今日の駒澤大学へとなったとある。増上寺にしろ、青松寺にしろ芝愛宕の地は、江戸時代の総合大学であり文教地区でもあった。

増上寺の近くで、もうひとつ私好みの江戸へ行ける場所がある。神谷町駅から程近いところにある西久保八幡神社である。ここも大いに江戸の残り香漂う所で、やはり急な石段の上に、ぽっかりと広がる境内はいつ来ても静かである。江戸名所図会にも描かれており、当時は茶店が立ち並び賑わっていた。この神社は池波正太郎の作品にも登場する。芝神明も西久保八幡も寛弘年間(1004~1012)の創建と云われるから、増上寺より遥かに古い社である。増上寺の表を芝神明が、裏手を西久保八幡が守るように鎮座しているのも興味深い。

最後に永井荷風の随筆「霊廟」から、増上寺と現代の江戸東京を語るにもっとも印象的、かつ相応しいと感じた文章を、少し長いが原文のまま引用したいと思う。

「己に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山の大伽藍を灰燼となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くて美しいものは見る見る滅びて行き新しくて好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接しえるのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在なるの道を照す燈火である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処に頼るべき途があろう。」

かつて私は、この一文を読んで、とてつもない感銘を受けた。そして、ただ好きな歴史、日本史を漫然と趣味としてやるのではなく、これから先を生きる未来の日本人から、私の生きた時代が「恥ずべき時代」と罵られないためにも、しっかりと歴史と先人達を見て、学び、確かめながら、守るべきものは護り、受け入れるべきものは寛容に、上手に受け入れながら、次世代へとつないでいかねばならぬと心に誓った。私の出来る事といえば、文章を書くことくらいであるが、百年後、千年後の人々から、二十一世紀とはどういう時代であったのかを、今、同時代を生きる人々と共に、誇らしく知らしめてやりたい。それが私の一番の野望であり、願いである。この日本仏教本山巡礼も、そうしたモニュメントのひとつとなれば幸甚の至り。増上寺という寺が、年始のカウントダウンのイベントをはじめ、現代東京の市井の人々に寄り添い、また浄土宗信者の崇敬を集めながらも、今も高尚な威厳を維持している意味がよくわかった。増上寺は、浄土宗大本山として、徳川家の寺として、東京の寺院の王者としての風格を纏い、二十一世紀も大東京の真ん中に君臨する。

箱根駅伝賛歌

毎年、年明け一番のお楽しみは、箱根駅伝である。百年近い歴史を刻んできた、この日本一有名な駅伝競走は、毎年いくつものドラマティックな展開があり、約六時間の長丁場、片時も目を離せない。私は普段からあまりテレビを見ないが、箱根駅伝だけは、往復全てライブ観戦する。こんなにテレビの前に釘付けになる十二時間は、これからもないだろう。箱根駅伝は、正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」という。そもそもこの駅伝競走は、関東学連の加盟校のみ参戦する、地方大会のひとつであるが、テレビで全国放送されるようになった三十年前から、人気沸騰しはじめたらしい。今や駅伝の代名詞ともなり、新春の風物詩となっている。近年は、箱根駅伝燃え尽き症候群などど言われたりして、その開催自体に賛否両論あり、不要論まであるというが、私としては、この偉大な大会を今後もつないでいってほしいと思う。若人が純粋で逞しく、満身創痍となりながらも、死に物狂いで先輩から後輩へ、後輩から先輩へと襷をつなぐ姿は美しい。私は見るたびごとに感動する。監督は、走者の背後から的確に指示を出し、叱咤激励しながら導く。師と弟子とは何たるかを、体現して見せてくれている。そこには甲子園と並ぶ、本物のスポーツマンシップがある。

出雲駅伝全日本大学駅伝箱根駅伝の三レースは、「大学三大駅伝」と呼ばれる。そして、同じ年度の全大会に優勝すると、「三冠」と称される。徐々に距離が長くなってゆくところは、競馬のクラシック三冠競走(皐月賞日本ダービー菊花賞)のようで、競馬も楽しむ私などには、そういうところも興味深い。三冠のコースも良い。出雲、伊勢、東海道と、歴史浪漫溢れる風景を、颯爽と走り抜けるのだから、それだけでも見ていて気持ちが良いものだ。これまで、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の三校が三冠を達成しているが、先に述べたように、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は、三冠を達成することはない。また大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝完全優勝しての三冠を達成した大学は一校もない。三冠が、いかに高き高き壁であるのかが知れよう。今年、往路三連覇の青山学院が、復路も制して総合優勝を果たせば、史上初の三冠完全制覇ということになる。優勝だけではない、熾烈なシード権争いも見もので、最後まで目が離せない。

大学三冠の中で、他の二冠は全国大会なのに、箱根駅伝がもっとも人気があるのは、やはり往路、復路を二日かけて走るからであろう。そして、二日間十区には、様々な展開、ドラマがある。それはいかにも日本人が好む、大河ドラマなのである。箱根駅伝はそのコース、そして全十区の距離配分が絶妙だと思う。時々コースや区間の距離変更があるものの、概ねは変わりない。いつも大会終了後に様々な問題点を炙り出して、常に学生選手のことを考えて、計画、運営されている。だから、これからも箱根駅伝は進化し続けることだろう。こういうところにも、私は賛辞を送りたい。各校のエースが投入される二区は「花の二区」と呼ばれるが、私としては何といっても、最大の見所は、文字通りの山場たる五区である。これぞまさしく箱根駅伝といえる、全区間最大の難所で、今年から再び距離短縮されたとはいえ、小田原中継所から国道一号最高地点まで、標高差864メートルを一気に駆け上がり、そこから芦ノ湖までの約4キロは少しずつ下りとなるのだから想像を絶する。天下の険を、あのスピードで走るなど、人間やろうと思えば何でもできるものだと、痛感させられる。これまで、数々の名勝負が繰り広げられてきたのも、山登りの五区であり、ここで一気に形勢逆転することもよくある。五区では、これまで三人の「山の神」と称号されるランナーも現れた。世の中、何でも神という風潮になって久しいが、近頃は何でもかんでも「神」呼ばわりしすぎではないか。本当に「神の無駄使い」だと思う。いくら八百万の神々のおわす日本の国とは云え、乱発しすぎである。山川草木や動物たちには神は宿るが、地球上でもっとも汚らわしい人間には、そんなに簡単に神様は降りて来ないと思うのは、私だけであろうか。人間は一番穢れているからだ。人間には、神よりも鬼や夜叉が相応しい。でも、箱根路には間違いなく、数年に一度「山の神」が現れる。天下の険を、直向きに、無邪気に走る者に、神は降臨するのである。私にとっては五区こそが、箱根の花である。

いよいよ、今日は復路だ。往路優勝青山学院と、二位の早稲田大学の差はわずかに33秒。青学セーフティリードの昨年とは、大きく違う展開になるであろうし、とても見応えのある、手に汗握る復路になることは間違いあるまい。追われる青学か、追う早稲田か。はたまた、第三の大学の漁夫の利が見られるのか。今の時点ではまったく予想がつかぬが、私個人としては、やはりどうしたって、青山学院の三連覇と、史上初の三冠完全優勝達成をこの目で見たい。こんな機会はそうそうないのだから、是非とも見てみたい。神は山だけでなく、駆け抜ける選手全員に降臨することを、心から祈念している。箱根駅伝万歳。

泰然自若

私の座右の銘。長年探してきたが、この歳になり、この度ようやく感得した。泰然自若。この言葉が、私には最もしっくり来る。そこにはいつもこう在りたいと、切なる願いも込められている。

世の中まことに忙しない。私もいつも忙しない。仕事、家族、人間関係、些細な事で、バタバタと取り乱してしまう。私は、慌てふためき、取り乱すことほど、恥辱的なことはないと常々思って生きてきた。冷静沈着に物事を見つめ、相対的に見定め、少し下がって俯瞰する。それを嫌味もなく、ごく自然に振る舞えたら。それが、私が目指している理想の生き方なのである。それでも未だ若輩者。取り乱すことの方がまだまだ多い。僅かずつでもいいから、歳を重ねるごとに堂に入りたいものである。

 今年の有馬記念は、三歳馬サトノダイヤモンドが、名うての古馬陣を撃破した。彼は、泰然自若を体現するサラブレッドである。パドックでも、本馬場入場しても入れ込まず、実に堂々たる勇姿で、早くも老練いぶし銀な風格を備えている。私はもう二十年以上、競馬を観てきたが、あんなサラブレッドは久しぶりに出逢った。強い馬、名馬はたくさんいるが、馬体全身から、あの種のオーラを放つ馬はそうはいない。競馬を楽しむ人ならわかるはずだ。サトノダイヤモンドの父ディープインパクトは、確かに強い馬であったが、どこか子供みたいな、うぶで親しみを持てる、可愛い馬であったように思う。だが、ラストランの有馬記念では、鬼の形相で圧勝していた。あの時ばかりは、いつものディープインパクトではなかった、極限の仕上げを施されたゆえだけではないだろう。神が宿るとは、ああいう顔をいうのだと、私は思っている。だが、そのディープインパクトには感じなかった、他を圧する独特の雰囲気を、言うなれば真の王者の貫禄を身に纏っているのが、その子サトノダイヤモンドである。かつては、エアグルーヴエルコンドルパサータイキシャトルシンボリクリスエスキズナが、私にとっては泰然自若を体現する、忘れ得ぬ名馬であった。現役時代は見ていないが、おそらく三冠馬シンザンシンボリルドルフも、古い映像や写真からは、サトノダイヤモンドと同じオーラを感じる。サトノダイヤモンドの調教師や、騎手に言わせれば、彼の馬体は、まだまだ緩く、幼くて、完成するのは来年の秋だというから空恐ろしい。完成すれば、もっと爆発力を発揮できるという。古馬の大将キタサンブラックも、サトノダイヤモンドに負けず劣らず素晴らしい馬で、今年最後の大一番でデッドヒートを繰り広げた二頭は、いずれも神の領域に達する駿馬であろう。二頭とも決して派手な勝ち方はしないが、私にはそんなことはどうでもいい。シンザンや、シンボリルドルフがそうであったように、ゴール板で少し抜け出せばいいのだ。いわゆる剃刀の切れ味ではなく、鉈の切れ味である。勝ち方よりも、本当に強い馬の泰然自若とした、あの雰囲気に私は酔いしれ、競馬に心惹かれるようになった。何年かに一頭しか現れない優駿。まだ三歳のサトノダイヤモンドに、来年も期待したいし、見つめていたい。

 人間でも泰然自若を地でゆく人はいる。本物の王侯貴族、宗教家、茶人、噺家能楽師、指揮者、演奏家、画家、歌手、アスリート、俳優、そして競馬の騎手にも、そうしたオーラを放つ人がいる。忘れてはならぬのが、京都人。生粋の京都人は、世界で一番泰然自若としていると、私は信じている。いや、京都人どころか、京都という街、それは平安京全体から、そこはかとなく感じることができるのだ。私も、いつの日にか不動の心を持てる人間になれたらと、願わずにはいられない。茶の湯の稽古を始めたのも、泰然自若とした己を修得せんがためで、坐禅もまた然りである。

平成二十八年が終わる。皆様はどんな一年でしたか。私は本厄が終わり、いよいよ後厄。まさしく泰然自若として、乗り切っていきたいと思っている。良いお年を。

日本仏教見聞録  中山法華経寺

身延山へお詣りして、日蓮聖人と日蓮宗に関心を抱いた私とT君は、千葉県市川市にある中山法華経寺へ向かった。京成線の中山駅で降りるとすぐに表参道に入る。静かな門前町を抜けると「正中山」と山号を掲げる立派な山門が現れる。山門の左脇には、例によって南無妙法蓮華経と刻まれた大きな石碑、右脇には日蓮聖人の大きな立像。いくつもの塔頭を持つ法華経寺は家並の中に忽然とある。でも家はあとから出来たわけで、寺は鎌倉時代からここにある。日蓮聖人の生国は安房小湊。ゆえに上総国下総国には、日蓮宗の寺院が多い。漁師の家に生まれた日蓮は、早くから仏教に関心を持ち、近在の清澄寺にて仏門に入る。清澄寺はもとは天台宗の寺であったが、後に日蓮宗に改宗している。清澄寺で天台仏教を学び、やがて成長した日蓮は、鎌倉で念仏や禅を学び、二十一歳で憧れの比叡山へ登る。この頃はとくに伝教大師に惹かれており、最澄の説く法華経信仰に傾倒していった。巷では法然親鸞道元らが、叡山を下りて開いた仏教が、興隆し始めていた頃である。それでも日蓮は、天台教学が正しいと信じていた。この頃から最澄へ帰れ、さらには釈迦へ帰れと唱える。そして叡山もまた、密教浄土教を取り入れるようになると、最澄の教えこそ正法であり、法華経を一番に据えない他の宗派の教えは、仏教の堕落と考えるようになる。ついには叡山を下りて、関東に帰国。その後は、この考えを一国も早く日本中に広めようと決意して、鎌倉幕府へ何度も嘆願するが、幕府中枢の連中のほとんどは、禅宗か浄土宗系を信心しており、容易にその言葉に耳を貸す者はいやしなかった。それから身延山に入山するまで、ほとんど受難続きである。

中山法華経寺は、もとはこのあたりを領した千葉氏の家人で、この地に館を持っていた大田乗明と富木常忍の土地であった。二人は日蓮に帰依し、布教活動で迫害受難続きの日蓮をこの地で匿った。そして文応元年(1260)に寺とした。日蓮が最初に開いた寺が、この法華経寺であるとも云われるが、この地は日蓮がもっともエネルギー漲っていた当時、闘いの羽を休める安息の地であったのだろう。文応元年といえば、日蓮が、鎌倉最高実力者である前執権北条時頼に、立正安国論を高らかに打ち上げたその年である。一説では、鎌倉を逃れていた日蓮は、この地で立正安国論を構想し、したためたと云われる。実際この寺には、日蓮聖人自らの写しと云われる国宝「立正安国論」が蔵されている。その筆致は実に力強く、自信に充ち満ちている。日蓮立正安国論で、真の法華経信仰が失われたゆえに、天変地異が起こり、飢饉や疫病が蔓延するのだという。また元寇という迫り来る国家的脅威から、敷島を救う唯一の手立ては、ただひたすらに法華経のみを信ずることしかないと説く。そして、念仏禅は誤りだと一貫して主張し、伊豆や佐渡に流されるのである。それでも彼は挫けなかった。この受難こそが、己に課せらせた使命であると感得していた。日蓮は、建長寺蘭渓道隆禅師に宛てて、「四箇格言(しかかくげん)」という手紙を送る。これには「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」としたためてある。つまりは「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗国賊の妄説」と言い切るのである。入滅するまで、その信念を日蓮は堂々と語り続けるのであった。この寺はその名も法華経寺。生国の安房と鎌倉と身延山を結ぶ、扇の要にあたる。この地で、彼の法華経への信念は熟し、後々までの原動力ともいえる立正安国論を起草し、起動した記念すべき場所であった。

この寺は戦後すぐの昭和二十一年(1946)に、一部の末寺とともに日蓮宗を離脱し、中山妙宗を立ち上げ本山となっていたが、昭和四十七年(1972)に日蓮宗に復帰した。どういう経緯でそのようなことになっていたのか、私は詳しいことは知らないが、今では日蓮聖人の聖蹟寺院として、大本山となっており、日蓮信徒たちの崇敬を集めている。日蓮宗には多くの分派があり、少し強引な言い方をすれば、まるで細胞分裂をくり返すように、その数を増やしていった。明治維新後に開かれた、仏教系の新興宗教は、なんと九割以上が日蓮宗系だという。信仰や教義は、如何ともし難いところもあるが、ここに日蓮聖人の願いは大きく華開いたといえよう。いずれそう遠くない日に、日本仏教の信徒数第一位は、日蓮宗に変わる日が来るのかもしれない。

 日蓮宗の寺院はどこも桜の名所が多い。法華経寺も、参道から境内に桜がたくさん植えられている。盛りの頃はさぞかしと偲ばれるが、なかなか秋の紅葉も美しかった。何よりこの季節は、桜の頃よりもずっと静かで、人影もまばらである。境内は思いの外広々としており、池もあり、林もあり、大仏もありと、まるで鎌倉あたりを歩いているような錯覚を受ける。目と鼻の間に中山競馬場があるとは思えない。やはりこの本山巡礼をしなくては、訪ねる機会はなかったかもしれない。 堂宇の建築もなかなか良い。低い檜皮葺きの祖師堂は、猫の耳を思わせる二つの屋根を持ち、関東には珍しいものだろう。ただ、関西のような優美さや、北国のような鋭さは無く、少し重苦しい印象ではある。そんなところに坂東武士の骨太で剛健な気質が垣間見える。日蓮宗寺院の五重塔は、決まって朱塗りで、ここにも徳川初期建立の立派な塔が秋空に映えていた。私がことに気に入ったのは、祖師堂裏手の丘に建つ法華堂である。室町時代の端整な建築で、唐招提寺を思わせる柱が美しい。全体に堂々とした伽藍の中で、ここは簡素ながら、落ち着いた佇まいを見せている。そこからまた、右手に少し昇ったところには、林の中に巨大なストゥーパのような聖教殿が建っている。ここには立正安国論や、観心本尊抄などの寺宝が納められている。普段はここまで登ってくる人は稀のようで、静寂そのものであったが、紺碧の空に屹立する白亜の塔は、身震いするほどの量感で圧し掛かってくる。この塔は築地本願寺などを手がけた、昭和初期を代表する建築家伊東忠太による設計だとか。ここでは、身延山の西谷の日蓮聖人の墓前で感じたのと、似たような感覚を私は覚えた。塔そのものというよりも、日蓮の鬼気迫る想いが、ここに集積されているような気がしてならない。

法華経寺といえば、荒行が行われる寺として知られる。世界三大荒行の一つとも云われるそれは、毎年霜月から如月にかけて、行者たちは三月半の間、荒行堂に籠り、毎日七度の水行をする。寒中のこととて、これまで満行できずに亡くなった方もいると聞く。ここでの行は、日蓮宗では最も厳しいもので、修験道や回峰行にも匹敵すると言えよう。いわば日蓮聖人の受難を追体験しながら、我々のような凡夫衆生の罪や穢れを払うために、行者たち自らが厳しい禊を行うことで、人々の平和な暮らしを祈祷するのだという。荒行堂には注連縄で結界が張られており、何人たりとも中には入れぬ。私たちが行った時は、今年の荒行が始まってからちょうど二週間ほどたった頃。外の美しい紅葉をよそに、行者たちは、日夜修行三昧の日々を送っているのだ。水行、法華経の写経、読経三昧で喉を涸らす。食事は朝夕二度で、白粥と梅干だという。荒行堂の外には、行者たちの一日を記した立て札があり、以下のとおりに書いてあった。

二時五十分 振鈴(起床)
三時 水行
四時 朝課
五時三十分 粥座(朝食)
六時 水行
九時 水行
正午 水行
三時 水行
五時半 薬座(夕食)
六時 水行
七時 夕課
十一時 水行
十一時半 開床(就寝)

補、上記以外の時間は、法華経読誦三昧行とする

結界の向こうからは、行者たちの大きな声が、引っ切り無しに聴こえてくる。穏やかな秋晴れの空に、呻き声のように響くその声を聴いていると、何とも苦しく、切ない気持ちになってくる。彼らは今、己のため、そして私達の穢れまで、自らが行することで、一切を払いのけてくれようとしているのだ。そう思うとありがたい。皆、無事に満行していただきたいと願わずにはいられなかった。並の人間には到底できぬことである。もしかすると彼らは、選ばれし法華経信者の権化で、現在から未来への法華経の真の伝道者なのかもしれない。あるいはまた、日蓮のいう久遠実成の教えの代弁者なのではないか。久遠実成とは、仏教開祖の釈迦は、歴史的存在を超えて、永遠の昔から存在する釈迦であるという。華厳経の毘廬遮那仏、真言密教大日如来と同じような存在といえばよいだろうか。日蓮が、法華経のみを信じ続けて、最終到達した境地こそが、久遠実成ではなかったか。私のような素人には、これ以上入り込む余地はないが、日蓮はその生涯で、法華経と釈迦への回帰のみをひたすらに説き続けた。荒行堂内には、どういうわけか鬼子母神が祀られている。苦行に耐え忍ぶ行者達の、守り本尊なのであろうか。そして壁一面に、歴代の満行した行者たちの写真が飾られていた。古いものでは大正初期のものから、昨年の写真まである。よく見れば、昔はかなり多くの行者がいたことがわかる。百人以上もいたこともあったようだが、だんだんとこの荒行に参籠する人も減り続けているとかで、最近の写真には十人にも満たない年もあるようだった。今、こうしている間も、法華経寺では荒行が行われている。果たして今年は何人が参籠しているのだろうか。東京からすぐのこの地で、こういうことが今も脈々と続いていることに、私は深い感動を覚えた。

この寺にはなんと奥の院まであった。いったん境内を出て、ゆるやかな坂を登りながら家並を抜けると、こんもりと樹木の生い茂る中に、ひっそりと奥の院は佇んでいる。元はここに、富木某の館があった場所とかで、日蓮が始めて説法をしたのも、この場所だとされる。中山法華経寺の原点ともいえる場所である。狭い境内には水子供養のお地蔵様がたくさんいらっしゃる。あとは本堂と、常修堂という法隆寺夢殿を思わせるお堂があるきりの、ささやかな奥の院である。本堂の中では、法華経の読経が聞こえてきて、祈祷が行われていたが、その入り口付近では、信徒の方たちが机の上に、お弁当をひろげて談笑していた。ここには、荒行の行われる日蓮宗大本山の厳粛さは何処にもない。まるで公民館のような雰囲気で、いかにも地域や信徒のために開かれた寺だと感心した。このように人々が集い語らい、寛いだ安らぎの空間を提供する場所こそが、日本の寺の本来の姿なのではないかと私は思う。奈良や京都の、鎮護国家のための巨寺大寺は別としても、各地の檀家や信徒の集うお寺は、こういう形で次世代へもつながっていくのだろうと、私は信じている。

暮れゆく平成二十八年。日本人は季節ごとの風物詩を大切にする。各地の祭や伝承、クリスマスなどのイベントごとまで実に様々で、それらを毎日ニュースでも報じている。中でも、年末の風物詩は盛沢山である。京都南座のまねき上げに始まり、流行語大賞、煤払い、冬至から正月へかけての歳時記、清水寺今年の漢字浅草寺の羽子板市、東寺の終い弘法、方々で行われる歳の市など、新旧綯い交ぜに挙げればキリがない。ところで私の暮れの風物詩といえば、競馬のグランプリ有馬記念である。長年競馬を楽しんできた私にとっては、有馬記念こそが年末最大の風物詩。今では馬券購入は専らネットで、競馬場へ足を運ばなくなった。しかし、かつては毎週のように、競馬場や場外馬券場へ通ったものだ。もちろん中山競馬場にもよく通った。有馬記念の時は辟易の大混雑だが、競馬ファンにとって有馬記念は忘年会なのである。まもなく今年も有馬記念が、中山競馬場で開催される。そんな俗人の中の俗塵のすぐ傍に、中山法華経寺はあった。大変不謹慎かもしれないが、日蓮聖人は最後まで俗の人であったわけで、この地に競馬場があることも、おそらく憂いてなどいないのではないかと、勝手に思ったりしている。梅原猛先生は、日蓮をこう評する。「日蓮には冷たい深い思弁も、柔らかい思いやりの心もあるのである。もし、日蓮のような祖師がいなかったら、日本仏教ははなはだ抹香臭い陰気なものになっているに違いない。」中山法華経寺を訪ねてみて、私も梅原先生にまったく同感だとつくづく思った。

 

 

 

 

元禄レクイエム

私が歴史に興味を持つことになったきっかけのひとつが、元禄赤穂事件である。浅野内匠頭が、吉良上野介にどのような遺恨があって刃傷に及んだのか、真相は闇の中であるが、この事件は三百十四年を経た今日でも様々な説が飛び交い、日本人の心を捉えて離さない。私は物心ついた時分から、時代劇を見るのが好きだった。祖父が歴史や時代劇が好きだった影響もある。もちろん忠臣蔵も、映画、テレビ、芝居などで何度も見てきた。私は昔から忠臣蔵のヒーローたる大石内蔵助や、悲劇の貴公子とされる浅野の殿様よりも、ヒール役の吉良の殿様へ関心があった。炭小屋から引っ張り出された無抵抗な老人を、武装した四十七人の浪士が襲撃する。弱い者虐めのような恐ろしい光景に、私は吉良上野介を憐れんだ。実際にはあのようなシーンはなく、台所の隅に隠れていたところを見つかって、あっけなく槍で突かれて亡くなったらしい。それにしても、夜寒の中、息を殺して隠れていた吉良上野介はどんなにか怖ろしかったであろうか。やはり吉良の殿様に同情せずにはいられない。どうしてここまで私は吉良上野介に執心するのかというと、江戸幕府の組織や職制に興味を持つきっかけを与えてくれた人だからである。私が時代劇を好きになり、江戸の時代考証を勉強するきっかけとなったのは、忠臣蔵なのである。テレビや映画の忠臣蔵を見て、高家とか側用人という役職を知った。さらには幕藩体制とはどういうものであったか、五代将軍綱吉の時代がどういう時代であったのか、徳川幕府が開府から幕末まで、二百六十年どのような行程を歩んだのかに、関心が深まるきっかけとなったのが、何おうこの元禄赤穂事件なのである。

ここで私なりに赤穂事件を捜査してみよう。これは極めて私見であるからして、大いに吉良上野介義央への同情がある上での見解であることをお断りしておく。単刀直入だが、事の発端となった松の大廊下の刃傷事件、あれはどう考えても浅野の殿様が悪い。一方的に斬りつけたことよりも、問題はその場所である。ここは天下人のおわす殿中表御殿。しかも松の大廊下はただの廊下ではない。江戸城本丸御殿で、もっとも広大で格式の高い大広間から、白書院を結ぶ長大な廊下である。また単に通路として使われていたわけではなく、白書院で将軍に謁見する際や、大名総登城の折、諸侯の控える場としての役割も担っていた。また襖の向こうは、御三家や加賀前田家の控えの間が並んでいる格の高い場所であった。余談だが、映画やテレビでは、廊下の片方は開け放たれているが、実際には引き戸や障子が嵌め込まれており、昼間でも薄暗いところであった。また襖絵も、映画やテレビでは巨大な松が描かれることが多いが、実際には海辺に小ぶりの松ノ木が点在し、雲間には千鳥が飛び交うという優美な絵であった。江戸城本丸御殿は何度か焼失しているが、松の大廊下の襖絵は再建の度に同じような雰囲気の絵が描かれている。そのような場所で、事もあろうに浅野の殿様は刃傷沙汰を起こしたのである。薄暗い大廊下で。忍び寄る不気味な通り魔の如く。しかも御城ではこの日、将軍が勅使を迎えて年賀の答礼を受けるという、徳川政権にとって、年中で最も重大なる典礼の日であった。浅野内匠頭の乱心でそのすべてが台無しとなり、幕府の面子は丸つぶれ、犬公方は激怒した。

きっと吉良の殿様は、あっけにとられたに違いない。そして事の沙汰は、上意によりすぐに決した。浅野は即日切腹、吉良はお咎めなし。当たり前である。どのような恨みつらみがあったかは闇の中だが、浅野の殿様は卑しくも一国一城の主である。どんなことがあっても、ここは我慢をせねばならぬところ。仕える家臣や領民のことは何も考えずに、自分のことばかりの印象は否めない。もともと吉良の殿様は、浅野の殿様を評価していたとも云われる。内匠頭はこれより十八年前にも勅使饗応役を務めており、この時も指南役は吉良上野介であった。首尾うまくやり遂げたことに双方安堵し、未だ紅顔の少年であった内匠頭に対して、上野介は息子のように目をかけたともいわれる。さらにその一年ほど前には、朝鮮通信使の饗応役も勤めており、内匠頭はいわばこうした役目はまったくの無知ではなかったはずである。そこに上野介は期待もしていたであろうし、実直な浅野に任せておこうという気持ちも、多少なりともあったと思う。

内匠頭自身、赤穂では塩田開発を奨励し、質実剛健で真面目な殿様として家臣領民から名君の誉れ高かった。だが、病弱で癇癪持ちであったとも言われる。早くに父を亡くし、わずか九歳で家督をついだ浅野内匠頭長矩は、おそらくいつも心細く、プレッシャーに押しつぶされそうなつらい少年時代を過ごしたであろう。大名の継嗣問題でよくあることだが、若年の藩主は毒を盛られたり、命の危険にさらされたことも、一度や二度はあったのではないか。そして次第に疑心暗鬼となり、心身疲弊して、時に癇癪を起すようになったのかもしれない。またそれが己が敵を遠ざける、唯一の武装だったのではなかったか。それは歳を重ねるごとにひどくなり、鬱病になっていたのだと推察する。そして再びこの大役が廻ってきた。頭の中は真っ白で、かつての経験は何も活かされず、それが上野介を失望させ、また苛立たせたのであろう。

そういえば内匠頭の叔父にあたる内藤忠勝が、延宝八年(1680)増上寺で刃傷沙汰を起しており、血は争えないとの噂もあるが、私は血筋というよりも、何か因縁めいたものを感じずにはいられない。内藤忠勝は志摩鳥羽藩の第三代藩主で、浅野内匠頭の母は姉である。その日、増上寺では四代将軍家綱の法要が行われており、忠勝は参詣口門の警備を命ぜられていた。常日頃忠勝と折り合いの悪かった、丹後宮津藩の第二代藩主の永井尚長という大名は、出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため、忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書を忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長が無視したため、忠勝は脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを、刺し殺した。忠勝は切腹、御家断絶となった。これには諸説あり、逆に尚長が斬りかかったが、忠勝に返り討ちにされたとも云われる。いずれこの時十三歳であった長矩少年は、大きなショックを受けたに違いない。そして自分はぜったいに叔父と同じ轍は踏むまいと決意したであろう。そのことがさらに彼を追い詰めていき、繊細で神経質な人間を形成したと私は思う。歴史とは時に無情で皮肉なことをやる。思えば徳川綱吉浅野内匠頭には、性格的に共通するところもあるように思う。思慮深く心優しい面を持ち合わせ、いかにも名君ともいえる一方で、物事を対極的に、あるいは主体的に見るというトップに立つ者としてもっとも問われる資質が、この二人には著しく欠乏していた。突発的な出来事に耐えられず、短慮な判断をしてしまう。これも元禄赤穂事件の背景にはあったと思う。

芝居や映画のように、確かにある意味、上野介による虐めともとれる出来事がなかったとはいえぬ。いつも申しているが、火の無い所に煙は立たぬものだ。しかし、仮名手本が生まれた時に、大胆に脚色されたことも間違いなかろう。吉良上野介高家肝煎として京都へ上り、徳川幕府の代表として将軍に代わり、天皇や公家へ年賀の挨拶をしていた。その緊張から解きほぐれ、ようやく春の江戸へと帰ってきたら、すぐに勅使院使の答礼の下向があり、これを取り仕切らなければならない。年末から春先まで、高家は繁忙極まりなかった。普段から有職故実を学び、武家と公家の伝承や儀式に精通、さらには茶の湯、和歌といった文化芸術にも高い見識と術を兼ね備えていた。高家は大名より家格は低いが、宮中や殿中での席次は、外様の小大名より遥かに上で、まぁ多少は鼻につくそぶりも見せたことはあるだろう。武家の中にはそれを好ましく思わぬ輩も、関ヶ原から百年余りのこの頃まではまだいたのである。浅野、吉良双方がどこかでほんの少しだけ譲れぬことがあったのだ。そしてその瞬間まで両者ともに、よもやここまでの大事件になるとは想像もしていなかったはずである。魔が差すとはまさしくこのことだと思う。

殿中で乱心した浅野内匠頭に斬りつけられ、その二年半後、武装したテロリスト集団に襲撃されて命を落とした吉良上野介。人と人との関係とはほんの少しの歪み、軋みでこういうことになる。吉良の殿様は亡くなる寸前まで「なぜ、私が殺されなければならぬのか。」と憤っていたに違いない。元禄赤穂事件の張本人たる二人をクローズアップしてみると、私は両者ともに気の毒であったと思う。ひいてはこの事件に関わり、巻き込まれていった人たち、内匠頭の妻である亜久利、弟の大学、大石内蔵助以下四十七士、その家族、最後まで討ち入りに参加するはずだったが、故あって参加できず埋もれていった志士、ある日突然解雇され浪人となった赤穂藩士やその家人たち、上野介の孫で上杉家より養子となっていた当代の吉良義周(討ち入りで深手を負うも助かったが、その後改易となり、信州諏訪藩にお預け。病に伏しがちとなりわずか二十一歳で逝去)、吉良家家臣団、皆一様に気の毒でならない。多くの人々の人生が波乱破滅となった。封建制の黒い部分といえばそれまで。だが、私は元禄赤穂事件が、現代を生きる日本人に多くのことを問うているように思う。後世、美談として語られている忠臣蔵であるが、どうもそれだけでは片付けられそうもない。いつかそのあたりを私は小説に書いてみようと思っている。今日、泉岳寺では義士祭が行われる。元禄赤穂事件に関わったすべての人へ心より冥福を祈念したい。

悪魔のトリル

晩秋の夜、紀尾井ホールに再び三浦文彰君のヴァイオリンを聴きに行く。プログラムはクライスラードヴォルザーク真田丸組曲ラヴェルサラサーテなど至福の二時間であった。此度は、ソロリサイタルで伴奏はピアノのみ。じっくりと彼のヴァイオリンを堪能した。中で私がもっとも聴きたかったのが、タルティーニのヴァイオリンソナタト短調「悪魔のトリル」である。超絶技巧が必要とされる曲で、世のヴァイオリニストにとってはこの曲を弾きこなせるかどうかは、自身の演奏家人生において試金石であり、ひとつの指標ともいえる曲であろう。トリルとは演奏技法のひとつである。弦楽器の場合ハンマリングオンというフレット間の弦を叩いて演奏する技法と、プリングオフという指板上の指で弦を引っ掻いて演奏する技法を交互に行うことをトリルという。こう書いていても素人の私にはさっぱりわからぬが、演奏家でなくとも高難易度の演奏技法であることは想像くらいはつく。「悪魔のトリル」はこの技法を用い、高音部ではトリルを奏しながら、下音部でもうひとつの旋律を奏でるという二重音の譜面になっており、現代の演奏技術をもってしてもかなりの至難曲なのである。三浦文彰君は小学生の頃この曲に挑み、なかなかうまく弾けず練習の帰り道では悔しくて涙したという。しかし彼は天才であり努力家である。いつの日かこの曲を弾けるようになった。天才をそこまで虜にし苦しめた「悪魔のトリル」を私はどうしても彼の演奏で聴きたかった。

この曲を作曲したジュゼッペ・タルティーニは1692年にイストリア半島ピラーノで生まれた。ピラーノは現スロベニア領で、タルティーニの頃は、歴史上最も長く続いた共和国であるヴェネツィア共和国であった。両親は彼を修道士にしようとしたらしく、少年の頃から教会で音楽に触れる機会はあったが、やがて法律の勉強やフェンシングの名手となるなど、およそ音楽家やヴァイオリニストとはかけ離れた生活を送る。でも運命はやはり彼をヴァイオリンへと導いてゆく。紆余曲折あるも、その後再び修道院に入ってヴァイオリンに没頭するようになった。そこから彼は音楽家として七十七年の人生を生き抜いた。この頃の人としては相当な長生きである。1716年、タルティーニはすでにイタリアヴァイオリン界の名手となっていた、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴き衝撃を受ける。自身の技能の未熟さに不満を持った彼は、練習のために自室に閉じこもり、何人も寄せ付けず精進した。その後、彼のヴァイオリンは大きく成長するが、彼はいつまでたっても自分のヴァイオリンに満足しなかった。そんなある晩、タルティーニは夢の中で悪魔に魂を売り渡し、その代償に悪魔はヴァイオリンでソナタを奏でた。目覚めたタルティーニはすぐにその曲を書きとめた。それが「悪魔のトリル」である。その後はヴェネツィアのみならず、イタリアから果てはヨーロッパ中にその名を轟かせるようになり、教室も開いて多くの弟子もできた。また、和声や音響学に興味を持ち、この分野の学術論文も多く記した。こういうある意味理論的な彼の性格からして、作曲も演奏も常に完璧を求めたであろうことは想像に難くは無い。自身の目指す高みに到達すべく、何度も何度も登ることを諦めなかった。そんなタルティーニという人が作った彼の代表作が「悪魔のトリル」なのである。この曲は、今も昔もこれからもヴァイオリニスト達の飽くなき挑戦を受け続けるであろう。

曲は三つの楽章からなり、静かに哀愁を帯びて始まる。有名な悪魔のトリルは第三楽章の主部に現れる。二声の重音の上に絶え間なくトリルが続き、華麗にして荘厳。だが、そこにはやはり奏でる者を呪縛する悪魔が覗いているような気がする。神ではなく悪魔なのである。あくまでも悪魔なのである。アドリア海の女王と呼ばれたヴェネツィアで、紺碧の海を見て育ったタルティーニにして、なぜこのような曲が生まれたのだろうか。思えば、イタリアジェノバ出身のパガニーニも似たような伝説があり、彼のヴァイオリンはあまりに超絶であったが故に、悪魔に魂を売って手に入れた技法であるとさえ言われたとか。彼の演奏は、皆怖いモノ見たさで聴きに来て、十字を切る者さえいたという。アドリア海や地中海沿岸の独自の気候は、芸術の分野で多くの天才を生んだ。音楽も絵画も彫刻も永劫燦然と輝いている。だが、どこか謎めいた不気味な印象があることもまた一理あり、それは絵画でも音楽でもいえることだ。私などには想像もつかないが、あまりに美しい青い海と穏やかな陽光とカラリとした空気は、陽気な人間を作るとついイメージしてしまうが、それは時として表裏一体真逆の人間を形成するのかもしれない。完璧であるが、このような憂いを帯びた屈折した曲を作ったタルティーニもまた、心はいつも枯渇しそうで、その生涯において潤いを求め続けていたのではなかろうか。

そんな「悪魔のトリル」を三浦文彰君は事も無げにやってのけた。この曲を演奏している時、まさしく彼にも悪魔が憑依していたと思う。私たち聴衆も息を呑む「悪魔のトリル」であった。でも演奏後の彼はいつものように優しくはにかみ、私たちに一礼した。そこにはもう悪魔は立ち去って居なかった。

日本仏教見聞録 身延山

秋深まりし十月下旬、T君の運転で身延山に向かった。東京から西へ向かう中央道は、私が好きな道のひとつ。日本の屋根に向かってぐんぐん進む。迫る山並みは私好みの旅情に駆られる。「中央フリーウェイ」の歌詞そのままに、調布飛行場、府中競馬場、ビール工場を瞬く間に過ぎると、左手に高尾山が見えてくる。このあたりから急に山の景色となり、相模湖、大月、勝沼を走り抜ければ、眼下にふわっとお釈迦様が手を広げたような甲府盆地が現れる。さすがに果実王国甲州とだけあって、葡萄、梨、栗、柿、蜜柑など果樹園が点在しているのが車窓から見える。もう二十年以上前になるが、真冬の夜、このあたりをドライブした時に私は忘れえぬ光景を目にした。どこか小高い丘の上だったと記憶するが、場所は定かではない。そこからの眺めは、眼下には宝石を散りばめたような甲府盆地の夜景。見上げれば満天の冬の星空で、引っ切り無しに流星が零れ落ちてきた。あの光景は私のこれまで見たどの夜景よりも一番である。私は眺める景色にも一期一会があると思っている。生涯でたった一度の景色。それは同じ場所に何度行っても見ることはできないのだ。狐に抓まれるとはああいう体験をいうのであろうか。あのとき以来、甲府盆地は私にとって桃源郷となった。今でも、隠居するならば近江がいいと思っているが、なかなかこの甲州というのも捨てがたいものだ。あの暖かな光の海の中で暮らしてみたい。私もその光の一つとなりたい。何とも大いに迷うところである。

甲府から富士川沿いに入ると、左の空の彼方に富士山が見えつ隠れつする。この日は晴れてはいたが、快晴ではなく少し靄ががっていた。富士も雲の上に薄い日光に照らされて浮かび上がっている。それは横山大観の富士の絵そのままの光景で、私たちの胸は高鳴った。富士川日本三大急流のひとつである。南アルプス北部の険峻な鋸岳を発し、釜無川と呼ばれて、甲斐の国を流れる支流と合流しながら、富士川町笛吹川と合流する。ここから先は富士山の西側をうねりながら流れて、果ては駿河湾に達するまでを富士川と呼ぶ。明治維新後、日本を訪れたとある外国人は、日本の川は滝であると評した。その流れは、山から一気呵成に駆け下りて、逆巻きながら海へと注ぐからだ。澱まず流れる日本の川だからこそ澄んでいるともいえる。富士川といえば「富士川の戦い」を思い出すが、平家物語源平盛衰記の水鳥の話の真偽はともかく、源平勢力図が変わる決定打となったことは間違いない。そういう由縁かは知らないが、富士川や支流の早川沿いにはいくつかの落人伝説もあると聞く。そういえば富士川をずっと下って、静岡県富士宮市の稲子というところには、平維盛の墓と伝えられるところもあるという。維盛は那智の海へ入水しているはずだから、墓ではなく供養塔だろうが、ひょっとするとここへと落ちてきたのかもしれない。私はこういう伝説をすべて信じるわけではないが、まったく否定もしたくはない。歴史や伝承は否定をすると途端につまらなくなる。滔々たる富士川の流れは、何度も湾曲しながら、多くの秘められた歴史とともに遥かなる駿河の海へと注いでいく。平家はどうも急流に縁が深い。富士川も、宇治川も、壇ノ浦も急流で負けた。早瀬は今は埋もれた多くの歴史をも飲み込んでいったのではなかろうか。富士川を眺めているとそんな想いに駆られずにはいられない。

富士川沿いを身延山へ向けて奥へ奥へと進む。このあたりは川の両側に山々が聳えたっており、平地はほとんどない。川と山の間にへばりつくように集落が点々と続いている。身延は日蓮宗総本山の地であるが、かの木喰上人縁の地でもある。木喰上人は享保三年(1718)身延山近くの古関村丸畑の名主の家に生まれた。縁あって仏門に入り、日本諸国を巡る廻国修行へと旅立つ。何と五十六歳の時であった。北は蝦夷から南は薩摩まで、各地に仏像を残している。廻国中もここへ度々戻っているのをみると、故郷への思慕とやはりこの地の霊的な力を、自らの生きる糧としていたような気がしてならない。そして所願成就した八十四歳の時が最後の帰郷であった。その後、甲州にいくつかの足跡があるが、どこでどう果てたのかわかってはいない。忽然と消息が絶えるという。私もこれまで津々浦々で木喰仏に遭遇してきた。円空仏とはまたちがう、柔和だが芯の強い、ただそこにはいつも笑顔が溢れる優しいほとけたちである。木喰仏は柳宗悦に発掘されてから、にわかに注目されるようになったが、もともとは地元民のみが手を合わせるほとけであった。ゆえに手垢のついていない純真無垢ほとけなのである。木喰上人が木の国で育ったことは、仏像製作の礎となり、夥しい数を彫り上げる霊的な力もまた、樹木から得たに違いない。古代より連綿と続く立木信仰は木喰上人によって完成し、一応の終幕をみたといえるのではないだろうか。木喰上人は目と鼻にある身延山にもおそらく上山したであろう。本当は丸畑の地を訪ねてみたいのだが、今回は先を急ぐので、残念ではあるがまたの機会にしたい。やがて、富士川の右手に険峻な岩肌をあらわにした身延山が見えてきた。

総門をくぐり参道を進むと身延山の山号を掲げる巨大な山門に出た。が、私たちはまず西谷と呼ばれる日蓮聖人の霊廟と草庵跡へ向かう。身延山には今も多くの塔頭があるが、それでも往時からするとずいぶん少なくなったらしい。江戸時代までは百三十六もの末寺塔頭があったとか。今残る塔頭の多くは宿坊も兼ねており、身延山と谷一つ隔てた七面山にも宿坊がある。西谷へ入るには身延川を渡る。山国のこととて、身延川を渡るとさらに冷気は増してゆく。あたりには鳥の啼き声すらなく、ただ風と川の音だけで、その轟音に威圧される。ここはただならぬ雰囲気である。それは霊気でもあろうか。とにかく何かに導かれるようにして、私たちは巨大な日蓮聖人の御廟へとたどりついた。南無妙法蓮華経の御題目が、例の流麗な金字で掲げられた日蓮聖人のお墓の前に出たとき、「いやぁ、凄い!」私は思わず声を上げた。昔から方々の寺社巡りをしている私は、今さらパワースポットとか騒がれている昨今の風潮には、いささか距離を置いているのだが、そんな私が久しぶりに大きく動揺させられたのである。ここは凄まじい霊的な力を感じる場所である。なんであろうか。こういう場所を本当に知っている人であれば、わかるであろう。言葉では言い表せぬ、あの感じ、あの雰囲気である。日蓮聖人の廟を前にして、背後にはおそらく雲の彼方に霊峰富士がこちらを睥睨しているはずだ。私たちはちょうどその間に立っており、前からも後ろからも、圧倒的なパワーを今まさに全身全霊にびしびしと受けまくっているのだ。私もT君もしばし茫然自失としてしまい、これから菩提梯を昇り、奥の院まで行こうという前に、ここだけでも来た甲斐があり、ここだけでもう充分すぎるほど身延山を満喫した心地がした。

御廟の少し下に身延山の原点とも云える草庵跡が残されている。玉垣に囲まれた草庵跡の周りには、いくつもの杉の大木が御神木となって聳えており、どっしりとした日蓮聖人のイメージを彷彿とさせる。日蓮聖人が身延山に入山したのは、文永十一年(1274)五月十七日のことで、鎌倉幕府に国主諫暁(こくしゅかんぎょう)を行うも三度失敗し、失意のうちのことであった。国主諫暁とは、極々簡単にいうと、日蓮の信ずる法華経を尊び、法華経にのみ帰心せよと説く幕府への奏上であり、かの「立正安国論」を引っさげての一大問答であった。だが、そのあまりに激烈で過激な説法は、他宗派を蔑み、排除せよと続けた結果、他宗門徒からは大非難を浴びることになる。幕府中枢もほとんどが日蓮の教えに靡く者はなく、依然として浄土宗系や禅宗系が日蓮の排斥に大きく動いていた。伊豆や佐渡に流されたり、何度も命の危機にさらされながらも、しかし諦めない人日蓮は、この艱難辛苦を乗り越え、その度に大きくなり立ち上がっていった。そんな日蓮を、身延の地を領していた御家人南部長実は積極的に匿い保護した。草庵の地も南部長実が寄進した。鎌倉幕府は無論知っていたと思うが、さすがに鎌倉から遠い山間の僻地までは監視の目も及ばず、ここで九年間日蓮は思索に耽り、弟子を育成し、自身の集大成ともいえる濃密な晩年を送ることになる。聞くところによれば、ここでの暮らしは相当に貧しいもので、食い扶持に困り、弟子の何人かはやむなく下山させたこともあったらしいが、そういう時も何かと便宜を図ってくれたのが、南部長実であった。私が思うには、南部長実は日蓮に帰依していたことには違いないが、鎌倉幕府の信頼も厚いものがあり、幕府もある意味監視させていたのではあるまいか。南部長実の元にあれば日蓮もそうそう動けまいと思っていただろうし、事実そうであった。あれほど行動的な日蓮が九年間もこの地にじっとしていたのである。それは日蓮の生涯に於いて、もっとも長く充実した日々であったに違いない。初めてここにゆっくりと腰を落ち着けて、これまでの我が人生を振り返り、さらに自身の理想と現実との葛藤、法華経へのさらなる信心を完璧に昇華させたのが、この身延山であった。そういう意味では南部長実の功績はとても大きい。少し想像を逞しくすると、まるで日蓮聖人を守護する、仁王の様な人物なのではなかったか。いずれにしろ、この御廟と草庵跡からはとてつもなく大きな霊力を感じずにはいられない。その理由はやはり日蓮聖人がその波乱の生涯において、もっとも円熟し、真に法華経一筋の道がここに極まった場所であるからではないかと私は思う。

霊気はこの山全体を支配するが、私たちもこの雄大な山塊に抱かれるが如き感がしてきた。ここは日蓮宗総本山。身延山妙法華院久遠寺。山門の奥へ歩を進めると、亭々と聳える杉木立の向こうに巨大な壁が現れる。これがかの菩提梯である。私は身延山を訪ねるにあたり、一番楽しみにしていたのがこの菩提梯であった。菩提梯は本堂のある山上の伽藍へと誘う二百八十七段の石段で、高さ百四メートル。これがとてもつもなく急峻でひとつの石段の高さは四十センチもあり、幅はかなり狭い。まるで絶壁のように屹立している。ここで私は再び声をあげた。「これかぁ!やっぱり凄い!」その名も菩提梯。悟りに至る梯子で、ここを昇りきれば涅槃の本堂へと行ける。これまで何人も救急車で運ばれたり、行き倒れた人もいるというこの石段。果たして頂上まで行けるであろうか。私とT君もいざ一歩と昇り始める。男坂とか女坂もあり、キツイ人はそちらから昇ればよいし、今は斜行エレベーターまであるので、いつでも楽に昇れるのだが、やはりここへ来たからには、まず一度はこの菩提梯を昇りきりたい。が、やはりキツイ。歳若のT君は息も切らさずスイスイ昇るが、四十を越して運動不足の私はかなり苦しい。まさに苦行である。それでも途中休憩ができる区切りがあり、休み休み昇ってゆく。菩提梯は、御題目「南無妙法蓮華経」の七文字になぞらえて七区画に区切られている。そしてついに最後の一段を昇りきった。息を切らせながら下を見ると、やはり相当な傾斜で怖かったが、素直にうれしい気持ちのほうが勝る。菩提梯踏破の喜びは、ここでまたひとつ自分自身の殻を破り捨てられた感慨さえあった。

その山上には大伽藍が甍を並べている。明治の頃大きな火災があったとかで、そんなに古い堂宇は残ってはいないが、総本山らしく堂々たる佇まいである。ことさら映える鮮やかな朱色の五重塔は最近になって建てられたものだが、不思議と周囲の山々の緑にしっとりと溶け込んでいる。これも久遠寺の長い歴史の成せる術であろう。本堂内部には天井に巨大な龍。その奥に須弥壇が設けられている。日蓮聖人真筆の「大曼荼羅御本尊」がこの寺の本尊であるが、御会式の時のみ公開される。宝物館には複製があるが、この大曼荼羅御本尊を立体的に表現したのが、本堂の須弥壇である。須弥壇は眩いばかりの黄金に輝いており、どこか東南アジアや中東の王宮のような印象である。ちょうど本堂を御参りした頃に正午となり、お昼のお勤めが始まった。祖師堂や仏殿から御題目が高らかに聴こえてくる。私たちも仏殿の勤行に参加させていただく。日蓮宗の勤行は、密教禅宗のそれとはまた違った猛々しい勤行で、やはり御題目「南無妙法蓮華経」に始まり、「南無妙法蓮華経」に終わる。修行中の若い坊さんもたくさんいたが、廊下や境内のどこですれ違っても、気持ちよく挨拶をしてくれて、それだけでこちらも晴れやかで柔和な気持ちになった。門徒たちは集団でやってくる。私は門徒ではないので、そのあたりの事情に明るくはないのだが、町内会とか婦人会の文字が見えた。地域住民で講のようなものがあるのだろうか。皆歩きながらしきりに御題目を唱えている。さすがに総本山たる風景であるが、最初は少し異色に見えた。だが身延山にいる間、一日中その声を聴いていると、不思議に心地よい音色に聴こえてくる。声に出さずとも、私も心の中では同じように「南無妙法蓮華経」を唱え始めていた。

これまで私は日蓮聖人に対して特別な思いはなかった。寧ろ失礼ながら、あまり良いイメージは持っていなかった。他宗を非難し自分の信念を押し通そうとする気骨の坊さま。悪くいえば法華経被れの荒法師とさえ思っていた。ひいては日蓮宗という宗派自体にも、どうもいつも何かと闘っている教団というイメージが今も拭い切れずにいる。法然親鸞道元など他の鎌倉仏教の祖師には関心を寄せてきたが、日蓮には自ら少し遠ざかってきた感がある。故に訪ね歩いてきた寺も、日蓮宗の大寺院といえば池上本門寺に行ったくらいであった。だが、身延山久遠寺を訪ねるにあたり、また訪ねたことで私の日蓮聖人に対する知識は少しずつ増え、それに伴い日蓮という一人の人間、一人の僧侶について深く考える機会を得た。やはり何事も行ってみるもの、見てみるもの、感じてみるものである。おかげで私の日蓮日蓮宗に対する想いにも変化の兆しが現れ始めている。この巡礼を試みなければ、あえてわざわざ日蓮宗に近づくこともなく、身延山へも詣でる機会はなかったと思う。

賢しらに私如きが日蓮聖人のことを語るつもりはないが、ひとつだけ思うのは、日蓮聖人はいつもがっかりの連続だったのではなかろうか。何か事を起こす度に出鼻を挫かれたり、反対されたり、非難されたり、無視されたり、およそそのくり返しであった。また仏法や教義、仏道修行においても、叡山にも、真言密教にも、浄土系宗派にも、禅宗にも、そして時の権力者にも失望した故に、自ら帰結した正法たる法華経と釈迦への回帰を声高に叫び続け、闘い続けたのではないか。そうした反骨精神が、日蓮を揺り動かし、支えたのだと思う。そしてようやく晩年に至り、この身延の山中で、無碍の境地に達すること叶ったのであろう。身延の山の霊気と閑寂が、日蓮を心身ともにクールダウンした。心から澄み切った日蓮に、もはや敵も見方もなく、ただ一念に自らが法華経を信じていたい。そうすれば後の世まで永劫、その情熱の華は枯れることはないと確信したであろう。明治維新後に開かれた仏教系の新興宗教は、なんと九割以上が日蓮宗系だという。その信仰や教義は如何ともしがたいところもあるかもしれないが、ここに日蓮聖人の願いは大きく華開いたといえよう。

最後に私たちは、奥の院へと足を延ばすことにした。奥の院は標高千百五十三メートルの身延山頂にあり、二時間半ほどかければ歩いて登れるのだが、今は本堂の裏手からロープウェイで七分で行ける。ロープウェイは関東一の高低差と云われる七百六十三メートルを一気に上がる。すぐに五重塔などの伽藍は小さくなってゆき、山裾を這う龍の如くに富士川の流れが遥か下界に見えてくる。この日はすっきりとした晴れではなく、いかにも山の天気という感じで、ひっきりなしに雲が動いてゆく。それでも山上からの眺めはすばらしかった。南にはすぐそばに七面山、西から北にかけては南アルプス八ヶ岳の峰々、東には天守山地が重畳と見渡される景色は、言葉もないほど雄大かつ爽快であった。と同時に、東の方からは物凄い冷気と霊気が真っ直ぐこちらへ向かって放たれてくる。東の天守山地の後ろに聳えるのは霊峰富士。雲の中にいて姿を現さないが、身延山の山頂に立つと富士の圧倒的な霊力が心底わかる気がする。身延山は広い。この山塊の至るところに堂宇や塔頭が点在し、信仰の山、霊山なのであることが、高いところへくると実感として迫ってくる。

奥の院には親を思うと書いて「思親閣」というお堂がある。ここには日蓮聖人の両親、父妙日と母妙蓮が祀られている。参道下には故郷の安房に向かい遥拝する聖人の像があり、背後には聖人御手植えの樹齢七百年を超える杉の大木が見守っている。日蓮聖人は身延入山九年の間一度も下山しなかったが、片時も故郷を思わぬ日はなかった。そしてこの山頂へ度々登り、故郷を遥拝し、両親への思慕に想いを致したのであろう。ここに来ると、日夜朝暮に両親やふるさとのために祈るとても優しい日蓮聖人の姿が彷彿として浮かんでくる。そこにはあの情熱的な荒法師の姿は皆無である。親を思う気持ちは誰しもある。ここに登ってきた時に日蓮聖人はおだやかな気持ちになり、僧籍からも離れることができたに違いない。身延山を降りて安房の地へ赴く日蓮聖人は、池上で力尽きて入滅するが、遺骸はこの身延の地に埋葬するように遺言した。身延を降りる時の日蓮聖人にはもう激烈さはなく、ただ一念に望郷の念に駆られていたような気がする。この地で過ごした九年の月日は彼をおだやかで、包容力のある人間へ変えたのであろう。それが本来のその人であったと私は思う。

個人的な話でまことに恐縮であるが、この寺に来て私がもっとも感じたことを最後に記したい。これを書くべきか書かざるべきか迷いに迷ったが、やはり今の私の心に従い記すことにした。いささか巡礼記からそれることになるがお許し願いたい。

私は両親が離婚し、決して幸せとは云えない幼少期を過ごした。両親ともに再婚していまだ健在である。私は母を思う気持ちは今も変わらないし、年老いた母の面倒もみて、最期も看取るつもりでいる。だが、父に関しては金輪際関わりを持ちたくない。父には強い嫌悪感を持っている。両親の離婚の原因が父にあるからなのだが、ここに今そのことを詳しく書くことはできない。私は今もどうしても父を許すことができずにいる。おそらく、父が私と母と妹を捨てて、今新しい家族と幸せに暮らしていることに対する妬みと、ずっと苦労している母への想いがそうさせるのだろう。極端な話であるが、もしも神仏がこの世の中でただ一人呪詛してもよいと許してくれるならば、私は躊躇なく己が父を呪うであろう。今の私はこうなのである。正直にこれが今の私なのである。この気持ちはここ思親閣に来ても変わらなかった。私はたぶん本当の優しさとか愛情とかを持ち得ずに生きてきた。私はとても冷たく、人にやさしくできない愚物なのである。心から人にやさしくできないのだ。その術も正直わからない。近頃それがとても苦しく思えて仕方ないことがある。私はなんなのだろう。こんな人間が寺参りなぞしてもいいのだろうか。いや、それだからこそ始めた巡礼ではないか。葛藤の日々は続く。でも今はそれしかできない。他に道が見えないのである。いつの日にか、この巡礼を続けていくうちに、もしかしたら父を許せる日が来るのであれば、心から人を愛し、人にやさしくなれたならば、その時こそ、この本山巡礼が本当に意味を持ってくるのかもしれない。今のところそんな気持ちにはさらさらなっていないが、これから様々な寺やほとけさまや信仰の姿に触れることで、この気持ちが変わることがあれば、素直に喜びたいとは思っている。奥の院の足湯に浸りながら、私はそんなことを考えていた。

山の空気を満腹に吸い込んで、私たちは下山した。帰りがけに山門前でもうひとつ、もの凄い光景を目の当たりにする。百人近くの白装束の門徒の一団である。老若男女皆白装束で肩からは御題目の袈裟をかけている。全員大声で御題目を唱え、山内に「南無妙法蓮華経」がこだまする。白い装束は無垢で清くも見えるが、これだけの人々が同じ装いで目的を一にしているのを見ると、どこか少し薄気味悪くも感じた。私はだんだんその光景が夢のように思えてきて、月日が経っても瞼に焼き付いている。あの甲府盆地の夜景を見た夜のように、やはりまた狐に抓まれたのであろうか。