弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 寛永寺

私は家でよく香を焚く。香煙をくゆらせると、穏やかな気持ちになれるし、書くことや読むことにも集中できる。伽羅や沈香が好みであるが、高価なのでなかなか手が出せない。そんな時に見つけたのが、「東叡香」という寛永寺の香である。箱のデザインからして、比叡山の「叡山香」とだいたい同じ物だと思うが、叡山香の半額で、二百本も入っている。一箱で半年ほどは楽しめる。その香りはおごそかで、心休まる白檀の香り。東叡香は線香で、本来は仏前にあげるものだが、私は気に入って、普段使いの香として、ありがたく愛用させてもらっている。

東京で一番好きな寺はどこかと訊かれたら、私は迷わず寛永寺と答える。それほど、この寺への思い入れは深い。徳川家の菩提寺は、増上寺や伝通院など、江戸にいくつかあるが、寛永寺にある特別な想いを抱くのは、この寺が重い重い歴史に埋もれているからだ。私は毎年元日に、寛永寺にお詣りするのがここ数年の恒例だ。そして参詣後に、東叡香をいただいて帰る。展覧会で上野に行く度にお詣りするから、寛永寺はとても身近な寺である。寛永寺のことはずっと書きたかった。だが、好きな寺であるがゆえに、簡単には書けなかった。好きなモノ、愛しい人については、なかなか言い表せぬものだ。寺もまた同じである。こういう寺が私にはいくつかあるが、寛永寺もそうであった。

平成二十九年元日。風一つない穏やかな快晴。今年も寛永寺へ初詣だ。そして、昨年から始めた日本仏教の本山を巡る旅。今年最初は、何おう天台宗大本山で、関東総本山である寛永寺である。今回はT君に加え、旅仲間のI子さんにも同行してもらう。正月の寛永寺参詣で、何が一番良いかと言えば、とても空いているということ。一年の初めから、雑踏に飛び込んで辟易するなんて、真っ平御免蒙りたい。私にとって寛永寺は、心静かに初詣できる浄土である。もっとも、お詣りする時間も、元日の午後からであるから、人出も減っているのだろう。大晦日、除夜の鐘を撞く頃は、この寺も行列ができるらしいが、それを避ければ静かなものだ。敢えてそんな寛永寺に行く。だいたい、普段から混雑する寺ではない。寛永寺は今でも、徳川宗家の菩提寺であり、明治以降は広く一般にも檀家を募ったので、徳川家のみならず、多くの人々の菩提寺である。これほど有名な寺なのに、観光寺院ではない。寛永寺墓地には、犬公方や、天璋院篤姫も眠るが、徳川家霊廟は団体予約しなくては参拝できないし、十五代慶喜が謹慎したと伝わる「葵の間」も、同じく予約制なので、簡単には拝観できない。このあたりが、この寺から喧騒を追いやっている一因でもあろう。そしてまたどこか物寂しい印象がある。増上寺は今も誇らしげに大伽藍を見せつけているが、寛永寺にそんな雰囲気は皆無。静かな寺である。

寛永寺を憶うとき、諸行無常という言葉が、実感としてまざまざと迫ってくる。この寺は幕末まで、徳川将軍家の祈願所兼菩提寺であり、比叡山に代わり天台宗総本山であり、山主は天皇の皇子(法親王)から選ばれる門跡寺院でもあった。おそらく、江戸時代を通して、これほど巨大な力を持った寺は、寛永寺をおいて他になかったであろう。山主は輪王寺宮と呼ばれ、将軍継嗣問題にも口を出せるほど、幕府の信頼は絶大で、御三家を凌ぐ権勢を誇ったという。 ゆえに寺領も広大であった。今の上野公園と、谷中霊園一帯のほとんどが寛永寺の境内であり、多くの子院塔頭がひしめいていた。今は塔頭の数もずいぶんと減り、開山堂の裏手の一角に、十ヶ寺ほどが肩を寄せ合って建っているが、傍目には民家のようで、よくよく見ないと寺とは気づかない。上野を俗に「お山」と呼ぶのは、東叡山があるからである。 徳川三代に仕え、幕藩体制の礎を築いた天海大僧正は、京都に倣い、江戸の町づくりにも陰陽道や風水を取り入れた。江戸城を中心に、鬼門の直線上に神田明神寛永寺→日光山を配し、裏鬼門に山王社→増上寺久能山を配する。とりわけ上野には力を入れた。北から南への一筋を軸として、江戸城から「の」の字を描く放射状に、町は拡大し続けてゆく。それは明治から戦後へ、そして今の首都圏発展にもつながっている。

慈眼大師天海は、その生い立ちも諸説ある。出生年は定かではないが、陸奥国大沼郡高田(福島県会津美里町高田)の、豪族蘆名氏の一族に生まれたことは、概ね違いないようだ。幼少から英邁といわれ、出家して随風と称した。十一歳で宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、やがて比叡山へ登る。その後も、三井寺興福寺へも出入りして、倶舎、三論、唯識、華厳、禅、密教と幅広く修した。元亀二年(1571)、織田信長比叡山焼き打ちのあと、武田信玄の招きを受けて甲斐国に移住。その後、天正十九年(1591)には、茨城稲敷の江戸崎不動院に入り、慶長四年(1599)に川越の仙波喜多院に入った。このあたりから、僧侶としての名声が聴こえ始め、徳川家康の知遇を得て、ブレーンに抜擢される。関ヶ原勝利のあとは、徳川幕府の宗教顧問となり、叡山探題となって、信長焼き討ち後の復興に尽力する。延暦寺の再興を果たした天海は、一時は栃木の宗光寺、群馬の長楽寺など、北関東の寺に住するも、老骨なんとやらで、しょっちゅう江戸や駿府に出てきて、政に参画していく。

関ヶ原を制した家康は、征夷大将軍となり、江戸を政治の中心に定めた。着実に地盤を固めていった家康には、その政権を支える多くのブレーンが存在した。その一人ひとりが、実に個性的かつ有能で、皆が己が役割と、分をわかっていたように思う。それが徳川一強の源泉ではなかったか。特に天海と、南禅寺の以心崇伝は重用され、徳川政権発足当初の法整備や、征夷大将軍の権威作りに大きな功績がある。武家諸法度、諸士法度、禁中並公家諸法度、寺院法度など、天海が助言して、崇伝が起草し取りまとめている。そして、豊臣家を滅亡に追い込んだのも、方広寺の鐘の問題も含めて、策謀を廻らしたのは、この二人であった。だが、家康が亡くなって、神として祀ることになった時、二人は対立することになる。崇伝が神号を明神とすべきと言ったのに対し、天海は権現とすべしと言う。明神は、豊臣秀吉豊国大明神と同じであり、豊臣家は滅亡したのだから不吉であると言い、何よりも自分は家康から直々に遺言を受けていると言う。この一言で決着がつき、崇伝は失脚した。以後も天海は、秀忠と家光に重用されて、百八歳まで妖怪の如く日本仏教界に君臨し、幕府の威を借りて号令をかけた。明智光秀ではなかったか?など、様々な言い伝えがあるが、これは眉唾で、一介の僧侶ではないところから出た噂にすぎない。しかしそう思われても、致し方ないほど、妖しいまでの世渡り上手であった。そしてまた、僧侶としての高い見識と仁徳が備わっていて、権力者をも惹きつける、魅力ある人物であったと想像される。こうして、寛永寺の完成をみて、徳川幕藩体制も仕上がったとみてよい。 天海とはいったい何者であろうか。はっきりした部分もあり、謎の部分もまた多い。

家康亡き後、大僧正となり日本仏教界に隠然たる影響力を誇示するようになった天海は、いよいよ総仕上げにかかる。寛永二年(1625)、大御所秀忠や三代家光に進言し、藤堂高虎に忍ヶ岡の土地を寄進させて、寛永寺を建立。自ら初代山主となる。山号は東の叡山、東叡山。延暦寺に倣い、寺号は時の元号から寛永寺とした。不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島と同じく弁天を祀り、山内には清水寺に見立てて、懸造の観音堂を建立。諸大名も挙って堂宇を寄進し、法華堂、常行堂、鐘楼、大仏、東照宮も建てられた。これでもかの念の入れようだが、こうして江戸幕府は、二百六十四年続いたのだから、四神相応は果たされていたといえよう。 そして天海の最後の野望は、天皇家より山主を迎え門跡寺院とし、寛永寺に格式と箔を付与することであった。実現すれば公武の絆となる。さらには、徳川幕府繁栄の扇の要は、ここ寛永寺であると誰もが認識するであろう。幕府がある限り、寛永寺天台宗の一派は力を保持できるのだ。それこそが天海の狙いであったと私は思う。少し想像を逞しゅうすれば、天海は最澄への回帰を願いながら、その僧名からも、空海にも憧れていて、この平安仏教界の両巨人の良いところを、自身に擬えていたのではなかろうか。その最後の願いは、天海が入滅後、四代家綱の御代に実現する。正保四年(1647)、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が山主となると、東叡山は、日光山、比叡山と併せて三山と呼ばれ、天台宗を管掌した。増上寺も江戸時代を通して、知恩院よりも力を持っていたが、ここ寛永寺も、比叡山から総本山のお株を奪っていた。浅草寺も傘下におさめて、徳川将軍家の祈願所であり、菩提寺であり、何にしても将軍のお膝元にあることで、その威容を誇ったのである。天海亡きあとも、その意思は引き継がれて、五代綱吉の御代に、巨大な根本中堂が落慶。ここに東叡山寛永寺が完成した。八代吉宗の御代には、堂塔伽藍三十余り、子院塔頭三十六坊、境内寺域三十万五千坪、寺領一万一千七百石に及び、増上寺を凌ぐ江戸一番の巨刹であった。江戸一番ということは、すなわち日本一の大寺院である。それはまた、日本一徳川の色濃い寺で、「徳川の徳川による徳川のための寺」、それが東叡山寛永寺であった。が、皮肉なことに、後にそのことが、この寺の運命を狂わせることになる。

ここで最盛期の寛永寺を見てみよう。下谷広小路(現上野広小路)の先には、不忍池から流れ出た掘割があって、三橋と呼ばれる三本の橋が架かっている。真ん中の橋は将軍専用で、寛永寺御成の時に使用した。その先には黒門と呼ばれる総門がある。黒門は冠木門になっていて、寺の門というよりも、まるで山城か戦場の砦の門のようで厳しい。その先の石段を上がれば清水観音堂、大仏、東照宮五重塔が順番に現れる。

花の雲鐘は上野か浅草か 

この芭蕉の有名な句の「上野」とは、大仏の傍にある「時の鐘」のことで、今でも正午と朝夕六時に時を告げている。鐘楼の下には、花園稲荷と五条天神社がある。ここのお稲荷さんは、私の大好きな場所だ。上野公園に行ったならば、ここはぜひとも訪れてほしい。本殿の先には、洞穴のような奥社があり、まことしやかに、狐が出入りするといわれる穴が御神体となっている。その穴の奥からは、ただならぬ冷気と、霊気が漂ってくる。あたりは昼間までも仄暗く、たくさんの狐の像が祀られていて、現代東京に在って、まったくミステリアスな雰囲気に満ち満ちている。その薄気味悪さが、何とも浮き世離れしており、私はいつも江戸へ還ったような気分になる。あそこは時空を超えて、江戸と東京を行き来できる魔所である。上野大仏は、寛永八年(1631)に最初に造られたが、地震で倒壊、そして元禄年間に再建され、大仏殿まで建立された。しかし幕末の上野戦争で、堂宇は焼けて、大仏さまは露座となり、さらに関東大震災でお首が落ちて、昭和戦争の金属供出で胴体は徴用されてしまったという。今はお顔のみが残り、祀られている。大仏さまのお顔は壁に嵌め込まれて、いかにも窮屈そうだ。ありがたいというよりも、とても気の毒に思えてくる。そのお顔には、何度となく天災や人災に巻き込まれて、すべてをつぶさに見てこられた大仏さまの、怒りと哀しみが滲み出ている。さらに進むと上野東照宮と、今では動物園の中に納まる五重塔がある。五重塔上野戦争でも焼けずに、三百八十年近い昔から残ってくれている。上野東照宮は、何年か前に修復されて、往時の輝きを取り戻した。本殿の威風堂々たる佇まい、彫刻の数々は日光や久能山にも劣らずすばらしい。ことに唐門に彫られている昇り龍と降り龍は、夜な夜な不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、あまりに精緻すぎて今にも蠢きそうな迫力がある。東照宮参道の敷石や、諸大名が寄進した灯篭も一見の価値あり。桜の頃や、紅葉の頃、古色蒼然とした五重塔を、この東照宮の参道から眺める時ほど、江戸のよすがに浸れる所はない。かつてはこのあたりに、山門にあたる吉祥閣が屹立していた。

いよいよ寛永寺の中心伽藍である。吉祥閣の奥には、東の釈迦堂と西の阿弥陀堂を渡り廊下でつないだ優美な文殊楼があった。その先には、左に六角塔、右に多宝塔。そしてその奥の光景に、参詣した人々はさぞや圧倒されたことであろう。目の前の巨大建築に、言葉も出なかったに違いない。ここが本堂である根本中堂である。根本中堂は、今の上野公園の大噴水のあたりに、間口四十五・五メートル、奥行き四十二メートル、高さ三十二メートルもの堂々たる佇まいで建っていた。コの字に回廊が巡らされていて、比叡山の根本中堂とほぼ同じ様式であった。中央に巨大な「瑠璃殿」と揮毫された扁額をかかげ、内部には薬師如来を本尊として、日光月光両菩薩、十二神将が居並び、葵の御紋があちこちに配されている。まさに本家の比叡山延暦寺を彷彿とさせ、東大寺の大仏殿にも負けないほどの大伽藍である。実に惜しい。今ここに根本中堂があれば…。私はこのあたりを歩くとき、毎回そう思わずにはいられない。そしてかつて、ここに日本一の大巨刹が、確かに存在したことを想い、瞼の奥に想像し焼き付けるのである。

そういえば寛永寺では、元禄赤穂事件に類似した刃傷事件も起きている。それも赤穂事件からわずか八年後のことだ。宝永六年(1709)六代家宣が、先代綱吉の法要を寛永寺で行った。この時朝廷からは、勅使、院使、東宮使、女院使、中宮使、大准后使が遣わされた。一同は法要に列席し、霊廟に詣でた後、子院顕性院で、幕府による饗応を受ける予定であった。事件は、中宮使の御馳走役を務める前田采女利昌と、大准后使の御馳走役を務める織田監物秀親との間にいざこざがあり、前田采女が織田監物に「このほどの遺恨、覚えたか」と言って刺し殺した。原因は、赤穂事件よりもずっと明らかになっている。家宣将軍の妻、近衛煕子の敬称を、将軍宣下の前は御廉中様と呼ぶか、御台様と呼ぶかで意見がわれたことから二人は対立。采女は御廉中様、監物は御台様と呼ぶべきと言い張る。織田監物はこの時四十八歳、信長へつながる名門で、大和柳本一万石の藩主であったが、いかんせん一万石に不服があったのか、織田家近衛家と信長の時代から深いつながりあり、煕子夫人が輿入れ後も何かとご機嫌伺いをたてて、虎視眈々と名家の復興を目論んでいたふしがある。一方で、前田采女はこの時二十六歳、加賀百万石前田家の血筋であり、大聖寺藩主前田利直の実弟。分家を立てて、こちらも一万石を領した。役者のような美男子であったというが、親子ほども年の離れた二人が、方や権力や名声に執着し、方や眉涼やかな好青年と謳われているのも、赤穂事件に類似している。ほんの些細なきっかけが、掛け違いとなってゆくのだ。監物が采女に対して、饗応当日までに、まるで赤穂事件の時代劇そのままに、いじめや嫌がらせをやって、采女に深い遺恨を与えたといわれる。赤穂事件と違うところは、采女は監物をしとめていることで、その後、幕府から切腹を言い渡され、素直に応じている。無論、采女は覚悟の前であろうが、八年前の赤穂事件で、威信をつぶされかけた幕府は、事を処理するにあたり、内心ひやひやであったと思う。一説では、采女は大奥を取り仕切る年寄絵島と昵懇で、監物殺害を絵島にたきつけられたとも云われる。当時、御台所煕子(後の天英院)と、絵島が付いている左京の方(後の月光院)の派閥抗争に巻き込まれたとのことだが、真相やいかに。もしかすると、後の絵島生島事件の源流は、この時にあったのかもしれない。

根本中堂の裏手が、今の東京国立博物館であるが、ここに寛永寺山主の住まいである御本坊が建っていて、その規模は並の大名屋敷を凌ぐほどであった。今、博物館を一巡していると、裏手に美しい日本庭園や、茶室を見ることができるが、あそこは寛永寺御本坊時代の名残である。そして、その御本坊のさらに裏手が、歴代将軍の眠る徳川家霊廟であった。ここには四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定とその御台所や家族が眠っている。今でも霊廟の勅額門や、手水舎は残っていて、往時の壮観を偲ばせている。

霊廟は、増上寺と同じくほとんど戦災で焼けてしまって、今では周囲を囲む高い石垣のみが残るが、何せ高い石垣と、樹木に覆われているため、容易に中を伺うことはできない。そのおかげで、歴代将軍や、御台所の安眠を妨げてはいないと思う。中で、特筆すべきは、十三代家定正室天璋院篤姫であろう。動乱の只中に徳川家に嫁入りし、夫亡き後の徳川宗家の屋台骨となって、力強く幕末を生き抜いた、稀有な女性であった。共に戦った皇女和宮と、江戸無血開城、徳川家存続、慶喜の助命嘆願などに尽力した功績は大きい。しかし、天璋院和宮も、その波乱の生涯でもっとも辛かったのは、夫をはじめとした多くの愛する人々に先立たれたことではなかったか。その苦しみ、哀しみは計り知れない。歴史的功績よりも、そうした哀しみを乗り越えて、人生を全うした精神力にこそ、私は大いなる魅力を感じる。最初は何かと悶着もあった二人だが、やがて生涯で唯一無二の戦友となった。和宮が病気療養中の箱根で没した時、 天璋院は見舞いに訪れる道中で訃報を聞いた。その時天璋院は、挽歌ともいうべき次の歌を残している。

君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな

同志を失った悲哀が切々と迫ってくる。天璋院は嫁入りしてからも、何度か薩摩へ里帰りする機会もあったが、結局は一度も帰還しなかった。最後まで徳川の人間であり続けたのである。明治十六年(1883)千駄ヶ谷の徳川宗家で、四十七歳でひっそりと亡くなるが、手元金は僅か六万円ほどであったとか。すべてを見尽くして、頂点を極め、その後流転の人生を送った人の、実に潔い最期を憶うとき、私はやはり畏敬の念を抱かずにはいられない。

今は昔。先に述べた寛永寺総門たる黒門は、上野戦争で夥しい弾丸を浴びた。黒門は今、三ノ輪の円通寺という寺に移築されており、たった一日で終結したとはいえ、その弾痕を見ると、戦闘がいかに激しいものであったのかがわかる。最初から幕軍の負け戦であったが、止めは本郷台地からのアームストロング砲の砲撃であったという。大砲が止めとは、徳川が豊臣を滅ぼした大坂の陣に同じである。寛永寺江戸城の身代わりとなって、官幕両軍の鬱憤を受け止めてくれた。まさに、仏が身代わりとなったのである。ここで闘ったのは、最後まで江戸と徳川家を死守しようとした、若人たちであった。無血開城後、いったんは治安もよくなりつつあったが、やはり血気盛んな幕臣や浪人の若者には、抑えきれぬ衝動があった。そして、またそこに付け入ったのが、官軍の血気逸る連中であった。お山を焼いた官軍参謀の西郷さんの銅像が、公園のシンボルのように建っているのも、思えば奇縁である。そしてすぐそばには、彰義隊の墓が江戸城の方を向いて建っている。明るく、人通りも絶えぬ場所に在るのに、私はここに来ると、どうしても重苦しい気持ちになる。これは、会津の白虎隊士の墓の前でも感じたことだ。彰義隊、遊撃隊、二本松少年隊、白虎隊、西南戦争、そして時代はずっと降って太平洋戦争まで、若く輝く美しい命が、無残に散っていった。その始まりともいえるのが、日本の場合は、上野戦争であったかもしれない。人間は追い込まれると、結果的に若く幼い命が犠牲になるのは、今日も、世界で起きている紛争を見れば明らかである。寛永寺を訪れて、彰義隊の墓参をすると、私はいつもそんなことを考えてしまう。

上野戦争で壊滅的被害を受け、大檀家たる徳川家は駿府へ転封、さらには維新後の廃仏毀釈で、寛永寺も荒れ放題となり廃寺寸前となったが、なんとか踏み止まり、世も落ち着いた明治半ばからは、少しずつ復興してきた。今、寛永寺本堂の根本中堂が建っているのは、慶喜が恭順謹慎していた、大慈院という子院のあるところで、本堂は川越喜多院から移築したものである。今の中堂は、往時の中堂には及ばないが、よくみれば実に堂々たる建築で、かつて日本仏教界の頂点に君臨し、今でも天台宗大本山、関東総本山の名に背かぬ佇まいである。中堂内には、本尊の薬師三尊像が厨子の中に安置されているが、秘仏のため、お前立ちの薬師如来を拝む。本尊は、最澄の自作とされ、近江の石津寺に祀られていたものを、根本中堂の建立時に迎えたという。また脇待の日光月光両菩薩は、立石寺から迎えたとか。さらに須弥壇の両脇には、見事な四天王像と、薬師眷属の十二神将が祀られており、なかなか壮観である。東京でこれだけの仏像を一同に拝めるのもうれしい。この中堂では、毎年正月三が日に、歴代将軍の肖像画がお目見えする。油彩で描かれたものだが、場所が場所だけに、まるで歴代将軍に拝謁しているかのような錯覚に陥る。旧中堂の「瑠璃殿」の扁額は焼け残り、今の中堂に掲げられているが、いかにも大きすぎて、ややアンバランスに見えるものの、旧中堂がどれだけ巨大であったのかを偲ぶためには、あそこにあって然りである。境内には、旧中堂の鬼瓦など遺稿も置かれているので、ぜひ見てもらいたい。

今の中堂の裏手が、慶喜が謹慎した「葵の間」がある大慈院だ。慶応四年(1868)二月十二日から、江戸無血開城当日の四月十一日まで、慶喜はここで恭順謹慎を貫いていた。大政奉還、辞官納地をしても許されず、勤皇の水戸家に生まれながらも、屈辱的に朝敵の汚名を着せられた十五代将軍慶喜。初代家康から続いてきた天下人の座を、ついにここ寛永寺を出る時に手放したのである。その時の慶喜の心中ほど図り難いものはない。鬱屈した悔しさであったろうか、はたまた晴ればれとした開放感であったろうか。思えば、この人ほど長い余生を送った人も稀である。大正二年(1913)に亡くなるまで、実に四十五年もの余生である。将軍を辞して、宗家の家督を田安亀之助(十六代当主家達)に譲ってからは、流転の日々を送る。後に明治天皇に許されて、公爵になり、貴族院に列したが、あまり目立つことはなかった。それよりも狩猟、写真、釣り、自転車、顕微鏡、油絵、手芸などの趣味に興じ、いずれも一流で徹底したという。慶喜は家族を愛し、風雅な遁世者としての生活を楽しんでいたようにも思うが、天璋院と同じく、すべてを見尽くした人にしか到達できぬ、冷え寂びた本心を持ち合わせていたのではないか。今に残る隠居後の写真の面差しからは、そんな印象を受ける。

他に開山堂、護国院、現存する堂宇や寛永寺墓地を入れても、現在は三万坪ほどしかないというから、寛永寺は、最盛期の十分の一にまで小さくなってしまった。それでも三万坪もあれば、現代東京ではかなりの大寺院である。何度も言うが、かつての威容を一目でいいから見てみたかった。寛永寺境内には、維新後も戦後も、ビルや民家が建つことはなく、公園として整備されたことは、せめてもの救いである。広大な空と森に囲まれて、清々しい気分に浸れるのは何よりだ。そして私は、今の威張っていない寛永寺も大好きだ。公園の隅に追いやられて、いかにも肩身が狭そうだが、楚々した静かな佇まいが心地よい。寛永寺は、今も上野のお山に在る。私にとって寛永寺は、永遠に追憶の中の巨刹である。私は寛永寺を愛してやまない。

建国之日ヲオモウ

今日は建国記念日である。現代の日本人にとっては、あまり意識しない建国の日。アメリカの独立記念日などに比べたら、神代の頃からの伝説を元に定められたという曖昧なところが、また関心が薄い一因でもあろうか。しかし、戦前までは、紀元節と呼ばれ、盛大な祝日であった。そもそも紀元節とは、初代神武天皇の即位した日とされ、古事記日本書紀の記述を元に、明治政府が定めた祝日である。四方節(元日)、紀元節天長節天皇誕生日)を三大節とし、昭和二年に、明治節明治天皇の誕生日である十一月三日)を新たに加えて四大節とされた。戦後、GHQによりすべて廃止されるが、すべて名前を変えて現在も祝日とされている。本来、建国を祝う日なのだから、国を挙げてのお祭りがあってもいいものだが、如何せん、戦前の軍国主義の象徴の如く、捉えられる国や人々に配慮してるのか、いたって静かな建国の日である。もっとも、今の建国記念日は、戦後二十一年たってから、新たに制定されたが、その時点でもさほどの盛り上がりはなかったようだ。今では、建国記念日に賛成の右よりの方と、反対の左よりの方で、それぞれ集会を行うくらいで、終戦記念日のほうが、よほど注目されている。今年などは、安倍総理でさえ、アメリカへ行ってしまっており、政府主催の式典はもちろん行われない。

私個人的には、この日を大切な祝日と心得て生きている。昨今は祝日が多すぎる感もある。私は、日本人にとって祝日は、かつての三大節にあたる、元日、建国記念日天皇誕生日だけでよいとも思っている。そして終戦記念日は、祝日とするわけにはいかないから、国民総供養の日、としたらいい。そうすると、たださえ働きすぎの日本人に、また休みがなくなると騒ぐお歴々も現れるだろう。そこは、欧米に習い、季節ごとに休暇制度を作ればいい。法律で決めてしまうのである。時期は各個人に任せればいい。春、夏、秋に一週間~二週間程度の休暇を必ずとれるようにすれば、祝日は減っても問題あるまい。そして、今ある祝日は、記念日として残せばいいのだ。これならば、現代人の感覚にもすんなりと入っていけるのでないだろうか。何か、話がずいぶんな方向にいってしまった。私は右でも左でもなく、政治的な発言をしているわけでもない。単純に建国記念日を、皆が祝日として意識してほしいと願うのである。それは、歴史が好きで、少しばかり日本史をやってきたからということも、確かに一理ある。でも、この国は、あまりに欧米に追随し、あまりに近隣諸国を気にしすぎて、あまりに過去にとらわれ過ぎてきたために、大事な何かを見失ってしまった。別段、軍国主義や戦争を、また戦前の日本の生き方を賛美するつもりなど毛頭ない。そうではなくて、日本人ならば、この国が生まれたと、曲がりなりにも、眉唾モノでも、そのように云われたる建国記念日を、もっと意識してもらいたいものだ。せめてこの日は、日本の過去をみつめ、今を考え、未来を見据える日とせねばならぬ。私にとって、建国記念日は、一年でもっともいろいろと想い致す日なのである。それはこれからも変わらないし、年を増すごとに重大なる日となってゆくに違いない。

掛け違いから得たもの

先日、職場で得難い体験をした。私は、自分の業務上、十分に理解していたことを、失敗したくないがために、念のための確認のために、上司にお伺いを立てた。すると、上司は、私と目もあわせずに、「はいそうですね。」とだけ答え、黙々と自分の仕事をしている。その時の上司の態度に、私は、ついイラっとしてしまい、同時にがっかりもした。人間関係とは、慣れてくれば、こんな態度になるのかと思った。しかしよくよく考えてみれば、もっともであると納得もした。私自身、もっと自分に自信を持って、仕事に挑めばよかったのである。実際、お伺いを立てるほどの案件でなく、その程度の確認であった。あとから思えば、あの時、上司の虫の居所が悪かったのかもしれないし、私としても、わざわざ確認しなくてもよかったと後悔し、その日は一日気分が晴れなかった。このときのやりとりでふと思いついたことがある。

もしかすると、元禄赤穂事件でも、吉良上野介浅野内匠頭の間には、ほんの少しの隙間があり、それを埋める間もなく、事態が進行した結果、あの様な次第になったのではなかろうか。過去に起きた歴史的大事件も、ほんの少し会話がすれ違い、相互の考えやモノの捉え方に一瞬の齟齬があり、それが追い討ちのように相手への態度となって現れる。こうしたことがボタンの掛け違えとなり、軋みが生まれて、ひいては相手への思いやりは、消え失せてしまった。その結果だったのかもしれない。平治の乱も、南北朝の争いも、応仁の乱も、本能寺の変も、桜田門外の変もまた然りである。もちろんそこには、現代では思いもよらぬ、政治的思惑や、熾烈な覇権争いも絡んでくるわけだが、こうしたことは過去から現代まで枚挙に暇もなく、これからも変わらぬ人間の性であろう。我々人間が生きている間、普遍的に起こり続けるているのである。だから、未だに争いは絶えない。

だが一方で、日本人は聖徳太子以来、和を尊ぶ民族である。それが、今を生きる私たちにも、間違いなく平等に染み付いていると私は信じたい。こんな風に気持ちを改めるのも、日本人ならではの民族性を、持っているからだとつくづくと思う。今回の職場での体験から、学ぶべきことは多かった。それにしても、歴史や過去、すでに鬼籍の方々は偉いものだと思う。今を生きる我らより、あちらの人々の方が数も多く、増え続ける一方で、いずれ私も、今を生きる者すべてが、等しくあちらへ旅立つ。生身の我らは少数であり、なんと孤独で寂しいことか。こういうチマチマしたことで思い悩むのも、馬鹿げている。私は、死の苦しみが怖くないといえば、嘘になるが、あちらへ行くのは楽しみで仕方がない。偉大なる歴史上の人物、尊敬する作家、愛する家族や友達や動物たち。逢いたい人がたくさんいる。でも今、生きている中でどれだけのことを成せるのか。せめて、己の役割をほんの一つ、いやほんの一匙でも果たして、みんなに逢いに行きたいとは思っている。

日本仏教見聞録 高尾山

平成二十八年大晦日。日本仏教本山を訪ねる旅を、この晩夏より始めた私とT君が、この年最後に訪れたのは高尾山である。私は高尾山に登るのは二度目である。いつもハイカーや、行楽客で混雑している人気の山だが、近頃は外国人登山客が急増している。この日も、大晦日にも関わらず、麓から多くの外国人がいた。実は今回、あえて大晦日を狙って高尾山に行ってみた。正月は、初日の出見物や、薬王院の初詣客で相当に混むのは必至。大晦日ならば、静かなのではと踏んでいたが、その思惑は見事に外れた。思いの外に混んでいる。まぁ、高尾山とはそういう山なのである。新宿から小一時間もあれば行ける身近な山。標高五百九十九メートルと高山ではないが、周囲にも高い山がないため、絶景を楽しめること。ケーブルカーやリフトでも登れること。そして何と言っても、晴れた日には富士山を拝めることが人気の要因のようだ。外国人ならずとも、高尾山は概ねこんな理由から、昔から関東地方の人には、お馴染みの山である。驚いたことに、高尾山の年間登山者数は二百六十万人超で、これは世界一らしい。世界一の登山者数を誇る山が、日本の首都東京にあるのも面白い。

麓で名物のとろろ蕎麦で腹ごしらえ。多摩地区は昔から蕎麦栽培が盛んである。深大寺あきる野も蕎麦が有名だが、高尾山もまた、地産の蕎麦と自然薯のとろろが実に美味しい。以前来た時は、麓から登山したが、今回は大晦日のこととて、慌ただしく出かけたので、私たちはケーブルカーを利用することにした。絶好のお天気だ。ケーブルカーも、山手線並みに混んでいて座れない。日本一の急勾配を登る高尾山ケーブルカーは、聞きしにまさるもので、立っていたからなおさら傾斜がキツく感じた。こんなところに、よくこんなモノを作ったものだと、つくづく感心する。人間の山への憧れは、昔も今も果てしない。紅葉はもう終わっていたが、冬枯れの山もなかなか美しい。この山は、もともと修験道の霊山として、太古より信仰されてきた山でもある。私はそういう部分を見てみたい。

高尾山薬王院有喜寺は、成田山、川崎大師と並び、真言宗智山派大本山とされる。だが寺の歴史は、智山派の歴史よりもはるかに古い。寺伝によれば、天平十六年(744)聖武天皇の勅命で、東国鎮護のため、行基によって開山されたとある。聖武天皇は、各地に国分寺国分尼寺を建立し、奈良の東大寺を総国分寺と定め、仏教の力を借りて国を統一することに成功する。高尾山からさほど遠くないところに、武蔵国分寺や相模国分寺があり、これらとほぼ同時代に薬王院が建立されたのをみると、この頃から、この山が霊山として信仰されていたことがわかる。天平時代、現世利益を尊ばれて、薬師信仰はピークに達する。この寺の本尊も薬師如来で、これが薬王院と称する由縁である。行基菩薩といえば、良弁とともに聖武天皇の手足となって、日本仏教の底上げを図った。行基は、修験道の祖である役小角と並び、津々浦々に伝説がある。ただ役小角よりも、もっと民衆の近くにいた。そして後に、この役小角行基の襷を受け継いだのが、空海ではなかったか。そう考えると、日本仏教のある路線に一つの系譜が見えてくる。役小角行基菩薩→空海。他にも白山修験道の祖である秦澄、帰化人で東大寺建立に尽力した良弁、南都仏教からの脱却のため比叡山へ篭った最澄も、ただ一人山中に分け入り修行したという点で、同じ系譜といえよう。いずれこのあたりから、仏教は日本古来の神々と融合していった。日本の八百万の神々は、様々な仏の化身という本地垂迹は、実は神は仏ではなく、この国に仏教が根ざすために、日本在来の神の力を借りねばならなかったという説を唱える人もいるが、それには私も同感である。 後に触れるが、神仏習合が今も生きている高尾山に来ると、日本仏教の興隆期を如実に垣間見ることができる。

浄心門から参道に入ると、杉の巨木が亭々と聳え、石仏やお堂が点在している。ここらあたりから、行楽の山とは別の、信仰の山としての霊気がひしひしと迫ってくる。少し歩くと、見上げれば右手の丘の上に、白亜の仏舎利塔が現れる。こうしたストゥーパは、戦前から戦後にかけて、各地に建立された。中には、経年劣化が著しいものを見かけることもある。それはもはや遺跡のような有様で、薄気味悪いことも間々ある。でも、高尾山の仏舎利塔は、大変よく手入れされており美々しい。塔の先端は、大晦日の空を切るように屹立している。この巡礼でも、度々お目にかかるこうした仏舎利塔だが、この先もまた見られるであろう。塔の前の広場には、天狗の像があって、結界が張り巡らされている。修験者以外の立ち入りを禁ずる立て札があるから、ここでは何らかの行が、行われるのだろう。高尾山中には、こういう場所がいくつか見られる。どんな行をするのか、とても興味がある。お寺によれば、日帰りとか宿泊しての体験修行があるらしいが、それは修験道のほんの一部を覗く程度にすぎないだろう。実際の山伏たちは、私たちには想像を絶する、過酷な行を間断なく行い、ひたすらに世の平安を祈念し、秘法呪法を会得しながら、自身の求める仏道を邁進する。千日回峰行も、葛城山大峰山も、出羽三山も、白山や富士山でも、本当の行は、真夜中に秘密裏に行われているはずだ。興味本位などでは、到底務まらない。山伏とは読んで字の如く、真に山にひれ伏し、神仏に身を委ねる者を云う。そうするうちにいつか、山の神と出逢い、秘法呪法を授かるのだろう。拙き私などの文章で、千数百年の修験道について、語ること自体が土台無理なのだが、私は修験者を尊敬しているし、彼らを生き仏であると信じている。

高尾山中では時々、どこからともなく山伏の吹く法螺貝の音が聴こえてくる。その音は、山から山へとこだまする。魂の叫びにも聴こえるし、吐の底からの笑い声にも聴こえるし、哀しき泣き声にも聴こえる。 仏舎利塔からさらに登ってゆくと、茶店の先に四天王を配した山門に出た。山門の真ん中には、巨大な天狗のお面が、物凄い形相でこちらを見ている。山門を潜ると、右手にはまた天狗と烏天狗。ここの天狗は楓の団扇を手にして、楽しそうに踊っているようにも見える。「ようこそ高尾山へ」と歓迎されているようで、こちらもうれしくなる。天狗は、恐ろしい形相なのに、どこか親しみを覚えるのは何故であろうか。ここは天狗のおわす高尾山。この山のシンボルは天狗である。京都の鞍馬山など、日本各地で、天狗は山の神と云われ畏怖されている。天狗は修験道の守護神なのだ。高尾山がこう賑やかだと、なかなか今の世に天狗は現れないだろう。が、閑散とした逢う魔が時や、真夜中に行者たちが秘密の行を修する時、あるいは現出するのかもわからない。ひょっとすると、昼間は例の天狗の隠れ蓑で姿を消して、大木のうえから、絶えず我らを見ているのかもしれない。この山を歩いていると、ふとそういう想像を掻き立てられるし、一人で歩いていれば、そんな気にもなってくるだろう。 ちょっと怖いが、恐る恐るも、遭遇してみたい。それが私の天狗に対する想いである。

そもそも日本人と天狗の関わりは深い。天狗は、日本固有の修験道仏教と結びつくが、また庶民にこそ親しまれてきた神でもある。それは、あの長い鼻がどこか可笑しいからでもある。でも、それは山の神の恐ろしさを緩和するために、敢えてそんな出で立ちになったのかもしれない。鼻高々で有頂天になることを、「天狗になる」というが、今、天狗から後指をさされているのは、私たち人間なのではあるまいか。古代より人々は、山海から食物を得て、生き存えてきたのだから、当然、山や海に生かされていることに感謝した。また、それに決して抗することはせず、貴賎を問わず崇拝したのである。草木国土悉皆成仏と云われるとおり、生きとし生けるものすべてに、魂が宿ると信じ、人もまたその中で生かされているとわかっていた。ことに、山容全体から霊気を醸し出す山は、神山として崇められた。日本各地にたいていは、その地域の人々に拝まれた山があり、山の神が祀られている。そして、里人たちは、豊作と安寧を祈る祭をして、神々への感謝と忠誠を誓った。或いはまた、怒りを静めるべく、ご機嫌をとったのである。そうした祭は、今に伝わって、私たちも同じことを体感体験している。現代人も山を眺めれば、自然に手を合わす人もいるし、形を変えながらも、山を仰ぎ拝むことを忘れてはいない。富士山が日本人の信仰の総本山とも云えようか。その富士山を遥拝できるのが高尾山である。もともと高尾山は、富士山の遥拝所であったのかもしれない。果てしない修験道のことを考えていると、ふとそういう考えまで浮かんでくる。

高尾山には神仏習合がわかりやすく残っている。 ここには薬王院いう寺と、鳥居のある飯綱権現堂が並存する。本堂から左手に、少し上がると、権現造の見事な社殿があり、一帯は多くの神々が祀られている。明治の廃仏棄釈まで、日本の多くの寺社では、こういった神社と寺が混在する風景がごく当たり前にあった。日本人は、神も仏も同じく敬い、大切にしてきたのだ。そうした寺は、神宮寺とか別当寺と呼ばれた。確かに明治維新は、日本史上最大の変革を成し遂げたが、そのぶん無くしたもの、傷つき痛んだものも、また多くあった。戊辰戦争で、偽りの下剋上を目の当たりにした輩や、戦に参加できなかった連中が、憂さ晴らしにやったとしか思えぬ暴挙。国家神道を推し進めたのは、政府ではなく、民衆であった。言い換えれば、国民はそういう風に巧妙に仕組まれたのである。それが廃仏棄釈ではなかったかと私は思う。

権現堂を過ぎて、弘法大師を祀る大師堂、不動明王を祀る奥の院を過ぎれば、山頂への最後のアプローチとなる。十分ほど歩けば山頂だ。 快晴の大晦日。高尾山頂は、言葉などいらぬ絶景。東には茫漠とした大東京をみはるかす。傾きかけた西日の彼方には霊峰富士。やはり今日ここへ来てよかったと、心から思える瞬間であった。すべてはこの瞬間のために、この一年を無事に生きてきたのではなかろうかとさえ思ったものだ。そう思わせる実に崇高な眺めであった。山頂は多くの人々で溢れていたが、皆一様に笑顔であるのが印象的であった。それぞれの人生の垢を、大晦日であるこの日に、ここですべて洗い流して、明日からの平成二十九年に向かう。冬の西日はあっという間に残照になりつつある。私たちはゆっくりと下山することにした。

日本仏教見聞録 増上寺

私は二十数年東京に住み、私なりに大好きな江戸時代と徳川家を覗き見てきた。そんなワケで、今まで増上寺には数え切れぬほど来ている。東京にいる限りは、毎年暮れに増上寺へ参詣し、初詣は上野の寛永寺と決めている。徳川に心酔している私にとって、この二つの寺と、小石川の伝通院、音羽護国寺は、徳川家ゆかりの江戸四大寺院なので、最低でも年に一度は必ず御参りする。此度の本山巡礼にあたり、浄土宗七大本山のひとつに挙げられるこの寺を、避けては通れまい。年末年始の増上寺は混むため、比較的静かな日時を選んで、一年無事に過ごせたことを感謝する、年末恒例のお礼参りを兼ねて訪ねてみた。増上寺には徳川将軍の霊廟がある。個人的な御参り以外にも、観光に来た人にボランティアで案内したこともあるし、歴史や寺社が好きだという友人を連れて歩いたことも多い。現代の東京にこれほどの巨寺は、増上寺浅草寺以外に見当たらない。だが、浅草寺と決定的に違うところは、普段の増上寺はとても静かであることだ。初詣や節分、近頃ではライブとか薪能なんかも催されているが、そんなイベントの日以外は、実に静かなのである。浅草寺のそれはそれでいい。あれが浅草である。増上寺は浅草の賑わいには劣れど、天まで突き抜けるような広々とした境内は、いつ来ても気分が良い。

浜松町から増上寺総門である大門をくぐれば、日比谷通りの向こうに朱塗りの立派な三門が、葵の御紋の幔幕をはためかせてその雄姿を見せる。三門は正式には三解脱門という。貪り、怒り、愚かさの三つの毒から離れて、極楽浄土に入る心をつくるための門だと云われる。広重など江戸の一流絵師たちにも、挙って描かれてきた三門は、伽藍のほとんどを戦災で失った増上寺に、平成の今も江戸の残影としてここに在る。私は数年前に、この三門に登ったことがある。階上には、釈迦三尊像十六羅漢像が安置されていた。上からの眺めは、今はビルの群ればかりであるが、江戸の頃は芝浦沖から房総まで見渡されたとか。私はしばらくそこから離れられず、遠い昔に想いを馳せた。毎年正月、箱根駅伝の選手は、往復この門前を走る。この三門が今に残ってくれて本当に良かった。この門があるだけで、浄土宗大本山の名に背かない。三門をくぐると、いつも不思議な感覚になる。本堂にあたる大殿の背後に聳える東京タワーが、あたかも五重塔か、ストゥーパの如き仏塔に見えてくるからだ。京都や奈良ではお目にかかれない、東京ならではの寺の風景である。東京タワーのあたりは、もともと増上寺の墓地があったところだから、鎮魂の塔といってもいいかもしれない。タワーが建ってから五十年以上が過ぎてみれば、今では増上寺にはなくてはならぬ絵となった。

三縁山広度院増上寺は、明徳四年(1393)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により、江戸貝塚(今の紀尾井町あたり)に開かれた。徳川家康が江戸に入り、江戸城の増改築のため日比谷へ移転、さらに江戸城外曲輪が広がるに連れて、付近の寺社はさらなる移転を命じられた。神田明神は湯島へ、山王社は溜池へ、増上寺は芝へ。家康のふるさと三河岡崎にある大樹寺が、もともと徳川家の菩提寺であり、浄土宗であったゆえ、家康が江戸入府の際、割合すんなりと増上寺菩提寺に定めた。いきさつは諸説あるようで、煩いので省くが、そもそも浄土宗は、鎌倉北条政権以来、武家政権に厚く信仰されてきた。それは権門とも、他宗派とも争わぬ、闘わぬ一派であったからで、浄土宗の開祖法然上人の人柄が、そのまま宗派の教えとなり、色となったように思う。同じ浄土門で、のちに袂を分かつ浄土真宗は、一向一揆を見るように、闘う一団になっていった。同じ浄土門でも、教義や行動に違いがあるのが、いかにも日本仏教らしくておもしろい。真宗のことは、いずれ真宗寺院を訪ねた時にまた書くとして、浄土宗は争わない宗派ゆえに、徳川幕府からも庇護されて、大きくなっていったのだ。思うに古来、農耕民族として生きてきた日本人に流れる血を、もっともよく顕した宗派が浄土宗であり、浄土宗は禅宗と並ぶ、日本仏教の代名詞的存在とも言えるのではないだろうか。因みに、「増上」とは仏語で、「力が加わり増大して、強大であること」を意味する。法然が興した易行念仏の教義は、権力者から民衆まで、余すところなく広がり、今日も信仰され続けている。

いうまでもなく浄土宗総本山は、京都の知恩院であるが、徳川時代増上寺は、知恩院を凌駕するほど大きな力をつけていた。ここは、常時三千名を超える浄土宗の学僧が修学に励む、関東十八壇林の筆頭寺院であった。壇林とは僧侶の養成所、または学問所で、浄土宗においては、関東十八檀林のみが幕府より許可された檀林であった。知恩院法然聖蹟として、格式は高い寺院であったが、当時は総本山という位置付けは明確ではなく、公方様のお膝元に在る増上寺が、浄土宗の中心であったことは間違いないだろう。徳川将軍十五代で、家康と家光は日光、慶喜谷中霊園に埋葬されたが、残りの六人ずつが増上寺寛永寺に埋葬されている。増上寺寛永寺は双璧の菩提寺となるが、江戸開府以前から徳川家に付き従い、家康の葬儀も増上寺で行われたことから、増上寺としては将軍家の菩提寺は当山という自負があり、はじめのうちは寛永寺と悶着もあったらしい。だが、六代家宣を増上寺に埋葬し、以後は交互に歴代将軍を埋葬するというのが慣例となる。さらには寛永寺江戸城の鬼門を、増上寺は裏鬼門を守護するという役割も担っていた。最後まで揉めずに、現実を受け入れる姿勢を持ったところに、浄土宗らしい争わぬ寛容さが垣間見える。それが結果的に、増上寺をさらに大きくし、日本有数の大寺院へと発展させるのである。

今でも境内は一万五千坪以上あるが、往時は二十五万坪もあった。寺領は大名並の一万余石。境内には、四十八の塔頭子院、学寮百数十軒が立ち並び、寺格百万石とも称えられた。かつては伽藍を取り巻くように、徳川家の霊廟が配されていて、日光に匹敵するほどの絢爛な佇まいを魅せていたが、昭和の戦争で灰燼に帰した。当時の古写真が残っており、その壮麗さが偲ばれる。実に残念至極。今、此処にあの荘厳な霊廟があれば、きっと世界遺産であろう。私は明治三十四年に描かれた、増上寺の鳥瞰図を持っているが、今の芝公園から東京タワー、飯倉のあたりまですべて増上寺である。それを見ているだけで心が躍る。

永井荷風は幼い頃に両親とこの霊廟を訪ねて以来、ここに魅せられた一人である。明治四十三年に書かれた随筆「霊廟」では、ヴェルサイユ宮殿にも劣らないと絶賛している。荷風は、同じく徳川家の菩提寺である小石川伝通院の近くで育ち、随筆「伝通院」でも、パリにはノートルダムがあり、浅草には観音堂があり、小石川には伝通院があるという。荷風が、増上寺霊廟も、伝通院も、フランスの世界的名建築と比較しても劣らないと言ったのも、いかにも明治人として、西洋への対抗心を露にした感があるが、これはあながちハッタリとも思えない。かつてそれほどのものが、圧倒的存在感を放ちここに建っていたことは事実である。鬱蒼たる森に囲まれて、歴代将軍と徳川一族の霊廟が、燦然と点在していたのだ。増上寺は徳川家の総菩提所であった。

二代秀忠の正室お江と、十四代家茂の正室和宮。いずれも御台所として、一人は戦国を生き抜き、徳川政権初期を支え、一人は幕末動乱を生き、江戸無血開城と徳川家存続に多大なる働きをした。この二人の波乱に満ちた生涯は、実にドラマティックで、いつか私も描いてみたい人物である。二人とも今は、一箇所に肩を寄せ合うように並べられた徳川家霊廟で、最愛の夫の横で安らかに眠っている。大殿に隣接する安国殿には、家康の念持仏として有名な黒本尊が安置されている。黒本尊は長い間、香に燻されて黒いお姿となった阿弥陀如来立像で、和宮は家茂が上洛の折、この黒本尊を大奥へ勧請し、毎日御百度を踏み、熱心に夫の無事を祈願されたと云われる。明治以前、男たちの荒らした後の始末は、女たちが担うのが、この国の伝統であった。昔の人は、男も女もそれを重々わかっていたから、あえて男尊女卑な振る舞いを許し、名目上は男を立てて誤魔化したのかもしれない。そのあたりが、今、声高に叫ばれる男女同権よりも、はるかに格好良く、日本人には合っていると私は思う。本当にここぞという時に、力を発揮するのに男女の別などありはしない。ひけらかす今の風潮に、先人たちは何を思うであろうか。

巨大な増上寺の伽藍にあって、圓光大師堂は、最近の増上寺で、私が一番のお気に入りの場所である。いつも閑散としていて、静かなのが何よりで、大殿のいかめしい甍を眺めながら、ぼんやりと佇むのは心地よいものだ。景光殿に寄り添うように、和宮ゆかりの貞恭庵という茶室があり、このあたりにさらに落ち着いた風情を添えている。

増上寺周辺には、江戸時代からの見所も多い。今ではずいぶん数が少なくなったものの、戦前までは多くの子院塔頭がひしめいていて、寺町を形成していた。秀忠廟の手前には今も残る芝東照宮がある。今はこじんまりと佇む芝東照宮だが、神君家康公を祀る東照宮は、昔はかなり大きく、家康の院号から東照宮安国院殿とも呼ばれていた。

大門の近くには、芝神明宮がある。関東のお伊勢様と呼ばれ、幕府大名から江戸庶民に崇敬された。このあたりには昔、岡場所や陰間茶屋などの売春宿から、芝居小屋まであり、東海道往来の旅人や、おかげ参りをする人々で大いに賑わった。芝居や講談で有名な「め組の喧嘩」の舞台はここである。

北に少し、江戸城の方に行けば愛宕山がある。山頂には、家康が京都の愛宕山より勧請した愛宕神社が鎮座している。私はここが大好きだ。江戸の名残を随所に感じることができる。漂う空気が江戸なのである。愛宕山は東京23区で最も高い山で、出世の石段と呼ばれる階段は、相当に急な傾斜である。この日もちょっと寄ってみたが、身延山久遠寺の菩提梯には及ばぬものの、久しぶりにそれを思い出しながら登ってみた。愛宕山は江戸時代、八百八町をみはるかす風光明媚な名所中の名所であった。浮世絵や錦絵にも多く描かれている。また、幕末の桜田事変の当日、決行の浪士たちは、品川宿の旅籠を三々五々に出て、愛宕山頂に集い、降り頻る雪の中、桜田門へ向かった。境内にその記念碑があるが、愛宕神社の裏手には、その時の烈士たちの血の気を含んだ、怨念のようなものを感じる薄気味悪い一角が確かに今も存在する。

愛宕山から増上寺へ歩いていく途中に、曹洞宗の古刹青松寺がある。青松寺はもともと増上寺と同じく貝塚の地にあったが、江戸城拡張により移転、おそらくは増上寺とともに移転したのだろう。あの駒澤大学の前身となった寺であり、今でも東京を代表する曹洞禅の寺である。江戸時代には、高輪泉岳寺駒込吉祥寺と並び江戸曹洞宗の三大道場であった。寺伝によれば、寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。明治八年(1875)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校し、翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併して、今日の駒澤大学へとなったとある。増上寺にしろ、青松寺にしろ芝愛宕の地は、江戸時代の総合大学であり文教地区でもあった。

増上寺の近くで、もうひとつ私好みの江戸へ行ける場所がある。神谷町駅から程近いところにある西久保八幡神社である。ここも大いに江戸の残り香漂う所で、やはり急な石段の上に、ぽっかりと広がる境内はいつ来ても静かである。江戸名所図会にも描かれており、当時は茶店が立ち並び賑わっていた。この神社は池波正太郎の作品にも登場する。芝神明も西久保八幡も寛弘年間(1004~1012)の創建と云われるから、増上寺より遥かに古い社である。増上寺の表を芝神明が、裏手を西久保八幡が守るように鎮座しているのも興味深い。

最後に永井荷風の随筆「霊廟」から、増上寺と現代の江戸東京を語るにもっとも印象的、かつ相応しいと感じた文章を、少し長いが原文のまま引用したいと思う。

「己に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山の大伽藍を灰燼となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くて美しいものは見る見る滅びて行き新しくて好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接しえるのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在なるの道を照す燈火である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処に頼るべき途があろう。」

かつて私は、この一文を読んで、とてつもない感銘を受けた。そして、ただ好きな歴史、日本史を漫然と趣味としてやるのではなく、これから先を生きる未来の日本人から、私の生きた時代が「恥ずべき時代」と罵られないためにも、しっかりと歴史と先人達を見て、学び、確かめながら、守るべきものは護り、受け入れるべきものは寛容に、上手に受け入れながら、次世代へとつないでいかねばならぬと心に誓った。私の出来る事といえば、文章を書くことくらいであるが、百年後、千年後の人々から、二十一世紀とはどういう時代であったのかを、今、同時代を生きる人々と共に、誇らしく知らしめてやりたい。それが私の一番の野望であり、願いである。この日本仏教本山巡礼も、そうしたモニュメントのひとつとなれば幸甚の至り。増上寺という寺が、年始のカウントダウンのイベントをはじめ、現代東京の市井の人々に寄り添い、また浄土宗信者の崇敬を集めながらも、今も高尚な威厳を維持している意味がよくわかった。増上寺は、浄土宗大本山として、徳川家の寺として、東京の寺院の王者としての風格を纏い、二十一世紀も大東京の真ん中に君臨する。

箱根駅伝賛歌

毎年、年明け一番のお楽しみは、箱根駅伝である。百年近い歴史を刻んできた、この日本一有名な駅伝競走は、毎年いくつものドラマティックな展開があり、約六時間の長丁場、片時も目を離せない。私は普段からあまりテレビを見ないが、箱根駅伝だけは、往復全てライブ観戦する。こんなにテレビの前に釘付けになる十二時間は、これからもないだろう。箱根駅伝は、正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」という。そもそもこの駅伝競走は、関東学連の加盟校のみ参戦する、地方大会のひとつであるが、テレビで全国放送されるようになった三十年前から、人気沸騰しはじめたらしい。今や駅伝の代名詞ともなり、新春の風物詩となっている。近年は、箱根駅伝燃え尽き症候群などど言われたりして、その開催自体に賛否両論あり、不要論まであるというが、私としては、この偉大な大会を今後もつないでいってほしいと思う。若人が純粋で逞しく、満身創痍となりながらも、死に物狂いで先輩から後輩へ、後輩から先輩へと襷をつなぐ姿は美しい。私は見るたびごとに感動する。監督は、走者の背後から的確に指示を出し、叱咤激励しながら導く。師と弟子とは何たるかを、体現して見せてくれている。そこには甲子園と並ぶ、本物のスポーツマンシップがある。

出雲駅伝全日本大学駅伝箱根駅伝の三レースは、「大学三大駅伝」と呼ばれる。そして、同じ年度の全大会に優勝すると、「三冠」と称される。徐々に距離が長くなってゆくところは、競馬のクラシック三冠競走(皐月賞日本ダービー菊花賞)のようで、競馬も楽しむ私などには、そういうところも興味深い。三冠のコースも良い。出雲、伊勢、東海道と、歴史浪漫溢れる風景を、颯爽と走り抜けるのだから、それだけでも見ていて気持ちが良いものだ。これまで、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の三校が三冠を達成しているが、先に述べたように、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は、三冠を達成することはない。また大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝完全優勝しての三冠を達成した大学は一校もない。三冠が、いかに高き高き壁であるのかが知れよう。今年、往路三連覇の青山学院が、復路も制して総合優勝を果たせば、史上初の三冠完全制覇ということになる。優勝だけではない、熾烈なシード権争いも見もので、最後まで目が離せない。

大学三冠の中で、他の二冠は全国大会なのに、箱根駅伝がもっとも人気があるのは、やはり往路、復路を二日かけて走るからであろう。そして、二日間十区には、様々な展開、ドラマがある。それはいかにも日本人が好む、大河ドラマなのである。箱根駅伝はそのコース、そして全十区の距離配分が絶妙だと思う。時々コースや区間の距離変更があるものの、概ねは変わりない。いつも大会終了後に様々な問題点を炙り出して、常に学生選手のことを考えて、計画、運営されている。だから、これからも箱根駅伝は進化し続けることだろう。こういうところにも、私は賛辞を送りたい。各校のエースが投入される二区は「花の二区」と呼ばれるが、私としては何といっても、最大の見所は、文字通りの山場たる五区である。これぞまさしく箱根駅伝といえる、全区間最大の難所で、今年から再び距離短縮されたとはいえ、小田原中継所から国道一号最高地点まで、標高差864メートルを一気に駆け上がり、そこから芦ノ湖までの約4キロは少しずつ下りとなるのだから想像を絶する。天下の険を、あのスピードで走るなど、人間やろうと思えば何でもできるものだと、痛感させられる。これまで、数々の名勝負が繰り広げられてきたのも、山登りの五区であり、ここで一気に形勢逆転することもよくある。五区では、これまで三人の「山の神」と称号されるランナーも現れた。世の中、何でも神という風潮になって久しいが、近頃は何でもかんでも「神」呼ばわりしすぎではないか。本当に「神の無駄使い」だと思う。いくら八百万の神々のおわす日本の国とは云え、乱発しすぎである。山川草木や動物たちには神は宿るが、地球上でもっとも汚らわしい人間には、そんなに簡単に神様は降りて来ないと思うのは、私だけであろうか。人間は一番穢れているからだ。人間には、神よりも鬼や夜叉が相応しい。でも、箱根路には間違いなく、数年に一度「山の神」が現れる。天下の険を、直向きに、無邪気に走る者に、神は降臨するのである。私にとっては五区こそが、箱根の花である。

いよいよ、今日は復路だ。往路優勝青山学院と、二位の早稲田大学の差はわずかに33秒。青学セーフティリードの昨年とは、大きく違う展開になるであろうし、とても見応えのある、手に汗握る復路になることは間違いあるまい。追われる青学か、追う早稲田か。はたまた、第三の大学の漁夫の利が見られるのか。今の時点ではまったく予想がつかぬが、私個人としては、やはりどうしたって、青山学院の三連覇と、史上初の三冠完全優勝達成をこの目で見たい。こんな機会はそうそうないのだから、是非とも見てみたい。神は山だけでなく、駆け抜ける選手全員に降臨することを、心から祈念している。箱根駅伝万歳。

泰然自若

私の座右の銘。長年探してきたが、この歳になり、この度ようやく感得した。泰然自若。この言葉が、私には最もしっくり来る。そこにはいつもこう在りたいと、切なる願いも込められている。

世の中まことに忙しない。私もいつも忙しない。仕事、家族、人間関係、些細な事で、バタバタと取り乱してしまう。私は、慌てふためき、取り乱すことほど、恥辱的なことはないと常々思って生きてきた。冷静沈着に物事を見つめ、相対的に見定め、少し下がって俯瞰する。それを嫌味もなく、ごく自然に振る舞えたら。それが、私が目指している理想の生き方なのである。それでも未だ若輩者。取り乱すことの方がまだまだ多い。僅かずつでもいいから、歳を重ねるごとに堂に入りたいものである。

 今年の有馬記念は、三歳馬サトノダイヤモンドが、名うての古馬陣を撃破した。彼は、泰然自若を体現するサラブレッドである。パドックでも、本馬場入場しても入れ込まず、実に堂々たる勇姿で、早くも老練いぶし銀な風格を備えている。私はもう二十年以上、競馬を観てきたが、あんなサラブレッドは久しぶりに出逢った。強い馬、名馬はたくさんいるが、馬体全身から、あの種のオーラを放つ馬はそうはいない。競馬を楽しむ人ならわかるはずだ。サトノダイヤモンドの父ディープインパクトは、確かに強い馬であったが、どこか子供みたいな、うぶで親しみを持てる、可愛い馬であったように思う。だが、ラストランの有馬記念では、鬼の形相で圧勝していた。あの時ばかりは、いつものディープインパクトではなかった、極限の仕上げを施されたゆえだけではないだろう。神が宿るとは、ああいう顔をいうのだと、私は思っている。だが、そのディープインパクトには感じなかった、他を圧する独特の雰囲気を、言うなれば真の王者の貫禄を身に纏っているのが、その子サトノダイヤモンドである。かつては、エアグルーヴエルコンドルパサータイキシャトルシンボリクリスエスキズナが、私にとっては泰然自若を体現する、忘れ得ぬ名馬であった。現役時代は見ていないが、おそらく三冠馬シンザンシンボリルドルフも、古い映像や写真からは、サトノダイヤモンドと同じオーラを感じる。サトノダイヤモンドの調教師や、騎手に言わせれば、彼の馬体は、まだまだ緩く、幼くて、完成するのは来年の秋だというから空恐ろしい。完成すれば、もっと爆発力を発揮できるという。古馬の大将キタサンブラックも、サトノダイヤモンドに負けず劣らず素晴らしい馬で、今年最後の大一番でデッドヒートを繰り広げた二頭は、いずれも神の領域に達する駿馬であろう。二頭とも決して派手な勝ち方はしないが、私にはそんなことはどうでもいい。シンザンや、シンボリルドルフがそうであったように、ゴール板で少し抜け出せばいいのだ。いわゆる剃刀の切れ味ではなく、鉈の切れ味である。勝ち方よりも、本当に強い馬の泰然自若とした、あの雰囲気に私は酔いしれ、競馬に心惹かれるようになった。何年かに一頭しか現れない優駿。まだ三歳のサトノダイヤモンドに、来年も期待したいし、見つめていたい。

 人間でも泰然自若を地でゆく人はいる。本物の王侯貴族、宗教家、茶人、噺家能楽師、指揮者、演奏家、画家、歌手、アスリート、俳優、そして競馬の騎手にも、そうしたオーラを放つ人がいる。忘れてはならぬのが、京都人。生粋の京都人は、世界で一番泰然自若としていると、私は信じている。いや、京都人どころか、京都という街、それは平安京全体から、そこはかとなく感じることができるのだ。私も、いつの日にか不動の心を持てる人間になれたらと、願わずにはいられない。茶の湯の稽古を始めたのも、泰然自若とした己を修得せんがためで、坐禅もまた然りである。

平成二十八年が終わる。皆様はどんな一年でしたか。私は本厄が終わり、いよいよ後厄。まさしく泰然自若として、乗り切っていきたいと思っている。良いお年を。