弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

桜守

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

桜の頃、私はいつも業平のこの歌を口遊む。暑さが苦手な私は、春夏よりも秋冬を好む。梅が散って冬が終わり、花の便りが届きはじめると、若干鬱々としてくる。春空の下、私は己が雲路の中を彷徨う。でもやっぱり桜は気になってしまう。方々で花開き、名所や名木の花を見れば、心逸る気持ちを抑えることができない。こうして桜は、春の私に追い打ちをかける。桜が無ければ、もう少しのんびりと、いつまにか初夏になり、夏になってゆくだろうに。桜は慌ただしく、四季の移ろいを急き立てるのだ。が、桜が無ければ、日本人の春は来ない。そして私は、和泉式部のこの歌を口遊む。

のどかなる時こそなけれ花をおもふこころのうちに風は吹かねど

桜はソメイヨシノだけではない。寒桜に始まり、御室の桜や奥の千本まで咲き誇ってもなお、北国の桜が終わるまで、桜は日本の春の句読点である。最近はどうもソメイヨシノを貶す輩もいるが、植木職人や研究者のように、桜に携わっている者が言うならばいざ知らず。聞き齧りでソメイヨシノや、それを日本の桜と信じる花見客を、鼻で笑う連中がいる。いっそ私は、彼らにこそ憐れみを覚える。確かに、日本に古来からある彼岸桜、山桜、八重桜、枝垂れ桜などは名状し難い。私だってお気に入りに桜は、エドヒガンの老木である。が、ソメイヨシノソメイヨシノで良いと思う。あれほど明るく、全体に花をつける桜はない。江戸人が創り出した賜物で、言うなれば桜のサラブレッドである。ソメイヨシノは、もの想うことに苦慮する今世には、わかりやすくて、似つかわしい桜だと思う。そして、数ある桜の中で、ソメイヨシノはもっとも寂しさを纏っている気がする。明暗表裏一体の桜といえようか。ソメイヨシノには、明るさと寂しさが同居する。花に罪は無い。どの花も同じように愛したい。

私にも、お気に入りの花見スポットがある。それは、誰もが知っている場所から、知る人ぞ知る場所までいろいろとある。どこの桜も好きだ。なるべくならば、人の居ない静かな所で、たったひとりで、いや桜と二人きりで対面できる所がベストだが、千鳥ヶ淵や上野公園、飛鳥山や吉野のように、たくさんの花見客で溢れる所も悪くはない。如何にも、現代日本の花見を象徴していると思う。まあ、マナーの悪い乱痴気騒ぎはどうかとは思うが、老若男女が心を一にして、春を寿ぐことは、素敵なことだと思う。

私はこの季節になると、愛読書も桜をテーマとした小説や、物の本になる。今年は水上勉の櫻守を読んだ。先年、小説の舞台である海津の清水の桜を知り、早く読みたいと思っていたが、買ってすぐには読まないで、この時季まで待っていた。私には時々こうした本がある。買うには買うのだが、しばらく置いておいて、読み時が来たら読む本だ。もちろん買ってすぐに読む本もある。本にも、時節、自らの体調、心境によって、読むタイミングがあると思っている。

話は逸れたが、櫻守を読んで、すっかり水上勉に落ちてしまった。ここでこの物語を事新たに言うつもりはないが、水上さんの言葉紡ぎは、まったくナチュラルで美しい。いかにも桜の花弁が舞うかの如く、はらはらと、瞬く間に読み耽ってしまった。衝撃的なラストを迎えた時、私もさすがに涙を抑えることできなかったが、主人公の弥吉は、人生を桜に献げ、愛した桜の下で眠れるなど、思えば幸せなことである。桜の下で眠ると云えば西行とてそうだ。

春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

櫻守には、日本各地の桜の名所名木が出てくる。櫻守を読むことで、私自身もその場で、弥吉らと同じ桜を眺めている様であった。それが何とも心地よくて、うれしくて、切なかった。櫻守のモデルとなった笹部新太郎氏は、文字通り全生涯を、桜を守り育てることに献げられた方だ。今でもその意志を引き継ぐ人がいて、私たちの知らぬところで、桜を守っている人たちがいる。桜は、ほったらかしでは上手く育たないらしい。定期的に剪定し、土壌管理、蔦や宿木の除去、虫食いの治療や予防など、人の助けがないと生きられない桜は、人の近くで、人と共に生きている。あれだけ美しい花をつけるのも、受粉だけではなく、人を呼ぶために、桜が身につけた術なのかもしれない。桜だけではない、いつもどこかで樹木を、森を、山を、川を、海を人知れず守っている人がいる。彼らは行政などでは到底できぬ、きめ細かな愛情を持って寄り添っている。ただ、花を眺めるだけではなく、私たちはそんな人びとにも想いを巡らせながら花見をするのも、たまには良いのではなかろうか。

 櫻守を読んで、もっとも印象的だったのは、日本中の有名無名の桜を、水上さんの微に入り細に入りした、写実的な筆致で堪能できたことである。それぞれの花の名、由緒、姿、色が、まことに丁寧に描かれている。水上さん自身も、桜をかなり研究されたに違いない。そして何よりも、桜を愛した方であったと思う。花を愛でる人にしか描けぬ文章である。櫻守を読んだおかげで、この春は多くの名木と、花に取り憑かれた人びとに囲まれた私。なんだか今年の花見は、もう終わったなという気でいる。

おしなべて花はさくらになしはてて散るてふことのなからましかば

日本仏教見聞録 浅草寺

浅草はなぜあれほどの人を惹きつけるのか。浅草に日本を、あるいは江戸の名残を求めてか。浅草の観音さまは、そこへ来る人々を千三百年もの昔から迎えている。年間の参詣客三千万人超え。日本でこれだけ人を集める寺はない。東京最古にして最大の寺。寺院に勝ち負けとか、優劣などありはせぬが、江戸人のように、寺に番付を付けるならば、浅草寺は東の大横綱である。増上寺も、寛永寺も、泉岳寺も、築地本願寺も、参詣客では、この寺の足元にも及ばない。東大寺清水寺よりも長い歴史もある。ひとつの銀河の如く寺の集まる関西に、東京はほぼこの一寺でもって対抗できる。都内からは富士山もあまり見えなくなり、江戸城も大名屋敷も消え失せた今、江戸自慢の筆頭は、浅草寺だろう。

 この四半世紀、私はしばしば浅草を訪れる。神社仏閣を歩きながらあたりを散歩する。浅草には、観光客でなくとも、覗きたい店がいろいろとある。私も、和雑貨、和菓子、茶道具などを見たり、蕎麦や洋食の名店が多いのも楽しい。時には浅草でレンタサイクルを駆って、吾妻橋を渡り、川向うへも行く。向島は、空が広くて解放感があるも、江戸の果てというような寂寥感がひしひしと迫りくる。業平の歌や、謡曲隅田川さながらの、東国の情趣をたしかに感じられる場所なのだ。梅若塚のある木母寺、桜餅の長命寺勝海舟が参禅した弘福寺墨田区最古の茅葺門が残る多聞寺、牛の御前や三囲稲荷にも江戸の残り香が漂う。白鬚橋から浅草へ戻る時には、石浜神社、玉姫稲荷、橋場不動、平賀源内の墓もあったりする。さらに、足を伸ばせば泪橋小塚原、そして新吉原が控えている。このあたりは江戸時代から裏田圃と呼ばれた。浅草寺の裏との意味だ。裏田圃の先は、浅草寺の奥山になる。関東大震災で、無残にも倒壊した浅草十二階凌雲閣は、今の花やしきの後方に建っていた。その足元には、十二階下と呼ばれるラビリンスがあり、私娼窟が蔓延り、まことに風紀濁るる場所であった。かつては精進落としと託けて、大きな神社仏閣の近くには、似たような場所があった。人間の業は果てしなく深いが、同時に何とも薄っぺらいもの。が、それが人間だ。私たちの祖先を責めることなどできない。今、奥山には花やしきがあり、土産物屋、寄席、居酒屋がひしめいていて、明るく安全で清潔な街になった。しかし一方では、私も立ち寄る場外馬券場があり、ストリップ劇場があり、ちょっと脇道に入ればゲイバーがあったりして、妖しい浅草が垣間見られるのも、この街の魅力である。いつでも大勢の人が闊歩する浅草は、折々でその人出がさらに増す。初詣、桜の頃、三社祭ほおずき市、隅田川花火、酉の市、羽子板市などなど。そんな時はいささか辟易するほどのごった返しだが、風物詩を通して、誰もが江戸の季節感を愛で、浅草パワー健在と思うであろう。

浅草寺の由緒を遡る。推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、桧前浜成、竹成の兄弟が宮戸川(隅田川の浅草あたりの別称)で漁をしていると、投網に純金無垢の観音像がかかった。その大きさは、わずか一寸八分(約5.4センチ)。兄弟は慌てて引き上げると、すぐさま地元の郷士である土師中知のところに像を運んだ。中知は聖観音の尊容であると認め、自宅を草庵に改めて、このありがたい像を祀ったことがはじまりとされる。浅草寺縁起となったこの三人を祀るのが、観音堂の右手にある三社権現(浅草神社)である。三社祭はこの神社の祭礼で、勇壮な宮出、神輿渡御、宮入で有名だ。その後、大化元年(645)勝海上人が観音堂を建立。夢告により、本尊を門外不出の絶対秘仏とした。今の観音堂建立時には、奈良時代の瓦が出土しており、当時は畿内でも瓦葺きは珍しかったが、都から遠く離れた東国の僻地で、すでに瓦葺きの堂宇が建てられたということは、驚くべきことである。ここがいかに当時の人々から崇敬され、暮らしに重きを成す寺であったかが知れよう。

平安時代比叡山から慈覚大師が来山し、本尊を模してお前立を謹刻。以来、天台宗の寺院となる。平氏、源氏、足利氏、徳川氏と歴代武家政権の帰依、寄進を受けてきた。江戸時代には寛永寺の傘下となり、やがて浅草は空前の発展を遂げてゆく。もともと浅草は御府外であったが、浅草と新吉原は繁盛し、やがては江戸随一の盛り場となる。境内には出店、茶店、辻講釈、小芝居、大道芸などが人気を呼んだ。浅草寺の多くの子院、諸堂は庶民の願掛けに人気を集めた。また浅草寺は、坂東三十三観音霊場第十三番の札所である。私はこの本山巡礼とは別に、何年か前から坂東巡礼も廻っているが、遅々として進んでおらず、ようやく今年になって再開した。今回その御朱印もいただくために、浅草寺を訪ねたのだった。坂東巡礼は西国巡礼とはちがって、いささか地味であるが、そこにまた面白さがあり、鎌倉を除けば、だいたいどこの寺もとても静かである。が、やはりここは違う。御朱印をいただく御影堂には、長い行列ができていて、朱印帳を渡してからいただくまでに三十分以上も待った。朱印をしてくれるのは、アルバイトの若い達筆の学生さんらしい。が、いただいてみるとまことに美文字。待った甲斐はあった。昨今の巡礼ブームで、御朱印帳を片手に寺社巡りをする人が俄かに増えたが、俄かであろうと何であろうと、このように寺社に人が集まるのはとてもいいことだ。寺とは本来、分け隔てなく人々が集う場所である。老いも若きも、男も女も、日本人も外国人もこの寺に集まるのは、ここに人が居るからに他ならない。人が人を呼ぶのである。その要であるのが、ここ浅草寺なのである。

浅草寺の総門たる雷門は、正式には風雷神門という。その名のとおり、左右に配された風雷神が守護しているが、いつのまやら雷門と通称されるようになった。雷門は今や浅草の代名詞である。雷門から南に少し歩くと、隅田川に架かる駒形橋のたもとには、駒形堂と呼ばれる小庵があるが、ここが浅草寺の開山堂ともいえる場所で、桧前兄弟が本尊を引き上げたのはこのあたりだと伝わる。雷門を潜ってさらに進む。山門である宝蔵門までのおよそ三百メートルが、これまた日本一の集客を誇る、日本一の参道仲見世だ。私はこのアプローチが大好きだ。世界に誇れる仲見世は、日本の寺の参道の中の参道である。宝蔵門は、その名のとおり階上に宝物を納めたところからそう呼ばれるが、おそらく仏像も安置されていると思う。今の宝蔵門は、戦後に再建されたものだが、江戸時代の浮世絵を見ると、宝蔵門の階上にあがって、眺望を楽しむ人々の様子が描かれている。当時は周囲に高い建物はなく、人々は絶景を楽しんだに違いない。そういえば浅草周辺には、昔から高い建物が建設されるのも面白いことだ。宝蔵門や五重塔に始まり、凌雲閣、花やしきのBeeタワー、浅草ビューホテル、そして今は川向こうのスカイツリー

五重塔は、現在瓦の葺き替え工事中で、全体シートに覆われていたが、東京一の高さを誇り、金色の相輪がきらきらと輝く様は、いつ見ても圧倒される。戦災で焼ける前の五重塔は、今とは反対側の宝蔵門右手にあったが、なぜか戦後は今の場所に建てられた。五重塔は最上階に仏舎利を納める。階下には、大位牌堂と呼ばれる夥しい数の位牌を安置した空間がある。ここは誰でも、自分の身内を問わず、自分の思う人の位牌を納めて供養することができるとかで、昭和天皇、ダイアナ元皇太子妃、マザーテレサマッカーサー元帥まであるという。そもそも浅草寺は、先祖供養もしてくれる寺だ。国境も、言語も、宗教宗派の枠をも超えた、懐の深い、まさに現代の日本仏教を代表する寺なのである。

観音堂と呼ばれる本堂も巨大だ。宝蔵門をくぐって、観音堂のカールした銀色に光る甍を眺める時、私はいつも、観音様がその大きな手を差し伸べてくださって、その掌の中に包まれていくように思えてくる。残念ながら旧観音堂は戦災で焼けたが、再建された今の観音堂も、威厳と風格に満ちている。観音堂と五重塔の屋根は、チタンアルミニウム製の瓦に葺き替えられており、以前よりずいぶん軽量化されたおかげで、建物全体にのしかかる負荷が緩和され、耐震強度も増したとか。本堂前で線香が焚かれる常香炉には、いつも参詣客が群がり、一身に災厄病苦を取り除かんと、その煙に燻されている。これも、浅草寺のお馴染みの風景だ。

浅草寺の御本尊は、未来永劫絶対秘仏とされる小さな聖観音さま。浅草寺は、戦後昭和二十五年(1950)に、天台宗から独立して、聖観音宗総本山となった。しかし、天台宗と喧嘩別れしたわけではない。故に今でも、天台密教の秘法が守り継がれている。毎年寒中に、「温座秘法陀羅尼会」という浅草寺でもっとも厳粛な、極めて密教色の濃い法要が行われている。江戸中期から行われているこの法要は、一月十二日の深夜から十八日夕方までの七日間、百六十八座の修法を行う。浅草寺貫首以下、全住職により休みなく、天下泰平、玉体安穏、五穀豊穣、万民豊楽、世界平和が祈願される。一座終わるごとに、「千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心大陀羅尼」と「観音経」を唱えることから「陀羅尼会」と云われる。昼夜祈祷三昧で、座が冷めることがないため、「温座」と呼ばれるそうだ。法要の間、本堂内陣は幔幕に覆われて、外陣とは遮断される。最終日、夜の帳が降りる頃、幔幕が上がり、最期の一座で参詣者にも結縁される。そして、二人の僧が鬼に扮して現れて、松明を掲げて、災厄を払いながら境内を駆け巡る。こんなことが、現代東京のど真ん中で、寒中に秘かに行われているのが興味深い。大東京の総氏寺として、格式、威厳、歴史、そこから生まれる秘められた大いなる力を感じずにはいられない。

私はまた別の日に浅草寺へ行った。伝法院を見学するためである。伝法院は、戦災でも焼け残った浅草寺本坊である。普段は非公開だが、毎年、桜の頃から新緑の頃まで、期間限定で公開される。お恥ずかしながら、私は今度初めて、伝法院をゆっくり拝観する機会を得た。何度も来ている浅草寺で、ついぞタイミングを逸していたのだ。何せ、桜の季節は混み合うため、敢えて避けていたのだが、この文章を書くにあたり、やはりいっぺん伝法院を見ておきたいと思った。果たして、伝法院は良かった。三月半ばのこの日は、ソメイヨシノや他の花も少し早く、人影もまばら。でも、池の畔にある大島桜が満開で、私にはそれだけで十分であった。何よりも驚いたのは、その静けさである。浅草寺境内や、仲見世の喧騒やどこに。伝法院の屋根の向こうに見えるスカイツリーも、ここから遠方すればなかなか凛々しい。古色蒼然とした伝法院と、春霞の彼方に立つスカイツリーは、蜃気楼の如く絶妙に収まって見えた。伝法院は本坊だが、将軍や大名の参詣時に迎賓館として使われた。緑も多くてまさに別世界。浅草の臍とも言えよう。

伝法院拝観と併せて、寺宝展が開かれていた。国宝の法華経は、別名「浅草寺経」と呼ばれ、金銀泥で装飾した美しい装飾経だ。平安時代の作とされ、法華経八巻と、無量義経、観普賢経がそれぞれ一巻ずつを含む全十巻が現存する。法華経も第一級の宝物だが、圧巻なのは江戸時代から奉納されてきた絵馬群であった。ただの絵馬に非ず。私たちが寺社詣りの折、願掛けして納める手のひらサイズの絵馬ではなく、観音堂の壁に掲げる絵馬である。故に一枚一枚が見上げるほど巨大で、もの凄い迫力だ。中には、六畳一間ほどのサイズの絵馬もある。だいたい江戸から明治の頃に、大名や豪商たちが競って奉納したもので、画題も様々、見ていて飽きることがない。私が特に印象に残ったのは、江戸初期の作で、展示品では最古とされる江戸人形を立体的に掘り上げたものだ。何と言っても人形の愛嬌ある顔が良い。江戸人がそのままそこに居て、私と対面しているかの様で嬉しくなった。絵馬は、江戸期のものほど、筆致が力強く、躍動感に溢れていて、そのピークは江戸中期から幕末であろうと思われる。田沼時代の天明期から、爛熟の大御所時代の化政期のものは、やはり見事であった。明治以降はいささか線が細くなる。しかし、色使いは明治以降の方がむしろ大胆になってくるのは、絵の具の種類、質、量が圧倒的に増えたからであろう。故にどちらとも優劣はつけ難かった。中で、徳川秀忠と家光が寄進したとされる絵馬は、銅板に金箔を貼り付けたような馬のレリーフで、小品だが、さすがに将軍奉納の名にそぐわぬ秀麗な意匠である。これほどの巨大な絵馬を一同に見る機会もなく、戦災で伽藍は焼け落ちても、こうした宝物が秘かに守られてきたところに、古寺の底力を見る思いがする。だからこそ余計に私の心が、揺さぶられたのかもしれない。

最後にどうしても触れておきたいのは、観音堂の真裏に立つ、イチョウの古木についてである。一見、どうということのないイチョウの大木なのだが、裏に回ると、幹の中が丸見えで、中は真っ黒に煤けている。これは東京大空襲で、観音堂が焼け落ちた時、紅蓮の炎に曝された傷痕なのである。七十年以上前の火傷の痕。そんな年月を感じないほど、炭になった部分は生々しく、痛々しい。浅草寺は、これらを戦災樹木として保存しているのだ。観音堂が焼け落ちるのを、隣接する三社権現と、ここにある数本のイチョウの木は目の当たりした。私は浅草寺を訪ねる度に、いつもこの木たちに逢いにゆく。そして私は瞼を閉じて、観音堂が焼け落ちた夜を追体験する。戦災樹木は、今もなんとかあの場に立っている。七十数年を経た今でも。華やかで賑々しい浅草寺に在って、戦災樹木は、無言のうちに戦災の恐ろしさを曝け出して見せている。浅草寺は、山に喩えるならば、富士山のようである。これからも世界中の人々を惹きつけてやまないだろう。賑やかで華やかな寺院だが、同時にどこか寂しい孤高の寺。私にはそう思えてならない。

なおすけの平成古寺巡礼 豪徳寺

平成があと二年ばかりで終わるかもしれない。こうしてはいられない。何か平成日本を生きた証を残したい。昭和の終わりに生まれて、思春期、青春期、そして壮年期に入った今、人生のほとんどを平成という時代と共に歩いてきた。私が平成時代三十年を生きた証を、次へと伝えたい。とはいえ、私には文章を書くことくらいしか、残せるものはない。昨年来、日本仏教の本山巡礼と坂東三十三観音巡礼をしているが、それとは別に、個人的に行きたい寺社や町について、自由に記してみたい。題して「なおすけの平成古寺巡礼」。平成まで生き存える古寺を訪ねながら、平成日本を眺望してみよう。ただしここでは、抹香臭い仏教の話よりも、私が見つけた、私好みの寺社の風景、興味深い歴史を擁する町、魅力ある人物などについて触れてゆく。これまで訪ね歩いた土地、そしてこれから先に向かう旅の記録となるだろう。話もいろいろと横道に逸れると思うが、あしからず。

 世田谷区は東京でも屈指の人気のある街。だが意外にも区内には九品仏、奥沢神社、等々力不動、目青不動、龍雲寺、世田谷八幡宮、勝光院、烏山寺町など、数多の古社寺が点在する。瀟洒な世田谷に在って、ひっそりと佇む寺社に心惹かれて、私は時々世田谷を歩くのである。そして私が、世田谷区でもっとも足しげく通う寺が、豪徳寺である。

これまで何度か書いてきたが、私は井伊直弼公に私淑している。なぜかを語れば延々なのだが、一言でいえば、覚悟の人であったということに尽きる。大老や藩主としての政治家の顔、居合の達人、そして何よりも茶の湯を愛し、その道を極めんとした半生。どれをとっても格別な魅力に溢れる人だ。私が死んだら、まず初めにお目にかかりたいと願ってやまない。私は、井伊直弼大老就任後、幕政を一手に担い、開国へと舵を切ったことが、まさしくこの国の夜明けそのものであったと信じている。彼のやったことは、あの時の情勢では、本人曰くのとおり「致し方ない」ことであった。

桜田事変について、事新たに述べることはないが、ここから明治維新までわずか八年。桜田事変が、幕末の動乱の呼び水となったことは間違いない。安政七年(1860)三月三日。上巳の節句。江戸在府の諸侯は、節句の日には将軍へ賀詞の拝謁があり、総登城が定められている。陽暦では三月二十四日で、そろそろ 桜の綻ぶ時節。なのに江戸は大雪であった。幕府最高権力者の住まう彦根藩上屋敷は、今の国会前庭のあたりに、広大な敷地を有し建っていた。表門は本郷の加賀藩邸と同じような堂々たる赤門で、三宅坂から桜田門方面を睥睨している。それはいかにも譜代筆頭、大老家に相応しい構えであった。ここから江戸城桜田門までは、わずかに五町(600メートル)ほどだ。大名諸侯の行列は禄高、家格により定めがあり、ことに江戸市中では厳格に守られていた。井伊家は供回り侍二十六人、その他足軽や中間小者併せて六十人余りであった。江戸市中での大老や老中などの幕閣の行列は、「刻み足」と言って、歩幅の小さい早足で歩く。これは、平時から早足ならば、非常時でもそれと悟られぬための手段であった。そして一行は、桜田門前の豊後杵築藩松平大隅守邸前にさしかかる。場所は今の警視庁前。桜田門は目の前である。襲撃開始からわずか三分ほどで首を捕られた直弼の遺骸は、まず胴体だけ藩邸に戻ってきた。

首を持ち去ったのは、唯一の薩摩脱藩士の有村次左衛門。有村自身も後頭部に致命傷の深手を負っており、辰ノ口の遠藤但馬守邸前まで来て力尽き、遠藤邸の門番に首を預けて自刃した。桜田門から辰ノ口の遠藤邸までは、十五町(約1.6キロ)ほどある。この時点で遠藤邸では、いったい何が起きたのか、誰の首なのかなど無論解らず、邸内は混乱した。やがて追ってきた彦根藩士から、半ば強引に引渡しを要求されて、首は胴の待つ彦根藩邸へ帰ってきた。藩医の岡島玄達が、首と胴を縫合し、検死した。その検死録によれば、右の臀部から腰椎へ貫かれた弾痕があると記されている。銃撃したのは、水戸浪士の森五六郎。襲撃犯たちは、まず行列先頭にて彦根藩士らをひきつけておいて、大老の駕籠脇が手薄になったところで、森は直訴状の下に拳銃を隠して近づき、至近距離から発砲したと、近年の研究で解ってきた。弾丸は身体を抜けていたが、直弼はこの一発の弾丸で、ほぼ致命傷を負っていた。下半身は麻痺して、身動きをとれずにいたと思われる。さしもの居合の達人も、どうすることも叶わなかった。

幕府はしばらくの間、大老暗殺を半ば堂々と隠蔽して、取り繕ったことは周知のとおり。よって豪徳寺に葬られたとされ、正式にもここが直弼公の墓所とされるが、数年前に調査した時には、墓に遺骨はなかったという。一説では、惨憺たる状況を鑑み、遺骸は秘密裏に彦根清凉寺や天寧寺、在るいは、彦根藩領である栃木佐野の天応寺へ埋葬されたとも云われる。詳しくは未だ明らかではないが、私もこのあたりは調べてみたいと思っている。しかし、やはりここ豪徳寺こそが、直弼公の墓であることに変わりはない。大老の墓の後ろには、これを守護するように「桜田殉難八士の碑」。その横には直弼の忠僕として、墓守をした遠城謙道の墓がある。彦根藩足軽であった謙道は、主君の死後、忠節を持って、開国論の正しさを同志とともに訴えるなど、その生涯を井伊直弼に捧げた。直弼の政敵であった一橋派が政権を握ると、彦根藩は十万石の減封、京都守護の罷免などあからさまに幕府から虐げられた。これに激怒した謙道は、決起して老中井上正直邸に自訴し、自害する企てをするも、事前に発覚して、彦根にて謹慎となる。ここで悲憤した謙道は、出家して、豪徳寺で直弼公の墓守となった。墓の門前に起居し、朝に夕に墓を掃除して、主君の供養三昧の日々を送る。明治三十四年(1901)に七十九歳で亡くなるまで、三十七年も墓守を続けたという。その間、直弼公直伝の和歌、俳句、書画を嗜み、その作はわずかばかり残されている。

この庵に住むこそ無二の浄土なれ

謙道は、おそらく茶の湯や居合の心得も持ち合わせていたであろう。謙道の画賛に自らを描いたものがあり、それをを見ると、冷え寂びた遁世者の面影が如実に感じられる。それはすべてを見尽くした人にしか成せぬ、成れの果ての姿であった。

豪徳寺のすぐ近くに、世田谷城址公園がある。かつて一帯を本拠としたのは、鎌倉公方に仕えた奥州吉良氏で、応永年間にこの地に世田谷城を築いた。今も壁のような土塁や、深い堀の址を、生々しく見ることができる。世田谷城は、要塞のような、出城のような、なかなかに堅固な砦であったと思われる。秀吉の小田原征伐の際、吉良氏は北条方に味方し、戦後世田谷城は没収されて廃城となった。文明十二年(1480)、この地を治めた吉良忠政は、伯母である弘徳院への孝養のため寺を建立。長らくこの寺を弘徳院と称した。臨済宗の昌誉上人を開山に迎え、百年後の天正十二年(1584)に、門庵宗関によって臨済宗から曹洞宗に改宗された。徳川時代には、この地が井伊家の領地となり、二代藩主直孝がこの寺に縁があり、堂宇を寄進した。直孝はここに葬られ、その時に寺名を直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に肖り、豪徳寺に改めたという。豪徳寺の目と鼻の先には、茅葺屋根の代官屋敷が江戸時代の面影をとどめて建っているが、あそこが彦根藩の代官である大場氏の館であった。

井伊の赤備えの力を、存分に見せつけるかの威容を誇る豪徳寺。その雰囲気は今も失われてはいない。参道には美しい松並木があり、奥に山門を眺めれば、なるほど古寺の風格を感じる。山門を入れば、すぐ左手に三重塔。十二年ほど前に再建されたもので、出来たばかりの頃は、木の香のむせた塔も、十年の歳月を経てすっかり古寺に馴染んでいる。正面に延宝五年(1677)に建立の仏殿が、堂々たる姿を見せているが、仏殿以外は奥の本堂や、僧堂は戦後に復興されたものだ。本堂は、本山の鶴見總持寺の大祖堂を小振りにしたような趣きで、のしかかるような大屋根は、男性的な力強さを感じる。確かに日本の建築は、木造がもっとも美しく、そこにあるべきものとして、自然と喧嘩をせずにすむのかも知れない。が、今のコンクリートで作った堂宇も、見様によっては、それほど悪くもなく、むしろ現代の禅宗寺院には、このくらいの重く硬い力強さが要されてもよい。書院と庫裏は古色蒼然として、相当に大きく立派である。聴くところによれば、旧佐倉藩堀田家の江戸屋敷内にあった建物を譲り受けて、関東大震災後に移築再建したものらしい。書院造と数寄屋建築の特徴を併せ持つ二階建てで、幕末の建築であると推測されている。江戸の武家屋敷の面影を随所に感じられ、天下の総城下町江戸のよすがを垣間見ることができる。

豪徳寺は招き猫の寺として有名である。三重塔のそばに招福殿と呼ばれる猫観音を祀るお堂があり、昔から商人や花柳界の人々に信仰されてきたが、どういうわけか最近は若い人から外国人にも、秘かな人気を集めている。久しぶりにそこへ行ってみたが、私は奉納された招き猫の数に仰天した。その数は年々増え続けている。ここで貰った招き猫は、願いが叶えば、こちらのお堂脇にお返しするのが慣わしらしいが、以前よりもずっと数が多くなっている。人気に火が点いている証であろう。これだけの招き猫を見ると、少し薄気味悪い感じもするが、不思議と違和感は覚えない。ここがなぜ、招き猫の発祥と云われるのか。井伊家二代藩主の直孝は、在る夏の昼下がり、郎党を引き連れて、武蔵野に遠乗りに出かけた。砂塵を蹴り立てて、弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに手を拱いている。これを見た郎党の若衆は、無礼千万、挙動怪しく、変化の類ではないかと、まさに抜打ちにしようするのを、直孝は「しばらく」と言ってこれを止めた。行き過ぎんとすると、猫は再び招くので、寺内に入ると、一天俄かに曇り、雷鳴豪雨と相成った。この危難を免れたことで、直孝は奇縁を感じて、以後も度々訪れて、いつか井伊家菩提寺となったという。この猫は当時の住職の愛猫でタマといった。この猫の招きが豪徳寺にも福を招き、その後の隆盛となった。猫は如意輪観音の化身だという伝説もあり、猫塚は信者から奉納された招き猫や絵馬で埋め尽くされているが、そこに美しい如意輪観音の石仏があって、あたかも招き猫たちは、この観音さまを守る眷族の如く付き従っているように見える。豪徳寺は今、曹洞宗の禅寺とか、井伊家菩提寺というよりも、招き猫の寺としての人気を確立しつつある。

井伊直弼は、彦根藩十三代直中の十四男として生まれ、兄弟たちは本家や分家を継ぎ、或いは他家の養子となったが、直弼だけが居残ってしまう。これも運命といえようか。十七歳から三十二歳までの十五年間を、三百俵の部屋住みとして過ごした。彦根城三の丸の尾末町御屋敷を「埋木舎」と名付けたが、私は決してその時の直弼に、ただの不遇を感じないのである。もちろんその時、当の本人は、歯がゆい思いを抱いていたであろうが、何となく、いずれ自分が表舞台に上がることを予感していたような気がしてならない。故に普段から、そのための準備と稽古を怠らなかった。早朝から夜遅くまで、曹洞禅、書画、和歌、茶の湯能楽兵学、居合、槍術、さらに長野主膳に師事し、国学をはじめとした学問の修養に勉めた。睡眠時間は一日五時間あれば十分といい、寝る間を惜しんで勤しんだ。まさしく文武両道、いずれも一流の域に達していたという。これらは文化人として生きてゆくという決意と同時に、いつでも表舞台へ立つ用意でもあったはずだ。直弼ほどの人物ならば、そう考えるのが自然であろう。泰然自若たるを弁えていたのも、清凉寺の仏洲仙英禅師を師と仰ぎ、少年時代から参禅し続けて身になったからに違いない。そして、なんと云っても、彼を語るに極めつけは、茶の湯であろう。茶の道を極めんと、ひたすらに精進した。直弼の墓に刻まれた戒名「宗観院柳暁覚翁大居士」は自ら考えたものだが、宗観とは直弼の茶の号である。一期一会、独座観念に至る極意は、平成の今を慌しく生きる私たちに、時と、場所と、出逢いの大切さを教えてくれる。直弼の精神の根幹には、禅と茶の湯があった。

直弼は歌もまた多く詠んでいる。私の好きな歌をここにいくつか挙げたい。

茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ心の水をともにこそ汲め

何をかはふみもとむべきおのづから道にかなへる道ぞこの道

霞より花より春の色をまつきしにみせたる青柳の糸

そよと吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳

雨雲は立覆ふとも望月のくもらぬ影ぞ空に知らるる

影見せて過ぎし蛍の名残りかも蓬が窓の露の白玉

梓弓かけ渡したる一筋の矢たけ心ぞ武士の常

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

春浅み野中の清水氷ゐて底の心を汲む人ぞなき

咲きかけしたけき心の花ふさはちりてぞいとど春の匂ひぬる

これらの歌からは、何も語らずとも直弼の為人が知れよう。井伊直弼の人生は、舟橋聖一氏の小説のとおり、まさしく花の生涯であった。私にとって井伊直弼は、人生の手本であり、茶道の師匠であり、哲学者でもある。私はこれからも一生をかけて、その生涯を追い続ける。豪徳寺もまた花の寺。此度は仏殿前の梅の木が、残んの花を散らせていた。境内はまもなく桜が咲こう。ことに庫裏の前の大枝垂は、溜息ばかりの見事さである。思えば、井伊直弼が散ったのは奇しくも桜田門外。江戸城には他にも多くの門があるが、あの事変は桜田門でなければ収まりがつかない。桜田門が舞台であることに、私は何か歴史が成せる業を感じずにはいられない。豪徳寺には、桜がもっとも似つかわしい。

遠き道程

東日本大震災から六年が過ぎた。まことにあっというまの六年。あの日の記憶は、私たちの脳裏に依然として生々しい。ほんのわずかばかり復興はしているが、それでも、震災前に比べたら、いかにも道半ばである。ことに、原発事故の避難地域は、完全に廃墟になっていたり、汚染土が堆く積まれていて、見るに忍びぬ有様だと聴く。飯館村など、原発周辺の町は、徐々に避難指示が解除されているが、果たしてどれだけの人が帰ってくるのだろうか? 昨日の報道ステーションで、飯館村の酪農家の現状をまざまざと見せつけられて、私は大いなる失望と、己の無知無力に、改めて苛まれている。酪農家の男性は、四十年かけて一代で築き上げたものを、原発事故ですべて捨てなければならなかった。人生は無情とは知れど、あまりに惨たらしい。似たり寄ったりこうした方々が、今まだ多くいることを、忘れてはならない。来月は熊本地震から一年である。東北にも、九州にも、被災地には美しい自然があって、そこで育まれてきた重い歴史に溢れている。それは、彼の地の人々が、先人から受け継いできた宝である。さすがに大自然は、人智の及ばぬ逞しさであるが、人間の暮らしは簡単には取り戻せない。飯館村の酪農家の男性は、「わしが生きとる間は、あの汚染土の山は見続けねば仕方ない」と言った。でも、安全基準とされる一人あたりの放射能被曝の年間数値が、全国が1ミリシーベルトなのに、飯館村が20ミリシーベルトであることに、憤りを感じると言われたことが、とても心に残る。そのあたり国は何とするのか。今のところ回答はない。こうして当たり前のことが、曖昧に歪められていることが、実はまだまだ多くあるはずだ。妥協することもまた必要だろうし、そうしないと前に進まぬこともあろう。元通りの暮らしに戻ることは、おそらく向こう百年近くは不可能だろう。でも、かつて我々は多くの震災、戦災から力強く立ち上がってきた。そこに信じたい気持ちもまたある。あの大震災を経験した我々は、多くを失ったが、また同時に何かを得たはずである。現に被災地の子どもたちは、よほど逞しく、しっかりと未来を見据えていることに、私は感動せずにはいられない。ゆえに、この日が来るからだけではなくて、いつも気にかけてゆかねばならぬと痛感している。でなければ、ほったらかしとか、蔑ろにされる人々生まれてしまうのだ。 オリンピックもけっこうなことだが、あの日からまだ、身も心も戻って来れない人がいることを、日本人は肝に銘じて生きていかねばならない。あの時から盛んに叫ばれた絆とはなんだったのか。言葉なんていらぬ。空虚なだけだ。真の気持ちが欲しいのである。左すれば、自ずと答えは出るに違いないと私は思っている。私も、近くじっくりと被災地を訪れてみたい。

教育勅語

慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられた。翌慶応四年三月十四日に、明治天皇は、五箇条の御誓文を立てられて、新しい時代を率いる覚悟を示された。ほどなく明治となり、政府は、この国が長らく培ってきたものを悉く廃して、矢継ぎ早に、新しい政治、制度、文化を求め実行した。七百年以上続いた武家政権の時代、奉られて追いやられていた天皇は、国家元首統帥権を持つ大元帥としてさらなる高みへと奉られた。明治政府は、天皇の御名によって、法律や制度を整備し、社会の秩序を保とうとしたのである。また時には、天皇自ら御言葉として発せらた事がある。それは勅語とか勅諭と呼ばれた。軍人勅諭は、文字通り軍人に向けた御言葉だが、教育勅語は広く国民に向けたるもので、特に天皇の御名御璽があり、ただの御言葉ではなく、明治国家とその教育を、国民に知らしめるための訓示であった。正式には、「教育ニ関スル勅語」という。詔勅を分ければ、詔、勅命、勅令は命令であるが、勅語や勅諭は聖上の御言葉として、今、我々が耳にする天皇陛下の御言葉に近いものと思われる。しかし当時は、今よりはるかに厳粛なもので、教育勅語の写しは、学校などの奉安殿と呼ばれる建物に、天皇皇后の御真影と共に納められて、丁重に扱われた。紀元節天長節には、祝日でも登校して、全校生徒起立し、少し頭を傾げて、校長が教育勅語を朗読した。 教育勅語をじっくり読むと、実にごもっともなことが、切々と連ねてある。人間として当たり前に生きるようにと、あえて示されたことだが、これがなかなか一番難しいこととも思える。故に明治大帝は、重き御言葉として発せられたし、日本人がそうあるようにと、希望と期待を込められたに違いない。

今、国会論戦の格好のネタとなっている某校の問題。あの学校の幼稚園では、園児に教育勅語素読させ、軍歌を斉唱させるというから驚きだ。稚い子らに、かようなことを強いる教育とは何ぞや。私には、コスプレと同じパフォーマンスにしか見えない。いや、コスプレをやる人々には或る信念があろう。このニュースには、久しぶりに身の毛がよだった。これは、本来の愛国心を植え付ける教育ではないと思う。断っておくが、私は天皇崇拝者だ。この国と皇室の弥栄を願ってやまぬ人間である。だがそれは、自然に自分の中に芽生えた思想であり、曲がりなりにも日本史を学んできた私にとっては、天皇という存在を避けては通れず、気がつけば、皇室は日本になくてはならないという考えに至ったのである。決して、親や学校から強制的に植え付けられたものではない。現に両親は、皇室には無関心であるし、私は日本仏教に並々ならぬ関心があるが、母親は敬虔なクリスチャンである。私の両親や祖父母は、郷土愛は教えても、決して思想の強制や愛国心の押し付けなどしなかった。学校もまたそうである。今にして思えば、茶道の稽古など、もう少し強制的にやらせて欲しかったこともあるくらい、ほったらかしであった。私は人付き合いも、学問も、文学も、好きな事も、すべて己が選んできた。人に強制されたことは何一つない。この頃は、信仰まで親が植え付けてしまっている感があるが、これも間違いで、めいめい自分で選ぶ自由を与えて然るべきである。選択肢を与えてやることが、真の教育ではなかろうか。

教育勅語素読や、軍歌の斉唱を強いることは、反時代的とかいう問題ではない。指導者のエゴイズムであり、単なる誤教育と私は断言する。どうせ素読するならば、よほど論語にしたら良い。先に述べたが、戦前、教育勅語はもっと崇高なもので、子供達が素読するようなものではなかった。教育勅語は、校長の朗読を頭を垂れて拝聴するものであった。そして、御真影とともに祀られた奉安殿は、特別な日にしか開かれなかったという。某幼稚園の如く、両陛下の御真影を無造作に置いてはいけなかったのだ。天皇を教育に利用しようとしている某校は、戦前ならば不敬罪に処されるかもしれない。‪私は日本の歴史、文化、文学を愛する。これを自身の糧として生きてきたし、これからは私が、少しずつでも本当の日本を世界に発信したいと思っている。だが、教育勅語素読や、軍歌の斉唱には、極めて不快な違和感を持った。そんなやり方では、この国は再び亡国となろう。子供達を諭し、正し、叱る事は大切で、すべての大人の仕事であり、役割であるが、何にせよ、何事も押し付けてはならない。‬

日本仏教見聞録 寛永寺

私は家でよく香を焚く。香煙をくゆらせると、穏やかな気持ちになれるし、書くことや読むことにも集中できる。伽羅や沈香が好みであるが、高価なのでなかなか手が出せない。そんな時に見つけたのが、「東叡香」という寛永寺の香である。箱のデザインからして、比叡山の「叡山香」とだいたい同じ物だと思うが、叡山香の半額で、二百本も入っている。一箱で半年ほどは楽しめる。その香りはおごそかで、心休まる白檀の香り。東叡香は線香で、本来は仏前にあげるものだが、私は気に入って、普段使いの香として、ありがたく愛用させてもらっている。

東京で一番好きな寺はどこかと訊かれたら、私は迷わず寛永寺と答える。それほど、この寺への思い入れは深い。徳川家の菩提寺は、増上寺や伝通院など、江戸にいくつかあるが、寛永寺にある特別な想いを抱くのは、この寺が重い重い歴史に埋もれているからだ。私は毎年元日に、寛永寺にお詣りするのがここ数年の恒例だ。そして参詣後に、東叡香をいただいて帰る。展覧会で上野に行く度にお詣りするから、寛永寺はとても身近な寺である。寛永寺のことはずっと書きたかった。だが、好きな寺であるがゆえに、簡単には書けなかった。好きなモノ、愛しい人については、なかなか言い表せぬものだ。寺もまた同じである。こういう寺が私にはいくつかあるが、寛永寺もそうであった。

平成二十九年元日。風一つない穏やかな快晴。今年も寛永寺へ初詣だ。そして、昨年から始めた日本仏教の本山を巡る旅。今年最初は、何おう天台宗大本山で、関東総本山である寛永寺である。今回はT君に加え、旅仲間のI子さんにも同行してもらう。正月の寛永寺参詣で、何が一番良いかと言えば、とても空いているということ。一年の初めから、雑踏に飛び込んで辟易するなんて、真っ平御免蒙りたい。私にとって寛永寺は、心静かに初詣できる浄土である。もっとも、お詣りする時間も、元日の午後からであるから、人出も減っているのだろう。大晦日、除夜の鐘を撞く頃は、この寺も行列ができるらしいが、それを避ければ静かなものだ。敢えてそんな寛永寺に行く。だいたい、普段から混雑する寺ではない。寛永寺は今でも、徳川宗家の菩提寺であり、明治以降は広く一般にも檀家を募ったので、徳川家のみならず、多くの人々の菩提寺である。これほど有名な寺なのに、観光寺院ではない。寛永寺墓地には、犬公方や、天璋院篤姫も眠るが、徳川家霊廟は団体予約しなくては参拝できないし、十五代慶喜が謹慎したと伝わる「葵の間」も、同じく予約制なので、簡単には拝観できない。このあたりが、この寺から喧騒を追いやっている一因でもあろう。そしてまたどこか物寂しい印象がある。増上寺は今も誇らしげに大伽藍を見せつけているが、寛永寺にそんな雰囲気は皆無。静かな寺である。

寛永寺を憶うとき、諸行無常という言葉が、実感としてまざまざと迫ってくる。この寺は幕末まで、徳川将軍家の祈願所兼菩提寺であり、比叡山に代わり天台宗総本山であり、山主は天皇の皇子(法親王)から選ばれる門跡寺院でもあった。おそらく、江戸時代を通して、これほど巨大な力を持った寺は、寛永寺をおいて他になかったであろう。山主は輪王寺宮と呼ばれ、将軍継嗣問題にも口を出せるほど、幕府の信頼は絶大で、御三家を凌ぐ権勢を誇ったという。 ゆえに寺領も広大であった。今の上野公園と、谷中霊園一帯のほとんどが寛永寺の境内であり、多くの子院塔頭がひしめいていた。今は塔頭の数もずいぶんと減り、開山堂の裏手の一角に、十ヶ寺ほどが肩を寄せ合って建っているが、傍目には民家のようで、よくよく見ないと寺とは気づかない。上野を俗に「お山」と呼ぶのは、東叡山があるからである。 徳川三代に仕え、幕藩体制の礎を築いた天海大僧正は、京都に倣い、江戸の町づくりにも陰陽道や風水を取り入れた。江戸城を中心に、鬼門の直線上に神田明神寛永寺→日光山を配し、裏鬼門に山王社→増上寺久能山を配する。とりわけ上野には力を入れた。北から南への一筋を軸として、江戸城から「の」の字を描く放射状に、町は拡大し続けてゆく。それは明治から戦後へ、そして今の首都圏発展にもつながっている。

慈眼大師天海は、その生い立ちも諸説ある。出生年は定かではないが、陸奥国大沼郡高田(福島県会津美里町高田)の、豪族蘆名氏の一族に生まれたことは、概ね違いないようだ。幼少から英邁といわれ、出家して随風と称した。十一歳で宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、やがて比叡山へ登る。その後も、三井寺興福寺へも出入りして、倶舎、三論、唯識、華厳、禅、密教と幅広く修した。元亀二年(1571)、織田信長比叡山焼き打ちのあと、武田信玄の招きを受けて甲斐国に移住。その後、天正十九年(1591)には、茨城稲敷の江戸崎不動院に入り、慶長四年(1599)に川越の仙波喜多院に入った。このあたりから、僧侶としての名声が聴こえ始め、徳川家康の知遇を得て、ブレーンに抜擢される。関ヶ原勝利のあとは、徳川幕府の宗教顧問となり、叡山探題となって、信長焼き討ち後の復興に尽力する。延暦寺の再興を果たした天海は、一時は栃木の宗光寺、群馬の長楽寺など、北関東の寺に住するも、老骨なんとやらで、しょっちゅう江戸や駿府に出てきて、政に参画していく。

関ヶ原を制した家康は、征夷大将軍となり、江戸を政治の中心に定めた。着実に地盤を固めていった家康には、その政権を支える多くのブレーンが存在した。その一人ひとりが、実に個性的かつ有能で、皆が己が役割と、分をわかっていたように思う。それが徳川一強の源泉ではなかったか。特に天海と、南禅寺の以心崇伝は重用され、徳川政権発足当初の法整備や、征夷大将軍の権威作りに大きな功績がある。武家諸法度、諸士法度、禁中並公家諸法度、寺院法度など、天海が助言して、崇伝が起草し取りまとめている。そして、豊臣家を滅亡に追い込んだのも、方広寺の鐘の問題も含めて、策謀を廻らしたのは、この二人であった。だが、家康が亡くなって、神として祀ることになった時、二人は対立することになる。崇伝が神号を明神とすべきと言ったのに対し、天海は権現とすべしと言う。明神は、豊臣秀吉豊国大明神と同じであり、豊臣家は滅亡したのだから不吉であると言い、何よりも自分は家康から直々に遺言を受けていると言う。この一言で決着がつき、崇伝は失脚した。以後も天海は、秀忠と家光に重用されて、百八歳まで妖怪の如く日本仏教界に君臨し、幕府の威を借りて号令をかけた。明智光秀ではなかったか?など、様々な言い伝えがあるが、これは眉唾で、一介の僧侶ではないところから出た噂にすぎない。しかしそう思われても、致し方ないほど、妖しいまでの世渡り上手であった。そしてまた、僧侶としての高い見識と仁徳が備わっていて、権力者をも惹きつける、魅力ある人物であったと想像される。こうして、寛永寺の完成をみて、徳川幕藩体制も仕上がったとみてよい。 天海とはいったい何者であろうか。はっきりした部分もあり、謎の部分もまた多い。

家康亡き後、大僧正となり日本仏教界に隠然たる影響力を誇示するようになった天海は、いよいよ総仕上げにかかる。寛永二年(1625)、大御所秀忠や三代家光に進言し、藤堂高虎に忍ヶ岡の土地を寄進させて、寛永寺を建立。自ら初代山主となる。山号は東の叡山、東叡山。延暦寺に倣い、寺号は時の元号から寛永寺とした。不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島と同じく弁天を祀り、山内には清水寺に見立てて、懸造の観音堂を建立。諸大名も挙って堂宇を寄進し、法華堂、常行堂、鐘楼、大仏、東照宮も建てられた。これでもかの念の入れようだが、こうして江戸幕府は、二百六十四年続いたのだから、四神相応は果たされていたといえよう。 そして天海の最後の野望は、天皇家より山主を迎え門跡寺院とし、寛永寺に格式と箔を付与することであった。実現すれば公武の絆となる。さらには、徳川幕府繁栄の扇の要は、ここ寛永寺であると誰もが認識するであろう。幕府がある限り、寛永寺天台宗の一派は力を保持できるのだ。それこそが天海の狙いであったと私は思う。少し想像を逞しゅうすれば、天海は最澄への回帰を願いながら、その僧名からも、空海にも憧れていて、この平安仏教界の両巨人の良いところを、自身に擬えていたのではなかろうか。その最後の願いは、天海が入滅後、四代家綱の御代に実現する。正保四年(1647)、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が山主となると、東叡山は、日光山、比叡山と併せて三山と呼ばれ、天台宗を管掌した。増上寺も江戸時代を通して、知恩院よりも力を持っていたが、ここ寛永寺も、比叡山から総本山のお株を奪っていた。浅草寺も傘下におさめて、徳川将軍家の祈願所であり、菩提寺であり、何にしても将軍のお膝元にあることで、その威容を誇ったのである。天海亡きあとも、その意思は引き継がれて、五代綱吉の御代に、巨大な根本中堂が落慶。ここに東叡山寛永寺が完成した。八代吉宗の御代には、堂塔伽藍三十余り、子院塔頭三十六坊、境内寺域三十万五千坪、寺領一万一千七百石に及び、増上寺を凌ぐ江戸一番の巨刹であった。江戸一番ということは、すなわち日本一の大寺院である。それはまた、日本一徳川の色濃い寺で、「徳川の徳川による徳川のための寺」、それが東叡山寛永寺であった。が、皮肉なことに、後にそのことが、この寺の運命を狂わせることになる。

ここで最盛期の寛永寺を見てみよう。下谷広小路(現上野広小路)の先には、不忍池から流れ出た掘割があって、三橋と呼ばれる三本の橋が架かっている。真ん中の橋は将軍専用で、寛永寺御成の時に使用した。その先には黒門と呼ばれる総門がある。黒門は冠木門になっていて、寺の門というよりも、まるで山城か戦場の砦の門のようで厳しい。その先の石段を上がれば清水観音堂、大仏、東照宮五重塔が順番に現れる。

花の雲鐘は上野か浅草か 

この芭蕉の有名な句の「上野」とは、大仏の傍にある「時の鐘」のことで、今でも正午と朝夕六時に時を告げている。鐘楼の下には、花園稲荷と五条天神社がある。ここのお稲荷さんは、私の大好きな場所だ。上野公園に行ったならば、ここはぜひとも訪れてほしい。本殿の先には、洞穴のような奥社があり、まことしやかに、狐が出入りするといわれる穴が御神体となっている。その穴の奥からは、ただならぬ冷気と、霊気が漂ってくる。あたりは昼間までも仄暗く、たくさんの狐の像が祀られていて、現代東京に在って、まったくミステリアスな雰囲気に満ち満ちている。その薄気味悪さが、何とも浮き世離れしており、私はいつも江戸へ還ったような気分になる。あそこは時空を超えて、江戸と東京を行き来できる魔所である。上野大仏は、寛永八年(1631)に最初に造られたが、地震で倒壊、そして元禄年間に再建され、大仏殿まで建立された。しかし幕末の上野戦争で、堂宇は焼けて、大仏さまは露座となり、さらに関東大震災でお首が落ちて、昭和戦争の金属供出で胴体は徴用されてしまったという。今はお顔のみが残り、祀られている。大仏さまのお顔は壁に嵌め込まれて、いかにも窮屈そうだ。ありがたいというよりも、とても気の毒に思えてくる。そのお顔には、何度となく天災や人災に巻き込まれて、すべてをつぶさに見てこられた大仏さまの、怒りと哀しみが滲み出ている。さらに進むと上野東照宮と、今では動物園の中に納まる五重塔がある。五重塔上野戦争でも焼けずに、三百八十年近い昔から残ってくれている。上野東照宮は、何年か前に修復されて、往時の輝きを取り戻した。本殿の威風堂々たる佇まい、彫刻の数々は日光や久能山にも劣らずすばらしい。ことに唐門に彫られている昇り龍と降り龍は、夜な夜な不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、あまりに精緻すぎて今にも蠢きそうな迫力がある。東照宮参道の敷石や、諸大名が寄進した灯篭も一見の価値あり。桜の頃や、紅葉の頃、古色蒼然とした五重塔を、この東照宮の参道から眺める時ほど、江戸のよすがに浸れる所はない。かつてはこのあたりに、山門にあたる吉祥閣が屹立していた。

いよいよ寛永寺の中心伽藍である。吉祥閣の奥には、東の釈迦堂と西の阿弥陀堂を渡り廊下でつないだ優美な文殊楼があった。その先には、左に六角塔、右に多宝塔。そしてその奥の光景に、参詣した人々はさぞや圧倒されたことであろう。目の前の巨大建築に、言葉も出なかったに違いない。ここが本堂である根本中堂である。根本中堂は、今の上野公園の大噴水のあたりに、間口四十五・五メートル、奥行き四十二メートル、高さ三十二メートルもの堂々たる佇まいで建っていた。コの字に回廊が巡らされていて、比叡山の根本中堂とほぼ同じ様式であった。中央に巨大な「瑠璃殿」と揮毫された扁額をかかげ、内部には薬師如来を本尊として、日光月光両菩薩、十二神将が居並び、葵の御紋があちこちに配されている。まさに本家の比叡山延暦寺を彷彿とさせ、東大寺の大仏殿にも負けないほどの大伽藍である。実に惜しい。今ここに根本中堂があれば…。私はこのあたりを歩くとき、毎回そう思わずにはいられない。そしてかつて、ここに日本一の大巨刹が、確かに存在したことを想い、瞼の奥に想像し焼き付けるのである。

そういえば寛永寺では、元禄赤穂事件に類似した刃傷事件も起きている。それも赤穂事件からわずか八年後のことだ。宝永六年(1709)六代家宣が、先代綱吉の法要を寛永寺で行った。この時朝廷からは、勅使、院使、東宮使、女院使、中宮使、大准后使が遣わされた。一同は法要に列席し、霊廟に詣でた後、子院顕性院で、幕府による饗応を受ける予定であった。事件は、中宮使の御馳走役を務める前田采女利昌と、大准后使の御馳走役を務める織田監物秀親との間にいざこざがあり、前田采女が織田監物に「このほどの遺恨、覚えたか」と言って刺し殺した。原因は、赤穂事件よりもずっと明らかになっている。家宣将軍の妻、近衛煕子の敬称を、将軍宣下の前は御廉中様と呼ぶか、御台様と呼ぶかで意見がわれたことから二人は対立。采女は御廉中様、監物は御台様と呼ぶべきと言い張る。織田監物はこの時四十八歳、信長へつながる名門で、大和柳本一万石の藩主であったが、いかんせん一万石に不服があったのか、織田家近衛家と信長の時代から深いつながりあり、煕子夫人が輿入れ後も何かとご機嫌伺いをたてて、虎視眈々と名家の復興を目論んでいたふしがある。一方で、前田采女はこの時二十六歳、加賀百万石前田家の血筋であり、大聖寺藩主前田利直の実弟。分家を立てて、こちらも一万石を領した。役者のような美男子であったというが、親子ほども年の離れた二人が、方や権力や名声に執着し、方や眉涼やかな好青年と謳われているのも、赤穂事件に類似している。ほんの些細なきっかけが、掛け違いとなってゆくのだ。監物が采女に対して、饗応当日までに、まるで赤穂事件の時代劇そのままに、いじめや嫌がらせをやって、采女に深い遺恨を与えたといわれる。赤穂事件と違うところは、采女は監物をしとめていることで、その後、幕府から切腹を言い渡され、素直に応じている。無論、采女は覚悟の前であろうが、八年前の赤穂事件で、威信をつぶされかけた幕府は、事を処理するにあたり、内心ひやひやであったと思う。一説では、采女は大奥を取り仕切る年寄絵島と昵懇で、監物殺害を絵島にたきつけられたとも云われる。当時、御台所煕子(後の天英院)と、絵島が付いている左京の方(後の月光院)の派閥抗争に巻き込まれたとのことだが、真相やいかに。もしかすると、後の絵島生島事件の源流は、この時にあったのかもしれない。

根本中堂の裏手が、今の東京国立博物館であるが、ここに寛永寺山主の住まいである御本坊が建っていて、その規模は並の大名屋敷を凌ぐほどであった。今、博物館を一巡していると、裏手に美しい日本庭園や、茶室を見ることができるが、あそこは寛永寺御本坊時代の名残である。そして、その御本坊のさらに裏手が、歴代将軍の眠る徳川家霊廟であった。ここには四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定とその御台所や家族が眠っている。今でも霊廟の勅額門や、手水舎は残っていて、往時の壮観を偲ばせている。

霊廟は、増上寺と同じくほとんど戦災で焼けてしまって、今では周囲を囲む高い石垣のみが残るが、何せ高い石垣と、樹木に覆われているため、容易に中を伺うことはできない。そのおかげで、歴代将軍や、御台所の安眠を妨げてはいないと思う。中で、特筆すべきは、十三代家定正室天璋院篤姫であろう。動乱の只中に徳川家に嫁入りし、夫亡き後の徳川宗家の屋台骨となって、力強く幕末を生き抜いた、稀有な女性であった。共に戦った皇女和宮と、江戸無血開城、徳川家存続、慶喜の助命嘆願などに尽力した功績は大きい。しかし、天璋院和宮も、その波乱の生涯でもっとも辛かったのは、夫をはじめとした多くの愛する人々に先立たれたことではなかったか。その苦しみ、哀しみは計り知れない。歴史的功績よりも、そうした哀しみを乗り越えて、人生を全うした精神力にこそ、私は大いなる魅力を感じる。最初は何かと悶着もあった二人だが、やがて生涯で唯一無二の戦友となった。和宮が病気療養中の箱根で没した時、 天璋院は見舞いに訪れる道中で訃報を聞いた。その時天璋院は、挽歌ともいうべき次の歌を残している。

君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな

同志を失った悲哀が切々と迫ってくる。天璋院は嫁入りしてからも、何度か薩摩へ里帰りする機会もあったが、結局は一度も帰還しなかった。最後まで徳川の人間であり続けたのである。明治十六年(1883)千駄ヶ谷の徳川宗家で、四十七歳でひっそりと亡くなるが、手元金は僅か六万円ほどであったとか。すべてを見尽くして、頂点を極め、その後流転の人生を送った人の、実に潔い最期を憶うとき、私はやはり畏敬の念を抱かずにはいられない。

今は昔。先に述べた寛永寺総門たる黒門は、上野戦争で夥しい弾丸を浴びた。黒門は今、三ノ輪の円通寺という寺に移築されており、たった一日で終結したとはいえ、その弾痕を見ると、戦闘がいかに激しいものであったのかがわかる。最初から幕軍の負け戦であったが、止めは本郷台地からのアームストロング砲の砲撃であったという。大砲が止めとは、徳川が豊臣を滅ぼした大坂の陣に同じである。寛永寺江戸城の身代わりとなって、官幕両軍の鬱憤を受け止めてくれた。まさに、仏が身代わりとなったのである。ここで闘ったのは、最後まで江戸と徳川家を死守しようとした、若人たちであった。無血開城後、いったんは治安もよくなりつつあったが、やはり血気盛んな幕臣や浪人の若者には、抑えきれぬ衝動があった。そして、またそこに付け入ったのが、官軍の血気逸る連中であった。お山を焼いた官軍参謀の西郷さんの銅像が、公園のシンボルのように建っているのも、思えば奇縁である。そしてすぐそばには、彰義隊の墓が江戸城の方を向いて建っている。明るく、人通りも絶えぬ場所に在るのに、私はここに来ると、どうしても重苦しい気持ちになる。これは、会津の白虎隊士の墓の前でも感じたことだ。彰義隊、遊撃隊、二本松少年隊、白虎隊、西南戦争、そして時代はずっと降って太平洋戦争まで、若く輝く美しい命が、無残に散っていった。その始まりともいえるのが、日本の場合は、上野戦争であったかもしれない。人間は追い込まれると、結果的に若く幼い命が犠牲になるのは、今日も、世界で起きている紛争を見れば明らかである。寛永寺を訪れて、彰義隊の墓参をすると、私はいつもそんなことを考えてしまう。

上野戦争で壊滅的被害を受け、大檀家たる徳川家は駿府へ転封、さらには維新後の廃仏毀釈で、寛永寺も荒れ放題となり廃寺寸前となったが、なんとか踏み止まり、世も落ち着いた明治半ばからは、少しずつ復興してきた。今、寛永寺本堂の根本中堂が建っているのは、慶喜が恭順謹慎していた、大慈院という子院のあるところで、本堂は川越喜多院から移築したものである。今の中堂は、往時の中堂には及ばないが、よくみれば実に堂々たる建築で、かつて日本仏教界の頂点に君臨し、今でも天台宗大本山、関東総本山の名に背かぬ佇まいである。中堂内には、本尊の薬師三尊像が厨子の中に安置されているが、秘仏のため、お前立ちの薬師如来を拝む。本尊は、最澄の自作とされ、近江の石津寺に祀られていたものを、根本中堂の建立時に迎えたという。また脇待の日光月光両菩薩は、立石寺から迎えたとか。さらに須弥壇の両脇には、見事な四天王像と、薬師眷属の十二神将が祀られており、なかなか壮観である。東京でこれだけの仏像を一同に拝めるのもうれしい。この中堂では、毎年正月三が日に、歴代将軍の肖像画がお目見えする。油彩で描かれたものだが、場所が場所だけに、まるで歴代将軍に拝謁しているかのような錯覚に陥る。旧中堂の「瑠璃殿」の扁額は焼け残り、今の中堂に掲げられているが、いかにも大きすぎて、ややアンバランスに見えるものの、旧中堂がどれだけ巨大であったのかを偲ぶためには、あそこにあって然りである。境内には、旧中堂の鬼瓦など遺稿も置かれているので、ぜひ見てもらいたい。

今の中堂の裏手が、慶喜が謹慎した「葵の間」がある大慈院だ。慶応四年(1868)二月十二日から、江戸無血開城当日の四月十一日まで、慶喜はここで恭順謹慎を貫いていた。大政奉還、辞官納地をしても許されず、勤皇の水戸家に生まれながらも、屈辱的に朝敵の汚名を着せられた十五代将軍慶喜。初代家康から続いてきた天下人の座を、ついにここ寛永寺を出る時に手放したのである。その時の慶喜の心中ほど図り難いものはない。鬱屈した悔しさであったろうか、はたまた晴ればれとした開放感であったろうか。思えば、この人ほど長い余生を送った人も稀である。大正二年(1913)に亡くなるまで、実に四十五年もの余生である。将軍を辞して、宗家の家督を田安亀之助(十六代当主家達)に譲ってからは、流転の日々を送る。後に明治天皇に許されて、公爵になり、貴族院に列したが、あまり目立つことはなかった。それよりも狩猟、写真、釣り、自転車、顕微鏡、油絵、手芸などの趣味に興じ、いずれも一流で徹底したという。慶喜は家族を愛し、風雅な遁世者としての生活を楽しんでいたようにも思うが、天璋院と同じく、すべてを見尽くした人にしか到達できぬ、冷え寂びた本心を持ち合わせていたのではないか。今に残る隠居後の写真の面差しからは、そんな印象を受ける。

他に開山堂、護国院、現存する堂宇や寛永寺墓地を入れても、現在は三万坪ほどしかないというから、寛永寺は、最盛期の十分の一にまで小さくなってしまった。それでも三万坪もあれば、現代東京ではかなりの大寺院である。何度も言うが、かつての威容を一目でいいから見てみたかった。寛永寺境内には、維新後も戦後も、ビルや民家が建つことはなく、公園として整備されたことは、せめてもの救いである。広大な空と森に囲まれて、清々しい気分に浸れるのは何よりだ。そして私は、今の威張っていない寛永寺も大好きだ。公園の隅に追いやられて、いかにも肩身が狭そうだが、楚々した静かな佇まいが心地よい。寛永寺は、今も上野のお山に在る。私にとって寛永寺は、永遠に追憶の中の巨刹である。私は寛永寺を愛してやまない。

建国之日ヲオモウ

今日は建国記念日である。現代の日本人にとっては、あまり意識しない建国の日。アメリカの独立記念日などに比べたら、神代の頃からの伝説を元に定められたという曖昧なところが、また関心が薄い一因でもあろうか。しかし、戦前までは、紀元節と呼ばれ、盛大な祝日であった。そもそも紀元節とは、初代神武天皇の即位した日とされ、古事記日本書紀の記述を元に、明治政府が定めた祝日である。四方節(元日)、紀元節天長節天皇誕生日)を三大節とし、昭和二年に、明治節明治天皇の誕生日である十一月三日)を新たに加えて四大節とされた。戦後、GHQによりすべて廃止されるが、すべて名前を変えて現在も祝日とされている。本来、建国を祝う日なのだから、国を挙げてのお祭りがあってもいいものだが、如何せん、戦前の軍国主義の象徴の如く、捉えられる国や人々に配慮してるのか、いたって静かな建国の日である。もっとも、今の建国記念日は、戦後二十一年たってから、新たに制定されたが、その時点でもさほどの盛り上がりはなかったようだ。今では、建国記念日に賛成の右よりの方と、反対の左よりの方で、それぞれ集会を行うくらいで、終戦記念日のほうが、よほど注目されている。今年などは、安倍総理でさえ、アメリカへ行ってしまっており、政府主催の式典はもちろん行われない。

私個人的には、この日を大切な祝日と心得て生きている。昨今は祝日が多すぎる感もある。私は、日本人にとって祝日は、かつての三大節にあたる、元日、建国記念日天皇誕生日だけでよいとも思っている。そして終戦記念日は、祝日とするわけにはいかないから、国民総供養の日、としたらいい。そうすると、たださえ働きすぎの日本人に、また休みがなくなると騒ぐお歴々も現れるだろう。そこは、欧米に習い、季節ごとに休暇制度を作ればいい。法律で決めてしまうのである。時期は各個人に任せればいい。春、夏、秋に一週間~二週間程度の休暇を必ずとれるようにすれば、祝日は減っても問題あるまい。そして、今ある祝日は、記念日として残せばいいのだ。これならば、現代人の感覚にもすんなりと入っていけるのでないだろうか。何か、話がずいぶんな方向にいってしまった。私は右でも左でもなく、政治的な発言をしているわけでもない。単純に建国記念日を、皆が祝日として意識してほしいと願うのである。それは、歴史が好きで、少しばかり日本史をやってきたからということも、確かに一理ある。でも、この国は、あまりに欧米に追随し、あまりに近隣諸国を気にしすぎて、あまりに過去にとらわれ過ぎてきたために、大事な何かを見失ってしまった。別段、軍国主義や戦争を、また戦前の日本の生き方を賛美するつもりなど毛頭ない。そうではなくて、日本人ならば、この国が生まれたと、曲がりなりにも、眉唾モノでも、そのように云われたる建国記念日を、もっと意識してもらいたいものだ。せめてこの日は、日本の過去をみつめ、今を考え、未来を見据える日とせねばならぬ。私にとって、建国記念日は、一年でもっともいろいろと想い致す日なのである。それはこれからも変わらないし、年を増すごとに重大なる日となってゆくに違いない。