弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

先日、近代美術館で楽茶碗の展覧会を観た。初代長次郎から当代吉左衛門に至るまで、これでもかという名品が顔を揃える。ここまで一同に会するのは、当代曰く、自分の生前はもう無いだろうとのこと。はたして、楽家代々の茶碗が並ぶと壮観であった。同時に、楽家のことも、楽茶碗のことも、解ったようなフリをして、何にも解っていないことを痛感し、これからも私などには到底不可解であろうことは、判ったと思う。本当は解るとか判らないとかはどうでも良いことで、願わくば、一碗を手にとって一服いただいてみれば、或いは、私のような愚物でも、ほんの少しは入り込めるのかもしれない。でも、ガラス越し遠目に眺めていても、乾涸びずに、しっとりとしたしなやかな土の感触が伝わってくる茶碗がある。楽家歴代は皆、個性を重視しつつ、光芒を放ち続けている。

初代長次郎は、千利休の希求する茶の湯観に真剣に、さらりと応えた。私たちが、利休の侘びを象徴する茶碗として、いの一番に思い浮かべるのは、長次郎である。だが、きっとそこに到達するまでの模索、試作の過程では葛藤もあったはずだ。長次郎は、それを乗り越えて、思想も、力も、希望をも削ぎ落とした。長次郎の茶碗は、表現という俗的部分をすべて棄て去り、全くお茶を飲む道具としてそこに在る。黒楽 銘 大黒も、赤楽 銘 太郎坊も己の主張は絶って見える。美術館の陳列ではさもありなん。冬眠しているようなものだ。故にとても静かである。茶席に現れて、茶筅通しで潤いを与えた瞬間、茶碗は目覚める。その時にしか見せない顔や色となる。それが自分の手の中にあることを、私は想像してみた。一方で、長次郎の作った置物、銘 二彩獅子は、とても躍動的で見る者に迫ってくる。長次郎は、茶碗とその他のやきものを、完全に別物として捉えていた。茶碗はあくまで茶道具。長次郎はそこに誠心誠意向き合い、打ち込んだ、真面目な人であった。長次郎の作品からはその真面目さが、直に伝わってくる。利休もまたそれをわかっていたと思う。

展覧会では光悦の茶碗もあった。本阿弥光悦は、楽茶碗を愛し、ついには自分で作陶したが、それが光悦ならではの、光悦の中の美を見つけた証となっている。その徹底ぶりには驚かされるが、到達したところは、決して物真似にはなっていないところが凄い。光悦は光悦である。中で、黒楽 銘 雨雲は、碗の中に一幅の水墨画を見るようだ。私には雨雲が散りゆく桜花に見える。光悦の暮らしや生き方に、私はとても興味がある。鷹峯の奥で隠棲しながも、楽家と付き合い、必死で自分の楽を追求したところも、光悦の魅力のひとつだ。楽を愛で、楽しく人生を謳歌した、本物の数寄者であった。

長次郎以来の楽家の中で私が気になったのは、三代道入と、八代得入である。道入の茶碗は、初代長次郎や二代常慶にはない、独特の光沢と艶が印象的で、とろりとした肌がたまらない。楽家の釉薬の技法を完成させた道入。黒楽 銘 青山は、東山に出ずりゆく昇月のように美しい。道入の茶碗からは何億光年もの輝きが発せられ、この展覧会のテーマである、「茶碗の中の宇宙」を象徴している。道入は、以後の楽家の道標のひとつになったと思う。一方、得入は、父である七代目長入の隠居に伴い、八代目吉左衛門を襲名したが、元来病弱であったため、父が亡くなると、弟の了入に九代目を譲り隠居した。隠居後は楽家の重圧から解放されて、好きに作陶したが、わずか三十歳で夭折。薄弱な得入には、楽家の看板は重すぎたのだろう。でも彼は長次郎譲りの生真面目さで、期待と伝統に応えようとした。残されたわずかな作品は、彼の愚直な優しさに溢れている。得入の作品は何せ数が少ないが、出品されていた、黒楽 銘 万代の友 は、二匹の亀が仲良く遊ぶように描かれていて、長寿の縁起を担いでいるが、それがかえって哀れに見える。病弱であった得入ならではの作品で、彼にしか作ることのできない、生き存えることへの憧れが切実に込められている。私はこの茶碗に強く心を揺さぶられた。しばし茫然と眺めていたが、得入の願いが虚しく散ったことを思うと涙が零れる。しかし、得入の想いは今に残っている。故に人は、今も楽を愛するのだ。得入が作陶した時は僅かであっても、しっかりと襷は繋がれている。

展覧会のラストは、当代吉左衛門の作品群。楽の今を存分に楽しませてもらった。極めて前衛的な茶碗が、天上の花畑のように並ぶ。吉左衛門は、「加飾への極限的な挑戦、非装飾の長次郎の対極まで一度は行かなければならない」と言い切る。一度、崩し尽くせるところまで崩しておきたいという信念のもとこれまでやってきた。が、ここにきて長次郎以来、亡き父覚入までの楽家を改めて思い直して、当代にとっての新たな道に入っている。吉左衛門は、心から自分の茶碗で茶を飲んで欲しいと言う。見るのではなく茶を飲む道具。茶碗とは道具である。私たちは名品を目の前にすると、つい盲目になってしまう。かくいう私もだらだらと浅薄な雑感を申し述べたが、要は茶を飲みたいのだ。楽茶碗で茶を飲みたい。いつか楽家の茶碗で茶を飲みたいのである。長次郎から当代まで、そして次代篤人へ。楽家の宇宙はとどまることはない。歴代の作品を見て、等しく思ったのは、今も恒星の如く自ら輝きを放っていることだ。どれもが情熱の塊なのだが、美術品として見る者へと放たれる主張は、徹底して削がれている。やきものは、窯から出すまで想像できるところと、想像できないところがある。やきものの真髄とは、想像できない部分であろう。何一つわからない私でも、それだけは信じている。

日本仏教見聞録 護国寺

かつて私は護国寺の近くに住み、境内や門前をよく歩いた。若い頃、正月にテキ屋のアルバイトをしたこともある。不老門の石段下で、初詣客を相手に、おみくじやジャガバター、焼きそばなどを売ったりした。大晦日の朝から準備をして、翌元日の日暮れまで一睡もせずによく働いたものだ。正月三ヶ日はそんなふうに過ぎて、金杯を観戦する頃に、ようやくのんびりした正月を迎えたのである。若いからこそできたことだ。テキ屋には年配の人がけっこういて、彼らは私よりもずっと元気で威勢があった。その道一筋、皆一様に顔は真っ黒に焼け、シワまで脂ぎっていた。傍目には、器用に生きられず、浮き世に背を向けるように、露天商の道に入ったという感じがした。灼熱の夏も、極寒の冬も、外で商売をする辛い仕事なので、抜ける人も多いが、留まる人もまた多い。私の世話をしてくれたオヤジは、元締めにはずいぶん叱られていたが、今はどうしているか。まだ元気にやっているのだろうか。護国寺に行く度に、彼のことを思い出す。護国寺は、真言宗豊山派大本山であり、徳川綱吉の力をあまねく天下に示すべく建立された寺であり、明治国家の元老中の元老山県有朋の墓がある威風堂々たる大寺院である。その護国寺に、今回は仏教と権力という観点から迫ってみたい。

神齢山悉地院護国寺は、天和元年(1681)二月七日、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の発願により、上州高崎の大聖護国寺住持であった亮賢僧正を開山として招き、徳川家の祈願寺として建立された。幕府の高田薬園の地を与え、翌天和二年に旧本堂が完成。亮賢は、大和の長谷寺で修業し、当時、霊験ある真言密教の祈祷僧として有名であった。噂を聞いた桂昌院は、綱吉を身篭ると、亮賢に祈祷をさせた。亮賢が「この子は将来、天下を治める器である」と言ったことで、桂昌院は亮賢に深く帰依するようになる。こうして生まれてきた綱吉は、廻り巡って天下人となった。

綱吉は三代家光から四代家綱の時代に、政治の主導権が幕閣に移ったことを憂慮し、将軍親政を取り戻そうとした。家綱時代の閣老を排除し、自身の側近で身辺を固め、牧野成貞や柳沢吉保といった側用人を重用した。何事も側用人を通さねば、将軍決済を得ることができなくなり、側用人の威力は増した。また或る時、江戸城中奥の将軍居間のすぐ側で刃傷沙汰があり、警備が強化された。将軍はさらに奥へと引っ込み、取次はすべて側用人や御用取次を介さねば、たとえ老中や大老であろうとも、謁見は許されなくなった。余談だが、江戸城の刃傷沙汰と云えば、元禄赤穂事件が一番有名だが、江戸時代を通しては意外に何度も起きているのである。田沼意次の息子田沼意知も、殿中で斬り殺されている。

こうして幕閣の権威は失墜し、将軍親政のもとで、幕政改革が始まった。中で、下馬将軍と称された酒井忠清は、大老として家綱時代には絶大な権勢を振るったが、五代目継嗣問題で、時期将軍を綱吉ではなく、皇族であるが、徳川家とは縁の有栖川宮幸仁親王を宮将軍として奉戴すべく謀り、綱吉陣営との政争に敗れ、某略を持って野に下された。忠清が親王を将軍に迎えようと画策したのは、己が権力を保持せんがためだが、そもそも家光から幕末まで続く将軍継嗣問題で、何よりも血筋を重んじたのが徳川家の伝統であり、幸仁親王がたとえ徳川の縁者とはいえ、保守派には公家から将軍を迎えるなど論外であった。忠清の驕りが過ぎて、事はあっさりと捻り潰されてしまい失脚する。

綱吉政権は強かった。財政的にはこの時すでに傾いていた徳川家であったが、綱吉は強固な政治基盤を築くことに成功し、リーダシップを発揮する。そして元禄という徳川時代最大の発展期を迎え、天下泰平盤石となり、ようやく庶民にまで、幕藩体制の恩恵が行き渡り始めた。一方で専制君主の綱吉は、生類憐れみの令を発布し、だんだんに市民を抑圧するようになる。中野には御囲(おかこい)という、広大な犬の収容所を設けた。ちょうど今の中野駅周辺にあったとされる。その維持費は莫大で、幕府財政をさらに逼迫した。周知のとおり、生類憐れみの令は、犬はおろか、蚊を殺しても罰せられたほどで、初めは名君の誉れ高かった綱吉も、やがて人々から犬公方と揶揄されるようになる。生類憐れみの令は、世界初の動物愛護の法と云っても過言ではあるまい。が、それが次第にエスカレートしてしまい、結果、天下の悪法とまで呼ばれるようになった。綱吉は戌年生まれで、犬を大切にすれば、天下は治り、将軍家も安泰と信じ込んでいた。綱吉自身が狂犬になったのである。

桂昌院は、公式では二条関白家の家司で、北小路氏の娘とされるが、出自については様々な説がある。よく云われるのが、京の八百屋の娘とか、西陣の織物職人の娘ともあるが定かではない。家光の側室のお万の方が、伊勢慶光院の院主をつとめている時に縁があり、お万が還俗して大奥入する際には付き従ったとされる。その後、春日局に見出され、薫陶を受けて家光の側室となる。春日局が亡き後、大奥を束ねたお万にも重用されて、綱吉が生まれた。町娘から将軍生母となり、従一位まで授与された桂昌院は、日本の女性では類を見ない、位人臣を極めたシンデレラであった。故に、権威権力に対する固執は凄まじく、最晩年まで大奥を取り仕切り、綱吉には事あるごとに進言することを憚らなかった。専制君主とその生母には、誰一人逆らうことなく、国中がひれ伏した。このように綱吉と桂昌院は、いつも二人三脚であった。この二人を表で補佐したのが側用人の牧野成貞と柳沢吉保で、裏で補佐したのが綱吉親子の護持僧の亮賢と隆光である。

 隆光は、慶安二年(1649)奈良の旧家河辺氏に生まれた。万治元年(1658)に唐招提寺で修行に入り、寛文元年(1661)に長谷寺へ入って、新義真言宗を修学した。また奈良や醍醐の法流も受けた。徐々に祈祷僧として頭角をあらわした隆光は、貞享三年(1686)に、将軍家祈祷寺のひとつである、筑波山知足院の住職を命ぜられ、関東へ下った。南都に生まれ、大和の風物に親しんできた隆光にとって、東下りは心細くもあったであろうが、それ以上に将軍家に仕えること、また強い将軍綱吉に惹かれていたに違いない。関東に下向することは、不安よりも、己が将来を大きく展望し、胸弾ませたことであろう。 綱吉に信頼された隆光は、常に側近として祈祷にあたった。綱吉は神田橋の邸から、江戸城本丸へ入ると、神田橋邸跡地に護持院という寺を建立し、筑波山の知足院も護持院と改めて、隆光に住職を兼務させた。やがて護持院は護国寺建立時に、音羽の地に移転し、新義真言宗でもっとも格式ある寺となる。古地図を見ると護持院は、今、護国寺に隣接する豊島岡御陵の辺りにあったはずだ。護国寺と護持院は、新義真言宗の大派閥として共存共栄した。日本仏教は鎌倉以降、浄土門禅宗勢力を伸ばし、徳川時代に入ると、寛永寺を建立した天海の天台宗に押され気味の真言宗であったが、護国寺と護持院のおかげで、久しぶりに真言宗が日の目を見ることに成功した。亮賢と隆光の智略と尽力の賜物であろう。元禄八年(1695)隆光は、真言宗新義派で最初の大僧正に任じられた。

綱吉に犬を大切にするように吹聴したのは隆光であった。隆光は、まさしく不敵に綱吉親子に取り入ってゆく。一時は政道を左右するほど、隠然たる影響力を持ったとされる。綱吉、桂昌院柳沢吉保、そして亮賢と隆光が元禄日本の頂にいた五人組である。そして、この五人が華麗なる元禄時代を主導し、創り上げた。こうして、隆光もまた将軍家の威を借りて、一時は日本一力を持った僧であった。桂昌院柳沢吉保、隆光の三人が綱吉をプロデュースし、元禄バブルを扇動した。いわば護国寺と護持院は、彼らの夢の終着点であり、頂点を極めるまでに流した、血と汗と涙の結晶であった。とかく元禄のラスプーチンの如く云われ、悪僧とも称される隆光だが、実際はなかなか徳のある坊さんだったようだ。綱吉は、優れた祈祷僧としてのみならず、隆光の人柄、教養、英知を尊敬し、ブレーンとしても厚く信頼して、仏教の師として仰いだのである。生きとし生けるものを憐れみ、殺生を禁じたのも、元はといえば仏教の教えに他ならない。考えてみれば、何も間違ってはいない。だが、高みへ昇り詰め過ぎた彼らには、はるか下界は雲の下。昔は見えていたものが、いつのまにか見えなくなってしまった。そうして綻びと歪みを生んだのであろう。

日本に仏教が伝来してから今日まで、正確には明治維新までは、仏教は権力者と共に歩んできた。明治維新以降は付かず離れずだが、どちらかと云えば、民衆の中にあり、戦後は各個人に委ね納まっている。聖徳太子に始まり徳川氏まで、歴代天皇武家政権に庇護されて、日本仏教は発展を遂げてきた。古来より日本人は八百万の神々を奉ってきたが、その神々と仏教が直接対決をしたことはない。はじめは物部氏のように排仏を唱える者がいたが、仏教は日本の自然や土着の神と融合しながら、しなやかに日本人に浸透した。神仏混淆とか神仏習合という言葉は、日本の神々と仏教が柔和に馴染んできたことを示している。一方で、明治維新の時の廃仏棄釈や神仏分離は、明らさまな激流であった。が、日本人の心に染み渡った仏教は、廃仏棄釈如きでは絶えなかった。今その土台を我々は踏みしめている。これから先、もしかしたらまた権力と癒着した宗教が出現するかもしれないが、二十一世紀の日本仏教は、等しく万民に寄り添える仏教に成長した。いや成長ではなく、これが本来の仏教である。仏教はいつでも手を差し伸べている。その手を握るか否かは自分次第だ。

護国寺の境内は空が広い。いつ来ても開放的な気分になる。本堂である観音堂は、元禄十年(1697)正月、新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で同年八月落慶供養となった。旧本堂は小ぶりであったが、新築された観音堂はその四倍以上の大伽藍となった。当時の建築工芸の粋を結集した建築で、その雄大さは江戸でも指折り、今の東京では随一だ。本尊は、桂昌院の念持仏で六尺五寸の琥珀如意輪観音だが、絶対秘仏とされ拝観はできない。今、本堂の厨子の中に安置され、毎月御開帳されるのは、大老堀田正俊次男大坂城代を務めた堀田正虎の母・栄隆院尼が寄贈した如意輪観世音菩薩である。この日もちょうど御開帳されていた。絢爛たる宝冠をいただくこの観音様は美しい。平安後期の作と云われ、片膝を立て、うつむき思惟する表情は、如意輪観音ならではの艶かしさが漂う。仏像に性別はないが、観音様はどちらかといえば女性的、母性的である。ことに如意輪観音は、極めて妖艶な色香を放つ。私は、数ある観音様でもっとも如意輪観音が好きだ。そこに母の面影を見ることもあれば、いかにも女性にしか発することのできぬ偉大な力に包まれる心地がする。護国寺建立を発願した桂昌院は、綱吉への深い愛情と、国母としての力と慈悲、そして町娘から、女として最高の地位に到達した喜びと達成感に溢れていたに違いない。そうした意味で護国寺は、鎮護国家とか徳川の祈願寺というよりも、母が子を思う母性的慈悲の寺、或いは女性の出世と幸せを願う寺だともいえよう。

本尊厨子の両翼には、極彩色の観音三十三身像並んでいる。これだけの観音像が一同に居並ぶ様は壮観である。他にも内陣向かって右には、不動明王や二童子像があり、内陣向かって左には、大黒天と恵比寿天、その周囲には四天王像など多くの仏像が安置されていて、護国寺は東京でも随一の仏像の宝庫である。また、観音堂の天井には元禄という時代を示す艶やかな天女図と、壁には巨大な絵馬群が奉納されていて、いずれも圧巻の存在感で観音堂を彩る。この大建築が、震災にも戦災にも焼けずに残ったのは、とてつもない観音力のおかげであろうか。江戸には徳川家所縁の寺がたくさんあるが、寛永寺も増上寺も伝通院も、皆、焼けてしまった。護国寺が唯一、徳川時代の威光を知らしめてくれている。

言うまでもなく、真言宗豊山派の総本山は、大和の長谷寺であるが、現在豊山派の本部は護国寺に置かれている。護国寺豊山派の布教活動の拠点なのである。足立区の西新井大師とともに、関東の豊山派を束ね、その発展に尽力してきた。長らく真言宗は、高野山、東寺、智山、豊山が四本山とされたが、明治以降は分派分裂を繰り返した。今、真言宗には数多の派があるが、豊山派は新義の一派で、智山派や新義真言宗と紆余曲折を経て、昭和二十一年に改めて発足した。祖師は弘法大師空海だが、空海以来の真言密教を古義、院政期に、真言宗中興の祖とも云われる覚鑁を流祖とした真言密教が新義と呼ばれる。一時は新義派が主導した時期があり、その教義は拡散した。この頃は、東寺の長者が高野山座主も兼ねたが、覚鑁は、最高権力者の鳥羽院と昵懇になり、鳥羽院院宣高野山座主に就いた。これは異例なことで、覚鑁はこれを機に真言宗の大改革を始める。が、これまで影響力のあった東寺勢力を退けて、高野山の独立を企てたところで、抵抗に屈し失脚。自らの根来寺に退いて、失意のうちに世を去った。真言宗の中にさえ、こうした権力闘争が渦巻く時代があったのだ。時代は降り、秀吉の根来寺討伐の後、天正十五年(1587)長谷寺に専譽が入り、慶長五年(1600)には、玄宥が京都に智積院を開き、それぞれ豊山派、智山派と称するようになる。両派とも新義で、新義真言宗を含む三派が新義の系譜を繋いできた。古義は関西に多く、新義は関東に多いといわれる。新義も総本山は関西だが、関東を足場に布教した大本山の果たした役割が非常に大きかった。関東の真言宗寺院は、豊山派と智山派の寺が圧倒的に多いのも、宜なるかなである。でも、根本の教えと真言密教の秘法は、空海以来どの派もさほどの差異はなく、受け継がれている。護国寺の観音堂内陣でも、常に護摩焚きが行われてきた。故に天井は三百年の煤で黒光りしている。

護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した護持院は、明治時代に護国寺に吸収合併した。護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地五万坪のうち、東側の二万五千坪は皇室に献上されて、皇族の墓所(豊島岡御陵)が造られた。また、西側の五千坪は陸軍墓地となり、護国寺境内は二万坪ほどに縮小した。現在、陸軍墓地護国寺墓地の一角に整理されていて、山県有朋もここに眠る。他に三条実美大隈重信らも眠り、ここは明治の元勲たちの墓場なのである。私は山県有朋にもとても興味がある。日本陸軍の父とも呼ばれた山県は、晩年まで老獪に政界と軍部に蔓延ったが、そういうところが、山県の一番の魅力だと私は思う。山県は松下村塾の末席に名を連ねたが、頭角を現したのは、他の塾生が早世してからで、西南の役以降急速に力をつけた。白洲正子さんの祖父樺山資紀は、海軍軍令部長で台湾総督まで務めた元勲の一人だが、樺山は「本当に偉い人達みんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ」と言ったそうである。山県にもそういう想いがあったかはわからない。そんなことは微塵も思わなそうなイメージが、確かにある。ダークな部分が付き纏う人物だし、事実そんな人であったと思う。が、先に死んだ者へのリスペクトが、彼を晩年まで突き動かした、唯一つの信念ではなかったか。あえて泥被り、汚れたキャラクターに徹することこそが、彼の立つ瀬であり、先に死んでいった人達への誓いと、供養であったと、私は勝手に思っている。山県は、京都や小田原にも巨大な別荘を持ったが、東京には護国寺からほど近いところに、本邸があった。これが椿山荘である。今はホテルの名前になっているが、あそこが山県の邸跡だ。椿山荘のあたりは、江戸時代から椿山と呼ばれた椿の名所で、今では考えられないほど風光明媚なところであった。山県はこの地を気に入り、自邸を椿山荘と名付けた。ホテルは名前も拝借したのである。山県の趣味は庭造りで、お抱えの庭師にあれこれ指図したとか。こんな面白いエピソードがある。或る時、京都蹴上の別荘無鄰菴の某有名な庭師に、庭石の置き場所について注文をつけると、庭師は、「閣下は兵を動かすことは誰よりもできるでしょうが、こと庭石をどこに動かしどこに置くかは、私の方が閣下よりもうまくできると存じます」と、畏れ入って答えた。山県はそれはもっともだと呵々大笑し、以後は口出しせずに黙って眺めていたという。大元老に臆することなく、進言した庭師も立派だが、分を弁えた山県の振る舞いに、私はとても親近感を覚える。今、山県は護国寺の裏の墓地で、妻と仲良く並んで眠っている。

護国寺には茶室がたくさんある。実業家で茶人として知られる高橋箒庵は、護国寺の檀家総代を務め、大正から昭和初期にかけて境内の整備を行った。芝にあった松平不昧公の墓所関東大震災で被害を受け、区画整理の関係もあって、松江への移転が検討されているのを知り、護国寺への移転を実現させた。また三井寺の月光殿を、原六郎から譲り受け、護国寺の西側に移築した。その他、五つの茶室、多宝塔、不老門を建設。これ以後、月光殿や茶室を利用して護国寺で大規模な茶会が開催されるようになった。今も護国寺では定期的に茶会が催されている。不老門からの眺めは良い。石段を昇り枠の向こうに青銅色の観音堂の大屋根を望む時も、反対側から眼下の音羽通りを俯瞰するのも、なるほど護国寺とは大本山たるに相応しい寺だと実感するであろう。

元禄時代は、江戸時代ファンでなくとも、関心がある人が多い。忠臣蔵、生類憐れみの令、花開いた江戸町人文化、松尾芭蕉の登場など、角度を変えてみれば、なおいっそう、様々におもしろき時代である。元禄の名残りを求めるならば、元禄の象徴とさえ云える護国寺へ是非とも足を運ばれたい。そこにはきっと、あなたの探す、私の探す元禄時代が見つかるであろう。

世界は何処へ向かうのか

3月にロンドンで起きた暴走車によるテロで、轢かれたあげくに、ウエストミンスター橋からテムズ川に転落した女性が、先日亡くなった。半月ほどは、生命維持装置により延命していたが、恋人や家族の意思で、装置は取り払われた。遺族の遣る瀬無い想いや如何許りか、察しもつかないほどである。彼らはこの後、どうして生きてゆけるのか。何の罪も無い人たちが、次々にテロや戦争の犠牲となってゆく。 シリアでは自国民に対し、化学兵器が使われて、白目を剥いた子供たちの映像は、目も当てられなかった。これはNHKの「映像の世紀」ではなく、我々の生きている今、現実に起きていることだ。現実なのである。サンクトペテルブルクでも、地下鉄で爆破テロがあり、古代から今日まで中東は揉め続けている。それらの国の背後から、死神の如く操り迫る米露中。北朝鮮は、この五十年で最も危険な状況に相成り果て、第二次朝鮮戦争は目前に迫っている感が濃厚だ。そんな時に韓国は、大統領が罷免され、国家の足元が極めてぐらついているため、必然的にアメリカが動かざるを得ない。

日本はといえば、相変わらず政治と金の話題ばかり。オリンピックも結構だが、あまり浮かれていては、とんでも無い目に遭うと思う。起きてからでは遅いのだ。この国はいつも、後手後手が得意だから、対岸の火事としらばっくれて様子見を決め込む。かねてより、時代に即したなどど言うのであれば、日本人一人ひとりが今を見据えて、或いは長期的に、建設的に物事を捉え、気づき、進んでゆかねばならないと思う。一方で、熊本地震東日本大震災で、時が止まったままの日本人がいる。置き去りの人がいるのに、自分のことばかりの輩が多すぎるのが、この国の現状だ。置き去りにしてる人が悪いわけではない。どちらも気の毒である。そんな世の中になったのは、戦後からここまでの道程に、大きな歪みが生まれたからに他ならない。が、立ち止まってばかりもいられぬほど、事態は逼迫している。どうしたら、お互いが滑らかに寄り添えるのかを考えることも必要だと思う。世界だけではなく、日本国内でも、貧困、孤独、被災、虐め、無差別殺人などで苦しんでいる人が多勢いる。そのすべてに寄り添うことは無理でも、自己主義、利己主義は棄て去らねば、本当に行き止まりになってしまうだろう。夏目漱石や、司馬遼太郎が指摘したように、日露戦争以降の四十年間、国民は政府や軍部、或いはマスコミに踊らされた。でもまた同時に、それらを信じて、買い被り過ぎた国民も、今思えば、洗脳と半狂乱の間に居たと言わざるを得ない。 日本人は歴史に学んできた。人間の歴史が繰り返すのは定めであるが、思考して問題解決の糸口を探ることができるのもまた人間である。繰り返さないことも今ならば、今の私たちならばできるであろう。ポピュリズムが扇状に広がり過ぎて、その要は外れてしまった。民主主義はもう飽和状態。崩壊はそう遠くないかもしれぬ。その前に、これまでの日本の歩みを見直して、これからどう進み、降りていけばいいのか、真剣に考える時は今だと思う。

桜守

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

桜の頃、私はいつも業平のこの歌を口遊む。暑さが苦手な私は、春夏よりも秋冬を好む。梅が散って冬が終わり、花の便りが届きはじめると、若干鬱々としてくる。春空の下、私は己が雲路の中を彷徨う。でもやっぱり桜は気になってしまう。方々で花開き、名所や名木の花を見れば、心逸る気持ちを抑えることができない。こうして桜は、春の私に追い打ちをかける。桜が無ければ、もう少しのんびりと、いつまにか初夏になり、夏になってゆくだろうに。桜は慌ただしく、四季の移ろいを急き立てるのだ。が、桜が無ければ、日本人の春は来ない。そして私は、和泉式部のこの歌を口遊む。

のどかなる時こそなけれ花をおもふこころのうちに風は吹かねど

桜はソメイヨシノだけではない。寒桜に始まり、御室の桜や奥の千本まで咲き誇ってもなお、北国の桜が終わるまで、桜は日本の春の句読点である。最近はどうもソメイヨシノを貶す輩もいるが、植木職人や研究者のように、桜に携わっている者が言うならばいざ知らず。聞き齧りでソメイヨシノや、それを日本の桜と信じる花見客を、鼻で笑う連中がいる。いっそ私は、彼らにこそ憐れみを覚える。確かに、日本に古来からある彼岸桜、山桜、八重桜、枝垂れ桜などは名状し難い。私だってお気に入りに桜は、エドヒガンの老木である。が、ソメイヨシノソメイヨシノで良いと思う。あれほど明るく、全体に花をつける桜はない。江戸人が創り出した賜物で、言うなれば桜のサラブレッドである。ソメイヨシノは、もの想うことに苦慮する今世には、わかりやすくて、似つかわしい桜だと思う。そして、数ある桜の中で、ソメイヨシノはもっとも寂しさを纏っている気がする。明暗表裏一体の桜といえようか。ソメイヨシノには、明るさと寂しさが同居する。花に罪は無い。どの花も同じように愛したい。

私にも、お気に入りの花見スポットがある。それは、誰もが知っている場所から、知る人ぞ知る場所までいろいろとある。どこの桜も好きだ。なるべくならば、人の居ない静かな所で、たったひとりで、いや桜と二人きりで対面できる所がベストだが、千鳥ヶ淵や上野公園、飛鳥山や吉野のように、たくさんの花見客で溢れる所も悪くはない。如何にも、現代日本の花見を象徴していると思う。まあ、マナーの悪い乱痴気騒ぎはどうかとは思うが、老若男女が心を一にして、春を寿ぐことは、素敵なことだと思う。

私はこの季節になると、愛読書も桜をテーマとした小説や、物の本になる。今年は水上勉の櫻守を読んだ。先年、小説の舞台である海津の清水の桜を知り、早く読みたいと思っていたが、買ってすぐには読まないで、この時季まで待っていた。私には時々こうした本がある。買うには買うのだが、しばらく置いておいて、読み時が来たら読む本だ。もちろん買ってすぐに読む本もある。本にも、時節、自らの体調、心境によって、読むタイミングがあると思っている。

話は逸れたが、櫻守を読んで、すっかり水上勉に落ちてしまった。ここでこの物語を事新たに言うつもりはないが、水上さんの言葉紡ぎは、まったくナチュラルで美しい。いかにも桜の花弁が舞うかの如く、はらはらと、瞬く間に読み耽ってしまった。衝撃的なラストを迎えた時、私もさすがに涙を抑えることできなかったが、主人公の弥吉は、人生を桜に献げ、愛した桜の下で眠れるなど、思えば幸せなことである。桜の下で眠ると云えば西行とてそうだ。

春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

櫻守には、日本各地の桜の名所名木が出てくる。櫻守を読むことで、私自身もその場で、弥吉らと同じ桜を眺めている様であった。それが何とも心地よくて、うれしくて、切なかった。櫻守のモデルとなった笹部新太郎氏は、文字通り全生涯を、桜を守り育てることに献げられた方だ。今でもその意志を引き継ぐ人がいて、私たちの知らぬところで、桜を守っている人たちがいる。桜は、ほったらかしでは上手く育たないらしい。定期的に剪定し、土壌管理、蔦や宿木の除去、虫食いの治療や予防など、人の助けがないと生きられない桜は、人の近くで、人と共に生きている。あれだけ美しい花をつけるのも、受粉だけではなく、人を呼ぶために、桜が身につけた術なのかもしれない。桜だけではない、いつもどこかで樹木を、森を、山を、川を、海を人知れず守っている人がいる。彼らは行政などでは到底できぬ、きめ細かな愛情を持って寄り添っている。ただ、花を眺めるだけではなく、私たちはそんな人びとにも想いを巡らせながら花見をするのも、たまには良いのではなかろうか。

 櫻守を読んで、もっとも印象的だったのは、日本中の有名無名の桜を、水上さんの微に入り細に入りした、写実的な筆致で堪能できたことである。それぞれの花の名、由緒、姿、色が、まことに丁寧に描かれている。水上さん自身も、桜をかなり研究されたに違いない。そして何よりも、桜を愛した方であったと思う。花を愛でる人にしか描けぬ文章である。櫻守を読んだおかげで、この春は多くの名木と、花に取り憑かれた人びとに囲まれた私。なんだか今年の花見は、もう終わったなという気でいる。

おしなべて花はさくらになしはてて散るてふことのなからましかば

日本仏教見聞録 浅草寺

浅草はなぜあれほどの人を惹きつけるのか。浅草に日本を、あるいは江戸の名残を求めてか。浅草の観音さまは、そこへ来る人々を千三百年もの昔から迎えている。年間の参詣客三千万人超え。日本でこれだけ人を集める寺はない。東京最古にして最大の寺。寺院に勝ち負けとか、優劣などありはせぬが、江戸人のように、寺に番付を付けるならば、浅草寺は東の大横綱である。増上寺も、寛永寺も、泉岳寺も、築地本願寺も、参詣客では、この寺の足元にも及ばない。東大寺清水寺よりも長い歴史もある。ひとつの銀河の如く寺の集まる関西に、東京はほぼこの一寺でもって対抗できる。都内からは富士山もあまり見えなくなり、江戸城も大名屋敷も消え失せた今、江戸自慢の筆頭は、浅草寺だろう。

 この四半世紀、私はしばしば浅草を訪れる。神社仏閣を歩きながらあたりを散歩する。浅草には、観光客でなくとも、覗きたい店がいろいろとある。私も、和雑貨、和菓子、茶道具などを見たり、蕎麦や洋食の名店が多いのも楽しい。時には浅草でレンタサイクルを駆って、吾妻橋を渡り、川向うへも行く。向島は、空が広くて解放感があるも、江戸の果てというような寂寥感がひしひしと迫りくる。業平の歌や、謡曲隅田川さながらの、東国の情趣をたしかに感じられる場所なのだ。梅若塚のある木母寺、桜餅の長命寺勝海舟が参禅した弘福寺墨田区最古の茅葺門が残る多聞寺、牛の御前や三囲稲荷にも江戸の残り香が漂う。白鬚橋から浅草へ戻る時には、石浜神社、玉姫稲荷、橋場不動、平賀源内の墓もあったりする。さらに、足を伸ばせば泪橋小塚原、そして新吉原が控えている。このあたりは江戸時代から裏田圃と呼ばれた。浅草寺の裏との意味だ。裏田圃の先は、浅草寺の奥山になる。関東大震災で、無残にも倒壊した浅草十二階凌雲閣は、今の花やしきの後方に建っていた。その足元には、十二階下と呼ばれるラビリンスがあり、私娼窟が蔓延り、まことに風紀濁るる場所であった。かつては精進落としと託けて、大きな神社仏閣の近くには、似たような場所があった。人間の業は果てしなく深いが、同時に何とも薄っぺらいもの。が、それが人間だ。私たちの祖先を責めることなどできない。今、奥山には花やしきがあり、土産物屋、寄席、居酒屋がひしめいていて、明るく安全で清潔な街になった。しかし一方では、私も立ち寄る場外馬券場があり、ストリップ劇場があり、ちょっと脇道に入ればゲイバーがあったりして、妖しい浅草が垣間見られるのも、この街の魅力である。いつでも大勢の人が闊歩する浅草は、折々でその人出がさらに増す。初詣、桜の頃、三社祭ほおずき市、隅田川花火、酉の市、羽子板市などなど。そんな時はいささか辟易するほどのごった返しだが、風物詩を通して、誰もが江戸の季節感を愛で、浅草パワー健在と思うであろう。

浅草寺の由緒を遡る。推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、桧前浜成、竹成の兄弟が宮戸川(隅田川の浅草あたりの別称)で漁をしていると、投網に純金無垢の観音像がかかった。その大きさは、わずか一寸八分(約5.4センチ)。兄弟は慌てて引き上げると、すぐさま地元の郷士である土師中知のところに像を運んだ。中知は聖観音の尊容であると認め、自宅を草庵に改めて、このありがたい像を祀ったことがはじまりとされる。浅草寺縁起となったこの三人を祀るのが、観音堂の右手にある三社権現(浅草神社)である。三社祭はこの神社の祭礼で、勇壮な宮出、神輿渡御、宮入で有名だ。その後、大化元年(645)勝海上人が観音堂を建立。夢告により、本尊を門外不出の絶対秘仏とした。今の観音堂建立時には、奈良時代の瓦が出土しており、当時は畿内でも瓦葺きは珍しかったが、都から遠く離れた東国の僻地で、すでに瓦葺きの堂宇が建てられたということは、驚くべきことである。ここがいかに当時の人々から崇敬され、暮らしに重きを成す寺であったかが知れよう。

平安時代比叡山から慈覚大師が来山し、本尊を模してお前立を謹刻。以来、天台宗の寺院となる。平氏、源氏、足利氏、徳川氏と歴代武家政権の帰依、寄進を受けてきた。江戸時代には寛永寺の傘下となり、やがて浅草は空前の発展を遂げてゆく。もともと浅草は御府外であったが、浅草と新吉原は繁盛し、やがては江戸随一の盛り場となる。境内には出店、茶店、辻講釈、小芝居、大道芸などが人気を呼んだ。浅草寺の多くの子院、諸堂は庶民の願掛けに人気を集めた。また浅草寺は、坂東三十三観音霊場第十三番の札所である。私はこの本山巡礼とは別に、何年か前から坂東巡礼も廻っているが、遅々として進んでおらず、ようやく今年になって再開した。今回その御朱印もいただくために、浅草寺を訪ねたのだった。坂東巡礼は西国巡礼とはちがって、いささか地味であるが、そこにまた面白さがあり、鎌倉を除けば、だいたいどこの寺もとても静かである。が、やはりここは違う。御朱印をいただく御影堂には、長い行列ができていて、朱印帳を渡してからいただくまでに三十分以上も待った。朱印をしてくれるのは、アルバイトの若い達筆の学生さんらしい。が、いただいてみるとまことに美文字。待った甲斐はあった。昨今の巡礼ブームで、御朱印帳を片手に寺社巡りをする人が俄かに増えたが、俄かであろうと何であろうと、このように寺社に人が集まるのはとてもいいことだ。寺とは本来、分け隔てなく人々が集う場所である。老いも若きも、男も女も、日本人も外国人もこの寺に集まるのは、ここに人が居るからに他ならない。人が人を呼ぶのである。その要であるのが、ここ浅草寺なのである。

浅草寺の総門たる雷門は、正式には風雷神門という。その名のとおり、左右に配された風雷神が守護しているが、いつのまやら雷門と通称されるようになった。雷門は今や浅草の代名詞である。雷門から南に少し歩くと、隅田川に架かる駒形橋のたもとには、駒形堂と呼ばれる小庵があるが、ここが浅草寺の開山堂ともいえる場所で、桧前兄弟が本尊を引き上げたのはこのあたりだと伝わる。雷門を潜ってさらに進む。山門である宝蔵門までのおよそ三百メートルが、これまた日本一の集客を誇る、日本一の参道仲見世だ。私はこのアプローチが大好きだ。世界に誇れる仲見世は、日本の寺の参道の中の参道である。宝蔵門は、その名のとおり階上に宝物を納めたところからそう呼ばれるが、おそらく仏像も安置されていると思う。今の宝蔵門は、戦後に再建されたものだが、江戸時代の浮世絵を見ると、宝蔵門の階上にあがって、眺望を楽しむ人々の様子が描かれている。当時は周囲に高い建物はなく、人々は絶景を楽しんだに違いない。そういえば浅草周辺には、昔から高い建物が建設されるのも面白いことだ。宝蔵門や五重塔に始まり、凌雲閣、花やしきのBeeタワー、浅草ビューホテル、そして今は川向こうのスカイツリー

五重塔は、現在瓦の葺き替え工事中で、全体シートに覆われていたが、東京一の高さを誇り、金色の相輪がきらきらと輝く様は、いつ見ても圧倒される。戦災で焼ける前の五重塔は、今とは反対側の宝蔵門右手にあったが、なぜか戦後は今の場所に建てられた。五重塔は最上階に仏舎利を納める。階下には、大位牌堂と呼ばれる夥しい数の位牌を安置した空間がある。ここは誰でも、自分の身内を問わず、自分の思う人の位牌を納めて供養することができるとかで、昭和天皇、ダイアナ元皇太子妃、マザーテレサマッカーサー元帥まであるという。そもそも浅草寺は、先祖供養もしてくれる寺だ。国境も、言語も、宗教宗派の枠をも超えた、懐の深い、まさに現代の日本仏教を代表する寺なのである。

観音堂と呼ばれる本堂も巨大だ。宝蔵門をくぐって、観音堂のカールした銀色に光る甍を眺める時、私はいつも、観音様がその大きな手を差し伸べてくださって、その掌の中に包まれていくように思えてくる。残念ながら旧観音堂は戦災で焼けたが、再建された今の観音堂も、威厳と風格に満ちている。観音堂と五重塔の屋根は、チタンアルミニウム製の瓦に葺き替えられており、以前よりずいぶん軽量化されたおかげで、建物全体にのしかかる負荷が緩和され、耐震強度も増したとか。本堂前で線香が焚かれる常香炉には、いつも参詣客が群がり、一身に災厄病苦を取り除かんと、その煙に燻されている。これも、浅草寺のお馴染みの風景だ。

浅草寺の御本尊は、未来永劫絶対秘仏とされる小さな聖観音さま。浅草寺は、戦後昭和二十五年(1950)に、天台宗から独立して、聖観音宗総本山となった。しかし、天台宗と喧嘩別れしたわけではない。故に今でも、天台密教の秘法が守り継がれている。毎年寒中に、「温座秘法陀羅尼会」という浅草寺でもっとも厳粛な、極めて密教色の濃い法要が行われている。江戸中期から行われているこの法要は、一月十二日の深夜から十八日夕方までの七日間、百六十八座の修法を行う。浅草寺貫首以下、全住職により休みなく、天下泰平、玉体安穏、五穀豊穣、万民豊楽、世界平和が祈願される。一座終わるごとに、「千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心大陀羅尼」と「観音経」を唱えることから「陀羅尼会」と云われる。昼夜祈祷三昧で、座が冷めることがないため、「温座」と呼ばれるそうだ。法要の間、本堂内陣は幔幕に覆われて、外陣とは遮断される。最終日、夜の帳が降りる頃、幔幕が上がり、最期の一座で参詣者にも結縁される。そして、二人の僧が鬼に扮して現れて、松明を掲げて、災厄を払いながら境内を駆け巡る。こんなことが、現代東京のど真ん中で、寒中に秘かに行われているのが興味深い。大東京の総氏寺として、格式、威厳、歴史、そこから生まれる秘められた大いなる力を感じずにはいられない。

私はまた別の日に浅草寺へ行った。伝法院を見学するためである。伝法院は、戦災でも焼け残った浅草寺本坊である。普段は非公開だが、毎年、桜の頃から新緑の頃まで、期間限定で公開される。お恥ずかしながら、私は今度初めて、伝法院をゆっくり拝観する機会を得た。何度も来ている浅草寺で、ついぞタイミングを逸していたのだ。何せ、桜の季節は混み合うため、敢えて避けていたのだが、この文章を書くにあたり、やはりいっぺん伝法院を見ておきたいと思った。果たして、伝法院は良かった。三月半ばのこの日は、ソメイヨシノや他の花も少し早く、人影もまばら。でも、池の畔にある大島桜が満開で、私にはそれだけで十分であった。何よりも驚いたのは、その静けさである。浅草寺境内や、仲見世の喧騒やどこに。伝法院の屋根の向こうに見えるスカイツリーも、ここから遠方すればなかなか凛々しい。古色蒼然とした伝法院と、春霞の彼方に立つスカイツリーは、蜃気楼の如く絶妙に収まって見えた。伝法院は本坊だが、将軍や大名の参詣時に迎賓館として使われた。緑も多くてまさに別世界。浅草の臍とも言えよう。

伝法院拝観と併せて、寺宝展が開かれていた。国宝の法華経は、別名「浅草寺経」と呼ばれ、金銀泥で装飾した美しい装飾経だ。平安時代の作とされ、法華経八巻と、無量義経、観普賢経がそれぞれ一巻ずつを含む全十巻が現存する。法華経も第一級の宝物だが、圧巻なのは江戸時代から奉納されてきた絵馬群であった。ただの絵馬に非ず。私たちが寺社詣りの折、願掛けして納める手のひらサイズの絵馬ではなく、観音堂の壁に掲げる絵馬である。故に一枚一枚が見上げるほど巨大で、もの凄い迫力だ。中には、六畳一間ほどのサイズの絵馬もある。だいたい江戸から明治の頃に、大名や豪商たちが競って奉納したもので、画題も様々、見ていて飽きることがない。私が特に印象に残ったのは、江戸初期の作で、展示品では最古とされる江戸人形を立体的に掘り上げたものだ。何と言っても人形の愛嬌ある顔が良い。江戸人がそのままそこに居て、私と対面しているかの様で嬉しくなった。絵馬は、江戸期のものほど、筆致が力強く、躍動感に溢れていて、そのピークは江戸中期から幕末であろうと思われる。田沼時代の天明期から、爛熟の大御所時代の化政期のものは、やはり見事であった。明治以降はいささか線が細くなる。しかし、色使いは明治以降の方がむしろ大胆になってくるのは、絵の具の種類、質、量が圧倒的に増えたからであろう。故にどちらとも優劣はつけ難かった。中で、徳川秀忠と家光が寄進したとされる絵馬は、銅板に金箔を貼り付けたような馬のレリーフで、小品だが、さすがに将軍奉納の名にそぐわぬ秀麗な意匠である。これほどの巨大な絵馬を一同に見る機会もなく、戦災で伽藍は焼け落ちても、こうした宝物が秘かに守られてきたところに、古寺の底力を見る思いがする。だからこそ余計に私の心が、揺さぶられたのかもしれない。

最後にどうしても触れておきたいのは、観音堂の真裏に立つ、イチョウの古木についてである。一見、どうということのないイチョウの大木なのだが、裏に回ると、幹の中が丸見えで、中は真っ黒に煤けている。これは東京大空襲で、観音堂が焼け落ちた時、紅蓮の炎に曝された傷痕なのである。七十年以上前の火傷の痕。そんな年月を感じないほど、炭になった部分は生々しく、痛々しい。浅草寺は、これらを戦災樹木として保存しているのだ。観音堂が焼け落ちるのを、隣接する三社権現と、ここにある数本のイチョウの木は目の当たりした。私は浅草寺を訪ねる度に、いつもこの木たちに逢いにゆく。そして私は瞼を閉じて、観音堂が焼け落ちた夜を追体験する。戦災樹木は、今もなんとかあの場に立っている。七十数年を経た今でも。華やかで賑々しい浅草寺に在って、戦災樹木は、無言のうちに戦災の恐ろしさを曝け出して見せている。浅草寺は、山に喩えるならば、富士山のようである。これからも世界中の人々を惹きつけてやまないだろう。賑やかで華やかな寺院だが、同時にどこか寂しい孤高の寺。私にはそう思えてならない。

なおすけの平成古寺巡礼 豪徳寺

平成があと二年ばかりで終わるかもしれない。こうしてはいられない。何か平成日本を生きた証を残したい。昭和の終わりに生まれて、思春期、青春期、そして壮年期に入った今、人生のほとんどを平成という時代と共に歩いてきた。私が平成時代三十年を生きた証を、次へと伝えたい。とはいえ、私には文章を書くことくらいしか、残せるものはない。昨年来、日本仏教の本山巡礼と坂東三十三観音巡礼をしているが、それとは別に、個人的に行きたい寺社や町について、自由に記してみたい。題して「なおすけの平成古寺巡礼」。平成まで生き存える古寺を訪ねながら、平成日本を眺望してみよう。ただしここでは、抹香臭い仏教の話よりも、私が見つけた、私好みの寺社の風景、興味深い歴史を擁する町、魅力ある人物などについて触れてゆく。これまで訪ね歩いた土地、そしてこれから先に向かう旅の記録となるだろう。話もいろいろと横道に逸れると思うが、あしからず。

 世田谷区は東京でも屈指の人気のある街。だが意外にも区内には九品仏、奥沢神社、等々力不動、目青不動、龍雲寺、世田谷八幡宮、勝光院、烏山寺町など、数多の古社寺が点在する。瀟洒な世田谷に在って、ひっそりと佇む寺社に心惹かれて、私は時々世田谷を歩くのである。そして私が、世田谷区でもっとも足しげく通う寺が、豪徳寺である。

これまで何度か書いてきたが、私は井伊直弼公に私淑している。なぜかを語れば延々なのだが、一言でいえば、覚悟の人であったということに尽きる。大老や藩主としての政治家の顔、居合の達人、そして何よりも茶の湯を愛し、その道を極めんとした半生。どれをとっても格別な魅力に溢れる人だ。私が死んだら、まず初めにお目にかかりたいと願ってやまない。私は、井伊直弼大老就任後、幕政を一手に担い、開国へと舵を切ったことが、まさしくこの国の夜明けそのものであったと信じている。彼のやったことは、あの時の情勢では、本人曰くのとおり「致し方ない」ことであった。

桜田事変について、事新たに述べることはないが、ここから明治維新までわずか八年。桜田事変が、幕末の動乱の呼び水となったことは間違いない。安政七年(1860)三月三日。上巳の節句。江戸在府の諸侯は、節句の日には将軍へ賀詞の拝謁があり、総登城が定められている。陽暦では三月二十四日で、そろそろ 桜の綻ぶ時節。なのに江戸は大雪であった。幕府最高権力者の住まう彦根藩上屋敷は、今の国会前庭のあたりに、広大な敷地を有し建っていた。表門は本郷の加賀藩邸と同じような堂々たる赤門で、三宅坂から桜田門方面を睥睨している。それはいかにも譜代筆頭、大老家に相応しい構えであった。ここから江戸城桜田門までは、わずかに五町(600メートル)ほどだ。大名諸侯の行列は禄高、家格により定めがあり、ことに江戸市中では厳格に守られていた。井伊家は供回り侍二十六人、その他足軽や中間小者併せて六十人余りであった。江戸市中での大老や老中などの幕閣の行列は、「刻み足」と言って、歩幅の小さい早足で歩く。これは、平時から早足ならば、非常時でもそれと悟られぬための手段であった。そして一行は、桜田門前の豊後杵築藩松平大隅守邸前にさしかかる。場所は今の警視庁前。桜田門は目の前である。襲撃開始からわずか三分ほどで首を捕られた直弼の遺骸は、まず胴体だけ藩邸に戻ってきた。

首を持ち去ったのは、唯一の薩摩脱藩士の有村次左衛門。有村自身も後頭部に致命傷の深手を負っており、辰ノ口の遠藤但馬守邸前まで来て力尽き、遠藤邸の門番に首を預けて自刃した。桜田門から辰ノ口の遠藤邸までは、十五町(約1.6キロ)ほどある。この時点で遠藤邸では、いったい何が起きたのか、誰の首なのかなど無論解らず、邸内は混乱した。やがて追ってきた彦根藩士から、半ば強引に引渡しを要求されて、首は胴の待つ彦根藩邸へ帰ってきた。藩医の岡島玄達が、首と胴を縫合し、検死した。その検死録によれば、右の臀部から腰椎へ貫かれた弾痕があると記されている。銃撃したのは、水戸浪士の森五六郎。襲撃犯たちは、まず行列先頭にて彦根藩士らをひきつけておいて、大老の駕籠脇が手薄になったところで、森は直訴状の下に拳銃を隠して近づき、至近距離から発砲したと、近年の研究で解ってきた。弾丸は身体を抜けていたが、直弼はこの一発の弾丸で、ほぼ致命傷を負っていた。下半身は麻痺して、身動きをとれずにいたと思われる。さしもの居合の達人も、どうすることも叶わなかった。

幕府はしばらくの間、大老暗殺を半ば堂々と隠蔽して、取り繕ったことは周知のとおり。よって豪徳寺に葬られたとされ、正式にもここが直弼公の墓所とされるが、数年前に調査した時には、墓に遺骨はなかったという。一説では、惨憺たる状況を鑑み、遺骸は秘密裏に彦根清凉寺や天寧寺、在るいは、彦根藩領である栃木佐野の天応寺へ埋葬されたとも云われる。詳しくは未だ明らかではないが、私もこのあたりは調べてみたいと思っている。しかし、やはりここ豪徳寺こそが、直弼公の墓であることに変わりはない。大老の墓の後ろには、これを守護するように「桜田殉難八士の碑」。その横には直弼の忠僕として、墓守をした遠城謙道の墓がある。彦根藩足軽であった謙道は、主君の死後、忠節を持って、開国論の正しさを同志とともに訴えるなど、その生涯を井伊直弼に捧げた。直弼の政敵であった一橋派が政権を握ると、彦根藩は十万石の減封、京都守護の罷免などあからさまに幕府から虐げられた。これに激怒した謙道は、決起して老中井上正直邸に自訴し、自害する企てをするも、事前に発覚して、彦根にて謹慎となる。ここで悲憤した謙道は、出家して、豪徳寺で直弼公の墓守となった。墓の門前に起居し、朝に夕に墓を掃除して、主君の供養三昧の日々を送る。明治三十四年(1901)に七十九歳で亡くなるまで、三十七年も墓守を続けたという。その間、直弼公直伝の和歌、俳句、書画を嗜み、その作はわずかばかり残されている。

この庵に住むこそ無二の浄土なれ

謙道は、おそらく茶の湯や居合の心得も持ち合わせていたであろう。謙道の画賛に自らを描いたものがあり、それをを見ると、冷え寂びた遁世者の面影が如実に感じられる。それはすべてを見尽くした人にしか成せぬ、成れの果ての姿であった。

豪徳寺のすぐ近くに、世田谷城址公園がある。かつて一帯を本拠としたのは、鎌倉公方に仕えた奥州吉良氏で、応永年間にこの地に世田谷城を築いた。今も壁のような土塁や、深い堀の址を、生々しく見ることができる。世田谷城は、要塞のような、出城のような、なかなかに堅固な砦であったと思われる。秀吉の小田原征伐の際、吉良氏は北条方に味方し、戦後世田谷城は没収されて廃城となった。文明十二年(1480)、この地を治めた吉良忠政は、伯母である弘徳院への孝養のため寺を建立。長らくこの寺を弘徳院と称した。臨済宗の昌誉上人を開山に迎え、百年後の天正十二年(1584)に、門庵宗関によって臨済宗から曹洞宗に改宗された。徳川時代には、この地が井伊家の領地となり、二代藩主直孝がこの寺に縁があり、堂宇を寄進した。直孝はここに葬られ、その時に寺名を直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に肖り、豪徳寺に改めたという。豪徳寺の目と鼻の先には、茅葺屋根の代官屋敷が江戸時代の面影をとどめて建っているが、あそこが彦根藩の代官である大場氏の館であった。

井伊の赤備えの力を、存分に見せつけるかの威容を誇る豪徳寺。その雰囲気は今も失われてはいない。参道には美しい松並木があり、奥に山門を眺めれば、なるほど古寺の風格を感じる。山門を入れば、すぐ左手に三重塔。十二年ほど前に再建されたもので、出来たばかりの頃は、木の香のむせた塔も、十年の歳月を経てすっかり古寺に馴染んでいる。正面に延宝五年(1677)に建立の仏殿が、堂々たる姿を見せているが、仏殿以外は奥の本堂や、僧堂は戦後に復興されたものだ。本堂は、本山の鶴見總持寺の大祖堂を小振りにしたような趣きで、のしかかるような大屋根は、男性的な力強さを感じる。確かに日本の建築は、木造がもっとも美しく、そこにあるべきものとして、自然と喧嘩をせずにすむのかも知れない。が、今のコンクリートで作った堂宇も、見様によっては、それほど悪くもなく、むしろ現代の禅宗寺院には、このくらいの重く硬い力強さが要されてもよい。書院と庫裏は古色蒼然として、相当に大きく立派である。聴くところによれば、旧佐倉藩堀田家の江戸屋敷内にあった建物を譲り受けて、関東大震災後に移築再建したものらしい。書院造と数寄屋建築の特徴を併せ持つ二階建てで、幕末の建築であると推測されている。江戸の武家屋敷の面影を随所に感じられ、天下の総城下町江戸のよすがを垣間見ることができる。

豪徳寺は招き猫の寺として有名である。三重塔のそばに招福殿と呼ばれる猫観音を祀るお堂があり、昔から商人や花柳界の人々に信仰されてきたが、どういうわけか最近は若い人から外国人にも、秘かな人気を集めている。久しぶりにそこへ行ってみたが、私は奉納された招き猫の数に仰天した。その数は年々増え続けている。ここで貰った招き猫は、願いが叶えば、こちらのお堂脇にお返しするのが慣わしらしいが、以前よりもずっと数が多くなっている。人気に火が点いている証であろう。これだけの招き猫を見ると、少し薄気味悪い感じもするが、不思議と違和感は覚えない。ここがなぜ、招き猫の発祥と云われるのか。井伊家二代藩主の直孝は、在る夏の昼下がり、郎党を引き連れて、武蔵野に遠乗りに出かけた。砂塵を蹴り立てて、弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに手を拱いている。これを見た郎党の若衆は、無礼千万、挙動怪しく、変化の類ではないかと、まさに抜打ちにしようするのを、直孝は「しばらく」と言ってこれを止めた。行き過ぎんとすると、猫は再び招くので、寺内に入ると、一天俄かに曇り、雷鳴豪雨と相成った。この危難を免れたことで、直孝は奇縁を感じて、以後も度々訪れて、いつか井伊家菩提寺となったという。この猫は当時の住職の愛猫でタマといった。この猫の招きが豪徳寺にも福を招き、その後の隆盛となった。猫は如意輪観音の化身だという伝説もあり、猫塚は信者から奉納された招き猫や絵馬で埋め尽くされているが、そこに美しい如意輪観音の石仏があって、あたかも招き猫たちは、この観音さまを守る眷族の如く付き従っているように見える。豪徳寺は今、曹洞宗の禅寺とか、井伊家菩提寺というよりも、招き猫の寺としての人気を確立しつつある。

井伊直弼は、彦根藩十三代直中の十四男として生まれ、兄弟たちは本家や分家を継ぎ、或いは他家の養子となったが、直弼だけが居残ってしまう。これも運命といえようか。十七歳から三十二歳までの十五年間を、三百俵の部屋住みとして過ごした。彦根城三の丸の尾末町御屋敷を「埋木舎」と名付けたが、私は決してその時の直弼に、ただの不遇を感じないのである。もちろんその時、当の本人は、歯がゆい思いを抱いていたであろうが、何となく、いずれ自分が表舞台に上がることを予感していたような気がしてならない。故に普段から、そのための準備と稽古を怠らなかった。早朝から夜遅くまで、曹洞禅、書画、和歌、茶の湯能楽兵学、居合、槍術、さらに長野主膳に師事し、国学をはじめとした学問の修養に勉めた。睡眠時間は一日五時間あれば十分といい、寝る間を惜しんで勤しんだ。まさしく文武両道、いずれも一流の域に達していたという。これらは文化人として生きてゆくという決意と同時に、いつでも表舞台へ立つ用意でもあったはずだ。直弼ほどの人物ならば、そう考えるのが自然であろう。泰然自若たるを弁えていたのも、清凉寺の仏洲仙英禅師を師と仰ぎ、少年時代から参禅し続けて身になったからに違いない。そして、なんと云っても、彼を語るに極めつけは、茶の湯であろう。茶の道を極めんと、ひたすらに精進した。直弼の墓に刻まれた戒名「宗観院柳暁覚翁大居士」は自ら考えたものだが、宗観とは直弼の茶の号である。一期一会、独座観念に至る極意は、平成の今を慌しく生きる私たちに、時と、場所と、出逢いの大切さを教えてくれる。直弼の精神の根幹には、禅と茶の湯があった。

直弼は歌もまた多く詠んでいる。私の好きな歌をここにいくつか挙げたい。

茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ心の水をともにこそ汲め

何をかはふみもとむべきおのづから道にかなへる道ぞこの道

霞より花より春の色をまつきしにみせたる青柳の糸

そよと吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳

雨雲は立覆ふとも望月のくもらぬ影ぞ空に知らるる

影見せて過ぎし蛍の名残りかも蓬が窓の露の白玉

梓弓かけ渡したる一筋の矢たけ心ぞ武士の常

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

春浅み野中の清水氷ゐて底の心を汲む人ぞなき

咲きかけしたけき心の花ふさはちりてぞいとど春の匂ひぬる

これらの歌からは、何も語らずとも直弼の為人が知れよう。井伊直弼の人生は、舟橋聖一氏の小説のとおり、まさしく花の生涯であった。私にとって井伊直弼は、人生の手本であり、茶道の師匠であり、哲学者でもある。私はこれからも一生をかけて、その生涯を追い続ける。豪徳寺もまた花の寺。此度は仏殿前の梅の木が、残んの花を散らせていた。境内はまもなく桜が咲こう。ことに庫裏の前の大枝垂は、溜息ばかりの見事さである。思えば、井伊直弼が散ったのは奇しくも桜田門外。江戸城には他にも多くの門があるが、あの事変は桜田門でなければ収まりがつかない。桜田門が舞台であることに、私は何か歴史が成せる業を感じずにはいられない。豪徳寺には、桜がもっとも似つかわしい。

遠き道程

東日本大震災から六年が過ぎた。まことにあっというまの六年。あの日の記憶は、私たちの脳裏に依然として生々しい。ほんのわずかばかり復興はしているが、それでも、震災前に比べたら、いかにも道半ばである。ことに、原発事故の避難地域は、完全に廃墟になっていたり、汚染土が堆く積まれていて、見るに忍びぬ有様だと聴く。飯館村など、原発周辺の町は、徐々に避難指示が解除されているが、果たしてどれだけの人が帰ってくるのだろうか? 昨日の報道ステーションで、飯館村の酪農家の現状をまざまざと見せつけられて、私は大いなる失望と、己の無知無力に、改めて苛まれている。酪農家の男性は、四十年かけて一代で築き上げたものを、原発事故ですべて捨てなければならなかった。人生は無情とは知れど、あまりに惨たらしい。似たり寄ったりこうした方々が、今まだ多くいることを、忘れてはならない。来月は熊本地震から一年である。東北にも、九州にも、被災地には美しい自然があって、そこで育まれてきた重い歴史に溢れている。それは、彼の地の人々が、先人から受け継いできた宝である。さすがに大自然は、人智の及ばぬ逞しさであるが、人間の暮らしは簡単には取り戻せない。飯館村の酪農家の男性は、「わしが生きとる間は、あの汚染土の山は見続けねば仕方ない」と言った。でも、安全基準とされる一人あたりの放射能被曝の年間数値が、全国が1ミリシーベルトなのに、飯館村が20ミリシーベルトであることに、憤りを感じると言われたことが、とても心に残る。そのあたり国は何とするのか。今のところ回答はない。こうして当たり前のことが、曖昧に歪められていることが、実はまだまだ多くあるはずだ。妥協することもまた必要だろうし、そうしないと前に進まぬこともあろう。元通りの暮らしに戻ることは、おそらく向こう百年近くは不可能だろう。でも、かつて我々は多くの震災、戦災から力強く立ち上がってきた。そこに信じたい気持ちもまたある。あの大震災を経験した我々は、多くを失ったが、また同時に何かを得たはずである。現に被災地の子どもたちは、よほど逞しく、しっかりと未来を見据えていることに、私は感動せずにはいられない。ゆえに、この日が来るからだけではなくて、いつも気にかけてゆかねばならぬと痛感している。でなければ、ほったらかしとか、蔑ろにされる人々生まれてしまうのだ。 オリンピックもけっこうなことだが、あの日からまだ、身も心も戻って来れない人がいることを、日本人は肝に銘じて生きていかねばならない。あの時から盛んに叫ばれた絆とはなんだったのか。言葉なんていらぬ。空虚なだけだ。真の気持ちが欲しいのである。左すれば、自ずと答えは出るに違いないと私は思っている。私も、近くじっくりと被災地を訪れてみたい。