弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

弔辞

次の東京五輪、選手の活躍は大いに期待し、まことに楽しみであるが、開催過程には目も当てられないほどケチがついた。負の遺産ばかりが目立つ。そして、ついにもっとも激烈で、あってはならぬ事が起こってしまった。すったもんだの挙げ句、昨年末から始まった新国立競技場の建設現場で、とうとう死人が出てしまう。しかもまだ、二十三歳のうら若き青年が、過労のために、鬱になってしまい、自ら命をたったのだ。事故ではなく、自殺なのである。何たることか。オリンピックは若者が夢を抱き、叶え、楽しむ最高の舞台のはずが、哀れなりこの始末。日本社会の歪みここに極まれり。政治の腐敗、利権闘争が引き起こしたに他ならない。青年は、昨年から新入社員として、建設会社に入り、新国立競技場の現場の一部の監督助手のような立場であった。亡くなる前、一ヶ月前後は、毎日朝四時に起きて、帰宅は夜中、休むのは深夜一時だったとか。こんな事が、少しばかり報道されて、罷り素通りしてゆく日本とは、今どんな国なのか。残念というよりも、惨憺たる薄気味悪さである。私たちは、このまま2020年を歓喜して迎えてよいのか。私にはとても無理そうである。過労と精神的に追い込まれて自殺者を出してしまった五輪なんか、祭典ではない。そもそもが、東日本大震災の復興五輪なぞと嘯き、現地は道半ばというに、挙げ句、現場でもこのザマ。沙汰の限りである。もううんざりだ。

現在、件の国立競技場は、まるでプロントザウルスが林立するかの如く、巨大なクレーンが首をひっきりなしに動かしている。この首の下では、男たちが、女たちが身を粉にして戦っているのだ。国立競技場だけではない。これから、さらに整備を急ぐ施設がまだたくさんある。過労死、長時間労働、イジメ、大丈夫か?日本。こんなことでは、身体は酷使して削がれ、心は乱れてやがて砕けてしまう。ゆとりなど露ほどもない。日本人は時代を逆行どころか、人間として退化してしまったように映る。世界に目を向ければ、日本人よりもはるかに経済的に困っている人々がいる。混沌とした情勢は、さらに混迷の度合いを深めているのも空恐ろしい。であればこそ、こんな時代だからこそ、このような事件が起きてしまったことに、凄まじい怒りを覚える。八月がやってくる、予々申し上げてきたが、日本の八月とは、供養の月。その前に七月には祇園会、山笠、隅田川花火などの夏祭りが各地で開かれた。祭とは五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄、神々への感謝とともに、死者への鎮魂の意味も込められている。私たち日本人は、昔からそうして祖先を敬い、追い落とした敵をリスペクトし、成し得るまでに柱や踏み台となった人を慰撫したのである。2020年東京五輪は、亡くなった彼の屍の上で行われるという事実を、我々は肝に銘じておかねばならない。それを忘れて、失くして、見て見ぬ振りをしてしまえば、日本に明光な未来はあるまいと私は思う。日本人、東京人、曲がりなりにも一人の大人として、私は亡くなった彼に詫びたい。心より彼の冥福を祈り、ご遺族には謹んで哀悼の意を表します。

空を摑んで

先日、母方の祖母が亡くなった。享年九十二歳の大往生であった。私は祖母の臨終に立ち会うことは出来なかったが、亡くなる前日から、祖母は目を閉じたまま、しきりに空を摑もうとしていたらしい。食事もほとんど摂らず、寝たきりとなっていた祖母が、何度も何度も手を挙げて、何かを摑み切れずに溜息をつく。それを繰り返し千回以上もやったというから、驚きであった。か細くなった身体のどこにそのような力が残っていたのだろう。本当に最後の力を振り絞ったのだ。捉えたい空の中に何が見え、何が在ったのか知る由もないが、きっと先に逝った祖父か、最愛の息子の幻影が現れたに違いないと私は思う。繰り返すうちに、ついに祖母はその向こうの誰かと、手を携えること叶ったと信じたい。その時、安らかに息をひきとったのだ。奇しくも、祖父の命日に召された祖母。祖父が迎えに来てくれたのだろうと、親族の誰もが思った。

 祖母は若い頃から文句ひとつ言わずに、専業主婦を全うした。両親の仕事の都合で少女時代は、台湾で過ごしたと聞いた。だが、その台湾で戦火に巻き込まれて、肩先を被弾した。散弾銃の生々しい傷跡は、終生消えず、私は幼い頃一緒に風呂に入った時に見て、その事を教えてもらった。今から三十年近く前には、姉妹でその時の思い出を辿る台湾旅行にも行った。その時の写真は穏やかな表情をしている。私にはいつも優しくて、お洒落で、料理がとびきり上手な祖母であった。今、私は料理が好きで自炊しているが、料理の手ほどきは亡くなった祖母から受けた。祖母の作る料理の味を、私の舌は覚えている。ことに、鯵の南蛮漬け、冬瓜のスープ、彼岸に作るおはぎ、毎年漬けていた梅干しは絶品だった。そして、正月には重箱のおせち。伊達巻、田作り、きんとん、金柑の煮付けなどなど、今ではとんと見かけなくなった、御節料理がいつもあった。いわゆる昔ながらの日本の正月を、祖母のおかげで辛うじて私は経験できたのである。こうして私に、旬の物を食すという習慣を、自然に植え付けてくれた。感謝してもしきれない。私には子供はいないが、目に入れても痛くないほどかわいい姪っ子が二人いる。私の役割は、祖母の味や想いを彼女たちに少しでも教え、繋げることだと思っている。手料理、節句、風物詩、そして旬ということ。祖母から得た教えを継ぐことが、私の祖母への唯一無二の手向けだと信じたい。六十過ぎからはリュウマチに苦しんだが、よくここまで色々諸々を辛抱して、生き抜いたと思う。心から感謝の意と、冥福を祈るばかり。ちなみに父方の祖母は、大正六年生まれの御歳百歳。いまだ健在である。

平家にあらずんば

歴史的観点から今の世相を照らし合わせてみれば、実に学ぶべきところが多い。時に、歴史をやっていることなど今を生きる事に何の意味も成さないとか、現実と未来しか見る必要はないと思っている人からは、馬鹿にされることもあるが、温故知新とは真実なのである。ゆえに歴史はやめられぬ。やればやるほど、過去にも似たような世相があったことが透けてみえてくる。古典文学も同じく、源氏物語枕草子徒然草方丈記からは日本人として生きる機微を、保元物語平治物語、承久記、太平記などの軍記物からは、政治情勢や権力闘争をつぶさに垣間見ることができる。平安末期から明治維新まで、我が国は武家政権による軍事国家であったわけで、軍記物や武将の伝記は、確かに時の政治情勢を語っている。無論、こうした類のものは、ほとんどが勝者権門に都合よく書かれているのだが、すべてが虚構でもあるまい。軍記物の筆頭といえば、やはり平家物語であろう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありから始まり、盛者必衰の理を美しい日本語と琵琶の調べにのせて切々と語る。物心がついて、少なからず世相と日本史を鑑みることができる日本人ならば、誰もがこの言葉を嚙み締めるに違いない。私のような愚物でもちょっとはわかる。

先日の東京都議選で、都民ファーストの会が大躍進し、自民党は歴史的惨敗となった。女都知事の勢いは止まりつつあったにも関わらず、この結果である。政権与党が調子に乗り過ぎたゆえの結果と断定できよう。これは日本人の気質なのだろうか。勝っても兜の緒を締めない。だからそれを諌める諺や、四字熟語がたくさんある。いつの世も日本の権力者は、栄枯盛衰であり諸行無常であり盛者必衰である。それが定なのであろう。平清盛が一代で築きあげた平家。日本の武家政権の礎を作り、後、およそ七百年続くのである。或いは、明治政府から戦前の軍事政権まで加えてもいいかもしれない。平時忠は、「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」と評した。だがその栄華はわずかに二十年余りで、西の海に墜える。綻び始めた天下の箍は、たった一つでも緩みが生じれば、元に戻す事は容易ではない。歴史がそれを教えてくれるのに、何故わからないのか。寧ろ私などにはそれが不可思議でならない。日本の事だけではなく、今、世界的に似た様な潮流ともいえる。第二次大戦終結後、最大の危機が、そう遠くない日に訪れる予感がするのは私だけであろうか。時は流れゆく水のようにすり抜けて、政は秋の落日の如く暮れてゆくのである。天下を手中にしてなお、石橋を叩いて渡っていったのは、藤原道長徳川家康くらいかもしれない。今こそ、我々は弛緩しきった箍を引き締めてゆかねばならないと思う。現代の真の天下人は、我々有権者なのだから。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

夏越の祓

梅雨只中。六月晦日を迎えた。今日は半年が終わる小晦日であり、夏越の祓が各地で行われる。夏越の祓は、上半期の穢れを落とし、下半期の無病息災を願う神事で、夏越の大祓とも呼ばれる。一部の神社では、茅の輪くぐりをして、夏越の祓に参加できる。茅の輪くぐりは、茅や笹で編んだ人がくぐれるほどの大きな輪を、定めし作法に則ってくぐる。茅の輪くぐりは地域により、作法にも差異があるが、概ね以下の如く行う。

まず、茅の輪の正面に立ち一礼。左脚から入って、左回りに廻るが、その際次の和歌を唱える。

水無月の夏越の祓えする人は千年のいのち延ぶといふなり

正面で一礼。今度は右脚から入って、右回り。その際は次の和歌を唱える。

思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりても祓へつるかな

正面で一礼。最後は左脚から入り、「蘇民将来」と繰り返し唱えながら左回りする。

私も、毎年この作法で茅の輪をくぐる。六月半ばになれば、方々の神社に茅の輪がお目見えするので、あればどこでもやっているが、夏越の祓の当日は、自宅近くの氏神さまへあらためてお詣りすることにしている。 余談であるが、左回りの水無月の〜歌は、拾遺集に詠み人知らずで収められている。特別優れた歌ではないが、縁起が良くて、語呂もこの神事に相応しく覚えやすい。一方、右回りの思ふこと〜の歌は、和泉式部の歌で後拾遺集に収められている。さすがに女流歌人当代一の和泉式部らしく、水無月の夏越の祓にかけて、悩ましげな心境をさらりと詠う。簡単に訳せば、 「私の悩みが尽きてしまえと、水無月の晦日に、麻の葉を細かく切ってお祓いをするわ」 、であろうか。 鬱雨の水無月にかけて、夏越の祓をすることで、天も我もすっきりと晴れないかという願かけにも思われるが、むしろこの歌を詠ずれば澄み渡る天空を彷彿とさせる。

蘇民将来という言葉には様々な説があり、全国各地に似たような神事、儀式があるが、京都八坂神社によれば、スサノオミコト(八坂神社祭神)が南海への旅の途上、一夜の宿を蘇民将来という男に請うた。蘇民将来は貧しいながらも喜んでスサノオを迎え、粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノオは、疫病流行の際、「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されたと云う。夏越の祓で唱える蘇民将来も、ここから伝わったものである。八坂神社でも、 今日は夏越の祓が盛大に行われ、大きな茅の輪をくぐることができる。

それにしても夏越の祓は、千年以上も前の和泉式部の時代にはすでに慣習化されていたのだから、日本人ならば誰でもきっと違和感なく体感できるはずである。 夏越の祓当日には、水無月という和菓子を食べるのも昔からの慣わしである。私にとっても水無月をいただくのが毎年この時節の楽しみである。水無月は、氷に見立てた三角に切った白いういろうに、悪霊邪気を祓うとされる小豆を乗せたお菓子で、見た目にも涼やかで美しい。六月になると方々の和菓子屋で売られている。美味いのでついつい買ってしまい、たくさんいただいてしまう。中で、私の一番のお気に入りは、京都の老舗菓子司「俵屋吉富」の水無月だ。大粒で上質の小豆、程よい甘さと口あたり、ほんのり濡れたような涼やかな佇まい。すべてが完璧で、天下無双の水無月である。 日本人は、大晦日や正月の初詣は当たり前になっているが、夏越の祓の風習は、現代人にはイマイチ浸透してはいない。というよりも、廃れつつあるというほうが正しい。夏越の祓は祝日でもなく、慌ただしく生きている現代人には、無用なのかもしれないが、私はこの日を暮れの大晦日同様に大切にしたいと思っている。今日も、水無月や夏越ごはんをいただき、茅の輪くぐりをする。これから、日本列島は夏本番を迎える。年々、猛暑、酷暑が増すばかりでうんざりする。夏が苦手で、大嫌いな私にとっては、無事に夏を乗り切るために、夏越の祓は極めて重要な儀式でなのである。

水無月の夏越の祓する人は千年のいのち延ぶといふなり

仙洞御所

天皇陛下が御退位される日が確実に近づいている。象徴天皇として何よりも国民のために、出来得る限りのお勤めを果たされてきた両陛下には、ただただ感謝のみで、早くゆっくりとお休みいただきたいが、やはり平成が終わるのはさみしい。本当は退位ではなくて、柔和に譲位と呼称して欲しい。が、今回は陛下が御自ら退くことを表明されたため、譲位ではなく、退位が相応しいとの偉い方々の判断らしい。何故、譲位ではいけないのか、甚だ不可解である。退位というと、何だか陛下の我儘とも受け取れやしないか。後の世の人々がどう考えるかまでをしっかりと考慮して欲しい。これは、明治以降前例の無いことであるし、間違いなく日本史に残る出来事である。思ったよりもスピーディーに事が運んだのは良かったとすれば、まあ退位か譲位かなどはどちらでも良いのかもしれないのだが。

陛下が上皇さまとなられると、皇居をお出になり、今の東宮御所へお入りになる。そして新天皇一家が、皇居に入られる予定とか。東宮御所は、両陛下が皇太子時代に三十年余りお住まいになった懐かしの我が家で、お子様方の想い出に溢れたところへお帰りになるのは、さぞやお喜びであろう。皇位を退かれた天皇つまり上皇は、正式には太上天皇という。そして上皇の住まいは仙洞御所と呼ばれる。仙洞とは、仙人の住む洞穴のことで、中国の故事に因む。皇位を退かれた天子は、隠棲して仙人の如く敬われ、日本と内裏を見守る存在と見做されたのであろう。今ならば、会社の社長や会長を退いた相談役といったところか。東宮とは皇太子のことで、他にも春宮と書いてとうぐうと読む。皇太子の御座所が、帝の御座所の東面に在ったことからそう呼ばれたに違いないが、東宮よりも春宮の方が、いかにも若く眉涼やかな皇子を彷彿とさせる。さすがに昔の日本人は風雅に長けていて感心する。今も皇太子御一家を担当する宮内庁の役職の長は、東宮大夫と呼ばれたり、陛下の身の回りのお世話をする役職は、内舎人と呼ばれたりと、宮中には由緒ある名前がまだ多く残っている。

最近、御退位された両陛下がお住まいになる場所について、議論が湧き上がっている。政府や宮内庁は、皇太子御一家との入れ替わりを検討しているが、ここへ来て京都市奈良市が、御退位後の両陛下のお住まいの誘致に動き出した。奈良市は新たな離宮を造営し、京都市京都御苑の仙洞御所に、新たな離宮や御座所を造営することを検討しているらしい。特に京都には古都という自認はなく、寧ろ、天皇一家や皇族は京都にお帰りいただきたいと、衷心より思っている節がある。昔からそんな話をよく聞いたし、明治維新の時、東京遷都の詔が出されたわけではなく、公式文書もないわけだから、生粋の京都人は、京都こそが今も都であるとの自認である。また、京都人にとって戦後とは、応仁の乱とか鳥羽伏見の戦いのことをいう、などという考えが根強いと云われているが、そんなことは半ば都市伝説かと思っていた。が、ここに至り、これは都市伝説ではなく、代々京都人に刷り込まれた本音と願いに他ならぬことが、今回の一件でよく解った。無論、京都人や京都市民、京都府民、或いは奈良市民が皆、同じ考えではないだろう。

予てから私は、日本の首都は東京だが、みやこは京都であると思っている。首都とみやこは別と考えている。平安朝で花開いた国風文化と、今に繋がる統治機構や、官僚機構の礎が築かれたのは京都であり、日本史上、いや世界史的にも稀に長い間みやこであった京都は、簡単に廃れはしない。寧ろ、首都などと革った呼称よりも、みやこと呼ぶほうが伝統に則して相応しい。さらには、京都市が主張するように、天皇の即位の大礼は、京都で行うということには、大いに賛同する。古色蒼然とした天子南面する紫宸殿において、内外に即位を宣言されたることこそ、天皇の歴史と権威を際立たせられよう。御即位は京都で、御退位や御大喪は東京で行うのが望ましい。もう一つイメージを逞しくすれば、御即位の大礼後、都大路を京都駅までパレードして、京都駅から新幹線で東京駅へ移動、東京駅から皇居までパレードすれば良い。

ただ、京都や奈良へ仙洞御所を設けることは、ほぼ不可能だと思うし、私は賛成はできない。最大の懸念は警備と経費の問題だ。東京の皇居や東宮御所のある赤坂御用地は、世界最高レベルの警備が、磐石に敷かれている。同レベルの警備を果たして他でできるのか。おそらく京都は可能であろう。京都御苑には迎賓館もあるし、度々要人を迎えてきた。しかし、東京で統括され、指揮系統を一元管理していたのを、二元化することになれば、後々、様々な弊害が生まれるであろう。考え過ぎかもしれぬが、有り得ぬ話でもない。であれば、実績ある東京で、スムーズにコンパクトに警備して、一世一代の御即位の大礼の時に、ふんだんに経費を使って、最高の警備をすれば良い。そしてまた、何よりも両陛下のお気持ちである。京都や奈良の人たちの気持ちも分かるが、おそらくは両陛下が頷かれまい。こんな騒動に巻き込んだら、ゆっくりお休みにはなれないと思う。かえっていらぬ御心配をおかけしてしまおう。大英断を下された陛下に対して、申し訳が立たない。日本国憲法で、天皇は日本国、日本国民統合の象徴とされる。三十年間、象徴としてのお勤めを真摯に果たされた両陛下に、我々国民は余生をいかに楽にお過ごしいただけるか、そのことのみを、そっと静かに、厳かに、美しく考えねばならないと私は思う。

なおすけの平成古寺巡礼 榛名山

四月の末、坂東三十三観音巡礼で群馬県にある二箇寺へお参りした。十五番白岩観音と十六番水澤観音である。巡礼のついでに寄り道した土地や寺社について少し書いてみたい。群馬県は関東でも特に広々としたイメージがある。埼玉の大宮あたりを過ぎると、高層建築や住宅も減って、遠くの山並が遥か見渡されるようになる。確かに、関東平野の真っ只中にいることを、誰もが実感するであろう。いかに広大な関東平野を覚るはずだ。そして利根川を越えて、群馬県に入れば、信州や越州との境のキワまで平地で、その先にはまるで関八州を護る砦のように、山壁が連なっている。上州は名峰が多いが、上毛三山とは、赤城山妙義山榛名山の三つの山で、いずれも神山として古代から崇められてきた。高崎や前橋のあたりからは、上毛三山をみはるかすことができる。いずれも、神の坐す山に相応しい山容をしている。私には、妙義山は荒々しく男性的で、赤城山はなだらかで女性的、榛名山は男女どちらも兼ねた両性具有の山に見える。赤城山妙義山は連山の呼称だが、榛名山は独立峰だ。この日も春霞の彼方に、まるで水墨画のように、上毛三山が神々しく浮かんで見えた。

まずは太田市の世良田東照宮へお詣りする。世良田東照宮は、寛永二十一年(1644)の創建で、日光東照宮の旧社殿が移築されている。つまりは、徳川二代将軍秀忠が建てた社で、三代家光が今の絢爛な社殿に改築したことで、ここへ移築された。日光よりもずっと小ぶりだが、朱塗りの低い屋根は徳川の威風を示すには十分。堂々たる建築である。よく見れば、各地の東照宮と同様に、細かい細工や彫刻があったり、内部には三十六歌仙の額が奉納されている。それでも決して主張し過ぎないところが、何事も質素を好み、控えめな二代将軍の色が反映されていると云えようか。社殿も境内も美々しくて気持ちが良い。また、一人の参拝客もおらず静かであった。このあたりは、律令時代から新田荘という荘園があって、東照宮の建っているところに、主の新田氏の居館が在ったとされる。境内を含む周辺が、新田荘遺跡として国の史跡となっており、新田氏縁の寺社が点在する。世良田東照宮と地続きの敷地には、長楽寺という寺があり、ここの住持だったのが天海大僧正である。それが縁で日光改築の際、この地に社殿が移築されたのだ。家康は駿府城で亡くなると、その日のうちに久能山に葬られたが、遺言により一年後に日光山に改葬された。改葬ルートは、久能山から三島、小田原、中原、府中、川越仙波、忍、佐野、鹿沼、日光という道程であった。忍や佐野は世良田とは目と鼻であり、川越も天海と関わりある喜多院があるのをみると、久能山から仙波、世良田、日光に東照宮を建立し、家康改葬の聖なる道筋としたのではあるまいか。ここにも徳川の威光を天下に知らしめたプロデューサー天海の尽力があった。長楽寺の庭は、草木も池もあまり手を入れず自然に任せてある。ちょうどツツジが満開で、若葉に包まれた庭は、噎せ返るほど晩春の気が充満している。長楽寺は、承久三年(1221)臨済宗の寺として創建された。開基はこの地を治めた世良田義季、開山が臨済僧栄朝。鎌倉から室町時代にかけては、新田家や鎌倉公方足利家の帰依を受けて、一時は臨済宗関東十刹に数えられた。元々この地は徳川家と縁が深い。世良田義季は、徳川氏の祖とも云われる。徳川家康は関東に入府すると、自らは新田氏から分かれた世良田氏の末裔であるとした。律令時代からの由緒ある血筋であり、清和源氏たる新田氏と同筋であることを、半ば強引にも示したかったのだろうか。世良田氏鎌倉幕府滅亡から動乱に巻き込まれてゆく。南北朝時代には一時南朝方に付いて、三河の松平郷に住したというから、このあたりがルーツとなったのだろう。世良田東照宮から車で五分くらいの早川の畔に、徳川町という集落があり、徳川氏発祥の地と云われている。ここには縁切寺でも名高い満徳寺という寺があり、同じ場所に徳川東照宮が鎮座している。赤城山を望む畑の真ん中にひっそりと佇む徳川東照宮は、ささやかながらも由緒を感じさせる。

このあと水澤観音へお詣りして、名物の水澤うどんで腹ごしらえ。水澤はその名のとおり、名水の湧くところで、観音様の境内にも、清らかで甘い水が止め処なく湧いている。源泉はおそらく榛名山にあるのだろう。渾々と湧き出でる水を眺めていると、榛名の鼓動とも血流とも思えてくる。榛名は生きているのだ。うどんはいい按配のコシで美味しかった。うどん屋を出て、伊香保温泉は素通りして榛名山へ登る。伊香保榛名山の恩恵を受ける名湯である。榛名山は有史以前から度々噴火を繰り返してきた。近年、六世紀の火砕流に巻き込まれたと思われる甲を着装した成人男性の人骨が発掘されたり、近くで遺跡も見つかっていることから、日本のポンペイとも称されている。榛名山山麓に、温泉、水、肥沃な土地を与えている。まさしく古代から崇められた神山に相応しい。麓は良い天気で、快適なドライブであったが、榛名山に登り始めると、急に空模様が怪しくなり、物凄い勢いで雲が棚引いてゆく。途中の展望台からは、赤城山から、谷川連峰、雪を冠する白根の山々まで遠望できて、身も心も解放された。が、背後にはこれから向かう榛名山の頂が、相変わらず不気味に雲間から見えつ隠れつしている。榛名湖までたどり着いた時には、暴風雨になり、荒ぶる湖面からは白波が押し寄せる。まるで、榛名山が私達の入山を拒んでいるかの様だ。こんな所に長居は無用。榛名の神の怒りなのか、歓迎なのかわからぬが、山頂へは登らずに、そそくさと山を下りた。 来た道とは反対に下って、榛名神社にお詣りする。用明天皇元年(586)の創建という榛名神社は、さすがに堂々たる社であった。長い参道からして歴史を感じさせるが、楼門から本殿まで行けども行けどもたどりつかない。途中、滝があったり、広重にも描かれた修験者の行場があったりする。参道には五重塔もあり、修験道の山では今も神仏混淆が失われていない。徳川時代には、東叡山寛永寺の傘下となって幕府からも庇護された。おそらくは庶民が講を組んで参詣したのだろう。故に、広重にも名所として描かれた。修験者のみならず庶民にも崇められたのも、徳川幕府の力によるが、赤城山妙義山と、世良田東照宮や長楽寺との位置関係を考えてみれば、榛名山こそが上毛の信仰の中心であることがはっきりする。さらには上毛三山を三尊仏に見立てると、榛名山が中尊であり、曼荼羅の核とも見える。古代から神山とされたことも、この地に立ち、ここで暮らせばわかるであろう。そしてまた榛名山修験道の霊地でもある。それを物語るかのように、神社全体が巨巌に取り囲まれて、それに守護されるように建っている。境内には巨石が累々と屹立し、恰も天狗の鼻のような歪な石があったり、仁王像の如く直立不動の岩もある。ただならぬ榛名の山の霊気に接する思いで眺めていたが、折からの青嵐が、尚更、巌の群れを厳粛に見せるのであった。

ここから白岩観音へと下り、ついでに安中市の北野寺に寄ってみる。彦根藩の二代藩主井伊直孝は、幼少の一時期をこの寺で過ごした。北関東には、井伊家の飛び地がいくつかあって、ここもその一部であった。井伊直政の嫡男直勝と同年の天正十八年(1590)に生まれた直孝は、生母の実家や親戚宅などで数年を過ごしていた。生母は直政の正室の侍女で、正室や直勝への遠慮があったという説もあるが、関ヶ原の合戦の頃、直孝はまだ幼く、世情不安定な時に我が子を守るために、関西から遠いこの地に密かに匿われたのだろう。直政はこの地の萩原図書という家臣に、北野寺で直孝の養育を任せた。直孝は、地元の子どもたちを集めて合戦ごっこに明け暮れる活発な少年であった。幼いころから直勝よりも聡明であった直孝を、いずれは後継者にと、直政も主君である家康も考えていた節もある。直孝は直勝よりも家臣団を率いる統率力を備えていたとも云われ、いつのまにか彦根の本領を直孝に、安中のこの地が直勝へ与えられた。譜代筆頭の礎を築く時には、何といっても主君徳川の命は絶対で、幕藩体制の見本となるべく奔走した井伊家は、御家騒動には発展せずに、見事に丸く収めてゆく。隠蔽したのか、握り潰したのかは知らないが、直孝も直勝も、己の道と、生きる術をわきまえていたような気がしてならない。私には、井伊家の存在を確かめる時、それが井伊家の家訓であったと思う。そしてまた直虎、直政、直孝から歴代藩主へと受け継がれてゆく、井伊の家風でもあった。井伊家当主は代々、直の字を用いるが、その名のとおり幕末の直弼まで、実直に徳川家の御恩に報い、奉公したのである。直孝は、幼い日に北野寺で過ごした恩を忘れず、その後も井伊家は北野寺を庇護した。永和元年(1375)、醍醐寺の僧慶秀により開山された北野寺。境内は楚々した佇まいで、実に良い雰囲気の寺である。私が行った時は、残んの八重桜が新緑に映えていた。本堂の隣には威徳神社という社が建っている。祭神は菅原道真で、すなわち天満宮である。創建は建治二年(1276)で、江戸時代までは北野天満宮と呼ばれていて、明治になって改称したらしい。北野寺もこの社から命名されたのであろう。ここでも神仏は合祀されている。上毛は廃仏毀釈に対して大人しい地域であったのか。北野寺の西には、妙義山がすぐに迫る。あの奇岩の山は、見様によっては涅槃図や、観音様の横顔に見える。北野寺開山の慶秀という坊さんは、この地に何か霊的な力を感じたに違いない。上毛の地は、まだまだ秘められた歴史がありそうだ。私の興味は尽きない。

スラヴ叙事詩

私は学生時代に吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。その時に、チャイコフスキーのスラヴ行進曲を演奏したことがある。不気味な低音からやんわりと始まり、何とも暗く重苦しい主旋律を奏でる。あのメロディは一度聴いたら忘れ得ず、私の頭の中を終始駆けめぐっていた。曲はスラヴ民謡を謳いながら、時に勇ましく、時に優しく展開して、最後は華々しく幕を閉じる壮大な叙情曲である。また或る時は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲を演奏した。物哀しい旋律だが、ひとときの安らぎも感じさせる曲である。スラヴ行進曲もスラヴ舞曲も、自分で演奏していても感動したが、後にカラヤン指揮のベルリンフィルの録音を聴いて、その荘厳な響きに心を打たれた。それは中学二年の夏で、初めてスラヴという言葉を知り、スラヴ人とかスラヴの歴史に少しばかり触れたのを想い出す。以来、折々にスラヴの事を知ったり、聞いたりするうちに、私の中にはスラヴや東欧への関心が芽生えていった。 東欧は西欧に比べて、何となく陰湿で、寒々しいイメージがあるが、私はそういうところにこそ大いなる魅力を感じる。未だ訪れてはいないが、いつかは方々旅してみたいと願っている。東欧は音楽の都ウィーンを擁し、オーストリアだけではなく、ヨーロッパ王家や民族が複雑に入り混じり、重厚で濃密な歴史が秘められている。西欧とロシアと中東に囲まれた東欧は、ユーラシア大陸の臍のような場所で、小国が集まり大国に睨まれて、人々は小さく慎ましやかに暮らしている。時にはその小国同士がくっついたりすることがあるが、人種も多様なため、なかなかうまくはいかない。

今、国立新美術館ミュシャ展が開催されている。晩年の大作「スラヴ叙事詩」全二十枚が、母国チェコ以外では初めて同時公開されるとあって、毎日盛況である。私も楽しみにしていたので、先日、夕方から出かけてきた。これほどの大作を目の前にすると、誰もが息をのむであろう。それほど圧倒的存在感を放つ作品群である。スラヴ叙事詩の前に立つと、またスラヴ行進曲を想い出した。眺めている間中ずっと、スラヴ行進曲やスラヴ舞曲が私の中で流れている。私はそれらの音楽とミュシャの描いたスラヴ叙事詩だけで、スラヴやスラヴ人のことを解ったつもりは毛頭ない。その程度でわかるはずもない。だが、果てしなく遠い東欧に対する憧憬と、一筋縄では辿れぬ重き歴史に想いを馳せるには充分であった。

単一民族たる日本人でも、アイヌや島の人々との揉め事はある。でも、スラヴ人とかユダヤ人とかイスラム圏の人々のように、何千年も血腥く混迷を繰り返しているわけではないので、彼の地の人々の気持ちや文化などは計り知れない。一つ言えるのは、大きい方が譲り、小さい方を受け入れてゆかねば、何も始まらないだろう。残念ながらそれは難しいことで、人類の永遠の課題である。人類とはそれを課せられた種であり、我々が滅亡するまでは解けぬ呪縛なのかもしれない。

スラヴとはどのあたりかといえば、あまりにも漠然としてしまうが、何となくあの辺りとは想像できる。スラヴ人の歴史は古く、先史時代に遡るとされるが、一口にスラヴ人と断定するのも大変難しい。東欧、中欧に暮らし、東スラヴ人、西スラブ人、南スラブ人に大別される。万年流浪の民ともいえ、血塗られた哀しい歴史は果てしなく今も続く。一説では、スラヴがギリシャ語を介して奴隷を意味する原語となったとも云われる。私などには、想像もつかないが、いつの世も小国は大国に翻弄され、巻き込まれて、代理戦争の犠牲となる。もしかするとユダヤ人以上に、長く暗い民族の性を引き継いできたのかもしれない。

スラヴ叙事詩は、私のようなスラヴのことに無知な人間にも、大変わかりやすく、スラヴの歴史を端的に見せてくれる。それは、「原故郷のスラヴ民族」という衝撃的なシーンから始まる。異民族の襲撃に怯え隠れるスラヴ人の男女の恐怖の眼差しが、絵と向き合う者に助けを求めてくる。迫りくる異民族は、まるで悪魔の様で、絵画なのにとても不気味で恐ろしい。あの眼差しは助けを求めているのか、もしかしたら異民族に対する憎悪なのか、平和に暮らす者達への嫉みの眼差しなのか。或いは現代人への警告なのか。本当の恐怖の前では、人は固まるという。この絵からは、そんな人間の本質が、表裏一体となって抉りとられている。スラヴ叙事詩はこの一枚に極まると言っても良いほど、単刀直入にスラヴ民族の艱難辛苦を表現している。スラヴの歴史を二十枚もの大作で描き切るが、ほとんどが戦闘、逃亡、戦死、征圧、従僕に焦点されていて、悲哀に満ちた一枚一枚に胸を打たれる。しかし、スラヴ人には厚き信仰があり、それを糧とし望みとして、最後は奴隷解放からスラヴ民族の独立と平和、人類友愛の希望と、神の後光に包まれながら、壮大なスラヴ叙事詩は幕を閉じる。まるでスラヴ行進曲をそのままを辿るようで、絵画と音楽が融合してスラヴ人の偉大なる忍耐力を見せつけられた思いがする。最後は共にスラヴの夢を謳い、まるで西方極楽浄土へと誘われているかの様な気分になり、強く強く私の心に残った。

アルフォンス・ミュシャといえば、アールヌーヴォーを代表するアーティストで、二十世紀から現代絵画へとつながる先駆けとなった画家でもある。ミュシャは1860年にオーストリア帝国モラヴィア(現在のチェコ)で生まれた。二十八歳でパリへ赴き、花の都で洗練された彼は、一気に時代の寵児へと駆け上がる。パリ万博から、有名劇場の公演のポスターを多く手がけ、アールヌーヴォーの旗手として世界中にファンを生んだ。その作品は日本にもあり、堺市美術館には多くのポスターが蔵されている。伝説の舞台女優サラ・ベルナールは、自ら指名してミュシャに自分の舞台公演のポスターを依頼した。中で、極めつけともいえるのが、1896年に描かれた一枚で、妖艶な自信に満ち溢れたその表情から察するに、サラ・ベルナール絶頂の時に違いない。そこを見事正確に捉えたミュシャの筆にも充足感が漂っていて、女優というよりも、今、降臨した女神の如くにみえる。ミュシャは以後も、何作も彼女の舞台のポスターを手がけている。

人気実力ともに最高の時を迎えたミュシャだったが、人はそんな時にこそ、ある種の空虚な気持ちに襲われるものだ。パリで成功し、誰にも慕われ、富も名声も築き上げた彼は、愛されれば愛されるほど、言い様のない孤独感に苛まれたのかもしれない。まして今の自分とは対象的な己の出自を鑑みて、或る時、行動せざるを得なくなったのだろう。民族への誇りと慰めと尊敬が、必然の衝動としてミュシャを動かしたのだ。一説では、スメタナ組曲「わが祖国」を聴いて、インスピレーションが沸いたとも云われている。いずれミュシャは沖へ戻る波のように、1910年に故郷へと帰った。 スラヴ叙事詩という大作を描く着想を得たミュシャは、パリ時代からのパトロンで、アメリカの富豪チャールズ・クレーンから資金援助を受けながら、ツテを頼りプラハ郊外のズビロフ城を借りて居住。天井の高い広々とした古城の一室を、スラヴ叙事詩を描くためのアトリエにした。そこでこの二十枚の集大成を、二十年の歳月をかけて描き切ったのである。ミュシャの画家としての執念と、直向きさには感服するし、快く城を明け渡して、協力した人の心意気にも感動する。何れにしろ、この大作を日本で見られることは当分ないだろう。見逃すべからず。私はいつかチェコに行って、スラヴ叙事詩が誕生した彼の地で、再会したいと思っている。その時は、また違う心持ちとなるのだろうか。