弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

重陽

九月九日重陽重陽五節句の掉尾を飾る菊の節句で、徳川時代までは、宮中でも江戸城でも節会が催された。節句は陰陽五行説に起因し、邪気を祓い無病息災を祈念する行事が、様々な形で行われた。本来は五節句以外にも多くの節句があるらしいが、徳川幕府が、特に重要な節句と定めたのが、今日まで残る五節句と云われる。元日を別格として、以下が五節句である。一月七日は人日、三月三日は上巳、五月五日は端午、七月七日は七夕、そして九月九日は重陽。昔は五節句のたびに節会が行なわれ、邪気祓いをし、縁起を担ぐ食材を食す宴があちこちで催された。これが御節料理の起源である。御節料理といえば、今では正月に食べるものとして認知されているが、本来は節句ごとに旬の物を食するのだ。年々、正月ですら御節料理を食べる機会は減ってしまった。現代人は、雛祭や七夕祭はやるが、その日に五節句を意識することはない。端午の節句も含めて、風習として辛うじて残っているのは、まだしも良しとせねばならないか。五節句の中でも一番地味で、五節句であることすら忘れられているが、最大奇数日の重陽こそが、陰陽五行説では最も力が大きく、めでたいとされ、幕末までは盛大に言祝がれた。一般にはほとんど知られていない重陽だが、おそらく宮中や一部の社寺では、今でも何らかの祭祀が行われていると思う。そして伝統や暦を重んじる京都では、重陽節句の催しや食事が大切に残っているところもある。そういう風にして、密かに受け継がれているところが、今の重陽の魅力なのかも知れない。

話は変わるが、朝鮮半島情勢が極めて深刻になってきた。北朝鮮は九月九日が建国記念日だという。毎年、建国記念日には、何かしらの軍事的パフォーマンスや実験を行っており、近隣だけではなく、世界中がいま固唾を飲んで注視している。だが、このところの北朝鮮には、警戒感と同時に楽観視する側面が見出せるのは、我が国だけではあるまい。この一年で何度も弾道ミサイルを打ち上げ、核実験を強行する北朝鮮に対して、今のところのレベル止まりと考えている人も少なくない。しかし、果たしてそうだろうか。本当はかなり危機的状況が、すぐ目の前に迫っているのではないか。私はそう思うのである。日本政府やアメリカ政府は、一般市民がパニックになるのを恐れて、黙っているのではないか。もちろん事が事だけに、かなり慎重にやるだろう。それにしても国民を欺くことも、時として必要だと思う。これまでハリボテ国家とみなされてきた北朝鮮なのだから、楽観的になるのも当然である。事実今でもハリボテの可能性だってある。が、やはりこのまま放置容認するわけにはいかない。一朝事あらば、アメリカはすぐさま北朝鮮を追い込む用意があり、万が一、アメリカが核を使えば、十五分で北朝鮮は地球上から消滅するという。それも本当なのか、ハッタリなのか知らないが、であれば、恐怖しかない。その後も恐怖と遺恨は続くであろう。何時の世も、犠牲になるのは、名もなき市民である。一握の権力者、向こう見ずの独裁者によって始まろうとしている愚かなる戦を、何とか止める手立てはないものか。反戦集会も確かに必要だろうが、権門は耳を貸さない。では、どうしたら良いのだろう。三人寄れば文殊の知恵という。皆で、真面目に、真剣にこの問題を考え、向き合う時は、まさに今である。晴れがましい重陽の日が、今年も無事に終わらんことを。戦など起こらぬことを祈る。平成廿九年重陽

なおすけの平成古寺巡礼 天應寺

盛夏の候、三ヶ月ぶりに坂東巡礼に出かけた。此度は、栃木県の満願寺、中禅寺、大谷寺の三ヶ寺にお参りして、帰りがけに佐野市の天應寺に立ち寄る。江戸期、このあたり一帯は彦根藩の飛び地で、天應寺は井伊家の菩提寺とされた。下野国は奥州道が貫く要衝の地ゆえ、関東の地固めをする者には、まさに鬼門であった。それは徳川幕府にとっても例外ではなく、家康は自ら鬼門を封じるべく東照大権現と相成り、日光山に鎮座した。下野国に封じられた大名も錚々たる顔ぶれで、譜代筆頭の井伊家がこの地を領したのも、宜なるかなと思う。

現在の佐野市は、市町村合併でずいぶん広い町になった。天應寺は佐野市堀米という地区にある。堀米から少し北へ行くと、田沼という駅があって、ここが旧安蘇郡田沼町だ。徳川中期、六百石の小姓から五万七千石の大名に上り詰め、老中首座となり幕政を主導したのが田沼意次である。この時代を田沼時代と呼ぶ。私は田沼意次が好きだ。成り上がりとは彼のことだろうが、成り上がりでも何でも、泰平の徳川幕閣で田沼意次ほど先を見据えて仕事をした政治家はいない。近年では賄賂政治家の疑惑もずいぶん晴れたが、歴史に関心が無ければ、やはり田沼意次=賄賂という印象を持つ人も多い。さらなる疑惑払拭に努めるのが、意次を敬愛する私の役割とも思い始めている。田沼町はその田沼意次に所縁の地である。田沼氏はもとはこの地を領した佐野氏の分流で、家臣筋であった。家祖とされる佐野庄司政俊から六代あとの壱岐守重綱がこの地に移り住み、田沼を名乗ったのが始まりと云われる。その後、鎌倉から室町時代にかけては鎌倉公方に仕え、戦国時代は上杉家、武田家など主家を転々とした。大坂夏の陣から徳川家に仕え、家康からも信頼されて、紀州藩初代となる徳川頼宣の家臣団に加わった。八代将軍吉宗に取り立てられて、意次の父意行の代からさらに芽を伸ばしてゆく。このあたり、平氏が平家にのし上がってゆく経緯と実によく似ており、田沼家もまた似た様な栄枯盛衰を味わうのである。一方、佐野氏の本家は当地に細々と残って、徳川時代もなんとか最下級の旗本として存続した。意次の嫡子で若年寄田沼意知は、天明四年(1784)江戸城内で、佐野氏子孫の佐野善左衛門政言という旗本に切られて死んだ。佐野善左衛門がなぜ殿中で刃傷に及んだのか、憶測は様々で、田沼氏が佐野氏に連なる家系図を借りて返さなかったとか、田沼にあった佐野大明神を田沼大明神に改称したとかいう説がある。佐野善左衛門は、田沼意次の権威に何度も取り入って、自身の出世と佐野家の家格向上を目指したが、田沼家からは無碍にされたという。その恨み、妬み、嫉みは凄まじく、殺意は意次ではなく、敢えて嫡子意知へ向けられた。それはこの先、田沼家を没落させんがために巧妙に企てられた事であったと私は思う。この一件は後に改めて書いてみたいと思う。

話がずいぶんと寄り道したが、天應寺は県道から少し入った田圃の奥のささやかな丘の上に建っていた。門前には青い稲穂がすくすくと育ち、田圃のキワには、蓮が植えらていて、ちょうど盛りを迎えていた。寺へのアプローチとしては申し分ない風景である。天應寺は曹洞宗の禅寺で、寛永年間に井伊家二代目の直孝によってこの地に建てられた。今では、地域の檀信徒の寺らしい佇まいだが、楚々とした中に気品が感じられるのも、井伊家菩提寺たる格式を失っていないからであろう。境内は本堂と庫裏があるだけで、あとは裏手に広大な墓地が広がっている。その突き当たりは、ひときわ高い丘になっていて、その場所が井伊家の墓所らしい。長らく佐野家が納めたこの地だが、徳川家にとっては外様の佐野家から没収して、大直参の井伊家に与えた。 墓所の丘へ登ってみた。振り返れば、暑さを忘れる涼やかな風が吹き抜けてくる。さほど高くもない丘だが、あたりが広大な下野の原なので、ここに立つと、下野一円を手にした心持ちになる。この良きところに、井伊の殿様のうち、二代直孝、三代直澄、十三代直弼の三人の墓がある。

安政七年(1860)三月三日、桜田門外の変で散った井伊直弼は、襲撃開始からわずか数分で首級を捕られた。時の最高権力者で、居合の達人でもある直弼にしては、あまりに呆気ない最期であった。最近の研究では、襲撃合図の一発の弾丸ですでに瀕死の重傷を負っていたという。森五六郎という水戸浪士が、直弼の駕籠のわずか数メートルの至近距離から発砲し、弾丸は右の臀部から脊髄へ抜けた。脊髄を損傷したことで、この時点で直弼は下半身が麻痺して、身動きできぬ状態であった。薩摩浪士有村次左衛門に奪われた首は、桜田門から和田倉門近くの近江三上藩遠藤胤統邸前まで持ち去られたが、有村も後頭部に深手を負っており、ここで力尽きて、門番に首を預けると自刃した。誰の首かもわからぬまま、押し付けられた遠藤家ではてんやわんやの大騒ぎとなる。下手をすれば、自藩も騒動に巻き込まれる恐れもあった。すぐに、彦根藩邸から追手が来て、遠藤家に首を引き渡すよう要求。通常こうした場合、然るべき手続きを踏んだ上で、慎重に時間をかけて引き渡す定まりで、この時も彦根藩士の再三の引き渡し要求に、遠藤家側は断固拒否、いったん公儀へ届出し、誰の首かを確認できるまでは渡せぬと引かなかった。幕府、井伊家、遠藤家の三者で相談して、同じくこの事変で亡くなった彦根藩士加賀九郎太の首と偽って、ようやく大老の首を取り戻したという。遠藤胤統は若年寄で直弼の部下でもあり幕閣の一員。最高権力者の顔を知らぬはずもなく、きっと直弼と分かってはいたことだろう。しかし遠藤家としても、これが一大事であることは心得ていたに違いなく、咄嗟に幕府や井伊家と示し合わせて、一芝居打ったのかもしれない。首を引き渡した遠藤家は、正直、ホッとしたことだろう。

かくして井伊直弼の首は、無残に分断された胴体の元へ帰ってきた。すぐ様、藩医の岡島玄建にて検死が行われて、首と胴体を縫合した。このあと、直弼の遺体はしばらく藩邸に霊安され、幕府は公式発表では、瀕死の重傷で伏せているとした。大老暗殺による幕府の権威失墜を恐れたのである。夕方には将軍家より見舞いが届いたが、白昼のこととて、目撃者も多く、大老暗殺のニュースは江戸中に知れ渡っていた。文字通り取り繕うしかない幕府は、とりあえず嫡子直憲が跡目と確定した三月二十八日まで、床に伏せていると誤魔化し、大老の死を隠匿した。

直弼の墓所は世田谷の豪徳寺と定り、現在も正式には豪徳寺が墓となっている。しかし一説によれば、遺体はこの天應寺とか、彦根にある井伊家菩提寺清凉寺、もしくは天寧寺、或いは龍潭寺へ埋葬されたとも云われている。ここからは、あくまでも私の推理であるが、直弼の死を隠匿することと、新たな刺客に備えるために、幕府と彦根藩で談合の上、埋葬地を明らかにせず、様々な噂を振り撒いたのではないか。豪徳寺は江戸近郊すぎるし、彦根はあまりにも遠い。とすれば、この佐野の地は東北の佐幕グループ(奥羽列藩同盟)にも近く、この時は未だ安全な地であったことを考えれば、一時的に遺体を避難させるには絶好の場所であったと思う。天應寺の直弼の墓には、遺髪が埋葬されていると聴いたが、はじめは遺体を仮埋葬し、時勢が落ち着いた後に、遺髪のみを当地に残して、骨は豪徳寺彦根へ分骨改葬されたのではないか。ところが、何年か前に、豪徳寺で直弼の墓の調査をしたところ、何も無かったというから、謎は深まるばかりである。

これも邪推にすぎないが、遺髪は天應寺、遺体はより安全で静かな彦根のどこかへと運ばれたのでないかと思う。正式には豪徳寺が墓であるが、直弼の本当の墓は、もしかすると永久にわからないかもしれない。しかし、直弼の魂は彦根に在り、江戸に在り、ここ天應寺にも密かに在る。少なくともこの日天應寺を訪ねてみて、私はそう感じたのであった。幕末の一時期、この国の最高権力者は相違なく井伊直弼であった。彼ほどの人物でも本当の墓場がどこかなのかわからない。藤原道長もそうらしいが、日本史に確かな足跡を残した人物が、どこで眠っているのか知れないというところが、私などには底知れぬ興味と、大いなる空想を掻き立てられる。謎めいた現地を訪ね歩いてみれば、尚更その思いは増してゆくのであった。

甲子園礼賛

今年で99回目の夏の甲子園もいよいよ決勝。今年は強烈なスラッガー揃い。準々決勝でホームランの大会新記録が出たり、大会史上初の代打満塁ホームランが出たり、ついには広陵高校の中村奨成選手が、準決勝で個人のホームラン新記録を有言実行で出してみせた。今大会はヒットも多彩で、とても見応えがあったと思う。一方で投手陣は、絶対的エースはいないが、何枚も看板がいるチームが増した印象。プロ野球のように分業となってきた。やはり、エース一人に背負わせれば、体力的にも精神的にも、下手をすれば、甲子園後が無になってしまいかねないほど消耗してしまうもの。そのあたりが、長年の課題にもなっていたが、ここへきて指導者たちにもそうした考えが浸透してきたのか、或いは今後は常識になるのではなかろうか。観ている方は、絶対エースの華々しい活躍に見惚れたい気もするが、選手のことを思えば、やはり分業が望ましい。その方が投手陣の打撃にも磨きをかけられるだろうし、彼らも自分こそがエースとなるために精進するに違いない。投手分業は、チーム全体に誠に良い相乗効果をもたらすであろう。 どんなスポーツも年々進化しているが、野球は近年はサッカー人気にやや押され気味だった。でもやはり伝統はそう簡単には廃れない。個々のレベル、体型、メンタル面、指導方法に至るまで飛躍的に進歩している。逞しく楽しみな高校球児達が、毎年育っているのだ。

日本人は野球が好きだ。プロ野球は無論のこと、社会人野球や大学野球にもファンは多い。だが、なんといっても高校野球の熱気には敵わない。その雰囲気、熱視線は時にプロ野球さえも凌駕する。 高校野球はその直向きな純朴さと、まさしく青春真っ盛りを体現して魅せてくれるから、日本人の誰もが酔いしれるのだ。年少の者は高校球児に憧れ、年長の者はひとときあの頃の我に還ってしまう。プロ野球に比べたら、エラーやミスが多いのは当然だが、そんな波乱万丈があるからこそ、優劣が一瞬で入れ替わるドラマが度々あり、名勝負が生まれ、将来期待の選手が彗星の如く現れる。

高校球児はガタイも良いせいか、いくつになっても自分よりずっと大人に見えることがある。アスリートには同じことがいえるが、高校球児には特にそうしたものを感じる。サインを読み合う表情ひとつにしても、守備のファインプレーにしても、私が幼い頃、夏休みに観た高校生の兄ちゃんたちとオーバラップする瞬間が何度もある。日本の夏に高校野球は必要な風景。先から書いているが、八月は盆がきて、国民総供養の月。でも高校野球があることで、全く暗い気持ちにならずに済む。高校野球が無ければ、日本の八月は非常に重くて、抹香臭い夏になっていたことだろう。静謐な祈りのあとに、元の日常に戻してくれるのが高校野球なのである。

夏の甲子園はなぜかくも美しいのか。勝つ花、散る花どちらも爽快で、熱く、気高く、美しい。勝ち上がってゆくチームは、攻走守の実力があることは勿論だが、抽選、組み合わせ、天候、展開すべてにおいて、幸運を引き寄せるパワーを兼ね備えているように思えてならない。そして、どこかチーム全体が泰然自若としている。それは、勝ち上がる度に増してゆき、王者の風格を身に纏ってゆくのだ。そうした彼らの成長を見守ることも、また高校野球の醍醐味であろう。夏の甲子園は、都道府県の代表ということもあり、おらが国を応援したくなる。普段、地元には見向きもしない輩も、ここぞとばかりに応援する。まるで国取合戦だが、高校野球とは郷土愛を改めて思い出させてくれるものなのだ。しかし、戦い終われば選手も、応援団も、ファンも互いの健闘を心から讃える。間違ってもフーリガンなど生れない。こんなビッグイベントは、この国には他にない。国体よりも遥かに甲子園は盛り上がる。また応援合戦も名物である。メンバー入りできなかった部員、応援団、チアリーダー、家族、友人、そしてブラスバンドが一体となる。アルプスにこだまする大声援は、まさに甲子園の花といえよう。

判官贔屓の日本人は、負けたチームに対する賞賛も惜しまない。テレビ放送でさえ、勝ったほうのみならず、しっかりと負けた方にもカメラを向け、熱闘を讃える。劣勢でも最後まで笑顔の選手、試合終了のサイレンと同時に泣崩れる選手、さらに監督やチームメイトに号泣しながら詫びる選手、涙ひとつ見せず真一文字に口を結び、マウンドの土を掻き集め甲子園を去ってゆく選手。私は彼らを見る度に、感動し涙腺が緩む。勝敗を超えた賛歌は、何とも気持ちが良いものだ。

私も、毎年応援するチームが現れる。今年は、西東京代表の東海大菅生高校を応援した。西東京大会から、総合力の高い大人びたチームと感心していたが、エースの松本君の好投にも目を奪われた。菅生は、昨年まで三年連続で西東京大会準優勝。三年生は先輩達と味わった悔しさを晴らし、積年の望みを見事に叶えてみせた。惜しくも、花咲徳栄高校との準決勝には破れたが、互いに最後まで譲らず、延長11回まで戦い抜いた。高校野球史に残る名勝負であったと思う。監督や先輩達と培った想いを現役生は背負って戦ったのである。そのビッグウェーブに、ファンである私達も乗っけてもらって、共に夢舞台へ連れて行ってくれた。だからこそ、惜しみなく大声援を送りたい。そしてまた、私も彼らと一緒にすばらしい夏を過ごせたことにお礼を言いたい。今年もいよいよ甲子園の決勝だ。王者は一校だが、出場するだけでも大変な栄誉。野球を愛する誰もが夢見る晴舞台へ上がったのだから、全校みんな胸を張って地元へ帰ってきてほしい。甲子園が終わり、高校球児が凱旋すれば、日本の夏が終わる。秋はもうすぐそこまでやってきている。

秋が来る前に

旧暦ではもう秋でも、当世暑さの真っ盛り。日本の八月は鎮魂総供養の夏。お盆がきて先祖を偲び、迎え、送るという習わしは、古くから日本の夏の風景である。八月には、五山の送り火をはじめ、霊魂を慰める祭が方々で行われる。そして、八月は広島と長崎の原爆の日がきて、今日は終戦記念日。もう七十二年が経った。それにしても、長崎に原爆が投下されてから、八月十五日まで六日間もあることに、改めて驚嘆させられる。その間にも本土が方々で焼かれ、満州樺太、南方の痛ましき戦地では犠牲者が増え続けたのである。六日は長すぎる。広島からはさらに三日間もあるのだ。キリなどないが、ポツダム宣言受諾後も、満蒙開拓団の集団自決をはじめ、至る所で戦争は終結しておらず、逃げ惑い祖国の地を踏めず命果つる同胞が、知られているだけでも夥しくいた。何とも愚かとしか言い様がない。

愚かなことは今も続いていたりする。先月、国連では核兵器禁止条約が賛成多数で可決した。今後ひとまず五十ヶ国が批准する。しかし、核保有国や、日本や韓国など核の傘に守られている国は、条約に反対、不参加、棄権した。国連もここまでなのかと痛感したのは今さらだが、日本が参加しないことに、私は憤りを覚える。これまで散々、唯一の戦争被爆国などど声高に叫んできたのは、何だったのか。もっとも、おとなしい日本政府はあまり積極的に主張はしなかった。昭和の大戦に敗れた対米従属の国には、致し方ないことでもある。でもそれは、七十二年を経ても遅々として変わらず、むしろさらに何もできず、言えなくなりつつある。そして沖縄の問題。有ってはならぬモノなのに、無くてはならないモノであるから、沖縄は永久に出口無き戦後を彷徨い続けている。叫び続けるのは、戦争を体験した人や賛同する一部の人々ばかり。その声は皆まで届いてはいない。 もしくは聴こえないフリをしていたり、どうしようもないところが本音かもしれない。しかしどうしたって、今回の核兵器禁止条約ばかりは、どの国よりも、いかなる理由や妨げがあろうとも、日本こそが真っ先に参加し批准すべきであった。米朝が緊迫するなか、先の大戦後、かつてないほどの危機、脅威が目前に迫りくるのを、見て見ぬふりはもうできない。ゆえに武力で威嚇せねばならぬこともまたよくわかる。しかし、それでいいのだろうか。後にはきっと後悔と虚しさのみしか残らぬであろう。私はこれまでも、八月がくれば日本人は先の大戦のことを思い出さなくてはいけないと思ってきた。事実また、多くの日本人が戦争の恐ろしさを追憶し、戦没者を慰霊している。まだ今ならば、間に合うはずだ。春の桜から夏至を過ぎて盛夏となり、いよいよ浮かれて弛緩する日本には、考えるべき八月がある。暑いのは苦手な私だが、八月は何故か好きだ。高校野球を観戦しながら、ホッと一息をつき、立ち止まって、現在過去未来をじっくりと見据え、計り、描く。それが私の八月であり、日本人の八月だと思っている。

弔辞

次の東京五輪、選手の活躍は大いに期待し、まことに楽しみであるが、開催過程には目も当てられないほどケチがついた。負の遺産ばかりが目立つ。そして、ついにもっとも激烈で、あってはならぬ事が起こってしまった。すったもんだの挙げ句、昨年末から始まった新国立競技場の建設現場で、とうとう死人が出てしまう。しかもまだ、二十三歳のうら若き青年が、過労のために、鬱になってしまい、自ら命をたったのだ。事故ではなく、自殺なのである。何たることか。オリンピックは若者が夢を抱き、叶え、楽しむ最高の舞台のはずが、哀れなりこの始末。日本社会の歪みここに極まれり。政治の腐敗、利権闘争が引き起こしたに他ならない。青年は、昨年から新入社員として、建設会社に入り、新国立競技場の現場の一部の監督助手のような立場であった。亡くなる前、一ヶ月前後は、毎日朝四時に起きて、帰宅は夜中、休むのは深夜一時だったとか。こんな事が、少しばかり報道されて、罷り素通りしてゆく日本とは、今どんな国なのか。残念というよりも、惨憺たる薄気味悪さである。私たちは、このまま2020年を歓喜して迎えてよいのか。私にはとても無理そうである。過労と精神的に追い込まれて自殺者を出してしまった五輪なんか、祭典ではない。そもそもが、東日本大震災の復興五輪なぞと嘯き、現地は道半ばというに、挙げ句、現場でもこのザマ。沙汰の限りである。もううんざりだ。

現在、件の国立競技場は、まるでプロントザウルスが林立するかの如く、巨大なクレーンが首をひっきりなしに動かしている。この首の下では、男たちが、女たちが身を粉にして戦っているのだ。国立競技場だけではない。これから、さらに整備を急ぐ施設がまだたくさんある。過労死、長時間労働、イジメ、大丈夫か?日本。こんなことでは、身体は酷使して削がれ、心は乱れてやがて砕けてしまう。ゆとりなど露ほどもない。日本人は時代を逆行どころか、人間として退化してしまったように映る。世界に目を向ければ、日本人よりもはるかに経済的に困っている人々がいる。混沌とした情勢は、さらに混迷の度合いを深めているのも空恐ろしい。であればこそ、こんな時代だからこそ、このような事件が起きてしまったことに、凄まじい怒りを覚える。八月がやってくる、予々申し上げてきたが、日本の八月とは、供養の月。その前に七月には祇園会、山笠、隅田川花火などの夏祭りが各地で開かれた。祭とは五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄、神々への感謝とともに、死者への鎮魂の意味も込められている。私たち日本人は、昔からそうして祖先を敬い、追い落とした敵をリスペクトし、成し得るまでに柱や踏み台となった人を慰撫したのである。2020年東京五輪は、亡くなった彼の屍の上で行われるという事実を、我々は肝に銘じておかねばならない。それを忘れて、失くして、見て見ぬ振りをしてしまえば、日本に明光な未来はあるまいと私は思う。日本人、東京人、曲がりなりにも一人の大人として、私は亡くなった彼に詫びたい。心より彼の冥福を祈り、ご遺族には謹んで哀悼の意を表します。

空を摑んで

先日、母方の祖母が亡くなった。享年九十二歳の大往生であった。私は祖母の臨終に立ち会うことは出来なかったが、亡くなる前日から、祖母は目を閉じたまま、しきりに空を摑もうとしていたらしい。食事もほとんど摂らず、寝たきりとなっていた祖母が、何度も何度も手を挙げて、何かを摑み切れずに溜息をつく。それを繰り返し千回以上もやったというから、驚きであった。か細くなった身体のどこにそのような力が残っていたのだろう。本当に最後の力を振り絞ったのだ。捉えたい空の中に何が見え、何が在ったのか知る由もないが、きっと先に逝った祖父か、最愛の息子の幻影が現れたに違いないと私は思う。繰り返すうちに、ついに祖母はその向こうの誰かと、手を携えること叶ったと信じたい。その時、安らかに息をひきとったのだ。奇しくも、祖父の命日に召された祖母。祖父が迎えに来てくれたのだろうと、親族の誰もが思った。

 祖母は若い頃から文句ひとつ言わずに、専業主婦を全うした。両親の仕事の都合で少女時代は、台湾で過ごしたと聞いた。だが、その台湾で戦火に巻き込まれて、肩先を被弾した。散弾銃の生々しい傷跡は、終生消えず、私は幼い頃一緒に風呂に入った時に見て、その事を教えてもらった。今から三十年近く前には、姉妹でその時の思い出を辿る台湾旅行にも行った。その時の写真は穏やかな表情をしている。私にはいつも優しくて、お洒落で、料理がとびきり上手な祖母であった。今、私は料理が好きで自炊しているが、料理の手ほどきは亡くなった祖母から受けた。祖母の作る料理の味を、私の舌は覚えている。ことに、鯵の南蛮漬け、冬瓜のスープ、彼岸に作るおはぎ、毎年漬けていた梅干しは絶品だった。そして、正月には重箱のおせち。伊達巻、田作り、きんとん、金柑の煮付けなどなど、今ではとんと見かけなくなった、御節料理がいつもあった。いわゆる昔ながらの日本の正月を、祖母のおかげで辛うじて私は経験できたのである。こうして私に、旬の物を食すという習慣を、自然に植え付けてくれた。感謝してもしきれない。私には子供はいないが、目に入れても痛くないほどかわいい姪っ子が二人いる。私の役割は、祖母の味や想いを彼女たちに少しでも教え、繋げることだと思っている。手料理、節句、風物詩、そして旬ということ。祖母から得た教えを継ぐことが、私の祖母への唯一無二の手向けだと信じたい。六十過ぎからはリュウマチに苦しんだが、よくここまで色々諸々を辛抱して、生き抜いたと思う。心から感謝の意と、冥福を祈るばかり。ちなみに父方の祖母は、大正六年生まれの御歳百歳。いまだ健在である。

平家にあらずんば

歴史的観点から今の世相を照らし合わせてみれば、実に学ぶべきところが多い。時に、歴史をやっていることなど今を生きる事に何の意味も成さないとか、現実と未来しか見る必要はないと思っている人からは、馬鹿にされることもあるが、温故知新とは真実なのである。ゆえに歴史はやめられぬ。やればやるほど、過去にも似たような世相があったことが透けてみえてくる。古典文学も同じく、源氏物語枕草子徒然草方丈記からは日本人として生きる機微を、保元物語平治物語、承久記、太平記などの軍記物からは、政治情勢や権力闘争をつぶさに垣間見ることができる。平安末期から明治維新まで、我が国は武家政権による軍事国家であったわけで、軍記物や武将の伝記は、確かに時の政治情勢を語っている。無論、こうした類のものは、ほとんどが勝者権門に都合よく書かれているのだが、すべてが虚構でもあるまい。軍記物の筆頭といえば、やはり平家物語であろう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありから始まり、盛者必衰の理を美しい日本語と琵琶の調べにのせて切々と語る。物心がついて、少なからず世相と日本史を鑑みることができる日本人ならば、誰もがこの言葉を嚙み締めるに違いない。私のような愚物でもちょっとはわかる。

先日の東京都議選で、都民ファーストの会が大躍進し、自民党は歴史的惨敗となった。女都知事の勢いは止まりつつあったにも関わらず、この結果である。政権与党が調子に乗り過ぎたゆえの結果と断定できよう。これは日本人の気質なのだろうか。勝っても兜の緒を締めない。だからそれを諌める諺や、四字熟語がたくさんある。いつの世も日本の権力者は、栄枯盛衰であり諸行無常であり盛者必衰である。それが定なのであろう。平清盛が一代で築きあげた平家。日本の武家政権の礎を作り、後、およそ七百年続くのである。或いは、明治政府から戦前の軍事政権まで加えてもいいかもしれない。平時忠は、「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」と評した。だがその栄華はわずかに二十年余りで、西の海に墜える。綻び始めた天下の箍は、たった一つでも緩みが生じれば、元に戻す事は容易ではない。歴史がそれを教えてくれるのに、何故わからないのか。寧ろ私などにはそれが不可思議でならない。日本の事だけではなく、今、世界的に似た様な潮流ともいえる。第二次大戦終結後、最大の危機が、そう遠くない日に訪れる予感がするのは私だけであろうか。時は流れゆく水のようにすり抜けて、政は秋の落日の如く暮れてゆくのである。天下を手中にしてなお、石橋を叩いて渡っていったのは、藤原道長徳川家康くらいかもしれない。今こそ、我々は弛緩しきった箍を引き締めてゆかねばならないと思う。現代の真の天下人は、我々有権者なのだから。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。