弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

図書館にて

先日、知人から朗読会の誘いを受けて出掛けた。朗読会は私の家の近所の図書館で開かれる。知人は某ラジオ局のパーソナリティーで、時々、こうした朗読会にも出演している。知人の他にも、有志の語りのプロが数人出演した。最近は朗読会が盛んらしい。私は、今回が初めてであったが、なかなかに良いものだと感心した。今回は、作家H氏がこの日のために書き下ろした作品と、山本周五郎藤沢周平の小品が朗読された。それに、ギターの生演奏が彩りを添える。出演者の朗読は、知人を含めてさすがにすばらしかった。目を閉じて、耳を傾けていると、良い心地になってくる。良い声で本を読んでもらうと、ついうとうとしてしまう。それも朗読の魔法であり魅力であろう。自分で読むのとは別の入り方で文学に触れ、物語や文章を追体験できる。それは、視覚から物語を辿る映像や紙芝居とは違う。聴覚のみで人は多くの事が判るのであって、想像も空想もその自由さは視覚を遥かに凌駕はするのではあるまいか。今回の朗読会は図書館で開かれたというのがまた良い。朗読会はホールや寺社でも開かれているが、私は地域の図書館で、少人数を集めて行われるのが、朗読会の趣旨でもあろうし、優しく癒される空間演出にはベストであると思った。時節柄、こうしたイベントに参加してみるのも悪くない。

私自身は時節に関係なく本を読み漁るので、図書館もよく利用する。私の自宅近くにも徒歩圏内に二つの図書館があり、いかにも昭和の昔からそこに在って、地域に根差した図書館である。近年は図書館も様変わりして、明るく開放的な図書館が増えた。カフェを併設したり、古建築をリノベーションしたりと洒落た図書館は人気も高い。無論のこと、蔵書も閲覧検索のシステムも充実しており、大変使い易い。大学の図書館も、ほぼこの様な図書館に生まれ変わりつつある。本離れが叫ばれて久しいが、出版業界、書店業界のみならず、図書館が国や自治体と協力して、良い方向へ進んでいる姿勢には大いに共感できるし、利用者としても応援したい。だが、私は私の街にある地域の小さな図書館も大好きだ。鄙びたと言っては失礼だが、さほど大きくはなくとも地域の人々と共通の蔵書があることで唯一、同じ地域に住まう者同士の連帯と誇りを思うのである。

それにしても、公立図書館の予算は削減されているのだろうか。私の街の図書館もずいぶんと設備が老朽化している。箱自体は耐震補強をしっかりとしていれば建替の必要はないが、トイレや水まわり、閲覧室や座席は、改めていただいても良いのではと思う。東京五輪の影響なのか、ほとんど無駄とも疑問符のつく新しい箱物ばかりに、多額の税金を湯水の如く投入しているが、そんな施設は私達にはちっとも身近ではない。どうせ金を使うならば、私達が普段利用する施設にも、もう少し目配りをしてほしい。が、図書館を利用しない人も大勢いるわけで、むしろ利用者の方が少ないかもしれない。それこそ、図書館に金を使うならば、別に使ってほしいと願う人もいるはずだ。そのあたりがまことに難しい。私は幼い頃から図書館が好きである。本に囲まれて、本の匂いに包まれて、好きな本を読んだり、調べたりする時間ほど大切で、至福の時はない。もっとも落ち着く場所は、意外と住まい近くの図書館かもしれない。私は私なりに、これからも図書館を利用し、地域の図書館が存続できるべく、できることを考えて、行動し、見守り続けていきたいと思う。今の場所を離れても、どこに住もうとも、それは変わらないだろう。

日本仏教見聞録 東本願寺

京都駅から烏丸通りを北へ五分ほど歩くと、巨大な東本願寺の御影堂門が現れる。その甍を見上げるたびに、都の大寺だけに威風堂々と吹く風に私は圧倒される。ところが、門の奥の広い境内からは、真宗寺院独特の庶民的な匂いが漂ってきて、同時に何だか懐かしい。何故であろうか。京都には、早朝からお参りできる寺がいくつかある。西本願寺清水寺南禅寺法然院など。人の疎らな時間に、参詣するのは気持ち良い。最高の贅沢だ。寺参りには、そこを訪うに相応しい季節や時間がある。花の寺、緑陰の寺、苔の寺、月の寺、紅葉の寺、雪の寺。それを堪能できて、かつ静寂な時刻を狙ってみたい。暑気、寒気、空模様は問わず。時節到来、吉日定まれば良い。私の寺参りの基本である。殊に大寺院においては、まだ薄暗い開門直後か、西日傾く閉門間際が望ましい。東本願寺は季節によって少し変わるが、概ね六時前後には開門する。まことにありがたい。八月のおわり、私は花背の奥地の火祭を観に行くために、夜行バスで上洛した。そして、久方ぶりに明け染めの東本願寺へお詣りした。開門と同時に境内へ。この日の一番乗りである。寺の関係者以外誰もいない。晩夏のこととて、日中はうだるような暑さでも、白む空にはうろこ雲。少しずつ秋が忍び寄って来るのを感じた。

かつて平安京の正面には羅城門があり、東西に東寺と西寺が建っていて、都を守護したが、今は形と場所を変えて、京都駅から北を仰げば、東本願寺西本願寺が洛中を見守る。京都人は親しみをこめて、それぞれをお東さん、お西さんと呼ぶ。それにしても御影堂のなんと大きなことか。東本願寺御影堂は、間口七十二メートル、奥行五十八メートル、世界最大の木造建築である。創建以来何度か火災に遇い、どんどん焼けと言われた禁門の変で焼けたあと、維新後は廃仏棄釈の煽りも受けて放置されていたが、時勢落着し始めた明治十三年(1880)より、十五年もの歳月をかけて明治二十一年(1895)に落慶した。これだけ巨大であるのに重苦しさはない。構造は二重屋根だが単層で、下層は裳階である。この構造のおかげで、まるで鳳凰が翼を広げて飛び立つ様に見える。豪壮なのに優美である。瓦はおよそ十七万六千枚。堂内は内陣、外陣、拝座に分かれ九百二十七畳もの広さだ。こちらの壁から向こうの壁が霞んで見える。天井や欄間、須弥壇などは眩いばかりの金箔と精緻な彫刻で彩られ、ここに座す誰もが、現世での束の間の浄土に誘われる。これほどの建築を建てることは、明治のあの時分だからこそできたことで、当世は資材を調達するのも難しいのではないかと思う。ただ、日本の宮大工には、古代より卓越した技術が継承されているから、資材さえ揃えばやれぬことはないだろう。外国人は京都へ降りてすぐに、この大伽藍を観て何を思うだろうか。壮大かつ繊細な美の殿堂たる日本の寺院建築を、まざまざと魅せつけられよう。

真宗寺院は本堂である阿弥陀堂よりも、宗祖親鸞聖人を奉る御影堂の方が大きいのが特徴である。阿弥陀堂は、幅五十二メートル、奥行四十七メートル。御影堂より一回り小ぶりだが、御影堂があまりに大きいため、そう見えるだけで、他の寺であれば大本堂だ。渡廊下で繋がれた両堂は、棟こそ違え、一体と見てよい。両堂合わせれば、小駅のプラットホームよりも長い。浄土系寺院の本尊は阿弥陀如来である。だが本願寺の場合、知らなければ御影堂こそが本堂だと誰もが思うだろう。それほど真宗は、宗祖親鸞を大切に思っている。御影堂は門徒や京都人、或いはこの寺を訪ねる人々にとって、信仰と安らぎの場であると同時に、公会堂のような役割を担っているように思う。これが浄土真宗本願寺の布教であった。

阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ渡廊下には、明治の再建時の遺産が展示されている。中で、毛綱という材木を切り出した時に使われた太い綱には感銘を受けた。毛綱は、麻と門徒の女性が提供した髪の毛を縒り合わせて編み込んである。そうすることで強度が増して、切れない綱になるのだとか。昔から髪は女性の命とも云う。いや、昔であれば尚更である。門徒の女性たちは、それを惜しげも無く、我先にと提供した。今のように重機のない時代、再建には相当な苦労があった。越後の材木伐採の現場では、死者も出る大事故が起きている。山に入ったり、建築現場に踏み込めない女性たちにとって、自分たちに何ができるのか考えた末、せめてもの一助としたのが毛綱であった。私はこの毛綱に、どんなものよりも強く深い信心をみた。薄気味悪いほどリアルな信仰である。あまりにもストレートである。色褪せて黄緑色にトグロを巻いた毛綱は、何とも不気味であり何とも美しい。立派な御影堂や阿弥陀堂も結構だが、東本願寺は何と言ってもこの毛綱があることが、最大の光明と力の源泉の様な気がしてならない。

廃仏棄釈で一度は廃れかけた日本仏教は、こういう名もなき庶民の中で再び発芽して、新たな道を歩み始めた。 現在、浄土真宗全体の門徒は一千三百万人を超え、日本仏教で一番である。師法然が説いた専修念仏、易行という仏道に深く共鳴し帰依した親鸞は、さらにその教義を深め、進め、広めた。だが、師弟はともに既成の仏教勢力から排斥される。法然は四国へ、親鸞は越後へ流される。一説では、親鸞は死刑になるところを、自身が中級貴族日野氏の出身であり、親族には公卿がいたため免罪になったと云う。幾多の不遇の時を送った青年期だが、親鸞の念仏と他力信仰はますます熱を帯びた。越後での幽閉を解かれ、沸々と湧きあがる思いを、流転の地である坂東は常陸国の稲田にて「教行信証」に著した。そして親鸞は、当時の僧としては前代未聞の妻帯者となる。当然再び既存の仏教勢力から激しく非難を受けて、ついに強制的に還俗させられてしまう。親鸞は僧に非ず、俗に非ず、自らを愚禿と称するようになった。これは決して諦めではなく、親鸞なりの不屈の誓いではなかったか。

親鸞は九十年のその生涯で、阿弥陀如来を真に信じた瞬間から、往生が約束されると説き続けた。だが、親鸞が自ら、浄土宗から新たに浄土真宗を起こしたわけでなく、後に分派していったのである。親鸞は六十を過ぎて再び生まれ故郷の京都へ帰った。坂東での布教は多くの門弟門徒を得て、一応は成功したが、やはり当時としては辺境である常陸国稲田では限界を感じたのだろう。そしてまた、生まれた場所であり、師法然との想い出多き京都への望郷の念が、棄て去ることはできなかったに違いない。どこまでも人間臭い親鸞らしい。親鸞はこのあと都でおよそ三十年、教義の構築に努め、多くの弟子と門徒へそれを面授した。自らはあまり積極的に布教はしなかったとみられる。無論その間も、様々な横槍が入ったであろうが、信念は死ぬまで失うことはなかった。親鸞は最晩年まで、子息善鸞との義絶、末娘覚信尼母子の生活、門弟入り乱れた後継争い、教義の歪み、また自分自身の信仰、自らはどう往生するのかなど悩みが尽きなかった。自分が亡き後、日本仏教と浄土教、さらには我が子や弟子たちの行く末を案じていた。が、奈良国立博物館に蔵されてある親鸞聖人画像からは、静謐の内に秘める凄まじい気迫と自由が感じられる。そうなのだ。親鸞は生涯自由の人なのだ。信仰の自由、衣食住の自由、妻帯の自由、表現の自由、学問の自由、移動の自由。自由こそが親鸞が自ら体現して見せた最大の信証だと思う。

弘長二年(1262)親鸞聖人入滅。遺体は、東山大谷で荼毘にふされた。その地に覚信尼によって、廟堂が作られ、本願寺の由緒となる。後に、浄土宗から分かれて浄土真宗となり、ひたすらに阿弥陀如来のみを信じ、他力信仰を標榜する、日本仏教の中でも、特異な宗派となっていった。しかし、既成勢力からは特異でも、名もなき庶民にとっては大いにわかりやすく、まさに易行であり、信者を増やしていった由にもなる。その頑な信仰集団は、一向宗と呼ばれ、室町時代には中興の祖蓮如によって、越前の吉崎に広大な寺内町を築いて、勢力を伸ばした。戦国期には一向一揆を起こし、戦国武将からも恐れられ、信長とは石山合戦を八年に渡り繰り広げるなど、鉄の団結力を見せつけた。信長の跡を継いだ秀吉とは和解して、石山本願寺から、京都堀川七条の地を与えられて、本願寺は都で再び花開き始めたのである。ここが今の西本願寺である。秀吉から天下人が家康に変わると、今度は本願寺内部で主導権争いが燻り始めた。それを敏感に察知した家康は、巨大勢力として警戒していた本願寺を分断するには、勿怪の幸いとばかりに、本願寺十一世顕如の長男教如へ烏丸七条の地を与えて分派した。西本願寺顕如の三男准如が継ぎ、その後、徳川時代は東西本願寺は両立する。だが、明治以後今日まで、東本願寺の内部は分裂を繰り返してきた。昭和のいわゆるお東騒動以来、大谷派は京都の東本願寺と、東京の東本願寺、どちらも本山と云い、大谷派本流を譲らない。今もって、和解には至っていないのである。自らも真宗門徒の作家である五木寛之さんは、真宗浄土教の中でも鬼っ子のような存在だと言われたが、鬼っ子の魂は今も継承されているようだ。

今年、東本願寺で働く人のサービス残業のことが問題となった。西本願寺や他の真宗諸派に比べて騒動が尽きないが、人々の信仰が薄れる事はない。意外に東本願寺こそが、二十一世紀の現代日本を、もっとも鏡の如く映し出しているのではないか。世の人々に仏教とは、信仰とは、生きるとは、そして往生とは何ぞやという事を親鸞に代わって体現しているのではないか。であれば、実にわかりやすい。私はこの夏から、歎異抄を愛読し始めた。歎異抄は、親鸞の弟子唯円が著した、浄土真宗ではもっとも身近で有名な著作だが、親鸞自身の著作ではないことから、賛否は昔から分かれる。でも私自身は、歎異抄を繰り返し読んでみて、そこに親鸞のまことの声を確かに聴いた気がする。浄土真宗の祖は親鸞だが、本人は露ほども分宗分派などは考えていなかったし、そんなことはどうでも良いことだと、誰よりも思っていたに違いない。何よりも争い事は好まなかった。私はあえてこれを「親鸞聖人の本願」と呼びたい。ならば、我ら衆生は安心して良い。諍い揉めているのは、いつの世もどの組織でも上層部だけで、名も無き庶民たちには、迷い相違なく親鸞の本願は伝播されている。私の実家の菩提寺浄土真宗で、本山はお東さんではなくお西さんである。私の通った幼稚園は、菩提寺の附属幼稚園で、朝な夕なに御念仏の日々を過ごした。これが私の仏教とのファーストコンタクトであり、今日まで仏教に関心を抱くきっかけとなっている。私自身、熱心に浄土真宗に帰依はしていないし、むしろ信仰心は希薄だと思う。しかし信仰に東も西も無く、諸派も他宗派も関係ないことだけは、いつどの寺に行っても失わない唯一の信心である。東本願寺でもそれは変わらない。

涅槃図

徳川時代の絵師は百花繚乱。絵師としての実力、個性、人気、生き方、いずれも途轍もない光芒を放つ。様々とは彼らのためにある言葉に思えてくる。師宣、春信、清長、栄之、北斎、広重、国芳、私もお気に入りの絵師がたくさんいるが、彼らと一味違う異才が英一蝶である。英一蝶が、先に挙げた絵師たちと異なる最たる点は、いわゆる版画を描かなかったことだ。描かなかったのではなく、描けなかったというのが真相かもしれない。それには、彼の出自と、浮世絵の創始者の一人とされる菱川師宣へのリスペクトがそうさせたのではないかと思う。でも、おそらくはジレンマを抱えていたに違いなく、迷いながらも到達したのが、版画よりも一画入魂を良しとしたのであろう。いかにも英一蝶らしく、彼の人生を覗けばそういう絵師になったのも必然といえる。

そんな彼の経歴はたまらなくおもしろい。英一蝶は、伊勢亀山藩藩医の子として生まれ、藩主石川憲之とともに一家で江戸に出た。早くから絵の才能を認められ、殿様にも知られて、狩野派に入門した。だが、後に頭角を現す破天荒ぶりは、若かりし頃から垣間見られたようで、狩野派を破門されてしまう。以後は、独自に絵描きに専心し、町絵師としての画風を立てていった。吉原通いが好きで、高じてと言ってよいのか?だが、そのまま吉原で幇間として働くようになった。幇間とはいわゆる太鼓持ちのことで、男芸者とも呼ばれた。文字通りの芸者で、女芸者と違い艶っぽい芸ではなく、大道芸やチンドン屋のような見世物芸をして、宴席を盛り上げた。今でも浅草には、何人か幇間がいるらしい。一蝶は、根っからの遊び好きであって、縁あって吉原で働くことが嫌ではなかった節がある。さらには、吉原に来る大名、旗本、豪商、文化人に知己を得ることで、自分のスポンサーを探していたに違いない。一蝶には、そういう計算高い一面もあるのだ。また当時、吉原ほど色彩豊かな所はなく、絵描きとして、色の種類や明暗を学ぶには絶好の場であった。

英一蝶は二度も流罪の憂き目を経験している。理由は諸説あり、幕府を風刺する絵を描いたとか、生類憐みの令に背いたためとも言われるが、流刑地の三宅島でも絵を描くことをやめなかった。そこには、必ず生きて江戸を戻るという信念と、例えそこで朽ち果てようとも、残すものはあるという絵師としての気骨の両方が感じられる。英一蝶とは、実に無駄の無い人生を送った人だと思う。見る物、やる事、出会う人、すべてを己の絵描きの糧と為したのである。一蝶は俳諧にも顔を出し、芭蕉や其角とも親しくなった。私には、当代一の数寄者たる芭蕉と交わることで、英一蝶という絵描きが完成したと思われてならない。英一蝶の絵は、人間として生きる喜びがあり、憂いがある。楽観と悲哀、栄華と没落、俗世と遁世というものが、複雑に入り組んで渾然一体となっている。英一蝶は、紆余曲折の人生を大胆に謳歌しながら、かつて誰も手に入れたことがない絵心を獲得していったのだ。

その最高峰ともいえる作が、ボストン美術館に蔵されている「涅槃図」である。先月、上野の美術館に百何十年ぶりに里帰りしていたので、拝みに行ってきた。懸命に修復された「涅槃図」の前に立って、その圧倒的筆致に、私は我を忘れて佇んでしまった。言うまでもなく涅槃図は宗教画である。寺に掛けられて、経と香を手向け、人々が礼拝する画である。この「涅槃図」も元は、愛宕下の青松寺の塔頭にあったもので、明治期に流出してしまった。 それにしても力漲る凄い涅槃図である。沙羅双樹の下で、涅槃に入る釈迦を取り巻く弟子、菩薩、多くの獣や鳥たちが、目にも鮮やかに丁寧に描かれている。釈迦涅槃という悲しみの極みの場面であるのに、どこか安らぎを感じさせる。極楽浄土とはこういう場所なのではないかと思った。それこそが英一蝶の力量なのである。また、他の涅槃図には描かれていない猫が描かれているのも興味深い。その猫は、周りの弟子たちや動物たちが、釈迦を見つめたり、号泣したりしているのに対して、ひとり此方を見つめているのである。まるで、この状況をただひとり冷静に眺め、何やら悟りすましている様だ。或いはあの猫は、英一蝶のその人なのかもしれない。宗教画であるのに全く抹香臭くない。市井の人や動物の日常を、あたかも浮世絵の如く描いている。とても穏やかに。だが、同時に崇高であって、やっぱり礼拝せずにはいられない。仏画なのである。涅槃図であり仏なのである。仏涅槃図とか釈迦涅槃図は、方々の寺や博物館で拝んできたが、英一蝶の「涅槃図」は、世界一の涅槃図であった。

英一蝶 承応元年(1652)〜享保九年(1724)。大往生。

胡耀邦という人

先日、NHKスペシャルで、中国の胡耀邦元総書記をやっていた。三十年前の中国の指導者について、私はほとんど無知であったが、今回少しばかり胡耀邦のことを知って、あのように親しみやすく、大らかな中国指導者がいたことに感銘を受けた。胡耀邦が掲げた政治スローガンこそが、いわゆる改革開放であった。当時、発展道半ばの中国にとって、何よりも経済成長を遂げることが、人民のためと信じて疑わなかった。それは、胡耀邦自身の政治家として、中国共産党の一員として、てっぺんまで登りつめるまでの苦労と経験から、身をもって悟ったことらしい。若い頃は、田舎の不毛地帯へ赴任して、畑仕事などの農作業にも従事した。そこで貧しい人々と共に、中国の現実を見つめ、地方の疲弊と辛酸を味わった。持ち前の向上心と努力、そしてその人柄から知己を得て、少しずつ頭角を現し、中央政界へと進出。柔和な物腰と思考の反面、中央地方一体で発展させねばならないという強い信念と、反骨精神を併せもっていた。何よりも雑巾掛けを惜しまなかったから、総書記の地位まで昇ったのであろう。戦後目覚ましい発展を遂げ、当時、世界第二位の経済大国となった、かつての敵である日本から、多くを学ぼうと努めた。日本と親しく、優しく、果敢に交流した。北京には、三千人の日本の若者を招待したり、日本人を前にした演説でも、日中友好と両国の互恵繁栄を高らかに叫んだりした。

作家の山崎豊子は、「大地の子」の執筆のため、長らく中国で取材をしていた。その時、胡耀邦に何度かインタビューしており、靖国神社のことまで聴いている。胡耀邦は、靖国に合祀された戦犯全員を分祀すれば、日中関係は安泰だ。少なくとも、まずはA級戦犯だけでも分祀すれば、関係が悪化したり滞ることないと断言した。もっともこうした発言が、保守派の不審と反発を招き、失脚への源になってゆくのだが、胡耀邦は本気であった。靖国問題は今に続く問題で、私自身は戦犯の分祀にこだわりもなく、中韓があまりに騒ぎすぎとも思ってしまうが、胡耀邦の柔軟な考え方や未来志向には感心した。歴史には一時代を四十年という周期で、捉える見方がある。胡耀邦は、あの当時、つまり1980年代当時には、非現実的なことも、四十年先の人には理解できるか、当たり前になっているだろうと言った。或いは、自分の目指す国家像の実現には四十年かかるともとれる。

これまで、私は改革開放路線を邁進したのは、当時の中国共産党の最高実力者である鄧小平だと思っていた。しかし、まことの改革者は胡耀邦であった。胡耀邦を失脚に追い込んだ張本人が、鄧小平である。鄧小平は、結党以来の幹部で八大元老と呼ばれた長老たちを束ね、自らが総書記や、国家主席に就くことはなく、キングメーカーの如く、隠然たる影響力を誇示した。鄧小平が、首を縦に振らねば政治はできない。胡耀邦が勝てる相手ではなかった。八大元老や保守派は、胡耀邦の経済、言論の自由などの改革に異を唱えて、進言や苦言を呈したが、結果的には胡耀邦を引き摺り下ろしてしまう。胡耀邦中国共産党序列一位から、五位に降格し、それこそ戦犯のように扱われてしまう。だが、彼らは意気消沈せず、なおも改革に意欲をみせていた矢先に急死。これが、引き金となり、民主化、改革を求める若者が徒党を組んで、六四天安門事件に発展するのだ。中国は、清王朝末期にも類似の事件が起きている。西太后が、甥の光緒帝に親政を許した途端、光緒帝と側近の若手官僚らは、あまりにも改革を急ぎすきだ挙句、西太后頤和園に幽閉しようとした。だが、事前に察知した西太后は激怒。さっさと頤和園を脱出し、紫禁城に乗り込んだ。クーデターは失敗。逆に光緒帝が幽閉され、若手官僚は失脚した。八十年後の中国でも、形や組織は違えど、そっくりな出来事が起きたのである。 胡耀邦は笑顔の人である。あの面差しは実に良い。あんな穏やかで、友愛に満ち溢れた中国の指導者は、私の知る限り、周恩来胡耀邦だけである。胡耀邦が亡くなって三十年。彼の理想とした国家と、日中関係には程遠い現実。あと何年かしたら、胡耀邦が目指した変革思想から四十年である。果たして、今の私たちは、すんなりとそれに向き合えるのだろうか。折しも、北朝鮮情勢が極めて不安な時、日本は解散総選挙となった。日中両国とも自国のことばかり、党も政治家も、私利私欲を貪り、頼り気もない馬鹿丸出しの輩しかいない。胡耀邦から四十年後とは、おとずれるのであろうか。

松上げ


八月末、私の長年の宿願がひとつ叶った。それは、京都の北の山奥で行なわれる松上げという火祭を観ることであった。松上げのことを知ったのは二十年近くも前、白洲正子の随筆かくれ里の「山国の火祭」という文章を読んだからだ。以来、神秘に満ち溢れた火祭の情景は、白洲さんの臨場感溢れる文章によって、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。が、ついにこの晩夏、その火祭を目の当たりにすることができたのである。

日本は火祭が多い国だ。年中何処かで行われている。山川草木八百万、どんなものにも神が宿ると信じてきた日本人らしく、火もまた神聖視してきた。人が火を手に入れてからは、暮らしに欠かすことができなくなった。今は、ガスやライターで難なく火を使えるが、はじめは火を起こし、燻るまでにも労力と知恵を要した。苦労の果てに火が起これば嬉々として、そこに神の力を見たであろう。同時に火は、ひとたび大きくなれば、人の力の及ばぬ破壊力があり、下手をすればすべてを失う。それに対する畏怖があったから、火伏せの神も祀り、火伏祭も盛んに行われた。また、火を焚いて昇天する煙には、死者の霊魂が宿ると信じた。神仏混淆の日本人は、火を神として敬いながら、いつしか仏教とも結びつき、やがて盆の送り火が生まれたのである。送り火は各地で行なわれるが、ことに京都の五山の送り火は、日本の送り火の総代のように思う。各地の火祭は、神仏が交わることで、規模が拡大され、東大寺のお水取りや、吉田の火祭、鞍馬の火祭のように盛大な祭に発展した。火は日にも通ずる。農耕に不可欠な日と水と火。日本人は三位一体として大切にお祀りしたのである。

最近、松上げは有名になったらしい。松上げ鑑賞バスなるモノが京都市内から出ている。私も今回はそのバスを利用した。夕方六時、出町柳駅からバスは一路北へ向かう。比叡山もまだはっきりとてっぺんまで見えているほど、良い天気だ。雨天中止と聞いていたので、晴れて良かったと一安心する。バスは鞍馬越えで花背へ向かうが、鞍馬寺を過ぎると、道は狭く険しくなる。怖い怖いヘアピンカーブの連続を、一時間近くかけて行くのだが、さすがに運転手さんは慣れていて、苦も無く峠まで登ってゆく。途中所々、崖にへばりつくような集落があった。道のキワに家があり、反対側は崖で、崖下は滝つ瀬というようなところだ。車内にも轟々たる水音が聴こえてくる。よくこんな所に家を建てたものだと感心した。家々の軒先には、地蔵盆のお供え物や提灯が出ている。地蔵盆地蔵菩薩の縁日で、本来は毎月二十四日だが、御盆に近い旧暦の七月二十四日は、盂蘭盆会と兼ねて行うようになった。お地蔵さんは、日本全国くまなく信仰されているが、地蔵盆近畿地方と信州や九州の一部以外ではあまり知られていない。近畿地方では、盆の行事として色濃く残っている。松上げも地蔵盆と同じ頃行われるが、もともとは地域の豊作を祈る祭が、いつしか地蔵盆と融合したのではないだろうか。

京都は広い。平安京は、京都盆地の中にすっぽりと収まっているが、市域は拡大して、大まかに見ても、東は山科、南は伏見、西は大原野、北は花背まで。その地域も、今は京都市となっているが、かつては洛外のさらに外側にある僻地で、貴人にとっては隠棲の地であった。松上げの行われる花背のあたりも例外ではなく、古い寺社が点在し、秘された歴史がまだまだ埋まっているようなところだ。松上げは、この辺りに伝承されている祭で、私が訪ねたのは花背峠を越えてから、さらにバスで二十分ばかり降ったところにある広河原という集落である。現在、松上げは広河原、花背、雲ヶ畑に残るが、かつてはこの辺りの村ごとに行われていたとか。白洲さんが観たのも、広河原より少しばかり花背峠寄りの原地という集落の松上げだったが、今では原地の松上げは廃れてしまった。白洲さんは原地を観て、その足で広河原にも廻っているので、一晩に二度松上げを観たらしい。かくれ里で白洲さんは、この辺りの風景を、絵に描いたような美しい村が現れたと書いているが、白洲さんが訪ねてから四十年たった今も、昔話さながらの雰囲気は失われていない。今回、私はすっかりと宵闇になってから行ったので、あたりの景色ははっきりしなかったが、点在する古民家や田畑、そして清らかな瀬音が、微かに闇の中に浮かび上がって見えつ聴こえつしていた。夜空には、東京ではぜったいに見ることの叶わない夏の星座が、手に取るように瞬き始めている。なるほど今度は昼間に来て、絵に描いたような村を眺めながら歩きたいと強く思った。

松上げの会場までの道には、地元の人によってささやかな夜店が出ていて、京野菜なんかを売っている。その先に川が流れていて、橋の手前が我ら野次馬の席。すでに三百人ほどが押しかけていて、今か今かと、火祭が始まるのを固唾を呑んで待っている。川を挟んで向こう側の原っぱが、松上げが行われる聖地である。聖域には結界が張られていて、野次馬はおろか村人でさえ、松上げに参加する男たちしか入ることは許されない。中心には、地上二十メートル近くもある、燈籠木(トロギ或いはトロゲ)と呼ばれる巨大な松明が立てられている。広河原では松上げのことを正式には、トロゲと呼ぶ。燈籠木は松明というよりも、暗がりに見れば大木のようである。燈籠木のてっぺんには、薪をつめた籠が取り付けてある。松上げは、その燈籠木のてっぺんめがけて、地元の男たちが、銘々手作りした火種を投げ入れるのだ。選ばれし男たちを、私は松上げ男子と呼ぶことにする。十九歳になると、松上げに参加できるらしい。松上げ男子になれば、晴れて大人の男として認められるのだろう。火種は放上松(ほりあげまつ)といって、油の多い燃えやすい松の芯を束ねて、藁紐がくくりつけてある。その藁紐を握り、てっぺんめがけて放り投げ、一番点火を競うのである。

一時間ほど待ったであろうか。太鼓と鉦の音が鳴り出し、燈籠木の周囲に立てられた、松明一本一本に点火してゆく。元火は、地域の尾花町の山林に祀られている愛宕大明神の祠から授かる。松明は聖域に千本以上も立てられていて、松上げ男子がものすごい早さで点火するのだが、白洲さんはその様を、まるで火天か韋駄天のようだと記している。 あっという間に、聖域一面が火の海になった。遠く向こうは段々になっていて、その起伏が火の波の如くこちらへ押し寄せてくる。これだけでも一見の価値あり。幻想的な火の海を眺めていると、本当にこれが夢なのか、現なのか境目がなくなってゆくのであった。 やがて、太鼓と鉦の音が早くなると、いよいよ松上げが始まった。男たちは、燈籠木のてっぺんに向けて、「こりゃ、こりゃ、こりゃあ」とか、「こりゃじゃ、こりゃじゃ、こりゃじゃ」などと、独特の声を発しながら、我先にと火種を放り投げる。 野次馬もまた一緒になって歓声をあげる。幾筋もの放物線を描きながら入りそうで入らない火種が、虚しく地上に落ちる度に、嗚呼と悲鳴をあげたり、もっとこっちだよとか、そっちじゃ入らんよとか、惜しいとか、いちいち叫ぶ。松上げ男子よりも、野次馬の方が熱くなるのが可笑しかった。確かに、聖地とこちら側には結界があるが、松上げに挑む心には、聖域の内外に垣根はなかった。

やがてついに、火種のひとつがてっぺんに乗っかると、甲子園球児がホームランを打ったかのような大歓声が起こって、その神々しい炎を全員が祈るように見つめる。まさしく今、聖火台に聖なる炎が灯ったのである。その後も、松上げ男子が投げた火種がふたつ、みっつと入ると、燻っていた炎は、籠の中の薪に引火し、昇龍の口から吐き出る炎のようになった。その場にいる誰もが、紅蓮の炎に見惚れている。神の降臨か仏の来迎というものも、このような光景なのではないかと思った。それも束の間、太鼓と鉦がひときわ高らかに鳴ると、松上げ男子は燈籠木の下に集まり、支柱を外したかと思うと、一気に地面に引き倒した。その瞬間、物凄い音と、巨大な火炎が一帯を包み、大歓声のあとには、しばしの静寂があって、自然と拍手が沸き起こった。あたりには、煙が充満し、田畑をかすめながら、山、川、そして天へと昇ってゆく。ここで、私は合点した。松上げとは、森林田畑の害虫駆除を兼ねているのだ。あれだけの松明の熱と煙は、あの一晩で、広河原地区の上から下までくまなく廻ったであろう。これから、実りの秋を迎えるにあたって、もっとも原始的だが、もっとも効果的な害虫駆除になるに違いない。神を奉り、感謝するとともに、豊作を願い、災害からの守護を祈念した。その想いが真面目にこの火祭には込められている。一見してそれはとくとわかったつもりだが、古代から続く偉大なる火祭を、たった一度観たとて、すべてを語ることは、野次馬の私には到底できない。第一、この祭を大切に守り伝える松上げ男子や、地元の人々に失礼だと思う。であるから、これ以上は語るのは止そう。でも、間違いなく私は、この夏の夜、ついに松上げを観た。いたく、えらく、物凄く感動した。宿願を果たせてうれしかったのである。

松上げが無事に終わると男たちは、古老の発声に合わせ、「シャンノ、シャンノ、オシャシャンノシャン」「ユオオテ、オシャシャンノシャン」という不可思議な文句を唱える。そして伊勢節を唄いながら、聖地から地域の観音堂へと列を成して、引き揚げる。そして、村人皆で、夜更けまで盆踊りに興じるのだとか。松上げ男子は本当に凛々しく、格好良かった。日本には、まだこんな祭があるのだ。探せばあるのである。こんな面白い火祭を、古代のいったい誰が思いついたのだろう。現代の我々の創造力はすばらしいが、古代の人々の想像力もまた凄いのである。松上げを観て、あらためてそれを痛感した。白洲さんは、松上げを観て、「東京へ帰ってからも、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは信じられない。まだあの夜の酔いからさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。」と書いている。人に騙されるより、狐に化かされたい私も、この夏の夜に見た夢を、生涯忘れぬであろう。

重陽

九月九日重陽重陽五節句の掉尾を飾る菊の節句で、徳川時代までは、宮中でも江戸城でも節会が催された。節句は陰陽五行説に起因し、邪気を祓い無病息災を祈念する行事が、様々な形で行われた。本来は五節句以外にも多くの節句があるらしいが、徳川幕府が、特に重要な節句と定めたのが、今日まで残る五節句と云われる。元日を別格として、以下が五節句である。一月七日は人日、三月三日は上巳、五月五日は端午、七月七日は七夕、そして九月九日は重陽。昔は五節句のたびに節会が行なわれ、邪気祓いをし、縁起を担ぐ食材を食す宴があちこちで催された。これが御節料理の起源である。御節料理といえば、今では正月に食べるものとして認知されているが、本来は節句ごとに旬の物を食するのだ。年々、正月ですら御節料理を食べる機会は減ってしまった。現代人は、雛祭や七夕祭はやるが、その日に五節句を意識することはない。端午の節句も含めて、風習として辛うじて残っているのは、まだしも良しとせねばならないか。五節句の中でも一番地味で、五節句であることすら忘れられているが、最大奇数日の重陽こそが、陰陽五行説では最も力が大きく、めでたいとされ、幕末までは盛大に言祝がれた。一般にはほとんど知られていない重陽だが、おそらく宮中や一部の社寺では、今でも何らかの祭祀が行われていると思う。そして伝統や暦を重んじる京都では、重陽節句の催しや食事が大切に残っているところもある。そういう風にして、密かに受け継がれているところが、今の重陽の魅力なのかも知れない。

話は変わるが、朝鮮半島情勢が極めて深刻になってきた。北朝鮮は九月九日が建国記念日だという。毎年、建国記念日には、何かしらの軍事的パフォーマンスや実験を行っており、近隣だけではなく、世界中がいま固唾を飲んで注視している。だが、このところの北朝鮮には、警戒感と同時に楽観視する側面が見出せるのは、我が国だけではあるまい。この一年で何度も弾道ミサイルを打ち上げ、核実験を強行する北朝鮮に対して、今のところのレベル止まりと考えている人も少なくない。しかし、果たしてそうだろうか。本当はかなり危機的状況が、すぐ目の前に迫っているのではないか。私はそう思うのである。日本政府やアメリカ政府は、一般市民がパニックになるのを恐れて、黙っているのではないか。もちろん事が事だけに、かなり慎重にやるだろう。それにしても国民を欺くことも、時として必要だと思う。これまでハリボテ国家とみなされてきた北朝鮮なのだから、楽観的になるのも当然である。事実今でもハリボテの可能性だってある。が、やはりこのまま放置容認するわけにはいかない。一朝事あらば、アメリカはすぐさま北朝鮮を追い込む用意があり、万が一、アメリカが核を使えば、十五分で北朝鮮は地球上から消滅するという。それも本当なのか、ハッタリなのか知らないが、であれば、恐怖しかない。その後も恐怖と遺恨は続くであろう。何時の世も、犠牲になるのは、名もなき市民である。一握の権力者、向こう見ずの独裁者によって始まろうとしている愚かなる戦を、何とか止める手立てはないものか。反戦集会も確かに必要だろうが、権門は耳を貸さない。では、どうしたら良いのだろう。三人寄れば文殊の知恵という。皆で、真面目に、真剣にこの問題を考え、向き合う時は、まさに今である。晴れがましい重陽の日が、今年も無事に終わらんことを。戦など起こらぬことを祈る。平成廿九年重陽

なおすけの平成古寺巡礼 天應寺

盛夏の候、三ヶ月ぶりに坂東巡礼に出かけた。此度は、栃木県の満願寺、中禅寺、大谷寺の三ヶ寺にお参りして、帰りがけに佐野市の天應寺に立ち寄る。江戸期、このあたり一帯は彦根藩の飛び地で、天應寺は井伊家の菩提寺とされた。下野国は奥州道が貫く要衝の地ゆえ、関東の地固めをする者には、まさに鬼門であった。それは徳川幕府にとっても例外ではなく、家康は自ら鬼門を封じるべく東照大権現と相成り、日光山に鎮座した。下野国に封じられた大名も錚々たる顔ぶれで、譜代筆頭の井伊家がこの地を領したのも、宜なるかなと思う。

現在の佐野市は、市町村合併でずいぶん広い町になった。天應寺は佐野市堀米という地区にある。堀米から少し北へ行くと、田沼という駅があって、ここが旧安蘇郡田沼町だ。徳川中期、六百石の小姓から五万七千石の大名に上り詰め、老中首座となり幕政を主導したのが田沼意次である。この時代を田沼時代と呼ぶ。私は田沼意次が好きだ。成り上がりとは彼のことだろうが、成り上がりでも何でも、泰平の徳川幕閣で田沼意次ほど先を見据えて仕事をした政治家はいない。近年では賄賂政治家の疑惑もずいぶん晴れたが、歴史に関心が無ければ、やはり田沼意次=賄賂という印象を持つ人も多い。さらなる疑惑払拭に努めるのが、意次を敬愛する私の役割とも思い始めている。田沼町はその田沼意次に所縁の地である。田沼氏はもとはこの地を領した佐野氏の分流で、家臣筋であった。家祖とされる佐野庄司政俊から六代あとの壱岐守重綱がこの地に移り住み、田沼を名乗ったのが始まりと云われる。その後、鎌倉から室町時代にかけては鎌倉公方に仕え、戦国時代は上杉家、武田家など主家を転々とした。大坂夏の陣から徳川家に仕え、家康からも信頼されて、紀州藩初代となる徳川頼宣の家臣団に加わった。八代将軍吉宗に取り立てられて、意次の父意行の代からさらに芽を伸ばしてゆく。このあたり、平氏が平家にのし上がってゆく経緯と実によく似ており、田沼家もまた似た様な栄枯盛衰を味わうのである。一方、佐野氏の本家は当地に細々と残って、徳川時代もなんとか最下級の旗本として存続した。意次の嫡子で若年寄田沼意知は、天明四年(1784)江戸城内で、佐野氏子孫の佐野善左衛門政言という旗本に切られて死んだ。佐野善左衛門がなぜ殿中で刃傷に及んだのか、憶測は様々で、田沼氏が佐野氏に連なる家系図を借りて返さなかったとか、田沼にあった佐野大明神を田沼大明神に改称したとかいう説がある。佐野善左衛門は、田沼意次の権威に何度も取り入って、自身の出世と佐野家の家格向上を目指したが、田沼家からは無碍にされたという。その恨み、妬み、嫉みは凄まじく、殺意は意次ではなく、敢えて嫡子意知へ向けられた。それはこの先、田沼家を没落させんがために巧妙に企てられた事であったと私は思う。この一件は後に改めて書いてみたいと思う。

話がずいぶんと寄り道したが、天應寺は県道から少し入った田圃の奥のささやかな丘の上に建っていた。門前には青い稲穂がすくすくと育ち、田圃のキワには、蓮が植えらていて、ちょうど盛りを迎えていた。寺へのアプローチとしては申し分ない風景である。天應寺は曹洞宗の禅寺で、寛永年間に井伊家二代目の直孝によってこの地に建てられた。今では、地域の檀信徒の寺らしい佇まいだが、楚々とした中に気品が感じられるのも、井伊家菩提寺たる格式を失っていないからであろう。境内は本堂と庫裏があるだけで、あとは裏手に広大な墓地が広がっている。その突き当たりは、ひときわ高い丘になっていて、その場所が井伊家の墓所らしい。長らく佐野家が納めたこの地だが、徳川家にとっては外様の佐野家から没収して、大直参の井伊家に与えた。 墓所の丘へ登ってみた。振り返れば、暑さを忘れる涼やかな風が吹き抜けてくる。さほど高くもない丘だが、あたりが広大な下野の原なので、ここに立つと、下野一円を手にした心持ちになる。この良きところに、井伊の殿様のうち、二代直孝、三代直澄、十三代直弼の三人の墓がある。

安政七年(1860)三月三日、桜田門外の変で散った井伊直弼は、襲撃開始からわずか数分で首級を捕られた。時の最高権力者で、居合の達人でもある直弼にしては、あまりに呆気ない最期であった。最近の研究では、襲撃合図の一発の弾丸ですでに瀕死の重傷を負っていたという。森五六郎という水戸浪士が、直弼の駕籠のわずか数メートルの至近距離から発砲し、弾丸は右の臀部から脊髄へ抜けた。脊髄を損傷したことで、この時点で直弼は下半身が麻痺して、身動きできぬ状態であった。薩摩浪士有村次左衛門に奪われた首は、桜田門から和田倉門近くの近江三上藩遠藤胤統邸前まで持ち去られたが、有村も後頭部に深手を負っており、ここで力尽きて、門番に首を預けると自刃した。誰の首かもわからぬまま、押し付けられた遠藤家ではてんやわんやの大騒ぎとなる。下手をすれば、自藩も騒動に巻き込まれる恐れもあった。すぐに、彦根藩邸から追手が来て、遠藤家に首を引き渡すよう要求。通常こうした場合、然るべき手続きを踏んだ上で、慎重に時間をかけて引き渡す定まりで、この時も彦根藩士の再三の引き渡し要求に、遠藤家側は断固拒否、いったん公儀へ届出し、誰の首かを確認できるまでは渡せぬと引かなかった。幕府、井伊家、遠藤家の三者で相談して、同じくこの事変で亡くなった彦根藩士加賀九郎太の首と偽って、ようやく大老の首を取り戻したという。遠藤胤統は若年寄で直弼の部下でもあり幕閣の一員。最高権力者の顔を知らぬはずもなく、きっと直弼と分かってはいたことだろう。しかし遠藤家としても、これが一大事であることは心得ていたに違いなく、咄嗟に幕府や井伊家と示し合わせて、一芝居打ったのかもしれない。首を引き渡した遠藤家は、正直、ホッとしたことだろう。

かくして井伊直弼の首は、無残に分断された胴体の元へ帰ってきた。すぐ様、藩医の岡島玄建にて検死が行われて、首と胴体を縫合した。このあと、直弼の遺体はしばらく藩邸に霊安され、幕府は公式発表では、瀕死の重傷で伏せているとした。大老暗殺による幕府の権威失墜を恐れたのである。夕方には将軍家より見舞いが届いたが、白昼のこととて、目撃者も多く、大老暗殺のニュースは江戸中に知れ渡っていた。文字通り取り繕うしかない幕府は、とりあえず嫡子直憲が跡目と確定した三月二十八日まで、床に伏せていると誤魔化し、大老の死を隠匿した。

直弼の墓所は世田谷の豪徳寺と定り、現在も正式には豪徳寺が墓となっている。しかし一説によれば、遺体はこの天應寺とか、彦根にある井伊家菩提寺清凉寺、もしくは天寧寺、或いは龍潭寺へ埋葬されたとも云われている。ここからは、あくまでも私の推理であるが、直弼の死を隠匿することと、新たな刺客に備えるために、幕府と彦根藩で談合の上、埋葬地を明らかにせず、様々な噂を振り撒いたのではないか。豪徳寺は江戸近郊すぎるし、彦根はあまりにも遠い。とすれば、この佐野の地は東北の佐幕グループ(奥羽列藩同盟)にも近く、この時は未だ安全な地であったことを考えれば、一時的に遺体を避難させるには絶好の場所であったと思う。天應寺の直弼の墓には、遺髪が埋葬されていると聴いたが、はじめは遺体を仮埋葬し、時勢が落ち着いた後に、遺髪のみを当地に残して、骨は豪徳寺彦根へ分骨改葬されたのではないか。ところが、何年か前に、豪徳寺で直弼の墓の調査をしたところ、何も無かったというから、謎は深まるばかりである。

これも邪推にすぎないが、遺髪は天應寺、遺体はより安全で静かな彦根のどこかへと運ばれたのでないかと思う。正式には豪徳寺が墓であるが、直弼の本当の墓は、もしかすると永久にわからないかもしれない。しかし、直弼の魂は彦根に在り、江戸に在り、ここ天應寺にも密かに在る。少なくともこの日天應寺を訪ねてみて、私はそう感じたのであった。幕末の一時期、この国の最高権力者は相違なく井伊直弼であった。彼ほどの人物でも本当の墓場がどこかなのかわからない。藤原道長もそうらしいが、日本史に確かな足跡を残した人物が、どこで眠っているのか知れないというところが、私などには底知れぬ興味と、大いなる空想を掻き立てられる。謎めいた現地を訪ね歩いてみれば、尚更その思いは増してゆくのであった。