弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

通りゃんせ

通りゃんせは、江戸時代から伝承のわらべ唄である。幼い頃はこの歌が嫌いであった。その頃テレビで、「この子の七つのお祝いに」という映画をみた。当時はよくわからない内容だったが、とても暗くて重苦しい映画であった。その映画で、通りゃんせの歌が流れ、子守唄として唄われるのだ。そのイメージがあまりに強く、通りゃんせは、かごめかごめと並ぶ、薄気味悪いわらべ唄として私の中に残った。そういえば、最近あまり聞かないが、横断歩道の音響信号でも通りゃんせがよく流れていたが、あれもメロディを聴くだけで怖かったものだ。

通りゃんせの発祥の地は全国にあるが、埼玉県川越市にある三芳野神社もそう云われている。川越には何度か行ったが、その時に三芳野神社も歩いてみた。美々しい参道の奥に朱塗の社が建っている。確かに天神社に違いないが、祭神は菅公の他にも、素戔嗚尊奇稲田姫八幡神が合祀されている。江戸時代このあたりは川越藩の藩主の住む川越城内で、三芳野神社は城の守神として手厚く庇護されたが、城が建つ以前から地域の民に崇敬されていたことから、城内にあっても日中は民にも参詣が許されていたらしい。このあたりには古墳があったりして、太古から聖地であったことが伺えた。

通りゃんせの歌詞をあらためて読んでみた。

通りゃんせ  通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ  天神さまの細道じゃ

ちっと通してくだしゃんせ  御用のない者通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに  お札を納めに参ります

行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも

通りゃんせ  通りゃんせ

気がかりなのは、「行きはよいよい 帰りはこわい」という部分。昔から様々な憶測を呼んできた。歌詞にある天神さまが、三芳野神社であるとすれば、川越城内にあって、参拝する者を、警備の兵がしつこく警戒したから「こわい」という説がある。また、 「この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります」という部分を考えると、江戸時代まで、子どもは神さまからの預かり物、いわば子どもはみんな神の子であると、この国の人々は信じていたのである。今の七五三詣にも通ずることだが、昔から子どもは七つになってようやく、人間の子になると云われてきた。七つになって初めて氏神の氏子に加えられたという。通りゃんせの歌は、行きは神の子ゆえに神さまに守護されているが、帰りには人間の子となっているのだから、浮き世の荒波を鑑みて怖いといったのではあるまいか。さればこそ、昔の人々は子どもはみんなで大切に育てた。公家や武家は言うに及ばず、町の長屋で暮らす人々は、子どもがいることを誇りとし、長屋の住人みんなで子守をしたり、相互に助け合って生きていた。地方では、食扶持に困って、時に間引きという恐ろしい行為も行われたが、そうした親は生涯その枷から逃れずに生きねばならなかったし、地獄へ堕ちることは覚悟したであろう。 が、今はどうか。

先日、またしても痛ましい事件が起きた。わずか五歳の女の子が、両親にとんでもない虐待を受けて亡くなった。親が決めたくだらぬルールで、早朝から勉強、風呂掃除などを強制し、うまく出来ないと虐待した。真冬に戸外に放置され、一昨年、昨年と二度保護されたが、香川から東京へ引越ししたこと、さらにはこの国の親権者に対する非常に緩い現行法律上、親元に帰された結果、この顛末である。天魔の所業である。奴らは親ではない。鬼畜である。鬼畜のところへ帰してはいけなかった。鬼畜は断罪に処すべきだが、こうした事件はかなり前から起きているのに、手を打ってこなかった国の責任は極めて重い。自治体も含め、この国の制度を至急根本から見直す必要がある。つまりは、此度の事件は、我々すべての大人にも共有の責任がある。我々はそれを肝に命じて懺悔し、再びこうした悲しい事件が起きぬよう贖罪し、行動せねばならない。子どもは国の宝である。現代日本人も、昔の人々に倣い、皆で子どもを守らねばならない。

子どもは七つまで神さまからの預かり物。子どもはみんな神の子なのだ。あの子はきっと天使になった。我々にお怒りの神さまは、あの子を手元から離すまい。二度と悍ましき此の世へ、遣わされることはないだろう。あの子は此の世の記憶はすべて消されて、永久に安穏の日々を過ごすであろう。そう願っている。通りゃんせは、我々への子どもに対する戒めであり、神からの暗示であると私は思っている。

熊谷守一はいずこ

公開中の映画「モリのいる場所」を観た。熊谷守一さんの晩年の一日を、のんびりと描いたフィクション。熊谷守一さんを山崎努さんが丹精込めて演じ、熊谷守一を愛し朗らかに支えた妻秀子さんを樹木希林さんが演じる。このお二人があのお二人を演ると聞いた時からワクワクして、ぜひ観たいと思った映画だった。何よりも兼ねてより気になっていた、熊谷守一という人がすぐ近くに現れた様で、私は終始釘付けとなった。この映画の賛否は大きいかもしれないが、あの空気が好きだ。さすがに山崎努さんは、熊谷守一が憑依したようにその人を体現されていた。熊谷守一の時、暮らし、思考、そして熊谷守一の生息する境界。フィクションだがほんの一瞬でもそこへ踏み込んで、同居できた思いであった。創作のシーンがなく、熊谷夫妻が「学校」と呼んだアトリエに一人で入ってゆくというところにも、山崎努さんはじめ、この映画の作り手の熊谷守一に対するリスペクトを感じた。アトリエとは画家の聖域である。余計な描写はいらぬ。鶴の恩返しで良いのだ。

熊谷守一さんは、明治十三年(1880)岐阜県恵那郡付知村で生まれた。亡くなられたのは、昭和五十二年(1977)。九十七歳で大往生を遂げたが、五十代で軽い脳梗塞を患ってからは、写生旅行など遠出をやめて、亡くなるまでの三十年ほどは、ほとんど自宅に引き篭もってしまわれた。日がな一日を、八十坪ほどの自宅の庭や縁側で過ごしたという。草木を愛で、庭を訪れる猫や野鳥を可愛がり、虫たちを飽くことなく観察した。彼らは熊谷守一の創作のモチーフであり、生きる意味を教えてくれる源泉であり、大切な友達であった。その中に埋もれるようにして暮らし、長い白鬚を蓄えた魁偉な風貌から、人は画壇の仙人と呼んだ。が、ご本人は仙人と呼ばれることを嫌ったらしい。映画では、熊谷邸の庭は広々と深い森のように描かれているが、次女で陶芸家の熊谷榧さんによれば、実際はあんなに広くはなかったとのこと。庭はあまり手を加えずに、好きなようにしていた。

豊島区千早にあった自宅跡には、今、熊谷守一美術館が建っている。映画を観て私はすぐに出かけた。美術館ではちょうど開館三十三年展をやっていて、同館所蔵の作品のほか、各地に散らばっている油絵、彫刻、書、墨絵、手作りのイーゼルに、弦の切れた愛用のチェロまで観ることができた。映画のおかげで混雑してるかと思いきや、観客は私一人だった。 熊谷守一には花はまん丸に見えた。風景はどこか物寂しい。虫や蛙は友達を描くように心を込めている。自画像やブロンズからは、直に熊谷守一さんと対峙しているようで、目を合わすと吸い込まれそうだ。若い頃は繊細な画風であったが、歳を経て、だんだんと柔らかく、温かみ溢れる抽象画風になってゆく。もっとも熊谷守一さんは、そうした画風にさえ、特別なこだわりはなくて、その時々、正直に描いたのではないかと私は思う。中で私が惹かれたのは、大正期に書かれた「風」という作品で、このあと吹き荒ぶ昭和の嵐を予感しているように見える。それから、ひとはけで表現された「夏」も良い。油彩では「白猫」。日光東照宮の眠り猫のような静かな存在感を放っている。油彩は木の風合いを好まれたのか、キャンバスを用いずに、ほとんどを板に直接描いているのも、熊谷守一さんらしい。

熊谷守一さんは書や墨絵も多く残した。書は自分の好きな言葉しか書かなかったそうで、「一行阿闍梨耶」、劇中でもあった「無一物」、白洲正子さんには「ほとけさま」と書いた。仏教には極めて関心を寄せていたようで、仏画も多く描いている。この展覧会でも幾つかあったが、私はクレパスでさっと描いた文殊菩薩観音菩薩地蔵菩薩に精緻な仏画以上の魅力を感じた。熊谷守一にとって仏画やほとけを書にすることは、鎮魂であったと思う。昭和三年(1928)に可愛がっていた次男陽さんが、わずか五歳で肺炎により夭折。この頃の熊谷さんはまったく絵がかけず、貧困に喘いでいた。日に日に衰弱する我が子を医者にみせる金もなく、陽さんを死なせてしまったのである。その哀しみは生涯癒えずにいた。陽さんが亡くなってすぐに、「陽の死んだ日」を描いた。この絵は亡くなった陽さんの遺体を描いたもので、実に生々しく、衝撃的な作品である。自身も描いたことを後悔したらしい。息を引き取った直後、まだ身体には温もりがあって、それが見る者にも直に伝わってくる。この絵は倉敷の大原美術館に蔵されていて、この日の展示にはなかった。私は写真でしか見たことがないが、陽さんの死を簡単には受け入れることができず、物言わぬ遺体を描くことで、愛息の死を直視し、認識しようとしたのではなかったか。陽さんの死は、その後の熊谷守一さんの創作活動に多大な影響を及ばした。熊谷守一さんの作品は、陽さんの死を境に少しずつ変化してゆく。優しく、温かく、時には幼子が見てもどこか惹かれる。そんな絵になった。熊谷守一さんの後半生は、陽さんの供養のために、描いたように私は感じた。きっと仏道に関心を示されたのも、南無阿弥陀仏の信仰心からであろう。もがきながら描き続けて、晩年に向かうに連れて、少しずつ少しずつ、穏やかで情感豊かな筆致になっていった。

館内の階段には、中年期に藤田嗣治ら仲間と撮った写真が架けてあった。昭和の戦争時代の撮影だが、笑顔の人もたくさんいて、皆まことに明るい表情であった。戦時中の写真は暗いイメージしかなかったが、この写真は違う。画家たちの誇りと、未来への希望に満ち溢れている。しかし、戦後になって高度経済成長期になると熊谷守一は、世間に背を向けて引き篭もってしまう。破壊淘汰されてゆく自然と、人の心の卑しさに途方に暮れたように。それはあの当時、必死になって戦後復興を成し遂げた人々へではなく、その上で胡座をかいて平和呆けする未来人、すなわち我々に対してなのかもしれない。熊谷守一の無言の抗議は、また、我々への激励でもあると私は信じたい。

熊谷守一が此の世から居なくなって四十年。本当は私のいる此の世が彼の世で、熊谷さんのいる彼の世が此の世なのではないか。親類、知人、祖先、歴史上の偉人、その道の先達、ひいては可愛がっていた犬たちに至るまで、彼の世にいる人々が羨ましいと年々思えてならない。

青春譜〜吹奏楽の甲子園〜

私の自宅近くに普門館がある。普門館は、立正佼成会が所有するおよそ五千席もの大ホールである。かつてはここで、全日本吹奏楽コンクールの中学と高校の部が開催されていた。吹奏楽の甲子園として名高い。ここで若者たちのフレッシュで、熱いバトルが繰り広げられた。吹奏楽部は皆、最高峰たる普門館を目指したのである。吹奏楽の甲子園として世に知られるようになったのは、某テレビ番組の影響で最近のことだが、昔から日本の吹奏楽の殿堂は普門館であった。余談だが、楽壇の帝王と呼ばれ、当時人気絶頂のカラヤンも、ベルリンフィルを率いて普門館へやってきた。普門館は由緒あるホールなのである。そんな憧れの殿堂のすぐそばに、大人になって住むことになるとは、当時はまったく想像していなかった。しかし、数々の名演の舞台は東日本大震災以降、耐震性に難があるとかで、使用できなくなっている。先日、散歩がてらに見に行ってみたが、普門館はいつもどおりそこに堂々建っていた。だが、壁が剥落していたり、内部には資材が置いてあったりして、まさに兵どもが夢の跡といった感であった。いずれ取り壊す予定らしく、吹奏楽の甲子園は、名古屋センチュリーホールに変わった。寂しいことだ。カーネギーホール、ロイヤルアルバートホール、オペラ座なんかは、竣工から百年以上を経ても当然のように其処に在る。日本の高度経済成長期に建設された建物は、後世に残すことを考えないで造られたのかと思うこともあるが、地震大国日本では建築工法も年々厳しくなっていて、安全を最優先に考えたら致し方あるまい。が、普門館が無くなってしまうことは、日本の吹奏楽の歴史、特に重要な黎明期から発展期の一部をごっそりと抜かれてしまう様なものだ。その点においては、不都合の極みである。しかし、吹奏楽コンクールがなくなったわけではない。吹奏楽の甲子園は名古屋で新たな歴史を刻み始めている。

 さて前回は、私が中学で吹奏楽部に入部したところまでを話をした。私はトランペットを吹くことになったが、最初は基礎体力作りから始まった。吹奏楽器は腹式呼吸を要する。そこで運動部さながらに、ランニングや腹筋をひたすらやる。新入生は入部してすぐは、楽器はおろかマウスピースさえ持てない。ランニングや腹筋jの日々。いささかキツいメニューであったが、中学生ゆえに慣れるのも早かったように思う。そして基礎体力を養いながら、一ヶ月ほどするとトランペットのマウスピースを授かり、楽器を吹くための第一歩が始まった。無論、最初から音なんか出やしない。口角の結び方、息の吹き込み方、ブレスの仕方、先輩から丁寧に手ほどきを受ける。若さとはすばらしい。基礎体力作りと同じで、マウスピースはすぐに音が出るようになり、先輩に褒められると自信にもなった。しかし、どうも腑に落ちない。それは私の希望する楽器がトランペットではなかったからだ。確かにトランペットは吹奏楽の花形である。クラリネットより遥かに目立つし、カッコ良い。だが私はクラリネットが吹きたかった。本当はオケでヴァイオリンを弾きたかったのだが、私の田舎にはオケも無くば、当時はヴァイオリンを教えてくれるところも稀で、近くにはなかった。管弦楽においてのヴァイオリンやヴィオラの役割を、吹奏楽においてはクラリネットが担っている。無論のこと、弦楽器と管楽器では大いに違うのだが、吹奏楽の合奏においては、メロディもハーモニーも、主旋律も伴奏も奏でるクラリネットは、管弦楽ではやはりヴァイオリンやヴィオラに近い。どうしてもクラリネットが吹きたかった。が、一度楽器が定まるとなかなかパートを変わることは難しく、新入生には言い出せない。当時の私はトランペットの魅力に気付けなかった。そして私は、練習を休むようになった。この続きはまた次回。

吹奏楽部に限らず、部活動の先輩とは新入生から見ると実に大きな存在であり、その時々での影響力は計り知れない。新入生は先輩に尊敬と畏怖を感じるものだ。殊に三年生は大人に見えた。三年生は親であり、兄、姉である。下級生は演奏のみでなく、日頃の立ち居振る舞いから三年生を手本とする。だから、三年生もしっかりせねばならない。そうした自覚は、三年生になると、自然に芽生えるものである。新入生が入部してパートが定まる頃、先輩たちは、夏に行われる吹奏楽コンクールの課題曲と自由曲を選定し、吹奏楽部として一年でもっとも大切で、濃密な時に突入する。日本のアマチュア吹奏楽の団体は、小学、中学、高校、大学、一般、職場団体に分かれる。小学、大学、一般、職場団体は、必ずしもコンクールを目指さずに、自由に演奏することもあるが、中学、高校の吹奏楽部は概ね、吹奏楽連盟主催の吹奏楽コンクールで、上位入賞を目指して練習する。吹奏楽連盟の主催する大会は、大きくわけて三つあって、演奏技術や表現力を競う吹奏楽コンクール、演奏しながらパレードや演技を競うマーチングコンテスト、クラリネット三重奏や金管五重奏など小編成での技を競うアンサンブルコンテスト。これが日本の吹奏楽の三大大会である。各学校、団体の人数、伝統、気質や特色によって目指す大会や、方向性に差異があるが、中には三大大会すべてを目指す学校もあるらしく、大所帯では、吹奏楽コンクールと、マーチングコンテストでグループ分けすることもある。しかしだいたいが、吹奏楽コンクールかマーチングコンテストに絞って練習に励んでいる。そしてほとんどの吹奏楽部は、まず吹奏楽コンクールを第一に目指すのである。最近は、日本のマーチングバンドも大幅にレベルアップして、すばらしい演技を魅せる団体も増えた。マーチングも華々しく脚光を浴びているが、やはり大会の規模、歴史、吹奏楽の演奏という点では、吹奏楽コンクールが最高峰の大会に変わりはない。我々は略して吹コンと呼んだりした。吹奏楽部の一年は、コンクールに始まりコンクールに終わるのだ。この連載「青春譜」でも、主題は吹奏楽コンクールを廻って、話を展開していくことになるだろう。

ちなみに前回、吹奏楽部のブラスバンドとかブラバンとか呼ばれてカッコイイ(吹部とも呼ばれるが、これはいささかカッコ悪い)と思ったと書いたが、よくよく調べてみると、正式にブラスバンドとは金管楽器と打楽器の編成で奏する場合であって、木管楽器は含まない。ゆえに吹奏楽で良いわけだが、あえて横文字にするならば、ウインドオーケストラとか、ウインドアンサンブルになるだろうか。念のため記しておく。

なおすけの平成古寺巡礼 白水阿弥陀堂

今年は春があっという間に過ぎ去り、はや初夏の陽気。桜花の余韻に浸ることなく、若葉も青葉へと変わった。梅雨明けも早いと予想されており、関東は昨年冷夏であったが、どうやらこの夏は長くなりそうだ。 四月半ば、私はかねてから気になっていた福島県いわき市の古寺を訪ねた。そこは満々と水を湛えた蓮池があって、藤原時代の端正な御堂が絵の様に美しいところだと聴いていた。福島県で唯一の国宝建造物という白水阿弥陀堂である。友人のI子さんを誘って、東京駅から早朝の高速バスでいわきへ向かう。東北も桜前線の到達は早かった。たださえ温暖ないわき市ゆえ、花は期待していなかったが、駅を降りると、やはり東京よりも冷んやりとしている。ジャケットとベストを着ていても肌寒いくらいであったが、菜の花は今が盛りと咲き乱れ、山桜や八重桜は残んの花で迎えてくれた。躑躅は咲き始めといったところで、古寺へ向かう川筋は、花の色香に咽せる様であった。何処からともなく、雲雀や鶯が競うように鳴いている。図らずも今年の春爛漫は、このいわきの地で堪能することになった。

白水阿弥陀堂を知ったのは、五木寛之さんの「百寺巡礼」だ。私は五木寛之さんを愛読している。五木さんの人生観、歴史観、世界観、宗教観、語り口、そして何よりもその文章には強く惹かれるところがある。五木さんは終戦平壌で迎えて、幼い弟の手を引いて三十八度線を命懸けで越えた。それは筆舌に尽くせぬ、封印したい苛酷な戦争体験だ。五木さんはあの経験を生涯背負って生きている。五木さんの文章、語り口には、あの時止むを得ず現地に置き去りになった人々への贖罪と、自分を残して先に旅立った家族や友人への鎮魂の気持ちが溢れている。数々の五木作品は、自らの哀しい記憶を止めるためであり、同時に今を憂いつつ、私たちが過去を顧みて現代社会を生き抜いてゆくための道標のように私は思う。それは紀行文にも垣間見られる。五木寛之さんは偉大なる旅人だ。私は尊敬してやまない。五木さんの歩いた旅先には外れがない。その足跡を訪ねることも、私の旅になっている。数々の紀行文の集大成と言えるのが、「百寺巡礼」であろう。今から十五年ほど前、二年間で五木さんの選んだ百の古寺を訪ねる旅で、紀行番組としてテレビ放送もされた。魅力ある百の寺のいくつかを私も訪ねているが、そのひとつが今回訪ねた白水阿弥陀堂である。

 いわき駅から常磐線で一駅、内郷駅で降りる。駅から寺までは、のんびり歩いて三十分ほど。ちょうど良い散歩道だ。現在いわき市は、平成の大合併福島県最大の広い町になった。いわき市といえば、かつては常磐炭鉱で栄えた町である。その痕跡は町のあちこちに見られる。白水阿弥陀堂のすぐ近くにも、弥勒沢炭坑の跡があって、日本を高みへと押し上げてくれた常磐炭鉱の残照を見る様である。新川という小川に沿って住宅地を抜けると、低い山に囲まれた白水町広畑という集落に入ってゆく。周りは山というよりも、なだらかで少し高い丘陵といった感じだ。私が驚いたのは、この山の一座一座が、蓮の花弁に見立てられて、その中に寺が建立されているということだった。中に入ってあたりを見渡すと、成る程と実感する。昔の人は何という稀有な浪漫に溢れていたか。そして、それを本当に実行したのだから、凄いとしか言いようがない。やがて朱塗りの橋が見えてきた。これが新川に架かる阿弥陀橋で、橋の正面に経塚山という山があって、その麓にこじんまりとした美しい御堂が現れた。私たちは、この山里に静謐に浮かぶ御堂に感動して、溜息を漏らした。

広い池に囲まれた境内には、朱塗りの二本の橋が架かっていて、真ん中に小島を挟み、一番奥に阿弥陀堂が厳かに佇んでいる。この日は土曜日であったが、人は疎らで静かであった。時々、池の水面をそよ風がすうっと吹き抜ける。実に心地良いところだ。 藤原時代の浄土庭園は、宇治の平等院や、平泉の毛越寺などが有名だが、ここも地形を活かして巧みにつくられている。浄土庭園は、池を配して手前が此岸、奥が彼岸とされる。彼岸には阿弥陀如来を祀る御堂がある。私はこうした浄土庭園が好きで、方々訪ねている。殊に当尾の浄瑠璃寺や、金沢文庫称名寺は周囲の風景からして往時の面影を多分に残していて、昔の人の壮大な思想と宇宙観に触れる想いがした。白水阿弥陀堂もまた、新たに出会えた本当の浄土であった。 現在、白水阿弥陀堂は、真言宗智山派の願成寺という寺の塔頭で、寺の本坊は阿弥陀堂から西へ少し入った小高い丘の上にある。さらに南の山上に不動堂など山の坊があるが、やはりこの寺は阿弥陀堂と浄土庭園が中心だ。

平安末期にこの地を領した岩城則道という豪族に、奥州藤原氏から徳姫が嫁いだ。徳姫は藤原清衡の娘とも、秀衡の妹とも云われるが、確かなことはわからない。だが、奥州藤原氏の一族であることは、彼女が開基となったこの寺がよく示している。寺名はもとは白水寺と称した。白水は平泉の泉の文字を、二つに分けて名づけたという説がある。永暦元年(1160)、徳姫は急逝した夫の菩提を弔うため、阿弥陀堂を建立。堂宇は中尊寺金色堂、庭園は毛越寺の様式を踏襲した。本尊の阿弥陀如来像も中尊寺金色堂阿弥陀如来像とよく似ている。徳姫の夫の菩提を弔うのみならず、平泉への望郷の念が、阿弥陀堂とこの境内に揺曳しているような気配が漂う。寺の脇に常磐神社というささやかな社があり、徳姫が祀ってあるが、夫の菩提と平泉への望郷の他にも、徳姫には想うところがあった様な気がする。もしも源平合戦から奥州藤原氏の栄枯盛衰までをつぶさに見たとすれば、諸行無常を嘆き、奥州藤原氏滅亡の無念と、すべての死者への供養を阿弥陀如来に祈ったであろう。

阿弥陀堂は今は前面と両側面が池だが、かつては四周蓮池であった。あたかも蓮の中に浮かぶようで、蓮池の御堂とも呼ばれたという。夏の盛りにはたくさんの蓮が花開くというが、この日はまだ泥中で、枯れた蓮の葉の下からは、目覚めた蛙の大合唱が響き渡る。蓮はまことに仏教と関わり深い花だ。五木さんの本で知ったことだが、現在の白水阿弥陀堂の蓮は、彼岸側ではなく、此岸側に咲くということだ。五木さんは、今、私たちのいる此岸にこそ、泥中より咲く蓮華があるのではないかと言われるが、まったくその通りではないかと思う。阿弥陀如来は彼岸から慈悲深く見守ってくださっている。いつか「南無阿弥陀仏」と旅立つその時に、来迎くださる阿弥陀如来。しかし実は、現世を生き抜く私たちのすぐそばに、阿弥陀如来は蓮華とともにいつでもおわすのである。ここへ来てそれを実感することができた。中尊寺金色堂の発掘時に、八百年前の古代蓮の種が見つかり、見事に発芽し華開いたことは有名だが、その時の古代蓮が白水にも根分けされて、今、阿弥陀堂のすぐ傍で、盛りの頃に咲くのだという。この蓮だけが彼岸側にあるのも興味深い。

阿弥陀堂内部に入る。透かし彫りの飛天光背、九重の蓮華に座す阿弥陀如来は、藤原時代を代表する定朝様式に違いないが、線は幾分細く、体躯もがっちりではなく撫で肩で、まことにたおやかな印象である。金箔は剥落して黒々とした艶がでているところが、中宮寺弥勒菩薩の様でもあり、私は日本一艶美阿弥陀如来だと思う。脇待の観音と勢至両菩薩、持国と多門両天にも凛とした気品を感じる。仏師はいったい誰なのだろうか。都や平泉から呼び寄せたか、或いはこの地にも畿内や平泉に負けない仏師がいたのかもしれない。いずれにしろ、この地にも仏教文化がしっかり根差していたのは間違いない。この阿弥陀堂と堂内の仏像こそが、その証拠である。日本の阿弥陀信仰の第一次ブームは藤原時代である。白水阿弥陀堂の本尊も、その時代の最高傑作のひとつだろう。寧ろ阿弥陀如来像は藤原時代がピークであって、その後はさほどのものは出ていないと思う。その貴重な遺産が、今では蓮の咲く頃や、紅葉の時期以外はさほど訪れる人も少ない山里の阿弥陀堂にひっそりと安置されている。阿弥陀堂の内部は常行堂になっていて、かつては極彩色で彩られていた。格天井は宝相華、柱には十二仏、壁には極楽浄土が描かれていた。その一部が目も眩むほど鮮やかな色彩で再現されているが、往時、この御堂に辿りついた人々は、真に極楽浄土を見たのである。

およそ八百六十年も此の地にある阿弥陀堂は、奥州藤原氏の滅亡、岩城氏の衰退で存亡の危機に陥っても、地域の人々に大切に守られてきた。さすがに明治の廃仏棄釈では危うい時期もあったに違いないが、それも乗り越えた。しかし、明治三十六年(1903)台風で倒壊してしまう。それを機に、愛された阿弥陀堂は解体修理が行われ、茅葺だった屋根は柿葺の一種の栩葺(とちぶき)に改修された。東日本大震災では、倒壊こそしなかったが、このあたりは相当な揺れが襲い、阿弥陀堂も修繕が必要となったが、不死鳥のように復興した。きっと、いわき市福島県の人々にとっても、白水阿弥陀堂の復興は励みになり、喜びであったに違いない。東日本大震災では、老若男女、動物も植物も、山も海も川も、とてもつもなく恐ろしい経験をした。そして、夥しい数の人、動植物が亡くなった。その慰霊を東北の寺は一身で背負っている。この白水阿弥陀堂もまた然り。

今、いわき市は実に見所が多い観光都市である。陸奥三古関のひとつ勿来関美空ひばりの名曲みだれ髪の舞台塩屋埼、福島のベイエリア小名浜港と、そこに建つ巨大な水族館アクアマリンふくしまいわき湯本温泉もある。余談だが、競馬ファンには馬の温泉として知られている、競走馬リハビリテーションセンターもいわき市にある。怪我をした競走馬が、心身を癒す温泉完備の施設だ。炭坑で大きくなった町は、炭坑閉山とともに寂れかけたが、いわきの人々は見事に県内随一の観光都市に生まれ変わらせてみせた。その最大の功績は、何と言ってもスパリゾートハワイアンズだろう。かつての常磐ハワイアンセンターで、このリゾート施設のおかげで、いわきは有名になった。さらに、そのハワイアンセンターと炭坑が舞台となった映画「フラガール」がヒットし、全国区に押し上げたのである。フラガールたちの活躍は、東日本大震災の復興にも一役も二役も買っている。 いわきも福島。辛抱強く、粘り強く、逞しき人々なのである。我々は見習わねばならない。

帰り道、阿弥陀堂のすぐ近くに震災の仮設住宅を見つけた。実に簡素に作られた住宅には、今は人の気配はしなかった。ここから北へ数十キロに、福島第一原発がある。震災から七年を経ても、あの出来事は生々しい記憶だ。この地の人々はそれを目の当たりに体験し、原発周囲の人々をもっとも多く受け入れてきた。ほんの少しずつではあるが、この町を離れて、元の家へ帰っていく人、福島を離れてまったく知らない土地へ移る人。今、動き出しているところもあると聴くが、あの日以来、すべてが止まってしまっている人もまだ大勢いるのだ。そして現場では終わりの見えない廃炉作業が続いている。私たちは、目の前の暮らしで精一杯の人がほとんどであることも事実だ。が、心の片隅にでも忘れてはいけないことがある。震災や戦災の記憶である。それを引き摺ったままの人や町があることを忘れてはならない。福島県いわき市白水阿弥陀堂を訪ねて、その思いを噛み締め、心新たにした次第である。次は、蓮の花が咲き誇っている頃に、ぜひとも訪れてみたいと思う。

こいのぼり 

少年の頃、端午の節句になると、私は空ばかり眺めていた。こいのぼりが大好きだったから。何故好きだったのか?明確な答えはない。まことに漠然としているが、力強く空を泳ぐこいのぼりに、私も金太郎のように掴まっていたいという想いを抱いていたのではないか。人は誰でも一度や二度、大空に憧れるであろう。空を飛べない人間の究極の欲望とは、つまるところ舞空なのだと思う。人が鳥、雲、星、飛行機に憧れるところを、私を空へと誘うのはこいのぼりであった。

小学三年生くらいまで、こいのぼりを揚げることを楽しみにしていた私を、親や祖母は幼稚であると嘆いた。それに世間体も気にしたのだろう。世間一般にこいのぼりは、男子が産まれてから五歳くらいまで揚げるもので、小学生になっても揚げる家などないからだ。しかし私は気にしなかった。そんな私を祖父だけは許容してくれた。祖父の家は広い庭があって、好きなところにこいのぼりを揚げることを許してくれた。当時祖父は、少しばかり山林も所有していたから、山へこいのぼりを揚げる竹を伐りに連れて行ってくれた。こいのぼりを揚げるには、かなり太く長い竹が必要である。近年では、鉄やステンレスの棒で代用するようだ。その方が竹よりも頑丈だが、やはりこいのぼりには昔ながらの太い節のある青竹が似つかわしい。祖父は鉈を持って、器用に山へ分け入った。そして毎年見事な青竹を見つけてくれた。おそらく祖父は、杣道の手入れも行なっていたに違いない。祖父との山歩きは、こいのぼりを揚げるのをやめても、中学一年くらいまで続いた。懐かしく楽しき想い出だ。

伐ってきた青竹のてっぺんには矢車を嵌め込む。矢車は、風車のように回転して格好良いが、別になくても良い。矢車は時に、吹流しやこいのぼりを巻き込んでしまうこともあって、そうなると滑車で降ろすことができなくなる。仕方がないから、節句が終わるまで放っておくか、いったん竹を倒して縺れを解くしかない。戦後の日本のこいのぼりは、概ね一番上に吹流し、順に真鯉、緋鯉、その後は子供の鯉を揚げるのが一般的であろう。最近では金銀あったり、色とりどり、奇抜な柄やデザインも増えている。さらにはこいのぼりに家紋が入っていたり、金太郎がしがみ付いた真鯉があったり、こいのぼりの隣に武者幟を揚げる金持ちもいる。金持ちというよりも、おそらくは可愛い孫のために、祖父母や親戚が競って豪華なこいのぼりをはためかせるのであろう。それこそが自慢であり、愛情の賜物といえよう。母に聞いたが、私も生まれた時に揚げてもらったこいのぼりは、真鯉が七メートルもあって、緋鯉、子鯉もたくさん連ねたそうだが、残念ながら、物心ついた時にはそのこいのぼりは何処へか失くなっていた。私が小学生になって揚げていたこいのぼりは、あらためて買って貰ったり、人から譲って貰ったこいのぼりであった。

こいのぼりは何といっても真鯉である。真鯉は別格の存在であり、こいのぼりは真鯉だけでも良いのである。どの家でも真鯉だけは、特別なものを揚げたいはずだ。金色に輝く真鯉もあれば、鱗が鶴の錦模様になっているもの、先に述べた金太郎鯉もある。私がこれまでに見た一般家庭のこいのぼりで、もっともその豪華さで感動したのは、地元の某市長が孫のために揚げていたこいのぼりであった。私の家から目と鼻の先にあったので、毎日見に行ったものだ。こいのぼりを挟むように二本の家紋入りの武者幟があり、黄金の矢車に、鮮やかな吹流し、十メートルはある黄金の鱗の真鯉と、螺鈿色の鱗の緋鯉、その下に普通ならば真鯉であろう鶴の鱗の金太郎鯉、そこから下は子供の錦鯉が二筋に分かれて五匹ずつ、吹流しを入れたら十四匹ものこいのぼりは、幼心に焼き付いて離れない。あれほどの高さの青竹をどうして調達したのかもわからないが、その華麗さと、風を全身に吸い込んで大空を泳ぐこいのぼりに、私は恍惚とした。

鯉幟は我が国独自の風習である。端午の節句に揚げるようになったのは、江戸時代中頃からだという。元々は鎌倉時代に、武家の武運長久と嫡子の健やかな成長を願い、武者飾りをしたのが、日本での端午の節句の祝いの始まりとされる。今でも端午の節句には菖蒲湯に入る人が多いが、花菖蒲は端午の花であり、一説では菖蒲を尚武とかけ、菖蒲の葉を刀剣に見立てて、男子の節句になったとか。それが江戸期になってさらに発展し、庶民の間でも、雛祭り同様に端午の節句も盛大なイベントとなってゆく。鯉は滝を昇り、長寿で生命力漲る魚である。滝を登った鯉は龍になるとも云われた。鯉のように力強く、逞しく育って欲しいという願いが、鯉幟という形になって込めらていったのである。鯉幟は幕末までは江戸を中心に関東の風習であって、上方では武者飾りをし、柏餅は食べたであろうが、鯉幟が上がるのは明治以降、盛んになったのは戦後かもしれない。元来鯉幟は和紙で作っていたが、後に風雨に強い様々な布地になり、時代が降るにつれて絹などの高価なものも作られたが、今ではナイロンが主流になっている。が、やはり伝統的な和紙や絹で仕立てた鯉幟は美しい。日本の伝統美のひとつである鯉幟が、もう少し世に脚光を浴びるために、私なりにその素晴らしさを伝えてゆきたい。

広重の江戸名所百景「水道橋駿河台」は、まさに端午の節句闌の江戸市中が描かれている。目の前に逞しい真鯉がどんと描かれており、神田川の向こうは奥へ奥へずっと、武家屋敷や商家がこぞって鯉幟や幟旗を揚げている。そして最奥にはそれを見下ろす富士のお山。広重らしい大胆な構図と、見晴るかす圧倒的な空間美は、今に見ぬ和やかな江戸市中の喧騒が聴こえてきそうである。この絵をみていると江戸の薫風が漂ってくる。どこまでも広く高い江戸の大空は、見る者を捉えて離さないであろう。

端午の節句の江戸市中は、広重の絵の如く、まことに壮観であったに違いない。最近はどこへ行ってもこいのぼりを見かけなくなった。東京のようなビル群の只中では望むべくもないが、広い空のある田舎でも、私の小さい頃に比べたら、皐月の空も寂しくなったものである。こいのぼりは今、絶滅の危機に瀕しているといっても、決して言い過ぎではあるまい。新緑眩しい頃、日本の空には色鮮やかなこいのぼりが似つかわしい。こいのぼりが廃れないように、これからも影ながら見守り、私なりにその魅力を伝えていきたい。私のささやかな願いである。

青春譜〜吹奏楽の魅力〜

私は中学、高校と吹奏楽部に所属した。私にとっての吹奏楽は、人生でもっとも多感な時を、寄り添うように共に歩いてくれた影のような存在である。思春期、私は己が境遇を逆恨みしかけそうになった。だがそうさせじと、守り育ててくれたのが吹奏楽であった。本当にこう言って過言ではないのである。ありきりたりの言葉しか思い浮かばないが、私は吹奏楽に青春を捧げたのである。

予々書いてきたが、私は物心ついた時分からクラシック音楽に惹かれた。ピアノを習ったり、カラヤンに憧れて、ベルリンフィルのレコードを買って聴き惚れていた。クラシック音楽は誰の影響でもなく、自ら好きになった。南九州の田舎育ちで、当時は近くにオーケストラはなく、生で音楽を聴く機会は滅多になかったが、無心でレコードやCDを聴いたものである。管弦楽をライブで聴くのはずっと後のことであるが、吹奏楽との出逢いは早い。小学一年くらいの頃だと思うが、十歳以上年長の従兄弟が、高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いており、アンサンブルコンテストを見に行ったのをかすかに覚えている。が、従兄弟が演奏する光景のみ覚えていて、音楽はまったく覚えていない。同じ頃、今度は陸上自衛隊の駐屯地の祭に行った時、音楽隊のパレードや演奏を聴いた記憶があるが、当時は音楽隊よりも、間近で見た戦車の方に関心があった。音楽隊の方はなんとなく覚えているだけである。余談だが、自衛隊の音楽隊は大人になってからは親しく聴いている。競馬場でダービーや天皇賞の時にファンファーレを演奏したり、昼休みにはコンサートを行うからで、何度聴いたかわからない。競馬場にいる競馬ファンは、予想に熱中しており、音楽隊の演奏にはほとんど無関心だが、私はいつも楽しみに聴いている。小学五年頃、近くの中学の吹奏楽部が小学校の体育館で演奏会を開いた。さすがにこれははっきりと覚えていて、忘れることができない。普段、レコードやテレビで聴いたり観たりしていた金管楽器木管楽器が、目の前でキラキラと輝いている。楽器を見ているだけで、私の胸は高鳴った。そして、指揮者がタクトを振ると、楽器たちは物凄い音で私に迫ってきた。全身浴びるが如く。音楽を聴くとはこうしたことなのか。たかが中学校の演奏でも、当時の私にすれば心震わせる出来事だったのである。およそこれが音楽初体験で、少年の私は感動し、興奮した。その日以来、すっかり管楽器と吹奏楽に魅了されてしまった。

中学では迷わずに吹奏楽部に入部した。ブラスバンドとかブラバンと呼ばれて、カッコイイとも思っていた。中学では始めに先輩からパートを選んでと言われた。私はクラリネットかサックスを希望したが、男子はできれば金管やパーカッションをやって欲しいと言われた。パーカッションも魅力的であったが、どうせなら金管でメロディを奏でたいと思っていたので、トランペットを希望した。今では木管金管で男女の隔たりなどありはしないが、当時は田舎のこととて、木管は女子、金管は男子という暗黙があったように思う。それは肺活量も考慮してのことだったのかもしれない。かくして私の吹奏楽は、トランペットから始まったのである。しかし・・・。このあといろいろあるのだが、その事は次回に。

最近しきりに昔の事が思い出される。若い頃好きだった音楽を聴いて、追憶に耽ることも増えてきた。私も歳をとったものである。そこでふと考え始めたのが、私の青春とは何ぞやということだ。歴史や文学を私なりにやってきたが、それは私の人生そのものと思っていて、青春とは少し違う気がする。今、茶道にのめり込む日々を送っているが、それは四十を過ぎて始めたことで、若い頃に始めたら良かったと少しの後悔もある。私には青春などあったのだろうかと思ったりもしたが、よくよく振り返ってみれば、それはやっぱり吹奏楽であったと思う。いや吹奏楽しかないではないか。これからしばらく月に一度、青春譜と題して、私の経験した吹奏楽と想い出を、吹奏楽への想いを、吹奏楽の魅力を、多角的に存分に綴ってみたいと思っている。

桜花ふたつ

五年前に母の愛犬が死んだ。九年生きたチワワが盛夏に、その秋には十三年生きた柴犬が相次いで逝ってしまった。母はすっかり落ち込んでしまったが、二歳の孫娘と、チワワが死んですぐに生まれた二人目の孫の世話や心配に明け暮れる日々が続き、悲しんでばかりもいられぬ状況でもあった。孫たちが愛犬の死の悲しみを癒してくれたことも事実である。しかし、孫たちが成長し、手がかからなくなってきた最近は、再び長年可愛がっていた愛犬の事が頻りに思い出されるようである。時を経て癒されかけていた悲しみが、時折込み上げてくるのは、母が年老いた所為もある。さらに昨年、祖母も亡くなって、余計に寂寥感が漂い、何かにつけて愛犬の事も追憶してしまうのだ。孫が生まれてからは、「ろくに犬たちの世話をしてあげられなかった。」と言い、「あの時ああしておけばよかった、そうすれば死なずにすんだのかもしれない。」と思うこともあるようで、私は母からそういう話を聞くたびに、「あの子達はあんたには感謝しているはずだよ。ごはんをくれて、いつも傍で可愛がってくれたことをよく覚えているはずだから。」と慰めた。それでも母の気持ちは晴れずに靄っている様であった。母は愛犬二匹を懇ろに弔い、庭の日当たりのよい場所に墓を作った。カトリック教徒である母は、墓に十字架を立て、朝晩祈りを捧げている。昨年亡くなった祖母や、数年前に亡くなった祖父や母の兄に対する、祈りとまったく同じように祈るのである。やはり何年も可愛がっていた小鳥や、二十年以上前に私が飼っていた犬に対しても、同じように祈っている。思えば、母は私の身近でもっとも祈りの人である。決して敬虔なクリスチャンというわけではないが、もう三十年以上、どんなに体調が思わしくなくとも、朝晩の祈りを欠かさない。

愛犬の死の冬、母は彼らの墓に桜を苗を植えた。八重桜である。細い幹の桜の木は、成長も遅く、母の背を越すのに三年かかったが、この一年で急激に成長し始めた。今や背丈は二メートルほどになったと云う。桜の植木から、いよいよ桜の木になり始めたのである。しかし花はいつのことやら、この二月頃に電話で聞いても、「まだまだ咲かなそうだよ。」と言っていた。が、突如一本の枝の一部が鮮やかに赤くなり、蕾が現れたのである。四月に入ってからのことで、八重桜は大島桜やソメイヨシノよりも少し遅れて咲くが、母は今か今かと待ち焦がれていたので、まさに覚めても胸のさわぐなりけりといった心境ではなかったか。

この三月末から日本列島は相当に暖かい日が続いた。桜前線はあっという間に北上してゆく。東京のソメイヨシノも開花発表から三日で満開、花冷えもなく、一週間と持たずに散っていった。こんな年も珍しいが、パッと咲いて、サッと散りゆく花を名残惜しむ心地はやはり名状し難いものがある。一方で近頃の私は、桜の便りを聴くと、少し陰鬱な気分になる。花粉症のピークと重なることや、嫌いな暑い夏がやってくると思うと、うんざりするからだ。業平や西行のように一途に純粋な気持ちであれば良いのだが。

果たしてこの春、母手植えの八重桜はついに花を咲かせた。それもたった二輪だけ。その二輪がまことに健気に見えて美しい。まるで、五年前に逝った愛犬が二匹で寄り添うが如く、たった二輪だけ咲いたのだ。これには、母も私も深く感じ入ってしまった。私には霊能力など微塵もないが、実は今年なんとなく花が咲く予感がしていた。それは昨年、母の母である祖母が亡くなったからだ。亡くなった祖母が咲かせてくれそうな気がする。母にもそう言っていた。花が咲いてそれは確信になった。このところ体調不良が続いて、老いと向き合いながら生きている母への、祖母からの励ましに思えてならないのだ。きっと祖母が咲かせてくれたに違いない。

日本人は山川草木に神が宿ると信じ、花にも心があるとして生きてきた。白洲正子さんは、夕顔と云う随筆で、夕顔の蕾が花開く瞬間を観ようと、夕方からずっと観ていたが、ついに花は開かずに蕾のまま首ごと萎れてしまったと書いておられる。三日間試したが結果はすべて同じであったらしい。花は分かっているのだ。夕顔は淑やかな花なのだろう。故に人に見つめられていると、花は開かないのだ。桜にも心がある。今年咲いてくれたのも、祖母と二匹の愛犬が、桜に成り代わって母に逢いに来たのだと私は信じている。来年はもう少し数を増やして咲くであろうか。花の命もまた短い。今朝、二輪の八重桜は散ったと云う。