弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜ゴールド金賞〜

いよいよ明日から、日本の吹奏楽界最高峰の大会である全日本吹奏楽コンクールが開催される。吹奏楽コンクールは昭和十五年(1940)に創設されたが、戦争中は中断された。戦後、時勢ようやく落ち着いた昭和三十一年(1956)に再開された。今年で66回目、平成最後の吹コンである。今年は十月二十日が中学校の部、二十一日が高等学校の部、二十七日が大学の部、二十八日が職場一般の部の予定。中学と高校が名古屋国際会議場センチュリーホール、大学と職場一般は尼崎のあましんアルカイックホールで行なわれる。このシリーズを半年前に書き始めたが、あの頃に課題曲や自由曲の選定をして、地区大会、支部大会を勝ち抜いてきた学校や団体が、ついに最高の晴れ舞台へ上がるのだ。ここまで辿り着いただけでも素晴らしいことだが、ここまで来たら最高峰の中で一番の栄誉を得たい。さすがに全日本はどの学校、団体もハイレベルな演奏をする。時には中高生でもプロの楽団やオーケストラを彷彿とさせるし、聴衆を沸かせ圧倒する。私はここまで来ることは出来なかったが、皆の気持ちはとてもよくわかるつもりだ。ここにしかない眺め、ここでしか味わえない空気と緊張感、ここだからこそ響かせることができる音。それを存分に味わえる彼らが羨ましくてたまらない。

演奏する彼らはどんな想いで、あのステージに立つのであろう。確かに長い人生において、これまでの練習も、本番のステージも、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。でもあの時、あの場所で、あのメンバーで無我夢中となり演奏したことは、ほとんどの吹奏楽部員にとって、かけがえないのモノであり、此の世を生きる糧となっているはずた。それほどに濃密な時を、栄冠に向かって歩んできたのである。ゆえに青春なのである。私のその青春は高校生で終わったが、大学や一般団体でまた見たい、或いはまだ見ぬ高い景色を求め続け、毎年コンクールに出場している人もたくさんいる。それが勝ち抜けではない吹コンの面白さである。実は五年前までは、三年連続本大会に出場すると、翌年は予選すら出ることができないという悪しき慣習があったが、私はコンクールだって、自分がもういいと思うまで、何度でも大いに楽しんで良いと思っている。

コンクール出場団体のすべての演奏が終わると、少し時間があって、審査結果が発表される。当初は1位、2位、3位と順位をつけ、優勝旗が贈られたこともあったようだが、第18回大会から金賞、銀賞、銅賞で評価されている。支部によっては前年度に上位大会に進んだ団体にシード権を与え、地区大会や都道府県大会を免除し、支部大会からの参加を認めているところもある。また、上位大会への代表校選出も審査員が話し合いで決めたり、金賞団体から最優秀を選ぶ場合もあったりと統一感がない。全日本吹奏楽連盟には強い権限はないのだろうか。各地区で、コンクールとは別の優劣を競う大会が開かれたりもしている。支部や地区独自のカラーが出せるのは良い事ではあるが、それにより他の支部ならば選出されたかもしれない学校や団体があるかもしれず、評価に差が生じることはないのだろうか。少々疑問に思うところだ。コンクールの審査員は9人いて、技術と表現をA〜Eの5段階で評価し得点化する。その得点の上位順から金賞、銀賞、銅賞のいずれかの賞が決まる。ただし、9人の審査員のうち最も高い評価をした審査員と、最も低い評価をした審査員の評価は除外される。つまり最高点と最低点間の評価を行った7人の審査員の評価となるのである。公平性を確保するためにこの様な審査方法になったと云う。

大会会長の講評のあと、いよいよ審査結果発表。発表者は、金賞と銀賞を区別できる様に、金賞には頭にゴールドをつけて「ゴールド金賞」と読み上げる。私が吹奏楽部の頃は、金賞はA金賞、銀賞はB銀賞、銅賞はC銅賞と読み上げていたが、いつの頃からか「ゴールド金賞」となっている。この「ゴールド金賞」という声を聴きたくて、厳しくツライ練習を経て、あのステージに立つのである。「ゴールド金賞」が読み上げられた瞬間の、該当の学校や団体からの大歓声は、部外者である観客にとっても感動的な瞬間である。ここで全てが報われるのだ。今年はどの学校、団体が歓喜の「ゴールド金賞」を聴けるであろうか。吹奏楽部員にとっても、関係者や家族にとっても、そして私たち吹奏楽ファンにとっても、全日本吹コンの前夜は眠れない。が同時に至福の時でもある。

五月の回でも、吹コンとは中高生にとっては甲子園であると書いた。私が毎年、神無月になると心逸るのは、吹コンがあるからだ。吹コンが終わり、来月のマーチングコンテストが終わると、冬がやってくる。そして最上級生との別れもやってくる。続。

ほとけのみち 建仁寺

京都祇園。日本一の花街は、今や世界中にその名を知られている。京都を見たくば祇園へ行けとでも言わんばかりに、いつでもこの町には人が溢れている。祇園で働く人々は、この町を祇園町と呼ぶ。昔から京都には多くの花街が存在してきたが、今は五大花街といって祇園町、宮川町、先斗町上七軒、島原が往時の面影を残しているが、中で祇園町は最大最盛を誇る。かつては西の島原と東の祇園町で競い合ったという。しかし島原は幕末の大火で徐々に廃れてしまった。今では新撰組長州藩士の出入りした角屋などの茶屋が観光名所にはなっているが、花街としての存在感は祇園町には遠く及ばない。歴史は祇園町よりも島原の方がはるかに古いが、明治維新天皇が東京へ行幸され、連れて都人たちも東下すると、閑散とした京都は花街の灯も消えてしまった。だが、タダで転んでしまう京都人ではない。あの手この手を尽くし、明治も情勢が落ち着いてきた頃には、祇園町にはかつての活気が戻ってきた。その後は日本一の花街へと発展してゆくのである。祇園町はかつて、ほとんどが建仁寺や八坂神社の境内であった。時の政権や、政治情勢、宗教統制により寺社域は縮小されて、祇園町は拡大していった。

日本には延暦寺仁和寺建長寺寛永寺など時の元号を寺名とした寺がいくつかある。建仁寺建仁二年(1202)の創建。建仁はわずか三年しかない。その間に鎌倉幕府の取り巻きは目紛しい展開を見せる。源頼朝の急死で、鎌倉幕府は二代目の頼家が僅か十八歳で後を継いでいたが、母である尼将軍政子の傀儡であって、頼家には実権などなかった。もっとも始めのうちは頼家もはりきっていた。頼朝を凌ぐ独裁将軍を目指した頼家は、自分の信頼する家来以外目通りを許さず、御家人から反発を買ってしまう。事態を重く見た母政子は、北条氏以下の御家人を動かし、頼朝時代から続く重臣による合議制を復活させ、頼家の思う通りにはさせなかった。こうして執権北条氏が出来上がり、鎌倉幕府の体制は皮肉にも棟梁たる源家を差し置いて整備されていったのである。後に室町幕府八代の足利義政も東山に隠棲し銀閣を建立したように、頼家も忸怩たる思いをひた隠しにして、建仁寺を建立することにしたのではないか。六波羅探題の北にあるこの辺りの土地を寄進して、ちょうど南宋から臨済禅を修得し帰朝した栄西禅師に建仁寺を開かせている。或いは頼家は、世を疎い臨済禅に帰依し、自らも出家を望んだのかもしれないが、北条幕府はそれを許さなかった。失意の頼家は、比企能員の変によりわずか一年で将軍職を追われた。建仁寺をはじめ寺社寄進に心を傾けたが、建仁寺の完成を見ずに、元久元年(1204)、伊豆修善寺で死んだ。二十一歳であった。病死とも、毒殺とも、暗殺とも云われている。これがまた後にまで尾を引いてゆき、弟の三代実朝の死にもつながってゆく。

臨済宗建仁寺派大本山建仁寺は、京都で一番古い禅寺だと云う。境内に一歩足を踏み入れると、私が訪れた蒸せ返るような真夏の日とて、禅寺らしいピリッとした空気が漂っている。勅使門から池を越えて三門、本堂にあたる法堂、その奥に方丈。一直線に配された伽藍は、臨済宗の大寺院では馴染みの光景だが、いつ見ても洗心清浄の気分を呼び起こす。その原型がここ建仁寺にある。勅使門は平重盛か敦盛の六波羅邸の門を移築したものとかで、だとすれば平安末の遺構か。建仁寺の辺りを小松町というが、重盛は小松殿とも呼ばれていたから、平家滅亡後に六波羅を接収した鎌倉幕府によって、平家の供養も兼ねて建仁寺へ寄進したのかもしれない。左右対称の美しい三門は、静岡の安寧寺から移築されたもので、「望闕楼(ぼうけつろう)」という扁額が掲げられている。望闕とは御所を望むと云う意味だとか。裳階の付いた端正な法堂は、江戸中期の明和二年(1765)の再建。本尊は釈迦如来座像、迦葉尊者と阿難尊者が脇侍である。法堂内部に入ってまず目を惹くのは、天井の巨大な双龍であろう。建仁寺創建八百年を記念して、小泉淳作氏によって描かれた。一般に禅寺の法堂には龍が描かれていることが多いが、古色蒼然と歳を重ねた龍たちには、確かに禅堂の厳粛さを感じるが、建仁寺の双龍からは色彩の鮮やかなところからも、活力漲る若い龍が、あたかも競い合うように昇天してゆく様にただ圧倒されるばかりではなく、見る者を強い磁力で共に引き上げてくれそうな気配がある。動静を掴みづらい現代人は、ここでいったん始点に戻されるであろう。

建仁寺の伽藍は、京都一古い禅寺としての威厳を見せながらも、祇園町と宮川町という花街に寄り添うようにある姿に、一種独特の閑雅さを纏っている。それがもっともよく表されているのが、方丈であろう。方丈とは禅寺の住持の住まいのことだが、ゆえにどこの禅寺も個性溢れる空間となっている。建仁寺の方丈は、元は広島の安国寺にあったものを、慶長四年(1599)に安国寺恵瓊が移築したもので、室町時代の面影を存分に感じさせる。低く伸びやかな屋根は白鳥が翼を広げたような秀麗さ。方丈前の大雄苑と呼ばれる枯山水の白砂利が、さらにその白さを照り映えさせている。方丈の縁に腰を下ろしてみると、枯山水はあたかも本当の湖のようで、清冽な水音が聴こえてきそうである。方丈は五年ほど前に改修されて、屋根も創建当初の杮葺になったことで、いっそう優美な趣きとなった。昭和九年(1934)の室戸台風で方丈は倒壊し、安国寺恵瓊が海北友松に依頼した五十面の襖絵は、残念ながら掛け軸になってしまったが、雲龍図や竹林七賢図などは複写されている。複写とはいえその迫力には息を飲んだ。室戸台風の後、橋本関雪によって海北友松にも負けない圧巻の襖絵が描かれている。方丈奥の小書院には平成二十六年(2014)に、染色画家の鳥羽美花さんによって描かれた襖絵があり、これは必見である。淡い群青が少し入っているように見える「凪」、その反対側は一転して鮮やかな濃淡のコバルトブルーで描かれた「舟出」。水墨画の新境地を間近に触れた思いがして、絵心なき私でも感動した。ここにも動と静がある。

建仁寺には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」もある。風神雷神図は、元々は建仁寺末寺で右京区宇多野にある妙光寺に蔵されていたもので、京都の豪商で歌人でもあった打它公軌(うだきんのり)が、妙光寺を再興し、記念に親交のあった宗達に依頼したものである。今では本山の建仁寺が所蔵し、世界中に知られている。この有名な屏風について私が語ることは何もない。尾形光琳をはじめ多くの絵師が、風神雷神図を模写しているが、やっぱり私は宗達風神雷神図が一番だという思いでいる。まことに建仁寺日本画の一大美術館であり、中世から現代までの絵師たちの競演を楽しむだけでも、来て良かったと思うであろう。

禅はインドから宋に伝わり、宋によって教義が深められた。寧ろ日本に伝わる禅とは中国で生まれて、日本で育まれたと思う。やがて宋では臨済、曹洞、法眼、潙仰、雲門の禅宗五家にわかれ、独自の禅の世界を展開してゆく。中国禅の祖は達磨大師とされるが、その達磨の禅の継承者の一人が、達磨から三百年ほど後の臨済義玄である。臨済宗臨済とはこの坊さんの名である。江戸時代に白隠の法嗣の一人である東嶺円慈の著した「五家参詳要路門」には、「臨済宗は機鋒を戦わして親疎を論ずるを旨と為す」とある。機鋒とは切っ先のことで、親疎すなわち誰とでも機鋒を戦わすという、好戦的な禅であるが、無論本当に切っ先を交えるわけではなく、禅問答による交戦である。が、これが武家に好まれたことは納得である。禅は悟りを開くことを主眼とするが、禅語録を題として師から弟子へ、弟子から師へ問答を行う。これを公案と呼び、宋代に公案体系なるものがまとめられ、微妙に変化しながら継承されている。それはあくまで悟りであって、知識や論理ではない。日本の二大禅宗臨済と曹洞の大きな違いはこの部分であろう。曹洞は坐禅をしても何も考えない。只管打坐し、無我の境地へ入る。臨済公案を考えて坐禅する。しかし、目指すところはどちらも同じで、悟りなのである。事実道元も、若い頃には建仁寺で修行していた。

日本の二大禅宗は、臨済宗武家が天下を掌握する鎌倉幕府以来代々の天下人の帰依を受けたせいか、敷居が高くて、ましてや五山制度ができると、なおさら高尚な色合いが強く出ていた。一方の曹洞宗武家から庶民にまで末広がり、臨済宗に比べると簡素で入りやすい印象がある。建仁寺京都五山の第三位とされる。改めて述べることもないが、五山とは寺格のことで、もともとは中国で五山制度ができ、日本では鎌倉時代北条貞時がそれに倣い臨済宗の五山制度をつくった。だがこの頃や南北朝時代までは、大徳寺臨川寺が入ったり出たりと曖昧であったが、足利時代になり、尊氏が建立した天龍寺と、義満が建立した相国寺が加えられ、というよりも尊氏や義満が権力にモノを言わせて推し進めたことで、現在の臨済宗五山が確立し、南禅寺を別格として、以後は不動となった。

五山の上 南禅寺

京都五山     

第一位 天龍寺 第二位 相国寺 第三位 建仁寺 第四位 東福寺 第五位 万寿寺

鎌倉五山

第一位 建長寺 第二位 円覚寺 第三位 寿福寺 第四位 浄智寺 第五位 浄妙寺

五山制度は確かに権門と癒着して寺格を保ち、勢力を広げたが、一方で五山文学など禅林文化、文芸の発展、また漢文学の研鑽や外交文書の起草などにも大きく貢献したことも事実である。 建仁寺もそうした大学や研究機関としての役割を担っていた。それは栄西が開山した当初からで、天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。が、これは多分に当時の日本仏教界の勢力図が現れていたからであろう。創建から五十年ほどして蘭渓道隆建仁寺に入ると、鎌倉幕府の後ろ楯もあり、兼学ではなく純粋な禅堂となる。

さて栄西について触れねばなるまい。明菴栄西は永治元年(1141)、備中国吉備津神社権禰宜の子として生まれた。神官にはならず、八歳で父の薦めで倶舎論を読み、十一歳で吉備の安養寺に入り、十四歳で出家し比叡山へ登る。叡山では天台教学を学び、さらには伯耆大山寺へ登り密法を修養した。以後は叡山と吉備を往来しながら、博多へも赴き商人李徳昭から宋国の禅宗について聞いた栄西は入宋を志して、あらゆる伝手を頼りながら、仁安三年(1168)ついには平家の庇護のもと入宋を果たした。彼の地では後に東大寺再興に尽力する重源と出会い親交を深めた。ともに天台山へ登り、多くの天台教学を学び、重源と同航して帰国した。叡山で栄西を見込み育てた天台座主明雲は、平家と癒着し、平家滅亡後、後白河院木曽義仲討伐を企てるも失敗、義仲によって捕縛され斬首された。栄西は最大の理解者と庇護者をいっぺんに失うも、ここからが彼のしたたかなところで、治天の君たる後鳥羽院に巧みに取り入り、神泉苑での雨乞い祈祷を成功させ信頼を得、紫衣まで賜った。前回の入宋では天台教学を学ぶも、半年間と短期滞在であり、そもそも禅宗に心惹かれていた栄西は、どうしても再度入宋したかった。そしてこの機を逃すまいと、文治三年(1187)、四十七歳で再び入宋する。今度こそ禅を学び、臨済禅に辿りつくのである。インドにも行こうとしたらしいが、さすがに叶わず、結果宋国に五年間滞在し帰国。帰りの船中での栄西を想像するに、禅宗の本場宋国で過ごし修養した己に対して、並々ならぬ自信を携えて、意気揚々とした気分であったに違いない。風と波しぶきを蹴る船の舳先で腕組みをし、帰国したらどう臨済禅を広めようかと考え込む栄西の姿が目に浮かぶようである。こんなに行動力があり、実行に移すのはこの時代は僧侶くらいのもので、重源とて似た様なものだ。成功した僧侶は、皆、絶大なるスポンサーを得ている。空海の時代からそうであった。スポンサーもまた彼らには投資しても余りある価値を感じていたのであろう。

帰国した栄西は、空海がそうしたように九州に滞在するが、やがて上洛して「興禅護国論」を著して、後鳥羽院に奏上する。「興禅護国論」には、これまで天台や真言等の修行のひとつと考えられてきた禅を、新しい仏教宗派であると主張するもので、禅宗の独立宣言とも云われる。禅は釈迦の時代からの中心教義であり、インドや宋国で盛んである禅を、日本にも広めて、国家安泰にせねばならないと力説する。禅宗はすべての仏道に通じ、禅を日本の国教とするべきだとまで言った。栄西は、日蓮と同じ様な強硬な姿勢で権門に切り込んでゆく。しかし後鳥羽院の反応はあまり良くなかった。そうと知るや、栄西はすぐに鎌倉へ赴き、直に頼家や、北条政子への取り入りに成功する。鎌倉幕府からの帰依をうけて、幕府や東国の御家人武士のための新しい仏教として、日本の臨済宗は開かれていった。その最初の拠点が鎌倉の寿福寺であり、京都の建仁寺である。栄西は他の宗派の開祖と違い、あまり尊崇されていない印象があるが、それは後に臨済宗が今に連なる多数派に分かれていったことが起因しているのかもしれない。また、空海ほどのカリスマ性はなく、あくまで臨済禅の伝道者であり、栄西自身もそのように生きたからであろう。しかし、日本臨済宗の祖であることは事実である。建保三年(1215)七十五歳で入滅。日本各地を行脚し、二度の入宋、臨済禅の布教に努めた満ち足りた生涯であった。

栄西には臨済宗の確立の他に、もう一つ大きな仕事がある。それは茶の普及である。仏教伝来の頃から我が国でも茶は飲まれてきたが、それは団茶などの発酵茶であって、現在私たちが飲む茶とは色、香り、味わいが異なるものであった。しかし、あまり日本人好みではなかったようで普及はしなかった。緑茶は中国でも飲まれていたが、日本人が緑茶を愛飲するようになるのは、栄西が広めてからである。緑茶はまったく日本の風土、気候、水に適し、日本人の風習、味覚、嗅覚にピタリと合った。緑茶といって現代の我々が想像するのは煎茶であろうが、この頃は碾茶であった。碾茶をひいたら抹茶になる。栄西は宋の禅堂で茶が眠気覚ましとして飲用されていることに感心し、栽培法を学び、帰国時に苗を持ち帰った。そして建仁寺で飲用を始め、広めていった。親しく付き合った栂尾高山寺の明恵にも茶を薦め、明恵もすっかり茶の魅力に惹かれて、高山寺で栽培するようになる。そこから、宇治へと栽培地が広がり、京都は茶の一大生産地となるのである。

栄西は「喫茶養生記」を著して、茶には覚醒作用のみならず、様々な薬効があることを懇切丁寧に解説している。栄西は鎌倉三代将軍実朝に喫茶養生記を献上。鎌倉でも喫茶の習慣は広がり、茶は禅宗と権門との絆となって、やがて室町時代から安土桃山時代にかけて茶の湯文化が大成されてゆく。方丈の裏手には、秀吉の北野大茶湯ゆかりの茶席「東陽坊」が移築され、静謐な佇まいで建っている。建仁寺では栄西の誕生日である毎年四月二十日に四頭茶会が開かれる。これは古式に則った禅宗の茶会で、四人の正客が各八人の相伴客を連れて席入りする。まず、栄西禅師へ焼香と献茶が行われ、抹茶の入った天目茶碗が客に配られる。供給僧(くきょうそう)と呼ばれる雲水たちが、浄瓶(じんびん)というティーポットのような口の細長い金属製の瓶を持ち、注ぎ口に茶筅を指して入ってくる。正客から順に湯をついで、立ったままで茶を点てるのである。私は映像でしか拝見していないが、茶の湯の原形ともいえるこの茶会にはとても関心がある。四頭茶会は建長寺円覚寺など他の禅寺でも時期や主旨を別にして開かれている。禅堂の茶に対する親しみと敬意が込められたこの密やかな茶会に、いつか参加させていただきものである。不束ながら私も週に一度は茶の湯の稽古に通っている。私にとって建仁寺茶の湯文化発祥の寺として極めて大切な場所。

栄西禅師曰く「茶也末代養生之仙薬、人倫延齢の妙術也」〜喫茶養生記冒頭より〜

この言葉に忝ない想いを致し、私はこれからも茶道に邁進したいと思う。

ほとけのみち 智積院

空海真言密教は、現在は多くの派に分かれているが、中でも大きいのは十一派ほどである。その一つ真言宗智山派は、百五十万人を超える信者と三千近い末寺を抱える。智山派といえば、成田山新勝寺川崎大師平間寺高尾山薬王院大本山が有名であるが、総本山は京都東山の智積院である。関東では総本山よりも三つの大本山の方がはるかに知られていて、庶民信仰の聖地として賑わう。私も三大本山は幾度も参詣してきたが、智積院の門を潜るのは今回が初めて。智山派総本山の智積院がどんな寺で、信徒や関東の大本山からみればどんな存在なのであろうか。

日本仏教は、どの宗派も紆余曲折の歴史を経て今に至るが、真言宗空海入定後は迷走し、混沌とした時代があった。それは空海という存在があまりにも大き過ぎたことが、最大の要因である。空海の前に空海はいなくて、空海の後にも空海はいない。真言密教において入定とはすなわち、永遠の瞑想に入ることを意味する。空海自身、釈尊入滅から五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現出するまでは、高野山奥の院弥勒菩薩の浄土たる兜率天を往来し、衆生救済にあたると言って入定した。故に日本の今に在る真言宗とはほとんど空海密教であり、弘法大師を尊崇する大師信仰が主である。空海以後に宗教家としての指導者は生まれるはずは無く、現れる必要もなかった。が、少なくとも徳川時代までと、明治の廃仏棄釈を含めれば一進一退、離合集散を繰り返してきたことで、組織を牽引し改革するリーダーは折々にいた。

覚鑁は、現在につながる真言宗において中興の祖といえる存在である。肥前鹿島の地侍の子に生まれた覚鑁は、九歳で修行を始め、十三歳で上洛して、御室仁和寺成就院にて正式に仏門に入った。さらに南都へ行き、興福寺東大寺でも学んだが、空海真言密教に並々ならぬ関心を抱いていた覚鑁は、即身成仏を信じ、自らも空海大日如来と一体化することを念願した。そして二十歳で高野山へ登った。往生院に身を寄せたが、高野山にとどまらず、仁和寺醍醐寺三井寺など方々で師について、東密台密を学び、真言密教や加持祈祷を修した。真言密教は朝廷や時の権力者の尊崇を得て大きくはなったが、天台宗に比べて密教理論の研究は遅れていた。天台宗最澄亡き後も、円仁や円珍などの優れた後継者により、天台密教の研究と延暦寺の増力が進んだが、先に述べたとおり、真言宗空海が偉大すぎたために後が続かなかった。図らずも、袂を分かつことになった平安仏教の両雄が遺したものは、最澄は人と日本仏教であり、空海は即身成仏と真言密教であった。

覚鑁は早くにこのことに気づいていたに違いない。高野山へ戻った覚鑁は大いになる自信と野望を抱き、政治手腕と宗派の経営手腕を発揮した。時の専制君主たる鳥羽院の絶大な帰依を受け、高野山密教の大学の様な大伝法院と、念仏堂の密厳院を建立し、ついには金剛峰寺の座主になった。が、この大伝法院と密厳院の建立が火種となり覚鑁高野山を追われるのである。覚鑁はいろいろなところで、いろいろな師について、真言密教のみならず、浄土信仰の念仏も学んで、高野山ではその経験と学識を活かし、真言念仏の道場を開くことに心血を注いだ。大日如来阿弥陀如来を同名異体とし、真言宗から浄土宗を教理づけるものである。さらには空海という巨星に胡座をかいて、権力との癒着も公然となりつつある真言密教へ再び空海真言密教を取り戻すべく、覚鑁真言宗の立て直しを図るが、何時の世もどんな組織にも抵抗勢力はいるもので、金剛峰寺の在学僧らの反感を買い、覚鑁一派は高野山から追放されてしまう。覚鑁が金剛峰寺の座主となりわずか二ヶ月のことであった。いくら鳥羽院の後楯があったにせよ、覚鑁もまた空海回帰と称して強引に急ぎすぎた感がある。巨星を追い求め、それがやがて覚鑁自身の理想の仏教となり、真言宗のみならず真言密教の広大無辺な境地を持って、比叡山に代わる日本仏教の総本山を目指したのではなかったか。下野した覚鑁は、紀州根来の地に開いていた神宮寺に移り、四年の後の康治二年(1143)に亡くなった。享年四十九であった。

こうして、紀州の神宮寺は根来寺となり、東寺や高野山古義真言宗に対して、新義真言宗という一派が形成された。戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、六千人の僧侶、寺領七十万石と拡大した。智積院はこの根来寺の学坊の一つで、もう一つの妙音院と双璧の学頭であった。天正年間には、智積院を率いた玄侑と、妙音院を率いた専誉の二派に分かれ、前者を客衆、後者を常住衆と呼んだ。これが後に智山派と豊山派となるのである。 畿内の一大勢力となった根来寺は、天下統一目前の秀吉から疎まれ、天正十三年(1585)に攻められる。玄侑と専誉は衆徒を率いて高野山へ逃れた。玄侑はしばらく醍醐寺神護寺などへ移りながら、鳴りを潜めたが、秀吉が死ぬと、家康から許しを得て京都北野の地に智積院を再建した。

関ヶ原合戦の翌年の慶長六年(1601)に、東山七条の豊国神社の付属寺院と寺領二百石を与えられた。さらに豊臣家滅亡後の元和元年(1615)には、秀吉が創建した祥雲寺と、豊国神社の 境内、堂舎、宝器具のすべての寄進を受けて、智積院は京都に於ける新義真言宗の拠点として整備されていったのである。奇しくも秀吉に攻め込まれた根来寺は、京都の豊臣家の聖地を飲み込む様にして拡大したわけである。智積院背後には東山三十六峯の阿弥陀ヶ峰があり、ここに秀吉は眠っている。徳川幕府は豊臣家の遺構封じも兼ねて、敢えて此の地を与えたに違いない。明治の廃仏棄釈では智積院も波を受けて、往時からは相当に縮小され今の寺域となった。古義真言宗新義真言宗は統一され真言宗として、高野山、東寺、智山派、豊山派の四本山から管長を出したが、明治三十三年(1900)に真言宗智山派として独立、戦時中再び統一されたが、戦後はまた独立して今に至っている。

智積院三十三間堂の東、七条通りの坂上にあり、門前からは京都タワーがよく見える。長い武骨な石垣や総門は、京都にあって武家風の感じが色濃い。広々とした境内は観光客も少なく爽快である。祇園祭が始まったばかりの京都は息苦しい蒸し暑さであったが、智積院の境内へ一歩踏み込めば、涼風が吹いてきてホッと一息つける。智積院は花の寺である。春の桜、秋の紅葉はもちろん、私の行った日は、正門から本堂まで誘うように桔梗が並び咲いていた。桔梗は智山派の宗紋なのである。明王堂の真下の蓮池には蓮華が咲き誇り、本堂裏手の紫陽花の群落も蟬しぐれの中、残んの花を魅せてくれた。講堂奥の書院には池を配した美しい庭園がある。高低差を利用した庭は変化に富み、刈り込まれた躑躅は盛りの頃は見事であろう。池には一羽の大きな青鷺が、まるで石の彫刻のように微動だにせずに立っていた。

智積院には数多の寺宝があるが、何と言っても長谷川等伯と久蔵親子の襖絵は必見。今は収蔵庫にあるが、間近で鑑賞することができる。長谷川等伯は天文八年(1539)、能登国七尾で、当地を領した畠山氏に仕える奥村宗道の子として生まれた。下級武士の奥村家の経済事情はよくなく、幼い等伯は親戚を介して、染物屋の長谷川宗清の家に養子に出された。等伯は染色を通して色や絵柄に親しみ、絵心も備わっていた。幸か不幸か家庭環境が複雑ゆえに天才を育んでいったのだろうし、神仏はそうした等伯に天賦の才能を与えた。青年になると日蓮宗寺院の仏画や人物画を描いて、その腕は能登国では有名になりつつあったが、其処に飽き足らない等伯は、養父母の死を機に、己の求める絵の追求のために、四十一歳にして家族を連れて上洛する。当時の四十一歳といえば、もはや隠居して余生を楽しむ頃だが、等伯の絵に対する情熱と執念こそが、絵師の真骨頂なのであって、長谷川等伯という巨人はこの時に誕生したのである。やはり京都で勝負したいと強く思ったに違いない。長谷川等伯は、当時御用絵師集団として圧倒していた狩野派に対し、まったく独自の画風を確立した。一時は狩野派に入るも、そこに己の求めるものはなく離脱、伝手を頼り本法寺の日通と知り合い、都に腰を据えて絵を描くことに専念できた。その評判が広がるのにあまり時を要していない。日蓮宗寺院に関わらず方々の寺から仏画肖像画、襖絵などの依頼があり、長谷川等伯は京都でも人気の絵師となった。この頃には息子の久蔵をはじめ、弟子というか狩野派に対して長谷川派のような絵師一派ができつつあったが、等伯自身は絵師集団を組織することには、あまり関心を示さなかったように思う。また、堺出身の日通からは千利休を紹介されて親交を深めていった。本法寺から程近くの表千家不審庵には等伯の描いた「利休居士像」が蔵されているが、茶人としての風体、気品に満ちたその表情から、今や私たちがもっとも千利休を思い浮かべる像であろう。まるで狩野派に挑む様な等伯の絵は、能登から京へ来て、色やモチーフが格段に増え、画風は広がりをみせた。京都中にその偉大なる足跡を残している。智積院にあるのは先にも述べた元この地にあった祥雲寺の襖絵で、「楓図」、「雪松図」、「松に秋草図」、「松に黄蜀葵図」、「松に草花図」、「松に梅図」である。いずれも秀吉の命により描かれた。この頃には天下人にも狩野派と対を成す絵師としてその存在を認められ、等伯は絶頂を迎えた。

智積院には等伯の息子久蔵の「桜図」も残る。等伯は久蔵の絵を眺める時、確かに我が子の絵であるとしみじみ思ったであろう。それほどに等伯と見紛う筆致である。が、よくよく見ると、等伯より深慮で繊細な印象である。その中で桜花はぼうっと浮かび上がる夜桜の如く柔らかで、実に優しい。いかに若い久蔵とて一端の絵師。存分に自分の絵を追求したかったであろう。久蔵はこの「桜図」を描いたあと、わずか二十六歳で夭逝した。いわばこの絵が、彼の咲かせた一代の花であった。実はこの「桜図」と、等伯の「楓図」は「桜楓図」という一双の屏風で、父子合作の国宝であるが、本当は久蔵がすべてを描くつもりだったのではないか。久蔵が病に倒れて、描ききれなかった楓を等伯が描いたのかもしれない。等伯を踏襲し長谷川派の次の棟梁として周囲からも一身に期待を集めた久蔵だが、誰よりも等伯が久蔵に期待していたであろうし、成長してゆく息子を見ているのが何よりも嬉しいことであっただろう。久蔵の死に等伯は堪えた。そしてあの絵を描いた。等伯のもっとも有名な作品のひとつ。六曲一双の「松林図屏風」である。あの寒々しい風景はどうしたって能登の風景に違いないが、一切をそぎ落とし、余白に美を見出そうとしたのは、絵師としての己の越し方行く末を思いながらも、何よりも愛息を失くした深い哀しみが揺曳していると思う。ここに至り等伯は、絵師から父になっていた。

 智積院は圧倒的な量感の金堂を中心に、明王堂、大師堂、密厳堂、講堂、宿坊でもある智積院会館などが曼荼羅図の様な配置で建っている。いずれもかなり大きな造りで、非常に開放感がある。関東にある三大本山はいずれも骨太の庶民信仰が根付く寺として、その佇まいにもそうした雰囲気が現れているが、ここ智積院はさすがに京都にある総本山らしく、どこか雅やかな趣きを兼ねている。金堂の裏手から阿弥陀ヶ峰へとゆったりと登っている。紫陽花園の奥には、山の斜面を利用した墓地があった。本堂を見下ろして在る無数の墓碑は、智積院や智山派の僧侶の墓で、立て札にはほとんどが病で早世した修行僧の墓だと記されていた。徳川時代半ばになると、智積院では講学が隆盛し、ここで学ぶ僧侶は三千人以上、学寮も六十を越えた。新義真言教学にとどまらず、唯識、倶舎、印度哲学、国学、漢学、天文暦学、算術、兵学などの講義も行われ、智積院は総合大学であった。仏門、宗派、智山派は組織であり、智積院もまた組織である。この場に葬られている墓碑の一石一石を眺めていると、日々厳格な修行に励んでいた若い僧侶の面影が時空を超えて浮かんでくるようで、何とも切ない想いに駆られた。志半ばで倒れた彼らは、二十一世紀の日本をどんな気持ちで見ているであろう。

 

青春譜〜楽器は宝〜

私が中一でクラリネットを吹き始めて半年、憧れのパートリーダーであるT先輩は卒業していった。卒業を前に、三年生を送る定期演奏会が開かれ、私も先輩と最後の合奏をした。私自身はまことに拙い演奏ではあったが、クラリネットの魅力を存分に教えてくれたT先輩と合奏できることに喜びを感じ、最後だと思うとさみしくてたまらなかった。同時に心から感謝した。T先輩は引退しても時々声をかけてくださり、私たち後輩には励みになった。私はT先輩が使っていた譜面台を引き継いで、ますます練習に気合いが入ったものだ。T先輩は楽器を大切に扱うことを、繰り返し厳しく教えてくれた。演奏家にとって楽器は命の次に大切な物だ。それは中学の吹奏楽部員にとっても同じである。とことん慎重に扱い、日頃から丁寧にメンテナンスをする。今思えば、この事がT先輩から何よりも一番に教わったことであった。先輩は定演後の謝恩会でも、親や学校から授かった楽器を大切にしてくださいと言った。楽器は宝である。

人は太古から音楽に親しんできた。日本人も日本ならではの楽器を発明した。弦楽器、管楽器、打楽器が様々な形で今日まで伝わっている。今日まで伝わっているのも、楽器が宝物として大切にされてきたからだ。大切にされたのは、いにしえの人々にとって楽器は、歌舞音曲を楽しむのみならず、魔除けや呪詛にも使われたからであろう。楽器には霊力が宿ると信じていたに違いない。宮中で邪気を祓う呪いとして、弓の弦を鳴らして行われた鳴弦の儀(めいげんのぎ)や、音の鳴る鏑矢を四方に放つ蟇目の儀(ひきめのぎ)も、その一種か或るいは原型とも云えよう。東大寺正倉院は古代楽器の宝庫である。それらを目にするだけで、天平時代の音や人の声までが聴こえてくるようである。殊に美しい螺鈿細工が施された弦楽器は、妖艶な輝きを放っていて、楽器と工芸品の域を超越した神秘を湛え、見る者の心を捉えるであろう。果たしてどんな音がするのであろうか。私はまだ聴いたことはない。

吹奏楽では西洋で生まれた楽器を用いるが、龍笛、篠笛、尺八などの和楽器と通ずる管楽器は多い。フルートやピッコロ、そしてクラリネットもまた和楽器と近い音色を出せる。私が吹奏楽を始めたきっかけのひとつが、きらきらと光る楽器の美しさに見惚れたからである。木製であるクラリネットとて、手入れしだいでは艶と輝く。コンサートホールではライトに照り映えて、クラリネットは漆黒の輝きを放つのである。あれをいつか手にして奏でてみたいと少年の日の私は願った。中学でその願いが叶った時はうれしくもあり、また震えるほどに緊張もした。 クラリネットを吹くことは、ただ音を出して、譜面を奏でるだけではなくて、あの日あの時の己の声そのものであったと思う。楽器には演奏家の声も宿るのである。等身大の自分の分身ともいえる存在。それが私にとってはクラリネットであった。だからこそ大切にしたい。毎日の手入れは欠かさず、練習後は手垢ひとつ見逃すことなく磨き上げた。私のクラリネットは同じパートの誰よりも輝いていた。クラリネットパートは私の他は皆女子であったが、私ほどクラリネットを愛していた者は当時いなかったと思う。私には楽器は宝であり、物を傷つけずに、丁寧に扱うということを教えてくれたのもまた楽器である。おそらく吹奏楽部員は皆同じような思いでいるはずだ。楽器に対する想い、情熱、畏敬はプロの演奏家とほとんど変わりないだろう。続。

荒ぶる天地神明

今夏の日本列島は凄まじい。ここ何年も異常気象であるが、今夏ほど同時多発で天変地異が起こることも、私の記憶ではない。酷暑、豪雨による大洪水、猛烈な台風、そして北海道の巨大地震。記憶にないと言ったが、思い出せば七年前の東日本大震災の時も、一月に新燃岳の噴火や、東北の巨大地震の翌日には長野県でも大地震があった。私は地震学や気象学のことはさっぱりわからないが、地球の地殻変動と、大気の状態、さらには潮の干満というのは、すべてが歯車のように連動していることは信じている。この星自体がひとつの生命体であり、我々はその母体に寄生しているに過ぎない。生命の誕生と死滅が、潮の干満と密接に関わりがあることからしても、この星の一部として生かされ、生きているのだと思う。

しかしよくよく考えてみれば、この星にとって人間ほど必要のない存在はあるまい。地球にとって人類とは癌細胞なのではないか。確かに人類は、現時点において地球上で最も高度な頭脳を授かり、それを有効かつ便利に用いることに成功したかもしれない。あたかもこの星の王として振舞い、我が物顔で支配した様に錯覚している。この頭脳は神から授かりしものか、悪魔からの入れ智慧なのか。真相はますますもって混迷してきた昨今、いよいよこの星は、病源たる人類の駆逐に乗り出したのやもしれない。

このところの大きな災害に遭われた方々、残念ながらお亡くなりになった方には心からお見舞いと哀悼の意を捧げたい。が、不謹慎であるとわかって、あえて申し上げたい。今、この星は怒っている。我らには想像出来ない自然災害も、地球にとっては、解毒剤を服用し、大手術を施しているのかもしれない。その治癒にはかなりの痛みも伴う。或いは、我らの天と地の神々は祟りとなってしまったか。それとも悪魔や鬼がいよいよ降臨し、せせら嗤いながら、我らを食し始めたのか。人間文明がどんなに進んでみても、自然災害に対してはどこまでも為す術なく、茫然と見過ごすことしかできぬであろう。強いて言えば、防災意識を高めることくらいしか我々にはできないのである。それにも限界はある。確かに人間は解決にむけて考える知能と行動する能力と勇気を持ち合わせている。それを必死で行使するために訴えて、これ以上の破壊を防ごうとする人々も或る。しかしそれはほんの一部の人々で、その他大勢は、普段からその怒りの声に耳を傾けようとはしていない。今、我々人間は一人ひとりが、対岸の火事とは思わずに、真剣にこの星と人類以外の生命のことを考えていかなければ、確実に滅びるであろう。人類滅亡の道は人間自らが作り、道の途切れし崖の先へと猛スピードで駆け抜けている。私にはそう思えてならない。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(二)

かつて六波羅のあたりは、京の葬送の地への入り口であった。京にはいくつかの葬送の地があったが、墓所として有名なところは北の蓮台野、西の化野、東の鳥辺野の三所である。六波羅は鳥辺野へ通じる入り口である。平安京が確立されてから、町外れのこの辺りがそうなったのだが、貴人でない者は墓が建てられるわけでもなく、野ざらしにされ、鴨の河原には野辺送りままならぬ人々や、無縁仏が転がっていたと云う。疫病が蔓延したり、飢饉となるとその数は増える一方で、河原が死体の山となることも度々あった。げにおぞましき光景は、地獄そのものであった。一見、風雅な王朝の都も、よくよく見ればこんな有様であったのだ。腐乱した死体からは異臭が漂い、橋を渡る人は鼻をつまんで走ったと云う。鳥辺野は三大墓所でも、もっとも町から近く、多くの人々が埋葬されてきた。その入り口の六波羅は、冥府の入り口故に人々はあまり寄りつかないような場所だった。

なき跡を誰としらねど鳥べ山 をのをのすごきつかの夕暮

西行は鳥辺野をこう詠んだが、「をのをのすごきつか」とは、相当の土饅頭が累々とあったものと思われる。六波羅蜜寺のあたりを轆轤町と云うが、元は髑髏町と呼んだのを、寛永期の京都所司代板倉宗重が、轆轤町に改めたのである。平安末期に後白河院平清盛が登場すると、彼らの本拠地となり屋敷ができ、寺社が建立された。寂しい都はずれは、平安の終わりに日本の中心へと一変したのである。六波羅は六原とも書く。平家の根城となってから、六波羅蜜寺はさらに隆盛した。平家から源氏の御世となっても、鎌倉幕府はこの地を接収して、都の監視のために六波羅探題を置いている。

六波羅蜜寺は、天暦五年(951)、空也上人によって開創された。西国第十七番の札所である。梵語六波羅の波羅は彼岸を意味し理想の世界のことで、波羅蜜とは到彼岸、すなわち理想の世界へ達することであると云う。しかし、それは容易なことではなく、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの修行を果たすことで、到彼岸が出来るとされる。到彼岸への道を同行し、現実世界の苦しみから救わんと願いを立てているほとけが、観世音菩薩だ。六波羅蜜寺の本尊も十一面観世音菩薩である。空也上人は醍醐帝の第二皇子に生まれながら、若くして世を厭いほとけに帰依、尾張国分寺にて出家した。その後は諸国遍歴をしながら、経典、教義を独自に極め、念仏を唱え、生かされていることに歓喜踊躍することを自ら実践した。空也上人の踊躍念仏は、いつも名もなき民の中にあり伝道された。空也上人はいつしか市の聖と呼ばれるようになる。空也上人は念仏の祖とも云われ、一遍上人法然上人、親鸞聖人ら鎌倉仏教の浄土系の祖にも尊崇されている。寺の宝物庫には一見に値する凄い仏像や彫像がある。中でも有名な空也上人と、平清盛はとてつもない存在感であった。空也上人立像は、胸に金鼓を下げ、右手には撞木、左手には鹿の角杖をついて、左足を一歩前に踏み出している。一度見たら忘れえぬ恍惚とした表情の口からは、六体の阿弥陀仏が現れ、まさに今、「南無阿弥陀仏」を唱えている瞬間の空也上人がいる。もはや僧ではなく、菩薩そのものに見える。空也上人という市の聖を、これほどまでに上手く表現した彫像はない。今昔物語集巻二十九には、「阿弥陀ノ聖ト云フ事シテ行く法師」の話があり、「鹿ノ角ヲ付タル杖ヲ、尻ニハ金ヲ札ニシタルヲ突テ、金鼓ヲタタキテ、万ノ所ニ阿弥陀仏ヲ勧メ」廻ったとあるが、この法師は空也その人であろう。一方で平清盛坐像は、さすがの貫禄が備わる。経巻を手にしているが、平家納経であろうか。入道相国となってからの清盛は、傲慢にも映るが、この彫像からはそれは感じない。悟り澄ました表情で、視線は遠くなのか近くなのか定かではないところが、仏者の目である。自分の亡き後の平家の命運をすべて見通しているかのような、哀しみと諦めが混在している。縋るべきは、ほとけのみであると思っていたとしたら、この坐像の平清盛ほど、彼らしい姿はないだろう。

六波羅蜜寺から目と鼻の先に六道珍皇寺がある。この寺はもとは東寺の末寺で、現在は臨済宗建仁寺派の寺だが、禅宗寺院の印象は薄い。魔界迷宮の多い京都でも、随一のミステリアスな場所で、寺のくせに薄気味悪いところが良い。私は九年ほど前の盆の入りの夕暮れ、この辺りを彷徨いた。ちょうど迎え火の頃合で、残照わずかの六波羅は、何ともいえない怪しい雰囲気が満ちていた。ピタリと逢う魔が時に六波羅に迷い込んだのだ。此の世と彼の世の境目がなくなりそうな気配が漂う六波羅界隈。こんな時には平家の残り香もまだ存分にしてくる。六波羅蜜寺には咽ぶほどに香煙が燻り、灯籠や蝋燭で本堂が真っ赤に照り映えている。六道珍皇寺は薄明かりの灯籠がポツポツと灯り、精霊迎えに来た人々が列をなしていた。応対する寺の人は、闇の中に上半身のみがぼうっと浮かび上がって見えるのが、幻の様に妖しくて、狐につままれたような気がした。精霊迎えとは六道参りともいい平安時代から行われている。盆の前の八月七日から十日の間に、祖先の霊を家に迎える風習で、日本中でだいたい似たようなことを行う。京都ではその中心がここであり、御魂は六道の辻であるこの寺を必ず通ると信じられているのだ。精霊迎えは、まず山門の傍で高野槙を買う。昔から精霊は槇の葉に宿ると信じられているからだ。次に水塔婆に亡き人の戒名や俗名を書いて、鐘楼で迎え鐘を打つ。水塔婆を線香で清めて、高野槙で水回向をして納めるのだという。

言うまでもなく精霊送りは、京都の送り火の総代ともいえる五山の送り火があり、また各々の家でも送り火をするのだろう。六道珍皇寺六道の辻と呼ばれ、この辺りが鳥辺野の入口であったことに由来する。六道は仏教において衆生が輪廻転生するという天、人、畜生、修羅、餓鬼、地獄の六つの世界。生まれてきて死ぬまでの業によって次の転生先が変わるとされる。仏陀は輪廻転生は苦であり、ここから解脱することが目的であると説いた。輪廻転生の辻=交差点が、京都においてはこの場所とされたのである。平安貴族の小野篁は半ば伝説的な人物だが、この寺の井戸から冥界との行き来をしたと云われている。その井戸は今も本堂の奥に口を開けているが、昼間でも何となく気味が悪い。閻魔堂には閻魔大王小野篁弘法大師が並んで祀られている。篁は日中は優秀な官吏として、夜には冥界へ赴き閻魔大王の補佐をしたと云う。篁の木像は超人的な妖気を湛えていて、面を合わせたら動けなくかもしれないと思い、私は思わず目を逸らした。篁の墓は何故か紫式部と隣り合わせて、ここからずっと北へ離れた紫野の堀川通り沿いに在るが、平安の魔人と魔女のような両人が、同じ場所で眠っているのも因縁めいているし、京都人の畏怖と洒落が感じられる。何度も書いてきたとおり私は伝説、伝承を完全に否定はしない。寧ろ近頃は、伝説を信じたいとさえ思っている。生きている此の世や、科学こそが夢幻の虚構であって、彼の世や伝説こそが真実なのではないか。我々はあちらの手の上で踊らされているだけではなかろうか。

現在の鳥辺野にも広大な墓地が広がっている。西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の西大谷墓地と、その少し東に京都市営の清水山墓地がある。西大谷墓地には親鸞聖人の廟所があって大谷本廟と云う。大谷本廟は通称西大谷と呼ばれる。私も生家の菩提寺本願寺派の寺で、本山がお西さんになるが、今は宗派に拘ることなく寺廻りをしている。寧ろ若い頃は、敢えて真宗寺院を避けていた。真宗寺院は門徒以外は寄せ付けない閉鎖的な印象を拭えなかった。美しい仏像や建築に魅惑されていた私には、あまり関心が湧かなかったのである。菩提寺の付属幼稚園に通い、朝な夕なに念仏の歌を唄い、真宗にどっぷりと浸ってきたことが、大人になるにつれ重苦しい枷になっていた。真宗寺院は念仏の道場として始まったところが多く、門徒のための道場であり、集会所であり、公会堂であり、観光寺院ではない。浅はかな私はそこに惹かれなかった。が、歳を経て最近は少し思い直している。懐かしい念仏、お経、歌が響く場所。私にとって真宗寺院は安らぎの場になりつつある。気負わず、ごく自然に、仏心に近づき、何にも考えずにひたすらにお参りできる。ことに西本願寺本願寺派の寺では、ホッとするところがある。西本願寺は私の母船のようなものである。ここ大谷本廟もまた然り。訪れる人はほとんどが門徒であろう。親鸞聖人の御廟は真っ直ぐに西方極楽浄土を向いている。御廟に護られて、いや親鸞に導かれるように背後に広がる大谷墓地。ここへ来れば目に見えぬ極楽往生への繋がりを誰もが感ずることができるだろう。大谷本廟親鸞御廟であるが、立派な門や本堂があって、京都でなければかなり大きな寺である。京の町にはこのくらいの規模の寺は無数にある。参道の池には美しい石橋が架けられてい、周囲の楓との調和はさすがに京都の寺らしい。

弘長二年(1263)十一月二十八日、親鸞聖人は九十歳で大往生、鳥辺山南辺の御荼毘所で火葬されて、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められた。この御荼毘所が大谷本廟である。文永九年(1272)、末娘の覚信尼により、遺骨を吉水の北に改葬されて、新たに廟堂を建立した。現在の知恩院の山門の北に位置する崇泰院付近とされる。この廟堂は後に大谷本願寺と呼ばれ、蓮如上人時代の寛正の法難により破却されたが、関ヶ原の戦いで勝利し、実権を握った徳川家康により、本願寺が東西に二分され、慶長八年(1603)現在地に移転し、この地を大谷と呼ぶようになった。一方、東本願寺の大谷祖廟は、吉水の近くにあって、こちらもやはり親鸞聖人の廟所となっている。次に私はその大谷祖廟へと向かった。

酷暑でも高台寺のあたりは観光客で溢れかえっている。少し時間があるので霊山の坂本龍馬中岡慎太郎の墓参りをする。霊山観音を通り過ぎ、霊山護国神社まで急坂を登るが、この暑さを登るのは一苦労だった。霊山歴史館ではちょうど西郷隆盛展をやっている。ここからさらに山を登る。東山連峰は突如として隆起するところが多いので、登るには気合が必要だ。息を切らせてようやく辿り着いたら、展望が開けて、京都市中を見渡すことができた。霊山墓地はずいぶんと高台にある。ここからの眺めは絶景で、西山から愛宕の高嶺までよく見えたが、空には嵐の後の鈍色の雲が、まるで龍の様に鋭く尖って蟠踞している。霊山墓地には木戸孝允高杉晋作久坂玄瑞大村益次郎梅田雲浜ら維新の志士たちが所狭しと埋葬され、皆、京都市中を睥睨するかの様に眠っている。その最前列の真ん中に坂本龍馬中岡慎太郎は並んで眠っている。墓には鳥居まであったが、彼らは嬉しくはあるまい。ここから二十一世紀の京都を、日本を、世界をどんな気持ちで見ているのか。彼らの思い描いた目標のいくつかは達成されたであろう。が、彼らの愛した日本人は消えかけているであろう。喜びと憂いとが同居しているのではなかろうか。

霊山墓地を降りて、再び高台寺の門前を通り、寺の前から円山公園に抜ける。円山公園の手前に東大谷と呼ばれる大谷祖廟がある。ここが東本願寺すなわち大谷派親鸞聖人廟所である。西大谷に劣らぬ立派な 門は背後の山の緑に映え、大きな本堂からは門徒が集い賛美歌の様に美しいメロディの声明が聴こえてくる。境内は美々しく整えられており、良い按配で草花が植えてある。本堂前にはミストシャワーが完備してあり涼風が吹き抜けている。汗だくで歩いてきたので、あたかも極楽に達したような心持ちになった。親鸞聖人の御廟は本堂の真上にあり、西大谷と同じく真っ直ぐ西方を向いている。聖地から発せられるパワーは確かにあるが、それはこちらを威圧するパワーではなく、和やかなものである。親鸞聖人入滅から長い時間をかけて、醸成された浄土真宗の専修念仏はしっかりと根を張った。東西の大谷御廟へ来るとそれを実感する。

大谷祖廟を北に出てすぐの裏手に、長楽寺という建礼門院ゆかりの寺がある。ここへも長年来たかったが、ようやく機会が訪れた。建礼門院徳子は、平清盛二位尼時子の間に生まれた。外戚として宮中を掌握したい清盛は、徳子を入内せしめ、高倉帝の中宮と為した。見事に徳子は安徳帝を生み、清盛は感涙したが、その喜びも束の間に高倉帝と清盛は相次いで世を去ってしまう。建礼門院となってからの徳子は、まさに階段を転げ落ちるかの如くで、平家は安徳帝を奉じて西海へと落ち、壇之浦にて墜えたのである。安徳帝は壇之浦で二位尼に抱き抱えられて、神器の剣とともに波の下へと旅立たれた。建礼門院もすぐに後を追うも、沈みきれずに源氏方に引き揚げられ、無残にも京へと護送された。この時の女院の気持ちほど、察するに余りあることはない。最愛の息子と平家一門を喪い、悲しみや憎しみなど湧く気力すらなかったのではあるまいか。女院が落飾されたのが、ここ長楽寺であると云う。平家物語の灌頂巻「女院御出家」にはこうある。

かくて女院は、文治元年五月一日の日、御髪落させ給ひけり。御戒の師には、長楽寺の阿證坊上人印誓とぞ聞えし。御布施には、先帝の御直衣なり。

出家にあたり御布施にするものが何にもなく、仕方なく安徳帝の御衣を、仏前に垂れ下げる幡に縫いて御布施とされたのである。建礼門院は平家の絶頂から没落までをつぶさに見た。平家をただ一身で象徴するかのような生涯である。平家物語の大原御幸で、寂光院を訪ねてきた後白河院に、女院は、自分は生きながらにして六道のすべてを見たと言う。寺には幼い安徳帝の御影が伝わるが、独楽を廻して遊ぶあどけない姿は見る者の涙を誘う。二十九歳で出家された建礼門院の御影は、源氏の目を欺くためか全体に墨が塗られてある。放心してぼんやりと浮かぶ建礼門院は憐れであるが、我が子と平家の菩提をただ一人で弔う覚悟はできたのかもしれない。

長楽寺は延暦二十四年(805)、桓武帝の勅命で伝教大師によって開かれた。大師が自ら彫ったとされる本尊の准胝観音像は、天皇の御即位のときのみ御開帳される秘仏である。来年は三十年ぶりに御開帳されるわけだ。当初は叡山の別院で、往時は円山公園一帯のほとんどが寺域であったが、大谷御廟建設時に江戸幕府の命により境内地を割かれ、明治以降に円山公園になった。室町時代の至徳二年(1385)、時宗の国阿上人が入り、以来時宗の寺になる。江戸後期には衰微しており、文化年間に浄土宗西山派に改宗。明治二年(1870)に、再び時宗遊行派になった。

折からの豪雨の後で、長楽寺への緩やかな参道は、山からの水が川のように流れ落ちてくる。歩けないほどでもないので、なんとか山門まで辿り着いたが、人気はなく、蟬しぐれと滴る水音のみが、森閑とした境内を包んでいる。全山が鬱蒼たる森に覆われており、まことに幽邃の境といった感。目の前が円山公園で、祇園の喧騒から歩いてわずか十分少々とは思えない。急な石段の上に本堂と鐘楼があり、その先に建礼門院の供養塔、そのうしろに平安の滝が清洌な音を響かせて落ちている。庫裏、茶室、小さな池を眺められる拝観所、寺宝を収める収蔵庫があるが、いずれもささやかな佇まいだ。収蔵庫には一遍上人像をはじめ、歴代の遊行上人の木造が収めらており一見の価値があるが、やはりこの寺は建礼門院の面影が色濃い。栄枯盛衰のすべてを見尽くした女院の悲哀が、そこはかとなく漂っている。

青春譜〜応援合戦〜

今年、第百回という記念大会となった夏の甲子園。何度も繰り返し書いてきたが、私は甲子園の大ファンである。大会中、休みの日はほとんど一日中テレビの前を動かないし、仕事の日は休憩毎に試合経過を見て、帰宅すれば録画した全試合を観る。これほど入れ込むようになったのは、甲子園には日常我々が掴み得ない夢があり、呪文のように空疎な言葉となった真の絆があり、何よりも枯渇し切った私の涙腺を弛緩してくれるからだ。スポーツ全般に同じだが、夏は甲子園、冬は箱根駅伝。この二つだけは格別の思い入れでいる。生涯変わることはないだろう。

夏の甲子園百回の歴史は爽快に燦々と輝いている。それぞれが忘れない試合、名勝負がある。その偉大なる歴史には空白の年がある。百三年前に第一回大会が開催されたが、今年百回なのは太平洋戦争のせいである。昭和十六年(1941)の途中で中止となり、昭和二十年(1945)まで、戦争は球児たちの青春を奪い、夢を砕き、希望を絶望にした。球児たちは皆、涙を流して悔しがった。野球ができぬまま、戦地へと駆り出されて、散らす必要のない命を散らした方もいた。ある者は南方の島に、ある者は海に、ある者は特攻へ。今、溌剌とプレーする高校球児たちを観ていると、当時の事はあまりにも酷い仕打ちであると、狂った時代であったと思う。それでも文句ひとつ言わずに召集に応じた。知覧から飛び立ったある人は、甲子園出場は叶わずも、プロ入り。しかし、たった二試合にのみ出場しただけで、特攻に召集されて散った。彼の遺書にはこう記されている。

「野球人生八年間  我が心 鍛えてくれし 野球かな 」

あまつさえ、戦意昂揚と称した大会や試合が開かれ、記録には残らないという残酷な仕打ちをした。記録に残さぬ試合などしないほうがマシだと思うが、それでも野球を愛した球児たちや関係者には、野球ができるだけでも幸せなことであったならば、或いはせめてもの慰めであったか。夏の甲子園百回までには、語り尽くせぬドラマ、エピソードが溢れている。

甲子園で忘れてはならぬのが応援である。一塁側、三塁側のアルプススタンドに陣取る大応援団を抜きに甲子園は語れない。大応援団は甲子園球児たちを鼓舞し、時にその熱意が勇気を与え、ピンチを救い、思わぬ大逆転劇につながることがある。大応援団にとっても野球部に甲子園に連れてきてもらい、一致団結することは、人生においてこれほど熱く、濃密なひとときはあるまい。名勝負とはベンチが作り、ナインが生み、応援が育てるのである。最近は応援合戦も注目されるようになった。レギュラーを勝ち取れなかった野球部員、応援団、チアリーダー、生徒諸君、保護者、職員、地域の勝手連的応援団が声を枯らし、汗だくで熱戦を盛り上げる。甲子園のアルプススタンドは思いの詰まった場所である。

その応援団に彩りと個性を与え、まさに応援の華ともいえるのが、ブラスバンドである。野球部員同様に各校の吹奏楽部員もまた、甲子園で演奏し、アルプスを盛り上げることを誇りとす。ゆえに演奏にも力が入る。選手とアルプスを結びつけるのが、ブラスバンドの演奏であると私は思う。中には吹奏楽部員が数人しかいない学校もあり、そうした場合は、OBや近隣の吹奏楽部や、地域の楽団が総出で応援に来ることもしばしばある。吹奏楽部員も嬉しいだろうし、大編成で大音量を奏でて、最高の気分だろう。 甲子園での吹奏楽の歴史は戦後のことで、昭和三十年代後半から、だんだん華やかになっていった。戦前は応援も自重気味であったのだ。今は、各校が競うように演奏する。守備の回は相手の応援、演奏に敬意を表して聴きながらも、攻撃の回では応酬する。外野から観ていて、試合と併せてこの応援合戦もまことに見応えがあり、一見の価値がある。

応援で使用される曲は昔からなじみの曲から、最近は各校オリジナルの曲もあり、地域の民謡や音頭、ご当地ソングまで多様化していて楽しい。オリジナル曲がいつかメジャーになり、他校でも演奏するようになっていくこともある。もはや甲子園クラシックといえるのが、コンバットマーチ、アフリカンシンフォニー、歌謡曲やアニメソングからアレンジされた、狙いうち、サウスポー、タッチ、ルパン三世のテーマ、鉄腕アトム、紅、学園天国、ポパイ、必殺仕事人、ドラゴンクエストⅢの戦闘のテーマなどが定番となっていて、ほとんどの学校で演奏される。最近私はダイナミック琉球が好きだ。何とも言えない現代的な神秘を感じる。時には吹奏楽コンクールの成績上位校が、オーケストラのように物凄い演奏を魅せる楽団もあり、聴いていると鳥肌がたつこともある。単に応援を盛り上げるのみならず、年々技術、表現、ハーモニーが競うように向上している。

だが、大きな問題もある。夏の甲子園は、吹奏楽の甲子園と同時期に行われることだ。吹奏楽コンクールや、マーチングコンテストも予選はこの時期なのである。コンクールに出場しない学校ならば、思う存分甲子園に集中できるが、コンクールに出場し十月の全国大会を目指す学校は、今がもっとも重要な時なのである。一分一秒でもコンクールの練習がしたい。中には、コンクールの練習をしながら、試合日には甲子園へ駆けつけるという有名校もある。数年前、某校の吹奏楽部が、自分たちの甲子園たる吹奏楽コンクールを辞退して、野球部の応援に馳せ参じたことがあり、世論は賛否二分となった。吹奏楽部内でも、コンクール出場を望む生徒と、甲子園行きを出張する生徒で意見が分かれたが、結局、甲子園へやってきた。どうやって決めたのか私は知らないが、全員が断腸の思いであったに違いない。が、最終的に吹奏楽部員が決めたことならば、外野がとやかく言うことはない。コンクール出場が吹奏楽のすべてではないからだ。これもまた青春であり、野球部員にとっては大きな励みとなったであろう。

甲子園での演奏では、熱中症に気をつけなければならない。楽器を演奏することは、パワーが要る。つい夢中で演奏してしまうこともあるから注意が必要だ。さらには楽器の保護がとても大切である。どんな楽器もデリケートなもので、殊に木管楽器は直射日光や熱射により変形して、最悪は壊れてしまう。中でも、私の吹いていたクラリネットはほぼ全体が木製や樹脂製であるため、慎重に扱わねばならない。演奏者は皆、タオルで覆いながら吹いている。それでもなお、甲子園で演奏することは喜びなのである。試合日以外の練習、場所の確保、宿泊や食事の手配など、学校や保護者まで多くの協力のもとに甲子園は成り立っている。甲子園は、選手のプレーも、アルプススタンドの応援も、最高のBGMを奏でるブラスバンドも欠かすことのできない日本の夏の風景である。

私は高校時代、甲子園に応援団として参陣は叶わなかったが、野球部の定期戦やインターハイで応援演奏した。高校二年の時はインターハイがちょうど地元で開催された。秋篠宮御夫妻御臨席の開会式で、地域の高校の吹奏楽部で三百人以上の大楽団を結成して、式典の前奏曲としてワーグナータンホイザー序曲を演奏し、入場行進等のセレモニーの音楽を合奏したことは、今でも誇りである。選手へは闘志を呼び起こす激励を、応援には豊かな色彩を与え、一致団結の要と為す。

百回目の甲子園の開会式、近江高校中尾雄斗主将の選手宣誓は、まさに甲子園を象徴する言葉で心に残った。

「甲子園は勇気、希望を与え、日本を平和にしてきた証です。多くの人々に、笑顔と感動を与えられる本気の夏にすることを誓います。」続。