弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 山寺

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉五指絶唱の一句だと思う。元禄二年(1689)、おくのほそ道をゆく芭蕉は、出羽国に入り、尾花沢にて立石寺名刹であることを聴いた。寄り道で山寺へやってきて、この名句が生まれたのは、いかにも良き筋立てだが、実は芭蕉は初めから山寺のことは知っていて、巨巌の群れに響き渡る蝉の声を、旅の途中から浮かべていたのかもしれない。当代一流の数寄者たる芭蕉ほどの人物ならば、そこまで思考し、計算していたのではとも思ってしまう。あくまで私の想像にすぎないが。私は芭蕉の足跡を順不同で少しずつ辿っている。今回は出羽国へやってきた。この句が生まれた山寺と、芭蕉が舟を駆った最上川。いざ追体験の旅へ。

晩夏、朝一番の新幹線で山形へ向かう。今年の夏も暑かったが、この日は次々と襲来する台風の影響で雨であった。山形はこれが初めてである。これまで失礼ながら、山形は東北六県で一番地味な印象であった。が、それは大きな間違いであった。最上川が豊穣の地を創造し、山海の地味に溢れ、出羽三山鳥海山蔵王など神山に囲まれた山形は、羽州ならではの純朴さで振舞う人と、その人々ゆえの優しい信仰が息づいている。あの広大な山形盆地の風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育むに違いない。

 立石寺を訪ねることが最大の目的であるが、少し時間があったので、山形城の周りから城下を散歩した。山形城には霞ヶ城の異名がある。山形盆地では春は霞がたなびき、秋は朝霧に包まれることもあろう。濠端を奥羽本線が南北に走っている。濠は深く、石垣は高いが、最上義光が造った城は、今はずいぶんと小さくなって霞城公園として整備されている。追手門外には最上義光記念館があった。徳川初期に最上氏がいなくなってから、山形藩は徳川の御家門や譜代大名が治めた。鳥居氏、保科氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏らが、何代かで交代で入っている。これほど藩主が代わったところも珍しい。徳川時代を通じて十三度も藩主が代わったらしいが、殿様は老中や若年寄など幕閣の要職にあり、ほとんどお国入りはしなかった。幕府はここを準天領のような扱いでいたのだろう。山形は羽州の真ん中にあって、米沢や仙台の監視ができる。さらには北前船の西廻り航路の拠点酒田にも、遠からず近からず目を光らせるには絶好の場所であった。奥州が政治、軍事、経済、流通で結託しないためにも、頻繁に藩主交代がされたのではないかと思う。

最上氏の菩提寺へも行ってみた。霞城公園から東南に二キロほど、城下の外れに寺はあった。光禅寺と云う。寺は住宅地と高校の間に在るが、長い参道や境内地の広さからして、さすがに大大名最上氏の菩提寺であると感心した。最上義光の墓は本堂裏手の墓地にあった。墓は白く太い石の五輪塔で、堂々と静かにたっている。いかにも雪深い地を必死で治めた、しかしながらどこまでも清廉潔白に経世済民に心を砕いた最上義光を彷彿とさせる。最上義光は、戦国末期出羽を統一し、信長や秀吉政権下では表向き軍門に下るも、虎視眈々と自身の足場を固め、家康の頃には一目置かれる存在となっていた。奥州の関ヶ原ともいえる慶長出羽合戦で、上杉氏を撃退した最上氏は、羽州五十七万石を統治することになった。義光は、山形城の建設に着手し、城下を商人の町として整備する。年貢や地子銭などの税を免除し、その後もずっと繁栄する市を開かせ、領内を復興していった。領民にも寛大慈悲で人気を集めたと云う。最上川を治水し、酒田港の再開発、庄内平野の開墾、羽州街道も整備した。最上義光の時代に、江戸期の山形と羽州の基盤はほとんど出来上がっていたといってよいだろう。が、最上氏は義光一代限りの栄華であった。最上騒動により義光の死後わずか九年で改易となる。つまらぬ家督争いが発端であったが、或いは幕府の策謀であったかもしれない。

山形駅から仙山線に乗り換えて、十数分で山寺駅に到着。駅のホームから立石寺の全景が見渡された。遥か上空に五大堂が見える。これから彼処まで登るのかという期待と不安が過る。仙山線と寺の間には立谷川が巨岩の隙間を急流しているが、おかげで山形市内よりだいぶ涼しい。 晩夏ゆえ、山形市内ではまったくなかった蟬の声も、この山麓からは煩いほどに聴こえてくる。これならばと胸が高鳴る。山形は蕎麦処である。この旅行中三度も蕎麦を食べた。門前にも蕎麦屋が軒を連ねている。その一軒に入り登山前に腹ごしらえ。東京の蕎麦と違い、野趣溢れる太麺で、蕎麦の味がしっかりしている。美味かった。

 立谷川の橋のたもとに対面石と云う巨巌があって、寺伝では円仁がここへやってきて、山人の頭である磐司磐三郎と対面した場所であると云う。山人は先住民であり、このあたりを狩場とした連中だろう。円仁は磐司磐三郎と交渉して、此処に立石寺を建立する許しを得た。空海高野山を開くときも、似たような説話がある。おそらくは、磐司磐三郎のずっと先祖の代から、ここは聖地であっに違いない。山の神を祀り、死人はここへ埋葬された。山内の到るところに侵食によってぽっかりあいた穴は、古代からの墓であると云う。山人の村は川の反対側にあって、川向こうは葬送の地であり、神の住む境域で、川が結界であったはずだ。聖地と俗地が地形的にこれほどはっきりとわかる場所もない。こうして貞観二年(860)、立石寺は開山された。実は円仁はこの地までは来ておらず、弟子の安慧に天台宗道場の建立を託したとも云われる。事実当寺は開山は円仁で、開祖は安慧である。が、これも真偽は構わない。

 蕎麦屋を出て、根本中堂へ参拝する。延暦寺寛永寺と同じく、立石寺も総本堂は根本中堂と云う。そういえば今の寛永寺の本尊薬師如来の脇侍日光月光両菩薩は、元禄時代に幕命によりこの寺から移された。内陣の本尊は秘仏厨子を護る仏像群も素晴らしいが、根本中堂で見逃したくないのは、灯籠の一筋の明かりである。延暦寺根本中堂に灯る、最澄が灯した「不滅の法灯」を分灯したものとかで、その灯は千年以上も一隅を照らしているとか。信長が比叡山を焼き討ちした際、延暦寺の法灯は消滅したが、再興の折に、ここの法灯を分灯したため、結果不滅の法灯は絶えていないらしい。私はこういう話を聴くたびに、日本仏教ならではの浪漫を抱く。真偽などはどうでも良いのである。

 寺は日本各地に大小七万以上あるらしいが、山国日本は山寺が多い。日本仏教は伝来してから、土着の神々とあまり争うことなく、共存してゆくことを選んだ。これは、日本古来の神々の側も同じであったし、寧ろ此方側から彼方側へと積極的に近づくこともあった。ことに山岳信仰とは深く強く結び付き、本地垂迹はここから派生した。山は神々のおわす聖地であり、先祖の霊魂の行くところとされたから、寺社が建立されるのは必然である。人々は神や霊魂を崇め奉ると同時に畏怖した。祟りを恐れ、供養と魔封のために鎮魂(たましずめ)を儀式し、そうした場所に寺が建立された。時代が降るにつれて、寺社は山麓から里へと下りてくるが、寺に山号があるのは、山にあった頃の名残であり踏襲であろう。 私もずいぶん山にある寺を訪ねてきたが、山形の立石寺はついぞ機会がなかった。立石寺は通称「山寺」と呼ばれる。五木寛之さんは百寺巡礼で山寺中の山寺であると書いておられるが、私も同感である。実際日本には、立石寺よりも遥かに高地にある山寺や、もっと峻険な場所にある山寺もある。しかし立石寺の長い歴史と、あまりに有名な芭蕉の足跡、そして津々浦々にまで知られた通称を考えれば、私も立石寺こそ第一番の山寺としたい。

 山寺は東北随一の古刹であり、陸奥比叡山とも呼ばれる。由縁は天台宗第三代座主の慈覚大師円仁を開山とし、一説で円仁はここへ葬るよう遺言した。山上には円仁の入定窟があるとされる。慈覚大師円仁と云う人は、東北の各地に足跡と影響があった。中尊寺毛越寺瑞巌寺など東北の名だたる寺の開山はほとんどが慈覚大師となっている。一般に大師と云えば弘法大師が第一に思い浮かぶが、東北では大師と云えば慈覚大師と云われるそうだ。円仁は、延暦十三年(794)、下野国都賀に生まれた。円仁がこの地の生まれだったことが、のちに都から隔絶した東国や陸奥においての布教活動に力を入れた理由が知れよう。九歳で岩舟の大慈寺に入り、十五歳で叡山に登って最澄の門下となった。最澄は円仁の才覚をすぐに見抜き、期待して側に置いた。円仁は最澄の東国行脚に付き従い、下野では懐かしの大慈寺に師と共に入ったであろう。そして東国や陸奥の窮状を最澄にも訴えたに違いない。最澄は諭すようにゆっくりと優しく、しかし目を逸らさずに円仁に説いたであろう。最澄の信ずる仏法が、僻地にまであまねく届くように、円仁をその伝道師とするべく育てた。比叡入山から十四年、敬愛した最澄は遷化した。

しかし円仁は悲しみに暮れる暇などなかった。師の精神の核心たる「一隅を照らす人」をつくることに深く感銘を受けた円仁は、自らその一人となり、中でもっとも明るい人になろうとした。そしてその教えの継承に尽力した。およそ十年間入唐し、天台教学と天台密教を学び、帰国するや天台座主となる。入唐中に著した日記「入唐求法巡礼行記」は、天台教学の伝書としても、紀行文としても名著であるが、「求法」という言葉に、最澄が果たせなんだ天台密教の法の伝授を切に求めた円仁の心境が表れている。各地に天台の学問所兼、天台僧の養成道場とする寺を建立した。立石寺比叡山の別院として建立し、陸奥における中心としたのである。東北の比叡山はここに誕生した。円仁は比叡山で没したらしいが、遺言で遺骸は山寺へ葬るように言ったとされる。弟子たちは、遺骨を首から上と胴体に分骨し、胴体を山寺に運んだ。はるか上空の納経堂の間下の巌窟に埋葬されたと云う。この話は伝承であったが、昭和になって、入定窟が調査された際、何体かの遺骨が見つかった。そのうち一体は、首のない遺骨で、首は木像であった。伝承は本当であったと騒がれたが、専門家の意見は分かれている。遺骨の真偽はともかく、円仁が遺言したのは本当だろうと私は思う。比叡山最澄の寺ならば、山寺は円仁の寺である。円仁は徳川家康よりはるか昔から、日光よりはるか北の山から、この国を見守ってきたのだ。

寺は山全体を境内とする。この山を宝珠山と云い、立石寺山号にもなっている。宝珠山は、高さ四百メートルほどの巨大な凝灰岩の岩山である。長い年月をかけて侵食が進み、あちこちに巨巌、奇岩、洞穴が露わになっていて、山としても存分に魅力がある。立石寺はその名のとおり、石の上に立っている。今はりっしゃくじと云うが、昔はりゅうしゃくじと云った。根本中堂を出て右手に寺を鎮守する日吉神社があり、宝物館や常行堂がある。その先に「關北霊窟」と掲げた山門があった。ここからが真の山寺である。威儀を正してその門を潜る。あたりはすぐに鬱蒼たる森で、すぐに石段が始まる。一段一段登る度に、煩悩が一つ一つ消え去ると云う。岩肌剥き出しの宝珠山は、高山ではないが、五大堂や奥之院に到達するまでおよそ千の石段を登る。千段はキツイだろうと覚悟していたが、途中、姥塚、円仁の御手掛石、蝉塚、弥陀洞など、見所毎に休める場所もあって、一気に登るわけではなく、思いの外楽であった。弥陀洞は巨大な一枚岩で、見る人の心が清ければ阿弥陀如来に見えると云う。じっと目を凝らして見た。見える。私にも阿弥陀様がはっきり見える。これは嘘でも冗談でもない。あの日のあの時の私には確かにその姿が見えたのである。私はこういうことはあまり信じないし、実際似たような場所でも一度も見えた試しはない。その私が言うのである。確かにあの時、阿弥陀如来を見たと信じている。もっとも次に訪れた時は、もう見えないのかもしれない。

私はゆっくりゆっくり登ってゆくが、何人かの大学生が、汗だくになりながら上半身は裸で、走り去っていった。巨巌巨石が累々と折り重なり、圧倒的景観。途中、道幅がわずか四寸(十二センチ)という場所があり、こうしたところを見ても古くから修験道が盛んであったに違いない。いずれここも世界遺産になるかもしれない。大自然の威厳とそれを畏怖し信仰した人々の面影が、岩壁に映し出されているような錯覚がした。仁王門を過ぎると視界が開けた。冷風が次から次に吹いてくる。辺りは圧するように鋭い岩が聳り立つ。立石寺という名に背かぬ、偉大なる眺めである。

山寺でもっとも心動かされた風景は、開山堂から納経堂へのアプローチである。目も眩む断崖絶壁で、片側は手すりもない崖である。その先に大きな皹の入った岩山が屹立しており、平な場所に円仁を祀る開山堂、岩山の先端に赤い色をした端正で小さな納経堂が、まるで山寺を照らす灯台のように建っている。積年の憧憬が今目の前にあった。見晴らしはどこまでも高く、広く、重畳とした山並みを、鳥になって俯瞰できる。この上にある五大堂からも、その眺めを存分に味わった。嗚呼ついにここまで来れたか。感慨無量であった。このままここから大空へ羽ばたきたい気分である。 そして奥之院まで到達して、大仏様を拝んだ時、ようやく少し興奮が鎮まったのである。余談だが、かつて山寺には滑り台があったらしい。私も詳しくは知らないが、聞くところによれば、五大堂付近から三百メートルあまりを一気に滑降したとか。しかし、あまりに急峻で、怪我人が後をたたなかったらしく、昭和四十年代前半には廃止されたそうだ。寺に滑り台とは前代未聞でまことに面白い発想である。廃止されて当然といえばそうだが、あまり型や枠に囚われないのは、羽州人の気質なのではないか。

話はおくのほそ道に戻る。芭蕉もここまで辿り着いた。その時の印象と、この句を詠じた気分をかく記している。

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七、八里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

おくのほそ道前半のハイライトである平泉を過ぎ、尿前の関、尾花沢で一息ついた芭蕉曾良。このあと最上川を下り、出羽三山を経由して酒田から日本海側の越路を南下してゆく長丁場を前に、立石寺へ立ち寄ることで、旅の覚悟ができた。同時に陸奥随一の古刹にて薬師如来へ道中の無事を祈ったであろう。盛夏の蝉しぐれは、煩いほどであったかもしれないが、それが芭蕉にとっては身を清める滝飛沫のように降り注いできた。或いは岩は芭蕉自身であって、彼の心身に沁み入ってきたのであろう。それは蝉の声だけではなかったかもしれない。私はこの一句から、様々なことを想像する。芭蕉がおくのほそ道で立石寺を訪ねたことが、この旅の止め石になっているように思う。止め石とは、自らの逸る心、焦り、暴走をとどめる重石である。稀代の数寄者のみが到達できる境地がある。だが、自由に流れ、流されて生きてゆくには、時に止め石や重石が必要だ。西行もそうであった。西行を思慕する芭蕉もまたそうであったと思う。

私はなるべく人気の少ないところを探して、傍の石に腰を下ろした。東京や山形市内ではすでに蝉の声は聴こえない八月の終わり、山寺は全山でまだ元気に蝉が鳴いてくれていた。蝉しぐれは、巨岩や岩窟に油滴のように染み込んでゆく。私は芭蕉曾良と同じ旅の空の下にいた。

 

茶の正月

明日から早くも霜月である。年毎に早さが増すのは、私も人生の白秋にさしかかっているからか。一生を春夏秋冬にわける思想は、古く中国から入ってきた。青春、朱夏、白秋、玄冬。これは風水の青龍、朱雀、白虎、玄武と同じである。つまりは人の一生も四神相応と符合しているという考え方であろう。青春がいくつからいくつで、朱夏がいくつまでなんていうことは、当世各々次第だろう。これまでの我が人生を省みると、私にとっての青春とは音楽であった。幼い頃に習ったピアノに始まり、このブログでも綴っている吹奏楽がもっとも青春と呼ぶに相応しい。高校を卒業し、上京してからはMr.ChildrenGLAYをはじめ、足繁くライブに通った。私自身もコピーバンドで下手な歌を唄っていたこともある。それほどに楽器を奏で、歌うことが楽しかった。大げさに言うと、その瞬間だけ青い悩みは消え失せた。楽器も歌も腹式呼吸である。ブレスして身体中に酸素を取り込むと、脳天から爪先まで活性化された。生きていると本当に実感できたのである。

その次は馬であった。馬といっても乗馬ではなく競馬である。学生の頃、叔父に連れ出されて初めて府中競馬場に行った。それからは友人と毎週のように府中や中山へ通ったが、私には競馬は単なるギャンブルではなかった。サラブレッドの速さ、気高さ、美しさに心底惚れて、馬券購入は二の次で好きな競走馬を応援した。競馬の歴史、血統を研究して、パドックでじっくりと馬を観察し、展開を予想する。人馬一体と云うが、騎手や関係者と同様に、レースが始まると私はその馬に乗っていた。これが私の朱夏であった。競馬に対する想いは生涯無くなることはないが、ネットが普及して、馬券も容易に買える今、以前ほどは競馬場にも行かなくなった。私は競馬の浪漫から下馬したのである。ダービーや有馬記念などの大レースは買うが、昔ほど競馬に浪漫は求めなくなかった。熱は冷めたのかまだよく解らない。が、私には競馬以外にもやりたいことや、知りたいこと、行きたい場所がたくさんあるのである。

そして白秋がやってきた。今、私がもっとものめり込み、何よりも優先することが茶の湯である。茶道の稽古を始めて今夏で三年目に入った。 私が日本史に関心を持ってから、折々で茶の湯が登場した。そのためずっと気になっていて、いつか自身も稽古に通いたいと思ってきた。しかし若い頃は稽古に通う機会も、稽古をする踏ん切りもつかないまま、遥か遠くから憧れていた。結局四十を少し前にしてようやく、今の先生に出会い、表千家に入門したのである。二年以上稽古をしているが、今でも一々あたふたとしてしまい、家元が仰る「淡々と水の流れるが如く」とはなかなかゆかない。が、稽古を辞めたいと思うことはなく、茶の湯は何よりも今の私の生甲斐となった。

先日から「日日是好日」という映画が公開されている。作家の森下典子さんが原作で、三十年以上になる森下さんの茶道経験と、茶道に対する想いを味わうことができる。私は原作も読んだが、茶道経験者ならば、誰しもわかるような言葉、動き、思考がちりばめてあって共感するところが多かった。それを映画ではどう表現するのか半信半疑であったが、さすがに大森立嗣監督は、原作の良さを存分に引き出しながらも、映画ならではの茶の世界を創り上げていた。先生役を樹木希林さんが演じられたが、私が普段の稽古で、私の先生に習うことをそのまま言われている気がして、可笑しくもあり、冷汗をかいた。映画の効果もあってか、私の先生のところにも体験入門に来る人が増えている。少しばかり先輩の私は、その日体験に来る方の前で点前をし、一服差し上げる。それが自身の稽古でもある。私も入門する前は同じように体験した。「お点前のいろは」はまったく無知でも、点てられた熱い一服の茶の味は、今でも舌に残っている。何にせよファーストコンタクトは重要である。無論、体験入門までに抹茶を飲んだことは何度もあったが、これから入門するかもしれない稽古場で初めていただくお茶の味は、その後の自分の茶道や、茶の湯感を方向付ける場合もある。たとえ入門されない人にでも、美味しいお茶を味わっていただきたい。一期一会とは茶道の根本であり、それは長年の経験者も初体験の者とて変わりはない。主客皆でその日その時のその座を創り上げる。稽古であっても点前をするからには亭主として、その座を心に残るシーンにしたいと私は思っている。

とはいえ、稽古中は先生からの厳しいご指導の下、手の位置、足の運び、道具の置き場、手前の順序等、何度やっても間違ってしまう。一度指摘されたことは二度と間違うまいと思い、しっかりと復習するのだが、次回の稽古ではその指摘されたことはできても、また違ったところで間違う。以前はできていたことが、急にできなくなったり、忘れてしまうこともある。だから稽古なのである。何度も何度も稽古をして、自然と自分の体や手が動くようになるために稽古をするのだ。茶道の型、流派の型というものをしっかりと自分のものにするために。修練には時が必要だ。私のように四十から始めるよりも、飲み込みや吸収が早いはずの若い頃から始めたほういいに違いないが、先生はありがたくも稽古を始めるのに年令は関係ない言ってくださる。一番は根気なのであると私は解して、これからも稽古に励みたい。

 立冬のやってくる十一月は、茶の正月である。その年の初夏に採れた新茶を、茶壺で寝かせ、立冬の炉開きに合わせて、茶壺の封を切って、新しい茶を挽く。半年間寝かせた茶は、青臭さが抜けて、まろやかな甘みと静かな深みが出る。これを「閑味」と云う。茶壺の中には、和紙の袋に包まれた極上の濃茶と、それを保護するように薄茶となる茶葉が詰められている。茶壺の口は和紙を丸く切って蓋をし、更に和紙で封印されている。余談だが、徳川時代は宇治で収穫された茶を将軍家に献上するため、茶壺を籠に乗せて東海道中山道を下った。これを「御茶壺道中」と云い、行列は時に千人を超えることもあった。街道筋は並の大名行列以上に警備され、行き違う大名も道を譲らねばならなかった。将軍が口にするものゆえ、厳戒態勢が敷かれたのも当然のことだろう。家康と秀忠の二元政治の頃は、江戸と駿府それぞれに献上されたと云う。

茶壺の口を切ることを「口切り」といい、立冬の候、家元はじめ各所で「口切の茶事」が開かれる。口切の茶事は茶人にとって、もっとも大切な茶事であり、殊に「口切の炉正午の茶事(正午に始まる茶事)」は、もっともあらたまった茶事とされる。ゆえに、茶人にとっても、霜月こそが正月なのである。立冬まであと僅か、去年口切りした茶も僅かとなった。風炉も中置きとなって、客の方へ火が少しずつ近くなる。また押さえた風炉の灰は、あえて崩して、搔き上げ灰にされる。こうしたしつらえを「名残」と云うが、私は名残こそが、利休居士のわび茶の真髄のように思う。名残の頃ほど、まことに静かで、寂しい候はない。しかし寂寞とした中でも、まもなく炉開きという緊張感があるから、決して心身は弛緩しない。茶人の正月から一月の初釜にかけて、華やかな茶事や茶会が催される前に、束の間の静けさを存分に堪能したい。私は名残も好きである。

青春譜〜ゴールド金賞〜

いよいよ明日から、日本の吹奏楽界最高峰の大会である全日本吹奏楽コンクールが開催される。吹奏楽コンクールは昭和十五年(1940)に創設されたが、戦争中は中断された。戦後、時勢ようやく落ち着いた昭和三十一年(1956)に再開された。今年で66回目、平成最後の吹コンである。今年は十月二十日が中学校の部、二十一日が高等学校の部、二十七日が大学の部、二十八日が職場一般の部の予定。中学と高校が名古屋国際会議場センチュリーホール、大学と職場一般は尼崎のあましんアルカイックホールで行なわれる。このシリーズを半年前に書き始めたが、あの頃に課題曲や自由曲の選定をして、地区大会、支部大会を勝ち抜いてきた学校や団体が、ついに最高の晴れ舞台へ上がるのだ。ここまで辿り着いただけでも素晴らしいことだが、ここまで来たら最高峰の中で一番の栄誉を得たい。さすがに全日本はどの学校、団体もハイレベルな演奏をする。時には中高生でもプロの楽団やオーケストラを彷彿とさせるし、聴衆を沸かせ圧倒する。私はここまで来ることは出来なかったが、皆の気持ちはとてもよくわかるつもりだ。ここにしかない眺め、ここでしか味わえない空気と緊張感、ここだからこそ響かせることができる音。それを存分に味わえる彼らが羨ましくてたまらない。

演奏する彼らはどんな想いで、あのステージに立つのであろう。確かに長い人生において、これまでの練習も、本番のステージも、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。でもあの時、あの場所で、あのメンバーで無我夢中となり演奏したことは、ほとんどの吹奏楽部員にとって、かけがえないのモノであり、此の世を生きる糧となっているはずた。それほどに濃密な時を、栄冠に向かって歩んできたのである。ゆえに青春なのである。私のその青春は高校生で終わったが、大学や一般団体でまた見たい、或いはまだ見ぬ高い景色を求め続け、毎年コンクールに出場している人もたくさんいる。それが勝ち抜けではない吹コンの面白さである。実は五年前までは、三年連続本大会に出場すると、翌年は予選すら出ることができないという悪しき慣習があったが、私はコンクールだって、自分がもういいと思うまで、何度でも大いに楽しんで良いと思っている。

コンクール出場団体のすべての演奏が終わると、少し時間があって、審査結果が発表される。当初は1位、2位、3位と順位をつけ、優勝旗が贈られたこともあったようだが、第18回大会から金賞、銀賞、銅賞で評価されている。支部によっては前年度に上位大会に進んだ団体にシード権を与え、地区大会や都道府県大会を免除し、支部大会からの参加を認めているところもある。また、上位大会への代表校選出も審査員が話し合いで決めたり、金賞団体から最優秀を選ぶ場合もあったりと統一感がない。全日本吹奏楽連盟には強い権限はないのだろうか。各地区で、コンクールとは別の優劣を競う大会が開かれたりもしている。支部や地区独自のカラーが出せるのは良い事ではあるが、それにより他の支部ならば選出されたかもしれない学校や団体があるかもしれず、評価に差が生じることはないのだろうか。少々疑問に思うところだ。コンクールの審査員は9人いて、技術と表現をA〜Eの5段階で評価し得点化する。その得点の上位順から金賞、銀賞、銅賞のいずれかの賞が決まる。ただし、9人の審査員のうち最も高い評価をした審査員と、最も低い評価をした審査員の評価は除外される。つまり最高点と最低点間の評価を行った7人の審査員の評価となるのである。公平性を確保するためにこの様な審査方法になったと云う。

大会会長の講評のあと、いよいよ審査結果発表。発表者は、金賞と銀賞を区別できる様に、金賞には頭にゴールドをつけて「ゴールド金賞」と読み上げる。私が吹奏楽部の頃は、金賞はA金賞、銀賞はB銀賞、銅賞はC銅賞と読み上げていたが、いつの頃からか「ゴールド金賞」となっている。この「ゴールド金賞」という声を聴きたくて、厳しくツライ練習を経て、あのステージに立つのである。「ゴールド金賞」が読み上げられた瞬間の、該当の学校や団体からの大歓声は、部外者である観客にとっても感動的な瞬間である。ここで全てが報われるのだ。今年はどの学校、団体が歓喜の「ゴールド金賞」を聴けるであろうか。吹奏楽部員にとっても、関係者や家族にとっても、そして私たち吹奏楽ファンにとっても、全日本吹コンの前夜は眠れない。が同時に至福の時でもある。

五月の回でも、吹コンとは中高生にとっては甲子園であると書いた。私が毎年、神無月になると心逸るのは、吹コンがあるからだ。吹コンが終わり、来月のマーチングコンテストが終わると、冬がやってくる。そして最上級生との別れもやってくる。続。

ほとけのみち 建仁寺

京都祇園。日本一の花街は、今や世界中にその名を知られている。京都を見たくば祇園へ行けとでも言わんばかりに、いつでもこの町には人が溢れている。祇園で働く人々は、この町を祇園町と呼ぶ。昔から京都には多くの花街が存在してきたが、今は五大花街といって祇園町、宮川町、先斗町上七軒、島原が往時の面影を残しているが、中で祇園町は最大最盛を誇る。かつては西の島原と東の祇園町で競い合ったという。しかし島原は幕末の大火で徐々に廃れてしまった。今では新撰組長州藩士の出入りした角屋などの茶屋が観光名所にはなっているが、花街としての存在感は祇園町には遠く及ばない。歴史は祇園町よりも島原の方がはるかに古いが、明治維新天皇が東京へ行幸され、連れて都人たちも東下すると、閑散とした京都は花街の灯も消えてしまった。だが、タダで転んでしまう京都人ではない。あの手この手を尽くし、明治も情勢が落ち着いてきた頃には、祇園町にはかつての活気が戻ってきた。その後は日本一の花街へと発展してゆくのである。祇園町はかつて、ほとんどが建仁寺や八坂神社の境内であった。時の政権や、政治情勢、宗教統制により寺社域は縮小されて、祇園町は拡大していった。

日本には延暦寺仁和寺建長寺寛永寺など時の元号を寺名とした寺がいくつかある。建仁寺建仁二年(1202)の創建。建仁はわずか三年しかない。その間に鎌倉幕府の取り巻きは目紛しい展開を見せる。源頼朝の急死で、鎌倉幕府は二代目の頼家が僅か十八歳で後を継いでいたが、母である尼将軍政子の傀儡であって、頼家には実権などなかった。もっとも始めのうちは頼家もはりきっていた。頼朝を凌ぐ独裁将軍を目指した頼家は、自分の信頼する家来以外目通りを許さず、御家人から反発を買ってしまう。事態を重く見た母政子は、北条氏以下の御家人を動かし、頼朝時代から続く重臣による合議制を復活させ、頼家の思う通りにはさせなかった。こうして執権北条氏が出来上がり、鎌倉幕府の体制は皮肉にも棟梁たる源家を差し置いて整備されていったのである。後に室町幕府八代の足利義政も東山に隠棲し銀閣を建立したように、頼家も忸怩たる思いをひた隠しにして、建仁寺を建立することにしたのではないか。六波羅探題の北にあるこの辺りの土地を寄進して、ちょうど南宋から臨済禅を修得し帰朝した栄西禅師に建仁寺を開かせている。或いは頼家は、世を疎い臨済禅に帰依し、自らも出家を望んだのかもしれないが、北条幕府はそれを許さなかった。失意の頼家は、比企能員の変によりわずか一年で将軍職を追われた。建仁寺をはじめ寺社寄進に心を傾けたが、建仁寺の完成を見ずに、元久元年(1204)、伊豆修善寺で死んだ。二十一歳であった。病死とも、毒殺とも、暗殺とも云われている。これがまた後にまで尾を引いてゆき、弟の三代実朝の死にもつながってゆく。

臨済宗建仁寺派大本山建仁寺は、京都で一番古い禅寺だと云う。境内に一歩足を踏み入れると、私が訪れた蒸せ返るような真夏の日とて、禅寺らしいピリッとした空気が漂っている。勅使門から池を越えて三門、本堂にあたる法堂、その奥に方丈。一直線に配された伽藍は、臨済宗の大寺院では馴染みの光景だが、いつ見ても洗心清浄の気分を呼び起こす。その原型がここ建仁寺にある。勅使門は平重盛か敦盛の六波羅邸の門を移築したものとかで、だとすれば平安末の遺構か。建仁寺の辺りを小松町というが、重盛は小松殿とも呼ばれていたから、平家滅亡後に六波羅を接収した鎌倉幕府によって、平家の供養も兼ねて建仁寺へ寄進したのかもしれない。左右対称の美しい三門は、静岡の安寧寺から移築されたもので、「望闕楼(ぼうけつろう)」という扁額が掲げられている。望闕とは御所を望むと云う意味だとか。裳階の付いた端正な法堂は、江戸中期の明和二年(1765)の再建。本尊は釈迦如来座像、迦葉尊者と阿難尊者が脇侍である。法堂内部に入ってまず目を惹くのは、天井の巨大な双龍であろう。建仁寺創建八百年を記念して、小泉淳作氏によって描かれた。一般に禅寺の法堂には龍が描かれていることが多いが、古色蒼然と歳を重ねた龍たちには、確かに禅堂の厳粛さを感じるが、建仁寺の双龍からは色彩の鮮やかなところからも、活力漲る若い龍が、あたかも競い合うように昇天してゆく様にただ圧倒されるばかりではなく、見る者を強い磁力で共に引き上げてくれそうな気配がある。動静を掴みづらい現代人は、ここでいったん始点に戻されるであろう。

建仁寺の伽藍は、京都一古い禅寺としての威厳を見せながらも、祇園町と宮川町という花街に寄り添うようにある姿に、一種独特の閑雅さを纏っている。それがもっともよく表されているのが、方丈であろう。方丈とは禅寺の住持の住まいのことだが、ゆえにどこの禅寺も個性溢れる空間となっている。建仁寺の方丈は、元は広島の安国寺にあったものを、慶長四年(1599)に安国寺恵瓊が移築したもので、室町時代の面影を存分に感じさせる。低く伸びやかな屋根は白鳥が翼を広げたような秀麗さ。方丈前の大雄苑と呼ばれる枯山水の白砂利が、さらにその白さを照り映えさせている。方丈の縁に腰を下ろしてみると、枯山水はあたかも本当の湖のようで、清冽な水音が聴こえてきそうである。方丈は五年ほど前に改修されて、屋根も創建当初の杮葺になったことで、いっそう優美な趣きとなった。昭和九年(1934)の室戸台風で方丈は倒壊し、安国寺恵瓊が海北友松に依頼した五十面の襖絵は、残念ながら掛け軸になってしまったが、雲龍図や竹林七賢図などは複写されている。複写とはいえその迫力には息を飲んだ。室戸台風の後、橋本関雪によって海北友松にも負けない圧巻の襖絵が描かれている。方丈奥の小書院には平成二十六年(2014)に、染色画家の鳥羽美花さんによって描かれた襖絵があり、これは必見である。淡い群青が少し入っているように見える「凪」、その反対側は一転して鮮やかな濃淡のコバルトブルーで描かれた「舟出」。水墨画の新境地を間近に触れた思いがして、絵心なき私でも感動した。ここにも動と静がある。

建仁寺には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」もある。風神雷神図は、元々は建仁寺末寺で右京区宇多野にある妙光寺に蔵されていたもので、京都の豪商で歌人でもあった打它公軌(うだきんのり)が、妙光寺を再興し、記念に親交のあった宗達に依頼したものである。今では本山の建仁寺が所蔵し、世界中に知られている。この有名な屏風について私が語ることは何もない。尾形光琳をはじめ多くの絵師が、風神雷神図を模写しているが、やっぱり私は宗達風神雷神図が一番だという思いでいる。まことに建仁寺日本画の一大美術館であり、中世から現代までの絵師たちの競演を楽しむだけでも、来て良かったと思うであろう。

禅はインドから宋に伝わり、宋によって教義が深められた。寧ろ日本に伝わる禅とは中国で生まれて、日本で育まれたと思う。やがて宋では臨済、曹洞、法眼、潙仰、雲門の禅宗五家にわかれ、独自の禅の世界を展開してゆく。中国禅の祖は達磨大師とされるが、その達磨の禅の継承者の一人が、達磨から三百年ほど後の臨済義玄である。臨済宗臨済とはこの坊さんの名である。江戸時代に白隠の法嗣の一人である東嶺円慈の著した「五家参詳要路門」には、「臨済宗は機鋒を戦わして親疎を論ずるを旨と為す」とある。機鋒とは切っ先のことで、親疎すなわち誰とでも機鋒を戦わすという、好戦的な禅であるが、無論本当に切っ先を交えるわけではなく、禅問答による交戦である。が、これが武家に好まれたことは納得である。禅は悟りを開くことを主眼とするが、禅語録を題として師から弟子へ、弟子から師へ問答を行う。これを公案と呼び、宋代に公案体系なるものがまとめられ、微妙に変化しながら継承されている。それはあくまで悟りであって、知識や論理ではない。日本の二大禅宗臨済と曹洞の大きな違いはこの部分であろう。曹洞は坐禅をしても何も考えない。只管打坐し、無我の境地へ入る。臨済公案を考えて坐禅する。しかし、目指すところはどちらも同じで、悟りなのである。事実道元も、若い頃には建仁寺で修行していた。

日本の二大禅宗は、臨済宗武家が天下を掌握する鎌倉幕府以来代々の天下人の帰依を受けたせいか、敷居が高くて、ましてや五山制度ができると、なおさら高尚な色合いが強く出ていた。一方の曹洞宗武家から庶民にまで末広がり、臨済宗に比べると簡素で入りやすい印象がある。建仁寺京都五山の第三位とされる。改めて述べることもないが、五山とは寺格のことで、もともとは中国で五山制度ができ、日本では鎌倉時代北条貞時がそれに倣い臨済宗の五山制度をつくった。だがこの頃や南北朝時代までは、大徳寺臨川寺が入ったり出たりと曖昧であったが、足利時代になり、尊氏が建立した天龍寺と、義満が建立した相国寺が加えられ、というよりも尊氏や義満が権力にモノを言わせて推し進めたことで、現在の臨済宗五山が確立し、南禅寺を別格として、以後は不動となった。

五山の上 南禅寺

京都五山     

第一位 天龍寺 第二位 相国寺 第三位 建仁寺 第四位 東福寺 第五位 万寿寺

鎌倉五山

第一位 建長寺 第二位 円覚寺 第三位 寿福寺 第四位 浄智寺 第五位 浄妙寺

五山制度は確かに権門と癒着して寺格を保ち、勢力を広げたが、一方で五山文学など禅林文化、文芸の発展、また漢文学の研鑽や外交文書の起草などにも大きく貢献したことも事実である。 建仁寺もそうした大学や研究機関としての役割を担っていた。それは栄西が開山した当初からで、天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。が、これは多分に当時の日本仏教界の勢力図が現れていたからであろう。創建から五十年ほどして蘭渓道隆建仁寺に入ると、鎌倉幕府の後ろ楯もあり、兼学ではなく純粋な禅堂となる。

さて栄西について触れねばなるまい。明菴栄西は永治元年(1141)、備中国吉備津神社権禰宜の子として生まれた。神官にはならず、八歳で父の薦めで倶舎論を読み、十一歳で吉備の安養寺に入り、十四歳で出家し比叡山へ登る。叡山では天台教学を学び、さらには伯耆大山寺へ登り密法を修養した。以後は叡山と吉備を往来しながら、博多へも赴き商人李徳昭から宋国の禅宗について聞いた栄西は入宋を志して、あらゆる伝手を頼りながら、仁安三年(1168)ついには平家の庇護のもと入宋を果たした。彼の地では後に東大寺再興に尽力する重源と出会い親交を深めた。ともに天台山へ登り、多くの天台教学を学び、重源と同航して帰国した。叡山で栄西を見込み育てた天台座主明雲は、平家と癒着し、平家滅亡後、後白河院木曽義仲討伐を企てるも失敗、義仲によって捕縛され斬首された。栄西は最大の理解者と庇護者をいっぺんに失うも、ここからが彼のしたたかなところで、治天の君たる後鳥羽院に巧みに取り入り、神泉苑での雨乞い祈祷を成功させ信頼を得、紫衣まで賜った。前回の入宋では天台教学を学ぶも、半年間と短期滞在であり、そもそも禅宗に心惹かれていた栄西は、どうしても再度入宋したかった。そしてこの機を逃すまいと、文治三年(1187)、四十七歳で再び入宋する。今度こそ禅を学び、臨済禅に辿りつくのである。インドにも行こうとしたらしいが、さすがに叶わず、結果宋国に五年間滞在し帰国。帰りの船中での栄西を想像するに、禅宗の本場宋国で過ごし修養した己に対して、並々ならぬ自信を携えて、意気揚々とした気分であったに違いない。風と波しぶきを蹴る船の舳先で腕組みをし、帰国したらどう臨済禅を広めようかと考え込む栄西の姿が目に浮かぶようである。こんなに行動力があり、実行に移すのはこの時代は僧侶くらいのもので、重源とて似た様なものだ。成功した僧侶は、皆、絶大なるスポンサーを得ている。空海の時代からそうであった。スポンサーもまた彼らには投資しても余りある価値を感じていたのであろう。

帰国した栄西は、空海がそうしたように九州に滞在するが、やがて上洛して「興禅護国論」を著して、後鳥羽院に奏上する。「興禅護国論」には、これまで天台や真言等の修行のひとつと考えられてきた禅を、新しい仏教宗派であると主張するもので、禅宗の独立宣言とも云われる。禅は釈迦の時代からの中心教義であり、インドや宋国で盛んである禅を、日本にも広めて、国家安泰にせねばならないと力説する。禅宗はすべての仏道に通じ、禅を日本の国教とするべきだとまで言った。栄西は、日蓮と同じ様な強硬な姿勢で権門に切り込んでゆく。しかし後鳥羽院の反応はあまり良くなかった。そうと知るや、栄西はすぐに鎌倉へ赴き、直に頼家や、北条政子への取り入りに成功する。鎌倉幕府からの帰依をうけて、幕府や東国の御家人武士のための新しい仏教として、日本の臨済宗は開かれていった。その最初の拠点が鎌倉の寿福寺であり、京都の建仁寺である。栄西は他の宗派の開祖と違い、あまり尊崇されていない印象があるが、それは後に臨済宗が今に連なる多数派に分かれていったことが起因しているのかもしれない。また、空海ほどのカリスマ性はなく、あくまで臨済禅の伝道者であり、栄西自身もそのように生きたからであろう。しかし、日本臨済宗の祖であることは事実である。建保三年(1215)七十五歳で入滅。日本各地を行脚し、二度の入宋、臨済禅の布教に努めた満ち足りた生涯であった。

栄西には臨済宗の確立の他に、もう一つ大きな仕事がある。それは茶の普及である。仏教伝来の頃から我が国でも茶は飲まれてきたが、それは団茶などの発酵茶であって、現在私たちが飲む茶とは色、香り、味わいが異なるものであった。しかし、あまり日本人好みではなかったようで普及はしなかった。緑茶は中国でも飲まれていたが、日本人が緑茶を愛飲するようになるのは、栄西が広めてからである。緑茶はまったく日本の風土、気候、水に適し、日本人の風習、味覚、嗅覚にピタリと合った。緑茶といって現代の我々が想像するのは煎茶であろうが、この頃は碾茶であった。碾茶をひいたら抹茶になる。栄西は宋の禅堂で茶が眠気覚ましとして飲用されていることに感心し、栽培法を学び、帰国時に苗を持ち帰った。そして建仁寺で飲用を始め、広めていった。親しく付き合った栂尾高山寺の明恵にも茶を薦め、明恵もすっかり茶の魅力に惹かれて、高山寺で栽培するようになる。そこから、宇治へと栽培地が広がり、京都は茶の一大生産地となるのである。

栄西は「喫茶養生記」を著して、茶には覚醒作用のみならず、様々な薬効があることを懇切丁寧に解説している。栄西は鎌倉三代将軍実朝に喫茶養生記を献上。鎌倉でも喫茶の習慣は広がり、茶は禅宗と権門との絆となって、やがて室町時代から安土桃山時代にかけて茶の湯文化が大成されてゆく。方丈の裏手には、秀吉の北野大茶湯ゆかりの茶席「東陽坊」が移築され、静謐な佇まいで建っている。建仁寺では栄西の誕生日である毎年四月二十日に四頭茶会が開かれる。これは古式に則った禅宗の茶会で、四人の正客が各八人の相伴客を連れて席入りする。まず、栄西禅師へ焼香と献茶が行われ、抹茶の入った天目茶碗が客に配られる。供給僧(くきょうそう)と呼ばれる雲水たちが、浄瓶(じんびん)というティーポットのような口の細長い金属製の瓶を持ち、注ぎ口に茶筅を指して入ってくる。正客から順に湯をついで、立ったままで茶を点てるのである。私は映像でしか拝見していないが、茶の湯の原形ともいえるこの茶会にはとても関心がある。四頭茶会は建長寺円覚寺など他の禅寺でも時期や主旨を別にして開かれている。禅堂の茶に対する親しみと敬意が込められたこの密やかな茶会に、いつか参加させていただきものである。不束ながら私も週に一度は茶の湯の稽古に通っている。私にとって建仁寺茶の湯文化発祥の寺として極めて大切な場所。

栄西禅師曰く「茶也末代養生之仙薬、人倫延齢の妙術也」〜喫茶養生記冒頭より〜

この言葉に忝ない想いを致し、私はこれからも茶道に邁進したいと思う。

ほとけのみち 智積院

空海真言密教は、現在は多くの派に分かれているが、中でも大きいのは十一派ほどである。その一つ真言宗智山派は、百五十万人を超える信者と三千近い末寺を抱える。智山派といえば、成田山新勝寺川崎大師平間寺高尾山薬王院大本山が有名であるが、総本山は京都東山の智積院である。関東では総本山よりも三つの大本山の方がはるかに知られていて、庶民信仰の聖地として賑わう。私も三大本山は幾度も参詣してきたが、智積院の門を潜るのは今回が初めて。智山派総本山の智積院がどんな寺で、信徒や関東の大本山からみればどんな存在なのであろうか。

日本仏教は、どの宗派も紆余曲折の歴史を経て今に至るが、真言宗空海入定後は迷走し、混沌とした時代があった。それは空海という存在があまりにも大き過ぎたことが、最大の要因である。空海の前に空海はいなくて、空海の後にも空海はいない。真言密教において入定とはすなわち、永遠の瞑想に入ることを意味する。空海自身、釈尊入滅から五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現出するまでは、高野山奥の院弥勒菩薩の浄土たる兜率天を往来し、衆生救済にあたると言って入定した。故に日本の今に在る真言宗とはほとんど空海密教であり、弘法大師を尊崇する大師信仰が主である。空海以後に宗教家としての指導者は生まれるはずは無く、現れる必要もなかった。が、少なくとも徳川時代までと、明治の廃仏棄釈を含めれば一進一退、離合集散を繰り返してきたことで、組織を牽引し改革するリーダーは折々にいた。

覚鑁は、現在につながる真言宗において中興の祖といえる存在である。肥前鹿島の地侍の子に生まれた覚鑁は、九歳で修行を始め、十三歳で上洛して、御室仁和寺成就院にて正式に仏門に入った。さらに南都へ行き、興福寺東大寺でも学んだが、空海真言密教に並々ならぬ関心を抱いていた覚鑁は、即身成仏を信じ、自らも空海大日如来と一体化することを念願した。そして二十歳で高野山へ登った。往生院に身を寄せたが、高野山にとどまらず、仁和寺醍醐寺三井寺など方々で師について、東密台密を学び、真言密教や加持祈祷を修した。真言密教は朝廷や時の権力者の尊崇を得て大きくはなったが、天台宗に比べて密教理論の研究は遅れていた。天台宗最澄亡き後も、円仁や円珍などの優れた後継者により、天台密教の研究と延暦寺の増力が進んだが、先に述べたとおり、真言宗空海が偉大すぎたために後が続かなかった。図らずも、袂を分かつことになった平安仏教の両雄が遺したものは、最澄は人と日本仏教であり、空海は即身成仏と真言密教であった。

覚鑁は早くにこのことに気づいていたに違いない。高野山へ戻った覚鑁は大いになる自信と野望を抱き、政治手腕と宗派の経営手腕を発揮した。時の専制君主たる鳥羽院の絶大な帰依を受け、高野山密教の大学の様な大伝法院と、念仏堂の密厳院を建立し、ついには金剛峰寺の座主になった。が、この大伝法院と密厳院の建立が火種となり覚鑁高野山を追われるのである。覚鑁はいろいろなところで、いろいろな師について、真言密教のみならず、浄土信仰の念仏も学んで、高野山ではその経験と学識を活かし、真言念仏の道場を開くことに心血を注いだ。大日如来阿弥陀如来を同名異体とし、真言宗から浄土宗を教理づけるものである。さらには空海という巨星に胡座をかいて、権力との癒着も公然となりつつある真言密教へ再び空海真言密教を取り戻すべく、覚鑁真言宗の立て直しを図るが、何時の世もどんな組織にも抵抗勢力はいるもので、金剛峰寺の在学僧らの反感を買い、覚鑁一派は高野山から追放されてしまう。覚鑁が金剛峰寺の座主となりわずか二ヶ月のことであった。いくら鳥羽院の後楯があったにせよ、覚鑁もまた空海回帰と称して強引に急ぎすぎた感がある。巨星を追い求め、それがやがて覚鑁自身の理想の仏教となり、真言宗のみならず真言密教の広大無辺な境地を持って、比叡山に代わる日本仏教の総本山を目指したのではなかったか。下野した覚鑁は、紀州根来の地に開いていた神宮寺に移り、四年の後の康治二年(1143)に亡くなった。享年四十九であった。

こうして、紀州の神宮寺は根来寺となり、東寺や高野山古義真言宗に対して、新義真言宗という一派が形成された。戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、六千人の僧侶、寺領七十万石と拡大した。智積院はこの根来寺の学坊の一つで、もう一つの妙音院と双璧の学頭であった。天正年間には、智積院を率いた玄侑と、妙音院を率いた専誉の二派に分かれ、前者を客衆、後者を常住衆と呼んだ。これが後に智山派と豊山派となるのである。 畿内の一大勢力となった根来寺は、天下統一目前の秀吉から疎まれ、天正十三年(1585)に攻められる。玄侑と専誉は衆徒を率いて高野山へ逃れた。玄侑はしばらく醍醐寺神護寺などへ移りながら、鳴りを潜めたが、秀吉が死ぬと、家康から許しを得て京都北野の地に智積院を再建した。

関ヶ原合戦の翌年の慶長六年(1601)に、東山七条の豊国神社の付属寺院と寺領二百石を与えられた。さらに豊臣家滅亡後の元和元年(1615)には、秀吉が創建した祥雲寺と、豊国神社の 境内、堂舎、宝器具のすべての寄進を受けて、智積院は京都に於ける新義真言宗の拠点として整備されていったのである。奇しくも秀吉に攻め込まれた根来寺は、京都の豊臣家の聖地を飲み込む様にして拡大したわけである。智積院背後には東山三十六峯の阿弥陀ヶ峰があり、ここに秀吉は眠っている。徳川幕府は豊臣家の遺構封じも兼ねて、敢えて此の地を与えたに違いない。明治の廃仏棄釈では智積院も波を受けて、往時からは相当に縮小され今の寺域となった。古義真言宗新義真言宗は統一され真言宗として、高野山、東寺、智山派、豊山派の四本山から管長を出したが、明治三十三年(1900)に真言宗智山派として独立、戦時中再び統一されたが、戦後はまた独立して今に至っている。

智積院三十三間堂の東、七条通りの坂上にあり、門前からは京都タワーがよく見える。長い武骨な石垣や総門は、京都にあって武家風の感じが色濃い。広々とした境内は観光客も少なく爽快である。祇園祭が始まったばかりの京都は息苦しい蒸し暑さであったが、智積院の境内へ一歩踏み込めば、涼風が吹いてきてホッと一息つける。智積院は花の寺である。春の桜、秋の紅葉はもちろん、私の行った日は、正門から本堂まで誘うように桔梗が並び咲いていた。桔梗は智山派の宗紋なのである。明王堂の真下の蓮池には蓮華が咲き誇り、本堂裏手の紫陽花の群落も蟬しぐれの中、残んの花を魅せてくれた。講堂奥の書院には池を配した美しい庭園がある。高低差を利用した庭は変化に富み、刈り込まれた躑躅は盛りの頃は見事であろう。池には一羽の大きな青鷺が、まるで石の彫刻のように微動だにせずに立っていた。

智積院には数多の寺宝があるが、何と言っても長谷川等伯と久蔵親子の襖絵は必見。今は収蔵庫にあるが、間近で鑑賞することができる。長谷川等伯は天文八年(1539)、能登国七尾で、当地を領した畠山氏に仕える奥村宗道の子として生まれた。下級武士の奥村家の経済事情はよくなく、幼い等伯は親戚を介して、染物屋の長谷川宗清の家に養子に出された。等伯は染色を通して色や絵柄に親しみ、絵心も備わっていた。幸か不幸か家庭環境が複雑ゆえに天才を育んでいったのだろうし、神仏はそうした等伯に天賦の才能を与えた。青年になると日蓮宗寺院の仏画や人物画を描いて、その腕は能登国では有名になりつつあったが、其処に飽き足らない等伯は、養父母の死を機に、己の求める絵の追求のために、四十一歳にして家族を連れて上洛する。当時の四十一歳といえば、もはや隠居して余生を楽しむ頃だが、等伯の絵に対する情熱と執念こそが、絵師の真骨頂なのであって、長谷川等伯という巨人はこの時に誕生したのである。やはり京都で勝負したいと強く思ったに違いない。長谷川等伯は、当時御用絵師集団として圧倒していた狩野派に対し、まったく独自の画風を確立した。一時は狩野派に入るも、そこに己の求めるものはなく離脱、伝手を頼り本法寺の日通と知り合い、都に腰を据えて絵を描くことに専念できた。その評判が広がるのにあまり時を要していない。日蓮宗寺院に関わらず方々の寺から仏画肖像画、襖絵などの依頼があり、長谷川等伯は京都でも人気の絵師となった。この頃には息子の久蔵をはじめ、弟子というか狩野派に対して長谷川派のような絵師一派ができつつあったが、等伯自身は絵師集団を組織することには、あまり関心を示さなかったように思う。また、堺出身の日通からは千利休を紹介されて親交を深めていった。本法寺から程近くの表千家不審庵には等伯の描いた「利休居士像」が蔵されているが、茶人としての風体、気品に満ちたその表情から、今や私たちがもっとも千利休を思い浮かべる像であろう。まるで狩野派に挑む様な等伯の絵は、能登から京へ来て、色やモチーフが格段に増え、画風は広がりをみせた。京都中にその偉大なる足跡を残している。智積院にあるのは先にも述べた元この地にあった祥雲寺の襖絵で、「楓図」、「雪松図」、「松に秋草図」、「松に黄蜀葵図」、「松に草花図」、「松に梅図」である。いずれも秀吉の命により描かれた。この頃には天下人にも狩野派と対を成す絵師としてその存在を認められ、等伯は絶頂を迎えた。

智積院には等伯の息子久蔵の「桜図」も残る。等伯は久蔵の絵を眺める時、確かに我が子の絵であるとしみじみ思ったであろう。それほどに等伯と見紛う筆致である。が、よくよく見ると、等伯より深慮で繊細な印象である。その中で桜花はぼうっと浮かび上がる夜桜の如く柔らかで、実に優しい。いかに若い久蔵とて一端の絵師。存分に自分の絵を追求したかったであろう。久蔵はこの「桜図」を描いたあと、わずか二十六歳で夭逝した。いわばこの絵が、彼の咲かせた一代の花であった。実はこの「桜図」と、等伯の「楓図」は「桜楓図」という一双の屏風で、父子合作の国宝であるが、本当は久蔵がすべてを描くつもりだったのではないか。久蔵が病に倒れて、描ききれなかった楓を等伯が描いたのかもしれない。等伯を踏襲し長谷川派の次の棟梁として周囲からも一身に期待を集めた久蔵だが、誰よりも等伯が久蔵に期待していたであろうし、成長してゆく息子を見ているのが何よりも嬉しいことであっただろう。久蔵の死に等伯は堪えた。そしてあの絵を描いた。等伯のもっとも有名な作品のひとつ。六曲一双の「松林図屏風」である。あの寒々しい風景はどうしたって能登の風景に違いないが、一切をそぎ落とし、余白に美を見出そうとしたのは、絵師としての己の越し方行く末を思いながらも、何よりも愛息を失くした深い哀しみが揺曳していると思う。ここに至り等伯は、絵師から父になっていた。

 智積院は圧倒的な量感の金堂を中心に、明王堂、大師堂、密厳堂、講堂、宿坊でもある智積院会館などが曼荼羅図の様な配置で建っている。いずれもかなり大きな造りで、非常に開放感がある。関東にある三大本山はいずれも骨太の庶民信仰が根付く寺として、その佇まいにもそうした雰囲気が現れているが、ここ智積院はさすがに京都にある総本山らしく、どこか雅やかな趣きを兼ねている。金堂の裏手から阿弥陀ヶ峰へとゆったりと登っている。紫陽花園の奥には、山の斜面を利用した墓地があった。本堂を見下ろして在る無数の墓碑は、智積院や智山派の僧侶の墓で、立て札にはほとんどが病で早世した修行僧の墓だと記されていた。徳川時代半ばになると、智積院では講学が隆盛し、ここで学ぶ僧侶は三千人以上、学寮も六十を越えた。新義真言教学にとどまらず、唯識、倶舎、印度哲学、国学、漢学、天文暦学、算術、兵学などの講義も行われ、智積院は総合大学であった。仏門、宗派、智山派は組織であり、智積院もまた組織である。この場に葬られている墓碑の一石一石を眺めていると、日々厳格な修行に励んでいた若い僧侶の面影が時空を超えて浮かんでくるようで、何とも切ない想いに駆られた。志半ばで倒れた彼らは、二十一世紀の日本をどんな気持ちで見ているであろう。

 

青春譜〜楽器は宝〜

私が中一でクラリネットを吹き始めて半年、憧れのパートリーダーであるT先輩は卒業していった。卒業を前に、三年生を送る定期演奏会が開かれ、私も先輩と最後の合奏をした。私自身はまことに拙い演奏ではあったが、クラリネットの魅力を存分に教えてくれたT先輩と合奏できることに喜びを感じ、最後だと思うとさみしくてたまらなかった。同時に心から感謝した。T先輩は引退しても時々声をかけてくださり、私たち後輩には励みになった。私はT先輩が使っていた譜面台を引き継いで、ますます練習に気合いが入ったものだ。T先輩は楽器を大切に扱うことを、繰り返し厳しく教えてくれた。演奏家にとって楽器は命の次に大切な物だ。それは中学の吹奏楽部員にとっても同じである。とことん慎重に扱い、日頃から丁寧にメンテナンスをする。今思えば、この事がT先輩から何よりも一番に教わったことであった。先輩は定演後の謝恩会でも、親や学校から授かった楽器を大切にしてくださいと言った。楽器は宝である。

人は太古から音楽に親しんできた。日本人も日本ならではの楽器を発明した。弦楽器、管楽器、打楽器が様々な形で今日まで伝わっている。今日まで伝わっているのも、楽器が宝物として大切にされてきたからだ。大切にされたのは、いにしえの人々にとって楽器は、歌舞音曲を楽しむのみならず、魔除けや呪詛にも使われたからであろう。楽器には霊力が宿ると信じていたに違いない。宮中で邪気を祓う呪いとして、弓の弦を鳴らして行われた鳴弦の儀(めいげんのぎ)や、音の鳴る鏑矢を四方に放つ蟇目の儀(ひきめのぎ)も、その一種か或るいは原型とも云えよう。東大寺正倉院は古代楽器の宝庫である。それらを目にするだけで、天平時代の音や人の声までが聴こえてくるようである。殊に美しい螺鈿細工が施された弦楽器は、妖艶な輝きを放っていて、楽器と工芸品の域を超越した神秘を湛え、見る者の心を捉えるであろう。果たしてどんな音がするのであろうか。私はまだ聴いたことはない。

吹奏楽では西洋で生まれた楽器を用いるが、龍笛、篠笛、尺八などの和楽器と通ずる管楽器は多い。フルートやピッコロ、そしてクラリネットもまた和楽器と近い音色を出せる。私が吹奏楽を始めたきっかけのひとつが、きらきらと光る楽器の美しさに見惚れたからである。木製であるクラリネットとて、手入れしだいでは艶と輝く。コンサートホールではライトに照り映えて、クラリネットは漆黒の輝きを放つのである。あれをいつか手にして奏でてみたいと少年の日の私は願った。中学でその願いが叶った時はうれしくもあり、また震えるほどに緊張もした。 クラリネットを吹くことは、ただ音を出して、譜面を奏でるだけではなくて、あの日あの時の己の声そのものであったと思う。楽器には演奏家の声も宿るのである。等身大の自分の分身ともいえる存在。それが私にとってはクラリネットであった。だからこそ大切にしたい。毎日の手入れは欠かさず、練習後は手垢ひとつ見逃すことなく磨き上げた。私のクラリネットは同じパートの誰よりも輝いていた。クラリネットパートは私の他は皆女子であったが、私ほどクラリネットを愛していた者は当時いなかったと思う。私には楽器は宝であり、物を傷つけずに、丁寧に扱うということを教えてくれたのもまた楽器である。おそらく吹奏楽部員は皆同じような思いでいるはずだ。楽器に対する想い、情熱、畏敬はプロの演奏家とほとんど変わりないだろう。続。

荒ぶる天地神明

今夏の日本列島は凄まじい。ここ何年も異常気象であるが、今夏ほど同時多発で天変地異が起こることも、私の記憶ではない。酷暑、豪雨による大洪水、猛烈な台風、そして北海道の巨大地震。記憶にないと言ったが、思い出せば七年前の東日本大震災の時も、一月に新燃岳の噴火や、東北の巨大地震の翌日には長野県でも大地震があった。私は地震学や気象学のことはさっぱりわからないが、地球の地殻変動と、大気の状態、さらには潮の干満というのは、すべてが歯車のように連動していることは信じている。この星自体がひとつの生命体であり、我々はその母体に寄生しているに過ぎない。生命の誕生と死滅が、潮の干満と密接に関わりがあることからしても、この星の一部として生かされ、生きているのだと思う。

しかしよくよく考えてみれば、この星にとって人間ほど必要のない存在はあるまい。地球にとって人類とは癌細胞なのではないか。確かに人類は、現時点において地球上で最も高度な頭脳を授かり、それを有効かつ便利に用いることに成功したかもしれない。あたかもこの星の王として振舞い、我が物顔で支配した様に錯覚している。この頭脳は神から授かりしものか、悪魔からの入れ智慧なのか。真相はますますもって混迷してきた昨今、いよいよこの星は、病源たる人類の駆逐に乗り出したのやもしれない。

このところの大きな災害に遭われた方々、残念ながらお亡くなりになった方には心からお見舞いと哀悼の意を捧げたい。が、不謹慎であるとわかって、あえて申し上げたい。今、この星は怒っている。我らには想像出来ない自然災害も、地球にとっては、解毒剤を服用し、大手術を施しているのかもしれない。その治癒にはかなりの痛みも伴う。或いは、我らの天と地の神々は祟りとなってしまったか。それとも悪魔や鬼がいよいよ降臨し、せせら嗤いながら、我らを食し始めたのか。人間文明がどんなに進んでみても、自然災害に対してはどこまでも為す術なく、茫然と見過ごすことしかできぬであろう。強いて言えば、防災意識を高めることくらいしか我々にはできないのである。それにも限界はある。確かに人間は解決にむけて考える知能と行動する能力と勇気を持ち合わせている。それを必死で行使するために訴えて、これ以上の破壊を防ごうとする人々も或る。しかしそれはほんの一部の人々で、その他大勢は、普段からその怒りの声に耳を傾けようとはしていない。今、我々人間は一人ひとりが、対岸の火事とは思わずに、真剣にこの星と人類以外の生命のことを考えていかなければ、確実に滅びるであろう。人類滅亡の道は人間自らが作り、道の途切れし崖の先へと猛スピードで駆け抜けている。私にはそう思えてならない。