弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

平成三十年大つごもり

平成三十年が暮れようとしている。今年もあっという間に大晦日。私なりに正月準備も整えたり。煤払いをし、至極簡単ではあるが正月料理も拵えた。年末くらいのんびりしようと思うが、なかなかそうもいかないのが常である。 平成と云う時代も、年が明ければ四ヶ月で終わる。一年が瞬く間に過ぎ去るのだから、四ヶ月なんて目の前。平成の三十年間すら早かった。まことに。

昭和六十四年一月七日。昭和が終わった日、私は中学一年の冬休みであった。あの日の記憶は鮮明に覚えている。何日も前から昭和天皇のご容態が報道され、前夜にはいよいよご危篤である旨伝えられた。そして午前六時三十三分、昭和天皇崩御された。全メディアは一日中天皇崩御と新天皇践祚の報道ばかりで、皇室に関心を持ち始めていた私は、朝から晩までテレビの前から離れなかった。そして一ヶ月後の平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬があった。冷たい雨の降りしきるモノクロ写真のような東京の街。弔砲が鳴り響き、「哀しみの極み」と云う葬送曲が吹奏される中、昭和天皇の葬列が皇居から葬場殿のある新宿御苑まで粛々と進む光景は、脳裏に焼き付いて離れない。

一方、平成二年十一月十二日、今上陛下が即位された。即位の大礼は、晩秋の快晴の下で厳かに行われた。京都御所より運ばれた天皇皇后の玉座たる高御座と御帳台は、宮殿松の間にすえられて、陛下は象徴天皇として、御即位を正式に内外に宣明された。二重橋から赤坂御所まで晴れやかな祝賀パレードや、連日に渡る饗宴が行われたが、両陛下の御成婚パレードを観たことがない私には、あれほど華やかな祝典を目の当たりにしたのは初めてのことで感動した。そして一世一代の大嘗祭が、古式ゆかしく行われ、昭和から平成に変わる時、天皇と云う存在が日本にはいかに大きなものであるか、思春期の私はいろいろと考えさせられた。小学生の頃から歴史に関心を寄せていたが、日本は有史以来、天皇を抜きにして語ることはできず、神代から現代まで、紆余曲折しながらも、いつの世も天皇がおられる事が、私の日本史を学ぶ原動力にのひとつになってもいる。

一口に三十年と言えど、様々な出来事があった。平成になってすぐ、昭和の歌姫美空ひばりさんが亡くなり、平成の終わりには、平成の歌姫安室奈美恵さんが引退した。平成初頭にベルリンの壁ソ連が崩壊し、冷戦が終結するも、すぐに湾岸戦争が始まり、新たなる脅威として世界中でテロが多発、中東戦線は常に泥沼であった。アメリカは同時多発テロにより初めて本国が攻撃を受け、ニューヨークやワシントンD.C.で多くの犠牲者が出た。その後イラク戦争に発展し、戦後も怨嗟の連鎖を招き続けている。ヨーロッパは近年、ギリシャの破綻、ロシアのクリミア併合、イギリスのEU離脱など混迷を深めている。保護主義が台頭し、米欧の関係はかつてないほどに悪化している。思えば、過去二度の世界大戦の火種はヨーロッパであった。中国は天安門事件以来、徹底的に強権国家となった。おかげで、この三十年で世界第二位の経済大国にのし上がるも、民主化は大きく後退してしまった。呼応した北朝鮮は中国の猿真似を試みたが、さすがに国力が違い過ぎて行き詰まった。ゆえに若き独裁者は、脅威と融和を織り交ぜながら、うまく安全地帯へと泳ぎ切ろうと試みている。アフリカや東南アジア、南米はいつまでたっても貧富の差が激しく、貧しい者から病気になり、天災や戦争によって真っ先に命を落とす。日本はこれらの国々とこれからどう向き合ってゆくのか。世界の勢力図はますます変わってゆくだろう。アメリカの一強時代が終わり、中国との二強を取り巻く地図になってゆくと思うが、日本は身の置き所を自らしっかりと見極めて、定めねばならない。

その日本は今どうであろう。昭和は初期に悲しき戦争時代があって、戦後日本人は不戦の誓いを立て今日まできた。平成の三十年間一度として、日本国民は戦争に巻き込まれなかった。これは当たり前の様で、これまでの歴史を鑑みれば奇跡の様である。だが一方で、平成は大災害の多発した時代であった。雲仙普賢岳有珠山新燃岳御嶽山などの火山噴火、阪神淡路、北海道、中越、東日本、熊本などの大震災が相次いだ。東日本大震災では、史上最悪の原発事故まで誘発してしまい。日本史どころか、人類史上に大きな汚点を遺してしまった。あの事故は確かに大震災による事故であり、国や東電には責任はあるが、ひいてはそれを長年許容してきたのも、我々日本人であり、原発に大いに依存してきたのも現代日本人なのである。そこを頭の片隅にすえて、発言し行動せねば、過去の人には叱られて、未来の人には笑われよう。さらに最近は、毎年豪雨による大水害が起きているが、これは一概に温暖化だけの問題とも思えない。私は何か地球全体が今、大きな気候変動の時期にさしかかってきている気がする。もしそうならば、我々人間は成す術などないが、ただ傍観することもできない。であれば、やはりそこは一人ひとりが高い防災意識を持ち、緻密なシュミレーションをし、起こった時にどう行動するか、どこへ避難するのかを常々考え用意しておくのは、もはや必定である。その様な極めて不安定な時を我々は生きている。刃の上を歩いていると心得ねばなるまい。

平成が始まった頃、日本の国家予算はおよそ六十兆円であった。さすがにバブル期絶頂と思ったが、実は今はさらに増え今年度は百兆円となった。バブルが崩壊し、失われた二十年を経た今、巨額の借金があるのに、百兆円だなんて驚きである。その予算をうまく使っているとは到底思えないのである。十数年周期で金融危機がやってくる。リーマンショックから十年、そろそろ突如として何か経済的ショックが起こるやもしれない。格差は広がり続け、日本にも貧困に喘ぐ人々が大勢いる。権力者や富裕層は、ノブレスオブリージュと云う言葉を、今一度噛み締めていただきたい。オリンピックも万博も結構であるが、本当に今の日本で開催する意義、意味はあるのだろうか。走り出している今、何を言っても無駄であり、こうした事は終わってから数年を経て、ほとぼりが冷めた頃に判明するのであろう。

 なんだか平成とは暗い時代であると捉えて書いてしまったが、さにあらず、平和であればこそ、見えてくるものがあるのだ。それは私だけではなく、誰もがちょっと考えたり、アンテナを張り、精神を研ぎ澄ましてみれば、自ずと見えてくるだろう。実は普段から目の当たりにしてるはずだ。それを見過ごし、或いは見て見ぬ振りをしているのだ。が、そうも言ってはいられない時代に我々は生きている。平成はインターネット、SNSが普及し尽くし、おかげで人生を楽しむための幅が広がり、個性を尊重しあえる世の中ができた。それらを活用して大成功をおさめる事も叶う時代。また一方ではその新しい文明の利器が、人を殺めたり、陰湿で閉鎖的な社会を構築している。ちょっと何かを誤ると、一斉攻撃して、完膚なきまでに叩き、追い込む。日本人は昔から排他的で、右向け右が落ち着く民族である。誰か一人異質とみなせば、イジメたり、村八分にする習性がある。この度合いは年々大きくなり、若年化している。なんとくだらぬ事を継承してきたことか。こんな渇いた社会、もういい加減やめねばならぬ。 昭和の終わりに生まれ、我が人生でもっとも多感な時を過ごした平成と云う時代がまもなく終わる。私もすでに人生の白秋に入り、このあとは余生の様なものだが、実はこれからの余生こそを謳歌する気満々でいる。やりたい事、行きたい場所、ささやかな願いであるが、少しずつ叶えてみたい。あと少しで平成三十一年がやって来る。あと少しで平成時代が終わる。

なおすけの平成古寺巡礼 天空の枯山水

東京は23区と多摩では人口だけではなく、街の様子もずいぶんと違う。丹沢、高尾、秩父の峰々がグッと迫り、そのキワから、街はゆるやかに江戸へと下る。真冬の快晴の日には、富士山が目と鼻の先に大きく現れる。昔は、江戸の町の至る所から、富士を眺められたものだが、今は高層ビルに昇らないとなかなか拝めない。でも多摩ならば、今でも武蔵野から望む富士がある。富士見町、富士見ケ丘、ふじみ野、富士見台など、取って付けたように富士を冠する地名が出てくる。かつて三多摩と云われた地域は、いわゆるニュータウンという印象があるかもしれない。しかしそのニュータウンのすくそばには、神社仏閣が点在し、古墳もあったりして、古くからの人の営みも随所に見られる。都心から電車で小一時間の場所に、そういう寺社を見つけた時、私の胸は踊る。近畿地方には然るべき場所に、神社仏閣が在って、関東は到底敵わぬ歴史がある。が、東京の多摩において、神さびた社や、風情漂う寺と出逢った時、その意外性?から、私の感動や喜びは関西で見つけた時よりも大きなものがある。そしてそれらの寺社について調べてみると、意外でも何でもなく、多摩には万葉時代の面影もあれば、古代人の営みまで垣間見られる場所が点在しているのであった。ついつい畿内や江戸にばかり関心が向くが、多摩には裏街道の歴史がつまっている。

江戸が本当に発展したのは、言わずもがな徳川時代になってから。古代から中世までの武蔵国の歴史は、多摩地区にこそ見つかる。武蔵国国府が置かれた府中市国分寺市がその中心で、律令時代、東山道や武蔵路が発展したのも、国分寺を目指していたからだ。畿内とはこの道で結ばれていた。多摩市、町田市、稲城市川崎市麻生区多摩区横浜市青葉区の一部を、かつては南多摩郡と云ったが、奈良とか三輪とか、大和を彷彿とする地名が見られるのが興味深い。いずれ大和から下った人々が、望郷の念から、大和に似た景色を見つけては、そのように呼び習わしたのだろうか。中世、分倍河原では、二度も大合戦が繰り広げられた。このあたりが鎌倉街道東山道など複数の街道の交わる要衝であったからゆえであろう。八王子には小田原北条氏の大きな支城があったのも、小田原を甲州武州、信州などから守るためであった。多摩市の聖蹟桜ヶ丘には、さいたまの大宮にある氷川神社と並び武蔵一宮だとされる小野神社もある。聖蹟桜ヶ丘と云えば、明治天皇の狩場であったところで、天皇はいたくこの地を気に入り、春に鶯の啼くのを聞かれて、皇后とともに歌を詠まれた。

春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鶯の声(明治天皇

春もまだ寒きみやまの鶯はみゆきまちてや鳴きはじめけむ(昭憲皇太后

今では「耳をすませば」の舞台で有名になった聖蹟桜ヶ丘も、明治の頃までは風光明媚な丘陵であった。

他にも、調布の深大寺、府中の大国魂神社、日野の高幡不動高尾山薬王院など本当に見所が多い。これら有名どころ以外にも、風情ある佇まいを魅せる寺社が探せばいくらでもある。京都や奈良の立派な寺社も大変けっこうであるが、負け惜しみでなくとも、多摩地区にはそれに劣らぬ魅力を感じている。私は多摩が大好きである。時間があると、ちょっと散歩がてらに出かけてみる。十年以上ずいぶん方々を歩いてみたが、奥は深く、まだ見ぬ寺社は数多ある。お江戸とも畿内とも違う、素朴で独特な色を持っている多摩を散歩するのは楽しい。何よりもうれしいのは、いつ行っても静かであることだ。これに尽きる。

その多摩の総奥の院ともいえる場所が、西多摩郡檜原村だ。先年師走の半ば、私は初めて檜原村へ足を運んだ。檜原村は奥地である。鉄道は奥多摩町には走ったが、檜原村にはやって来なかった。東京なのになかなか行けない。東京の秘境とも呼ばれる所以である。檜原村には前から気になっている寺があった。玉傳寺と云う禅寺で、本堂から眺める枯山水が見事であると云う。友人T君に同行してもらい、早朝から青梅街道を西へ向かう。途中、五日市界隈の寺社に、ちょっと寄り道する。この界隈、私は度々歩いてきたので、初めてのT君を案内した。横田基地を通り過ぎて、多摩川にかかる多摩橋を渡った瞬間、周囲の丘陵の圧巻に私たちは息を呑んだ。丘陵全体が、この年の終わりの紅葉で明け染まり、まさに今が最後とばかりに眩しかったのである。京都では近年、松喰い虫にやられて、周囲の山の紅葉の色が薄れて、冬枯れも目立つが、五日市周辺の山はまだまだ元気である。今はあきる野市となってずいぶん大きな街になったが、街のすぐそばに野山があり、田畑がある。東京とは思えぬ長閑な風景が広がっている。街を東西に流れる秋川は、古代からこの地を潤してきた。

東京サマーランド近くの秋川を見下ろす小高い丘を明神山と云う。この山に鎮座する雨武主神社の社殿には、見事な彫刻が施されている。このあたりを雨間と云い、雨武主神社は古くから、雨乞いの神様として崇拝されてきた。祭神は天之御中主(アメノミナカヌシ)で、土地では「あまむし大明神」と呼ぶ。天之御中主は、古事記では最初に登場する神で、次に登場する高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)と、その次に登場する神産巣日神(カミムスヒノカミ)と共に「造化の三神」と云うが、天之御中主は天の真ん中を領する神とされる。中心の神と云うことで、後には北極星の化身とされる妙見菩薩や、伊勢の豊受大神を同一のものとする考えが生まれ、妙見信仰や伊勢信仰とつながり、同じ天を司る神として祀られた。ゆえにここでも日照り続きの飢饉では、雨乞いの神として縋ったのだろう。同一視というところを切り取れば、或いは神仏混淆ということにもつながってくる。秋川の対岸には鳥居場と呼ばれる遥拝所があり、川向こうの人々は、わざわざここまで来なくても済んだのである。江戸の頃までは、川の中州にも鳥居場があったとか。ずっと前に対岸の鳥居場にも行ってみたことがあるが、今は住宅地の只中にあって、ささやかな社が建ってい、社の先には、明神山がいかにも神山を思わせる崇高な山容で見えた。明神山の麓からは百九十六段の急な石段が、天に向かって真っ直ぐに伸びている。石段を昇ると、木立の中に社が建っていた。本殿は風雪避けに覆われているのだが、それは本殿に施された彫刻を守るためで、社殿奥の壁面と裏面にその彫刻がある。中国の故事を描いたものらしく、見たところ柴又帝釈天の彫刻に類似している。どこにでもある左甚五郎とか、飛騨の匠説もあるが、江戸の頃の作ならば、帝釈天の彫刻を施した、江戸や安房の彫師集団の誰かの作と思われる。人里離れた神社に、こんな見事な彫刻があることに驚くが、地元の人にだけ親しまれて、大切にされてきたのである。ここにある彫刻からは、権力とは無縁のうぶな光芒を感じる。

秋川の清らかな流れは、古代から人々の営みを支えていた。ゆえに五日市には古社寺がたくさんある。五日市町秋川市が合併し、あきる野と云う地名になったのは近年のことだが、五日ごとに市が立ったことに由来する五日市と云う古い名は、街道や駅に残り、旧家や古い家並は五日市駅周辺に遺されている。西南戦争が終わり、ようやく時勢落ち着き始めた明治十四年(1881)、自由民権運動の高まりを受けて、国会開設と憲法の必要が唱えられ、運動は全国津々浦々まで広がった。この山里でも有志が集まり独自の憲法草案をまとめた。いわゆる五日市憲法と呼ばれる私擬憲法である。私擬憲法は、大日本帝国憲法発布以前に、日本中で議論された民間の憲法私案である。個人では、元田永孚山田顕義、福地源一郎、井上毅、小野梓、西周錚々たる啓蒙思想家が私案を発表している。彼らに共通するのはほとんどが旧士族であり、西南戦争を忸怩たる想いで見つめていた者もいたかもしれない。が、西南戦争の結果が、彼らを余計に奮い立たせ、新たな道を拓いてゆく原動力となったとも言える。五日市憲法は、正確には「日本帝国憲法」と云うタイトル。起草したのが千葉卓三郎で、支援したのがこの地深沢の名主で深沢権八であった。千葉は仙台藩士の子として生まれ、戊辰の役では白河口の戦いにも参戦した。維新後、ロシア正教会の洗礼を受け、各地を転々としながらキリスト教のみならず仏教、儒学国学等をおさめ教師となり、やがて五日市の小学校に派遣されて校長になった。これが縁で名主の深沢権八とも知り合い、これからの日本の行く末を語り、意気投合したのである。五日市憲法は、現日本国憲法に近いとも云われるが、実際は似て非なるモノ。全二百四条のうち百五十条を基本的人権や民権を主張すると云う画期的な部分はあっても、統帥権を含めた天皇大権は絶対であるとしており、国民の権利や保障との間に矛盾をきたしている。結局、五日市憲法は私案のまま眠ってしまったが、昭和四十三年(1968)、多摩の自由民権運動を発掘し研究した色川大吉によって、深沢家の土蔵から発見され、五日市憲法と呼ばれるようになる。明治期、多摩は自由民権運動の盛んなところであった。多摩からは幕末来、新撰組をはじめとした志士勇士が出て、存在感を発揮する。江戸東京の食糧供給源である多摩の庄屋や豪農は、絶大な力を有していた。江戸を支えていた自負心が代々継承されていったのも当然であろう。その気になれば、村人を動かし一揆を煽動もできたし、周辺の名主と結託し、連を造り得た。一方、権力側とも癒着し、たとえば代官とも一蓮托生で治めている場合もある。こうした農村では豪農たる庄屋や名主が、ほぼ全面的に権力側と市民側とのパイプ役であり、庄屋や名主抜きでは何にも決まらず、解決しなかった。江戸期から明治初期まで日本の農村はいずれも似たような形であったと思う。江戸幕府が瓦解し、封建社会は崩壊するも、豪農は四民平等を謳う新政府と庶民をつなぐパイプ役としての力を失わず、むしろ積極的に農村からも自由民権運動を煽動した。東京の庭先である多摩が、その中心地となるのは当然で、人々の意識の高さが窺える。

五日市周辺の寺のいくつかを訪ねてきたが、中で私を強く惹きつけたのが、大悲願寺と広徳寺であった。 武蔵増戸駅から十分ほど歩くと、何処からともなく沢の瀬音が聴こえてくる。やがて武家屋敷を思わせる漆喰の壁と、その先に重厚な大悲願寺の山門が現れた。山内は樹齢五百年もの杉木立が亭々と聳えている。大悲願寺は真言宗豊山派の寺で、かつては三十二の末寺を擁したが、今は花の寺として有名である。梅、牡丹、桜、躑躅、藤、花菖蒲、百日紅、白萩、紅葉とまさしく百花繚乱。伽藍は本堂にあたる講堂、阿弥陀堂観音堂があるだけだが、いずれも落ち着いた佇まいを見せている。無畏閣と呼ばれ重文の阿弥陀三尊を祀る阿弥陀堂には、雨武主神社のように精緻な彫刻が施され、こちらは色彩も鮮やかに蘇っている。私の目をことに惹いた観音堂は、華奢ではあるが気品があり関東でも指折りの優美さである。寺伝では聖徳太子一宇の草堂を建てたことが起こりとされるが、寺の背後の山にその伝説があるとか。土地の人々の聖地には様々な伝承があるもので、太子信仰は西国ばかりではないことを示している。日本の寺院にはだいたい似たような寺伝があって、聖徳太子役行者行基菩薩、弘法大師、慈覚大師が代表される存在だ。伝承は様々だが、正式に記録が残るのは、建久二年(1191)源頼朝の家人で、日野の平山城主平山季重が開基であると云う。平山季重は源平合戦の勇士として活躍し、頼朝の覚えが目出度く武蔵開拓を託されて、この地に縁を得た。開山には京都醍醐寺三宝院の澄秀を迎えている。徳川時代には幕府から朱印状を与えられ、伊達政宗も時の住持と親交があった。ある秋の日、この寺を訪れた政宗は、境内いちめんに咲く白萩に心奪われて、後日一株所望したと云う書簡が残っている。その白萩は現在も九月になると講堂のまわりに花の海を現出させる。

大悲願寺から広徳寺までは歩いて一時間少々。ちょうど良い散歩コースだ。私はこのあたりを何度も歩いた。雲雀囀る麗らかな春、清冽な川飛沫が涼やかな夏、街を包む丘陵が全山燃ゆる秋、張り詰めた山気が里全体を支配する静謐な冬。ここは東京でもっとも四季を堪能できる場所かもしれない。途中、阿岐留神社にも寄る。その名のとおり、あきる野と云う名の由緒とされる。さすがにこのあたりの総鎮守らしい堂々たる社である。阿岐留神社のすぐ真下を秋川が流れてい、川沿いを西へゆくと小和田橋に達する。橋を渡ると左手に秋川丘陵が横たわり、広徳寺は丘陵の入り口を少し登ったところにある。急坂の参道には石仏が並び、両側には石垣が積まれていて、確かに名刹へのアプローチらしい。寺好きはきっと胸が騒ぐであろう。坂を登りきるとそこが広徳寺の総門で、奥には情趣溢れる茅葺の山門と、その先の本堂まで、一直線に配された伽藍は美しい。広徳寺は応安六年(1373)創建の臨済宗建長寺派の寺である。なるほど、それでこの伽藍配置か。茅葺の本堂は質朴でどっしりとした感じが、いかにも鄙びていて私には好ましい。本堂裏手には小さな池があって、唐紅に染まる楓が水面に映えて揺れていた。巨大な多羅葉や栢が本堂を背後から守るようにして立っている。広徳寺は境内全体が禅寺らしい簡素で侘びた佇まいであるが、何と言っても山門内に聳える二本のイチョウは、見る者を圧倒するだろう。推定樹齢三百年とも四百年とも云われる二本の巨木は、山門を潜った先、本堂との間に、あたかももう一つ門が立っている様に見える。このイチョウ高さも二十メートル以上あるが、太い枝が下に向かって垂乳根のようにぶら下がっている姿は、少々薄気味悪い。逆に言えば神々しくて、枝に触れたら吸い込まれそうである。山門や本堂は江戸期の再建と云うから、おそらくはこの二本のイチョウを中心にして、この寺は整備されたに違いない。それほどこの禅寺の一直線の伽藍配置にしっくり収まっている。イチョウを山門に見立て他の堂宇が建立されていったとすれば、自然と一体となされた寺であることがわかる。広徳寺の風景に私は深い感銘を受けた。

 車はあきる野からさらに奥へ。五日市街道は戸倉集落のあたりから檜原街道と名を変える。ここからは私も未開の地。道は山登りである。昼頃、檜原村へ入った。すぐに中山の滝がある。檜原村には多くの滝があって、十三瀑布が名所となっている。中で落差最高六十メートルの払沢(ほっさわ)の滝は「日本の滝百選」にも選ばれている。本宿というところに檜原村役場があり、このあたりが昔から村の中心地らしく、近くの山上には檜原城址や吉祥寺という古刹がある。役場でガイドマップを貰った。役場の人はとても親切に檜原村のことを教えてくれた。都庁や23区の偉そうな小役人とは雲泥の差の優しい応対に、私は檜原村の風景にも人にも惹き込まれた。役場の前や街道筋には茅葺の古民家が点在している。こんな景色は東京はおろか、今の日本ではなかなかお目にかかれない。

檜原街道は役場の先で二手に分かれる。右に折れたら北秋川渓谷で、ずっと先に神戸岩(かのといわ)と呼ばれる高さ百メートルもの巨岩がある。神戸岩は太古から神の磐座と信じられてきた。檜原村は神々の住まう国への入り口。山や巨巌を、樹木や滝を、人々は崇めて御神体とした。この時は時間が足らずに断念したが、神戸岩と払沢の滝は次の楽しみとしたい。役場前の檜原街道を左に折れれば南秋川渓谷で、目指す玉傳寺はこちらである。あきる野も蕎麦が美味いが、檜原村もまた蕎麦所らしい。途中、山の中腹にある一軒に入った。太い十割蕎麦で、コシが強く歯応えがある。蕎麦好きの私は洗練された都会の蕎麦も好きだが、蕎麦の香を堪能するにはこうした蕎麦もまた良い。

 車は山中を西へ、秋川沿いを上流へと遡る。時折視界が開けてもそこは滝や川であったり、ささやかな畑であったりするが人家はない。だいぶ行ったところにようやく集落が現れた。人里と書いてへんぼりと云う集落で、本当の意味でこのあたり唯一の里である。玉傳寺はこの人里の小高い丘の上に在った。が、いったん玉傳寺を通り越して、秋川をさらに遡上し、九頭龍神社へ向かう。人里から三、四キロ行ったところに龍神の滝があった。秋川渓谷に下りて、朽ちかけた木橋を渡った先に白糸のような滝が落ちている。落差はない滝だが、滝口から木漏れ日が射し、水が七色に輝いて見える姿は何とも神秘的で、確かに龍神が現れそうな雰囲気がある。滝壺は浅くて、滝行にも利用されているのではないか。さらに一キロほど遡上すると九頭龍の滝だ。滝はこのあたりの水を集めて秋川へ流れてゆき、やがて多摩川に注いでゆく。九頭龍の滝は二段構えの勇壮な滝で、龍神の滝よりも水量も多い。注連縄が張られており、一帯は神域となっている。龍神の滝がしなやかで女性的な滝ならば、九頭龍の滝は荒々しい男性的な滝である。九頭龍神社は滝から歩いて五分ほど、街道沿いの杉木立の中にひっそりと建っていた。鳥居前の二本の杉の巨木はあたかも昇竜の如く見えて、まことに清浄な空気が境内を支配している。九頭龍神社の正確な創建年は不明と云うが、神社の由緒には、南北朝時代建武三年(1336)に、現宮司の祖である中村数馬守小野氏経が、南朝方に従軍し、南朝の守護神とされた九頭龍をここへ祀ったことが始まりであるとされる。信州戸隠神社から九頭龍社を勧請し、祭神は九頭龍大神手力雄命とされるが、九頭龍の滝が真の御神体なのであろう。滝の多い檜原村には、水を司る龍神信仰は上古からあったはずで、ここも聖地であったに違いない。そこへ九頭龍神社が建立されたのも、偶然ではなく必然であった。

九頭龍神社をあとにして、ようやく玉傳寺へ向かう。人里の集落に戻ってきた頃には、日はだいぶ傾いていた。玉傳寺の石段を登ると鐘楼があり、すぐに石庭が現れた。そこに本堂があって、庫裏も棟続きになっている。堂宇はそれきりのまことにささやかな寺だが、なんといっても景色がすばらしい。これが噂に聴いた絶景の枯山水か。龍安寺の半分もあるかないかの小さな石庭で、禅寺でよく見かける枯山水であるが、玉傳寺の枯山水は見ればみるほどに大きく見える。それは枯山水の背後に重畳と連なる山々を大借景にしているからである。参詣した日は快晴で、青空の下、折り重なる山は彼方まで見渡せ、後方の山は天との間に地平線を作っている。これほど雄大な借景を持った枯山水は他にあるまい。私たちは一頻り歓声をあげると、深呼吸をして、じっくりとその景色を堪能した。この寺は永正元年(1504)の創建で、臨済宗建長寺派であることまではわかったが、開基や由緒についてはよくわからない。そんなことはどうでも良い。住職や奥さんとも顔を合わせたが、寺のことを詳しく伺う事もなく、今はただ、この眺めを飽くまで見ていたいと思った。玉傳寺は、寺カフェ「岫雲」を営んでおり、私たちも薄茶をいただいた。冬の陽だまりが暖かく包む本堂の縁側に座して、美しい静寂の石庭を眺めながらいただいたお茶は格別であった。この石庭は京都の大学で枯山水を研究する方々からアドバイスを得て作庭されたらしい。右手の山にはちょうどこの庭からも眺められる位置に一本の枝垂桜がある。いつか花の頃、月夜の晩にでもそれを観てみたい。玉傳寺は東京で一番の枯山水であり、私には日本でも五指に入る名庭である。玉傳寺には枯山水の庭の他、何にもない。それがいっそ心地よく、真の禅寺であると感心した。

 車は檜原街道から再び五日市街道へ戻ってきた。五日市駅近くに美味い洋食屋があり、そこで少し早い晩御飯。食後、ふと急に夜の広徳寺が見たくなり、T君にお願いした。ここからは車で5分少々。私たちは夜の広徳寺山門を潜った。同じ日に二度も広徳寺に来れるなんて幸せなことだ。しかも夜は初めて。一度夜ここへ来て見たかった。その願いが叶ったのである。夜の広徳寺は、昼にも増して森閑としている。無論、境内にいるのは私たちのみ。時折、森の方からホウホウと聴こえてくるが、梟なのか、みみずくなのか。山門も、本堂も、巨大なイチョウも静かに眠りにつこうとしている。いやイチョウ垂乳根だけは、相変わらず不気味に手招きして見える。まるで触手のように伸ばして、掴まれそうである。しかしそんな気味の悪さも、上を見上げたら吹き飛んだ。空には満天の冬の星座。 本当にここは東京なのか。いや東京とは23区であって、多摩は多摩、別世界なのである。多摩にはまだまだ未開の地がある。私は多摩の魅力の完全なる虜である。その不思議な魅力に誘われて、私はまた多摩へと向かう。

よかにせ

私は旧島津領の生まれである。ゆえに話す言葉は、ほぼ薩摩弁であった。ほぼ薩摩弁としたのは、鹿児島城下と他の地域では微妙に違いがあるからで、鹿児島城下が薩摩弁の標準語であれば、他の地域はその地域毎の薩摩弁であったからだ。イントネーションは島津領全域で大体似ていたと思う。幼い頃は祖父からよく西郷隆盛の話を聞いた。祖父は西郷を「南洲先生」と呼んで敬愛していた。また時には親しみを込めて「せごどん」とか、「さいごうどん」と呼んだ。西郷の話をする時の祖父は実に楽しそうであった。会ったこともないのに、まるで自分自身が西郷の傍に仕え、さも見てきたように西郷の偉大さを誇らしげに語るのだった。下級藩士から陸軍大将まで上がった西郷隆盛は、鹿児島のみならず南九州最高の人であることを、小学生の私に祖父は滔々と話して聞かせた。しかし、祖父が本当に好んだ西郷像とは、島津斉彬の密命に暗躍したり、戊辰の役での参謀とか、新政府においての参議とか陸軍大将としての西郷ではなくて、地元にいるときのおはしょりに兵児帯姿で、犬を連れて歩く、気儘の西郷であった。祖父の西郷への敬愛ぶりは、西南の役の話に及ぶと落涙するほどであった。暗澹たる気持ちになり、まことに寂しげに西郷の悲運を嘆いた。西郷隆盛は維新の立役者の一人として表舞台に立っても、他の連中とは明らかに違っていた。引くことを弁え、負けることの意味を誰よりも知っている男であった。祖父の影響で私の描く西郷隆盛像は、国家の英雄とか、維新の元勲ではなく、薩摩の一民政家であり、民の味方であった優男である。西郷隆盛は「よかにせ」であった。こういう大きくて包容力のある男を薩摩では「よかにせ」と呼ぶ。近頃は器量の良いいわゆるイケメンを指して「よかにせ」と呼んだりするが、本来は西郷のような豪快で、情に脆く、心優しい薩摩男子を「よかにせ」と言った。

私は日本史が好きで、少しばかり学んでみてはいる。幼い頃から歴史に関心があったのだが、本当にのめり込んでゆくのは、祖父から聞いた西郷隆盛大久保利通ら維新の志士たちの話がきっかけである。日本史への入り口は幕末なのであった。今でもやっぱり幕末が一番面白い。時空を遡ってどこかの時代にゆけるならば、私は迷わずに幕末維新へとゆくだろう。幕末維新ほど目紛しく事が展開する時代はなく、あれほどダイナミックに日本が大転換した時代はない。故にこの時代は、日本史上もっとも多くの偉人が次々と現れている。彼らは皆それぞれにドラマを創った。ドラマは単なる筋立てではなく、それを本気で実行しようとした。私は歴史上の人物であんまり偉大すぎる人とか、世間一般に認知されている人物、またヒーローに祀り上げられている人物には関心がもてない。どちらかと云えばヒール役とか、影武者とか、隠然たる力で世を操るような老獪な人物に惹かれる。幕末においてもそうであったが、ここのところ少しずつ考えが変わってきている。やっぱりあのご両人の凄さというものに、今ようやくというか、改めて気づかされている。坂本龍馬西郷隆盛である。幕末維新のヒーローはそれぞれいるだろうが、ヒーロー投票があれば坂本龍馬西郷隆盛のご両人が他を圧倒するだろう。司馬遼太郎さんの影響が多分にあるに違いない。ご両人は現代人に格別人気があって、事実眩しい。

土佐では豪快で気骨のある男を「いごっそう」と呼び、薩摩では「よかにせ」と呼ぶ。「いごっそう」と「よかにせ」は微妙に違う部分があるが、共通点も多いように思う。坂本龍馬はいごっそうで、西郷隆盛はよかにせであった。ご両人が現代人に眩しいヒーローであるのは、未来を見据えた行動力と、根っからの正直者であったからだろう。即ちご両人は真面目に時代と向き合ったのだ。人間が単に真面目であるというわけではなく、時勢を読み、五十年、百年先の日本を真面目に想像して、思考し行動したということである。西郷隆盛西南の役で自ら人柱の如く立ったのは、決起の士族たちや、新政府の大久保利通らに範を示したのみではなく、その後の日本が直面する対外戦争を見越して、争うことの愚かさということを、新時代を生きる日本人に見せようとしたのではなかったか。戊辰の役での無情な殺戮を、目の前でつぶさに見てきた西郷には、ずっと忸怩たる想いが胸中を支配していた。その想いに押し潰されそうに生きることは、辛かったであろう。西郷亡き後、躍進を遂げた明治日本は、日清戦争日露戦争で奇しくも辛勝した。そのあたりから日本の勘違いが始まる。そうして勘違いしたまんま泥沼の昭和戦争に突入する。その呪縛は昭和二十年まで続いた。

戦後日本は経済大国となり、別の道で大躍進を遂げた。が、今はどうか。世情は何とも世知辛い。一見華やかで豊かになったようだが、中身はまことに空虚であり、潤いのない、まさに浮き世が展開している。世界中で戦争はくり返され、子供達が泣いている。日本国内は貧富の格差が広がり続け、ある部分ではバブル以上に、右向け右の個性のない人種が蔓延り、少しでも異質であるとされた者を村八分にして陰湿にいじめる。親が子を虐待し、子が親を殺す。必要としているところに金は廻らず、どうでもよい無駄なところに湯水の如く金が流れてゆく。二十一世紀を生きる日本人を西郷はどう見ているだろう。龍馬や大久保はどう見ているだろう。明治百五十年という節目であった今年も、まもなく終わる。平成という時代もあと四ヶ月余り。我々現代人は、幕末維新のヒーローに憧れているばかりではなく、彼らを手本にして一人ひとりが行動を起こさねばならない。私の祖父のあたりまでは真の「よかにせ」はいたと思うが、今は絶滅寸前なのではないだろうか。

「南洲先生、今ん日本はどげんじゃろうかい?今ん日本に、よかにせはおらんとじゃなかろかい?どげんじゃろうかい。せごどん。」

 

なおすけの平成古寺巡礼 本山慈恩寺

八月に山寺を訪ねた夜、山形在住の知人と食事をした。彼は寒河江の人で、生まれてからずっと山形を出たことがない。車でわざわざ山形市内まで出向いていただき、また美味い蕎麦を味わった。食事の後、とっておきの場所があるからと、夜のドライブに連れ出してくれた。山形市から西へ五キロほど走ると、白鷹丘陵にあたる。背後に朝日岳を控えたこの丘陵は、一番高い白鷹山(標高994m)を中心とし、他の山々を含めた丘陵一帯が、県民の森として整備されている。県民の森は、山形市南陽市山辺町、白鷹町の二市二町に跨いだ広大な公園で、ここの山上からの夜景が素晴らしいと云う。寒河江はこの丘陵よりもっと北になるらしい。車は、いろは坂のようなヘアピンカーブをぐんぐん登った。丘陵には大小多くの湖沼があり、車窓からも大きな沼が見えた。てっぺん近くに樹々が開けた場所があり、そこからの夜景は話のとおり美しかった。眼下には明滅する山形市街の灯が、まことに程良い夜景規模で展開している。東京などの大都市は明るすぎて煩い夜景であり、私にはなんとも大味に感じるが、山形の夜景は私好みの豊かな夜景である。目を上げると満天の星空が広がっていた。時折、物凄く近くを流れ星が走り去る。夏の夜空でも流星がこれだけはっきり見えるのに私は嬉々とした。昔、真冬の甲府盆地でこれと似た夜景を堪能した。上にも下にも綺羅星が輝いていた。私は風景も一期一会だと思っている。あの日以来あんな景色は二度と見れまいと思ってきたが、山形へやってきて再びその景色を眺められた。夜の山形盆地は何かに守られるように、安心して眠りに就こうとしている。昼間は小雨が降って蒸し暑かったが、夜はすっきりと晴れて心地良い。夜の山形はもう秋の気配であった。

山を下りながら、「明日は最上川下りをして、慈恩寺へ行こうかと思います。」と私が言うと、慈恩寺は彼の家から目と鼻の先にあるため案内してくださると言う。願ったり叶ったりで、誠に図々しくもお願いした。

翌朝ホテルを出て、ひとまずは奥羽本線で村山まで行き、タクシーで船着場のある碁点橋まで向かった。最上川下りは何箇所かにあるが、私は村山の碁点橋から長島橋までのおよそ十二キロを五十分かけて、碁点、三ヶ瀬、隼と云う三つの難所をゆく急流下りを選んだ。舟下りの運営会社とタクシー会社が協力して、村山駅からワンコインで船着場に連れて行ってくれた。運転手さんは、「このところ最上川の水量が低いから、大丈夫かな。」と言う。水量が低いと危険なので運航中止もあるらしい。先日の台風では橋桁の直ぐ下まで水が上がったらしいが、急流ゆえに引くのも早いのだろうか。最上川は暴れ川で、一雨降れば轟々たる音で逆巻きながら流れてゆくが、あっという間に日本海へと至る。船着場に行ってみたら予定通り舟は出るとのことでホッとした。屋形舟のような座敷舟に、客は私と三人の親子連れのみ。ほとんど貸し切り状態なのはありがたかった。

舟はゆるりと下りだした、水嵩が少ないとはいえ、やはり羽州の母なる大河最上川。流れは早く、舟が時々蹴る波飛沫はまことに豪快であった。護岸工事がほとんどされていない緑溢れる岸辺を横目に、舟は翡翠の如く流れゆく。水は清冽にして雄渾。進行方向には葉山(標高1461m)が見えつかくれつし、遥か西方、雲の向こうには出羽三山(主峰月山1984m)があろうことを想像しながらの舟旅は、これ以上ないロケーションで旅情を駆られる。ガイドのおじいさんが、また何とも言えず味のある語り口で、山形弁を織り交ぜながら、最上川の歴史を語る。ゆるりとした話を聴いていると、暑さも忘れて眠くなってきた。様々な語りの中で私の興味をそそったのは鳥の話であった。川面から顔を出す岩の上に黒羽を広げて休んでいるのは川鵜。たくさんいる。何でも昔は川鵜は東北にはいなかったそうだが、最近はよく見かけるらしい。確かに東北には鵜飼いはない。これも温暖化の影響であろうか。動植物は少しずつ北上しつつある。本物の翡翠も姿を見せてくれた。岸辺には時々大きな青鷺がジッと川面見つめて立っていたかと思うと、急に飛翔して、舟の上を滑空していった。おじいさんの話では、青鷺が集まってくると雨になると、昔から伝承されているらしい。水嵩が増して、川上から青鷺の餌となる魚が多く流れてくるのだろうか。今でも最上川流域で暮らす人々にとって、青鷺や川鵜の動向が気候や空模様を知る上で、大切な手がかりになっていることに私は感心した。自然の呼吸に逆らわずに暮らしているのだ。有史以来最上川は、この地域の人々が生きてゆくのに欠かせぬ川であった。飲み水、稲作、畑作はもちろん、魚も採った。舟運は平安時代から始まったらしいが、時代が降るに連れて物流の大動脈となり、酒田から北前船が出るようになると、出羽国のみならず、北の大動脈の役割を最上川は担っていた。地産の米、大豆、小豆、紅花は西回り航路で上方や江戸に大量輸送され、戻り船では、塩、魚、茶、上方や江戸の文化が届けられた。最上川は吾妻山に源を発して、右往左往を繰り返しながら、羽州を潤して、酒田にて日本海へ注いでゆく。

やがておじいさんの最上川舟歌が始まった。最上川舟歌は、盛んであった舟下りを彷彿とさせるが、男歌なのに、どこか切ない節回しで、聴きながら最上川を下ると、それが実感として胸に迫ってくる。そこにはきっと雪深いこの土地で、命懸けの仕事をしていた男達と、無事の帰りを待つ女房や、酒田にいる女達の気持ちが込められているからではないか。最上川と共に生きて、働いてきた人々の姿が瞼に浮かぶようであった。舟は巨巌を超える碁点を越え、周囲の岩礁により鳴門の渦のように流れが逆巻く三ヶ瀬をスリル満点ですり抜けてゆく。隼は最上川最大の難所で、近くまで行って見せてくれるが、さすがに越えることは安全を考えると困難とのこと。下船して対岸の公園からその場所を見せてもらったが、浅い段々の岩肌が見えており、水量が低いのにその先は黒々とした淵で、急な早瀬になっている。此処を越えるのはまさに命懸けであったろう。

おくのほそ道をゆく松尾芭蕉は、山寺を後にして、最上川を下っている。私の拙い文章なんかより、端的にわかりやすく最上川の情景を感じることができよう。

最上川は、みちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん、はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ひまに落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

五月雨をあつめて早し最上川

現代人は舟下りを観光として楽しむが、かつては大事な交通機関であった。とは言うものの、松尾芭蕉はずっと歩いてきたおくのほそ道の旅路で、ここでかの最上川を舟下りできることを、本当に喜び、曾良と二人楽しんだに違いない。この一句には、彼らの浮き足立つ様子がよく反映している。人は川に対してある種の憧れを抱いている。芭蕉も同じで、最上川に対する想いは深い。後に酒田に到達した芭蕉は、最上川をもう一句詠じた。

暑き日を海に入れたり最上川

これぞおくのほそ道の最高の句であると私は思う。今回は行けなかったが、この句の追体験はいつか酒田に出向いて果たしたい。

ありがたいことに船着場まで知人が車で迎えに来てくれた。ここから寒河江慈恩寺までは、車で三十分くらいらしい。途中また蕎麦を食べる。慈恩寺も蕎麦が有名で、美味い店がたくさんある。寒河江と云えばさくらんぼも有名だ。さくらんぼの旬は初夏であるため、私の行った頃はもぎたてをいただくことは叶わなかったが、知人が道の駅に連れて行ってくれたので、さくらんジェラートやゼリーを食べることができた。お土産で月山の栃餅を買って、帰りの新幹線で食べたが、これが実に美味かった。歯応えある餅とほのかな甘さの餡子が絶妙で、私は取り寄せしようと思っている。

余談が長くなったが、昼下がり慈恩寺に到着した。慈恩寺は、慈恩宗本山となっている。この寺を知るまで慈恩宗のことは知らなかった。寺伝によれば、行基が諸国行脚してこの地の景勝を聖武帝に奏上、勅命により印度僧婆羅門が天平十八年(746)に精舎を建立したのが始まりとされる。婆羅門は行基の推挙で東大寺大仏開眼供養の導師を務めた菩提僊那のことである。この真偽はともかく、古い文献には慈恩寺の平安期のことが記されており、かなりの古刹であることは間違いない。藤原期にはこの地に広大な荘園を有した摂関家の庇護を受け、法相宗の寺として弥勒菩薩を本尊とした。その後、天台、真言、修験、時宗と多くの宗派が入ってきたが、法相の教義がこの寺の真髄にある。慈恩寺の慈恩とは、法相宗の祖である慈恩大師からであり、何より本尊はずっと弥勒菩薩である。鎌倉以降は地頭の大江氏、室町以降は最上氏が慈恩寺を庇護した。その最上氏によって寺域は拡大、保証され茅葺の立派な本堂や、三重塔も建立された。江戸期にもその勢いは継承されて、幕府からはみちのく最高の二千八百十二石を寺領とすることを許されている。が、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れた明治の初め、寺領はほとんど接収され、かつて四十八あった坊舎は、ほとんどが帰農した。それでも今は十七の坊舎が残っている。坊舎は今は完全な寺ではなく、農業をはじめ何らかの仕事を持ちながら、寺を兼ねているようだ。その本山が慈恩寺なのである。慈恩寺が慈恩宗として独立したのは戦後のことで、今は三院十七坊の本山である。

重厚な茅葺の本堂、山門、三重塔、薬師堂、鐘楼、伽藍は小高い丘の斜面に不規則に並ぶ。堂宇はいずれも端正ながら、太く逞しいみちのくの質朴な気骨が垣間見える。小ぶりだが実に優美な薬師堂、澄んだ音色の釣鐘を下げる鐘楼、今は本山としての威厳よりも、寒河江の街を見守るように、包むように静かなる寺は在る。慈恩寺と云う寺名に背かない。

私たちは本堂に上がった。外陣には古色蒼然たる茅葺の本堂からは想像できないほど、鮮やかな色彩の天井画が残っている。外陣の端には四体の鎧兜が座っていた。春に当寺で行われる慈恩寺舞楽で、若者がこれらの鎧兜を身に付けて、刀剣を振りかざしながら勇壮に舞うと云う。舞楽四天王寺から伝来したらしいが、邪気払いと豊作を祈念した祭祀なのであろう。同時に今も昔も雪国に春を告げる祭であって、人々は楽しみにしている。舞い手や舞楽の演奏者は一子相伝であると云う。慈恩寺を本山とする坊舎の人々が継承する慈恩寺舞楽は、国の重要無形文化財に指定されている。同行してくれた知人の先輩は、慈恩寺舞楽の舞い手を務めるらしく、鎧兜を纏った姿はあたかも野武士を彷彿とさせるとか。これらの鎧兜は最上義光が三重塔を寄進した際に贈ったのではないかと思う。山形のヒーローは何と言っても最上義光である。母なる最上川の名を氏とした、最上氏最高の人物である最上義光は、経世済民に心を砕き、慈恩寺弥勒菩薩にも殊の外帰依したと聞く。その義光が、慈恩寺舞楽を大切にしなかったはずはない。鎧兜とは何となく薄気味悪いモノだ。私の曽祖父の家にもあったが、幼い頃はその部屋に入ることを躊躇った。が、慈恩寺の四体の鎧兜からはそんなモノは感じなかった。きっと聖なる祭で晴れ舞台に上がるからであろう。神仏と人々を守護する武者たちである。 

本堂内陣へと入る。まず驚いたのは、秘仏の本尊弥勒菩薩がおわす厨子須弥壇が漆黒に輝いていて、まことに立派であったことだ。さすがにみちのく随一の古刹である。須弥壇には前立ち本尊の弥勒菩薩が少年のような面差しで、手を合わせる者を見つめている。仏前には、今朝摘まれたばかりの蓮の花が生けられていて、芳しい香りが内陣に漂っている。少し小ぶりのこの蓮は、慈恩寺蓮と云い、他の蓮に比べて開花が少し遅く、晩夏に花ひらく。慈恩寺の近くには、慈恩寺蓮の群生する池があって、今を盛りに美しく咲き誇っていた。一時この蓮は途絶えかけたらしいが、地元の人の努力で、今また可憐な花をたくさん咲かせている。厨子の周囲は菩薩や天部のほとけたちが守護しているが、それらがすべて圧巻の彫像であった。みちのくらしい荒削りさは皆無で、柔和で線のはっきりした姿は、近畿地方に見られる様な典雅さを備えている。それもそのはずで、寺の人によれば、これらの仏像は、摂関時代以来、京都をはじめとした西国の仏師の手になるそうだ。須弥壇だけでなく、須弥壇の下や須弥壇の奥の部屋、回廊にまで、多くのすばらしい仏像が、まるで博物館のように安置されている。慈恩寺は京都や奈良の名だたる寺院に匹敵する仏像の宝庫なのである。仏師が此方へ来たのか、彼方で製作して運んだのかは知らないが、平安、鎌倉、南北朝、室町と時代時代の特色がよく表れた美しいほとけたちである。中で私の目を惹いたのは、十六歳の聖徳太子であった。髪を鬟に結った凛々しい立像で、一文字に引いた口元には少年の立志と迷いが同居している。崇高さの中に、親しみを感じることのできる聖徳太子である。弥勒菩薩阿弥陀如来聖観音、天部、聖徳太子弘法大師がこの一堂に祀られているのは興味深い。これらの仏像群は慈恩寺が経てきた歴史の変遷を如実に示している。

本堂を出て、薬師堂へ上がる。小ぶりなお堂には、鮮やかに黄金が残る薬師三尊像と、その背後には薬師如来を守護する十二神将が並んでいる。穏やかな薬師三尊とは対称的に、十二神将は躍動感に満ち満ちており、拝する者を元気付けてくれる。十二神将は兜に十二支を載せていて、めいめい干支の守護神でもある。この十二神将は平成四年に海を渡った。ワシントンの彫刻展に展示されて、その精緻さに世界の人々をも驚嘆させたと云う。慈恩寺は仏像の宝庫と予々聞き及んでいたが、これほどの見事な仏像群が、山形の奥座敷の様なこの場所にひっそりとあることに私は感動した。戦乱や天災で失われずに済んだのは、寧ろ雪深いこの場所であったからである。慈恩寺のほとけたちは、この地に根差して生きる人々を護り、その人々によって守られている。

帰りがけ私は知人にお願いをして、慈恩寺裏手の山に登った。車で林道を上がると、てっぺんが開けていて展望台になっている。ここは山王台と呼ばれている。山王は日吉大社山王権現である。察するに慈恩寺に天台が入ってきたときに、鎮守として山王権現を祀ったのであろう。少し彷徨いてみたが、社らしきものは見つからなかった。ひょっとすると慈恩寺の境内のどこか、もしくは今も残る坊舎のどこかに祀られているのかもしれない。山王台からの眺めはすばらしかった。北から南面を広々と眺めると、滔々たる寒河江川の流れが横たわり、その向こう遥か彼方まで山形盆地全体が見渡される。東には山形市街から蔵王の峰々、南にはそろそろ穫り入れが近い黄緑色の稲田と、さくらんぼ畑が点在する美しい寒河江の街並、西の月山はさすがに見えなかったが、時々雲間の間からこちらを見下ろしているであろう。この地形を改めて見てみると、慈恩寺が天然の要害に建っていることがはっきりとわかる。推測だが、慈恩寺は大江氏や最上氏にとっては、いざという時の出城だったのではあるまいか。そして慈恩寺もかつての威容から想像して、率いた坊舎共々、浄土真宗寺内町のような一大コミュニティを形成していたのだと思う。盆地と云う地形は、夏は酷暑、冬は極寒というまことに厳しい自然環境であるが、こうして高所から俯瞰すると、巨大な掌の内側に守られているように思う。私は京都盆地甲府盆地でも同じようなことを感じた。その度にこの巨大な掌は、神の掌、或いは、ほとけの掌ではないかと思えてくる。慈恩寺はその掌のど真ん中に在る。足下から慈恩寺の鐘が聴こえてきた。鐘の音は風にのって山形盆地のずっと奥まで染み渡ってゆく様だ。こんな気持ちの良い所はそうはない。この抜けるような風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育んだに違いない。山形は偉大なり。偉大な風景が、偉大な人々を創造する。この風景に勝る場所など東京にはない。私は山形盆地に「威張るな東京」と言われた気がした。

青春譜〜さらば普門館〜

吹奏楽部員にとって秋は別れの季節である。体育部は概ね夏の大会で引退するが、吹奏楽部は十月から十一月に吹奏楽コンクールやマーチングコンテストの全国大会があるし、全国大会に出場しなくても秋には各地で演奏会や文化祭が開かれるから、それらの晴れ舞台が終われば、最上級生は引退する。この頃に引退式を兼ねて、定期演奏会が開かれる。春先の卒業式前後に定期演奏会を行う学校もあるが、私の通った中学校、高校ともに定期演奏会は十一月であった。送る方、送られる方、悲喜交々である。先輩達の引退を本気で寂しがる者、一見寂しそうに見せても、腹中では目の上のたん瘤がいなくなることに快笑する者様々である。私の場合、中学では尊敬するT先輩が引退することが寂しくてならなかったが、高校では目障り?な三年生が居なくなり、ようやく自分達が仕切れることに心中で北叟笑んだ。もちろんそこには、最上級生となる責任、不安、期待が混在していたわけだが。

先日、普門館に行ってきた。まえに普門館のことは書いた。普門館立正佼成会の所有するホールで、かつては全日本吹奏楽コンクールの会場であった。吹奏楽の甲子園と呼ばれ、吹奏楽経験者やファンには聖地とされている。東日本大震災後、耐震性に難があるとかで、使用中止となり、吹奏楽の甲子園は名古屋のセンチュリーホールに移った。普門館は残念ながら、来月から解体される。そのため立正佼成会の粋な計らいで、今月一週間だけ内部が無料開放された。何と楽器を持ち込み演奏しても良いとのこと。普門館は私の自宅から目と鼻にあり、散歩でよく通る場所である。二、三度吹奏楽コンクールを観に行ったが、ステージには上がったことはない。ここの本選ステージに上がれるのは、厳しいコンクール予選を勝ち抜いた最高峰の楽団のみである。その場所に最後の最期に立てるのみならず、演奏できるとなれば、行かぬ手はない。私はブラバン経験者のクラリネット吹き、サックス吹きの友人を誘ってでかけた。

土曜日のこととて、行ってみると大行列が出来ていた。肌寒い夕方であったが、老若男女が集い、今か今かと入場を待っている。まるでこれからコンサートが開催されるかの様である。入れ替え制で三十分待ったが、ついにその内部に足を踏み入れた。あの黒光りするステージの床の上に、私たちもついに立った。まさかこの歳で、楽器を持ってここへ来れるなんて。しばらく茫然としていたが、それもそのはずである。ステージ前方に広がるのは五千もの観客席である。あまりに大きすぎて声も出ない。誰も座っていなくてもこの緊張感。ここが満席ならばと冷汗する。そして最も後方は遥か彼方に霞んでいる。高い高い天井を眺めれば、プロントサウルスだってこの中に入れそうだと思った。 

普門館は昭和四十五年(1970)に建設された。立正佼成会の集会や講演会の会場であるため、大型バスが何台も駐車でき、一帯は佼成会の聖堂などの施設が林立して公園の様になっている。大人数が大移動する吹奏楽コンクールを開催するには、まことに適した場所であった。普門館では数々のコンサートも開かれており、日本のクラシック音楽吹奏楽の発展期を盛り立ててきた名ホールである。帝王カラヤンも、ベルリンフィルを率いて二度やってきた。最初の公演では、大ホールゆえの音響の悪さが不評であったため、二度目の公演でカラヤンは反響板を置くようにアドバイスしている。この時はベートーベンの第九で、音源も残っており、「普門館の第九」と呼ばれて、伝説となっている。ベルリンフィルの他にも、ウィーン交響楽団ボストン交響楽団など錚々たる楽団が普門館で公演した。仏教では、すべての人に門をひらくことを普門と云うとか。普門館は文字通り世界に開かれたホールであった。

今宵は存分にこのステージを堪能する。青春只中の中高生や大学生がいる、今も変わらぬ青春を謳歌する大人達がいる、そして私の様に吹奏楽を引退してからずいぶんと時間が経った人々がいる。この今は現役引退した人々が、実は一番ここに居ることを噛み締め、喜んでいたりする。私もそうだ。普門館と云えば、最高峰なんだもの。私たちの青春時代はそうであった。思い切り普門館で演奏する者、反響板に謝辞送辞の言葉を綴る者、まるでホールに飲み込まれそうにただ佇む者。皆が思い思いに普門館との別れの時を過ごしている。そして某ツイッターの呼びかけで、楽器を持って集いし人々で、「宝島」を合奏した。「宝島」は何度もリフレインして合奏されたが、この楽しい曲が、別れの曲になっていることは、皆が解っている。私には楽しい曲ゆえにかえって寂しく思えてきた。ひとつのホールが解体されるにあたり、かつてこれほど多くの人々が集い、別れを惜しみ、涙すら流すなんてことはなかったであろう。それは懐古と惜別の涙である。「解体しない方向で何とかならなかったのかな」と何度も思ったが、惨事が起きてからでは遅いと云うのもよく解る。惜しまれながらの今が、一番の引き時であったと思う。さらば普門館。ありがとう普門館。私達はいつまでも去り難く、普門館のステージに立っていた。続。

 

 

なおすけの平成古寺巡礼 山寺

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉五指絶唱の一句だと思う。元禄二年(1689)、おくのほそ道をゆく芭蕉は、出羽国に入り、尾花沢にて立石寺名刹であることを聴いた。寄り道で山寺へやってきて、この名句が生まれたのは、いかにも良き筋立てだが、実は芭蕉は初めから山寺のことは知っていて、巨巌の群れに響き渡る蝉の声を、旅の途中から浮かべていたのかもしれない。当代一流の数寄者たる芭蕉ほどの人物ならば、そこまで思考し、計算していたのではとも思ってしまう。あくまで私の想像にすぎないが。私は芭蕉の足跡を順不同で少しずつ辿っている。今回は出羽国へやってきた。この句が生まれた山寺と、芭蕉が舟を駆った最上川。いざ追体験の旅へ。

晩夏、朝一番の新幹線で山形へ向かう。今年の夏も暑かったが、この日は次々と襲来する台風の影響で雨であった。山形はこれが初めてである。これまで失礼ながら、山形は東北六県で一番地味な印象であった。が、それは大きな間違いであった。最上川が豊穣の地を創造し、山海の地味に溢れ、出羽三山鳥海山蔵王など神山に囲まれた山形は、羽州ならではの純朴さで振舞う人と、その人々ゆえの優しい信仰が息づいている。あの広大な山形盆地の風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育むに違いない。

 立石寺を訪ねることが最大の目的であるが、少し時間があったので、山形城の周りから城下を散歩した。山形城には霞ヶ城の異名がある。山形盆地では春は霞がたなびき、秋は朝霧に包まれることもあろう。濠端を奥羽本線が南北に走っている。濠は深く、石垣は高いが、最上義光が造った城は、今はずいぶんと小さくなって霞城公園として整備されている。追手門外には最上義光記念館があった。徳川初期に最上氏がいなくなってから、山形藩は徳川の御家門や譜代大名が治めた。鳥居氏、保科氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏らが、何代かで交代で入っている。これほど藩主が代わったところも珍しい。徳川時代を通じて十三度も藩主が代わったらしいが、殿様は老中や若年寄など幕閣の要職にあり、ほとんどお国入りはしなかった。幕府はここを準天領のような扱いでいたのだろう。山形は羽州の真ん中にあって、米沢や仙台の監視ができる。さらには北前船の西廻り航路の拠点酒田にも、遠からず近からず目を光らせるには絶好の場所であった。奥州が政治、軍事、経済、流通で結託しないためにも、頻繁に藩主交代がされたのではないかと思う。

最上氏の菩提寺へも行ってみた。霞城公園から東南に二キロほど、城下の外れに寺はあった。光禅寺と云う。寺は住宅地と高校の間に在るが、長い参道や境内地の広さからして、さすがに大大名最上氏の菩提寺であると感心した。最上義光の墓は本堂裏手の墓地にあった。墓は白く太い石の五輪塔で、堂々と静かにたっている。いかにも雪深い地を必死で治めた、しかしながらどこまでも清廉潔白に経世済民に心を砕いた最上義光を彷彿とさせる。最上義光は、戦国末期出羽を統一し、信長や秀吉政権下では表向き軍門に下るも、虎視眈々と自身の足場を固め、家康の頃には一目置かれる存在となっていた。奥州の関ヶ原ともいえる慶長出羽合戦で、上杉氏を撃退した最上氏は、羽州五十七万石を統治することになった。義光は、山形城の建設に着手し、城下を商人の町として整備する。年貢や地子銭などの税を免除し、その後もずっと繁栄する市を開かせ、領内を復興していった。領民にも寛大慈悲で人気を集めたと云う。最上川を治水し、酒田港の再開発、庄内平野の開墾、羽州街道も整備した。最上義光の時代に、江戸期の山形と羽州の基盤はほとんど出来上がっていたといってよいだろう。が、最上氏は義光一代限りの栄華であった。最上騒動により義光の死後わずか九年で改易となる。つまらぬ家督争いが発端であったが、或いは幕府の策謀であったかもしれない。

山形駅から仙山線に乗り換えて、十数分で山寺駅に到着。駅のホームから立石寺の全景が見渡された。遥か上空に五大堂が見える。これから彼処まで登るのかという期待と不安が過る。仙山線と寺の間には立谷川が巨岩の隙間を急流しているが、おかげで山形市内よりだいぶ涼しい。 晩夏ゆえ、山形市内ではまったくなかった蟬の声も、この山麓からは煩いほどに聴こえてくる。これならばと胸が高鳴る。山形は蕎麦処である。この旅行中三度も蕎麦を食べた。門前にも蕎麦屋が軒を連ねている。その一軒に入り登山前に腹ごしらえ。東京の蕎麦と違い、野趣溢れる太麺で、蕎麦の味がしっかりしている。美味かった。

 立谷川の橋のたもとに対面石と云う巨巌があって、寺伝では円仁がここへやってきて、山人の頭である磐司磐三郎と対面した場所であると云う。山人は先住民であり、このあたりを狩場とした連中だろう。円仁は磐司磐三郎と交渉して、此処に立石寺を建立する許しを得た。空海高野山を開くときも、似たような説話がある。おそらくは、磐司磐三郎のずっと先祖の代から、ここは聖地であっに違いない。山の神を祀り、死人はここへ埋葬された。山内の到るところに侵食によってぽっかりあいた穴は、古代からの墓であると云う。山人の村は川の反対側にあって、川向こうは葬送の地であり、神の住む境域で、川が結界であったはずだ。聖地と俗地が地形的にこれほどはっきりとわかる場所もない。こうして貞観二年(860)、立石寺は開山された。実は円仁はこの地までは来ておらず、弟子の安慧に天台宗道場の建立を託したとも云われる。事実当寺は開山は円仁で、開祖は安慧である。が、これも真偽は構わない。

 蕎麦屋を出て、根本中堂へ参拝する。延暦寺寛永寺と同じく、立石寺も総本堂は根本中堂と云う。そういえば今の寛永寺の本尊薬師如来の脇侍日光月光両菩薩は、元禄時代に幕命によりこの寺から移された。内陣の本尊は秘仏厨子を護る仏像群も素晴らしいが、根本中堂で見逃したくないのは、灯籠の一筋の明かりである。延暦寺根本中堂に灯る、最澄が灯した「不滅の法灯」を分灯したものとかで、その灯は千年以上も一隅を照らしているとか。信長が比叡山を焼き討ちした際、延暦寺の法灯は消滅したが、再興の折に、ここの法灯を分灯したため、結果不滅の法灯は絶えていないらしい。私はこういう話を聴くたびに、日本仏教ならではの浪漫を抱く。真偽などはどうでも良いのである。

 寺は日本各地に大小七万以上あるらしいが、山国日本は山寺が多い。日本仏教は伝来してから、土着の神々とあまり争うことなく、共存してゆくことを選んだ。これは、日本古来の神々の側も同じであったし、寧ろ此方側から彼方側へと積極的に近づくこともあった。ことに山岳信仰とは深く強く結び付き、本地垂迹はここから派生した。山は神々のおわす聖地であり、先祖の霊魂の行くところとされたから、寺社が建立されるのは必然である。人々は神や霊魂を崇め奉ると同時に畏怖した。祟りを恐れ、供養と魔封のために鎮魂(たましずめ)を儀式し、そうした場所に寺が建立された。時代が降るにつれて、寺社は山麓から里へと下りてくるが、寺に山号があるのは、山にあった頃の名残であり踏襲であろう。 私もずいぶん山にある寺を訪ねてきたが、山形の立石寺はついぞ機会がなかった。立石寺は通称「山寺」と呼ばれる。五木寛之さんは百寺巡礼で山寺中の山寺であると書いておられるが、私も同感である。実際日本には、立石寺よりも遥かに高地にある山寺や、もっと峻険な場所にある山寺もある。しかし立石寺の長い歴史と、あまりに有名な芭蕉の足跡、そして津々浦々にまで知られた通称を考えれば、私も立石寺こそ第一番の山寺としたい。

 山寺は東北随一の古刹であり、陸奥比叡山とも呼ばれる。由縁は天台宗第三代座主の慈覚大師円仁を開山とし、一説で円仁はここへ葬るよう遺言した。山上には円仁の入定窟があるとされる。慈覚大師円仁と云う人は、東北の各地に足跡と影響があった。中尊寺毛越寺瑞巌寺など東北の名だたる寺の開山はほとんどが慈覚大師となっている。一般に大師と云えば弘法大師が第一に思い浮かぶが、東北では大師と云えば慈覚大師と云われるそうだ。円仁は、延暦十三年(794)、下野国都賀に生まれた。円仁がこの地の生まれだったことが、のちに都から隔絶した東国や陸奥においての布教活動に力を入れた理由が知れよう。九歳で岩舟の大慈寺に入り、十五歳で叡山に登って最澄の門下となった。最澄は円仁の才覚をすぐに見抜き、期待して側に置いた。円仁は最澄の東国行脚に付き従い、下野では懐かしの大慈寺に師と共に入ったであろう。そして東国や陸奥の窮状を最澄にも訴えたに違いない。最澄は諭すようにゆっくりと優しく、しかし目を逸らさずに円仁に説いたであろう。最澄の信ずる仏法が、僻地にまであまねく届くように、円仁をその伝道師とするべく育てた。比叡入山から十四年、敬愛した最澄は遷化した。

しかし円仁は悲しみに暮れる暇などなかった。師の精神の核心たる「一隅を照らす人」をつくることに深く感銘を受けた円仁は、自らその一人となり、中でもっとも明るい人になろうとした。そしてその教えの継承に尽力した。およそ十年間入唐し、天台教学と天台密教を学び、帰国するや天台座主となる。入唐中に著した日記「入唐求法巡礼行記」は、天台教学の伝書としても、紀行文としても名著であるが、「求法」という言葉に、最澄が果たせなんだ天台密教の法の伝授を切に求めた円仁の心境が表れている。各地に天台の学問所兼、天台僧の養成道場とする寺を建立した。立石寺比叡山の別院として建立し、陸奥における中心としたのである。東北の比叡山はここに誕生した。円仁は比叡山で没したらしいが、遺言で遺骸は山寺へ葬るように言ったとされる。弟子たちは、遺骨を首から上と胴体に分骨し、胴体を山寺に運んだ。はるか上空の納経堂の間下の巌窟に埋葬されたと云う。この話は伝承であったが、昭和になって、入定窟が調査された際、何体かの遺骨が見つかった。そのうち一体は、首のない遺骨で、首は木像であった。伝承は本当であったと騒がれたが、専門家の意見は分かれている。遺骨の真偽はともかく、円仁が遺言したのは本当だろうと私は思う。比叡山最澄の寺ならば、山寺は円仁の寺である。円仁は徳川家康よりはるか昔から、日光よりはるか北の山から、この国を見守ってきたのだ。

寺は山全体を境内とする。この山を宝珠山と云い、立石寺山号にもなっている。宝珠山は、高さ四百メートルほどの巨大な凝灰岩の岩山である。長い年月をかけて侵食が進み、あちこちに巨巌、奇岩、洞穴が露わになっていて、山としても存分に魅力がある。立石寺はその名のとおり、石の上に立っている。今はりっしゃくじと云うが、昔はりゅうしゃくじと云った。根本中堂を出て右手に寺を鎮守する日吉神社があり、宝物館や常行堂がある。その先に「關北霊窟」と掲げた山門があった。ここからが真の山寺である。威儀を正してその門を潜る。あたりはすぐに鬱蒼たる森で、すぐに石段が始まる。一段一段登る度に、煩悩が一つ一つ消え去ると云う。岩肌剥き出しの宝珠山は、高山ではないが、五大堂や奥之院に到達するまでおよそ千の石段を登る。千段はキツイだろうと覚悟していたが、途中、姥塚、円仁の御手掛石、蝉塚、弥陀洞など、見所毎に休める場所もあって、一気に登るわけではなく、思いの外楽であった。弥陀洞は巨大な一枚岩で、見る人の心が清ければ阿弥陀如来に見えると云う。じっと目を凝らして見た。見える。私にも阿弥陀様がはっきり見える。これは嘘でも冗談でもない。あの日のあの時の私には確かにその姿が見えたのである。私はこういうことはあまり信じないし、実際似たような場所でも一度も見えた試しはない。その私が言うのである。確かにあの時、阿弥陀如来を見たと信じている。もっとも次に訪れた時は、もう見えないのかもしれない。

私はゆっくりゆっくり登ってゆくが、何人かの大学生が、汗だくになりながら上半身は裸で、走り去っていった。巨巌巨石が累々と折り重なり、圧倒的景観。途中、道幅がわずか四寸(十二センチ)という場所があり、こうしたところを見ても古くから修験道が盛んであったに違いない。いずれここも世界遺産になるかもしれない。大自然の威厳とそれを畏怖し信仰した人々の面影が、岩壁に映し出されているような錯覚がした。仁王門を過ぎると視界が開けた。冷風が次から次に吹いてくる。辺りは圧するように鋭い岩が聳り立つ。立石寺という名に背かぬ、偉大なる眺めである。

山寺でもっとも心動かされた風景は、開山堂から納経堂へのアプローチである。目も眩む断崖絶壁で、片側は手すりもない崖である。その先に大きな皹の入った岩山が屹立しており、平な場所に円仁を祀る開山堂、岩山の先端に赤い色をした端正で小さな納経堂が、まるで山寺を照らす灯台のように建っている。積年の憧憬が今目の前にあった。見晴らしはどこまでも高く、広く、重畳とした山並みを、鳥になって俯瞰できる。この上にある五大堂からも、その眺めを存分に味わった。嗚呼ついにここまで来れたか。感慨無量であった。このままここから大空へ羽ばたきたい気分である。 そして奥之院まで到達して、大仏様を拝んだ時、ようやく少し興奮が鎮まったのである。余談だが、かつて山寺には滑り台があったらしい。私も詳しくは知らないが、聞くところによれば、五大堂付近から三百メートルあまりを一気に滑降したとか。しかし、あまりに急峻で、怪我人が後をたたなかったらしく、昭和四十年代前半には廃止されたそうだ。寺に滑り台とは前代未聞でまことに面白い発想である。廃止されて当然といえばそうだが、あまり型や枠に囚われないのは、羽州人の気質なのではないか。

話はおくのほそ道に戻る。芭蕉もここまで辿り着いた。その時の印象と、この句を詠じた気分をかく記している。

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七、八里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

おくのほそ道前半のハイライトである平泉を過ぎ、尿前の関、尾花沢で一息ついた芭蕉曾良。このあと最上川を下り、出羽三山を経由して酒田から日本海側の越路を南下してゆく長丁場を前に、立石寺へ立ち寄ることで、旅の覚悟ができた。同時に陸奥随一の古刹にて薬師如来へ道中の無事を祈ったであろう。盛夏の蝉しぐれは、煩いほどであったかもしれないが、それが芭蕉にとっては身を清める滝飛沫のように降り注いできた。或いは岩は芭蕉自身であって、彼の心身に沁み入ってきたのであろう。それは蝉の声だけではなかったかもしれない。私はこの一句から、様々なことを想像する。芭蕉がおくのほそ道で立石寺を訪ねたことが、この旅の止め石になっているように思う。止め石とは、自らの逸る心、焦り、暴走をとどめる重石である。稀代の数寄者のみが到達できる境地がある。だが、自由に流れ、流されて生きてゆくには、時に止め石や重石が必要だ。西行もそうであった。西行を思慕する芭蕉もまたそうであったと思う。

私はなるべく人気の少ないところを探して、傍の石に腰を下ろした。東京や山形市内ではすでに蝉の声は聴こえない八月の終わり、山寺は全山でまだ元気に蝉が鳴いてくれていた。蝉しぐれは、巨岩や岩窟に油滴のように染み込んでゆく。私は芭蕉曾良と同じ旅の空の下にいた。

 

茶の正月

明日から早くも霜月である。年毎に早さが増すのは、私も人生の白秋にさしかかっているからか。一生を春夏秋冬にわける思想は、古く中国から入ってきた。青春、朱夏、白秋、玄冬。これは風水の青龍、朱雀、白虎、玄武と同じである。つまりは人の一生も四神相応と符合しているという考え方であろう。青春がいくつからいくつで、朱夏がいくつまでなんていうことは、当世各々次第だろう。これまでの我が人生を省みると、私にとっての青春とは音楽であった。幼い頃に習ったピアノに始まり、このブログでも綴っている吹奏楽がもっとも青春と呼ぶに相応しい。高校を卒業し、上京してからはMr.ChildrenGLAYをはじめ、足繁くライブに通った。私自身もコピーバンドで下手な歌を唄っていたこともある。それほどに楽器を奏で、歌うことが楽しかった。大げさに言うと、その瞬間だけ青い悩みは消え失せた。楽器も歌も腹式呼吸である。ブレスして身体中に酸素を取り込むと、脳天から爪先まで活性化された。生きていると本当に実感できたのである。

その次は馬であった。馬といっても乗馬ではなく競馬である。学生の頃、叔父に連れ出されて初めて府中競馬場に行った。それからは友人と毎週のように府中や中山へ通ったが、私には競馬は単なるギャンブルではなかった。サラブレッドの速さ、気高さ、美しさに心底惚れて、馬券購入は二の次で好きな競走馬を応援した。競馬の歴史、血統を研究して、パドックでじっくりと馬を観察し、展開を予想する。人馬一体と云うが、騎手や関係者と同様に、レースが始まると私はその馬に乗っていた。これが私の朱夏であった。競馬に対する想いは生涯無くなることはないが、ネットが普及して、馬券も容易に買える今、以前ほどは競馬場にも行かなくなった。私は競馬の浪漫から下馬したのである。ダービーや有馬記念などの大レースは買うが、昔ほど競馬に浪漫は求めなくなかった。熱は冷めたのかまだよく解らない。が、私には競馬以外にもやりたいことや、知りたいこと、行きたい場所がたくさんあるのである。

そして白秋がやってきた。今、私がもっとものめり込み、何よりも優先することが茶の湯である。茶道の稽古を始めて今夏で三年目に入った。 私が日本史に関心を持ってから、折々で茶の湯が登場した。そのためずっと気になっていて、いつか自身も稽古に通いたいと思ってきた。しかし若い頃は稽古に通う機会も、稽古をする踏ん切りもつかないまま、遥か遠くから憧れていた。結局四十を少し前にしてようやく、今の先生に出会い、表千家に入門したのである。二年以上稽古をしているが、今でも一々あたふたとしてしまい、家元が仰る「淡々と水の流れるが如く」とはなかなかゆかない。が、稽古を辞めたいと思うことはなく、茶の湯は何よりも今の私の生甲斐となった。

先日から「日日是好日」という映画が公開されている。作家の森下典子さんが原作で、三十年以上になる森下さんの茶道経験と、茶道に対する想いを味わうことができる。私は原作も読んだが、茶道経験者ならば、誰しもわかるような言葉、動き、思考がちりばめてあって共感するところが多かった。それを映画ではどう表現するのか半信半疑であったが、さすがに大森立嗣監督は、原作の良さを存分に引き出しながらも、映画ならではの茶の世界を創り上げていた。先生役を樹木希林さんが演じられたが、私が普段の稽古で、私の先生に習うことをそのまま言われている気がして、可笑しくもあり、冷汗をかいた。映画の効果もあってか、私の先生のところにも体験入門に来る人が増えている。少しばかり先輩の私は、その日体験に来る方の前で点前をし、一服差し上げる。それが自身の稽古でもある。私も入門する前は同じように体験した。「お点前のいろは」はまったく無知でも、点てられた熱い一服の茶の味は、今でも舌に残っている。何にせよファーストコンタクトは重要である。無論、体験入門までに抹茶を飲んだことは何度もあったが、これから入門するかもしれない稽古場で初めていただくお茶の味は、その後の自分の茶道や、茶の湯感を方向付ける場合もある。たとえ入門されない人にでも、美味しいお茶を味わっていただきたい。一期一会とは茶道の根本であり、それは長年の経験者も初体験の者とて変わりはない。主客皆でその日その時のその座を創り上げる。稽古であっても点前をするからには亭主として、その座を心に残るシーンにしたいと私は思っている。

とはいえ、稽古中は先生からの厳しいご指導の下、手の位置、足の運び、道具の置き場、手前の順序等、何度やっても間違ってしまう。一度指摘されたことは二度と間違うまいと思い、しっかりと復習するのだが、次回の稽古ではその指摘されたことはできても、また違ったところで間違う。以前はできていたことが、急にできなくなったり、忘れてしまうこともある。だから稽古なのである。何度も何度も稽古をして、自然と自分の体や手が動くようになるために稽古をするのだ。茶道の型、流派の型というものをしっかりと自分のものにするために。修練には時が必要だ。私のように四十から始めるよりも、飲み込みや吸収が早いはずの若い頃から始めたほういいに違いないが、先生はありがたくも稽古を始めるのに年令は関係ない言ってくださる。一番は根気なのであると私は解して、これからも稽古に励みたい。

 立冬のやってくる十一月は、茶の正月である。その年の初夏に採れた新茶を、茶壺で寝かせ、立冬の炉開きに合わせて、茶壺の封を切って、新しい茶を挽く。半年間寝かせた茶は、青臭さが抜けて、まろやかな甘みと静かな深みが出る。これを「閑味」と云う。茶壺の中には、和紙の袋に包まれた極上の濃茶と、それを保護するように薄茶となる茶葉が詰められている。茶壺の口は和紙を丸く切って蓋をし、更に和紙で封印されている。余談だが、徳川時代は宇治で収穫された茶を将軍家に献上するため、茶壺を籠に乗せて東海道中山道を下った。これを「御茶壺道中」と云い、行列は時に千人を超えることもあった。街道筋は並の大名行列以上に警備され、行き違う大名も道を譲らねばならなかった。将軍が口にするものゆえ、厳戒態勢が敷かれたのも当然のことだろう。家康と秀忠の二元政治の頃は、江戸と駿府それぞれに献上されたと云う。

茶壺の口を切ることを「口切り」といい、立冬の候、家元はじめ各所で「口切の茶事」が開かれる。口切の茶事は茶人にとって、もっとも大切な茶事であり、殊に「口切の炉正午の茶事(正午に始まる茶事)」は、もっともあらたまった茶事とされる。ゆえに、茶人にとっても、霜月こそが正月なのである。立冬まであと僅か、去年口切りした茶も僅かとなった。風炉も中置きとなって、客の方へ火が少しずつ近くなる。また押さえた風炉の灰は、あえて崩して、搔き上げ灰にされる。こうしたしつらえを「名残」と云うが、私は名残こそが、利休居士のわび茶の真髄のように思う。名残の頃ほど、まことに静かで、寂しい候はない。しかし寂寞とした中でも、まもなく炉開きという緊張感があるから、決して心身は弛緩しない。茶人の正月から一月の初釜にかけて、華やかな茶事や茶会が催される前に、束の間の静けさを存分に堪能したい。私は名残も好きである。