弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 高田本山

日本仏教の本山を巡礼するこのシリーズは久しぶりである。まあ、私の人生と同じく気の向くままに訪ねている。先日、伊勢神宮参拝して、その夜は津市に泊まり、翌朝、一身田にある専修寺を訪ねた。専修寺浄土真宗高田派の本山で、通称高田本山と呼ばれている。一身田は津から紀勢本線で一駅であるが、私は津駅からバスで一身田に入った。そしてこの町の実にノスタルジックな佇まいに、いっぺんで虜となったのである。一身田は「いっしんでん」とも「いしんでん」とも読む。一身田とは奈良から平安時代にかけて、律令制の土地公有において、政治的に功績ある者一代に限り朝廷から租を免除されて賜った田地のことで、郷土史ではここの一身田は伊勢神宮の荘園で、神宮に米を献上していたことから、おそらくは伊勢の斎王より賜った可能性があるとされる。今は住宅がずいぶん建て込んでいるが、かつては広大な田園地帯であった。この土地の風光はまことに良い。東に伊勢湾、南に伊勢、北から西へかけては長大な鈴鹿山脈が横たわっている。そこに開けた平野は肥沃で、伊勢の神々に捧げる米を造るには風土的にも適した場所であったに違いない。

京都から伊勢への一番の近道は、東海道草津から鈴鹿峠を越えて、関宿追分から伊勢別街道に入って南下し、窪田宿を経て江戸橋から伊勢街道へ至るルートであろう。一身田はその窪田宿にあり、鈴鹿の嶺を越えて旅人がホッと一息つける地でもあった。名古屋から桑名を経て伊勢へ向かう途中も、中間地点にあたるから、窪田宿の賑わいが偲ばれる。今では鉄道や道路が発達し、一身田を素通りして津市内や伊勢へ行ってしまうため、陸の孤島とまでは言わないが、風情ある古い町並が遺された一身田は、まるで真空地帯である。ここに専修寺がある。現在はあまり観光客には知られておらず、静かなのは私には何よりであった。

浄土真宗は大きく十派に分かれる。門徒数では最大が京都の西本願寺本願寺派、次いで東本願寺大谷派で、その次が高田派である。親鸞は師法然とともに念仏に対する弾圧を受け、法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流された。後に許されるのだが、親鸞は京へは戻らずに妻恵信尼や子供達を連れて、坂東に根を下ろすことにした。越後から信濃を経て、上野、下野を通過し常陸国に入り、筑波連山の北側の稲田の地で、予てより親鸞に帰依していた稲田郷の領主稲田頼重を頼って安住する。親鸞は四十二歳から二十年間東国で布教した。今、稲田御坊西念寺が建っているあたりが親鸞が坂東で最初に住み始めた場所である。稲田と云うところは至近に笠間稲荷神社もあって、昔から神仏と筑波加波の山岳信仰を取り入れた霊地である。筑波嶺の秀麗な姿を眺めながら、親鸞は思索に耽り、この地で親鸞の専修念仏の大綱たる教行信証を著した。西念寺のすぐそばにある稲田神社がその場所と云われている。西念寺から車で三、四十分くらいの栃木県真岡市高田の地で親鸞はさらに教義を広めていった。多くの信者や弟子を獲得しはじめた地とされ、そこにも専修寺がある。実はこちらの専修寺高田本山の祖院であり、本寺専修寺と呼ばれている。

 親鸞は四十二歳頃からおよそ二十年、坂東各地を行脚し専修念仏を広め、徐々に浸透していった。真佛や顕知など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立した。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時である。坂東各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそのようにして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽し、東国から東海地方に及んだのである。坂東こそが浄土真宗の始まりの地なのである。親鸞は自ら一派を率いるつもりはなかった。己が仏道たる専修念仏を信じ、そのありがたさを人々に説き、皆が弥陀の本願を享受できるよう、分け隔てなく布教した。それはあくまで師法然から受け継いだと自負する浄土信仰と念仏なのであった。親鸞法然の仏教の伝道者の一人であったが、往生間際まで生と欲を捨てきれずにいた。この極めて人間らしいところが、人々を惹きつける魅力でもあった。また九十歳までいきた親鸞は、法然の他の弟子たちに比べて長命であったことも、ある意味においては専修念仏の礎を仕上げるには充分な時間であった。長命の親鸞に人々は神仏の加護を見たであろうし、ほとけそのモノであると崇め礼拝したのかもしれず、いつしか阿弥陀如来親鸞が信仰の対象として渾然一体となって、選択的一神教的へと変化していったのではないだろうか。浄土真宗親鸞が起こした宗派ではなく、親鸞を敬愛する子孫と弟子たちによって湧き上がってゆき、難しい教義はなく、ただひたすらに念仏のみがまことであることを説き広めた。ゆえに大衆的であり、我が国の歴史が降るほどに庶民の力が増すのであるから、当世、浄土真宗が日本仏教の最大の門徒や檀信徒を抱えているのも、宜なるかなと思う。

親鸞は晩年を生まれ故郷の京都で過ごし亡くなったが、坂東高田の門弟や信者は高田門徒と呼ばれ、いずれ真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除された。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如上人が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。寛正五年(1464)、このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧上人は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院という寺を開いた。この寺が後に高田派本山専修寺となる。坂東高田の本寺専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。高田派は比叡山ともうまく渡り合い、その証として阿弥陀如来像を贈られている。それが、現在如来堂に祀られている本尊で「証拠の如来」と呼ばれている。その後江戸期にようやく本寺も復興された。

先年私は、稲田や高田の親鸞の足跡を歩いてみた。詳しくは前に書いた(2018/3/21の記事参照)ので省くが、稲田の西念寺には未だに親鸞の草庵の趣が見出されたし、真岡の専修寺は高田派の本寺としての風格漂っていた。高田のあたりも一身田ほどの規模ではないが、本寺専修寺を中心とした寺内町の面影がある。周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成をみせていたから、小規模な寺内町はあったと思う。

その寺内町に注目したい。室町以降に高田本山となってから、一身田には寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残している。真宗寺院では、寺と町が共同体となって生活をする自治都市のスタイルが早いうちから確立されていた。このあたりが極めて閉鎖的でもあり、いかなる宗派や為政者とも一線を画し、門徒や壇信徒は寺へ奉仕し、寺を支えながら自給自足で暮らしたのである。寺もまた門徒を守り、仏縁を約束し、死者を弔い、先祖を供養し、人々の幸せを祈念する精神的な支柱となった。寺内町に住む子供達は寺で学び、寺で遊んだ。中世、近畿や北陸の浄土真宗の寺院は、方々に寺内町が形成された。ことに北陸の吉崎、井波、古国府城端畿内では石山や山科などが大規模な寺内町があったところである。為政者や他宗のみならず夜盗や山賊から、自分たちと信仰を守るために周囲を環濠で囲い、自衛したのである。常に寺と壇信徒は密接であって、寺が滅ぶ時は自分たちも滅びるという覚悟で生きていた。この運命共同体の思想が一向宗と呼ばれ、専修念仏や選択的一神教であると云われる由縁である。それは為政者からは危険な思想として嫌われ、織田信長などは徹底的に排除しようとした。それが諸大名にも浸透し、各地にあった寺内町は戦国時代の国盗り合戦を経て、いずれ城下町へと変わっていった。

ここ一身田の寺内町は、往時のままにほとんど完全な姿で町割が遺っている。私が先にノスタルジックな佇まいに魅了されたと言ったのも、新旧混在した建物や町割が、城下町でも門前町でもない寺内町独自のものが多分に遺されているからである。なぜ遺ったのか。それは高田派が一向一揆を起こした旧本願寺派と敵対していたからだと云われる。一身田の寺内町の始まりは、言うまでもなく真慧上人がこの地に無量寿院を建立してからで、それまでは先に書いたとおり広大な田地で、梵天宮と呼ぶ小社がぽつんと在るだけであった。梵天宮は今も町の鎮守として在る一御田神社のことで、ここには田楽で使われる古面や多数の棟札が残っている。一身田が高田派の中心と定まってからは少しずつ寺内町も発展してゆく。が、ここまで大規模になるのは、江戸期にこの地を領した藤堂家の力による。関ヶ原の戦いの武功により藤堂高虎徳川家康から津藩(または安野津藩)二十二万石を与えられた。さらに江戸城の天下普請や大坂の陣での尽力により藤堂家は外様でありながらも最終的には三十二万石にまで大きくなった。高虎亡き後、二代目の藤堂高次の四女いと姫が当時の専修寺門主堯円上人に嫁ぎ、寺の西側の土地が藤堂家より寄進されたことにより広大な境内となった。以来藤堂家の庇護を受けて巨大伽藍を建造されていったのである。環濠も整備され、今の町割の原形ができたのもこの頃であろう。環濠はおよそ五百メートル四方で、南側は毛無川を利用している。入り口は南の伊勢方面に黒門、西の京都方面に桜門、東の江戸方面に赤門の三箇所で、明け六ツに開門し、暮れ六ツに閉門した。かつてはこの風情ある町で時代劇や映画の撮影がよく行われたとか。

 真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も独占させていただく。

私はまず鎮守である一御田神社に参拝し、環濠を廻りながら遠回りをして正面から境内に入った。山門前にはずいぶんと寂びた釘抜き門と云う矢来と石橋があって、山門まで続く石畳が風情を添えている。この釘抜き門と石橋が、寺の境内と人々の暮らす町との境であった。山門を仰ぎ見る。この大きな山門は仰ぎ見なくてはならない。さすがに日本仏教の一翼を担う高田本山らしい堂々たる山門である。山門は宝永元年(1704)の建立で、二階建ての入母屋造、楼上に釈迦三尊を安置する。専修寺には他に如来堂の前に勅使門である唐門と、境内の東に四重の櫓を持つ太鼓門がある。太鼓門には最上部に太鼓が吊られていて、昔はこの太鼓を鳴らして寺内町に時を知らせていたと云う。真宗の寺にはこうした太鼓門とか太鼓楼が設置されているところが多く、常は時を知らせ、一朝事あれば危急を知らせる役目を果たした。まるで城の天守か櫓を思わせる太鼓門はこの境内でもひときわ目を惹いた。

本願寺派大谷派では親鸞を祀るお堂を「御影堂ごえいどう」、阿弥陀如来を祀る本堂を「阿弥陀堂あみだどう」と呼ぶが、高田派では御影堂をみえいどう、阿弥陀堂如来堂(にょらいどう)と呼んでいる。ついでながら真宗では信者を門徒というが、高田派では壇信徒といい、真宗でいう同朋は同行ともいわれる。真宗寺院では本堂である阿弥陀堂如来堂よりも、御影堂の方が大きく造られている。専修寺もそうである。阿弥陀堂如来堂が祈りの場であるのに対し、御影堂は親鸞を慕い、親鸞に会える場、同時にそれは先に述べた門徒や檀信徒の念仏道場であり集会所なのである。一見アンバランスにも見えるのだが、浄土真宗寺院は、本堂である如来堂や阿弥陀堂よりも、親鸞を祀る御影堂のほうが倍以上大きく造られているのも、そうした理由からであろうし、真宗にとって親鸞と云う存在の大きさを堂宇によっても物語っているのかもしれない。本願寺派と高田派は経て来た歴史によって微妙な違いはあるが、宗祖は同じ親鸞であり、教義はほとんど同じである。山門を入ると一目では全体が見えないほど巨大な御影堂が圧倒的な重量感で目の前に迫ってくる。確かに本堂は如来堂であるが、どうしてもこの寺の中心伽藍はこの御影堂なのである。木造建築としては全国で五番目の大きさという御影堂内は、七百八十畳もあり、一度に二千人が参拝できる。内陣は金襴の柱や欄間で彩られており、シックな外観とは正反対の荘厳さに目が眩む。正面には明治天皇より親鸞聖人へ贈られた諡号「見真」の扁額。明治天皇は伊勢へ行かれる道中、専修寺を行在所とされた。内陣中央の宮殿(くうでん)と呼ばれる壇上には親鸞聖人の木像が安置され、その周りに高田派歴代上人の肖像が掛けられている。宮殿には扉が付いており、朝のお勤めの時に開かれる。これは如来堂本尊の証拠の如来を祀る宮殿も同じで、高田派の特徴であると云う。この大広間に参詣人は私一人であったが、寒々しいものは感じず、不思議と気持ちは落ち着いていった。この広さが広大無辺の阿弥陀如来親鸞という日本仏教に大いなる革新をもたらし、底辺まで下りてきた親鸞と云う人物の大きさを示しているような気がした。

専修寺の御影堂と如来堂は数年前に国宝に指定された。建造物としては三重県初だと云う。両御堂はこれも重要文化財の通天橋と呼ばれる美しい橋で結ばれている。如来堂は御影堂の半分弱の大きさであるが、高さは御影堂と合わせてあり二十五メートルもある。軒を組み物で支えた禅宗様式お堂は、一見二階建てに見えるが、屋根に裳階がつけられていて、さほど大きさの違いを感じないような工夫がなされている。屋根にも精緻な鶴の彫刻があって、私個人的には御影堂よりもこの如来堂のほうが仏堂としては美しいと思った。内部も御影堂に劣らぬ壮麗さで、ここでも私は一人で本尊の「証拠の如来」を拝むことができた。

如来堂の奥には親鸞聖人の御廟がある。廟所には親鸞聖人の歯が五本埋められているそうだ。御廟のさらに奥が壇信徒の納骨堂と雲幽園という庭園になっている。池が配されたこの庭には、安楽庵という茶室もあって、実に広々としているが、あまり手を加えず作りすぎていないところが気持ちいい。この庭は昔からあまり変わっていないような気がする。

専修寺には数多の寺宝があるが、中で親鸞真筆の「西方指南書」と「三帖和讃」は国宝で著名である。西方指南書には師法然の言葉、消息、行状が記されている。三帖和讃は七五調のメロディーに浄土や念仏について平易に表現したもので、いずれも親鸞が八十歳を過ぎてから記したものだと云う。親鸞は常に単純で平易、誰にでもわかるように専修念仏、易行念仏の教えを説き続けた。それを自らの生活で体現し、時には身を賭しても己の信ずる仏道を貫かんとした。ゆえに中世の人々を感動させて、長くここまで数珠繋ぎとなって、多くの壇信徒を得てきたのである。繰り返しになるが専修寺の大きな伽藍はそのまま親鸞聖人その人の大きさを感じさせてくれる。

それにしても静かな寺である。場所柄なのか、この日も観光客など一人もおらず、遠くに鈴鹿の青い峰々を眺めながら、興味津々と境内を歩いて廻るのは不躾な私のみであった。こんなに静かな本山も珍しい。境内の一角に高田幼稚園がある。無論、この幼稚園は高田本山の附属幼稚園である。私が行った時はちょうど幼稚園では親子ふれあいデーなるイベントが開かれていた。この古い寺内町の中で、子供たちはののさま(ほとけさまのこと)、親鸞さまに見守られて伸び伸びと育っている。何度も書いてきたことだが、私の生家の菩提寺浄土真宗本願寺派で、私はその寺の付属幼稚園に通った。朝に夕にののさま、親鸞さまに感謝しなさいと教えられ、南無阿弥陀仏と合掌しながら、賛美歌のような歌をみんなで唄うのが日課であった。あの歌は今でも口ずさめるし、死ぬまで忘れないだろう。子供の頃はそんな規律正しい生活を強制する幼稚園に辟易したものだが、大人になってみればあの幼稚園で通ったことはありがたいことであったと思う。私が今、日本仏教に関心があるのも、この幼児体験が多分に影響しているのは間違いない。かといって私は決して浄土真宗の熱心な門徒ではなく、念仏のみに依拠しているわけでもない。私は私の好きな日本の寺巡りを私の視点観点で廻っているにすぎないのである。今のところは他宗や他宗派の寺を巡りながら、日本仏教を多角的に見つめている。いずれ最期は浄土真宗に還ってくるのか来ないのか今の私にはまだ想像できないでいる。

この高田本山専修寺を訪ねて一番印象に残ったのは、寺と人のつながりである。寺内町という特殊な町並から生まれたその絆は、当初はその町内だけのものであったが、長い年月を経て、それは自然に町外へと波及しているように思う。 専修寺では坊さん方、寺で働く人や壇信徒の方々、寺内町に暮らす人たち、大人も子供も皆すれ違い様に気持ちよく挨拶を交わしてくれる。これほどの巨刹にして、高田本山には何とも穏やかな時が流れていた。私は晴々とした気持ちで初夏の専修寺をあとにした。

皇位継承一式年遷宮と女帝一

先月末私は伊勢神宮に参拝した。伊勢には此度の改元を機に参拝しようと思っていた。夜行バスで朝早くに名古屋に着いて、まずは熱田神宮へ参拝する。熱田神宮主祭神熱田大神は、三種の神器のひとつ草薙神剣を霊代とする天照大御神であり、神剣は御神体として奉安されている。創建はあまりに古く諸説あるが、熱田神宮伝では景行天皇の息子日本武尊が草薙神剣を手に東征したが、伊勢国の能褒野にてあえない最期を遂げた。後に熱田の地に草薙神剣を祀ったことが由緒とされ、仲哀天皇により社が創建されたと云う。かつて熱田は伊勢湾に面した岬であったらしいが、干拓されて今や名残すらない。大都会名古屋の喧騒が近いが、広い境内はさすがに清々しく、朝は地元の人が散歩がてらに参拝に訪れるくらいで、観光客などひとりもなかった。伊勢参拝前に気分が引き締まる。昔から熱田神宮伊勢神宮に次ぐ由緒とされ、天皇家は無論のこと、権力者にも庶民にも崇敬されてきた。想像するに、熱田は伊勢の遥拝所ではなかったか。古代から尾張は有力な豪族がいたし、熱田の大宮司はこの地を治めた尾張氏が平安中期まで代々務めている。前回書いたとおり壬申の乱の折、伊勢を遥拝した天武天皇に、伊勢湾沿岸の豪族達が挙って味方したのも、このあたりの人々にとってはいかに伊勢が大切にされたかが知れる。天武天皇はそれをよくわかっていて、言い方は悪いが利用したのだと思う。もちろん天武天皇自身も伊勢への崇敬は非常に厚かった。即位後は伊勢神宮の祭祀を自ら執り行ない、娘の大来皇女を初代斎宮として遣わされた。三種の神器のうち、草薙神剣が天皇の武威を示すのは言うまでもないが、熱田神宮伊勢神宮の守護と遥拝する場として整備したのは、或いは天武天皇であったかもしれない。熱田は源頼朝の生誕地である。平安後期になると、尾張氏は大宮司から権宮司になり、取って代わって藤原南家が大宮司となった。藤原季範の娘由良御前は、御所に上がり、崇徳天皇の同母妹で、後白河天皇の同母姉の上西門院に仕えたと云う説があり、この頃に縁あって源義朝の妻となった。そして頼朝が生まれたのである。源氏は熱田大神を武神として崇敬した。熱田神宮のそばには誓願寺と云う寺があり、頼朝生誕地の碑が建っている。

名古屋からは近鉄線で伊勢へ向かった。東京から伊勢へ行く場合、どうしてもこのルートになってしまうが、伊勢へは本来、大和や京都から入るのが筋であろう。本伊勢街道がその主道になるが、今回はそちらから行く時間がなかった。次は本伊勢街道を辿る旅をしてみたい。余談になるが私の友人は数年前、江戸時代に盛んであった「おかげ参り」の道中を歩いて行った。日本橋から東海道を一路、伊勢内宮を目指して十日以上かけて歩いたのである。ちなみに友人は女性である。強者である。彼女は箱根を越え、駿河遠江をひたすら歩き、結膜炎を起こしながら歩き通した。彼女は浜松から渥美半島へ抜け、伊良湖岬から船で鳥羽へと渡り伊勢へ入った。江戸から行くならばやはりこのルートが人気であり、江戸人たちにとって、尾張、桑名経由よりも、海上経由の方が近道であり、楽であったと思う。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も有らなくに

これは大来皇女の歌である。先に述べたが、大来皇女は初代斎宮を務められ、天武天皇崩御されるとしりぞかれたが、最愛の弟大津皇子を失い、多くの挽歌を遺している。この歌もそのひとつで、伊勢から都へ戻ると、天武天皇大津皇子もおらず、何をしに都へ戻ってきたのか、伊勢に留まっていれば良かったと嘆息されているのである。斎宮は「さいぐう」または、「いつきのみや」と呼ばれ、上古から南北朝時代にかけて天皇に代わって伊勢神宮に奉仕し、祭祀を執り行った。 近鉄線で名古屋から伊勢へ向かう途中、多気明和町のあたりで車窓左手に広大な斎宮跡が見られる。斎宮は伊勢から少し離れたこの地にて潔斎して暮らし、日夜朝暮に伊勢を遥拝した。年に三度神宮へと赴き神事に奉仕されたと云う。斎宮は基本的に未婚の内親王や皇族の女性(女王)が務められた。斎宮には天皇家出先機関として、斎宮寮が置かれ、数百人が仕えていたと云われるから、相当に大規模な役所であった。

午前中に列車は伊勢市駅に到着した。まず外宮へと参る。以前は外宮のあたりは閑散としていたが、今はずいぶんと整備されて、洒落たカフェや土産物屋が点在している。内宮に負けず観光客誘致に余念がない。私個人的にはいつも混雑している内宮のおはらい町よりも、外宮参道の方が広々と静かで良いと思った。私が行った日は令和になってちょうど一ヶ月、改元時の混雑は少し緩和されたようで、外宮は案外と静かに参拝できた。今さらこと新たに伊勢神宮について述べることはない。ただ、外宮に祀られた神が穀物や食を司る豊受大神であることは、内宮と併せて天地神明であることを明確に示しており、上古より人は天と地によって生かされていて、生き存えるにもっとも必要なモノを神として崇め奉ることは至極当然のことであったと思う。

外宮前で私はレンタサイクルを借りた。ここから先は内宮へ参り、二見浦の夫婦岩まで伊勢路をサイクリングである。御木本道路を外宮から内宮まで自転車で三十分弱、曇天模様ではあったが暑くも寒くもなく、気持ちの良い快走であった。途中、猿田彦神社に参り、おはらい町へ入った。いつ来てもおはらい町は活気に満ちている。老若男女が集う様は、原宿の竹下通りと巣鴨の地蔵通りが一緒になったような場所であるが、町並はこちらの方が風情がある。昭和中期に伊勢神宮の参拝客は増えたが、おはらい町の観光客は激減してしまい、伊勢市は再興に尽力した。それは平成となっても続いておかげ横丁ができたり、活況は今がピークとばかりに賑わっている。

私は宇治橋の前に自転車を停めた。暑い雲間からほんの少し陽光が差している。冬至の日、朝日は宇治橋の正面に昇る。冬至を境に昼は日一日長くなってゆく。そこに切なる願いが込められた。昔の人々にとって何よりも恐ろしいのは闇夜であった。闇夜では人の目はほとんど利かない。それはこんなに明るい夜しか知らない現代人の我々には想像もできない恐怖であった。夜になると鬼が現れ、魑魅魍魎が跋扈した。得体の知れぬモノが夜を支配し、人は活動を制限されて、怯えながら眠るしかなかった。だからこそ、朝が来て、日が昇ることを無上の喜びとした。夜を無事に過ごし、また目覚めることに感謝した。こうした想いも、今を生きる我々には絶対にわからない。大自然と共存するというよりも、大自然の中で生かされていること、その力に人が抗することなど不可能であることをよくわかっていた。統治者たる上古の天皇たちはその想いを代表して、自ら太陽を崇敬し、自身の祖先神が天照大御神としたのである。何よりも崇めるべきは太陽であり天であり、次に大自然であり夜であり、その次に海や大地であった。それが私にはアマテラス、ツクヨミスサノオを彷彿とさせる。中で第一はアマテラスであり、その子孫がこの国を治めるのであれば、誰も逆らうことはできなかった。こじ付けでも何でもなく、まったく人間として自然な考え方であったと私は思うのである。これは何も日本に限ったことはではなくて、世界中で太陽を神として崇めていることからも、上古の人々にとっては当たり前の思考であった。

昔の人々は朝起きて目覚めるたびに、一日、一日が生まれ変わりと考えていた。闇夜は黄泉の国を連想させる。ゆえに朝を迎えて、旭日を仰ぐことは黄泉がえりであった。そして日本人は神々もまた生まれ変わるものと信じた。それをもっとも具象化したものが遷宮である。遷宮はいくつかの神社で今も行なわれているが、もっとも有名で大規模なものは伊勢の式年遷宮であろう。伊勢の式年遷宮は千三百年間、室町時代の一時期を除いて二十年ごとに行なわれている。前回は平成二十五年であった。この二十年という周期が神明造の継承、遷宮を取り仕切る人々の叡智、献木の技術、奉納品の伝承にもちょうどよい。二十年前の遷宮を知る人々は、二十年後もだいたいは生きている。二十年後に次世代へと繋ぐには、これほど絶妙の時間はあるまい。よく考えられている。この伊勢の遷宮を始めたのが、何おう持統女帝であった。遷宮の意図は様々に推測され、実際様々な意味があるのだが、代替わりをすることはすなわち皇位継承をも意味し、平安遷都まで歴代天皇が度々遷都を繰り返したのも心機一転の「みあれ」を象徴している。改元にもまた同様の意味が込められていたことは前にも書いた。飛鳥時代から奈良時代にかけて、皇位継承は命懸けであった。しかし天武天皇と云う強い天皇が誕生し、後を引き継いだ持統女帝により盤石なる体制が築かれ、あおによし奈良時代は白鳳からやがてくる天平へと絶頂期を迎えるのである。

持統女帝は、官制の整備、百官の選任、庚寅年藉の作成などを次々に行い律令制を完成させた。持統天皇八年(694)には中国様式に倣い日本で初めて条坊制を敷いた藤原京を造営し遷都した。周囲およそ五キロ四方の藤原京平安京平城京よりも大きな都であった。薬師寺平城京の西ノ京に移転するまでは藤原京にあって、平城京に移転後も本薬師寺として長らくあったが、今は礎石を遺すのみである。藤原京は、北の山科の地に天智天皇陵、南に天武天皇陵、西に二上山、そして東に伊勢がある。これは偶然ではなく藤原京はそれらに守護された場所に意図して造営されたに違いない。この都で大らかで繊細な白鳳文化が生まれた。白鳳文化はいかにも女帝が統治した時代を象徴している。 持統女帝は持統天皇十年(696)に孫の軽皇子に譲位されて太上天皇となられた。軽皇子は十四歳で即位され文武天皇となる。これは史上初の譲位と云われ、持統上皇崩御されるまで若き文武天皇を後見された。二元政治と云うよりも、実質的に権力は上皇にあった。平安後期の院政の原型である。大宝元年(701)大宝律令が成り、それを見届ける様に、翌年、持統上皇崩御された。五十八歳であった。 その後文武天皇は在位十年で崩御され、母である元正天皇、その娘で文武天皇の妹元明天皇と相次いで女帝が即位している。持統女帝にはこれも予測の範囲であったかもしれない。であればこそ皇祖神たる女神アマテラスを歴代天皇の誰よりも崇敬し、アマテラスの力の絶対性と、生命の永遠性を意識的に世に示されたに違いない。式年遷宮には持統女帝の想いが強く込められている。

万葉集には持統女帝の歌がいくつか納められているが、私が好きな歌は、春過ぎて夏きたるらし〜よりも、天武天皇を想われて詠まれたこの挽歌に惹かれる。

北山につらなる雲の青雲の星離りゆき月も離りて

何とも雅びで冷え寂びた調べで、後々の平安王朝を彷彿とさせる歌である。月や星を散りばめて広大無辺の宇宙を連想させるが、その内には天武天皇亡き後の秘めたる恐怖と悲哀が見え隠れし、持統女帝の人間像が見えてくる気がしてならない。 そういえば西行は、晩年の七年ほどを伊勢に過ごした。西行の伊勢への信仰は、神仏混淆の厚きものであった。

   伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける

榊葉に心をかけん木綿しでて思へば神もほとけなりけり

   月よみの宮にて

梢見れば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月読の宮

 何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる

三つ目の歌は有名だが、果たして西行の作は定かでないらしい。が伊勢に参拝して、河鹿の鳴き声を聴きながら五十鈴川で手を洗い清めていると、どうしてもこの歌が私の中をリフレインした。

自転車を駆って内宮近くの月読宮にも参拝した。ここは良い。内宮に比べて参拝に訪れる人も少なく、厳かな静けさである。外宮近くにも月夜見宮があるが、どちらも主祭神は月読尊で、西行はどちらの月読の宮で詠んだのであろうか。月の満ち欠けを教え、暦を司るとされる月読尊は、いかにも秘された神らしく、あまり目立ってないところがまことに好ましい。私個人的には、ツクヨミには大変興味があって、予てよりいろいろと調べたり、各地のツクヨミを祀る社を訪ねているが、調べれば調べるほど謎が多く、迷宮入りしそうである。それはそれでまた面白い。このシリーズの趣旨と離れてしまうので、今はあまり深くは追わないが、いつかツクヨミのことを多角的にアプローチしてみたいと思っている。

私は五十鈴川河口にある汐合大橋を渡って二見浦に向かった。二見浦のあたりも風情ある宿屋や土産物、赤福の店が立ち並んでいるが、あたりは静かな凪の音が聴こえてくるばかりであった。この日は一段と海は穏やかで、夫婦岩も仲良くごきげんに見える。私はしばし茫然と伊勢の海を眺めた。大波小波を受ける夫婦岩。私はそんな夫婦岩の姿に歴代最強の天皇夫妻たる天武天皇と持統女帝を重ねていた。

青春譜〜金管楽器私総覧〜

金管楽器は奏者の唇の震動により発音する管楽器を云う。真鍮で作られているものが多く、マウスピースを装着し吹奏する。余談だが木管楽器でもフルートやサックスは真鍮製やメッキ製だが、唇を震動させない奏法のため金管楽器ではなく木管楽器とされる。金管楽器でまず挙げたいのはトランペットだ。トランペットは金管楽器のみならず、吹奏楽管弦楽においての花形楽器である。まずあの勇壮かつ華やかな音色を耳にする時、よくぞ人類がこの楽器を生み出したという喜びと、実際にこの楽器を創作した人々に私は敬意を表したくなる。トランペットはいつでも楽曲をリードする楽器であり、どこまでもスターなのである。それは吹奏楽においては特に顕著であろう。奏者は学級委員とか、体育祭の団長のように、皆から頼りにされ、羨望される存在である。奏者自身もそれを目指さねばならない。これはトランペット奏者の使命である。私もクラリネットを吹く前に、中学一年で入部してから半年くらいはトランペットを吹いていた。そのことや経緯は前に書いたからは省きたいが、どうしてもクラリネットが吹きたかった私はトランペットを置いた。しかし、クラリネットにトレードしてから改めて痛感したのは、トランペットの人を惹き込む力である。パンッと響く最初の発音だけで、聴衆も奏者もその楽曲の中へと入ってゆける。トランペットは楽曲の世界観をもっとも早く、端的に聴衆へ届けてくれる楽器である。トランペットはその歴史も非常に古く、起源となるラッパのさらに原型は新石器時代に遡る。金属のラッパは古代エジプトではすでに使われていて、王家や軍隊で活躍していた。トランペットは歴史からしても、華麗かつ力強い圧倒的な存在感にしても吹奏楽器の王であり、ラッパやコルネットなど同類の楽器はトランペットの王族であると私は思っている。

吹奏楽金管楽器の配置は聴衆から見て上段左にトランペット、右にトロンボーン。一段下がり左にホルン、右にユーフォニアム。チューバは雛壇に上がらず、右手バリトンサックスやバスクラリネットの後ろに配される。この配置がベーシックだが、楽団や人数、楽曲や編成、指揮者によって変わることもある。金管楽器で見た目にもっとアクションが大きいのはトロンボーンである。スライドを前後に動かすので、躍動的な楽器だ。トロンボーンは吹いたことはないが、以外と馴染みがある。私の妹もかつて吹奏楽部でトロンボーン奏者であったからだ。もっとも面白く関心を集めるのはやはり奏法だろう。金管楽器であるから唇の震動によるのだが、一般的なトロンボーンはスライドを前後に動かして音程を得る。音程は七段階あり、手前から第一、もっとも後ろが第七である。手前が高く後ろが低い。生き物の様だと述べたが、まるで象が長い鼻を動かしながら、楽しそうに叫んでいるようにも見える。大きな楽器なのにどこか愛嬌を感じる。トロンボーンは実に個性的な楽器である。起源はトランペットから派生したらしい。トランペットよりも低い音でハーモニーを奏でるが、トロンボーンが主旋律を奏でることもあるし、トロンボーン協奏曲も多い。ジャズでもよく奏される。吹奏楽トロンボーンがもっとも目立つのはパレードやマーチングである。その形状と奏法からパレードでは必ず先頭を務める。ターンをする時は、ベルとスライドを最大限に上に向けて翻る姿は、皆が一斉に合わせるとまことに壮観である。

アンモナイトのような独特の形状で、これまた不思議な楽器ホルン。マウスピースの直径は金管楽器で一番小さい2センチ程度だが、ベルはとても大きく直径30センチ以上もある。ホルンは種類にもよるが、吹奏楽で一般的に使用されるシングルホルンやダブルホルンは4メートルもの管を持つ。こうした形状ゆえに、ホルンは幅広い音域を持っており、中音域楽器でありながら、楽器によって高音域も低音域もカバーできる。ホルンは唇の振動、左手でバルブを操作し、右手でベルに手を出し入れすることで、様々な音を出せる。もっとも奏法の難しい楽器の一つとされ、ホルン吹きは冷静で根気あって、かつ器用なものでなければ上達しないであろう。ホルンは金管楽器にしては柔和な音を出すため木管楽器ともよく調和するので、木管楽器とのアンサンブルもしばしばある。無論、ホルンが主役の楽曲も多くある。ホルンは一見目立たないようだが、実は金管楽器木管楽器の橋渡しをする楽器である。私には楽器も音も奏者も、そのすべてにおいて、ホルンは賢者に見える。ホルンとは角笛の意で、角笛ならばこれまた古くから使われていたであろう。アルペンホルンは角笛から進化し、あの長さで止まった。以降は技術革新によって巻かれていったのだと思う。

ユーフォニアム吹奏楽独特の楽器と言ってよいだろう。語源はギリシャ語で「良い響き」のことだと云う。歴史は180年ほどで、ドイツヴァイマルのフェルディナント・ゾンマーによりその原型が開発され、以来改良が加えられて今日に至る。ユーフォニアム管弦楽にもテナーチューバとして見かけることもあるが、稀であり、やはり活躍の場は吹奏楽金管バンドのようだ。B♭管が一般的で、トロンボーンとほぼ同じ音域であるが、音色はトロンボーンよりも柔和である。正直に言ってユーフォニアムは地味な存在だ。吹奏楽ブラスバンドに携わりし者でなければ、知る機会も少ないかもしれない。吹奏楽部に入るまで私自身も知らなかったし、入部して近くでその音を聴いても、何の関心も湧かない楽器であった。実際、私の現役時代にも、新入部員が積極的に希望することはほとんどなかったし、他の楽器が埋まってゆく中、余ったユーフォニアムに配属されると、何だかハズレくじを引いた様な顔になる人もいた。が、ユーフォニアム吹奏楽にはなくてはならない楽器なのある。あの柔らかく優しい音色は、楽曲に重厚なる深みと、美味なる奥行きを与えている。ユーフォニアム奏者は、木管楽器で書いたファゴットのように、じわじわとその魅力にハマる者が多いように思う。その魅力に気づいた者だけの特権であり、それを知る者のみがその至福を味わえるのである。今、ユーフォニアムは密かなる人気を集めている。ブラス界を席巻する日も、そう遠くはないだろう。

チューバは吹奏楽団の父の様な存在だ。聴衆から見てステージ右手にどっしりと腰を下ろして、大きなベルから、太く逞しい低音を唸らせる。チューバは楽団と楽曲を根底から支えている。この大きな金管楽器はやはり男子の楽器だろう。無論のこと女子校や、稀に共学の吹奏楽部でも逞しきチューバ女子がいる。重量もさることながら、相当な肺活量を必要とするはずで、チューバ奏者はだいたいが体格がよい。そうでなければチューバ奏者は務まらぬし、チューバを吹いているうちに、心身はチューバの如く大きく成長してゆくに違いない。チューバは音も無限大に聴こえる。それは大音量よりも、デクレッシェンドしてゆく時、儚く消えてゆく低音にこそ感じるものだ。あれほどの巨体を奏するには、並大抵の努力では足りないだろう。クラリネット吹きの私からすれば、チューバ吹きは柔道部や野球部の連中と変わらなかった。チューバはラテン語で「管」という意味であり、チューブから連想したのか、チューバからチューブが連想されたのか私は知らないが、文字通り管楽器を象徴していると思う。低音楽器としてのチューバが開発されたのは、産業革命以降だとか。

私個人的に金管楽器の最高の魅力は、音を破って吹奏された時だと思う。例えば、譜面上フォルティシモやクレッシェンドが連続した時、あたかも野生動物の雄叫びのように聴こえ、鳥肌が立ったことも一度や二度ではない。続。

なおすけの平成古寺巡礼 甲州恵林寺

私は甲府盆地が好きである。あの雄大な景色は、何度見ても心躍るところがある。東京から中央道や甲州街道を使って、勝沼の葡萄畑が見え始めると、視界が開けて、甲府盆地を俯瞰できる。確かに四周山。これほど名峰群に囲まれている盆地は他にあるまい。それはまるで仏さまの掌に包まれている様だ。ひと際目を引くのが、西の南アルプスの大山塊で、巨大な屏風がどっしりと聳立する姿に、私は山の神を拝む思いをし、同時に甲斐の猛虎武田信玄を連想させる。甲州人にとって武田信玄は永遠のヒーロー。信玄の銅像があちこちに建っているのも、いまだに信玄崇拝が根強い証拠であろう。信玄の銅像は、何と言っても甲府駅前のそれを筆頭としたい。昭和四十四年に完成したもので、甲府を訪れる者を睥睨している。床几にどっしりと腰を下ろして、左手には数珠、右手には軍配を持っている。この勇姿は川中島合戦の陣中の姿をイメージしたものとかで、まさに戦国武将かの如くありなんと云うべき、堂々たる威容を魅せている。私はあの姿にそのまま、甲斐から見える山々を重ねて、甲府駅前に行くと飽くことなく敬愛する武田信玄像を眺めている。戦国大名も数多いて、さながら百花繚乱。彼らは今の人間よりもはるかに面白く、魅力溢れる豪傑ばかりだ。好きな戦国大名や武将を選べと言われたら困るし、私はどちらかと云えば、徳川家康の様な天下人に興味があって、孤軍奮闘の戦国大名にはあまり関心はないのだが、敢えて挙げるとすれば武田信玄である。それは武田信玄はもう少し命永らえていたら、上洛を果たして、天下人になったやも知れないと思わせるからである。

川中島の戦いは五度にわたった。実質的には永禄四年(1561)の四度目の戦いが、もっとも激戦であり、川中島の戦いとはこの第四次合戦を指してよい。その前の三度は前哨戦であり、川中島近辺での小競り合いや情報戦であった。最後の五度目は睨み合いのみである。しかし、十二年にもわたり繰り広げられた川中島の戦いは、天下取りではない、最も戦国時代らしい戦いであり、戦国史のみならず、日本史好きは食指を動かしたくなる。川中島は大軍対大軍が激突した最初の戦いであり、以降川中島がモデルケースとされて、関ヶ原の戦いまで続く天下取りへと突入する。信玄と謙信は互いを尊敬し、敵対し戦いながら戦国大名としての力をつけていった。両雄が切磋琢磨し比類なき双璧になった。此度は武田信玄のことである。信玄は智略に優れ、かつ大将としての勇猛果敢な大器量を備えていた。家臣団を統率し、また家臣団も信玄に忠義を誓い、鉄壁の武田軍を創り上げた。相手の上杉謙信と上杉家臣団もまた同様であった。ゆえに雌雄決すること成らずであった。

 信玄の生きた時代、甲斐の周囲は、駿河の今川氏、相模の北条氏、上野の上杉氏、越後の長尾氏など、何れ劣らぬ強者がひしめいていた。国守は今川義元北条氏康長尾景虎で、さらに後には三河徳川家康尾張織田信長がいた。応仁の乱が集結して後、室町幕府は殆ど瓦解しており、足利将軍家の権威も力も失墜著しく、それに伴い各地の守護大名の地位も低下した。京都に常住した守護大名に代わり領国の統治を代行した守護代や家臣団が力を蓄え、守護大名から独立したり、謀反を起こして一派一軍を成し、やがて戦国大名となっていった。群雄割拠の戦国の世が始まる。室町幕府の中枢を担っていた細川氏、畠山氏、斯波氏の三管領家をはじめ、京都に近い有力守護大名は為す術もなく、新興の大名や、東国、西国の大名達は各地で国取合戦を繰り広げたのである。そんな中、武田氏もまた荒海に乗り出さねばならなかった。

甲斐武田氏は、清和源氏の一流河内源氏の一門で、八幡太郎源義家の弟源義光が祖とされる。前九年の役後三年の役で源氏は東国に進出したが、そうした経緯から義光が甲斐守に任じられ土着したと云う説もあるが、真偽は疑わしいようだ。義光の息子源義清が、常陸国那珂郡武田郷を治め、武田の姓を名乗り始めたのが、武田氏の起こりである。その子源清光は荒くれ者で、周囲の豪族と揉めた。結果、甲斐に流されたと云うが、清光は自らの意思で甲斐に向かったと云う説もある。いずれしろこの清光が甲斐に土着して、ここに甲斐源氏が生まれ、甲斐武田氏が始まったのである。ゆえに武田家は守護大名であり戦国大名である。武田氏は新興ではなく名門中の名門であった。

大永元年(1521)、戦国乱世の真っ只中に信玄は武田家嫡男として生まれた。幼名は太郎、名は晴信と云う。信玄となったのは、後に仏門に帰依してからである。父武田信虎は、甲斐武田氏始まって以来の専制的な国守であった。武田家の戦国の有力大名としての萌芽は信虎の頃に培われた。豪胆剛毅な信虎は強権的な独裁者であり家臣や領民からも恐れられた。その父の振る舞いを幼い頃から側で見てきた晴信は、父とは真逆の温厚な性格で和を重んじた。ゆえに晴信が成長するに連れ、信虎は晴信を頼りなく思い、疎んじはじめた。一時は本気で晴信を廃嫡し、次男信繁を後継にしようとしたほど、父子には軋轢が生じていた。晴信も自ら廃嫡を望もうとしたが、守役板垣信方や継室三条の方に諌められて思いとどまった。二十一歳になった晴信は、板垣ら家臣団と結託して、密かに駿河今川義元に頼み、ついに父信虎を駿河に追放した。いくら戦国乱世とはいえ、我が父を追放し、国守の座に就くなど、考えも及ばぬことであり、周囲の大名にしても京都の将軍家や諸大名にしても、この大クーデターはまことにセンセーショナルな出来事であったに違いない。子が父を追放する。これ以上の下剋上はあるまい。今まで小競り合いで燻っていた戦国の火は、この出来事によって火炎となって、瞬く間に日本各地へ燎原の火の如く広がっていった。

いわば戦国後期の火蓋を切ったのは、何おう武田信玄その人であると私は思っている。この時から信玄は本物の武人となって、後に戦国最強と呼ばれる武田軍を率いてゆく。一方で、政治家としては父とは異なり家臣領民を大切にし、円満な領国経営を試みた。勇猛かつ優しい甲斐国守を目指したのである。甲斐を豊かにするために、積年の課題であった治水事業を徹底的に行い、肥沃な大地を求めて、諏訪から北信濃に侵攻し次々に勝利して、ついには信濃を平定し領国を拡大した。信玄としてはここらで良いと思ったかも知れない。後は、甲斐信濃をいかに守り、繁栄させるかに心砕きたかったであろう。が、戦国の世はそれを許さなかった。甲斐を守り抜くためには、周囲と戦い、勢力を広げ、さらには京の都を目指さねばならなくなった。出なければやられるのが、戦国であった。その事では嫡子義信と揉め、まるで自分と父信虎のように反発し合う父子関係となり、ついには吉信が信玄に謀反を起こし廃嫡、失意の義信は自害した。次男信親は幼くして盲目となり出家、三男信之は早逝していたので、これにより信玄側室で諏訪姫の生んだ四男勝頼が嫡子とされた。諏訪姫は若き日信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘で、勝頼は諏訪四郎と呼ばれ長く諏訪にて養育された。義信亡き後、三条の方も相次いで亡くなり、これを機に勝頼は、諏訪高遠から甲府躑躅ヶ崎館に迎えられている。

元亀三年(1572)信玄五十二歳、労咳を患いながらも、およそ三万の武田軍と北条軍二千を率い、信玄は上洛するために西へ進軍を開始した。京都では織田信長が、足利義昭を十五代将軍に奉じたが、それは形ばかりで、実質信長政権が始まりつつあった。信長の軍門に下るわけにはいかない信玄と、信長の専横を苦々しく思っている足利義昭の利害は一致し、義昭は信玄に助けを求めて招聘したのである。信長と若き日の家康は同盟者であった。家康は西上してくる信玄を三河遠江にて迎え撃つも、味方の敗戦相次ぎ、浜松城に籠城したが、信玄はそれを無視して城攻めせずに、西へ軍を進めた。家康を子ども扱いして無視したと云うよりも、この先の三方ヶ原に誘い込めば、城攻めより遥かに楽に戦えることを知っていたからだ。同時に我が命尽きかけているこの時、避けるべき戦いは極力避けて、一刻も早く上洛を果たしたかった信玄の心が透けてみえる。家康が追って来なければ、信玄はそのまま西へ向かっていただろう。攻めて来ぬ武田軍に業を煮やした家康は、ならばと城を飛び出して信玄を追いかけた。そして三方ヶ原にて待ち受けていた信玄に返り討ちにされ、信長の援軍も僅かしか来ず、大敗北を喫した家康は、馬上で糞を漏らしながら、命辛々浜松城へ逃げ帰った。この時の家康はいかにも若かった。しかしこの経験が家康を大きくしてゆくきっかけとなり、家康は生涯武田信玄を尊敬したと云う。信玄の城攻めせずに誘き出す戦法は、関ヶ原の合戦で活かし、後に武田家臣団や武田軍の生き残りを召抱えて、井伊直政に与えたりした。武田の赤備えは井伊の赤備えに継承されたのである。信玄は労咳を押して出陣し、山の神が降臨した如き姿で、連戦連勝を重ねた。陣中では病など何処かへ消え失せ、家康を蹴散らし、いよいよ信長を窮地に追い込むところまで来た。入洛まであと一歩のところであった。が、信玄の命運もここまでであった。翌、天正元年(1573)武田信玄死す。総大将を失った武田軍の士気は下がり、もはや信長の敵ではなくなった。信玄亡き後、武田家は雪崩のようにあっという間に滅亡してゆく。

信玄の墓所は複数ある。おそらくは死を秘匿するべく、その墓もバラけた可能性が高い。信玄は往生際に自らの死を三年間伏せる様に勝頼に遺言している。さらには、遺骸を諏訪湖底に沈める様に伝えたとも云われる。真偽は謎らしいが、信玄ほどの人物ならばあり得ぬことではない。当時水葬は珍しいことではないし、諏訪湖に沈めて隠せば、敵を欺ける。そして諏訪湖は武田家と甲斐信濃にとって神の湖と崇められている。諏訪大社は武田家の氏神であり、諏訪大明神は家臣から領民に至るまで崇敬厚く、冬に時々見られる湖面の氷の膨張と伸縮によって起こる「御神渡り」は、神の通った道と云われる。諏訪湖は甲斐や諏訪の人々にはまことに神秘の湖で、諏訪湖から飲み水も魚も、豊穣の水も分けてもらっていた。日々の暮らしの糧が諏訪湖なのだ。その神の湖に自らを埋葬すれば、信玄の威光は益々神威となり、武田家と甲斐を未来永劫守護すると遺言したかもしれぬ。信玄の墓は甲府市内にもあり、武田神社近くにある。武田神社躑躅ヶ崎館の跡地に建っており、今も社の周囲には濠が廻らされ、高い土塁が見られる。裏山には貯水池があって釣り堀になっているが、そのあたりに登ると、甲府城下を俯瞰することができる。最初に述べた甲府盆地雄大な眺めである。ここからの景色を信玄も眺めたとすれば、実に感慨深い。

信玄の墓は甲州市にある恵林寺にもあるが、ここがおそらくは正式な墓であろう。信玄の葬儀は勝頼によって恵林寺にて営まれた。恵林寺は中央線の塩山駅から車で十分少々だが、私はぶらぶらと一時間ほどかけて歩いて行った。途中にある向嶽寺に立ち寄る。向嶽寺は永和四年(1378)、富士を崇拝していた武蔵国の抜隊得勝禅師が八王子からこの辺りに入り、庵居を構え向嶽庵と称した。南朝後亀山天皇の勅願所となり、武田家からも庇護を受けて、信玄の時に本格的な禅道場となり向嶽寺となった。向嶽寺も信玄の時代がもっとも隆盛し、末寺、塔頭が軒を連ねる大寺となったが、武田家滅亡後は衰退してゆく。戦国末期には荒廃していたが、徳川幕府から朱印を受け、維新後に臨済宗南禅寺派に一時属し、明治半ばに独立して臨済宗向嶽寺派大本山になった。今は住宅地の只中に、禅寺らしい凛とした佇まいをみせている。仏殿や前庭以外は非公開だが、山門を入ると池があって、その池の真ん中に屋根のある美しい橋が架かってい、その橋越しに見る仏殿と、裏山の鮮やかな緑には見惚れてしまう。雲水の修行のための寺であり、拝観謝絶のせいか、参詣客は一人もおらず、清らかな朝の空気が充満する寺を独占した。向嶽寺は文字通り富嶽に向かう寺、富士を仰ぐ甲斐に相応しい寺である。

恵林寺は武田家菩提寺に相応しい堂々たる寺であるが、肩を怒らせたところがまったくない。ゆったりと静かに、優しく甲斐の歴史を見守っている。恵林寺臨済宗妙心寺派で、元徳二年(1330)夢窓国師の開山。禅寺らしく美々しい参道の先に朱塗の四脚門、その先に古色蒼然とした三門があり、屋根には武田菱が光っている。寺伝によれば、信長は武田家を徹底的に潰しにかかり、恵林寺にも兵火を及ぼした。当時の住職快川国師は、燃えさかる炎の中、この三門の上から、「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず しんどうめっきゃくすればひもおのずからすずし)と遺偈した。さすがに武田信玄が帰依した禅師らしく、潔い死に様である。夢窓国師が作庭した庭は、池が配されて四季折々の花が咲き乱れる。方丈の枯山水も窮屈さはなく、のびのびと広くて気持ちが良い。有名な武田不動尊は、信玄が出家し比叡山から大僧正の位を受けた際に作らせた信玄等身大の不動明王の木像で、信玄は自らの髪を焼き、漆に混ぜて胸元に塗り込めたと云う。たださえ怒髪天不動明王に、甲斐の猛虎と恐れられ、山の神とも崇められた信玄がまるで乗り移っているかのようである。不動尊の裏手が墓地になっていて、信玄の墓所となっている。信玄の墓の背後には、武田二十四将を含む七十基もの家臣団の墓が整然と並んでおり、まるで鶴翼の陣の如く壮観である。死してなおも武田信玄と家臣団は強固な主従関係を見せ付けており、この場所にいると威風堂々たる武田軍が鮮明に瞼に浮かんでくるようであった。そしていつの間にやら戦国の世へ還って行きそうな心地になる。信玄墓所から少し離れたところには、元禄時代甲府を治めた柳沢吉保夫妻の墓もある。吉保は徳川綱吉側用人として絶頂を極め大老格の待遇を受けたが、綱吉亡き後は日を置かずに隠居し、余生は駒込六義園の造営などして風流を旨として過ごした。吉保は信玄を敬愛していたと云う。今、恵林寺で信玄の側にいられることは幸せであろう。

 当然ながら甲府市内には武田家に所縁のある寺が多い。信玄は京都や鎌倉の五山制度に倣い、甲府城下にも臨済宗甲府五山を置いた。甲府市内にある長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺である。また信濃を平定した後、甲斐にも善光寺を建立し、川中島合戦による兵火から逃すべく信濃善光寺から本尊の阿弥陀三尊を甲斐善光寺へ避難させている。ついでに甲斐善光寺にも参詣した。寺の規模や参詣人は信濃に遠く及ばぬが、金堂は姿形がよく似ている。境内はさほど広くはないのに、金堂や山門は異様に大きく、ゆえに少し違和感を覚えるくらい窮屈だが、緑青の屋根に朱塗の金堂には圧倒される。現在の金堂は、江戸期の再建で、内部には荘厳な内陣があり、外陣の天井にはよく見かける鳴き龍がいる。私も手を打って試してみたが、この寺の龍はとても大きな声で鳴いた。堂内には多くの仏像が薄気味悪い暗がりに所狭しと安置されている。そして内陣の地下には信濃善光寺と同じく、戒壇巡りがあって、本尊と結縁できる錠前がある。先年、信濃善光寺戒壇巡りをした時には、錠前の場所がわからずに通り過ぎてしまったが、同行した友人に引き戻してもらって何とか掴むことができた。此度はひとり。甲斐善光寺戒壇巡りは信濃ほどの長さはないが、やはり内部真っ暗闇。ここは寺であり、内陣の須弥壇の直下、本尊と結縁できる場所。これほどありがたく安心できる場所もないのに、視界の効かぬ闇はやはり怖しい。人間とは愚かである。手探りで慎重に壁を伝ってゆくと、果たして錠前を掴むことが出来た。信玄は仏門に深く帰依し、同時に諏訪大明神を崇敬した。神々の住まう山に四方を囲まれた甲斐の国守として、大自然と神仏を敬うことは信玄にとっては当然のことであった。一方の信長は神仏を怖れず、比叡山を焼き払い、一向宗と戦った。或いはそれは、はじめ自分よりも遥かに大きな山として立ちはだかる信玄への恐怖心を除かんがための、信長の手立てであったかもしれない。信玄は「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」と言った。家臣を信じ、領民を慈しんだ信玄の大きな友愛の精神がみえるようである。

日を空けずに私は東京八王子の信松院を訪ねた。ここには武田信玄の四女(五女とも六女とも云うが寺伝に従う)松姫が開基の曹洞宗の禅寺で、松姫の墓もある。私は前々から松姫の数奇な生涯に関心があった。この寺にも来てみたかったのだが、近いからいつでも行けるだろうと思っているだけでいっこうに出向く機会がなかったのだが、此度ようやく参詣できた。松姫はたいそう美しい姫であったと云う。美貌のみならず、知性と教養を備え、かつ人を想う深い慈愛と、御仏への厚い信仰心を持っていた。父信玄は、他国からは甲斐の猛虎と呼ばれ、武田武士は山猿などと揶揄されたが、本人は漢籍、古典に通じ、孫子を愛読し、書も達筆であった。単なる荒くれ者に甲斐を豊かに統治し、戦国最強軍を形成できる力などあろうはずはなく、武田信玄はまことに智将であった。その娘松姫は、偉大なる父から多くを感じ、学んだに違いないのである。しかし松姫の幸せは儚いものであった。松姫は七歳で信長の嫡子信忠の許嫁となり、両家の絆となるも、都での信長の横暴と野望を見抜いた信玄は、次第に信長と不和になり信忠と松姫の縁も破談となる。信玄が亡くなり、十年余りで武田家は滅亡。松姫は八王子の心源院に入り、二十二歳で出家した。武田家代々の信という名、それは信玄の信であり、松姫の松をとって信松尼と称した。後にささやかな庵を結んだのが当院で、五十六歳で亡くなるまで、ここで寺子屋を開いたり、武田家の菩提を弔う日々を過ごした。先に述べた様に、家康は武田家の再興を画策し、武田家縁の人々や遺臣を丁重に庇護し取り立てた。これが縁で腹違いの姉の見性院とともに、秀忠の落胤保科正之を幼少時には匿って養育している。かつて寺にはまつひめ幼稚園があって寺子屋の意志は受け継がれていたが、今は幼稚園は無くなっていた。寺の前は松姫通りと呼ばれ、今でも当地の人々は松姫に心を寄せているが窺われた。本堂が中国の禅宗様式なのは、八王子七福神の布袋様も合祀されているからだろう。境内至る所に武田菱が刻まれている。小さいが庭も美々しく、茶室もあった。いかにも尼寺から始まった寺という慎ましい佇まいである。裏手にある松姫の墓にも参り手を合わせた。松姫は信玄の娘に生まれたことが、幸せであってまた不幸であったが、生涯武田信玄の娘であることを誇りとして生き抜いたに違いない。

さて図らずも、恵林寺甲斐善光寺は私が平成最後に訪ねた寺で、信松院は令和最初に訪れた寺となった。 ひとまず「なおすけの平成古寺巡礼」はこれにて終わりに致すが、私の古寺を訪ねる旅は終わらない。次からは「なおすけの古寺巡礼」として、新たに始めたいと思う。

皇位継承一壬申の乱一

白村江の戦いで惨敗した後も中大兄皇子は即位せずに実権を握っていた。このような状況を称制と云う。称制とは、君主が亡き後に、即位せずに政務を摂る人物のこと。中国王朝の例を参考に、皇太子や皇后が一時的に称制となることがあったが、日本では中大兄と持統天皇が即位前に称制となり、他にも数度あるがあまり多くはない。称制は摂政と似ているが大きな違いがある。摂政は天皇が在位されているが、称制は在位中の天皇はいない。皇太子中大兄が斉明天皇崩御されてすぐに即位されなかったのは、敗戦後の混乱もあったと思うが、この頃の皇位継承は命懸けであり、それを誰よりも解っていたのが、中大兄本人であったから、石橋を叩きながら世情の機微を見極めたかったに違いない。

 中大兄は都を難波宮から飛鳥、さらに近江の大津京に遷都された。無論のこと唐の侵攻に備えるためで、太宰府の水城や、瀬戸内沿岸に出城を築いたのも同時期である。そして大津京にてようやく正式に即位された。同時に大海人皇子立太子する。この年天皇は近江の蒲生野にて薬猟された。

あかねさす紫野行き標野行き野守や見ずや君が袖振る

この歌は薬猟に供奉した額田王が、皇太弟大海人皇子に奉歌したもので、あまりに有名な万葉の秀歌であるが、大海人の返歌がまた秀逸である。

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに恋ひめやも

額田王は大海人の寵妃と云われるが、実に謎に包まれた人物である。おそらく朝廷に使えた女官や巫女の類で歌も抜群に巧かったゆえ、才女として大海人の秘書のような存在ではなかったかと思う。額田王は才色兼備の元祖とも云える女性であり、その美貌は廷臣の間でも評判であった。天智天皇が欲されたことも想像にかたくはない。確証はないが、天智天皇にも寵愛され、最後の妃であったともされる。実に奇妙な三角関係だが、当時のことを思えば不思議でもない。もっともこの歌が詠まれた頃には、三人ともすでに熟年の域に達しており、ずっと昔の若い頃のことを思って詠んだとも云われる。額田王は大海人との間に、後に大友皇子の妃となる十市皇女を産んだが、無論のこと大海人の正妃は、後の持統女帝鸕野讃良であり、身分からして叶う相手でもなかった。しかしこうして堂々と二人の天皇を向こうに回して歌を振舞う額田王には、この時代の日本人の大胆な雅やかさが感じられる。御両人の歌からは、悲喜交々あることは察するが、白村江の戦いから少し落ち着き、この先の動乱を控えた束の間の安らぎも伝わってくる。近江朝時代は、嵐の前の静けさでもあった。

その翌年、天智天皇にとってもっとも信頼する臣下にして、盟友の藤原鎌足が亡くなった。天皇の喪失感は察するに余りあるが、鎌足大化改新以来の律令制や官僚機構を整えていたため、一応は天智天皇在位中に国内の憂いはほとんどなく、もっぱら外患にのみ気を配ったとみえる。唯一の気がかりは皇位継承問題で、晩年はそのことだけに苦心されたように思う。天智天皇は、新たに官位を十九から二十六にされ、太政大臣の位を設けて愛息大友皇子に与えた。そして自らの血筋が世襲皇位継承をすることを世に示したのである。

 天智天皇九年(671)、天皇は容態芳しからず、死の床に弟大海人皇子を呼び、くれぐれも我が子大友皇子を頼みおくと申された。太閤秀吉がいまわの際に内府家康を枕元に呼んで、愛息秀頼の後見と豊臣家への忠誠を懇願したのとそっくりな場面がそれより九百年の昔にもあったのである。大海人は兄帝の手を握りしめて、無論であると言い、自らは出家して朝廷を去ると告げ、吉野へ籠られた。 大友皇子の臣下の某は「虎に翼を付けて放ちたり」と憂いたが、天皇は安堵され、翌天智天皇十年(672)四十六歳で崩御された。正式に天皇として即位された期間はわずか四年であった。

それから時勢は風雲急を告げ、大友は叔父大海人の挙兵を怖れ、軍勢を差し向ける。事前に察知した大海人は密かに吉野を脱出し、伊賀国名張を経て、加太越で伊勢国へ逃れた。従者はわずかに二十人ばかりであったと云う。加太越は伊賀国伊勢国境にある鈴鹿山脈の峠である。ここは本能寺の変の直後、家康が辿った伊賀越えのルートでもある。家康が領国三河に逃れることができたのは、このルートに在した伊賀者甲賀者が助力したことが大きいらしいが、大海人もまた各地で豪族を服従させながら、不破関へと向かっている。逃避行には誠に適した道であり、伊賀も隠国の一つであったことが、古代と戦国の覇王の動向から知れる。大海人はその後の日本史に登場する様々な人物と重なる。源頼朝足利尊氏織田信長、そして徳川家康。皆、若い頃や天下を握るまでは不遇な時代を過ごしていて、命からがらと云う経験を何度もしている。早熟ではなく、歳を重ねてから天下を狙い始めた。或いは、それぞれが大海人を意識したこともあったかも知れない。 日本書紀によれば大海人皇子は卜占や陰陽道に長け、神秘的な力を備えていたと云う。吉野から不破関に向かう道々、卜占をし、天候から人々の吉凶をピタリと言い当てた。吉野の浄御原神社の伝承では、大海人皇子は献上された川魚を半身のみ食し、この後我が天下を治めるならば、この魚は生き返るであろうと言い放ち、川に流すと、魚は泳いで行ったと云う。シャーマンの様な大海人に、人々は畏怖し、惹きつけられて従ったのだろう。大海人は、伊勢国に無事に入ると、朝明郡の迹太川(とほかわ)の畔で伊勢神宮を遥拝し戦勝祈願をされた。このことは日本書記にも「於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」と記されており、その跡地は四日市大矢知町に史跡として遺されている。大海人は、ここでの遥拝によって、伊賀、鈴鹿、桑名、尾張、美濃など神宮を信奉する伊勢湾近くの豪族を味方につけることに成功する。これが一大勢力となり、不破関に着陣する頃には大友皇子の軍勢に匹敵するまでになった。吉野を脱出する時に、わずかの手勢しかなかったことを思えば、さすがに神がかっていると言わざるを得ない。 一方、大友皇子も軍勢を引き連れて、西から進軍してきた。こうして不破関今の関ヶ原のあたりで両軍が対峙し、古代史上最大かつ日本史上有数の合戦が繰り広げられた。両軍総勢六万前後の戦いは、東国の有力豪族を味方につけていた大海人軍が勝利した。その後も大海人軍は、時を空けずに近江朝軍を攻め立て、ついに瀬田川の決戦で大友皇子を追い詰めた。大友皇子は逃亡しようと試みるも失敗し、あえない最期を遂げられた。二十五歳の若さであった。以来、大友の即位は不詳とされたが、明治天皇により弘文天皇と追諡されている。大友皇子十市皇女の間には葛野王という親王がおられたが、無論皇位継承はできず、ついに大海人皇子天武天皇として即位したのである。余談であるが、葛野王天武天皇の孫でもあり、命は助けられて、後に皇族として遇されて、三十七年という短い生涯ではあったが、天武朝と持統朝の廷臣として、なかなかの働きを見せている。

天武天皇は史上最強の天皇と云って良いだろう。天武天皇は飛鳥浄御原へ都を戻された。史上初めて天皇の称号を用いたのも天武天皇であった。 さらに文書で公式に日本という国名が使われたのも天武天皇の時からである。天皇は祭主として五穀豊穣を神々に感謝する新嘗祭を行うが、天皇が代替わりして最初に行う新嘗祭大嘗祭と云う。一世一代の大祭祀たる大嘗祭を始めたのも天武天皇であった。先にも述べたように、 天武天皇は神懸かる力を秘めていた。そのカリスマ性は、歴代天皇の誰よりも大きなもので、当時の人々は天皇の強い磁力引き寄せられていったに違いない。その力により、様々な改革を成し遂げて、政治基盤を整えてゆく。年功や身分の序列にとらわれず、才ある者を官職につけ、勤務態度や仕事ぶりを査定し、官位を昇進させた。天武天皇の伊勢崇敬は殊の外厚く、自ら祭主となって伊勢神宮の祭祀を執り行い、娘大来皇女を史上初めて伊勢に仕える斎宮としている。今に連なる宮中祭祀を始められたのである。一方で仏教も疎かにはせず、鎮護国家のために巧みに政治に取り込んでゆく。対外政策についても、白村江の戦いで手痛い目に遭ったことを教訓にし、唐と争うことなく、寧ろ見習うべきとしぬ、朝廷では唐の礼法、衣服、結髪を採用した。が、有事に備えて軍備の拡充や練兵を怠ることもなかった。

十三年の治世で鉄壁の大和朝廷を作り上げた天武天皇崩御され、朝廷は皇位継承を廻ってまたしても不安定な情勢となる。天武天皇には高市皇子草壁皇子、舎人皇子、大津皇子、穂積皇子、忍壁皇子弓削皇子磯城皇子、新田部皇子と多くの皇子がいた。このうち皇后鸕野讃良を母に持つ草壁皇子が、もっとも有力な後継者と目されていたし、天武天皇もそのつもりであった。「吉野の盟約」には、そうした思いが表れている。天武天皇は皇后や皇子や皇族たちを連れて、壬申の乱以来、七年ぶりに吉野へ行幸された。その時に六人の皇子を前にして、皇位継承について自らの意思を語り、約束をさせる。以下、日本書紀にある吉野の盟約の一部分を抜粋する。

天皇、皇后及び草壁皇子尊、大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子に詔して曰ふ、

朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳(千年)の後に事無きことを欲す いかに

皇子ら、共にこたえて曰ふ、

理実、いやちこなり

則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、

天神地祇及び天皇、証らめたまへ 吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し 若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ 忘れじ、失せじ

五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し

然して後、天皇曰ふ、

朕が男等、各異腹にして生れたり 然れども今一母同産の如く慈まむ

則ち、襟を披き其の六皇子を抱く 因りて以って盟ひて曰ふ、

若し茲の盟ひに違はば、忽ち朕が身を亡さむ。

皇后の盟ひ、且天皇の如し

天武天皇と皇后鸕野讃良は、六人の皇子たちに向かって、皇位を巡って争ってはならぬと釘を刺し、皇太子には皇后の子には草壁皇子を指名した。六人の皇子とは、天武天皇を父にもつ高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子天智天皇を父にもつ川島皇子志貴皇子である。この時は、偉大なる天武天皇に抗う者はなかったが、皮肉なことに最強の夫妻が築きあげし、天武系はそう長くは続かず、今に続く皇統は天智系に戻るのである。そのあたりはまた次回語りたいと思う。

天武天皇亡き後、早くも暗雲が漂い始めた。大津皇子草壁皇子への謀反を図っているとの噂も流れた。危機感を抱いた草壁の母鸕野讃良は、刺客を放ち大津皇子を暗殺された。そして、大津皇子派に配慮して、草壁皇子をすぐに皇位にはつけず、自らが称制となられ様子をみることにした。が、草壁皇子はあえなく薨去され、途方にくれた皇后は草壁皇子の息子軽皇子を後継者に据えようとするが、この時軽皇子は未だ幼年、やむなく自ら皇位継承し、持統天皇となられたのである。持統天皇の父は天智天皇であり、夫天武天皇とは叔父と姪の結婚であった。数ある皇子の誰よりも血脈的には皇位継承者に相応しい存在であり、天武天皇も草壁に事あれば、軽皇子の成長するまでは、皇后に代替わりを望まれていたと思う。夫帝の成されたことを側近くにてつぶさにみてこられ、文字通り二人三脚で歩んでこられた持統女帝は、天武天皇の意思を継ぎ、安定的な政権基盤と皇位継承を切に望まれた。天武天皇を歴代最強の天皇と申し述べたが、持統女帝もまた歴代最強の女帝である。安定的な皇位継承とはすなわち兄弟で骨肉の争いを避けることである。ここまでだらだらと書いてきたが、飛鳥時代から奈良時代にかけては天皇親政がもっとも実現できた時代であり、ゆえにその権威権力を欲して皇族間で火種が尽きることがなかった。皇位を継がれて天皇になることが、これほどまでに命懸けであった時代はない。確かに後の平安時代南北朝時代にも無くはないが、血なまぐさと言ったら飛鳥時代から奈良時代の比ではない。天武天皇持統天皇夫妻は皇位継承を巡る争いを我が子らにさせたくないと思われていたに違いない。ゆえに、皇后の皇子である草壁皇子を正式に天武天皇の後継に据えた。が、早世した草壁に代わり、孫の軽皇子を次代と定めたのも、皇位世襲によって継がれてゆくことを示し、兄弟はあくまで臣下とした。余計な争いを避けるために。このことを持統天皇は自分の目の黒いうちにやり遂げねばならぬと云う強き使命感を持って女帝となられた。そして軽皇子十四歳の時、譲位されて自らは史上初めて太上天皇すなわち上皇となられた。軽皇子文武天皇となられたが、まだ若年ゆえに持統上皇は後見された。この時の持統上皇は、権威も権力も軍事力も全て手中にされ、まるで中国清朝末期の西太后を彷彿とさせる。これは私の想像にすぎないが、西太后のように、若き帝の背後に座して、垂簾聴政の様なことが行われていたかも知れない。平安後期の院政の原型がこの時にできたのである。

百人一首には、持統天皇のあまりにも有名な歌がある。

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐ山

この歌は新古今和歌集にも収めらている。一方万葉集では、以下の如くある。

春すぎて夏來たるらし白栲の衣乾したり天の香具山

この歌からは、細やかで大らかな、いかにも女性らしい面影しか思い浮かばない。歌の魔力と云うものだろうか。或いはこの歌を詠まれた彼女が本当の彼女であり鸕野讃良であって、持統女帝として君臨した姿こそは、虚勢を張った偶像であったのかも知れない。天武天皇と持統女帝、いずれにしても天皇家歴代最強の夫妻であったことは間違いないと思う。

 

青春譜〜木管楽器私総覧〜

吹奏楽において木管楽器は大所帯である。木管楽器は主旋律を奏でることが多く、オーケストラの弦楽器ならば、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに相当し、無論フルート、クラリネットに同じある。ことにクラリネット、フルート、アルトサックス、テナーサックスは主旋律や副旋律を奏でることが多い。中でもっとも主旋律の出番が多いのがクラリネットであり、さらに1stクラリネットは幅広い音域でメロディを担当する第一ヴァイオリンであろうか。木管楽器が大所帯と云ったが、そのほとんどはクラリネットである。クラリネットについては何度か書いてきたのでくり返しになるが、クラリネットは私が吹いていたB♭菅を中心に、時にA菅やE♭菅、アルトクラリネットバスクラリネット等が吹奏楽では使用される。B♭菅とバスクラリネットはほとんどの吹奏楽部で見られる。B♭菅はクラリネットの主力であり、木管楽器のいや吹奏楽の主力とも云える。私がクラリネットだったから贔屓目でみているわけではない。主旋律すなわち楽曲のメロディを奏でる楽器であるクラリネットは、トランペットやサックスの様に華はない。が、主旋律も副旋律も奏で、楽曲の根幹を支えているのは何と言ってもクラリネットである。クラリネットは基本的に高音、中音、低音の三編成で、1st(ファースト)、2nd(セカンド)、3rd(サード)と表す。吹奏楽部の人数によるが、コンクール等人数制限がある場合は三人ずつか、高音を薄めで、低音を厚めにすることが多い。高、中、低がいずれかの楽器とリンクしてユニゾンすることもあるため、大所帯のクラリネットは楽曲の中でもっとも複雑に絡み合うことしばしばなのだ。異論反論はあると思うが、極めつきの私見として云えば木管楽器の軸はクラリネットであるとしたい。

軸をクラリネットとすれば、さらに高音で微細繊細にハーモニーを奏でるのがフルートやピッコロである。吹奏楽部に入部してくる女子に一番人気はフルートである。果たして今もそうなのかはわからないが、少なくとも私が現役の頃は、入部してパートの希望を聴取する時、フルートは女子のほとんどが挙って希望するので、毎回籤引きになったりした。中学の時は籤がハズレて泣き出す子もいたり、けっこう苦慮したことを思い出す。さすがに高校生にもなれば泣く子はなかったし、高校生は中学生よりもよく考えて選択肢するようになった。或いは中学から経験していれば、そのまま同じ楽器を担当することが一般的でもあった。フルートを吹きたいと願う女子は、だいたいが見た目も実体もお嬢様っぽい。ピッコロはフルートの半分くらいの管で、フルートより1オクターブ高い音が出せる。指使いもフルートと同じで、日本の横笛のように高く鋭い音も出せるのが魅力である。吹奏楽部ではフルートの人気には及ばないが、フルートを落選したら、ピッコロにスライドすることが間々ある。何れにしても、私が中学の頃は、フルートピッコロパートは、いかにも男子禁制、女子の園と云った雰囲気があり、何となく近づき難かったものだ。

フルートパートとは対照的にサックスパートは、木管楽器の中では男子にも人気である。サックスは正式にはサクソフォーンと云うが、今やサックスと呼ぶことが一般的か。ことにアルトサックスや、テナーサックスは音も渋くて、見た目も確かに格好良い。フルートの様に可憐でなくとも華があり、大所帯のクラリネットの様に埋もれることがないサックスパートは男子が憧れる要素が詰まっている。アルトサックスやテナーサックスは演奏のみならず、吹奏する姿、だだストラップを付けて楽器を持っているだけでも絵になる。無論、発する音も魅惑的。マウスピースにリードを付けて奏するので木管セクションに分類されるが、管の材質は真鍮が主で、銀や銅を使用したものもある。塗装はラッカーもしくはメッキ仕上げで、見た目はいかにも金管楽器であるが、奏法も音色もやはり木管楽器である。サックスは木管楽器金管楽器の間の子といったところだろう。吹奏楽部ではアルトサックス、テナーサックスの他、バリトンサックス、他にソプラノサックスを使用することがある。ソプラノサックスはクラリネットとトランペットを合わせたような楽器で、音もクラリネットほど丸くはないが、トランペットほど鋭くもない。実に円やかな音色である。バリトンサックスは大きくて、重量もかなりある。ゆえに男子が担当するのが良いと私は思う。実際、私の同級生の女子はバリトンサックスを吹くことになったが、二ヶ月ほどで首を痛めてしまい、パーカッションに移籍した。成長期の中学生、特に女子にはバリトンサックスやバスクラリネットは過酷かもしれない。サックスパートは、何となく陽気な雰囲気が生まれ、吹奏楽部のムードメイカー的役割を果たすことが多い。私の経験からしても、中学も高校もそうであった。言葉は悪いが、やはり目立ちたがり屋が集まるパートと云えるかもしれない。

木管楽器でもっとも古典的なものがオーボエファゴットである。いわゆるダブルリード式の管楽器で、音色もオーボエは微細妖艶、ファゴットは重厚雄渾な響きである。どちらも構造や吹奏方法からして、さほど大きな音は出せないため、地味な印象で、吹奏楽部員にもはじめは人気がない。楽団によってはファゴットはいない場合も多く、オーボエもいないこともある。が、この楽器はどちらも吹けば吹くほどその魅力に取り憑かれる人もまた多い。先に述べたとおりオーボエファゴットは、管楽器としての歴史は古く、四、五百年前から原型はあり、さらにオーボエ古代ギリシャ時代にも、近い形の楽器があったらしい。また、弦楽器と最初にコラボした管楽器もオーボエの原型だと云われ、吹奏楽で使用される楽器では最古参なのである。オーボエファゴットはすべての木管楽器の原型なのであろう。だからこそ、オーボエファゴットを奏する者は、吹けば吹くほどその味わいと悠久の音色に魅せられて、奥深さにのめり込むに違いない。オーボエファゴットは、目立たずとも、吹奏楽に凛としたエッセンスを数滴もたらしてくれる楽器だと思う。不可思議な魅力がある。読めば読むほど、噛み締めればかみしめるほど面白い古典文学の様な楽器なのである。続。

なおすけの平成古寺巡礼 桜川にて

 改元されたので、このシリーズのタイトルも考慮するところだが、平成のうちに訪ねた寺で、あといくつか書いてみたい所があるので今しばし平成古寺巡礼としたい。

平成最後の花見は茨城県桜川市へ出かけた。桜川市はその名のとおり桜の名所で、四周を山や丘陵で囲まれてい、花の頃にはその丘陵に山桜が咲き誇ると云う。その歴史は平安時代にまで遡り、西の吉野、東の桜川と並び称された。紀貫之は桜川の噂を聴いて、憧憬の想いを込めてこう讃歌する。

常よりも春辺になれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ(後撰和歌集

詞書に「桜河といふところありと聴きて」とあるから、余程想いを馳せたのであろう。花筏が絶え間なく水面を流れてゆく様は、春を謳歌する喜びに満ち溢れている。桜川といえば、世阿弥謡曲「桜川」の舞台であるが、古典やお能が好きな人以外にはあまり知られてはいず、静かな花見を期待して出かけた。私は東京から宇都宮線で小山まで行き、水戸線に乗り換えた。桜川市に近づくに連れて、水戸線からも南に筑波山が見えてきた。標高八百メートルほどの山だが、坂東平野の只中にある独立の連山はどこからでも眺められ、名山たるに相応しい崇高さを湛えている。それは北側から見ても変わらない。桜川市に入ると、大和駅岩瀬駅と過ぎ、謡曲の舞台である磯部稲村神社の最寄駅の羽黒駅で下車する。桜川市は平成十七年(2005)に、西茨城郡の岩瀬町、真壁町、大和村が合併して誕生した新しい街だが、歴史の積み重ねられたところというのは、大和とか羽黒という名前からも想像できる。桜川は筑波山を北側から眺め、筑波連山の北に聳える加波山や雨引山の麓にある。言うまでもなく筑波山は、上古より神山と仰がれ、万葉人にも愛された。都より文化果つるところと云われた東国の僻地へ来た防人たちは、崇高なる筑波山を仰ぎ、大和三山二上山、葛城の峰々を望郷したのかもしれない。ゆえに大和という地名も生まれたのではないか。万葉集の東歌は、都人のそれより決してうまいとはいえなくも、素朴な悲哀に溢れ、筑波山を遥拝することが唯一の慰みであったことがひしひしと伝わってくる。

筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布乾さるかも (万葉集巻十四・三三五一)

筑波嶺にかが鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇)

小筑波の嶺ろに月立し逢ひだ夜は多なりぬをまた寝てむかも (同・三三九五)

筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼もかなしけ (同巻二十・四三六九)

やがて筑波山は歌枕の地となって、都におわす天皇にもその名を知られるようになる。百人一首にも選ばれた。

つくばねの峯より落るみなの川こひぞつもりて淵となりぬる (陽成院

陽成天皇は父が清和天皇、母は藤原高子である。わずか九歳で皇位を継がれたが、母の兄藤原基経が摂政となった。天皇は心穏やかなところなく乱行の数々をされたため、在位八年で基経により半ば強引に退位させられた。折りしも藤原北家による摂関政治が強く働き始めた頃で、天皇が乱行されたのも少年ながらに鬱憤が溜まっていたからに違いない。退位後六十五年も長生きされ、大人になるにつれて落ち着きを取り戻されて詩歌を携えて、八十一歳で崩御されたが、亡くなるまで少年期の鬱勃とした気分を拭うことはできずにいたであろう。八十一年の御生涯はあまりに長く、そう思うとこちらの気が遠くなる。天皇は果てしなく遠い、見たこともない筑波嶺に憧憬され、叶うことならば、自由の身となって、自由の大地と想像された坂東へ下りたいと願われたのであろうか。私にはそう思われてならない。

もう二十年以上も前のことだが、筑波山頂から初日の出を拝んだことがある。若かったゆえ寒かったことばかりが思い出されるが、太平洋から霞ヶ浦へ真っ直ぐに尾を引いて昇る旭日に感動した。桜川の有史がだいたい平安頃からと書いたが、実はもっと古く、人々は朝な夕なに筑波嶺や加波山を拝み暮らしたであろう。そもそも筑波連山全体が神域であり、筑波山神社加波山神社をはじめ、連山には古社寺が点在している。一説によれば加波山にも七百以上もの社や祠があり、筑波の修験道筑波山加波山が対であったことを示している。高さは筑波山に僅かに劣るが、秀麗な山容の筑波山よりも、加波山には荒々しいモノが見ゆる。筑波山とて、北側からの眺めは南側から眺めるよりずっと武骨に見える。さらに筑波連山には、坂東三十三観音の札所である雨引観音筑波山大御堂がある。近くに観音巡礼の札所が二つもあるのは、神仏混淆を象徴する霊山であることを示している。先年、坂東三十三観音巡礼でこの地を訪れて、高所にある雨引観音筑波山の大御堂から眼下を眺めた。すぐ近くに茫漠たる霞ヶ浦が湖水を輝かせ、その周りはどこまでも青田が広がっている。広大無辺にも見える坂東平野は、そのまま観音浄土を彷彿とさせた。その時少なからず筑波山周辺が歴史ある場所であることはわかったが、巡礼途上はすべてを廻ること出来なかったので、その後何度かこの辺りを訪ねている。桜川から北東に行くと笠間稲荷があり、親鸞の東国布教の要地であった稲田御坊や北西の栃木県の真岡には専修寺がある。そのあたりのことは前に書いたので省きたい。(2018/3/21の記事参照)

 謡曲「桜川」はいわゆる狂女ものであるが、ハッピーエンドで終わるのは、世阿弥自身が咲く花に淡い望みを見出していたのであろうか。物語をかいつまんで述べる。

日向国の桜の馬場に、母ひとり子ひとりの貧しい家があった。子どもは、桜子(さくらご)という名の少年で、母の労苦に心を痛め、みずから人商人に身を売って母の前から姿を消した。人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、悲しみに心を乱し、泣きながら家を飛び出して、桜子を尋ねる旅に出る。それから三年。桜子は、遠く常陸国の磯辺寺に弟子入りし、美しい稚児として評判となった。春の花盛り、住職は桜子を伴い花見に出かける。折しも桜川のほとりには、長い旅を経た桜子の母がたどり着き、里人の噂となっていた。狂女となった母は、桜川の川面に散る桜の花びらを網で掬うと云い、その姿がたとえようもなく面白いという。里人は住職と桜子にぜひにもその珍しい狂女を見せたいと勧めるので、住職一行は女を花見の席へと招いた。果たして女は、

年を経て花の鏡となる水は 散りかかるをや曇るといふらん 散りぬれば後は芥となる花を 思ひ知らずもまどふ蝶かな

と、古歌を口ずさみながら桜川に流れくる落花を網で掬いあげ、わが子を慕うのであった。住職がわけを聞くと、母は別れた子、桜子に縁のある花を粗末に出来ないと語る。それを聞かされた住職は女と桜子が親子であるとわかるや、哀れに思い、ついに桜子と対面させる。母は正気に戻って嬉し涙を流し、親子は連れ立って日向国へと帰ってゆく。

この物語の舞台が桜川であり、桜子を稚児として迎えた寺は、今の磯部稲村神社の神宮寺とされる。前から気になっていたが、どうせなら花の頃に訪ねたいと思っているうちに数年が経過した。今春、花がほころび始めた頃に「桜川」を観る機会があった。今が好機と翌週出かけたのである。

神社への道すがら、ついでに近くの月山寺という寺に寄る。月山寺は延暦十五年(796)、徳一上人が開いた古刹で、当初は法相宗の道場であった。元は今より少し西へ行った橋本山の麓にあり、中世にはこの地の豪族であった橋本城主谷中氏の菩提寺であった。徳一といえば、最澄と仏法論争を戦わせ、空海にも密教について疑義を示したと云われるが、徳一の生涯は不明の部分も多く、謎に満ちている。しかし平安仏教の双頭にひけをとらない、第三者として私は興味がある。徳一は都から東国へ移り、磐梯山の麓の恵日寺を拠点に会津から東北に布教した。それより前に、まずは坂東に腰を据え北上したのであろう。筑波山麓には徳一開基とされる寺が他にもいくつかあると云う。徳一にとって月山寺は、いわば東国布教の前線基地のような場所ではなかったか。月山寺は室町時代天台宗に改宗したが、修験道が盛んであったこの地では、山伏の崇敬も集めたのであろうし、徳一自身が山岳信仰を厚くしたとも思われる。月山寺はかつては修験者の宿坊であったのかもしれない。徳川時代には朱印六十石を与えられこの地に移転し、天台宗関東八檀林となって隆盛した。思えば、最澄と激論した徳一が開いた寺が、今や天台宗になっているのも不思議だが、日本の寺では、為政者や別の大勢力の介入で改宗することは珍しいことでもない。羽黒駅から北へ歩いて十分少々の月山寺は四季折々の花の寺で、ことに錦秋の紅葉はすばらしいと云う。羽黒に月山、やっぱり出羽三山に肖ったのだ。湯殿の名もないかと探してみたが、見つけることはできなかった。私に見つけられなかっただけで、実は何処かに隠れているのかも知れない。羽黒駅から月山寺へ五分ほど歩くと、俄かに黒雲の塊が現れ、突然冷たい突風が吹いた。瞬くうちに春雷がやってきて、豪雨に見舞われる。傘を持っていたが、何の役にもたたない。真後ろの加波山からも次々に大風が吹いてくる。これが天狗風なのかと思った。ここへ来たことを歓迎しているのか、拒まれているのか。ずぶ濡れになって月山寺の門前に辿り着くと同時に小雨になった。

山門を入りいっぺんでこの寺の虜に。それにしても美しい花の寺。花見客などおらず、鶯や雲雀の囀りが響く境内は静謐さが際立つ。寺の正面には加波山が厳しいながらも秀麗な姿でこちらを睥睨しており、筑波山は南側が正面だろうが、加波山は北側であるこちら側が正面であることがよくわかる。境内は枯山水あり、苔むした庭があり、この時期は青もみじが曇天にも眩い。このあたりには珍しく雅やかな寺である。本堂も実に堂々たる佇まいで、本尊薬師如来をはじめ仏さまも坂東らしくない端正なお姿をしている。本尊は薬師だが、本堂内は三間に区切られていて、過去、現在、未来に別れ、過去に阿弥陀如来、現在に薬師如来、未来には元三大師を祀ってある。境内には常陸七福神の一つ布袋を祀る布袋堂、そこから少し登ると、境内全体を見渡せる高台には観音堂、境内の奥には最澄の巨像と寺宝を蔵する美術館がある。ひときわ目立つのが観音堂で、朱塗りの壁に笠のような大屋根を載せているが、坂東の観音堂に多いスタイルで、似たようなお堂を私は坂東巡礼中に度々目にした。この観音堂は近くの栃木県二宮町にあった長栄寺という寺が廃寺となって、平成十年(1998)にここに移築されたとか。どっしりと立派な観音堂の周りには、これまた立派な枝垂桜があり、ちょうどこの日が盛りであった。北関東にはこんな寺がまだまだ隠れている。

‪月山寺を出ると、嘘の様に空は澄み渡る。桜川の舞台の磯部稲村神社までは歩いて十五分くらいである。長い参道には気持ちの良い桜の公園が広がる。周囲は山桜が自生する丘陵がこの里を包むように連なり、ぽつぽつとぼんぼりの様に咲き始めているのが見える。桜川市が掲げる桜源郷の名に背かない。ここからも加波山雄大な姿が拝めた。神社は参道の奥にしっとりと鎮まっていた。創建は景行天皇四十年(111)とも云われるが、天照大神をはじめ、木花咲耶姫日本武尊など多くの神が合祀されている。神宮寺があったことからみても、古くからこの里の鎮守として崇敬されてきたことは間違いない。そして筑波連峰の北の守護ともされたのであるまいか。筑波山には筑波山神社の摂社で天照大神を祀る稲村神社があり、ここはその里宮の一つとも云える。世阿弥がここを舞台に創作したのは、いうまでもなく桜川という美しい名と、事実この地が桜の名所であったからであろうが、世情に高いアンテナを張り巡らしていた世阿弥は、桜川が信仰厚き神域であることも知っていたのかもしれない。境内には点々と桜があり、ことに本殿前の木はほぼ満開で、本殿の軒端にかかるほど枝を伸ばしている姿が美しい。社を少し降ったところが開けていて、どうもここが神宮寺の跡らしい。ここにも桜の巨木が行列しており、かの桜川匂の古木にも逢えた。桜川匂はこの日はまだ蕾であったが、純白色の花が開くと桜には珍しく強い芳香があると云う。聴けば、この地の里桜や、周囲の高峯や富谷山などの山桜は、地元の人々が皆で桜守になっているそうで私は感動した。北関東は東京よりも花の盛りは遅く、人は疎らで最高のお花見であった。万葉時代から人を惹きつける筑波嶺の麓には、坂東らしからぬ閑雅さと、底知れない歴史の気が漂っている。