弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一南都斜陽一

大仏開眼供養と鑑真和上による大授戒を見届けると、思い残すことはないように聖武上皇崩御された。後を継ぎし孝謙女帝が頼りとしたのは、母の光明皇太后と、皇太后の甥の藤原仲麻呂である。頼りとしたというよりも、誰よりも敬い、誰よりも恐れた母の光明皇太后に背を向けることはできなかったのである。仲麻呂藤原武智麻呂の次男で、藤原南家を継いでいた。先に述べたとおり、藤原四家の当主が天然痘の流行で皆亡くなり、橘諸兄らの勢力に押されて、藤原氏は一時衰退しかけたこともあったが、藤原氏出身の光明皇太后の強力なバックアップのおかげで、仲麻呂は徐々に頭角を現し、政と軍を主導していった。藤原氏の力は仲麻呂によって少しずつ盛り返してゆくことになる。そしてついには橘諸兄の勢力を凌ぐ力をつけ、聖武天皇在位後半には政権は諸兄から仲麻呂に変わったのである。

そもそも聖武上皇光明皇后のただ一人の皇子基王は夭折し、二人の子は阿部内親王しかいなかった。聖武上皇県犬養広刀自という妃との間にも安積親王を設けていたが、光明皇后藤原氏を憚って、阿部内親王を史上唯一の女性皇太子とした。その後、安積親王も亡くなり(仲麻呂の毒殺説もある)、失意の聖武天皇は、阿部内親王孝謙女帝として即位させると、天武天皇の孫で新田部親王の子道祖王立太子させ、孝謙天皇の次に即位するよう遺詔した。が、孝謙女帝は父の束縛と母の呪縛に耐えられなくなった。父帝が崩御されると遺詔を反故にし、天平宝字元年(757)道祖王は悪行乱舞目に余ると指摘して廃太子とした。代わって大炊王すなわち後の淳仁天皇立太子させる。大炊王天武天皇の孫であり、父は舎人親王である。大炊王立太子には、仲麻呂の強い推挙があったとされる。仲麻呂は自らの権力基盤を固めるため、大炊王に近づき、亡くした息子真依の未亡人粟田諸姉を娶らせ、自らの屋敷に招いて行在所とした。翌天平宝字二年(758)八月、孝謙女帝は譲位して、淳仁天皇は即位された。これも仲麻呂が強引に事を運んだに違いない。若く薄弱な淳仁天皇は自らを天皇に推し挙げてくれた仲麻呂の言いなりであり、傀儡なのは当時の人々にもよくわかっていた。仲麻呂天皇から恵美押勝という名を賜る。「人民を汎く恵むの美、暴を禁じ強に押し勝つ」という意味があるそうだが、天皇に賜るという形をとりながらも、仲麻呂が自らの権勢を誇示するために自作自演したと云う説もある。仲麻呂は民の苦しみをあまねく聴くために門民苦使を設置したりして撫民政策も行っている。こうして押勝は右大臣にまで昇進し、何事にも唐風の政策を進めてゆく。

押勝に無理やり譲位させられた孝謙上皇は、この様子を苦々しく眺めておられたが、少しずつ再起して、隠然と影響力を行使し始める。孝謙上皇皇位という足枷がとれると、正気を取り戻されたのか、決して慎ましく隠居されたわけではなかった。そして次第に仲麻呂淳仁天皇に対して敵対心を露わにするようになる。そんな時、唯一の後ろ盾であった光明皇太后崩御された。天平宝字四年(760)のことで、孝謙上皇はさすがに気落ちし、塞ぎがちになられる。光明皇太后崩御は、押勝にとっても大きな打撃であり、以降、その権勢に翳りが見え始める。この頃、平城京を改作することになり、近江の保良宮淳仁天皇とともに移られた。近江と云えば、大津京紫香楽宮など、父祖の代から一時的に何かから逃れるような土地である。保良宮は石山のあたりに造営され、およそ二年間臨時の都であったが、唐の制度に倣って北宮と称された。

この頃、孝謙上皇に近づいてきたのが弓削道鏡である。弓削道鏡は、文武天皇四年(700)に河内国で生まれ、若年より仏門に入り、法相宗の義淵の弟子になった。それから東大寺別当の良弁にも師事し、梵語や禅にも通じるようになる。道鏡自身努力家でもあったゆえ、良弁の覚えもよく、早くから宮中の仏殿に入ることを許され、孝謙女帝の頃には禅師と称されるようになる。命がけの皇位継承と、おぞましき権力闘争の渦中に少女の頃から身を置かされてきた孝謙上皇は、心身ともに疲弊しきっていた。一時は生死の境を彷徨われたとも云う。加えて猜疑心が強く信頼できる家族も臣下もいなかった。ここに道鏡上皇の平癒を加持祈祷し、献身的に看病をした。おそらくは仏門のコネを利用して、唐から医者を呼んだり、漢方薬を取り寄せて処方もしたのではあるまいか。そして何より、生涯独身で、権力者として誰よりも孤独であった孝謙上皇は、優しき道鏡の心遣いにすっかり虜となられ、精神的に昇華されてしまわれた。これはヴァージンクィーンと呼ばれたイングランド女王エリザベス一世にも共通する感覚がある。元気を取り戻された上皇は、常に傍に道鏡を置かれ寵愛された。これを不快に思ったのが、最高実力者の恵美押勝であった。押勝淳仁天皇に奏上し、天皇自ら上皇道鏡を退けるように進言した。これに激怒された上皇道鏡を連れて平城京へ環幸、出家されてしまう。同時に天皇の大権たる国家の大事と賞罰を奪い、上皇自ら政を行い、道鏡配下の信頼できる側近を集めて、密かに軍備を整えさせた。

このことを恵美押勝ほどの人物が把握していなかったはずはなく、押勝もまた戦いに備うべく、自らが先頭に立って、兵を集めていた。越前を治める八男の藤原辛加知に命じて、近江と越前の国境にある愛発関の警備を強化した。ところが軍事力のすべてを掌握し、諸国の兵を動員する寸前で、上皇方に密告されてしまい、御璽や駅鈴を奪われてしまう。これで形成は逆転し、押勝の立場は一気に悪くなった。再起を図るべく平城京を脱出した押勝は、越前へ逃れようとするも、上皇軍の吉備真備率いる官軍に主要街道は封鎖されてしまう。吉備真備はこの時七十歳という老齢であったが、唐に渡り軍略を学んでいた。真備はかつては要職を歴任するも、押勝の台頭で野に下っていた人物で、多少なりとも押勝を恨んでいたふしがある。そこに孝謙上皇は目をつけたのだ。こと兵を率いる将としては押勝よりも真備の方が上であった。ここで重要なのは、淳仁天皇を奉る押勝軍が賊軍で、上皇軍が官軍になっていることだ。官軍とはすなわち天皇軍であり、為政者かつ勝者側であることは我が国の歴史上知られたことだ。この時をもって、押勝はクーデーターの首謀者とされ、淳仁天皇も同罪とされたのである。これが恵美押勝の乱である。一時は押勝軍が有利に運んだ場面もあったが、反乱軍とみなされた押勝軍は次第に追い込まれ、天平宝字八年(764)九月、ついに上皇軍は鎮圧に成功する。乱が始まってわずか七日目のことであった。気の毒なのは淳仁天皇で、廃されて淡路の高島へと流された。人は「淡路の廃帝」と呼んで同情した。廃帝という言葉、尊称ともいえないこの響きには、まことに哀愁漂うものがある。歴代の天皇でこれほどの哀れを誘う天皇は、淳仁天皇と平安後期の崇徳天皇しかいないだろう。一説では淳仁天皇が流されたのは、淡路ではなく淡海で、高島も湖北の高島であると云う。竹生島よりさらに北、琵琶湖の最北部には菅浦という集落があり、そこには淳仁天皇が幽閉された離宮があって、土地の人々は代々淳仁天皇を崇拝していると云う。村の鎮守社の須賀神社には淳仁天皇が祀られている。神社のあたりが御陵と信じられているそうだ。この話は白洲正子氏の「かくれ里」にも詳しく描かれていて、私もいつか訪ねてみようと思ってはいるが、何せ遠い場所である。

 淳仁天皇恵美押勝の排斥に成功した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇として再び即位した。不謹慎な表現かもしれないが、まさに皇位に返り咲いたといえる。出家したまま皇位に継いたのは称徳天皇のみである。ここまで来ると称徳女帝の我儘から始まった暴走ともいえ、単に権力闘争と云う言葉のみでは片付かない複雑怪奇な出来事であったと想像させる。すぐさま弓削道鏡太政大臣へ昇進させ、天皇に次ぐ位として法王の尊称を与えた。あまつさえ、道鏡に譲位をすることを画策し始める。それは称徳女帝が推進しようとされたのか、道鏡自身の企てかははっきりしないが、どちらもその気で、実現に向けて邁進したことは明らかなのである。

 称徳女帝は道鏡の虜となり、寵愛した。それは恋ゆえとも思われる。籠の中の小鳥の如く育てられた阿部内親王は、致し方なく天皇となり、文字通りヴァージンエンペラーとしてヤマト王権を背負い、国家と契りを交わした。そこに自分だけを見てくれて、優しい言葉をかけてくれた道鏡が現れた。初めは大いに戸惑ったに違いない。が、同時に惹かれていかれた。初めての淡い想い。初恋であった。歳を経て、権勢のすべてを手にした女帝の初恋である。この想いは、可憐な少女の初心な恋とは違い、時に陰湿で邪悪なるモノまで秘めてしまった。道鏡はそこに付け入るように、称徳女帝に寄り添った。もしかすると道鏡自身も、女帝に対して本気で恋をしていたのかもしれない。歴史は勝者によって作られてきた。すなわち勝者に都合の良い歴史である。であれば、この後に起こるスキャンダルはすべてがでっち上げであった可能性とてある。しかし称徳女帝を止められる人物は誰もいなかった。称徳女帝は道鏡太政大臣に据え、法王と呼ばせて、仏教理念を軸にした政を行なった。すべては道鏡の思うがままであった。道鏡の弟や一門は次々に廷臣になり昇進していった。道鏡政権は六年ほど続く。これには藤原氏ら既存勢力が面白く思うはずもなかった。そして、ついに宇佐八幡の神託事件が起こる。

称徳女帝は、太宰主神と務めていた中臣習宣阿曾麻呂より、

道鏡皇位継承すれば天下泰平である」

との神託があったと奏上を受ける。多分に称徳女帝と道鏡の謀に相違なく、阿曾麻呂はそれを忖度した。昨今騒がれてきた忖度は、この当時には出来上がっていたのである。かくしてこの神託により大和朝廷には大激震が走る。そして、一気に公卿廷臣による道鏡排斥が加速する。これに危機感を抱いた称徳女帝は、宇佐八幡宮に正式に勅使を派遣して、再度神託を得ることにした。女官の和気広虫に命じたが、病弱な広虫はこれを固辞、それで弟の清麻呂宇佐八幡宮への勅使に選ばれた。果たして和気清麻呂は、宇佐八幡宮より神託を持ち帰り称徳女帝に如此奏上した。

「皇国は開闢このかた、君臣のこと定まれり 臣をもて君とする、いまだこれあらず 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ 無道の人はよろしく早く一掃すべし」

これに不快を示された称徳女帝は、清麻呂因幡国へ左遷。加えて和気清麻呂から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)へ改名までさせて、さらに僻地の大隅国流罪にしている。極めて稚拙な行動とも云えるが、これは思うようにならない女帝の精一杯の意趣返しであったし、よく見れば称徳女帝の一途かつ激情的な性格が手に取るようにわかる出来事と云える。結局、どんな手を使ったとしても、この時代にはすでに天皇個人の力は随分と弱くなってしまったのである。天皇親政は夢のまた夢となってゆく。道鏡の目の付け所は間違いではなかったが、それ以上に既存勢力の秩序ははるかに高い壁であった。

神護景曇四年(770)、称徳女帝は崩御された。これにて弓削道鏡は失脚。しばらくは女帝の供養を担い平城京にとどまったが、突如下野薬師寺別当へと左遷され、二年後に彼の地で没している。一時は皇位継承寸前まで上り詰めながら、東国の下野へ文字通り下野した道鏡の失意は容易に察することができる。が、道鏡が左遷だけで終わったことを考えてみると、この神託事件がでっち上げであった可能性も否定はできない。皇統を乱そうとした大罪人として、処刑や流罪にならなかったのは確かに疑問である。が、今それを私が考証する余地はないが、神託事件すなわち道鏡事件は非常に興味津々たる事件であるので、これからも注視してみたい。道鏡は庶人として葬られた。栃木県下野市にある龍興寺には、道鏡の墓とされる塚がある。先年私も行ってきたが、一時権勢を欲しいままにした者の墓とは想像もできないほど慎ましい墓であった。龍興寺は大変良く整備された立派な寺で、道鏡の汚名を晴らすべく、今も努めておられる。近くの下野薬師寺跡をはじめ、周囲には律令時代の面影がうっすらと残っている。かつてはこの辺りが東国の中心であった。。当時は奈良の都からすれば、下野は地の果てであった。下野薬師寺は天下の三戒壇とはいえ、少し北へ行けばみちのくである。道鏡はこの地で何を思ったであろう。それにしても茫漠たる坂東平野には枯れ薄がよく似合う。

和気清麻呂は称徳女帝崩御の後、許されて再び平城京へと戻って、廷臣として奉仕した。光仁天皇桓武天皇と仕え、後に平安京造営に尽力し、公卿にまで上り詰めている。和気清麻呂道鏡という野心家から皇統を守った。楠木正成らとともに歴代天皇より格別の忠臣とされ、各地の神社に祀られている。京都御所の近くには清麻呂を祭神とする護王神社があり、東京の皇居の濠端を大手門から竹橋の方へ歩くと、和気清麻呂銅像が建っている。皇居外苑楠公像とともに今でも皇室を守護しているかのようだ。

青丹よし奈良時代は、終幕に入った。道鏡の出現で政治と仏教の癒着は容易には解けぬほど複雑に絡んでしまった。大和朝廷の政治は腐敗し、それに乗っかった南都六宗をはじめとした奈良仏教は堕落していった。そして称徳女帝の後、徳川時代初期の明正天皇まで、八百五十九年もの間女帝は出現しなかった。

青春譜〜青春の時~

夏の甲子園、明日はいよいよ決勝。甲子園では各校の応援合戦も見もののひとつ。大応援団の花はやはりブラスバンドで、最近は特集番組が組まれたりするほど、広く認知され注目されている。習志野愛工大名電龍谷大平安などの実力ある吹奏楽部が質の高い爆音で演奏し始めると、地鳴りのような応援のうねりが甲子園球場全体を支配する。野球部と吹奏楽部の切っても切れない縁は、まさに互いの青春そのもの。そのあたりは昨年も書いた(2018/8/の記事参照)ので詳しくは省くが、ブラバンが球児の熱いプレーを盛り上げて、ドラマチックに感動を与えるBGMを提供するのだ。

今年の甲子園はプロ球団のスカウトには不作だと言われているそうだが、そんなことはない。星稜高校には球速150キロを連発する奥川君がいるし、各校個々に好プレーを魅せる選手はさすがに夏の甲子園である。今年もっとも注目されていたのは、惜しくも出場を果たせなかった岩手大船渡高校の佐々木朗希君。佐々木君は160キロ台の豪速球を出せる逸材。今年のドラフト会議でも間違いなく目玉となるだろう。そういえば、岩手県大会の決勝戦で、彼が登板しなかったことが賛否両論になった。結果、大船渡高校は花巻東高校に敗れて、甲子園へゆくことは叶わなかった。大船渡高校の監督は、佐々木君の将来のために、登板をさせなかったと云う。決勝戦を前に少し調子を崩したのか、或いはどこかに不安があったのか。外野の私たちは要らぬ詮索ばかりしてしまうが、常に選手の近くにあって、彼らのメンタルもフィジカルも備に把握されている監督が下した決断は大いに尊重すべきだと私は思う。佐々木君や大船渡高校の面々の気持ちは忸怩たるものであったことは察せられるが、彼らは監督の決めたことが正しいと信じて野球をやっているわけで、それは高校野球においてはどの学校とて同じことである。それこそ彼らのそんな想いが一番大切なのである。その想いを無碍にして、外野が大人がとやかく言うなど、何をか言わんやである。たしかに佐々木君が登板すれば或いは甲子園に行けたかもしれないが、花巻東高校はメジャーリーガー菊池雄星大谷翔平を擁した甲子園の常連校である。佐々木君が強行しても勝てなかったかもしれない。強行して取り返しのつかぬことがあってはいかにも残念。佐々木君にはこれからがある。そのこれからに野球ファンも乗ってゆきたいではないか。あの時の監督の判断が、正しいかったことが証明されると私は信じている。

先日、吹奏楽部の拘束時間についてもニュースになっていた。吹奏楽の甲子園とも呼ばれる吹奏楽コンクールも夏休みから予選が始まるが、コンクールに向けた練習時間が長すぎると批判されていると云う。職場でさえ過重労働がやかましく問題になっている時代、吹奏楽部は夏休みもほぼ毎日朝から晩まで練習漬けの日々。朝早くから夜遅くまで、時には夜11時くらいまで練習するところもあるらしい。これはさすがに論外であるが、私の経験からも、夏休みには朝9時から夜8時くらいまで練習していた。前に書いた通りコンクールは本選までに何度か予選があって、突破すれば休みなく次の大会へ向けて練習が再開される。すなわち本選に近づくほどに厳しい練習となる。本選が全てなのだから、これは当然だと思う。予選で落選すれば少しは休みがあるが、マーチングコンテストや秋の演奏会、地域の祭やイベントへの参加など忙しいのである。ましてや自校の野球部が甲子園に出場となると、さらにハードとなる。吹奏楽部員が100人以上在籍するような大所帯なら、コンクール組、応援組を選抜し分散することも可能だが、それが可能なのはごく僅かであり、ほとんどの学校がどちらにも全力注入する。ましてや甲子園のこのところの応援合戦の盛り上がりが拍車をかけて、さらに彼らに厳しい状況を与えてしまっているように思う。もちろん左に挙げたような状況になる吹奏楽部は一握りである。大半がコンクールは予選落ちして、甲子園にまで応援に行く学校も各都道府県で一校か二校である。それでもネットで話題となるほどであるから、やはりこの休み無し、練習時間の配分については、これからは真剣に考えてゆかねばならないことであろう。

しかし彼らは直向きである。確かに長時間の練習はキツくて辛い。が、吹奏楽部員のほとんどが楽器を奏でることが大好きなのである。中には毎日一分一秒でも長く吹奏し、合奏していたいと思っている者さえいる。かく言う私がそうだった。高校球児が少しでも長くこのチーム、このメンバーで野球がしたいと云う気持ちと同じである。野球部も吹奏楽部も皆想いはひとつなのであり、これが青春なのである。ゆえに私は、一概に練習時間や拘束時間のことを長くても短くても、大人の考え方を彼らに押し付けるべきではないと思う。大船渡高校の決断にしても、監督と部員たちが良ければそれでよく、吹奏楽部の拘束時間についても、部員に委ねても良い。大人は夢溢れ、希望に満ちた彼らを安全に見守り、密かに縁の下で支えてやる。分かりきった話で、ほとんどの保護者や学校はそうしているに違いないが、吹奏楽部出身者としてあえてかく申し上げた次第である。青春の時は短い。ゆえに大人は彼らを最大限に尊重してやりたい。それは経て来た者ならば誰もがわかるはすだ。続。

祖父の従軍のこと

私の祖父は、父方も母方も対中戦に従軍した。父方の祖父は二十年近く前、母方の祖父は十年ほど前に亡くなったから、今となっては定かでないのだが、私が幼い頃に左様聞いた記憶がある。父や母は祖父の軍歴についてはほとんど知らない。聞いてもよくわからないという。祖父は子供たちには戦争や従軍のことを多くは語っていないようだ。よほどの嫌な思い出であって、悲惨な体験を子供には語りたくなかったのか。はたまた復員してからは復興と家庭を守るために汗水流して働きづめ、やがて高度経済成長の大波に乗っかってゆくうちに、忘れたい記憶をしまい込んでしまったのかも知れない。或いは、敗戦の屈辱を子供たちに伝播すれば、それは末代までの遺恨となる事を、あの頃の日本人は知っていて、愚行を連鎖させないためにも、敢えて何も話さないでいたのかと思ったりする。子供たちつまりは私の父や母は関心がなかったのか、直接聞いていないのもおかしなことだが、真実を知っている親族も少なくなり、いずれは二人の祖父の軍歴証明書を取得しようかと思っている。

中国戦線のどこへ祖父が従軍したのか。私の薄い記憶では満州であったと思うが定かではない。いずれにしても、泥沼化した日中戦争に当時二十歳そこそこで徴兵された。何とか生き延びて、復員したのは大平洋戦争末期であった。母方の祖父からちらと聞いた話では、戦闘や後方支援のみならず、焼き場の見張り番を担当する日は特につらかったと云う。火葬場と違って、野戦場で人間を火葬するのがいかに大変であるか想像に難くはない。ましてや一晩に何十人と火葬する日もある。焼き場では片時も火力の衰えがあってはいけない。その為に膨大な薪が必要で、常に薪をくべ続ける。強烈な臭気にはじめは何度も嘔吐した。いずれ自分もこうなるのかもしれないと云う恐怖もあっただろう。気分は塞ぐばかりであったが、何度か経験するうちに、慣れてゆくらしい。ぬくぬくと平和な時代を生きる我々が、生涯経験することのない凄まじい地獄に、慣れてしまうなど、やはり戦争は人を狂わせてゆく。

私の父母は戦後生まれたので、どちらかの祖父が帰って来なければ、私は生まれていない。その事を思うだけでも、全身が凍りつきにそうなる。二人の祖父が行った日中戦争だけでも手一杯で、あれだけ多くの犠牲を払っていたのに、どうして大平洋戦争へ向かったのか。一概になぜかとか、無謀であるとばかりは言えないと思う。歴史というものは、未来の人々が「なぜ」と疑問を抱き、「もし」と考察することは許されても、常にその場合、時勢と時代背景を見過ごしてはならないのである。どうして大平洋戦争に向かったのか、どうして日中戦争は起こったのか。そこをスルーして、ただ単に無謀であったとは、私には言えない。明治日本は功罪二つの道を敷いた。どちらも同じ比重で、大正、昭和、平成を経て現代日本につながっている。比重は同じでも、罪の部分は明治後半に生まれた人々が、国粋主義軍国主義を掲げる思想家と、それをバックアップしたマスコミに扇動された結果であった。国粋主義が力をつけたのは、共産主義が台頭したことも所以であろう。軍国主義もまた日本が亜細亜の盟主となることを目標としたためのやむを得ない手段であった。そしてマスコミがそこに飛びついたことにも、自らの既得権益のみならず、何らかの理由があったはずである。はじめは誰も、無謀なる戦争をしようとは思ってなどいないと私は信じたい。もちろん疑わしい人物もいないではないが、何も考えずにただ突き進んでいったとは、到底考えられない。以前はよくもまああんな馬鹿な戦争をやったものだと呆然としたのだが、私も昭和の戦争のことや、当時の指導者のことを考え、調べてゆくうちに実はよくわからなくなってきた。

そこでである。そうした想いからも、まずは身内である二人の祖父がどういう戦争に駆り出されたのか、それをもっと知りたいのである。祖父の軍歴を辿ることは、あの時の日本と日本人がどういう状態だったのか、朧げに輪郭が浮かび上がってくるのではないかと思っているからだ。

皇位継承一大仏開眼一

最強の持統女帝時代に盤石となっていた大和朝廷は、女帝亡き後再び混沌とし始めた。後を継いだのは文武天皇。先に述べたとおり、即位当初は持統上皇が実質的に執政したが、文武天皇在位中に大宝律令が完成し、遣唐使も三十三年ぶりに派遣され、薩南諸島を制圧もした。大和朝廷の威光を高めているのは、聡明な文武天皇の実績であろう。しかし虚弱であった文武天皇は二十五歳の若さで崩御。急遽後を託されたのは母の元明天皇である。文武には嫡子首皇子がいたが、この時はまだ幼年で、文武天皇の遺詔により暫定的に元明女帝即位となる。元明女帝は天智天皇の第四皇女で、草壁皇子の妃となり、文武天皇元正天皇を産んだ。元明女帝は古事記を完成させ、風土記の編纂を詔勅し、和銅三年(710)には都を藤原京から平城京へ遷都した。

この頃、藤原不比等が台頭してくる。平城遷都の際に、左大臣石上麻呂は旧都藤原京の管理を任されて、藤原京に残ることになり、右大臣であった藤原不比等平城京においての最高実力者となる。私の推測にすぎないが、これは不比等の謀略に非ずや。不比等は巧みに元明女帝を取り込み、石上氏の排除に動いたと思われる。不比等ほどの人物ならばやるであろう。そもそも不比等首皇子の外祖父なのである。首皇子すなわち後の聖武天皇は、父が文武天皇で、母は不比等の娘の藤原宮子である。首(おびと)と命名されたことからも、いずれ皇位を継承する子として大切に育てられた。これにて天皇家藤原氏は親戚となった。無論のこと不比等は外孫の首皇子へつつがなく皇位継承されることを望んでいた。石上麻呂の排除は、後の世まで続く藤原氏の他氏排斥の原点であった。このあと藤原氏は紆余曲折しながら千年も臣下の最高位にあるわけだが、その礎は藤原不比等によって築かれたのである。不比等の四人の子が興した南家(藤原武智麻呂)、北家(藤原房前)、式家(藤原宇合)、京家(藤原麻呂)を藤原四家或いは藤原氏四家と云う。後々この四家は、互いを牽制し覇権争いを繰り広げることになるのだが、このことはもう少し後に触れたい。 元明女帝にとって右大臣藤原不比等は頼もしい存在であった。何事にもいちいち不比等に相談したに違いない。孫の首皇子立太子し、自らは譲位しようとしたが、十五歳の皇太子よりも、娘の元正天皇への譲位を薦めたのもおそらくは不比等であったと思う。平安期の摂関時代には幼年や若年の天皇は当たり前になるが、この時代は天皇として即位するのは若くても三十歳前後が望ましいという考え方があった。霊亀元年(715)、中継ぎとして即位された元正天皇も、ほとんど完全に不比等に主導された。不比等の最大の目的は自らの血を引く首皇子の即位である。そのためにはいかなることも厭わずに行ったであろう。残念ながら不比等の存命中に首皇子の即位は実現しなかったが、首皇子不比等の四人の息子たちになんとか守られて聖武天皇として即位された。不比等没後の養老三年(719)に長屋王が右大臣に就任し、皇族によって朝廷を固めて、皇親勢力による執政を目指し、藤原氏の排除に動きだした。この時不比等の息子房前も内臣として元正女帝を輔弼するが、未だ若く長屋王へ対抗するのは難しかった。こうして長屋王皇親勢力対藤原氏の対立構図ができてゆく。さらに、元正女帝の時代に三世一身法が制定されて、「土地と人民は王の支配に属する」という律令制の基本理念は早くも崩れ始めるのである。

神亀元年(724)二月、元正女帝は首皇子に譲位され、ここに聖武天皇が即位された。聖武天皇が即位されてからも、左大臣となった長屋王政権の支配は続いていた。長屋王側の皇族たちは、聖武天皇の母宮子が皇族ではないことに多少の不満があった。あまつさえ聖武天皇を蔑ろにして政治を行った。聖武天皇は母藤原宮子に大夫人の尊称を与えたが、長屋王側がこれに異を唱えた。臣下より妃となった宮子を尊称することは不承だったのであろう。ここに両者の亀裂は決定的になった。長屋王側は藤原氏の繁栄を恐れ、藤原氏側は排斥されることを恐れた。そこで不比等の四人の息子は結託して、聖武天皇を全面的に支えるべく、同じく異母妹である光明子(後の光明皇后)の立后に動く。これにより藤原氏の血が天皇家を占めることになる。藤原氏の力の増長は火を見るよりも明らかとなってきた。そうはさせじと、いよいよ長屋王側も藤原氏排斥に動き出す。そもそも歴代の皇后は皇族から選ばれることが慣習であった。これには大きな意味がある。これまでの皇位継承を見ても、天皇崩御し、皇太子や皇子たちが幼い場合は、暫定的に皇后や皇女が女帝として皇位を継いでおり、光明子が皇后となれば、万一の場合の皇位継承が滞る恐れがあるからである。いや藤原氏にとっての万一は、光明子が女帝に即位するようなことがあってはならないという危機感であろうか。長屋王皇親勢力はなんとしてもそれだけは避けたかったのである。そのために光明子の皇后冊立阻止に動くのだが、この長屋王の動きこそが藤原一族の狙いであった。長屋王は国家転覆の謀議を図ったと嫌疑がかかり、自害に追い込まれたのである。これが長屋王の変である。長屋王は藤原一族が仕掛けた権謀術数に嵌り、墓穴を掘らされたのである。続日本紀にも長屋王の変は冤罪であったと記されている。そして長屋王が亡くなると、光明子立后された。藤原氏は臣下ながらも、皇親勢力を抑え込むことに成功し、朝廷権力を掌握したのである。

このようにまことに不穏な空気が充満する朝廷で、幼少期を過ごされた聖武天皇がどんな人物に育ってゆかれたのか。想像に難くはない。また、飛ぶ鳥を落とす勢いで権力闘争に打ち勝ってゆく藤原氏の只中で生まれ育った光明皇后。それぞれが対称的な生い立ちであったことが、後々まで良くも悪くも天平大和朝廷に影響を与えてゆく。聖武天皇はずっと臆病であった。が、理想と意志、そして密やかなる野望は歴代天皇でも五指に入るほど大きく強いものであった。堅実な現実主義者の光明皇后とは、初めは合わなかったであろうが、夫婦になって少しずつ心を通わせるようになる。というよりも、光明皇后はかなり畏まって聖武天皇を支えられたに違いない。本来、心根の優しい聖武天皇もそれをわかっていたであろう。いつしかお二人はまことに仲睦まじい本物の夫婦になってゆかれた。基親王という皇子も授かり、藤原四家の強大なバックアップもあって生後わずか三十二日で皇太子とされたが、祖父や父に似て虚弱であった基親王は一年も経たぬうちに夭逝された。聖武天皇光明皇后の哀しみは深く、天皇親王の菩提を弔うべく平城京の北東に金鐘寺という寺を建立しされた。この寺が東大寺の前身である。

追い討ちをかけるように天変地異が相次ぎ、飢饉で民は疲弊した。これに加えて天然痘が流行して、光明皇后の四人の兄、すなわち藤原四家の当主が皆相次いで亡くなった。これにより藤原氏の政権は瓦解してしまう。藤原四家に守護されていた聖武天皇の動揺は計り知れない。混迷の中、天皇長屋王実弟である鈴鹿王や、橘諸兄吉備真備、帰依していた僧玄昉ら遣唐使として唐の政治、文化を吸収した者たちを急場凌ぎに重用した。これに反発したのが式家の藤原冬嗣で、大宰府にて挙兵した。結果的に冬嗣の乱は鎮圧はされるのだが、聖武天皇は憔悴してしまい、関東行幸(この場合伊勢国や美濃尾張をさす)と称して平城京を出られ、そのまま戻らずに恭仁京へ都を遷されたのである。ここから聖武天皇の流浪が始まる。

聖武天皇はおよそ五年にわたり、平城京恭仁京紫香楽宮難波宮そして再び平城京と、遷都と還都を繰り返された。これには天皇の大いなる内憂外患が表れている。これを支えたのは右大臣橘諸兄であったと云う。諸兄は光明皇后の異父兄であり、藤原氏が一時衰退したこの頃、天皇がもっとも頼りとした側近であった。平城京から恭仁京へ一時避難のように遷都されたのが天平十三年(741)のことで、大極殿恭仁京へと移された。が、わずか二年で今度はさらに奥の紫香楽宮へ移られる。ここは多分に離宮であり、その間にも恭仁京へ戻られたり、難波宮へも行幸されているため、もうどこがどこなのだか、ややこしいこと極まりない。様々な説がある中、私も同感だと思うのは、結局、都はずっと平城京であったということだ。聖武天皇は、自らの手で政を執ることが困難と悟られたのと同時に、暗澹たる情勢の中、いつ何時暗殺される恐れもあり、身の置き所を定めぬほうが賢明であると思われたに違いない。何度も書いたが、この時代、皇位継承は命懸けであった。また、聖武天皇は曽祖父である天武天皇壬申の乱の折に伊勢を遥拝し、伊勢、美濃、尾張の豪族を味方に引き入れたことをよく知っていて、それに肖った可能性も否定できない。それは平城京の旧態依然とした諸勢力から脱却して、皇祖神たる伊勢を崇拝する地方の新勢力を背景とした天皇親政を手繰り寄せたい思いが、より関東に近い紫香楽までやってきた理由かもしれない。

この春、私は近江の金勝寺と狛坂廃寺を訪ねた。その途中、信楽に立ち寄って紫香楽宮跡を見てきた。そこは内裏野というところで、甲賀寺という寺院の跡であると推測されている。ここから少し離れた宮町というところで発掘された遺跡が、天皇の御座所もあった宮跡であると云われている。信楽ではこうした遺跡があちこちで発掘されている。一説では平城京から遷都したわけではなく、恭仁京紫香楽宮離宮であったとも云うが、発掘されている様々な形跡をみても、一時は天皇を中心に多くの人々の営みが紫香楽宮にあったのは間違いないだろう。他にも勅旨、朝宮、牧などの地名が残っているのも、かつてここに朝廷があったことを語っている。おそらくその時の平城京は、巨大な寺のみがまさに伽藍堂と風に吹かれていたのみであったのだろう。甲賀寺跡には遺構の丸い礎石が点々と残っている。中心の金堂があった場所には「紫香楽宮」と称するささやかな社が建てられていた。規模は東大寺に比ぶべくもないが、多くの堂宇が建っていたようで、このような山奥でも往時は壮観であったと思う。そしてこの甲賀寺が天皇の悲願のひとつである総国分寺として造営されたのある。余談であるが、先に述べた金勝寺や狛坂寺は、平城京恭仁京、そして紫香楽宮の鬼門にあたる場所に建っており、これらの寺の在る金勝山は都の鎮護の山であったことがわかる。ちょうど平安京からみた比叡山と同じである。そのような聖地近くに、聖武天皇が安穏の生活を求めれたことは自然なことであったかもしれない。

聖武天皇紫香楽宮にて大仏建立を発願され詔を発せられた。大仏の鋳造もここで始まったのだが、いかんせん山奥過ぎて、人も、材も、財も不足した。平城京から一歩山へ入った恭仁京から、さらに奥へと分け入り、より狭隘で陰湿な場所に都を造営することは物理的にも困難であり、臣下をはじめ、人々の心情的には容易に受け入れらるべき場所ではなかったはずだ。大仏鋳造の詔を発したものの、この場所では遅々として進まない。いつ完成するともわからない。いつしか大仏は夢物語になりつつあった。天皇自身もそれはひしひしと感じて、このまま紫香楽に留まることはできないと思われていたであろう。唯一の慰めは信楽という土地の陶土が示す明るさではなかったか。それを聖武天皇じかに感じられたのかはわからないが、一度、政治、宗教、すべての南都の規制勢力から離れてみて、この先の卜占をしながら、いっとき心身を休め清めたかったに違いない。紫香楽宮跡の遺された礎石を茫然と見つめていると、聖武天皇の忸怩たる想いが澎湃として浮かび上がってくるのであった。

ついに聖武天皇は大仏鋳造を成し遂げるべく、再び平城京へと還られたのである。総国分寺の役割は甲賀寺から東大寺へと引き継がれ、大仏の鋳造も東大寺で行われることになった。平城京に還られてからの聖武天皇東大寺創建に余生を捧げられたといってよい。国家の威信と天皇の権威を示しながらも、寺の造営と大仏鋳造のため、延べ二百六十万人という民の力を結集し、これまでに類のない破格の大寺院を誕生させたのである。当時の日本の総人口は六百万人ほどと云われるから、日本人の三分の一以上が東大寺と大仏建立に関わったことになる。日本一の寺に祀る本尊盧舎那仏はとてつもないものでなくてはならない。聖武天皇の情熱は、妻の光明皇后はもちろん、臣下廷臣、南都仏教界、ひいては民草にもじわりじわりと浸透してゆき、いつしか天平時代を生きた人々の願いとなった。

 聖武天皇は、「篤く三宝を敬え」という聖徳太子の言葉を胸に刻まれていたのではあるまいか。仏教に深く帰依され、鎮護国家のため神道より仏教を重んじられた。仏教を国家的宗教と位置づけ、その宗主となるべく各地に寺を建立し、天皇の威光を高めるために大いに仏教を利用した。歴代天皇の仏教への傾倒は、聖武天皇より始まったと云ってよいだろう。聖武天皇は仏教に縋り、頼った。今、南都六宗といわれる三論宗華厳宗法相宗成実宗倶舎宗律宗は奈良仏教とも言われ、平城京を中心に繁栄した。聖武天皇は唐に倣い、全国に官寺である国分寺国分尼寺を建立された。国分寺のある場所が今の県庁所在地のような所となった。平城京から各地の国分寺へ向けて道が整備され、国分寺統治機構の手段のひとつとしたのである。繰り返し述べるが、平城京の鬼門には鎮護国家の拠点とすべく金鐘寺を金光明寺と改めて総国分寺とされた。これが後に東大寺となるのである。光明皇后天皇に倣われて自らの御座所たる皇后宮を寺に改められ法華寺とされ、総国分尼寺となった。光明皇后は他に悲田院や施薬院を設けて、民や病人の救済に心を砕かれた。自ら病人を世話し、蒸し風呂に入れて介抱されたと云われる。有名な話に、体中膿だらけの病人が風呂にやってきて、光明皇后に体の膿を口で吸い取ってくださいと懇願する。初めはたじろいだ皇后は、これも人助けであり、神仏の思し召しであると信じて、病人の膿を残らず口で吸い取られた。すると病人はたちまち眩い光を放つ阿閦如来に姿を変えて、皇后の徳を湛えたと云う。この話を流布したのは藤原氏なのであろうが、それにしても光明皇后の慈悲深さは本物であったのではないかと私は思っている。

大仏鋳造を統率したのが後に東大寺の初代別当となる良弁僧正である。良弁は相模国の鎌倉で生まれたと云うが、一説では若狭にいた帰化人の末裔とも云われる。乳飲み子の時に鷲に連れ去られて、二月堂の傍らにある杉の木に引っ掛けられているところを、義淵という僧に助けられ、そのまま義淵に師事して僧になったとも云われている。この杉が良弁杉である。良弁は謎に満ちた人物で、もっともらしい伝説が多いが、いずれにしても百済人をはじめとし、大陸の金工や木工の技術者集団を率いたことは間違いないだろう。彼らの拠点は近江であり、金勝山を基点にしてこの大事業を成し遂げたのである。また石山寺縁起には、大仏建立の際、良弁が資材を運ぶため瀬田川の畔に、中継地点を設けた。この場所が後に石山寺となったとされる。良弁は聖武天皇にこの世をあまねく照らし、広大無辺な智恵と慈悲の光明を放つ盧舎那仏の徳をこんこんと説いた。聖武天皇もまた良弁の説く仏教に深く帰依していったのである。

大仏の鋳造には膨大な資材と、高度な技術、多くの労働力が必要である。良弁とともにこれを主導したのが、行基菩薩や、やはり渡来人の子孫である国中公麻呂である。行基南都六宗とは距離をおいて、民のために心から動く僧であった。当時は民に直接布教することは禁じられていたのだが、行基はそれを意に介さずに民衆も豪族も問わずに布教し、困窮者を支援し、土地の開墾、治水や架橋など社会的見地で土木事業まで成した。ずっと後に現れる弘法大師空海行基を尊敬していたに違いない。が、行基空海ほど権威権力に近づいて利用することはなかった。しかし、聖武天皇の大仏建立の詔には大いに賛同したのであろう。でなければ、あれほど熱心に東大寺と大仏建立のために勧進をするはずはない。いずれにしでも、聖武天皇は良弁と行基をうまく使い分けされた。国中公麻呂は資材集めから、大仏建立のための下地造り、整地から大仏殿の建立まで細かく指示をした。そして鋳込みをし、最後は鍍金をして、衆生が見たら目が潰れるといわれるほどに、燦然と眩しい黄金の盧舎那仏を完成させたのである。天平の大仏殿は今ある江戸期再建の大仏殿よりも、横幅がさらに三十メートル以上も大きかった。ここに聖武天皇の治世はまさに仏法により守護されて、ついに絶頂を迎えたのである。あの弱々しかった首皇子は、今やゆるぎない権勢を手にした。これもひとえに仏教のおかげであった。仏教を利用したことで政治的な着地は柔和になり、あからさまにその権力に楯突くものはいなくなった。もはや聖武天皇を脅かす影は鳴りを潜めた。事実、人々もまた安定と平和を切に望んでいたに違いない。

聖武天皇は人々が大仏建立に向いて、人心が安定したのを機に、娘の阿部内親王に譲位された。阿部内親王孝謙天皇として即位されたが、聖武上皇が政治を後見された。この頃になると長年の心労からか、ずいぶんと弱っておられたのも譲位された理由であろう。そして病平癒も願って、東大寺と大仏建立への執心は増したはずである。

東大寺には「四聖御影」という南北朝時代に描かれた人物画がある。そこには東大寺の建立に尽くした願主の聖武天皇大仏開眼導師の菩提僊那勧進聖の行基菩薩、そして開山の良弁僧正の四人が描かれている。天平勝宝四年(752)四月九日、大仏開眼供養は大和朝廷発足以来最大の祝典として、かくも盛大に挙行された。中国からはるばる招かれたインド僧の菩提僊那が開眼導師を務め、正装した文武百官と一万人もの南都の僧侶が居並び、巨大な大仏殿には金色の鴟尾が輝いていた。大仏殿の前にはカラフルな五色幡と宝珠飾られ、大屋根の上からの散華が薫風に乗ってどこまでも高く広く舞い散っていった。続日本紀には「仏法が東に流伝してからこのかた、斎会がこれほど盛んだったことはいまだかつてなかった」とある。想像するだけで、とてつもない。こんなことが天平時代の日本で行われたのである。

 日本仏教が大きく躍進したのは天平時代である。それは間違いなく聖武天皇光明皇后の影響である。南都六宗はさらに興隆し、中国から苦難の末に招聘された鑑真和上は真の仏教の戒律を示した。鑑真和上は、東大寺に築かれた戒壇で、聖武上皇孝謙女帝以下四百人に菩薩戒を授けた。しかし、これが後に仏教僧の増長を招き、政治と仏教の癒着が始まる。この事に鑑真和上は嘆き、真の戒律を伝えるべく唐招提寺を創建した。しかし平和で豊かになればなるほど政治も宗教も腐敗してゆくもの。そしてついに道鏡なる野心家の出現にいたるのである。

青春譜~パーカッションと弦バス~

およそ人間が使う楽器の中で、最古のモノは打楽器に違いない。いわゆる太鼓の類いである。打ち鳴らすと云う言葉からも楽器とはまず打楽器であることがわかる。テクニカルなスキルは後回しにして、音を出す或いは鳴らすと云うことにおいては、これほど容易な楽器はない。私の推測であるが初めは樹木の枝とか獣の骨などを使って、木や石を叩いて音を出したであろう。それから、動物や植物の皮を張ったり、動物の骨を叩いてみることもあったと思う。打楽器は多種多様である。

トランペットが吹奏楽器の花ならば、打楽器の真打ちはスネアドラムであろう。スネアドラムとはすなわち小太鼓である。マーチならばこの楽器は必須で、楽曲全体を誘導するのがスネアドラムである。スネアドラムはかっこいい。しかしそのスキルも必要であり、スネアドラムの如何は楽曲と楽団の出来を左右するといってよいだろう。そしてまたその軽快で華々しい音は聴衆はもちろん打ち鳴らす奏者をも魅了する。パーカッションのメンバーは皆スネアドラムに憧れているし、最上級生になるまでにスネアドラムを担当することを目指す。パーカッションの主役であるからだ。

バスドラムはいわゆる大太鼓である。地味なようだが、バスドラムがないと楽曲に重厚なリズムは生まれない。つまり締まりがなくなるのだ。そしてバスドラムはスネアドラムを下支えする。スネアドラムとバスドラムは対なのである。パレードでの曲間や、マーチングの入退場では管楽器が音を出さずに整然と行進する。この時はスネアドラムとバスドラム(時にシンバルも含む)だけが一定のリズムをとるが、これをドラムマーチという。ドラムマーチは吹奏楽においては、音とリズムの根源といってよく、特にマーチにおいては骨格ということになる。いわばバスドラムは骨盤であり、スネアドラムが背骨だと思う。バスドラムは一見地味ながらなくてはならない、まさに縁の下で支える太鼓なのである。

なんだか打楽器を骨に比喩したくなった。続いてはティンパニティンパニは太鼓に違いないが音色を持っており、チューニングもする。実に不思議な楽器で、見た目からして物凄い存在感。もともとはオスマン帝国などの中世アラブの軍楽隊が、馬の両側につけた太鼓が原型である。今でもトルコの軍楽隊や、イギリス王室の近衛連隊の楽団でも、それに近い太鼓が使用されている。ティンパニは楽曲に華麗かつ力強い荘厳さを与え、その迫力ある音で楽曲を抱合するのだ。ゆえにティンパニは大切な内臓を守る胸骨だろうか。また同時に楽曲の品格を押し上げている。打楽器では珍しくティンパニ協奏曲まである。私はティンパニこそが打楽器の王であると思う。

シンバルは楽曲に句読点を与えてくれる。言うなれば骨と骨を繋ぐ関節の様だ。またドラムセットのハイアットはビートを刻む重要な楽器なのである。両手に持って互いを打ち鳴らすわけだが、接する瞬間に空気が入るとモワッとした音になってしまう。空気を如何に抜いて打ち鳴らすかにかかってくるわけだが、良い音、納得の音を出すにはそれなりの練習をしなければならない。意外と打楽器においてはその奏法がもっとも難しい楽器がシンバルではないかと思う。

他に吹奏楽で使用される主な打楽器としてはトライアングル、タンバリン、カスタネット、マラカス、木琴、鉄琴、ベルや鐘の類などひとつのパートでこれだけ種類が豊富なのもパーカッションだけである。これらが細かい手脚や指の骨となって楽曲を隅々まで支えているのである。パーカッションはまことに独自の存在ある。一部のアンサンブルをのぞいて、管弦楽団でも吹奏楽団でもなくてはならぬし、パレードやマーチングではパーカッションこそ主役と云ってよい活躍をする。ひとつひとつの楽器がこれまた個性豊かであり、あたかも動物園か水族館の様で楽しい。パートのメンバーも他のパートとは一線を画した人々が多く、職人といった感じがする。皆総じて明るい。いかにもパーカッションのメンバーは「おらが村」といった風の雰囲気があるが、かと言って閉鎖的ではなくて、寧ろ開放的。常にリズムをとり、楽曲の進行を導くのはパーカッションであると私は思う。カゲにヒナタに必要とされるパーカッションは楽器の中の楽器と云えよう。

吹奏楽でほぼ唯一レギュラーで使われる弦楽器がコントラバスである。吹奏楽では弦バスと呼ぶことが多い。弦バスがいない楽団も多いが、大所帯の吹奏楽団ではだいたい2〜3人の弦バスがいる。オーケストラでは10人近くもいるが、吹奏楽では脇役中のワキ役。弦楽器があることに編成として違和感すら覚える人までいるかもしれない。弦バスは概ねチューバと同じ低音の旋律を奏でるが、管楽器にはない弦楽器独特のシャープで柔和な音色。またどっしりと落ち着いた響音を持っていて、その音は腹の底から響いてくる。その音は意外にもよく聴こえてくるものだ。正直、弦バスはいてもいなくても問題はないのだが、やはりいた方が、私的には良いと思う。弦バスが入ることにより、楽曲はマイルドになり、同時に苦みと渋みを与えてくれる。人体は腎臓をひとつ摘出したり、万一脾臓や盲腸を摘出しても生きてゆけるらしいが、本来は何らかの役割があるから存在する臓器なわけで、必要ない臓器や骨はひとつとしてないはずである。吹奏楽にとって弦バスは低音の管楽器では出せない澄み切った低音を奏でながら、ステージ右端から楽団全体を俯瞰し見ている。指揮者が監督ならば、演奏中の弦バスが助監督のようなものだと私は思っている。吹奏楽では稀にピアノやハープその他の弦楽器をコラボレートすることもあるが、概ねこのくらいであろう。これにてひとまず吹奏楽部の楽器総覧を終わりたい。続。

ほとけのみち 高田本山

日本仏教の本山を巡礼するこのシリーズは久しぶりである。まあ、私の人生と同じく気の向くままに訪ねている。先日、伊勢神宮参拝して、その夜は津市に泊まり、翌朝、一身田にある専修寺を訪ねた。専修寺浄土真宗高田派の本山で、通称高田本山と呼ばれている。一身田は津から紀勢本線で一駅であるが、私は津駅からバスで一身田に入った。そしてこの町の実にノスタルジックな佇まいに、いっぺんで虜となったのである。一身田は「いっしんでん」とも「いしんでん」とも読む。一身田とは奈良から平安時代にかけて、律令制の土地公有において、政治的に功績ある者一代に限り朝廷から租を免除されて賜った田地のことで、郷土史ではここの一身田は伊勢神宮の荘園で、神宮に米を献上していたことから、おそらくは伊勢の斎王より賜った可能性があるとされる。今は住宅がずいぶん建て込んでいるが、かつては広大な田園地帯であった。この土地の風光はまことに良い。東に伊勢湾、南に伊勢、北から西へかけては長大な鈴鹿山脈が横たわっている。そこに開けた平野は肥沃で、伊勢の神々に捧げる米を造るには風土的にも適した場所であったに違いない。

京都から伊勢への一番の近道は、東海道草津から鈴鹿峠を越えて、関宿追分から伊勢別街道に入って南下し、窪田宿を経て江戸橋から伊勢街道へ至るルートであろう。一身田はその窪田宿にあり、鈴鹿の嶺を越えて旅人がホッと一息つける地でもあった。名古屋から桑名を経て伊勢へ向かう途中も、中間地点にあたるから、窪田宿の賑わいが偲ばれる。今では鉄道や道路が発達し、一身田を素通りして津市内や伊勢へ行ってしまうため、陸の孤島とまでは言わないが、風情ある古い町並が遺された一身田は、まるで真空地帯である。ここに専修寺がある。現在はあまり観光客には知られておらず、静かなのは私には何よりであった。

浄土真宗は大きく十派に分かれる。門徒数では最大が京都の西本願寺本願寺派、次いで東本願寺大谷派で、その次が高田派である。親鸞は師法然とともに念仏に対する弾圧を受け、法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流された。後に許されるのだが、親鸞は京へは戻らずに妻恵信尼や子供達を連れて、坂東に根を下ろすことにした。越後から信濃を経て、上野、下野を通過し常陸国に入り、筑波連山の北側の稲田の地で、予てより親鸞に帰依していた稲田郷の領主稲田頼重を頼って安住する。親鸞は四十二歳から二十年間東国で布教した。今、稲田御坊西念寺が建っているあたりが親鸞が坂東で最初に住み始めた場所である。稲田と云うところは至近に笠間稲荷神社もあって、昔から神仏と筑波加波の山岳信仰を取り入れた霊地である。筑波嶺の秀麗な姿を眺めながら、親鸞は思索に耽り、この地で親鸞の専修念仏の大綱たる教行信証を著した。西念寺のすぐそばにある稲田神社がその場所と云われている。西念寺から車で三、四十分くらいの栃木県真岡市高田の地で親鸞はさらに教義を広めていった。多くの信者や弟子を獲得しはじめた地とされ、そこにも専修寺がある。実はこちらの専修寺高田本山の祖院であり、本寺専修寺と呼ばれている。

 親鸞は四十二歳頃からおよそ二十年、坂東各地を行脚し専修念仏を広め、徐々に浸透していった。真佛や顕知など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立した。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時である。坂東各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそのようにして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽し、東国から東海地方に及んだのである。坂東こそが浄土真宗の始まりの地なのである。親鸞は自ら一派を率いるつもりはなかった。己が仏道たる専修念仏を信じ、そのありがたさを人々に説き、皆が弥陀の本願を享受できるよう、分け隔てなく布教した。それはあくまで師法然から受け継いだと自負する浄土信仰と念仏なのであった。親鸞法然の仏教の伝道者の一人であったが、往生間際まで生と欲を捨てきれずにいた。この極めて人間らしいところが、人々を惹きつける魅力でもあった。また九十歳までいきた親鸞は、法然の他の弟子たちに比べて長命であったことも、ある意味においては専修念仏の礎を仕上げるには充分な時間であった。長命の親鸞に人々は神仏の加護を見たであろうし、ほとけそのモノであると崇め礼拝したのかもしれず、いつしか阿弥陀如来親鸞が信仰の対象として渾然一体となって、選択的一神教的へと変化していったのではないだろうか。浄土真宗親鸞が起こした宗派ではなく、親鸞を敬愛する子孫と弟子たちによって湧き上がってゆき、難しい教義はなく、ただひたすらに念仏のみがまことであることを説き広めた。ゆえに大衆的であり、我が国の歴史が降るほどに庶民の力が増すのであるから、当世、浄土真宗が日本仏教の最大の門徒や檀信徒を抱えているのも、宜なるかなと思う。

親鸞は晩年を生まれ故郷の京都で過ごし亡くなったが、坂東高田の門弟や信者は高田門徒と呼ばれ、いずれ真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除された。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如上人が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。寛正五年(1464)、このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧上人は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院という寺を開いた。この寺が後に高田派本山専修寺となる。坂東高田の本寺専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。高田派は比叡山ともうまく渡り合い、その証として阿弥陀如来像を贈られている。それが、現在如来堂に祀られている本尊で「証拠の如来」と呼ばれている。その後江戸期にようやく本寺も復興された。

先年私は、稲田や高田の親鸞の足跡を歩いてみた。詳しくは前に書いた(2018/3/21の記事参照)ので省くが、稲田の西念寺には未だに親鸞の草庵の趣が見出されたし、真岡の専修寺は高田派の本寺としての風格漂っていた。高田のあたりも一身田ほどの規模ではないが、本寺専修寺を中心とした寺内町の面影がある。周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成をみせていたから、小規模な寺内町はあったと思う。

その寺内町に注目したい。室町以降に高田本山となってから、一身田には寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残している。真宗寺院では、寺と町が共同体となって生活をする自治都市のスタイルが早いうちから確立されていた。このあたりが極めて閉鎖的でもあり、いかなる宗派や為政者とも一線を画し、門徒や壇信徒は寺へ奉仕し、寺を支えながら自給自足で暮らしたのである。寺もまた門徒を守り、仏縁を約束し、死者を弔い、先祖を供養し、人々の幸せを祈念する精神的な支柱となった。寺内町に住む子供達は寺で学び、寺で遊んだ。中世、近畿や北陸の浄土真宗の寺院は、方々に寺内町が形成された。ことに北陸の吉崎、井波、古国府城端畿内では石山や山科などが大規模な寺内町があったところである。為政者や他宗のみならず夜盗や山賊から、自分たちと信仰を守るために周囲を環濠で囲い、自衛したのである。常に寺と壇信徒は密接であって、寺が滅ぶ時は自分たちも滅びるという覚悟で生きていた。この運命共同体の思想が一向宗と呼ばれ、専修念仏や選択的一神教であると云われる由縁である。それは為政者からは危険な思想として嫌われ、織田信長などは徹底的に排除しようとした。それが諸大名にも浸透し、各地にあった寺内町は戦国時代の国盗り合戦を経て、いずれ城下町へと変わっていった。

ここ一身田の寺内町は、往時のままにほとんど完全な姿で町割が遺っている。私が先にノスタルジックな佇まいに魅了されたと言ったのも、新旧混在した建物や町割が、城下町でも門前町でもない寺内町独自のものが多分に遺されているからである。なぜ遺ったのか。それは高田派が一向一揆を起こした旧本願寺派と敵対していたからだと云われる。一身田の寺内町の始まりは、言うまでもなく真慧上人がこの地に無量寿院を建立してからで、それまでは先に書いたとおり広大な田地で、梵天宮と呼ぶ小社がぽつんと在るだけであった。梵天宮は今も町の鎮守として在る一御田神社のことで、ここには田楽で使われる古面や多数の棟札が残っている。一身田が高田派の中心と定まってからは少しずつ寺内町も発展してゆく。が、ここまで大規模になるのは、江戸期にこの地を領した藤堂家の力による。関ヶ原の戦いの武功により藤堂高虎徳川家康から津藩(または安野津藩)二十二万石を与えられた。さらに江戸城の天下普請や大坂の陣での尽力により藤堂家は外様でありながらも最終的には三十二万石にまで大きくなった。高虎亡き後、二代目の藤堂高次の四女いと姫が当時の専修寺門主堯円上人に嫁ぎ、寺の西側の土地が藤堂家より寄進されたことにより広大な境内となった。以来藤堂家の庇護を受けて巨大伽藍を建造されていったのである。環濠も整備され、今の町割の原形ができたのもこの頃であろう。環濠はおよそ五百メートル四方で、南側は毛無川を利用している。入り口は南の伊勢方面に黒門、西の京都方面に桜門、東の江戸方面に赤門の三箇所で、明け六ツに開門し、暮れ六ツに閉門した。かつてはこの風情ある町で時代劇や映画の撮影がよく行われたとか。

 真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も独占させていただく。

私はまず鎮守である一御田神社に参拝し、環濠を廻りながら遠回りをして正面から境内に入った。山門前にはずいぶんと寂びた釘抜き門と云う矢来と石橋があって、山門まで続く石畳が風情を添えている。この釘抜き門と石橋が、寺の境内と人々の暮らす町との境であった。山門を仰ぎ見る。この大きな山門は仰ぎ見なくてはならない。さすがに日本仏教の一翼を担う高田本山らしい堂々たる山門である。山門は宝永元年(1704)の建立で、二階建ての入母屋造、楼上に釈迦三尊を安置する。専修寺には他に如来堂の前に勅使門である唐門と、境内の東に四重の櫓を持つ太鼓門がある。太鼓門には最上部に太鼓が吊られていて、昔はこの太鼓を鳴らして寺内町に時を知らせていたと云う。真宗の寺にはこうした太鼓門とか太鼓楼が設置されているところが多く、常は時を知らせ、一朝事あれば危急を知らせる役目を果たした。まるで城の天守か櫓を思わせる太鼓門はこの境内でもひときわ目を惹いた。

本願寺派大谷派では親鸞を祀るお堂を「御影堂ごえいどう」、阿弥陀如来を祀る本堂を「阿弥陀堂あみだどう」と呼ぶが、高田派では御影堂をみえいどう、阿弥陀堂如来堂(にょらいどう)と呼んでいる。ついでながら真宗では信者を門徒というが、高田派では壇信徒といい、真宗でいう同朋は同行ともいわれる。真宗寺院では本堂である阿弥陀堂如来堂よりも、御影堂の方が大きく造られている。専修寺もそうである。阿弥陀堂如来堂が祈りの場であるのに対し、御影堂は親鸞を慕い、親鸞に会える場、同時にそれは先に述べた門徒や檀信徒の念仏道場であり集会所なのである。一見アンバランスにも見えるのだが、浄土真宗寺院は、本堂である如来堂や阿弥陀堂よりも、親鸞を祀る御影堂のほうが倍以上大きく造られているのも、そうした理由からであろうし、真宗にとって親鸞と云う存在の大きさを堂宇によっても物語っているのかもしれない。本願寺派と高田派は経て来た歴史によって微妙な違いはあるが、宗祖は同じ親鸞であり、教義はほとんど同じである。山門を入ると一目では全体が見えないほど巨大な御影堂が圧倒的な重量感で目の前に迫ってくる。確かに本堂は如来堂であるが、どうしてもこの寺の中心伽藍はこの御影堂なのである。木造建築としては全国で五番目の大きさという御影堂内は、七百八十畳もあり、一度に二千人が参拝できる。内陣は金襴の柱や欄間で彩られており、シックな外観とは正反対の荘厳さに目が眩む。正面には明治天皇より親鸞聖人へ贈られた諡号「見真」の扁額。明治天皇は伊勢へ行かれる道中、専修寺を行在所とされた。内陣中央の宮殿(くうでん)と呼ばれる壇上には親鸞聖人の木像が安置され、その周りに高田派歴代上人の肖像が掛けられている。宮殿には扉が付いており、朝のお勤めの時に開かれる。これは如来堂本尊の証拠の如来を祀る宮殿も同じで、高田派の特徴であると云う。この大広間に参詣人は私一人であったが、寒々しいものは感じず、不思議と気持ちは落ち着いていった。この広さが広大無辺の阿弥陀如来親鸞という日本仏教に大いなる革新をもたらし、底辺まで下りてきた親鸞と云う人物の大きさを示しているような気がした。

専修寺の御影堂と如来堂は数年前に国宝に指定された。建造物としては三重県初だと云う。両御堂はこれも重要文化財の通天橋と呼ばれる美しい橋で結ばれている。如来堂は御影堂の半分弱の大きさであるが、高さは御影堂と合わせてあり二十五メートルもある。軒を組み物で支えた禅宗様式お堂は、一見二階建てに見えるが、屋根に裳階がつけられていて、さほど大きさの違いを感じないような工夫がなされている。屋根にも精緻な鶴の彫刻があって、私個人的には御影堂よりもこの如来堂のほうが仏堂としては美しいと思った。内部も御影堂に劣らぬ壮麗さで、ここでも私は一人で本尊の「証拠の如来」を拝むことができた。

如来堂の奥には親鸞聖人の御廟がある。廟所には親鸞聖人の歯が五本埋められているそうだ。御廟のさらに奥が壇信徒の納骨堂と雲幽園という庭園になっている。池が配されたこの庭には、安楽庵という茶室もあって、実に広々としているが、あまり手を加えず作りすぎていないところが気持ちいい。この庭は昔からあまり変わっていないような気がする。

専修寺には数多の寺宝があるが、中で親鸞真筆の「西方指南書」と「三帖和讃」は国宝で著名である。西方指南書には師法然の言葉、消息、行状が記されている。三帖和讃は七五調のメロディーに浄土や念仏について平易に表現したもので、いずれも親鸞が八十歳を過ぎてから記したものだと云う。親鸞は常に単純で平易、誰にでもわかるように専修念仏、易行念仏の教えを説き続けた。それを自らの生活で体現し、時には身を賭しても己の信ずる仏道を貫かんとした。ゆえに中世の人々を感動させて、長くここまで数珠繋ぎとなって、多くの壇信徒を得てきたのである。繰り返しになるが専修寺の大きな伽藍はそのまま親鸞聖人その人の大きさを感じさせてくれる。

それにしても静かな寺である。場所柄なのか、この日も観光客など一人もおらず、遠くに鈴鹿の青い峰々を眺めながら、興味津々と境内を歩いて廻るのは不躾な私のみであった。こんなに静かな本山も珍しい。境内の一角に高田幼稚園がある。無論、この幼稚園は高田本山の附属幼稚園である。私が行った時はちょうど幼稚園では親子ふれあいデーなるイベントが開かれていた。この古い寺内町の中で、子供たちはののさま(ほとけさまのこと)、親鸞さまに見守られて伸び伸びと育っている。何度も書いてきたことだが、私の生家の菩提寺浄土真宗本願寺派で、私はその寺の付属幼稚園に通った。朝に夕にののさま、親鸞さまに感謝しなさいと教えられ、南無阿弥陀仏と合掌しながら、賛美歌のような歌をみんなで唄うのが日課であった。あの歌は今でも口ずさめるし、死ぬまで忘れないだろう。子供の頃はそんな規律正しい生活を強制する幼稚園に辟易したものだが、大人になってみればあの幼稚園で通ったことはありがたいことであったと思う。私が今、日本仏教に関心があるのも、この幼児体験が多分に影響しているのは間違いない。かといって私は決して浄土真宗の熱心な門徒ではなく、念仏のみに依拠しているわけでもない。私は私の好きな日本の寺巡りを私の視点観点で廻っているにすぎないのである。今のところは他宗や他宗派の寺を巡りながら、日本仏教を多角的に見つめている。いずれ最期は浄土真宗に還ってくるのか来ないのか今の私にはまだ想像できないでいる。

この高田本山専修寺を訪ねて一番印象に残ったのは、寺と人のつながりである。寺内町という特殊な町並から生まれたその絆は、当初はその町内だけのものであったが、長い年月を経て、それは自然に町外へと波及しているように思う。 専修寺では坊さん方、寺で働く人や壇信徒の方々、寺内町に暮らす人たち、大人も子供も皆すれ違い様に気持ちよく挨拶を交わしてくれる。これほどの巨刹にして、高田本山には何とも穏やかな時が流れていた。私は晴々とした気持ちで初夏の専修寺をあとにした。

皇位継承一式年遷宮と女帝一

先月末私は伊勢神宮に参拝した。伊勢には此度の改元を機に参拝しようと思っていた。夜行バスで朝早くに名古屋に着いて、まずは熱田神宮へ参拝する。熱田神宮主祭神熱田大神は、三種の神器のひとつ草薙神剣を霊代とする天照大御神であり、神剣は御神体として奉安されている。創建はあまりに古く諸説あるが、熱田神宮伝では景行天皇の息子日本武尊が草薙神剣を手に東征したが、伊勢国の能褒野にてあえない最期を遂げた。後に熱田の地に草薙神剣を祀ったことが由緒とされ、仲哀天皇により社が創建されたと云う。かつて熱田は伊勢湾に面した岬であったらしいが、干拓されて今や名残すらない。大都会名古屋の喧騒が近いが、広い境内はさすがに清々しく、朝は地元の人が散歩がてらに参拝に訪れるくらいで、観光客などひとりもなかった。伊勢参拝前に気分が引き締まる。昔から熱田神宮伊勢神宮に次ぐ由緒とされ、天皇家は無論のこと、権力者にも庶民にも崇敬されてきた。想像するに、熱田は伊勢の遥拝所ではなかったか。古代から尾張は有力な豪族がいたし、熱田の大宮司はこの地を治めた尾張氏が平安中期まで代々務めている。前回書いたとおり壬申の乱の折、伊勢を遥拝した天武天皇に、伊勢湾沿岸の豪族達が挙って味方したのも、このあたりの人々にとってはいかに伊勢が大切にされたかが知れる。天武天皇はそれをよくわかっていて、言い方は悪いが利用したのだと思う。もちろん天武天皇自身も伊勢への崇敬は非常に厚かった。即位後は伊勢神宮の祭祀を自ら執り行ない、娘の大来皇女を初代斎宮として遣わされた。三種の神器のうち、草薙神剣が天皇の武威を示すのは言うまでもないが、熱田神宮伊勢神宮の守護と遥拝する場として整備したのは、或いは天武天皇であったかもしれない。熱田は源頼朝の生誕地である。平安後期になると、尾張氏は大宮司から権宮司になり、取って代わって藤原南家が大宮司となった。藤原季範の娘由良御前は、御所に上がり、崇徳天皇の同母妹で、後白河天皇の同母姉の上西門院に仕えたと云う説があり、この頃に縁あって源義朝の妻となった。そして頼朝が生まれたのである。源氏は熱田大神を武神として崇敬した。熱田神宮のそばには誓願寺と云う寺があり、頼朝生誕地の碑が建っている。

名古屋からは近鉄線で伊勢へ向かった。東京から伊勢へ行く場合、どうしてもこのルートになってしまうが、伊勢へは本来、大和や京都から入るのが筋であろう。本伊勢街道がその主道になるが、今回はそちらから行く時間がなかった。次は本伊勢街道を辿る旅をしてみたい。余談になるが私の友人は数年前、江戸時代に盛んであった「おかげ参り」の道中を歩いて行った。日本橋から東海道を一路、伊勢内宮を目指して十日以上かけて歩いたのである。ちなみに友人は女性である。強者である。彼女は箱根を越え、駿河遠江をひたすら歩き、結膜炎を起こしながら歩き通した。彼女は浜松から渥美半島へ抜け、伊良湖岬から船で鳥羽へと渡り伊勢へ入った。江戸から行くならばやはりこのルートが人気であり、江戸人たちにとって、尾張、桑名経由よりも、海上経由の方が近道であり、楽であったと思う。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も有らなくに

これは大来皇女の歌である。先に述べたが、大来皇女は初代斎宮を務められ、天武天皇崩御されるとしりぞかれたが、最愛の弟大津皇子を失い、多くの挽歌を遺している。この歌もそのひとつで、伊勢から都へ戻ると、天武天皇大津皇子もおらず、何をしに都へ戻ってきたのか、伊勢に留まっていれば良かったと嘆息されているのである。斎宮は「さいぐう」または、「いつきのみや」と呼ばれ、上古から南北朝時代にかけて天皇に代わって伊勢神宮に奉仕し、祭祀を執り行った。 近鉄線で名古屋から伊勢へ向かう途中、多気明和町のあたりで車窓左手に広大な斎宮跡が見られる。斎宮は伊勢から少し離れたこの地にて潔斎して暮らし、日夜朝暮に伊勢を遥拝した。年に三度神宮へと赴き神事に奉仕されたと云う。斎宮は基本的に未婚の内親王や皇族の女性(女王)が務められた。斎宮には天皇家出先機関として、斎宮寮が置かれ、数百人が仕えていたと云われるから、相当に大規模な役所であった。

午前中に列車は伊勢市駅に到着した。まず外宮へと参る。以前は外宮のあたりは閑散としていたが、今はずいぶんと整備されて、洒落たカフェや土産物屋が点在している。内宮に負けず観光客誘致に余念がない。私個人的にはいつも混雑している内宮のおはらい町よりも、外宮参道の方が広々と静かで良いと思った。私が行った日は令和になってちょうど一ヶ月、改元時の混雑は少し緩和されたようで、外宮は案外と静かに参拝できた。今さらこと新たに伊勢神宮について述べることはない。ただ、外宮に祀られた神が穀物や食を司る豊受大神であることは、内宮と併せて天地神明であることを明確に示しており、上古より人は天と地によって生かされていて、生き存えるにもっとも必要なモノを神として崇め奉ることは至極当然のことであったと思う。

外宮前で私はレンタサイクルを借りた。ここから先は内宮へ参り、二見浦の夫婦岩まで伊勢路をサイクリングである。御木本道路を外宮から内宮まで自転車で三十分弱、曇天模様ではあったが暑くも寒くもなく、気持ちの良い快走であった。途中、猿田彦神社に参り、おはらい町へ入った。いつ来てもおはらい町は活気に満ちている。老若男女が集う様は、原宿の竹下通りと巣鴨の地蔵通りが一緒になったような場所であるが、町並はこちらの方が風情がある。昭和中期に伊勢神宮の参拝客は増えたが、おはらい町の観光客は激減してしまい、伊勢市は再興に尽力した。それは平成となっても続いておかげ横丁ができたり、活況は今がピークとばかりに賑わっている。

私は宇治橋の前に自転車を停めた。暑い雲間からほんの少し陽光が差している。冬至の日、朝日は宇治橋の正面に昇る。冬至を境に昼は日一日長くなってゆく。そこに切なる願いが込められた。昔の人々にとって何よりも恐ろしいのは闇夜であった。闇夜では人の目はほとんど利かない。それはこんなに明るい夜しか知らない現代人の我々には想像もできない恐怖であった。夜になると鬼が現れ、魑魅魍魎が跋扈した。得体の知れぬモノが夜を支配し、人は活動を制限されて、怯えながら眠るしかなかった。だからこそ、朝が来て、日が昇ることを無上の喜びとした。夜を無事に過ごし、また目覚めることに感謝した。こうした想いも、今を生きる我々には絶対にわからない。大自然と共存するというよりも、大自然の中で生かされていること、その力に人が抗することなど不可能であることをよくわかっていた。統治者たる上古の天皇たちはその想いを代表して、自ら太陽を崇敬し、自身の祖先神が天照大御神としたのである。何よりも崇めるべきは太陽であり天であり、次に大自然であり夜であり、その次に海や大地であった。それが私にはアマテラス、ツクヨミスサノオを彷彿とさせる。中で第一はアマテラスであり、その子孫がこの国を治めるのであれば、誰も逆らうことはできなかった。こじ付けでも何でもなく、まったく人間として自然な考え方であったと私は思うのである。これは何も日本に限ったことはではなくて、世界中で太陽を神として崇めていることからも、上古の人々にとっては当たり前の思考であった。

昔の人々は朝起きて目覚めるたびに、一日、一日が生まれ変わりと考えていた。闇夜は黄泉の国を連想させる。ゆえに朝を迎えて、旭日を仰ぐことは黄泉がえりであった。そして日本人は神々もまた生まれ変わるものと信じた。それをもっとも具象化したものが遷宮である。遷宮はいくつかの神社で今も行なわれているが、もっとも有名で大規模なものは伊勢の式年遷宮であろう。伊勢の式年遷宮は千三百年間、室町時代の一時期を除いて二十年ごとに行なわれている。前回は平成二十五年であった。この二十年という周期が神明造の継承、遷宮を取り仕切る人々の叡智、献木の技術、奉納品の伝承にもちょうどよい。二十年前の遷宮を知る人々は、二十年後もだいたいは生きている。二十年後に次世代へと繋ぐには、これほど絶妙の時間はあるまい。よく考えられている。この伊勢の遷宮を始めたのが、何おう持統女帝であった。遷宮の意図は様々に推測され、実際様々な意味があるのだが、代替わりをすることはすなわち皇位継承をも意味し、平安遷都まで歴代天皇が度々遷都を繰り返したのも心機一転の「みあれ」を象徴している。改元にもまた同様の意味が込められていたことは前にも書いた。飛鳥時代から奈良時代にかけて、皇位継承は命懸けであった。しかし天武天皇と云う強い天皇が誕生し、後を引き継いだ持統女帝により盤石なる体制が築かれ、あおによし奈良時代は白鳳からやがてくる天平へと絶頂期を迎えるのである。

持統女帝は、官制の整備、百官の選任、庚寅年藉の作成などを次々に行い律令制を完成させた。持統天皇八年(694)には中国様式に倣い日本で初めて条坊制を敷いた藤原京を造営し遷都した。周囲およそ五キロ四方の藤原京平安京平城京よりも大きな都であった。薬師寺平城京の西ノ京に移転するまでは藤原京にあって、平城京に移転後も本薬師寺として長らくあったが、今は礎石を遺すのみである。藤原京は、北の山科の地に天智天皇陵、南に天武天皇陵、西に二上山、そして東に伊勢がある。これは偶然ではなく藤原京はそれらに守護された場所に意図して造営されたに違いない。この都で大らかで繊細な白鳳文化が生まれた。白鳳文化はいかにも女帝が統治した時代を象徴している。 持統女帝は持統天皇十年(696)に孫の軽皇子に譲位されて太上天皇となられた。軽皇子は十四歳で即位され文武天皇となる。これは史上初の譲位と云われ、持統上皇崩御されるまで若き文武天皇を後見された。二元政治と云うよりも、実質的に権力は上皇にあった。平安後期の院政の原型である。大宝元年(701)大宝律令が成り、それを見届ける様に、翌年、持統上皇崩御された。五十八歳であった。 その後文武天皇は在位十年で崩御され、母である元正天皇、その娘で文武天皇の妹元明天皇と相次いで女帝が即位している。持統女帝にはこれも予測の範囲であったかもしれない。であればこそ皇祖神たる女神アマテラスを歴代天皇の誰よりも崇敬し、アマテラスの力の絶対性と、生命の永遠性を意識的に世に示されたに違いない。式年遷宮には持統女帝の想いが強く込められている。

万葉集には持統女帝の歌がいくつか納められているが、私が好きな歌は、春過ぎて夏きたるらし〜よりも、天武天皇を想われて詠まれたこの挽歌に惹かれる。

北山につらなる雲の青雲の星離りゆき月も離りて

何とも雅びで冷え寂びた調べで、後々の平安王朝を彷彿とさせる歌である。月や星を散りばめて広大無辺の宇宙を連想させるが、その内には天武天皇亡き後の秘めたる恐怖と悲哀が見え隠れし、持統女帝の人間像が見えてくる気がしてならない。 そういえば西行は、晩年の七年ほどを伊勢に過ごした。西行の伊勢への信仰は、神仏混淆の厚きものであった。

   伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける

榊葉に心をかけん木綿しでて思へば神もほとけなりけり

   月よみの宮にて

梢見れば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月読の宮

 何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる

三つ目の歌は有名だが、果たして西行の作は定かでないらしい。が伊勢に参拝して、河鹿の鳴き声を聴きながら五十鈴川で手を洗い清めていると、どうしてもこの歌が私の中をリフレインした。

自転車を駆って内宮近くの月読宮にも参拝した。ここは良い。内宮に比べて参拝に訪れる人も少なく、厳かな静けさである。外宮近くにも月夜見宮があるが、どちらも主祭神は月読尊で、西行はどちらの月読の宮で詠んだのであろうか。月の満ち欠けを教え、暦を司るとされる月読尊は、いかにも秘された神らしく、あまり目立ってないところがまことに好ましい。私個人的には、ツクヨミには大変興味があって、予てよりいろいろと調べたり、各地のツクヨミを祀る社を訪ねているが、調べれば調べるほど謎が多く、迷宮入りしそうである。それはそれでまた面白い。このシリーズの趣旨と離れてしまうので、今はあまり深くは追わないが、いつかツクヨミのことを多角的にアプローチしてみたいと思っている。

私は五十鈴川河口にある汐合大橋を渡って二見浦に向かった。二見浦のあたりも風情ある宿屋や土産物、赤福の店が立ち並んでいるが、あたりは静かな凪の音が聴こえてくるばかりであった。この日は一段と海は穏やかで、夫婦岩も仲良くごきげんに見える。私はしばし茫然と伊勢の海を眺めた。大波小波を受ける夫婦岩。私はそんな夫婦岩の姿に歴代最強の天皇夫妻たる天武天皇と持統女帝を重ねていた。