弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

客あしらい

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団が来日ツアー中である。私は東京公演の希望日のチケットが取れずに今回はあきらめていたが、サントリーホールメンバーズクラブから、公開リハーサルのお誘いがあり、申し込んだら運良く当選した。リハーサルでも何でもウィーンフィルを聴ける。しかも公開リハは無料なのである。ドレスコードもない。私は嬉々として出かけた。

サントリーホールに到着すると、すでに多くの人が並んでいる。ステージでは音出しが始まっていた。リハーサルとはいえ、予定の席は満席のようで、日本人のクラシック好きはいささかも翳りを見せない。果たして、ウィーンフィルの美しい音は、第一音から私を虜にした。いくらリハーサルとはいえど、ウィーンフィルである。今年のツアーの指揮は巨匠クリスティアンティーレマンと、若手の俊英アンドレス・オロスコ=エストラーダティーレマン氏は今年のニューイヤー・コンサートが記憶に新しい。私が観たリハーサルはティーレマン氏の指揮で、今や世界を代表する一人の指揮者を目の前で拝見できることに興奮した。ティーレマン氏はTシャツにジーンズ、楽団員もほとんどが普段着。それこそ私達が普段お目にかかれない非常にリラックスしたウィーンフィルハーモニー管弦楽団が目の前にいる。ティーレマン氏とメンバーの白熱したやり取りを喰い入るように見入った。

ティーレマン氏は時にメンバーを笑わせながらも、程よい緊張の糸は常に張られている。ティーレマン氏は今夜の為の音楽を追求することをやめない。この時点でもさらなるよい音楽をと云う心意気は、メンバーにも我ら聴衆にもビシビシ伝わってきた。リハーサルとはいえウィーンフィル。その音にしばし包まれて、私の心身も浄化される。一時間足らずと云うあっという間であったが、至福の時間であった。しかし、次はやっぱり本番が聴きたい。私はサントリーホールのスタッフにも感心した。スタッフの対応は無料の公開リハーサルでもいつもどおりで、私達をコンサートの観客と同様に丁寧に座席へ誘導してくれる。ある意味ボランティアのようなもので、あれだけの気持ちよい対応のおかげで、ウィーンフィルハーモニーの音楽を堪能する構えが、私達にもできるのだ。さすがに日本のクラシックの殿堂である。本物のサービスとは何たるかを心得ている。

サントリーホールを出て、私はぶらぶら歩いて、赤坂の砂場で蕎麦を食べた。私は江戸の蕎麦屋が好きで気の向くままに入っているが、赤坂の室町砂場はお気に入りで、赤坂に行けば、だいたい立ち寄ってしまう。天もりと天ざるがこちらの名物。温かいつゆに、海老のかき揚げと三つ葉が入っており、これにつけていただく。甘辛くて美味い。砂場の“もり”と”ざる”の違いは、蕎麦の芯だけを挽いた一番粉の更科粉を使用し卵でつないだ白くて薄ら黄色の蕎麦が”ざる”、黒みのある二番粉のそば粉で蕎麦の香りをふんだんに残してあるのが”もり”。後者が私好み。江戸の蕎麦は、藪(江戸起源)、更科(信州起源)、砂場(大坂起源)と三つに大別し、御三家とも呼ばれる。それぞれ蕎麦の色や食感が微妙に違い、つゆも色々。私も方々行くが、こじんまりとした赤坂の砂場は、居心地よろしく、いつ来ても落ち着く。老舗の蕎麦屋は無論蕎麦も美味いのだが、プラスアルファで店員の客あしらいがすばらしい。お客に対して付かず離れず、嫋やかに接してくれる。注文聞きも絶妙のタイミングで、見ていないようで、実は店内の隅々にまで、目が行き届いている。これは他の砂場や、藪や更科、いわゆる江戸蕎麦御三家では、だいたい同じような対応をしてくれるから、もはや伝統なのであろう。

一方、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」など、接客業として当たり前の事すら言えない店もある。こういう輩はアルバイトなのだろう。私の見るところおそらくは日本人なのである。先日も某本屋のレジのアルバイト店員に無礼千万な対応をされた。私がカバーや袋は要らないと伝えると商品をカウンターに放るように置き、釣銭も投げて渡してくる。私が呆然と見ていると、気にもとめぬ様子。マスクをしていたので、顔の表情まではわからないが、実に不愉快であった。もちろんそんな店にはもう二度行かなければ良いのだし、アルバイトの店員に期待しても仕方ないのだが、あまりに酷い対応にさすがに苛々してしまった。近頃はコンビニやスーパーでアルバイトする外国人も多く見かけるが、彼らの方がよほどきちんと挨拶してくれる。

サントリーホールや砂場は何にも特別な対応はしていない。ごく当たり前の対応なのである。それをさり気なくやることほど難しいことはないのだろうが、さり気なく当たり前の対応とは接遇を受けた者の気持ちを和らげ、寛ぎを与えてくれる。さらに心を豊かにして、感受性アップにしてくれる。喩え一期一会であったとしても。ゆえに音楽に感動し、蕎麦も美味いと心から思うわけだ。接客も含めて、人と人との付き合い、交わりもまた秘すれば花だと思う。

皇位継承一大嘗祭一

明治四十二年に制定された「登極令」は、皇位継承儀礼を大きく四つに分けて定めている。践祚の儀即位の礼大嘗祭改元である。皇嗣すなわちヒツギノミコが皇位を継承することを、古い言葉で「天つ日嗣をしろしめす」と云った。天照大御神を皇祖神としてその神聖なる位を受け継ぐと云う意である。これを漢語では践祚または即位と称した。新天皇は即位すると天神地祇を祀り、践祚の日に高御座に昇られる。天つ神の寿詞を中臣氏が奏上し、神璽の鏡と剣を忌部氏が奉った。新天皇は即位を宣明し、群臣の拝賀を受けられる。この形式は八世紀初め、律令制が整う頃には完成していた。

大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」と称されたが、今では音読みで「だいじょうさい」称している。なお新嘗祭は訓読みで「にいなめさい」か「にいにへのまつり」と称され、或いは音読みして「しんじょうさい」だが、現在は「にいなめさい」が一般的だ。新天皇は実りの秋に新穀を神々に供えて、自らもそれを食する。新嘗祭宮中三殿に付属する神嘉殿にて行うが、大嘗祭は特別に祭殿を拵えて大々的に行われる。大嘗祭を行う祭殿を大嘗宮という。大嘗宮は大嘗祭の度毎に造営され、斎行後は破却して奉焼される。大正、昭和の大嘗宮は京都御苑の仙洞御所内に、平成の大嘗宮は江戸城本丸御殿のあった皇居東御苑内に造営された。今回の大嘗宮も東御苑に造営中で、まもなく完成する。古来、大嘗宮の造営場所は大内裏朝堂院の前の龍尾壇の庭であった。平安末期に朝堂院が焼亡すると、安徳天皇大嘗祭は内裏の紫宸殿の前庭を用いた。その後は再び大極殿の旧地の龍尾壇に建てられた。江戸時代の東山天皇の再興時には、大極殿址も不明になり、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、孝明天皇までそれは続いている。大嘗祭のおよそ十日前に材木や茅を朝堂院の前庭に運び、七日前に地鎮祭を行い、そこからおよそ五日間で全ての殿舎を造営、大嘗祭三日前に竣工したと云う。現在、大嘗宮の規模は大正や昭和の時と同規模とされ、平成もそれを踏襲した。しかし時代を経て、建築様式の変化や用材調達、また技術面の衰退と変化で、古来の大嘗宮のように五日間では造営できなくなり、現在は数カ月かけて造営している。規模は今より小さいのだろうが、それでも五日で完成させていた昔の人々の凄さが知れよう。令和の大嘗宮は、悠紀殿や主紀殿などの屋根が茅葺から板葺になり、さらなる簡素化とコストダウンが図られている。昭和や平成同様に大嘗祭が終われば一般公開されると云うから、私もその目で確かめてまた報告しようと思う。

現在の大嘗祭は「期日報告の儀」から始まり、次ぎに「斉田点定の儀」が行われる。斉田とは神に供する稲穀を耕作するための田のことで、大嘗祭はこれを選定するところから始まるのだ。大嘗祭において供される神饌の内、日本人の主食たる稲については特に重要視されている。大嘗祭の祭祀は同じ所作が二度繰り返されることから、斎田も二箇所あり、それぞれ悠紀(ゆき)、主基(すき)と称される。祭祀を行う場所を悠紀殿、主基殿と称す。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。悠紀と主基の国は斎国(いつきのくに)と呼ばれる。悠紀は畿内より東から、主基は西から選ばれるのを原則とした。宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国備中国冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は全国から選出されるようになり、平成では東京を中心に東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟、長野、静岡を含む東側の十八都道県、主基国は西側の二十九府県となった。斉田点定の儀では神殿にて掌典職が拝礼した後に前庭に設営された斎舎にて、国産のアオウミガメの甲羅を古式にのっとって焼き、その亀裂の入り方から卜占する。これにより悠紀、主基二箇所の都道府県が決定する。稲穂が実る秋に「斉田抜穂の儀」が行われ、大嘗祭まで大切に保存される。此度の大嘗祭では悠紀は栃木県、主基は京都府と決まったが、代々この大役を務めることは多大な緊張を伴うであろうし、果たせばこれほど名誉なことはあるまい。斎田の持ち主は大田主と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。それにしても甚大な自然災害がひっきりなしにやってくる現代においては、悠紀、主基の斉田のみならず、稲作や農業全般に関わる方々の労苦に想いを致さなければならない。天皇は我々民に代わって毎年毎年、新嘗祭という形で行って祈りを捧げておられるのである。

天皇は大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧と五穀豊穣を皇祖天照大御神及び天神地祇に感謝し、また祈念する。大嘗祭のはじまりは弥生時代末との説もあり、狩猟から農耕へ転換し、ようやく各地に田畑が広がり始めた時期に重なる。まさしく日本人の祈りの原点を示しているわけで、大嘗祭新嘗祭は日本人が生き存えてきた歴史そのものであると云えよう。さらに伊勢をはじめとした畿内各地では古墳時代にまで遡って、その頃から祭祀が行われてきたらしいから、大嘗祭の本当の起源はさらに古いかもしれない。上古の人々は現代人より遥かに自然への畏怖と感謝が強かったはずであり、それに伴う壮大なアニミズムもごく自然なことであった。

 大嘗祭新嘗祭においての天皇の祭服は純白生織(すずし)の絹地で奉製されており、これは最も清浄な服である。天皇は大嘗宮に入られるとまず悠紀殿の内陣の御座にお座りになる。御座は伊勢神宮の方角に向いている。ここで侍従や女官の介添えのもと米や粟などの五穀、海産物、果物を柏葉に乗せてお供えし、一時間半をかけて奉仕する。大嘗宮には菜種油の灯りのみが灯され、まことに幻想的な雰囲気が漂う。 そして伊勢神宮の方角に拝礼し、お告げ文を奉じる。そのあと天皇は神々と同じものを召し上がる。これを直会(なおらい)と云う。これと同じことを次いで主基殿においても行うのである。大嘗宮の儀はあまりに荘厳かつ壮大なので、私などが述べられるのはこのくらいである。そもそも専門家でもない私が知ったかぶりをしていろいろ述べる必要もない。今ではその内容はいろいろと報じられているし、考証も専門家に任せればよい。

それにしてもまことに神道に基づいた皇室の宗教的行事であり、神秘に満ちたいかにも儀式といった大嘗祭が、連綿と受け継がれていることに私は感動する。おそらくはっきりと大嘗祭が成立したのは天武天皇の頃だろう。この頃に現代まで連なる宮中祭祀が始まっている。元皇学館大学教授の田中卓氏や、元国学院大学教授の上田賢治氏も同様の見解を示されている。大嘗祭は千年以上前から十一月の中の卯の日と決まっていたが、明治以降は十一月の然るべき日となった。 大嘗祭新嘗祭の儀式の形が定まったのは、七世紀の皇極天皇の頃とされるが、この頃はまだ通例の大嘗祭と即位後に新天皇が行う「践祚大嘗祭」の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時だと云う。ただし当時は一世一代のものではなく、在位中に何度か挙行された。 律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と称されるようになり、大祭祀として整っていった。大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には三日間にわたる節会が行われていたことに由来しているとかで、現在も大嘗祭のあとに行われている祝宴「大饗の儀」に伝承されている。 連綿と書いたが、大嘗祭は消滅の危機、というより完全に消滅した時代もあった。室町時代中期に応仁の乱が勃発し、そのあと世は戦国時代に突入する。朝廷も窮乏した。大嘗祭後土御門天皇の即位以降、江戸中期の東山天皇即位による再興まで二百二十一年間も行われなかったのである。東山天皇の父霊元天皇院政を敷いて内裏を支配した。朝廷の失地回復を狙い、大嘗祭を復活させたのである。

去る令和元年十月二十二日、今上陛下の即位礼正殿の儀が滞りなく終わった。夜来から降り頻る雨、午前中に行われた「賢所大前の儀」の時にはさらに風雨が強まり、東京は冷え込んだ。ところが、正殿の儀が始まると宮殿上空には青空が見えつ隠れつし、薄日も挿してきた。天皇陛下は高御座に昇られ、内外に御即位を宣明された。安倍総理大臣が寿詞を述べ、天皇陛下萬歳を三唱。同時に北の丸公園から陸上自衛隊による礼砲が二十一発放たれた。その時、東京上空にはうっすらと虹が架かったのである。なんとも不可思議であったが、ヒツギノミコの成せる業としか言いようがない。台風の影響で祝賀御列の儀は来月十日に延期となったのは当然であるが、ヨーロッパやアジアの王侯貴族、各国の代表が平成を上回る数参列した。平成の即位礼も十一月であった。つぎはいよいよ大嘗祭が行われる。即位礼正殿の儀や饗宴の儀、祝賀御列の儀は天皇の国事行為であり、政府が取り仕切るが、大嘗祭は皇室の祭祀であり、天皇が祭主で、宮内庁が取り仕切り、政府は経済的側面や警備、その他でサポートする。大嘗祭は、新天皇が即位後初めて行う一世一代の盛大なる祭祀である。数ある宮中祭祀で、もっとも重要な儀式と云えるかもしれない。神々に五穀豊穣を祈願し、豊作に感謝の誠を捧げる大嘗祭、そして毎年の新嘗祭天皇の務めと役割をもっとも具現している。象徴天皇としてではなく、世界平和と日本国民の安寧を祈念する祭主としての天皇である。

 

 

青春譜〜キング淀工〜

令和元年の全日本吹奏楽コンクールがやってきた。昨日十月十九日が中学校の部、本日十月二十日が高等学校の部である。名古屋センチュリーホールは今年も緊張の戦場であり、涙と笑顔が溢れる熱き歓喜の場となる。此処が青春真っ盛り、一世一代かも知れない。コンクールについては何度も書いてきたので、ここらでコンクール常連の名門校、特に高校の部について少し触れたい。中学も確かに名門校はあり、大人顔負けの素晴らしい演奏をしてくれるが、高校生になればさらにそのレベルは上がり、プロにも遜色ないほどパーフェクトかつ壮大なる表現力で、聴衆を魅了する楽部がある。吹奏楽の名門校(高校の部)は数多。愛工大名電習志野龍谷大平安大阪桐蔭作新学院東海大菅生常総学院などは甲子園でアルプスから盛り上げ、名物にもなっているため有名にもなった。またマーチングの強豪校では京都橘、精華女子、玉名女子などが挙げられるが、愛工大名電大阪桐蔭の様に、吹奏楽コンクールもマーチングコンテストも全国大会常連の強者も最近は増えてきた。強豪校、特に私立の場合は二百人もの部員数を抱える学校もあって、吹奏楽コンクールとマーチングコンテスト、さらには甲子園などの応援、アンサンブルコンテストと、部隊を分けて編成している学校もあると云う。最近は野球も吹奏楽も私立が強いが、即戦力となり得る小中学からの有望な経験者を集めている。強いのも宜なるかなと思う。 年々レベルは強化されており、各校が他校の動向を気にしながら、切磋琢磨している感が昔からある。

中で私が高校吹奏楽界の王と思っているのが大阪の府立淀川工科高等学校である。かつては淀川工業高等学校であったが、平成十八年(2006)に改称された。吹奏楽界、ファンからは通称淀工と呼ばれている。淀工は全日本吹奏楽コンクールで最多の31回金賞を受賞している。正真正銘の王者である。公立校と云うのが良いし、以外にも部員は高校から吹奏楽を始める子もいるというから驚きだし、何とも希望に満ち満ちているではないか。小中ではパッとしなかった子が、淀工吹奏楽部に入っていつか花を咲かせることもできるのだ。淀工吹奏楽部はメディアにも度々取り上げられてきたし、顧問の丸谷明夫先生は厳しく熱く、そして優しく部員たちを鼓舞し導くスーパーコンダクターである。丸谷先生は平成二十五年(2013)より全日本吹奏楽連盟の理事長になられた。日本の吹奏楽界にとって、大変名誉で画期的なことである。今とこの先の吹奏楽界は丸谷理事長が在ればまだまだ躍進するであろう。しかし丸谷先生も御年74歳なので。吹奏楽連盟も淀工も丸谷先生頼みばかりではいけない。先生を継ぐ者もそろそろ現れてくれなければ困る。

そんな丸谷先生が前回の東京オリンピックの開催された昭和三十九年(1964)から五十年にわたり育ててきたのが淀工吹奏楽部である。淀工は丸谷明夫と云う巨人が創り上げ、今や日本の高校吹奏楽部のパイオニアとなって、牽引し続けているのである。吹奏楽男子は淀工に大変な羨望とリスペクトを抱いている。かくいう私も現役時代ずっとそうであったし、引退してからも淀工の吹奏楽コンクールの成績は気にしているほど、偉大な存在なのである。淀工の最大の魅力は迫力ある大音響である。それでいて壮大な表現力があり、細美なハーモニーも奏でる。非の打ちどころがない完璧なる演奏。それはまさに王者にしか成し得ない至高の境地であり、半ば神懸かり的でさえある。王者の王者による王者のための演奏なのだ。ゆえに淀工の音は自信満々で、そこから様々に色を付け、或いは変え、さらには消して、あたかも音で遊ぶかの如くに無限自在。これは個々の基礎、全体の土台、淀工の型と云うものが、きっちりと出来上がっているからに相違ない。いや、寧ろ本来はこの部分さえしっかりしていれば、あとはどうにでもなれるのだ。いかに淀工が不断の努力をしているのか、それは私が歳を重ねるほどにしみじみと解るようになった。丸谷先生の薫陶の賜物であるが、部員諸君は代々それに何とか食らいつき、答えを出してきた。淀工の音は実に雄々しい。私はしばしば高校吹奏楽ベルリンフィルであると思ってきた。カッチリ、キッチリ、スマートでありながら、荘厳なのである。淀工は今は男女共学となり、女子部員(殆ど男子)もちらほらとみかけるが、私の青春時代は完全男子校であった。そういえばベルリンフィルもかつては楽団員は男性のみであった。しかし、淀工の雄々しい演奏は、ベルリンフィル同様に決して変わってはいない。進化しながらも、淀工らしいビッグサウンドは健在である。アマチュア吹奏楽を聴いたことない方は、まず初めに淀工を聴いていただきたい。きっと誰もが心を揺さぶられるであろう。私はそう信じている。全日本常連の淀工はシード権を持っており、地区大会は免除され、関西大会から出場、今年も難なく突破し、本日、第67回全日本吹奏楽コンクールの舞台に立つ。丸谷明夫先生のタクトで。果たして今年は…。続。

なおすけの古寺巡礼 黒石寺

今夏、平泉を訪ねた折、以前から気になっていた古刹を訪れる機会を得た。奥州市水沢にある黒石寺である。仏国土平泉のあたりには名刹古刹が多いが、中でも群を抜いて古いのが黒石寺で、天平元年(729)行基による開山とか。中尊寺よりも三百年も昔で、みちのくで一番古い寺との説もある。これほど古い寺が、あまり出しゃばらずに、ひっそりと在ることに私は好感と興味があった。平泉から北上川を超えて、車で三十分ほどだ。この日も快晴である。北上川は青くきらきらと輝いて、稲田を潤しながら、大河らしく雄渾に流れてゆく。

黒石寺はひっそりと在ると書いたが、真冬に行われる蘇民祭のおかげで、近頃は有名になった。蘇民祭は東北地方に多いらしい。黒石寺の蘇民祭も千年続く伝統の裸祭りで、蘇民将来信仰に基づいている。主旨は厄災除去、五穀豊穣の祈願である。

北海より南方に旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という二人の兄弟に一夜の宿を求めた。弟はこれを拒み、兄は快く旅人を泊めて貧しいながらもてなした。それから数年後、妻子を得た蘇民将来の所に再び武塔神が現れ、自分の正体がスサノオノミコトであることを明かすと、茅の茎で作った輪を身に付け「我は蘇民将来の子孫である」と唱えれば、子々孫々まで無病息災が約束されるであろうと告げた。この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がったと云われる。京都の祇園祭で授けられる粽にもいくつかの山鉾町には蘇民将来の札が貼られているし、夏越の祓えの茅の輪くぐりでは、「蘇民将来子孫也」と真言する慣しである。武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。

蘇民祭旧正月七日から八日にかけて行われる。寒風吹き荒び、時に雪の舞い散る中、祭に参加する男衆は褌一丁で集まってくる。男衆は一週間前から肉魚や臭いの強い食べ物を避けて、精進潔斎する。午後十時、男衆は寺の前を流れる瑠璃壺川で身を清める。何せ極寒であるから、氷が張っていることもあり、まさに身を切る冷たさだが、男衆は水を頭からかぶって一心不乱に穢れを落とす。瑠璃壺とは薬師瑠璃光如来の薬壺のことだ。清めが済むと男たちは角灯を手に「ジャッソー、ジョイヤサー」と掛け声をあげながら、薬師堂と妙見堂を三度巡拝する。そういえばこの格好の銅像が寺の麓の参道入り口に建っていて、黒石寺への道しるべになっていた。十一時半頃から、護摩行が始まる。今度は火の粉を浴びて身を清め、山内節と云う民謡を皆で唄う。明けて午前二時、住職が蘇民袋を携えて薬師堂に入堂し、護摩を焚く。午前四時から数え年七歳の男児二人が麻衣を纏い、鬼面を逆さに背負って大人に背負われて入堂する。住職は外陣から曼荼羅米を撒き、鬼子は護摩台で燃え盛る松明の周りを三度巡る。ここからが祭のクライマックスで、蘇民袋争奪戦が始まる。蘇民袋には、蘇民将来の護符でヌルデの枝を五角形にした小間木が五升詰められていて、これを若者が奪い合う。小間木には、五角形の面に蘇民、将来、子孫、門戸、也と書かれていて、この小間木を持っていると厄災を免れると云われる。堂内は裸の男衆で溢れ、吐く息は湯気になって立ち昇り、蒸せ返るほどの熱気に包まれる。男たちは揉みくちゃになりがら、やがて堂外へなだれ出て、時にはあられも無い格好となって蘇民袋を奪い合う。最後に蘇民袋の首にいちばん近い部分を持っていた者が取主となり、取主の住まいの方角で、その年は東西どちらの土地が豊作となるかが決まる。この蘇民袋には麻で作られており、袋の綴じ口から太く長い紐が結われている。一説では阿弖流爲の首を模しているとも云われる。そう言われるとそう見えなくもない。彼らが必死で奪おうとしているのは、朝廷に連れ去られ、敢えなく処刑されたみちのくの英雄の首なのであり、その遺恨は千年以上代々伝播されて、この祭の荒々しさに表現されているのかもしれない。岩手では念仏が禁止された時代、隠し念仏と云うことが密かに行われた。蘇民祭も表向きは蘇民将来信仰を謳うが、真の目的は阿弖流爲の首を奪還して供養する慰霊祭であるのかもしれない。いまだ謎の多い祭である。この奇祭のため東京や遠くから参加しに来る人もいるとか。祭りの日は、普段の静けさからは想像もつかないほどの盛り上がりで、黒石寺最大の行事である。

行基が開基かどうか知らないが、黒石寺は初め東光山薬師寺と称していた。延暦年間の蝦夷征伐による兵火で伽藍は焼失。大同二年(807)に蝦夷討伐軍を率いた征夷大将軍坂上田村麻呂が飛騨より工匠を招いて再興し、さらに嘉承二年(849)、例によって慈覚大師円仁が中興したと云う。もとは修験の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺でもあった。往時、四十八もの堂宇を構えていたと云うが、それは些か誇張にしても、一帯には多くの寺跡があり、さすがにみちのく一の古寺らしい大伽藍があったことは確かであろう。田村麻呂の庇護はすなわち朝廷にも庇護されたわけで、寺は朝廷の支配の出先機関ともされた。おそらく黒石寺も一時はそうした役割を担わされていたのだろう。

坂上田村麻呂は豪胆かつ清廉潔白で、思いやりもあると云う武人の鏡で、多くの武勇伝が残っている。司馬遼太郎は、田村麻呂を日本史上最初の名将であると評している。蝦夷の族長阿弖流爲はわすが二千ほどの軍勢で、延べ十万もの朝廷軍と二十年以上も戦った。一向に蝦夷を討伐できない朝廷は、副将であった田村麻呂を将軍に据え期待した。田村麻呂は前線基地を多賀城から、さらに北上したこのあたりに移して、胆沢城と云う要塞を築いた。胆沢城は阿弖流爲らを追い込むに充分な機能を果たし、ついに通算三十八年にも及んだ蝦夷と大和の戦いを平定する。田村麻呂の名声が高まるのも当然であろう。田村麻呂は阿弖流爲とその軍師母礼を捕縛したが、丁重に護送して、桓武帝に助命嘆願を願い出た。それは公卿の猛反対を受けて、帝には聞き入れてはもらえなかったが、田村麻呂の人柄が偲ばれる。みちのくからの長い道中、田村麻呂は阿弖流爲や母礼と大いに語らい、蝦夷の想いや暮らしなど、実状を知ったに違いない。そして彼らを蝦夷と蔑称し、まるで野蛮なケダモノ扱いをして滅さんとする朝廷と、その軍を率いた自らを恥じた。蝦夷は彼の地で静かに暮らしたいだけなのであった。田村麻呂は阿弖流爲らを救えなかった自責の念と、蝦夷討伐で亡くなった多くの人々の冥福を祈り、各地に寺を建立した。激戦地となった胆沢から程近い黒石寺を再興したのも、阿弖流爲らを慰霊する決意であった。

慈覚大師は東北の名だたる寺の開山や中興に関わっており、半ば伝説的な部分も多いのだが、火のないところに煙は立たぬはずで、これだけ多くの足跡が残されているところをみれば、やはり何度もみちのくへやってきたのではないか。私はそう信じてみたい。そもそも円仁のふるさとは、坂東下野であるから、決して不思議なことではないのである。境内の右裏手に聳えるのが大師山で、円仁はこの山で坐禅をし修行したと伝わる。この大師山と山麓の境内は黒々とした蛇紋岩に覆われており、円仁は寺名を黒石寺と改めた。

今も黒石寺の周囲の景観は素晴らしい。大師山や妙見山に抱かれてしっとりと寺は鎮まっている。蝉時雨の空はどこまでも蒼く、木々も緑あざやか。伽藍は本堂、妙見堂、本尊の薬師如来を祀る収蔵庫、他に土塀が瀟酒な鐘楼と庫裏があるだけで、まことに慎ましい。面白いことに本堂の前にスマートな狛犬が鎮座して睥睨しているが、神仏混淆の名残であろう。案内を乞うと、昨年就任されたばかりの若き御住職が本堂と収蔵庫を案内してくださる。はじめに収蔵庫でご本尊にお参りさせていただく。桂の一木造りで、貞観四年(862)の墨書があるそうだ。奈良や京都の仏像に比べて、いかにもみちのくの作らしい雄々しさだが、そのお顔は怒りと哀しみの両方を湛えているように見える。この土地を強制支配した朝廷へ対しての蝦夷の怒りと哀しみを宿し、同時に争う人間すべてに対しての怒りと哀しみである。そんなことを思いながら私は流れる汗も拭わずに、一心に薬師如来と対座した。本堂内の多聞天は田村麻呂が崇拝した毘沙門天で、田村麻呂自身がその化身とも呼ばれた。この多聞天像には田村麻呂の魂が乗り移っているように感じた。薬師如来、日光月光菩薩十二神将、四天王、黒石寺の彫像はすべてが下半身はどっしりなのに、上半身は細身で、顔は現代人好みの小顔である。七頭身から九頭身はありそうだ。狛犬もそうだった。もしかすると蝦夷とはこうした体軀であったのか、だとすれば大和とはまったく別の民族であったのかも知れない。もしくはこうした体軀への憧れがあったのか。そういえば東北の仏像は概ね似た体軀をしているから、北の人々の信仰の対象の姿を今に示しているとも言えよう。それにしても立派な仏像群には感心したが、何よりもこの寺の放つ質朴で清純な色に惹かれてしまった。千数百年も歴史ある寺なのに、厳めしさなど微塵もない。みちのくの寺ならではの優しい仏縁が、黒石寺にはある。

まだ日は高いので、ついでにもう一寺伺うことにした。黒石寺からさらに先へ三キロほど奥へ分け入ると、亭々と聳える杉の大木の向こうに突然、巨大な茅葺の御堂が現れる。ここが奥の正法寺と通称される曹洞禅院である。正法寺南北朝時代の貞和四年(1348)に無底良韶禅師が開創した。これが東北地方初の曹洞宗寺院、正法寺の始まりである。無底禅師は、師である峨山韶碩禅師から、開祖道元禅師が中国から持ち帰ってきた袈裟を授けられた。俄山禅師には多くの弟子がいたが、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承を意味した。正法寺は出羽奥州両国における曹洞禅の拠点として、永平寺總持寺に次ぐ第三の本寺として、住職は崇光天皇から紫衣の着用を許されている。正法寺が建つのはかつては黒石寺の奥之院があった場所とも云われ、古くから聖地であった所に無底禅師は禅の修行道場を建てたのである。

黒石寺の奥之院と呼ばれる場所らしく蛇紋岩の無骨な石段を攀じ登り、惣門を潜ると、真正面にかの大きな法堂。近くで見ればひとしおその大きさに驚嘆する。この法堂は仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建された。入母屋造で、正面幅三十メートル、奥行き二十一メートル、高さ二十六メートルと日本一の茅葺屋根の御堂である。境内には熊野権現が勧請されており、此処にも神仏混淆が生き残っている。みちのくの曹洞宗本山として、往時は多くの末寺を擁した。現在も七十三の末寺があり、修行中の雲水が六人いるが、焼け落ちた仏殿は再建されず、昔の様に活気に満ちているわけではない。さらには数年前、先輩の雲水による後輩の雲水に対する暴力事件がニュースにもなったせいか、この日も訪れる人はまばらで閑散としていた。永平寺總持寺の活気には遠く及ばないが、私にはかえってこの静けさが、北の山奥にいることを実感し、曹洞禅の真髄に触れる思いがした。一番高い場所にある開山堂からは広い境内が一望できる。此処からの眺めは素晴らしい。曹洞禅院らしく質実剛健な堂宇は他も茅葺で、簡素な佇まいだが、昔話に出てくる日本の山寺に来た感じする。境内には深山の気が充満している。応対してくだされた雲水さんは、皆愛想がよく、とても優しかった。

皇位継承一即位礼一

いよいよ来たる令和元年十月二十二日今上陛下の即位礼正殿の儀が行われ、十一月十四日から十五日には大嘗祭が行われる。しばし皇統史から離れて、今月と来月は即位礼と大嘗祭について少しばかり触れたい。

天皇の代があらたまると、御代の始めに「皇位に即く」に伴う種々の儀式が行われる。多くの儀式のうち、現在主だったものが、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀、即位礼正殿の儀、祝賀御列の儀、饗宴の儀、大嘗祭、そして伊勢神宮や歴代天皇陵への親謁の儀である。平成から令和へ代わってから、はじめの二つの儀式は今上陛下の即位後すぐに行われた。詳しくは前にも書いたので省くが、剣璽等承継の儀三種の神器と御璽国璽を継承し、即位後朝見の儀では新天皇として初めて国民に語りかけられた。そしてまもなく行われる即位礼正殿の儀が、即位の大礼の中心儀式で、諸外国の戴冠式即位式に当たる。天皇陛下剣璽を携えて、京都御所の紫宸殿より運ばれた「高御座(たかみくら)」に昇られ、皇后陛下も同じく「御帳台(みちょうだい)」に昇られる。高御座は天皇玉座であり、即位式のみに用いられる。現在の高御座は大正天皇の即位礼のために製作され、大正、昭和、平成の三代の天皇が昇られた。高御座は三層の黒漆継壇の上に、八角形の黒漆屋根を据え、天辺に大鳳凰、八角の角に小鳳凰、さらに鏡や螺鈿、金箔で細工がされている。美の極地とも云えるが、決して装飾過多でないところが、日本の天子の登壇する玉座に相応しい清楚さも湛えている。皇后さまの昇られる御帳台は紫宸殿では高御座の東に置かれており、形は高御座を同じだが、装飾を少し略し大きさも一回り小さい。平成の即位礼は京都御所ではなく、東京の皇居で行われることになり、過激派の攻撃に備えて、陸上自衛隊のヘリで空路を運ばれている。今回は陸路で運ばれて、すでに修復を終え、宮殿松の間で組み立てが始まっている。高御座に昇られた天皇陛下はお言葉を述べらて、新天皇として即位されたことを正式に内外に宣明される。参列者は皇族、三権の長、閣僚、宮内庁幹部、都道府県の代表、諸外国の元首や代表である。陛下よりお言葉を賜り、内閣総理大臣が寿詞を述べて、万歳を三唱する。即位礼正殿の儀は皇室の儀式典礼では最高の格式を有する。祝賀御列の儀は平成より始まり、皇居から赤坂御所までを両陛下はオープンカーでゆっくりとパレードされる。正殿の儀後に親しく国民の前にお出ましになり、祝福を受けられるのである。そのあと数日間、内外の賓客を招き饗宴が続く。大嘗祭は少し日を空けて行われる。令和も概ね平成を踏襲して行われるようだが、予算削減とか時代を考慮してとかで、若干簡素化される部分もあるらしい。これは少し残念なことで、こういう日本独自の伝統ある最高儀礼には、どんなに金を使ってもよいと私個人的には思っている。即位礼を盛大にやらずして、果たして日本の存在価値は保たれるのであろうか。

天皇天皇になるというよりも、天皇の位に即く、さらにくだけて言うと天皇の職を継ぐと言ったほうがよい。これは天孫降臨から初代神武天皇の即位までを正統化する意義もある。皇祖神天照大御神の神勅を携えた瓊瓊杵尊が、高天原から葦原の中つ国に降臨し瑞穂の国として統治することが眼目の一つである。さらには天孫の証であり、皇位を継承する者の証として三種の神器を賜うことで神聖なる権威を周知し主張した。天皇の祭祀では、何よりも五穀豊穣を祈願することを大切とした。ゆえに天皇の存在する根幹の意義である権威と祈りを、代替わりの度に大きく示して、演出する必要があった。神武天皇が橿原で即位されてから、古代の天皇は不明な部分が多いが、推古天皇あたりから天皇像の輪郭がはっきりとしてくる。そして持統天皇になって即位礼の最初の記録が正式に残されている。即位の礼大嘗祭については、その経緯を含めて様々な説がある。一説では大嘗祭を即位礼とする説もあるらしいが、少なくとも奈良時代以降は、皇位継承直後の一連の儀式を践祚の儀式、少し時をおいて、準備万端整ったところで即位礼と大嘗祭を執り行ってきた。ことに明治期に旧皇室典範が定まり、登極令が明治四十二年に制定されると明確なる規定ができた。登極令には践祚の儀即位の礼大嘗祭改元について定められている。特に大正、昭和の即位礼と大嘗祭を合わせて、大礼と云った。即位礼と大嘗祭を一続きに行い、大礼使と云う統括職が置かれた。一般には御大典と呼ばれる。

神武天皇は九州より破竹の勢いで東征してくるが、畿内に入って、熊野にて足止めされる。熊野近郊は、代々土着の神があって、熊野の神を崇拝する豪族たちは結束し、それは手強いものであった。先日私は熊野三山を巡拝したが、神仏混淆が色濃く残り、これまで訪ねたどんな場所よりも強烈なアニミズムを感じた。自然を畏怖し、崇敬する気持ちは、切り立つ山々、累々たる巨岩群、紺碧の空と海、そして那智の滝と深い森、そのすべてを神としたことからも察せられる。生と死や輪廻転生を熊野と云う場所が如実に示してくれている。神武東征以前からそれは大きな力であった。その力を神武天皇から始まる歴代天皇は利用した。逆に言えば、熊野を抑えなければ、統治はできなかったし、熊野もまた後の世を考えて、八咫烏を使いとして、神武軍を葦原の中つ国すなわち大和へと導くのである。以来、皇室と熊野は互いに持ちつ持たれつの関係でい続けた。

飛鳥時代に仏教が伝来し、何事も中国からの文化を尊び真似していた大和朝廷は、皇位継承の儀式も隋風、唐風の形式で行った。大仏開眼供養に見られるような華やかな雰囲気であったことが想像される。平城京大極殿玉座天皇は南面して、居並ぶ皇族、廷臣、神官、僧侶、文官武官を前に何事か述べられたのであろうか。しかし、この頃は皇位継承は命懸けであって、常に血腥い争いがあった時代。大極殿に座していても、決して心穏やかではなかったに違いない。

平安時代には即位礼は大儀、大嘗祭は大祀と呼ばれた。 日本の皇室の古式ゆかしい典礼儀礼は概ね平安時代に起因し育まれて、平安時代に完成したと言って良いだろう。それは唐風を脱却し、国風が萌芽して、育まれていった事と平行している。しかしながら即位礼だけは、何故かずっと唐風で行われ、何と孝明天皇まで代々踏襲されてきた。これは平安京へ遷都された桓武天皇の威光がまことに大いなるものであったことを示している。何処よりも先例を重んじた宮中においてはもっともなことで、即位礼と云う皇室最高の儀式を千年も紡いできたのである。

現代まで継承されている皇室の装束や、臣下の宮中での正装も、大方が平安時代に定まっている。日輪の光を表した天皇のみが着用する黄櫨染御袍や、女性皇族が身に纏う五衣、一般には十二単が代表的である。ちなみに皇太子のみが着用する黄丹袍は、さらに古く奈良時代には定まっていたとか。摂関全盛期になると、天皇は奉られてはいたが、皇位継承を実質的にも、経済的にも取り仕切ったのは藤原摂関家であった。ことに藤原道長と頼道親子が権勢を独占した時代は、即位礼は形ばかりのものであった。なんだか閉鎖的な密室で即位礼が行われたのではないかと想像するが、左にあらず。それこそ密室で行われていた政も儀式も、即位礼の日だけは、普段は雲の上、御簾の向こうの御所が庶民に公開され、ある程度自由に見物できたと云う。当日は相当に混雑し、儀式が中断しかけることもあったが、封建社会はただ民衆を押さえ込んでいただけとは限らないことがよくわかる一例である。ましてや天皇の即位礼のことであるから、驚嘆せざるを得ない。とはいえ道長や公卿らには、皇位継承が滞りなく行われたことを世に知らしめることさえ大々的にできればそれでよくて、即位礼や大嘗祭よりも践祚の儀式を重んじ、さらには誰が天皇となるのかがもっとも大事なことであった。    

平安末になると武家が台頭し、平清盛が実権を握ると、即位礼はさらに形式的になって、後に続く鎌倉幕府室町幕府江戸幕府も殆ど関心はなかった。七百年あまり続く武家政権の間、武家政権天皇に対する態度は変わることはなく、天皇は権威と崇拝のみの対象とされたのである。織田信長などは天皇を超越しようとしたし、秀吉は天皇家や公家に金品を献上しながら押さえつけ、家康は法によって束縛した。長い武家政権の時代、即位礼は行われてはいるが、簡素で慎ましい儀式であった。大嘗祭に至っては応仁の乱で荒廃しきった室町末期から戦国時代にかけては中断し、再興したのは江戸時代に入ってしばらくした貞享四年(1687)東山天皇によってで、御土御門天皇以来二百二十一年ぶりのことであった。

慶応三年(1867)一月九日、明治天皇践祚。即位礼は慶応四年(1867)八月二十七日、大嘗祭は十一月十七日に行われた。即位礼は京都御所で、大嘗祭は三年あまり後に東京の吹上御苑で行われた。即位礼と大嘗祭が別の場所で行われたのは、歴代天皇で唯一であろう。明治天皇が即位されたのは動乱の幕末、これほど日本が大きく変動した時代はなく、明治天皇も京都と東京を頻繁に往来されていて、致し方のないことであった。京都市民は大嘗祭が東京で行われることには危機感を抱き大反対したが、結局は時代の趨勢に逆らえなかった。しかし、この事に最も憂慮されたのが何おう明治天皇御自身で、即位礼と大嘗祭は京都で行うことが望ましいと云うお考えを示されている。これがきっかけとなり、明治二十二年(1889)二月十一日に大日本帝国憲法の発布とともに、旧皇室典範が制定され、その十一条に「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於て之ヲ行フ」と明記された。明治天皇記には、「大礼を重んじ祖宗の遺訓を奉じ、報本の意を明かにしたまふと共に、京都皇居保存の思召に出でたる」と書かれている。そして明治四十二年(1909)二月十一日には、皇室令第一号としして登極令が制定されて、即位礼と大嘗祭を続けて行うと定められた。続けて行えば京都へ二度も行幸せずにすむし、国民への負担も減り、費用も削減できるという理由であった。こうして明治天皇の御在位中に即位に関する制度は整えられていった。

大正天皇昭和天皇の大礼はこの明治の登極令を遵守して執り行われた。今回私もいろいろな資料を当たったが、大正、昭和の御大典は、実に大掛かりなもので、かつ絢爛たる皇室絵巻が展開されていることがよくわかった。おそらくこの二代の天皇の即位礼ほど、歴代天皇の誰よりも厳粛かつ大規模なものはなかったであろう。後にも先にも例のない一大スペクタクルなのである。ことに昭和天皇の大礼は写真や資料が豊富に残っており、その詳細がよくわかる。昭和の大礼は、大正天皇の諒闇(りょうあん/服喪のこと)が明けた昭和三年十一月に一連の儀式が盛大に挙行された。昭和天皇は宮城から東京駅まで馬車に乗られて、東京駅から御召列車で京都へ向われた。途中名古屋城離宮に御一泊し、京都駅から京都御所へと向われた昭和天皇は、近衛兵や陸軍兵に護衛されて、全長六百メートルもの大行列を組んで、それぞれの地を進まれた。この行列のことを鹵簿(ろぼ)云う。鹵簿とは儀仗警衛を備えた天皇皇后の行列のこと。鹵とは大楯のことで、天子の行幸の際、鹵で前進し、列の順序を帳簿に記したことから鹵簿と云われる。昭和天皇は鳳輦を戴いた特別御料儀装馬車侍従長とともに御乗車され、後に香淳皇后が専用の儀装馬車女官長とともに御乗車されて続かれた。鹵簿には伊藤博邦式部長官、一木喜徳郎宮内大臣賢所より移御された神鏡の形代を奉安した賢所御羽車、天皇旗、閑院宮同妃両殿下、秩父宮同妃両殿下、伏見宮同妃両殿下、牧野伸顕内大臣田中義一内閣総理大臣、 倉富勇三郎枢密院議長、近衛文麿大礼使長官らが供奉した。東京でも、名古屋でも、京都でも沿道には群衆が集まり、新天皇即位を寿いだ。鹵簿は東京と京都の往復や、伊勢神宮参拝でも仕立てられたのだが、その場所ごとに多くの馬と騎兵と馬車を用意したとことも凄いことである。いかに当時、即位の大礼が国家の一大事であったかが、その空前絶後の規模からして知れるのである。現上皇御夫妻の御成婚パレードや平成の即位パレード、今上両陛下の御成婚パレードもそれは盛況であったが、この昭和の大礼の時には及ばない。しかし付け加えるとすると、この大礼は天皇の権威を利用して、日露戦争以降の見当外れの富国強兵を突き進む日本が、国体の体裁を内外に誇示するパフォーマンスであったことも忘れてはなるまい。

京都御所に到着された昭和天皇の御心境やいかばかりであったであろう。数日してから、即位礼が挙行された。賢所大前の儀に始まり、中心となる即位礼紫宸殿の儀では、紫宸殿の高御座より昭和天皇勅語を述べられた。紫宸殿の前庭には色鮮やかな萬歳旗を筆頭に、日月旗や天皇を守護する幟旗が燦然と翻る中、太刀や弓楯を持った威儀物棒持者や、太鼓や鉦を奏する楽部が、左近桜と右近橘より両側に整然と居並ぶ。参列者は皇族、閣僚、陸海軍部首脳、大勲位以下の叙勲者、高位の華族、外国の代表や大使で、田中義一総理が寿詞を奏上し、紫宸殿と建礼門前に居並ぶ参列者全員で万歳三唱された。かくも盛大なる即位礼の四日後、京都御苑内に建立された大嘗宮で厳かに大嘗祭を執り行い、続いて大饗の儀、神宮への親謁と、四代前までの天皇陵へ参拝された。この形式は平成の即位礼でも、大嘗祭の期日以外はほぼ踏襲されていて、ことに晴れやかな即位礼正殿の儀の前庭の様子は、昭和天皇の時と同じであったと思う。その荘厳さと華やかさには、まだ中三の少年であった私を強く惹き付けた。

昭和六十四年一月七日。昭和が終わった日、私は中学一年の冬休みであった。あの日の記憶は鮮明に覚えている。何日も前から昭和天皇の御容態が逐一報道され、前夜にはいよいよご危篤である旨伝えられた。そして一月七日午前六時三十三分、昭和天皇崩御された。全メディアは一日中天皇崩御と新天皇践祚の報道ばかりで、皇室に関心を持ち始めていた私は、朝から晩までテレビの前から離れなかった。そして一ヶ月半後の平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬があった。冷たい雨の降りしきるモノクロ写真のような東京の街。弔砲が鳴り響き、「哀しみの極み」と云う葬送曲が吹奏される中、昭和天皇の葬列が皇居から葬場殿のある新宿御苑まで粛々と進む光景は、脳裏に焼き付いて離れない。

一方、平成二年十一月十二日、上皇陛下の即位の大礼は、晩秋の快晴の下で厳かに行われた。上皇さまは日本国憲法を遵守し、象徴天皇としての務めを果たすことを内外に宣明された。晴れやかな祝賀パレードや、連日に渡る饗宴が行われたが、両陛下の御成婚パレードを観たことがない私には、あれほど華やかな祝典を目の当たりにしたのは初めてのことで感動した。その世紀の大礼、令和の御大典がまもなく行われる。再びあの光景を拝見できることはまことに喜ばしい。今年最大最高の慶事を見逃してはならない。

「大礼は京都で」という意見は京都市民のみならず、未だに多くある。私も個人的にはやはり京都で行うべきであると思っている。即位礼は京都御所の紫宸殿で行い、大嘗祭京都御苑で行う。平成の時も意見は割れたらしいが、東京の方が警備もしやすく、外国の賓客を迎賓する施設もあるからとのことであった。しかし時代は流れて、京都にも迎賓館ができたし、警備のスキルも格段に向上した現在、これからの大礼は京都復古を真剣に検討してもよいのではないかと思う。祝賀御列の儀も京都から東京への岐路行えばよい。例えば、京都御所から堺町御門を出て烏丸通かさらに道幅の広い堀川通を京都駅までパレードし、そして東京へ戻られたら、東京駅から行幸通りを経て皇居外苑から内掘通りを周回しながら二重橋までをパレードすれば昭和天皇の御大典に勝るとも劣らぬ盛大さを期待できる。さらには、馬車でパレードすればなおさらよい。平成で馬車をとりやめたのもアスファルトは馬が足を滑らせる可能性があるからとも云われたが、これも現在の技術ではどうにかなるはずで、実際に駐日大使の信任状奉呈式は、東京駅から皇居まで各国大使を乗せた馬車が使われることが多いのである。「大礼は京都で」それは明治天皇の思し召しでもある。

青春譜〜マーチング〜

吹奏楽コンクールは合奏して演奏技術やハーモニーを競うが、マーチングコンテストは演奏しながら動き、隊列を組んでパレードし、ダンスし、演技する。全日本マーチングコンテストは、今年で三十二回目で、吹奏楽コンクールよりはずっと新しい大会だ。全日本吹奏楽連盟の五十周年記念事業として始まり、マーチングフェスティバルと呼ばれていたが、平成十六年度からマーチングコンテストに改称されて、今は毎年十一月に大阪城ホールで開催されている。

マーチングバンドの編成は、ドリルと呼ばれる鼓笛隊のパレードが起源で、時代が降るに連れて志向も華やかなになり、それに比例して実技も向上していった。指導者やコーチ、上級生がコンテを作成し、課題となる既定の動作を楽曲と上手く織り交ぜながら、演技を構成してゆく。私が現役の頃、コンテストでは規定演技と自由演技があった。私の知る限り吹奏楽コンクールとマーチングコンテストで大きく違うのは、課題と自由の比重ではないかと思う。無論、どちらも大切であることは言うまでもないが、吹奏楽コンクールでは課題曲よりも自由曲に力を入れる傾向が強い。一方でマーチングコンテストは、まずは課題演技をミスなく完璧に仕上げて、自由演技は個性豊かに観衆を楽しませ、魅せる、いわばフェスティバル的要素を含んでいる。これを踏まえてなのか、十年ほど前から、マーチングコンテストは規定演技と自由演技を混在して行われるようになっている。演奏時間は6分で、規定課題のパレード行進一周、180度方向転換一回、32歩間のマークタイム(足踏みのこと)演奏を必ず演技する。6分をオーバーすると失格となる。一発勝負となったことで、より技術と表現力が求められる傾向がある。最近ではマーチングの専門家による指導やコーチを依頼しているところもあるらしく、吹奏楽界でもその進化はもっとも高度で華々しい。マーチングがブラスバンドの花形と言っても過言ではあるまい。

マーチングやパレードでは楽団を先導するドラムメジャーがいて、さらには華麗なフラッグを捌きながら、まるでチアリーディングの如く花を添えるカラーガード隊が入る。私の所属した部は吹奏楽コンクールに力を入れていたので、熱心にマーチングをやっているわけではなかったが、地区のフェスティバルやパレードには参加した。私は高三でドラムメジャーを務めた。全員主役になるマーチングのおいて、ドラムメジャーは皆を率いながらも、まことに孤独である。あの緊張感はドラムメジャーを務めた者にしかわかるまい。無論のこと入念に練習をし、規定の動きをしつつ導いてゆくのだが、練習と本番では天と地ほども違うのだ。これはマーチングに限らず、吹奏楽コンクールでもそうだし、他のどんな競技においても同じだろう。が、マーチングのドラムメジャーは、一人と楽団、という稀に見る構図であって、指揮者とも、監督とも、コーチとも違う。言ってみればバンドの大将なのだが、大将とは常に孤独なものである。ドラムメジャーが居なければマーチングバンドやパレードは進行はできないが、居なくても音楽は演奏できる。この事がドラムメジャーを孤高の存在にしている。敢えて孤高であると書いたのは、ドラムメジャーにはそれなりの経験と度量や度胸が求められ、楽器を演奏したり、マーチングを演技するよりも遥かに卓越したスキルを求められるからである。かつてはマーチングのフリースタイルでは、ドラムメジャーはメジャーバトンを巧みに操り、リズミカルにぐるぐると回したり、天高くメジャーバトンを放り投げて掴むという場面がしばしば見られた。それがマーチングのクライマックスを飾る見せ場の一つであり、観衆も固唾を呑んで見守り、成功するとまるで神が降臨した如くに喝采したものだ。しかし、今は危険と見做されて、コンテストではメジャーバトンの放り投げは禁止されている。少々寂しい。ドラムメジャーの最高のパフォーマンスは、演技が終了した瞬間の敬礼であり、あの一瞬は全観衆がドラムメジャーただ一人を見つめているだろう。こうして書いていると、私も高三の夏のあの瞬間を思い出した。今でも始まる前の緊張感と終演直後の達成感ははっきりと覚えている。今年もマーチングの季節がやってくる。続。

なおすけの古寺巡礼 仏国土平泉

「みちのく」と云う響きは、いつの世も旅人達の旅情を誘う。かく言う私もその一人で、みちのくの歴史に興味を抱き、西行芭蕉に憧れて、少しずつ東北を旅している。東北の中心が仙台ならば、みちのくの核心は平泉であると私は思う。地理的に奥州のど真ん中とはいえないが、ほぼ中央といってよく、仙台は秋田や青森からは遠い。坂東から白河の関を越え、陸奥へ入ると確かに風景は変わる。

律令制が整い始めた頃より、奥州は畿内勢力の憧れの地であった。権力者は広大で肥沃な大地を求めて、原住民を蝦夷と蔑称し、極めて強引なる手法で侵略した。しかし蝦夷大和朝廷の想像以上に強く、桓武帝は坂上田村麻呂を派遣して、阿弖流爲率いる蝦夷をようやく平定したが、平定まで二十年もかかっている。阿弖流爲は身柄を拘束されて平安京へ護送され、田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑された。そもそも完全なる武力鎮圧ではなく、和睦であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。蝦夷の強さを思い知った朝廷は、その後は静観していた。が、平安後期になると土着の豪族安倍氏がみちのくの独立を画策し、北上川流域に防御壁や城砦を築いた。安倍氏は朝廷への貢祖をせず、いよいよ事態を看過できなくなった朝廷は、ついに安倍氏討伐のために陸奥藤原登任を大将とし、軍勢を差し向けるが、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒、登任は更迭され、代わって源頼義陸奥守に任じられた。頼義は武勇の誉れ高く、安倍頼時は恭順したが、すぐ様軍門に下るというわけにはいかず、膠着状態が続いた。清衡が生まれた年、頼義が刺客に襲われたが、これが頼時の息子貞任の仕業であると讒言され、頼義は貞任を引渡すよう求めたが、頼時はこれを拒否、ここに再戦が始まり、安倍氏は滅亡した。これが奥州十二年合戦、すなわち前九年の役である。

安倍氏は倒されてしまうが、その後も小競り合いは各地であって、鎮火せぬまま燻り続けた。散々に抵抗された上、朝廷はみちのくを完全に支配下に治めることはできなかった。その様な大乱世に清衡は生まれ、辛い幼少期を過ごしてきた。この頃には清衡の心中に、朝廷に対する遺恨と警戒が、強く植え付けられたであろう。この二度の戦で、台頭してくるのが奥州藤原氏である。初代藤原清衡の父経清は国司として陸奥に下向した。出自は藤原秀郷の傍流の坂東武士であるらしい。経清は安倍氏から妻を娶り、天喜四年(1056)、嫡男清衡が生まれた。父は前九年の役では源氏に反旗を翻したため、処刑されたが、母が源氏に味方をした出羽国清原武貞と再婚したため、七歳の清衡は助命されたのである。安倍氏から奥州の覇者は清原氏に代わった。

しかし、今度は清原一族で骨肉の争いが始まる。後三年の役である。清原武貞には正妻との間に真衡という嫡男がいて、武貞亡き後家督を継いだ。また清衡には異父兄弟の家衡もいた。この頃、源義家陸奥守になった。真衡はかねてより不仲であった叔父の吉彦秀武を討つべく義家に願い出た。許しを得ると出羽へと出陣した矢先、吉彦と気脈を通じていた清衡と家衡兄弟は、真衡の拠点を襲撃した。しかし、用心深い真衡は事前に察知し、守りを強化、義家の援軍もあって、クーデターは失敗した。清衡はこれまでかと思ったが、なんと真衡が急死してしまう。私の推測に過ぎないが、ここまで話が出来すぎているのも、或いは清衡と義家は結託して、真衡を暗殺したのではあるまいか。いずれにしろ義家はこれ以上の争いを避けるべく裁定し、清衡と家衡に陸奥の六郡を与えたが、今度は家衡がこの裁定を不服とし、清衡を憎むようになる。ついに清衡の館を襲い妻子を惨殺したが、清衡は危機一髪で逃げ延びて、義家に助けを求めた。こうして清衡と家衡の兄弟で戦い、最終的には兵糧攻めに成功した清衡と義家に軍配が上がるのである。後三年の役終結後、清衡は清原の名を棄て、父経清の姓である藤原に帰することにした。ここに奥州藤原氏が始まるのである。

私がみちのく、奥州を思うとき、やはりどうしても胸に去来するのは、仏国土平泉のことであった。平泉にはずっと行ってみたかった。ようやく願いが叶ったのは先月のことである。平泉には平安後期に、京の都に次ぐ大都市が存在した。しかし今や、それが虚構であったかのように夢の跡が点々と残っている。それが平泉の一番の魅力ではないかと思う。

それにしても岩手県はその名にそぐわぬ巨巌巨石に溢れている。渓谷も多い。岩や石に興味のある私は、寺廻りをする前に、宿をとった一関にある二つの渓谷へ行った。猊鼻渓北上川の支流の一つ砂鉄川が成した二キロ余りの渓谷で、高さ百メートル近くもある断崖が両岸に迫る。この日本離れした大渓谷を、砂鉄川は驚くほど静かに流れている。川底からは砂金や雲母が採れるそうで、中尊寺金色堂にも使用されているとか。砂鉄川では舟下りができる。清流には手で掴めるような水面すれすれを魚たちが泳いでいて、船頭の唄う「げいび追分」に合いの手を入れるように、時々飛び跳ねて魅せる。船頭は竿一本で巧みに操船するが、砂鉄川がゆるりと流れているから出来る技であると聞いた。渓谷のずっと奥に猊鼻の名の由来となった、獅子の鼻の形をした巨大な鍾乳石があった。ここまで来るとまったく俗界と隔絶しており、巌窟に仙人が描かれている南画を彷彿とさせる風景である。次の日の朝、厳美渓にも行ってみた。厳美渓は太古栗駒山の噴火によって堆積した凝灰岩を、磐井川が侵食してできた。かつてこの辺りまで領した伊達政宗は、松島と厳美渓仙台藩の二大景勝地として自慢している。暑中のこととて、磐井川の水量は乏しかったが、ひとたび大雨が降れば、水は滝のように下ってゆくのであろう。奇岩が屹立する様には圧倒される。「空飛ぶだんご」として有名な名物郭公だんごを頬張って、平泉の寺々へと向かった。

厳美渓から達谷窟へは車で十分とかからない。稲田の奥に突如断崖絶壁がそそり立ち、端のほうには巨大な磨崖仏が見下ろしている。坂上田村麻呂は、蝦夷討伐を崇拝する毘沙門天に祈願した。平定の御礼として、京都の清水寺を模して毘沙門天を祀る堂宇をこの地に建立したと伝わる。毘沙門天の化現とも云われた田村麻呂は、清水寺の縁起にも関わりがあるから、この毘沙門堂も懸け造になっているのだろうか。何度も火災に遭って、今のお堂は昭和の再建だが、巌窟に捩じ込むように造られた姿は、少し窮屈な印象を与えるが、それ以上に荒々しい逞しさを感じる。堂内の内陣には所狭しと毘沙門天が並んでいた。これほどの数の毘沙門天が、一同に奉安されているところも珍しい。ここは神社とも寺ともつかない。参道には三つの鳥居があり、天台宗の西光寺という寺が別当だが、今以て神仏混淆が色濃い社寺である。

奥州藤原三代は、仏教によって世の平安を願い、仏法僧を庇護し、主従と民草の皆が信心し、功徳を積めば、自ずと平和で安定した世が続くとした。これが初代清衡の定めた家訓であり、二代基衡、三代秀衡は忠実に家訓を守り、仏国土の建造に余念がなかった。三代までの百年で、こと清き仏国土と云う点においては、平安京を遥かに凌いでいた。

私は毛越寺までやってきた。広々とした大泉が池の水面には、抜けるような碧天が映え、時より涼やかな風も吹き渡ってくる。かつて毛越寺は、嘉祥寺や円隆寺といった複数の寺の総称であった。このうち金堂にあたるのが円隆寺で、吾妻鏡には金銀を鏤めた絢爛たる伽藍であると書かれている。吾妻鏡はさらに、毛越寺は「吾が朝無双の荘厳さ」であると讃えている。毛越寺は、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開山と伝わるが、寺伝によれば、円仁がこの近くの山中へ来た時、濃霧に包まれ歩けなくなった、そこへ一頭の白鹿が現れて、白い毛を地に敷いた、それが一筋の道に見えて、円仁が進んでゆくと、白鹿は消えて、今度は一人の老人が現れた。老人は円仁に吉瑞を告げて飛び去ったと云う。これは吉兆に違いないと思った円仁はここへ堂宇を建立した。円仁が白鹿の毛を頼って難を逃れ、山を越せたことから、毛越寺=けごしでら、或いは、モウオツジと呼ばれ、それがモウツウジになったと云う。しかし、数多の戦乱で毛越寺も衰退してしまった。それを再興したのが、奥州藤原氏である。毛越寺は奥州藤原三代によって百年をかけて隆盛してゆく。二代基衡は父清衡の背中を見て育った。不戦の誓いと仏国土造営は、基衡にもしっかりと継承され、朝廷とも良好な関係を結び、平泉は飛躍していった。基衡は少し前に京都で流行していた浄土思想に強く惹かれて、平泉を此の世の浄土とすることにした。その集大成が毛越寺なのである。大泉が池のほとりでは平安貴族さながらに曲水の宴が催され、池には龍頭の小船が浮かべられて、観月の舟遊びも行われた。池には時折さざなみがたって、あたかも海を思わせる。平泉には毛越寺の他にも、観自在王院や無量光院など、宇治の平等院を凌ぐ大規模な浄土庭園を持つ寺があって、それらのすべて完成した三代秀衡の頃の壮観はさぞかしと偲ばれる。毛越寺だけでも堂塔四十余り、禅房五百を超えたというから想像するだけでも驚嘆である。池畔では盛りを過ぎつつある蓮にも出会った。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、御釈迦様が極楽の蓮池の畔を散歩している様子が描かれている。御釈迦様は朝の散歩中、蓮池から遥か奈落の地獄の様子を見ているのだが、私は蓮池を見るといつもそのシーンがよぎる。毛越寺の浄土庭園はまさしく極楽浄土。 とすれば蓮池は極楽の池。もしやと思い、蓮池の底を覗いてみたが…。そうこうしているうちに、ちょうど午近くになっていた。

私はいよいよ平泉の核心中尊寺の月見坂を登る。天台宗東北大本山中尊寺は、その歴史、格式、知名度からして、今やみちのくの寺の総代とも云える。ここも開山は慈覚大師円仁で、嘉祥三年(850)創建とされる。初めは弘大寿院と称したが、清和天皇より中尊寺の寺号を賜り、長治二年(1105)より大伽藍を造営したのは秀衡である。往時は四十以上の堂塔があり、伽藍の規模も大きなものであった。幼少より血で血を洗う世を見続け、兄弟を攻め滅ぼしたことは、清衡の心を剔り、彼が誰より泰平の世を望んだか、察するに余りある。ここから清衡は争いのない世を理想とし、具現化するべく深く仏教に帰依した。東を北上川、北を衣川、南に太田川という三方を川に囲まれ、西に小高い丘と、三つの川の流域に肥沃な土地が広がる平泉に目をつけた清衡は、ここに仏国土を創造することを、生涯の仕事と定め、邁進するのである。西の小高い丘が、中尊寺の建っている関山(かんざん)のことであろう。月見坂を登ってゆくと、中尊寺境内にはいくつのか物見台があるが、ここから周囲を眺めると、まさに天然の要害であることを実感する。ここに伽藍を造営したのは、無論のこと、いざという時の砦にするためでもあったに違いない。さらに秀衡は、白河関から津軽半島の外ヶ浜まで、一町(109.09m)ごとに傘卒塔婆を立て、そのちょうど中間にあたる場所に中尊寺があるのである。驚くべきスケールの大きさである。清衡が中尊寺落慶の際に記した「中尊寺建立供養願文」には、

官軍夷慮の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過現無量なり、、、、、鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん

攻めてきた官軍も、守った賊軍も、古来より幾多の戦乱で亡くなった。鳥獣魚貝にいったてはこれまで限りはない。鐘の音が地を動かすごとに、故なくして命運尽きたすべての魂を、安らぎの浄土へと導きたい。およそこうした意味のこの願文を奉じたのも、自らの来し方行く末を思うとき、清衡の心には常に草木国土悉皆成仏という想いが去来したからに違いない。

数多ある中尊寺の寺宝で、私がもっとも心惹かれるのが、国宝の「紺紙金銀字交書一切経」である。この装飾経は、藍染の料紙に、一行ごとに金泥の字と銀泥の字で交互に一切経が書かれており、大変な手間がかかっている。はじめに黄土で下書きし、まず銀字、次いで金字で書かれたそうだ。見返しにはあらゆる浄土が描かれている。以前私はこの一切経を東京の美術館で間近で拝見したが、壮麗かつ力強い筆致に圧倒されて、奥州藤原氏の凄さに想いを馳せた。この一切経を見て以来、私の平泉に対する憧憬はより強くなった。中尊寺には世界中から参詣客が訪れる。皆が目指すは金色堂。たしかに金色堂は、凝視すると目が潰れそうなほど美しい。しかし、この奥深い寺には多くの堂宇が点在しており、その一つひとつを巡るのも良いだろう。 金色堂以外は空いている。私がことに気になったのが旧覆堂である。旧覆堂は室町時代の建立で、今の覆堂が昭和に完成するまで、五百年近く金色堂を風雨から保護してきた。金色堂は天治元年(1124)に完成してから、なんと五十年もの間、雨露に曝されて建っていたそうだ。それも驚くべきことで、名だたる大伽藍が悉く灰燼に帰する中、金色堂だけは九百年余りずっと、あの場所に在る。平泉を焼いた頼朝も、金色堂だけはその荘厳さに平伏したのかもしれないし、兵士たちも賢明に火の粉を振り払ったのではなかろうか。その証拠に鎌倉時代には金色堂を護るため、覆堂の原形のような屋根が組まれたそうだ。それほど金色堂は人々の至宝であり、希望であり、燦然と輝く威光を畏怖したのだろう。奥州藤原氏の栄華はここに始まった。金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡、そして泰衡が眠る。つまりは奥州藤原氏はここに終わったとも云える。かつては奥州藤原氏のルーツはアイヌではないかと云うは説もあったが、戦後、金色堂の墓を発掘し遺体を学術調査したところ、アイヌ民族の特徴は見られなかったと云う。しかし、奥州藤原氏、ことに初代清衡には、阿弖流爲ら蝦夷の魂は間違いなく受け継がれていた。その魂こそが、百年に渡る藤原氏の栄華をもたらしたのである。 芭蕉は一句でその標とした。

五月雨の降り残してや光堂

夏の長い太陽がそろそろ傾く頃、最後に私は高館の丘へ登ってみた。ここには源義経を祀るささやかな御堂が北上川を見下ろすように建っている。義経元服してすぐに平泉にやってきた。秀衡に気に入られて、この地で生きる決心をするが、時勢を見過ごせず、兄頼朝の元へ馳せ参じる。 壇ノ浦の船戦に勝利し、源氏の御曹司として無二の活躍をみせるが、それからは頼朝に疎んじられ、再び秀衡を頼って平泉へとやってくる。流浪の旅もここで終わりと思い定めたが、頼朝の追及は秀衡亡き後の泰衡には抗せず、ついには義経主従を攻め落とす。義経が追い込まれて、自刃した場所が高館とされる。義経柳之御所や伽羅御所にも近いこのあたりに屋敷を構えていた。義経堂は天和三年(1683)に仙台藩伊達綱村義経の遺徳を偲んで建立したと云う。この場所からの眺望はすばらしい。眼下には清冽雄渾な北上川、その向こう稲田の奥には、西行が吉野に匹敵すると評した桜の名所束稲山が横たわる。

ききもせずたばしね山のさくら花 よしののほかにかかるべしとは

芭蕉はここで義経に手を合わせ、奥州藤原氏の栄華に一句手向けた。

夏草や兵どもが夢の跡

これぞ平泉という眺めである。

平泉に伝承されている延年の舞には、五穀豊穣と平和への願いが込められている。奥州藤原氏の培った平和を望むDNAは、強く、太く、逞しくなって、今も彼の地に生きる人々の中に流れ、育まれ続けていると私はかねがね思っていたが、平泉を訪ねてみて、それは確信となった。