弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一平安遷都一

平安時代は途方もなく長い。厳密にいえば、桓武帝が長岡京から平安京へと遷都したのが延暦十三年(794)のことで、平家が滅亡した元暦二年(1185)までの三百九十一年間が平安時代である。人類誕生から旧石器、新石器、縄文、弥生時代を除けば、神代から日本の有史以来もっとも長い時代である。或いは古墳時代飛鳥時代をひとつの時代とした場合に匹敵する。四百年も続いた平安時代は、雅であるが退屈であると云うイメージが強いせいか、歴史好きにも源氏物語の愛読者以外にはあまり人気がない。長過ぎるゆえに弛緩しているとか、戦国や幕末のように目紛しいドラマチックな展開がないと思われているようだが、全く違うと思う。確かに藤原道長が栄華を誇った頃は泰平であったが、それより他は平安初期も、中期も、末期も諸国で内乱が勃発しており実に激動である。そしてまた平安時代に今の世に連なる日本人が育まれて、気質、文化、言葉、文字が形成され、ほぼ完成したと言ってよいだろう。平安時代を雅で退屈な王朝国家の時代と考えるのは短略である。平安時代を多角的に見てこそ、日本と日本人が朧げに輪郭を現すのではないかと思う。

桓武帝は長岡京を捨て、平城京にも還都せずに、二つの大きな川に挟まれた、山城国葛野郡愛宕郡にまたがる広大なる盆地へ改めて遷都した。その準備は二年ほど前から始まり、延暦十二年(793)三月一日には桓武帝は新京の地へ巡幸されて、位置を定められた。そしてわずか一年の間に平安宮の中心部は完成したと云う。こうしたことはスピード感をもってせねば成せぬことであることを物語っている。もたもたしていたのでは首都移転などできないのは、現代をみれば明らかである。こういうところは専制君主たる桓武帝の面目躍如。天下泰平の礎石を置く者には、何よりも決断力と実行力とスピード感が不可欠なのは、歴史が示している。

この新しい都は平安京と呼称される。これまでの都は、主に地名から〇〇京とか〇〇宮と名付けられたが、平安京と名付けられたのは、唐の都長安にあやかったのは明らかで、唐かぶれした帝王らしい命名である。同時に平安京には永遠の平和を願う都であるという、桓武帝の切なる願いが込められていたとも云われる。桓武帝の成した二大事業は平安京への遷都と蝦夷討伐である。思えば桓武帝は専制君主でありながら、ブレーンにも恵まれていた。平安京造営には和気清麻呂が、蝦夷討伐には坂上田村麻呂がいた。この文武二大巨頭を巧みに使いこなしたのが桓武帝である。蝦夷討伐は、実は引き分けであったが、形ばかりは朝廷の面目と体裁を保つことに成功し、アテルイという蝦夷の族長の首をあげたことで、桓武帝の威信をとどろかすことができた。ひとえに田村麻呂の活躍に他ならず、勇猛かつ精錬な田村麻呂という人物があったからこそ、ひとまずこの時は戦後処理までうまく運んだのであった。

和気清麻呂宇佐八幡宮神託事件で歴史の表舞台に現れて、事件が原因で大隅国へ流されていたが、称徳女帝が崩御され、道鏡が失脚すると、都へと呼び戻された。豊前守に任ぜられ、その後、美作と故郷備前の国造に任命され、災害のたびに放置され続けた両国の疲弊を見て、ただちに治水事業を推進し、必要な土木工事や植林をてきぱきと行った。この功績が認めらて、桓武帝に招聘され、清麻呂は実務官僚としてのみならず、長岡京の造営の一翼を担っている。しかし前回書いたように長岡京に都としての不備が露呈しはじめると、清麻呂はすぐさま桓武帝に遷都を進言している。そして平安京造営が定まると、造営大夫に任ぜられ尽力した。和気清麻呂平安京造営の現場総監督となったのである。桓武帝と清麻呂は手を携えて夢の新京建設に邁進した。平安京の町割りがほぼ完成した延暦十五年(796)に従三位に叙せられ、ついには公卿に昇った。清麻呂延暦十八年(799)六十八歳で亡くなったが、藤原氏のように権力に執着したり、自らの栄華を誇ることも、他氏を排斥することもなかった。清廉潔白な政治家であり、それが称徳女帝や道鏡には疎まれ、新しい世を生みたい桓武帝には受け入れられたのである。皇統の断絶を救った清麻呂は各地に祀られている。京都御所の西にある護王神社和気清麻呂が祭神で、御所を西方からお護りしている。 元は清麻呂が開基の神護寺に祀られていたが、明治天皇の勅命により現在地へ遷宮された。 神託事件で称徳女帝の怒りをかった清麻呂が、南九州へ配流される際に、道鏡が放った刺客に襲われたが、突如三百頭の猪が現れて急場を救われたとの伝説から、狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。清麻呂は襲われた際に足を負傷したが、猪が去った後、足の傷も癒えたことと、猪突猛進に由来し、足腰に御利益があるとされ、境内は猪だらけである。 そういえば、東京の皇居平川門近くの御濠端にも和気清麻呂像が立っており、今でも皇居を守護している。

 平安京は当初、左京が洛陽城、右京が長安城と名付けられた。しかし右京の衰退と左京の発展に伴って洛陽が京都全体を指すようになる。内裏から南面して左、北面して右が今の京都の中心部である。時代がずっと降り、豊臣秀吉が当時の京都を取り囲む御土居を築いてからは、その内を「洛中」、外を「洛外」と呼ぶようになり、京へ入ることを上洛とか入洛と言うようになった。平安京の正面には羅城門が築かれ、王城の正門とされた。長安や洛陽の場合、城門から市街地をぐるりと囲む城壁が設けられたが、平安京にはそうした壁はなく、秀吉の御土居が唯一の壁であった。羅城門の周囲にわずかに壁はあったが、あくまで門を支える壁であったようだ。ゆえに羅城門は儀礼と装飾のための門であったといえよう。羅城門のその先は平安宮の大内裏まで一直線に幅八十四メートルもの朱雀大路が延びていた。平安京のメインストリートだ。平安京は坊条制で整備されて、碁盤の目のごとく整然たる街並が企画されたが、実は完璧な左右対称の碁盤の目はついに完成はしなかった。しかし、急ピッチの突貫工事で進めた割にはよくできた都であった。平安京は南北五二二四メートル、東西四四九四メートルの規模でスタートした。南都仏教との隔絶を旗印にした桓武帝は、平安京に既成仏教勢力の入京を禁じたが、仏教への帰依を完全に捨てたわけではなく、王城鎮護のためには大いに利用しようとした。唯一の寺院として羅城門の左右に東寺と西寺を建立したのはそのためである。その先には東市、西市が置かれ、少しずつ民も入京し、活気が出てきた。朱雀大路の北の突き当たりに朱雀門があり、手前に神の託宣を聞いたり、天気の卜占や雨乞いをおこなったとされる神泉苑が造営された。朱雀門より内が大内裏で、整然と天子のおわす場所は南面して平安京を支配した。大内裏は塀で囲われた平安宮で実に壮麗なものであった。朱雀門の先の応天門の内部が朝堂院で、ここが大内裏の中心であり、院内に巨大な大極殿が建てられた。内裏が炎上するたびに天皇の御所も点々としたが、平安王朝が始まってから、南北朝時代まに今の京都御所の位置に収るまでおよそ六百年間はこの場所が内裏であった。

 平安京は徐々に左京が繁栄してゆき、右京は衰退してゆく。すなわち洛陽城が栄え、長安城は滅びたのだ。理由は諸説あるが、近年の研究では、地勢的見地から右京衰退の真実がほぼ明らかになってきた。京都盆地は、北東から南西にゆるやかに傾斜している。高低差は五十メートル以上あり、一見すると平坦に見えるが、京都市内で自転車に乗ると北へ向かうとペダルが重く、南へ向くと軽くなる。平安京の南限である東寺の五重塔のてっぺんと金閣寺のあたりが同じ高さだと云う。もともと右京は紙屋川と桂川の氾濫原にあり、水はけの悪い湿地が多く、開拓が困難な地質であった。北西部の一部は宅地化されたが、左京に比べて住環境は極めて悪く、早くも平安後期には耕作地に変わっていった。今の洛中は完全に洛陽城内に収まっている。

現在も洛中の道路のほとんどは東西南北に直交しており、斜めに走る道は少ない。これは、平安京の都市区画が今もなお京都の街区画の基本を形成していることによる。 都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京と右京を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋や唐の洛陽城、長安城に倣うものである。また平安京の地の選定は、中国伝来の陰陽道を駆使して風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。これも諸説あるが、北の玄武が船岡山、東の青龍が鴨川、南の朱雀が巨椋池、西の白虎が山陰道という説がもっとも有名なパターン。このパターンが本当ならば、隋や唐や北京さえ凌ぐ鉄壁の四神相応の地であり、千年も続く都も神の見えざる手という人智を超越した力によって守護されていたと考えてしまうのも、私はそう見当外れとも思えないのである。

 平安初期の文化は、唐の影響を強く受けていた。桓武帝は中国皇帝に倣い、中国への志向が強く、当然と云えば当然である。桓武帝は廃嫡された弟の他戸親王に比べて母方の身分が低く、いつ潰されるか不安があった。そこで平城京からの離脱と、最新の文化と技術を唐からもたらすことによって、世を目眩し、それを実現供給できる者としての権威を高めることに腐心した。一方我々は平安時代というとすぐに国風文化を想像するが、これは平安中期の藤原時代になってから。そもそも文化の国風化は、奈良時代から垣間見えていたのだが、桓武帝の登場で国風化は薄らいで、後を継いだ平城天皇嵯峨天皇も父帝の意思を受け継ぎ唐文化に傾倒した。結果的に清和天皇の頃まで唐風文化が続いた。桓武朝では従来の日本に見られない中国仏教(天台密教真言密教)が伝教大師最澄弘法大師空海によってもたらされ、このあとの日本仏教の方向性を大きく規定づけることとなる。平安仏教の勃興である。桓武帝はことに最澄に帰依し、彼の拠点である比叡山平安京の鬼門封じとした。この頃空海は留学僧として唐にいたが、まもなく帰国し、桓武崩御後に、活躍するが、この先はまた次回に述べたい。いずれにしても最澄空海という双璧の巨人は我が国に仏教が伝来して以来始めて大胆に切り込んでゆくことになる。これ以降南都仏教は消滅こそしなかったが、少数派になった。今に続く日本仏教を鑑みると、平安仏教に始まるといえる。確かにこのあと鎌倉仏教が降って湧き出て迸るが、鎌倉仏教の祖師は皆比叡山で修学し、自己の仏道を求めて発心した。そして真言宗は今や多くの派があるが、すべては弘法大師を信仰し、真言密教の秘法によって鎮護国家と人々の救済を続けている。こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹という日本独自の宗教観があらわれて、神仏混淆が進み、陰陽道や加持祈祷が盛んになってゆくのも平安時代である。

私は度々、大和朝廷の時代は皇位継承は命懸けであったことを述べてきた。桓武帝が皇位についたのは、義母の皇后・井上内親王とその子の皇太子他戸親王を失脚させたゆえである。長岡京に遷ってからも、寵臣藤原種継が暗殺され、その罪を問われる形で実弟である皇太弟・早良親王は配流となるが、親王は無実を訴えながら食を断って絶命した。祟りを恐れた桓武帝は、早良親王崇道天皇追号して手厚く弔っている。奇しくも平安末に、日本一の祟り神と恐れられた崇徳院は、早良親王とよく似た境遇である。崇徳院の崇は崇道天皇からあやかって、鎮魂のためにとられたものではなかろうか。平安朝の始まりと終わりは皇統間の血腥い匂いが漂うが、やはり飛鳥や奈良朝からの命懸けの皇位継承は、形を変えながら、さらに暗く陰険なものとなって残っていた。武力で直接命を狙うではなく、権謀術数を張り巡らせ間接的に相手を追い込んで、排除するやり方である。天皇家皇位皇統争いのみならず、廟堂においても、藤原氏の他氏排斥など上下様々で見られる。それは香り高い、典雅な王朝国家の裏の顔ともいえ、日本人の特有の島国根性とか、村八分と云った閉鎖的で陰湿な性格は平安時代に培われたものだと私は思う。江戸時代の鎖国も、幕末の尊王攘夷の思想も始発点は平安時代であった。それを打ち破ろうとした平清盛織田信長の夢は道半ばで潰えている。この日本人の民族固有の思想と史観については、これからも折々に考察してまいりたい。

明治二年(1869)に明治天皇が東京へ行幸され、詔は下されずとも実質的には遷都に成ったことは、現代人の自然な考え方である。或いは都を新たに定めると意の奠都が正しいか。いずれにしても天皇の在す場所、すなわち其処が皇城の地であり、都なのである。平安京は千年の古都。産声をあげてから千七十五年もの間、日本の都であり続けた。

西国巡礼記 第一番 青岸渡寺

西国巡礼は日本最古の巡礼と云われる。その発足の起源は諸説あるが、もっとも流布されてきたのが徳道上人の伝承であろう。大和の長谷寺を開いた徳道上人は養老二年(718)病を得て死んだが、冥府で閻魔大王に、「汝は諸人を救うべく本土へ還り、三十三箇所の観音霊場を広めよ」と言われた。その証に三十三の宝印を授かり、蘇生した。三十三は観世音菩薩が衆生を救うべく、三十三の仮の姿に身を窶して現れると云う霊験によるもの。が、甦った徳道上人のその話を誰も信じない。上人は今の世ではまだ早いと諦めて、宝印を播磨の中山寺に埋めてしまう。それから二百七十年あまり後の平安朝の頃、藤原摂関家の専横により若くして即位して、わずか二年で退位された花山院は、世に無常を感じ出家された。御自身にも申すも憚られる不埒な行いが、若気の至りとしてあったことを悔やまれたのかもしれない。仏道に打ち込む決意をされた花山院は、徳道上人の伝承を聞いて、中山寺の宝印を掘り出されて、巡礼を始められた。花山院には西国巡礼を再興するようお告げがあり、生涯を西国巡礼の整備に尽力されることを誓われた。御詠歌も花山院が詠まれたとされている。はじめは院や出家遁世した公家の間で行われた巡礼は、鎌倉から室町へかけて庶民にも広がって、江戸時代にもっとも盛んになった。

巡礼とはすなわち札所を巡ることだが、巡礼と云うことばが先で、霊場を札所と呼ばれたのも花山院である。世界中の宗教に聖地巡礼はあるが、日本ほどきっちりと巡礼を定めた所はないだろう。千数百年の西国巡礼のルートは紆余曲折しており、当初は長谷寺が第一番で、三十三番が三室戸寺であったりした。今のルートに定まったのは、江戸時代のこと。なるほど江戸から伊勢を経て、近畿一円を巡り、美濃の谷汲へ至ればスムーズに帰路につける。西国巡礼の始まりは偉い坊さんで、中興したのは花山院と云う貴人であるが、今に続いてきた巡礼の道は、逞しくも庶民の力で育まれた観音信仰の賜物であった。

私は三年前に坂東三十三所を結願してから、次は西国巡礼に参りたいと思っていた。昨秋、折りよく熊野三山を巡拝した。那智の滝を伏拝して、那智山青岸渡寺から西国巡礼が始まった。それにしても青岸渡寺とは美しい寺名である。江戸時代までは隣り合う熊野那智大社の如意輪堂と呼ばれていた。青岸渡寺と呼ばれるようになったのは、明治の神仏分離令以後のこと。青岸に渡る寺とは意味深であり、何より響きが良い。熊野の眼前には補陀落渡海の海が広がる。渡海の渡りをも意味することは明らかだ。創建年は不明だが、寺伝では仁徳天皇の頃(四世紀)、インドの渡来僧裸形上人を開基とする。裸形上人は印度天竺から布教のため随僧六人と船出したが、嵐に遭い、熊野南岸に漂着した。那智の滝を見つけて修行し、八寸の観音を感得し祀ったと云う。推古朝の頃、大和より生佛上人が来山し、玉椿の大木に丈六の如意輪観音を刻み、裸形上人の感得した八寸の観音様を胎内に納めて改めて祀り、推古天皇より勅願を受けて、正式に寺として発足した。熊野らしく創建や歴史が曖昧模糊としているところが、余計に神域をベールに包んでいるが、大正七年に推古時代の金銅仏が発掘されているので、裸形上人はともかく、生佛上人が如意輪観音を祀ったのは本当であろう。

古色蒼然たる現在の本堂は豊臣秀吉の再建に成るものだが、しっとりとした趣きある建築は、はるばるやってきた参詣者にほっと寛ぎを与える。青岸渡寺の名は、秀吉が母の大政所の菩提を弔うために高野山に建てた青巌寺に由来するとの説もある。 那智熊野三山の一つとしても、那智単独でも上古より神々の住まう地として崇敬され、畏怖されてきた。それはひとえに那智の滝が在るからに違いないが、深い山と目の前の海は、山海の恵みを豊穣にもたらし、人は神からの恵みであると信じたであろう。為政者をも虜にした熊野三山の神力は強力であった。しかし織田信長はちょっと違っていた。公然と神仏を虐げ、権威的にも天皇を超越しようとし、自らを神と称した。あとを継いだ秀吉は、信長が耕したあとの整地に努めた。仏教ともなるべくうまく付き合い、本願寺と和解し、懐柔策をとり、京に寺地を与えた。仏教勢力との唯一の対立が根来衆で、秀吉は紀州攻めにて根来寺や周囲の寺社を焼いた。覚鑁上人を祖とする新義真言宗は、高野山と袂を分かち、紀州にて勢力を拡大し、室町末期には寺領七十二万石と云われるまでになり、それを守るべく多くの強力な僧兵を抱えていた。これには朝廷や戦国大名も手を出せずにいた。しかし秀吉の天下統一への執念はついに根来衆を追い詰め、離散させたのである。この時の戦火で西国第三番札所の粉河寺も、焼けてしまった。秀吉は元より信心深い男である。成り上がりたればこそ、神仏の導きと加護を尊く信じたに違いない。紀州攻めの終戦後、離散した根来衆で降参した者には京都に寺地を与えた。これが後に智積院となっている。熊野や高野山を擁する紀州にも殊の外気を使い、粉河寺を修築し、第一番札所那智の如意輪堂も今の堂宇に再建した。

神仏混淆が色濃く残る此処は、那智の滝を筆頭に、アニミズムと神と仏が三位一体となっており、日本人の信仰の根源に触れる思いがする。本堂には役行者の木像が安置されていて、二人の山伏が法螺貝を吹いて読経していた。朱塗りが鮮やかな社と、古色蒼然とした寺は、老若、或いは生と死を具現しているようにも思えてならない。秀吉を惹きつけた那智は日本人の宗教感、信仰心をもっともわかりやすく体感できる場所である。日本人の信仰の対象は、星、土、水、火、木と五つに大別できる。細かく分ければ、太陽、月、山、海、川、滝、岩石、樹木などキリはなく、竈門から箸にまで八百万すべてに神は宿ると信じていた。だが明治維新から百年ほどは、そうした日本人土着の信仰は軽視され、迷信などと嘯かれた。文明開化、富国強兵、戦後復興、所得倍増の名の下に日本人は努力して大国の一つになったが、結果、日本人にとって日本人たる所以の大切なモノを失ってしまった。科学が正しく人類を導くと信じられたから致し方ないが、今、私たちはかつての日本人が大切にしてきたものを思い出して、一部でも再興するべきではないか。こういう場所に来るとつくづくとそう思わされる。

那智山内を歩いていると、那智の滝はその姿を見えつ隠れつする。とどまることのない轟音は山全体にこだまする。滝は生きている。かほど劇的な聖地は他にあるまい。そのロケーション、遙かなるアプローチ、そして崇拝畏怖の対象として、まったく裏切ることない迫力と荘厳さを、那智の滝は見せつける。この御神体根津美術館に蔵されている国宝『那智瀧図』は完璧なる写実性で捉えているが、神聖で厳かな瀧は、実物の滝からは得難い静けさを持っている。私はこの絵を見て以来、那智や熊野に惹かれ、虜になっていった。昭和四十七年(1972)に再建された朱の三重塔からの眺望は、日本でも五指に入る絶景であろう。三重塔上から滝を仰いでも、さらに高い青岸渡寺の境内から三重塔を俯瞰して、その奥に光る瀧筋を見ても、とにかく絶景と言うより他はない。 那智の滝は、我らの悩み、迷い、煩悩、欲得、怒り、憂さをいっぺんに洗い流してくれる。三重塔から拝する那智の滝は、あたかも一筋の光の道、我ら衆生を極楽へと導く白道にも見えた。

青岸渡寺の御本尊は秘仏だが、御前立ちも妖艶で美しい観音様である。納経し、御朱印を授かる。令和改元を機に私は伊勢と熊野三山へ参拝し、那智の滝を拝んだ。西国巡礼を発願するには今が好機と思い定めた。 千数百年続く日本最古の巡礼について事新たに述べることはないが、私なりに日本を発掘し新発見をしながら、道草の道中になるだろう。決して信心だけではない私は、巡礼に託けて近畿一円を巡るついでに、札所周辺を可能な限り歩いてみるつもりである。ゆえに結願までどれくらいかかるか今はわからない。西国の歴史は西国巡礼を辿れば自ずとわかるであろう。そう信じている。それが私の信心の一方である。とにかく一歩ずつ。西国巡礼発願。

御詠歌   

補陀洛や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬

皇位継承一桓武帝誕生と長岡京一

天皇を時に帝と敬称する。帝を日本語ではミカド或いはテイと読む。極めて皇帝的な敬称であり、中国の多大な影響を受けてきた日本人の言葉の模索は、天皇と云う存在の敬称からも察することができる。帝をミカドと読むようになったのは、平安中頃から始まる脱中国の表れのひとつに違いないが、元はテイと読み、皇帝と天皇は同じであるとした。ミカドは御門が語源と云う説があり、帝を充てたに過ぎず、やはり帝=テイと読むが相応しいと思う。歴代天皇で帝=テイと云う敬称がもっとも似つかわしいのは、桓武天皇であろう。唐文化に強い憧れを抱き、私淑した桓武天皇を私もあえて桓武帝と敬称したい。 桓武帝は、天平九年(737)光仁天皇の長子として誕生された。母は光仁天皇の側室で百済系渡来人和氏出身の高野新笠。諱は乳母の山部子虫の姓により山部王と呼ばれた。当然、父君が天皇となられる以前は皇位など夢のまた夢である。山部王は侍従や大学頭に任ぜられ、御本人も官僚として生きてゆく覚悟を決めていた。運命とは不思議なもので、この経験が後に桓武帝として、世情や政策に明るい専制君主を育てた。後に行う蝦夷討伐についても賛否を別にすれば、桓武帝が臣下の言いなりではなく、強い決断力を示された証である。桓武帝が幼い時分から大和朝廷は崩壊へ向かいつつあった。

時代がダイナミックに動く時、その荒波を乗り越えてゆくべく有能な漕ぎ手が現れることがある。日本史上桓武帝もその一人であろう。時代が必要としたとも云える。宝亀三年(773)他戸親王廃太子となり、翌年、山部親王は三十七歳で皇太子となられた。このあたりの経緯は前回書いたので省略するが、血筋のよかった他戸親王を廃したのは、母の井上皇后光仁天皇を呪詛したかどで、他戸親王連座とされたからである。その裏には天皇家を巻き込んだ藤原氏の権力闘争がかなり影響していると思う。それを主導したのが藤原式家藤原百川であった。百川は天武系の血を排除するために仕組んだに相違ない。天応元年(781)四月、父君が崩御。あれよあれよで山部王は第五十代天皇として践祚された。四十五歳であった。正式な即位は後日行われたが、践祚から日を隔てて即位されたのは、桓武帝が初めてである。この年は氷上川継の謀反事件が起こり政局は不安定になった。氷上川継天武天皇の御子の新田部親王の子の塩焼王と、聖武天皇の皇女の不破内親王を父母に持つ天武直系で、自らが正当な皇位継承者であると主張したのがこの事件である。さらには凶作で、疫病も流行した。不穏な空気を一新すべく延暦改元された。延暦時代二十五年の始まりであり、延暦年間は桓武帝の統治する二十五年である。

 あをによし奈良の都は、政官、政教、官教が強烈に癒着し、どうにもならない状態となっていた。天下泰平の世はいつも似たようなことが起こるものだが、平城京でも政治腐敗、贈収賄などの汚職が横行し、民を顧みない政が半ば公然と行われていた。加えて仏教伝来から二百数中年を経て、奈良の名だたる大寺院は大きな力を蓄えるようになり、貴族と癒着して私服を肥やし、権威を高めることしか考えず、本来の仏教の教えなど何処かへ消え去っていた。政権に寄生するかのように近づいて、政治権力まで手にしようとしたのである。ゆえに称徳女帝の御代には道鏡のような野心家まで登場することになる。奈良仏教は目も当てられぬほど堕落の一途を辿っていたのである。仏教は鎮護国家として日本に大きく食い込み根差してきた。その仏教の力を恐れた桓武帝は自らの手でこの癒着を剥がそうと決意する。それにはいっそのこと七十年の都を捨てて、新しい土地で、新たなる都を造営し、清々しく人身刷新して、新しい国造りをやりたいと強く思うようになる。他にも理由はあった。大和国平城京は、壬申の乱で勝って天武天皇より天武系の皇族とそれに連なる貴族が大きな力を持っており、天智系の桓武帝はその力と謀反を恐れてもいたと思う。決意の遷都には骨肉の争いに終止符を打ちたいと云う願いも込められている。また、開明的な桓武帝は海外=唐との交わりをさらに拡大してゆくことが、国を豊かにし、自らの権力基盤と権威を高める最大の手段と考えた。交易には平城京はいかにも不便な場所で、物資を運搬するための水路がないため、陸路に頼っていた。桓武帝は効率的な流通ルートを確保するには、海か大河の近くに都を拓くことが肝要と思っていたが、この時代、国防的見地から海の目の前とはいかなかった。治水事業は少しずつ発達してはいたが、それは池沼や中くらいの河川に限られており、海や大河の治水は到底困難なことであった。であるから、あまりにひらけた水辺よりも、日本人が代々付かず離れず寄り添ってきた山にも近く、敵の侵入を容易に許さない土地を丹念に探した。遷都は大事業だが、なるべくなら低コストでやりたいのも本音で、平城京から近すぎず、遠すぎずの場所が望ましい。

そんな理想的な土地が山背国長岡であった。 川の少ない平城京は水はけも悪く、下水問題も抱えており、まことに不衛生な都市であった。 長岡の近くには桂川宇治川、木津川の三本の大きな川が流れ、その先で三筋が合流して淀川となる。淀川はこの当時の日本の玄関である難波津へと流れるが、この頃の難波津は土砂災害で機能不全に陥っており、それに代わる場所が必要でもあった。唐と親しくして交易をすることを強く願う桓武帝は、かねてから水運活発なところが、都として望ましいと思っていた。長岡京が造営されると同時に淀川となる合流点には山崎津が設けられた。船で全国からの物資を運べるため非常に便利であり、豊富な水を町にひくことによって各戸に井戸が掘られていたことが発掘でわかっており、豊かな水は民にもあまねく行き渡るようになった。慢性的な水不足に悩まされていた平城京が枯れていったのも、むべなるかなと思う。長岡京は緩やかな斜面に造営されており、南東へ傾斜しているため廃棄物や汚水などを川へと流し去ることができ、下水の問題も解決できたのである。長岡京はこれまでのどの都よりも安全で、実に快適な都市であった。おそらく平安京よりもはるかに暮らし易い場所ではなかったか。

延暦三年(784)十一月十一日、桓武帝は喜び勇んで長岡へ遷都した。自らの宮を市街地より高い場所へ築き、その権威を見せ付けた。長岡が新しい都であることを示し、希望の都市の専制君主となることを、天下万民に知らしめたのである。長岡遷都には桓武帝の寵愛した藤原種継が大きく関与している。そもそも長岡には種継の本拠があり地盤なのである。種継は藤原式家の出で、式家は叔父の藤原百川が先帝の御代に大きく勢力を盛り返していた。父は藤原宇合の三男の藤原清成であるが、この人物は不明なところが多い。清成は長兄の藤原広嗣の乱の煽りを受けて、無官位であったが、兄の連座で処刑か流罪となり官位を剥奪されたのであろう。ゆえに種継や兄弟たちは青年となるまでは息をひそめて暮らしていたに違いない。称徳女帝の御代にようやく従六位上から従五位下へ昇進した。そして光仁天皇の時代には、藤原式家が主導権を握ったため、種継も重用されるようになり、近衛少将に任ぜられ、紀伊守や山背守となった。百川には藤原緒嗣と云う息子がいて、後に桓武帝の腹心となるが、この頃はまだ十一歳で、代わって種継が活躍した。後述するが、種継の娘藤原薬子が、後に薬子の変とも云われる事件に大いに関わってくるのだ。種継は光仁天皇の御代にとんとん拍子で出世して、従四位下左京太夫にまで昇進している。種継は同い年の皇太子山部親王と親しくなり、厚い信任を得るようになる。私は二人が同い年であったことに注目している。山部王も種継も幼少から長い間不遇を囲っていた。この境遇を嘆きながらも、少しずつ雲が晴れてゆくのを感じてもいたに違いない。桓武帝と種継は臣下の別を超えて心許せる友となった。山部親王は誰よりも種継を信頼し、種継も友情を結びながらも親王に忠誠を誓うようになる。時代を切り拓くと云う共通のスローガンを胸に抱いていたのではなかろうか。桓武帝として即位されるやいなや、種継は参議となり公卿に列せられた。従三位中納言正三位まで昇りつめ、飛ぶ鳥を落とす勢いとはこの時まさに藤原種継のことであった。長岡京への遷都はこの藤原種継が主導したと云われる。

こうした人物は必ず恨みを買うのが世の常である。先任の参議たちは、自分たちを飛び越えて昇進してゆく種継を快く思うはずはなかった。その中には三十六歌仙のひとり大伴家持もいた。延暦四年(785)藤原種継は、ある夜工事の進捗状況を視察している折、何者かの射た矢によって暗殺された。主犯は大伴竹良、大伴継人、佐伯高成ら十数名とされすぐさま捕われて処刑された。その他配流された者も多数いた。一方で「続日本紀」には、皇太弟早良親王大伴家持の陰謀であると書かれている。家持はこの事件の前に一ヶ月前に死亡しているため真相は定かではないが、首謀者の一人として官位剥奪された。家持は生前春宮大夫であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その他、東大寺に関わる役人ら奈良仏教界も複数人が種継暗殺に関与したと云われる。

早良親王は幽閉され、配流となった。親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま薨去される。早良親王の死後、長日照が続き、飢饉となり、疫病が大流行した。桓武天皇の皇后は藤原吉継の娘乙牟漏であったが、この時薨去されている。さらに近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こった。桓武帝が陰陽師に占わせると、早良親王の怨霊によるものとの結果が出た。祟りを恐れた桓武帝は親王の御霊を鎮める儀式を行ったが、今度は大雨によって長岡京は洪水に見舞われて、大きな被害を蒙ってしまう。治水担当者であった和気清麻呂桓武帝に遷都を進言する。そして長岡京が造営されてからわずか十年、延暦十三年(764)に同じ山背国葛野と愛宕両郡にまたがる広大な盆地へと再び遷都することになる。長岡京の十年は、平安の夜明け前であった。いよいよ長い長い平安時代が幕を開ける。

青春譜〜野庭高校の灯〜

野庭高校をご存知であろうか。今は近隣の横浜日野高校と統合して、神奈川県立横浜南陵高等学校となっているため、野庭高の名は忘れられつつあるが、かつて野庭高は吹奏楽の名門校として、吹奏楽関係者やファンには有名であった。そして今は野庭高吹奏楽部は伝説として語り継がれている。数年前、「仰げば尊し」というドラマが放送された。舞台はどうしようもない不良高校に、校長のたっての願いで招聘された元プロサックス奏者の寺尾聰さん演じる非常勤教師が、不治の病に冒されながらも、不良たち一人ひとりと向き合い、ぶつかりながら、熱血指導して弱小無名の吹奏楽部を音楽の甲子園で優勝させるというストーリー。この物語のモデルとなったのが、なにおう野庭高校吹奏楽部であり、熱血教師が中澤忠雄先生で、ドラマの原案は石川高子さんの「ブラバンキッズ・ラプソディー」と云う野庭高校吹奏楽部のノンフィクション作品である。

中澤忠雄先生は昭和十一年(1936)横浜の生まれで、吹奏楽部でチューバを専攻、天理高校から東京芸大へ進まれ、日フィル、読売日本交響楽団でチューバ奏者として活躍されたが、自動車事故に遭い、その後遺症からオーケストラを退団し、横浜の自宅で音楽教室を開いておられた。その指導力は近所で評判となり、やがて横浜でも名だたる音楽教室となっていった。中澤先生の確かな指導力に期待を込めて、当時の野庭高校の校長はじめ教員たちは何とか吹奏楽部の指導をお願いしたいと再三に渡り頼み込み、ようやく中澤先生の了解を得た。中澤先生は周囲の反対を押しきって非常勤教員となった。先生の自宅は野庭高校の近くで、噂は校長の耳にも入っていたのであろう。が、引き受けてから中澤先生と野庭高校の生徒たちの駆け引きが始まる。それまでの吹奏楽部は、あってないようなもので、コンクールはおろか、他にやることがないからとりあえず所属している部員というのがほとんど。一部に中学からの無類の楽器好きが細々と続けているのみ。部員たちは部室や音楽室に顔も出さずに帰るのであった。ほとんどが喫煙や非行は当たり前、それは1970年代から80年代、校内暴力や暴走族などの非行少年少女が出始めてピークになってゆく頃と重なる。形ばかりの吹奏楽部員も二年で引退して、まともに合奏などしたことはなかった。そこへ中澤先生はやってきたのである。

中澤先生がまず初めにやったことは、吹奏楽の指導ではなかった。生徒一人ひとりと向き合うこと。彼らが何を考えて、どうなりたいかを知ることであった。案の定ほとんどの生徒は吹奏楽に関心はなく、学校にさえ行きたくはないと思っていた。そんな彼らにいきなり音楽をやらしても、うまくゆく道理などない。やる気もないのに、楽しさを得ることなどできないのだ。中澤先生は彼らを面談したり、中には自宅に招いて語らい、時にはともに遊んだりした。今では法律上どうこう問われそうだが、喫煙する生徒からタバコを取り上げることもしなかった。中澤先生は彼らを信頼した。そしてこちらが真剣に向き合えば、彼らもまた真剣にぶつかってくる。徐々に生徒たちは中澤先生に心を開いていった。絶妙なる人心掌握である。だが、そこには嘘がなかった。ゆえに彼らは先生を慕ったのである。半年くらいこうした時が過ぎていった。

或る日、彼らに楽器をやってみないかと話した。ここまでずいぶんと強固な信頼関係を構築していたが、こと楽器のことになると生徒たちは後退りしそうであった。そこで先生は、楽しくやろうと、遊びの延長でも良いから楽しくやろうと伝えた。しかしやるなら一生懸命やろう、自分も共に一生懸命やると言った。コンクールを目指して、一番になろうじゃないかと。元々は半分くらいはやんちゃな生徒たち。負けん気は強かった。彼らが中澤先生に乗っかるのにもう時は要さなかった。先生は楽器の基礎練習からはじめて、楽曲の表現力はもとより、基礎体力作りのために部員たちにマラソンを勧めた。やがて彼らは校内では運動部員よりもマラソンが強くなった。俄然、肺活量は鍛えられてゆく。

中澤先生は彼らの心に点火した。きっかけは中澤先生であるが、メラメラと燃えてゆくのは各々次第。いつのまにか野庭高校吹奏楽部は当たり前の部活動をしていた。練習にも打ち込み、一年後には県大会をいきなり突破して、関東大会でも銀賞を獲得する。が、関東大会の銀賞と云う結果に大いに彼らは悔しがった。そして、次は必ず関東代表を勝ち取り、全日本へ行きたいと強く願った。遥かなる高峰へ、無謀とも思える挑戦であったが、火のついた彼らはもう後ろ向きにはならなかった。そして誰にも止められない。中澤先生はそんな彼らを鼓舞し、煽り、叱咤激励の熱血指導をした。結果、彼らは地区予選を突破し、「吹奏楽の甲子園」とも呼ばれた普門館に行った。今はなき普門館については何度も書いたので省くが、十年ほど前までは、全日本吹奏楽コンクールの舞台であった。彼らは初めての全日本でも気後せずに堂々たる演奏をして、見事に金賞に輝く。中澤先生就任からわずか二年で成し遂げてしまった。演目は課題曲C「カドリーユ」、自由曲はAリード作曲「アルメニアンダンスパートI」であった。中澤先生在任中の昭和五十七年(1982)から平成七年(1995)に、野庭高校は八度全日本へ出場し、六度金賞に輝いている。

野庭高校の奇跡は、日本の吹奏楽界に燦然と残る軌跡である。たった二年で無名から頂点に立った。その音や勇姿はCD化されているし、YouTubeでも聴ける。私が圧巻だと思ったのは、レギュラーコンサートで演奏された、「エルカミーノレアル」。その大音響は凄まじい迫力に溢れ、振幅の広い表現力、音の深さにはただただ感銘を受ける。ライブで聴いたらさぞや鳥肌が立つに違いない。Aリード作曲のエルカミーノレアルは吹奏楽の名曲であり、全楽器が緻密な譜面を奏でる難曲の一つだ。色々な楽団の様々なエルカミーノレアルを聴いたが、野庭高校を超える演奏を私は知らない。中澤先生は平成八年(1996)、六十一歳の若さで旅立たれた。ゆえに前年の全日本吹奏楽コンクールが最後の出場であったが、見事に金賞を受賞し、有終を飾られている。その後も吹奏楽部は存続したが、成績は下降した。野庭高校も今はない。しかし、中澤先生の想いは生きている。平成十六年(2004)野庭高校吹奏楽部OBによって、ナカザワ・キネン野庭吹奏楽団が発足した。楽団は、中澤先生の「野庭の火を灯し続けてほしい」という想いを胸に、年に二回の演奏会を開いている。まことにすばらしいことだ。

どんなに落ちこぼれそうになっても、最善の人が最低限の導きをすれば、若人は自らの意思でもって一気に習熟してゆくのである。それを中澤先生はやった。吹奏楽部員もそれに応えた。野庭の火を灯し続けてほしいと云う中澤先生の想いは、志し在る者から次世代へと紡がれて、あたかも比叡山の不滅の法灯のように灯り続けてほしい。これは吹奏楽を愛する私の願いでもある。

一芸に秀でる。およそ人間に生まれてきたからには、何かひとつでもそうありたい。大半の人がそういう想いを抱いて生きているのではあるまいか。が、なかなかその一芸に秀でることはおろか、一芸や特技、楽しみさえも見つけることが困難でもあり、見つけてもその道が厳しいものであれば、継続して精進することは容易ではない。昨今の時代背景からして、その道がますます険しいものとなった。つまりそれは精進せねばならぬ人間が次第に弱くなっている証でもある。しかし、もしも何かひとつでも、自分が打ち込める何かを見つけることができたならば、その人の人生は途端に意義深いものになる。たとえそれが一瞬であってもだ。青春の盛時にそうして手に入れた輝きは、いくつになっても色褪せることはないだろう。私はそう信じて、今を生きている。二年近く書いてきた私の青春譜も、今回でひとまず終わりにしたい。はじめは懐古的に自らの吹奏楽部での体験をもとに吹奏楽の魅力を伝えたいと思ったが、なんだかとりとめのない未熟な随筆になってしまったことをお詫びしたい。しかし私にとって吹奏楽はかけがえのないもの。これからもファンとして愛聴するであろう。吹奏楽は私の青春の日々であった。青春を思い出すのはブラスの音なのである。完。

熊野三山巡拝記

熊野の名は山の奥深い国と云う意の「隈の処」に由来すると云われる。熊野は遠い。今でも東京からは一日がかりである。長年行きたかった場所。しかしなかなか機会が来なかった。というよりも機会を作れずにいた。私に時間と金が有ればすぐさま行くが、熊野行きにはしっかりと準備をし、それには私の覚悟も必要だった。結果、知識だけはやたらと増えてしまい、募る想いは弾けそうなほどであった。今年、新天皇が御即位され、令和改元の折、私は天皇と日本史を総浚いしている。この機会に皇室とも縁があり、日本人とその信仰を語るべくでも欠かせない熊野へ思いたって出かけることにした。

かねてより私は、はじめに伊勢へ詣でて、熊野三山を巡拝し、那智青岸渡寺から西国三十三所観音巡礼を発願したいと思っていた。伊勢にはこの夏前に参拝を済ませていたので、今回は前日に名古屋に入り、翌朝早くに名古屋から特急南紀で新宮まで行って、新宮からはバスで大辺路那智へ向かい、那智からは中辺路を本宮へ行くと云うルートをとった。伊勢からツヅラト越えで熊野へと至る。ツヅラト峠は伊勢と紀伊の国境にある峠である。ツヅラトとは九十九折のことで、標高は三百五十七メートルだが、急峻で、峠からは熊野灘をみはるかす。この古道は石畳や石垣もよく保存されている。徳川時代に荷坂峠が拓けて伊勢から熊野への本道となった後も、ツヅラト越えは残ったのは、土地の人々には信仰と生活が結びついた大切な道であったからに違いない。

この日は九月初旬の台風一過で、全国的に猛暑であったが、熊野は意外にも涼しくて、海岸線は海風が心地よい。新宮駅に着いたのは昼近くであった。新宮は駅からすぐの町中にあるが、一歩境内に入れば別天地の静けさで、さすがに創建年さえわからないと云う大社の荘厳な雰囲気は、今日でもまったく失われてはいない。新宮の元宮は近くの神倉山にある神倉神社で、ゴトビキ岩と云う巨巌が御神体となっている。ゴトビキ岩こそが神の磐座であり、神倉も磐座が変化したものであろう。熊野速玉大社はこの元宮に対しての新宮であり、熊野本宮に対しての新宮ではない。いつの頃か現在地に遷宮されたが、その年代も良く分かってはいない。このよくわからないと云うところが、熊野三山の魅力のひとつだと私は思う。そこに日本人の信仰の神秘を感じる。新宮は熊野灘が目と鼻の先にあり、潮の匂いも漂ってくる。そのせいか全体にとても明るい印象で、実際、あざやかな緑と朱の社殿が、ひなたの空と森に照り映えて美しい。南紀の暖かく爽快な明るさが新宮にはある。熊野川も河口のこの辺りは、ゆったりと雄大に流れている。

南紀の海岸は至るところに巨巌巨石が露出している。獅子岩橋杭岩、円月島や花の窟神社の巨岩壁、そして神倉神社のゴトビキ岩。このあたりの日本離れした風景には圧倒される。そのスケールは半端ではなく、世界遺産に選ばれたのも、この壮観な景色と信仰が結びついているからに他ならない。それは日本人が代々紡いできた信仰の形であり、途中で仏教が入り混じっても、びくともせぬ信仰心であった。そればかりか仏教的な思想をもうまく習合して、神仏混淆と云う世界の宗教史的にも類を見ない複雑怪奇な信仰を生んだ。熊野はその先駆けであって、徳川時代が終わるまで神仏混淆の中心であった。熊野は神仏をまとめて最強の霊力を得たのだ。そして熊野によって神仏も結束し、日本人の信仰の形を育んだのである。ゆえに人々は熊野へ引き寄せられる。

俗に「蟻の熊野詣で」と云われるが、熊野を参詣する者に貴賎の別はない。皇族や貴族の参詣は記録に残っているものも多く、ピークは平安時代中頃から鎌倉時代にかけて。中でも後白河院の熊野参詣は群を抜いており、生涯で三十四度も来られている。京都から御徒でひと月、三山を巡拝して、帰洛されるには二ヶ月以上を要した。今でも遠い熊野に、これだけ脚繁く参詣されたのは、熊野に対する並々ならぬ信仰に他ならず、ついには京都東山に新熊野神社を勧請するに至った。新熊野神社平清盛が金を出して建立された。三十三間堂と同じである。「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。神社からほど近い泉涌寺には、今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、ここは弘法大師が開いた寺で、京の熊野と呼ばれ信仰を集めていた。後白河院は、この地に新熊野神社を建て、新熊野神社別当寺として、蓮華王院すなわち三十三間堂の建立を発願された。源頼朝に「日本第一の大天狗」とまで云わしめた後白河院のこと、ただの厚い崇敬だけではあるまい。ここまで熊野に執着されたことには、別の理由もあったと私は思う。源平を巧みに利用した後白河院は、一筋縄ではいかぬ。熊野を信仰をする山伏、木樵などの山人、那智を信仰する漁師を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。熊野に古くからいる豪族や野武士、そして当時最強との呼び声高き熊野水軍を手名付けて、味方につけることではなかったか。

後白河院が編んだ梁塵秘抄には次の今様がある。

熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し

すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず

空より参らむ 羽賜べ若王子

いかに熊野が遠くて、熊野詣が遥かなる旅路であるかを如実に示す今様である。空路で南紀に行ける二十一世紀でも熊野は遠い。

若王子は熊野の神の御子の意で、九十九王子(くじゅうくおうじ/つくもおうじ)とも云う。王子は熊野の参詣道に点々と祀られていて、紀伊路から中辺路に大小の社や祠がある。九十九とは実数ではなく、王子の数の多さを示している。九十九王子は鎌倉後期から南北朝時代を挟み室町初期まで、皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手になるもので、参詣者の守護が祈願された。同時に熊野への確かな道標であり、一社、一社と辿るうちに禊をし、精進潔斎しながら、三山巡拝に備えることができた。否が応でも熊野詣での気分は高まったであろう。九十九王子紀伊路と中辺路の沿道に限られるのは、京都から皇族や貴人が頻繁に往来したことから、当然だと思う。修験者たちが熱心に王子社を盛り上げたのは、貴人からの寄付や寄進を当て込んだものに違いない。ちなみに大辺路にも王子の社があるが、中辺路の王子とは由来が別とされ、九十九王子には入らないそうだ。これは紀伊路と中辺路、伊勢路と中辺路が熊野の表参道であることを示している。後白河院ら皇族や貴族は紀伊路から中辺路を経て熊野本宮へ詣で、熊野川を下って、新宮、那智へと巡拝したのだろう。

それにしても紀伊半島は広大である。たしかに半島としては日本一大きい。しかし地理的にはその大きさは決まっている。それでも熊野は最果てのない宇宙のように感じる。熊野を思う時、熊野は宇宙となる。いまだに膨張を続け、あたかもブラックホールの如く謎に満ちている。聖なるラビリンス熊野。巡拝の道は幾筋もあるが、京都から行く場合は紀伊路を経て大辺路か中辺路を辿るルートが一般的であった。他にも高野山から熊野本宮までの小辺路、伊勢を経由して伊勢路から中辺路と云うルートは徳川時代に江戸から参詣する者が歩いた。さらには、吉野から大峯山を縦走して熊野へ詣でる大峯奥駆道があるが、これは修験者の道であり、もっとも険しく、過酷な道である。途中には果無峠なる深く長い山道もあり、いかにも熊野が日本のあらゆる霊場の奥之院といった感じさえする。

 私はいよいよ那智へ足を踏み入れた。那智の滝を拝みたい。この日、私の積年の願いがついに果たされたのである。そしてもうひとつが西国巡礼を第一番札所の青岸渡寺から発願することであった。 誠に罰当たりなことだが、実は熊野三山巡拝は西国巡礼のついでであった。 が、実際に巡拝をしてゆくうちに、己の浅ましさを痛感することになる。 それは熊野三山の歴史と、熊野詣の先達が積み上げてきた貴賎を問わない信仰の重みに直に触れたからである。 那智大社は天空にある。大門坂から上がれば八百段の石段を登らねばならないが、中辺路の一部という熊野古道は昼なお暗く、それゆえに森を抜けて視界が開けると、誰しも歓声をあげるだろう。ここで我々はいにしえの人々とリンクして、未来の人々とも繋がるのである。隣接する青岸渡寺、そして那智大瀧。神、仏、修験、日本人が古くから拝んできた三つの信仰が何の違和感もなく、全く自然に同居する那智。 方々の寺社へ参詣してきたが、こんなに心が晴れ、魂を揺さぶられた場所はない。日本人の信仰の原点は熊野にあり、那智に極まるとさえ思った。

青岸渡寺の三重塔まで、 滝の音は響いてくる。 ここまで来たら、滝壺まで近づいて、 真下より伏拝したい。 昼なお暗く、歩き難いこと夥しい古道を、 ひたすら滝を目指した。  滝の轟音は那智全山にこだましているが、 御神体はなかなか姿を現さない。 汗だくになりながら、ついに飛瀧神社の鳥居をくぐった。 とたんに全身冷ややかな風に包まれる。 那智の瀧は、根津美術館に蔵されている「那智瀧図」を拝見して以来十年あまり、積年の憧れである。 御神体の圧倒的な迫力に、手を合わせるのも忘れて、 暫時、茫然としてしまった。 ここは私が日本で一番来たかった場所なのである。 とうとう参拝した。感無量であった。

最後に那智から本宮へ向う。たださえ隠国の熊野三山。その最深部に本宮は在る。霊峰に囲まれた彼の地へは、中辺路を辿った。 熊野川が見えてくると急に視界が明るくなり、狭隘が少し開かれた場所に本宮は在る。まるで御釈迦様の掌の中にいる様のところだ。 本宮は全国に三千以上もある熊野神社の総本社なのに、近寄り難さは微塵もなく、凛とした佇まいがまことに清々しい。それでいて荘厳かつ神さびた社には大いなる力を感じたし、静かな参道も私好みであった。 唯一目立っている八咫烏も親近感を抱かせる。 本宮はかつては熊野川の中洲に在ったが、明治二十二年の洪水で流されてしまい、現在の高台に遷宮された。元宮があった場所はモニュメントとして残されて、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている。平成に建立された日本一の大鳥居が立っているそこへも行ってみたが、すぐ側を流れる熊野川から清らかな風が吹いてきて、心身が浄化されてゆくのをしっかりと認識した。

熊野が聖地としてあり続けたのは、伊勢に近いこと。次に吉野や高野山を後背し、眼下には補陀落の海が開け、仏教と深く結びついていること。さらには京の為政者や、紀州尾張、藤堂藩などの大いなる庇護を得られたことではないかと私は思う。私が感じた熊野三山の印象と云うのは、新宮は海、那智には空、本宮には山、同時に新宮には光明、本宮には陰影、那智にはその両方を感じた。三山を昼に照らす太陽と夜を照らす月が、その時に吹く風を呼ぶ。実は、東京でも探してみれば熊野と同様に感じ得る場所はあるのだと思うが、普段はまったく気づけないでいる。熊野はそれを自然に呼び起こし、体感できるところである。五感がこれほど研ぎ澄まされる場所はない。

熊野三山はそれぞれ、新宮が前世の罪を浄め、那智が現世の縁を結び、本宮が来世を救済するとされる。三山を巡拝すれば過去、現在、未来の安寧を得られると云う。この考え方は仏教と深く結びついている証拠であり、輪廻転生、蘇りの思想ともつながってゆく。実際、本地垂迹では熊野三山の神々は熊野権現となり、新宮の熊野速玉大神は薬師如来那智の熊野牟須美大神は千手観音、本宮の家都御子大神は阿弥陀如来となっている。

私は今まで雑多に様々な寺社を訪ねてきた。信心よりも、歴史的興味が優っていたが、熊野へ来てそれが少し変わり始めている。これからも方々の寺社を訪ねる旅は続けるだろう。が、私の拠り所となるのは熊野権現となりそうだ。熊野へ来て、熊野へ帰りたい。 そんなふうに思ったのは此処だけである。それにしても熊野は遠い。果てなく遠い。

皇位継承一皇統回帰一

石ばしる垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも

これほど早春の風景を詠み当てた歌はない。また同時に躍動感と歓びに溢れる歌で、じわりじわりと訪れる春の気配、そしていずれダイナミックに展開するであろう春への期待も込められている。清冽な水飛沫には温もりさえ感じ、南風そよぐ中、春の匂いが漂ってくる。暖房器具などない古人にとって冬の厳しい寒さほど辛いことはなく、誰もが春を待ち侘びていた。その気持ちを代弁する歌である。繰り返しこの歌を詠んでいると、私の中にはベートーヴェンの第九が流れてくる。まさしく春の訪れを歓ぶ歌である。詠人は志貴皇子志貴皇子天智天皇の第七御子で、施基、志紀、芝基とも書く。志貴皇子は天武系の皇統が盛期の間は、息を潜めるようにじっと領地に引き込まれていた。いわゆる「吉野の盟約」を頑なに守り、他の御子たちのように天下も栄誉も望まれず、野心を見せずに欲がないと周囲に思わせたことで、血筋を絶やさずに済んだ。これが結果的に功を奏したことになる。

生涯独身であった称徳女帝に子はなく、天武朝の皇統がここで途絶え、代わって志貴皇子の子、白壁王が平城京へ迎えられて光仁天皇として即位された。天武天皇以来、持統、文武、元明、元正、聖武孝謙淳仁、称徳とおよそ百年続いてきた天武系は、奇しくも同系の争いによって皇統は途絶え、天智系に回帰するのである。しかし志貴皇子自身は、主要な官職に就くこともなく、専ら文化人として生涯を終えられた。名歌も多く万葉集や新古今にも採録されている。その領地は田原野と云って、今の奈良市の東にある田原の里である。また別には京都府宇治田原町のあたりとの説もあり、地理的には鷲峰連山を挟んで一括りの地帯と云ってよく、その領地は思いの外広かったのかもしれない。志貴皇子の陵墓は奈良市田原町の田原西陵で、東に二キロほどのところには光仁天皇の田原東陵がある。宇治田原の大宮神社には志貴皇子が合祀されているが、境内の一部はその御廟であったと云う説もある。志貴皇子の御歌は貴人らしい品の良さとか、教養高い文化人の香りは一切みせないところが、その御歌に触れる者を惹きつける気がする。極めて人間らしく、兄弟想いでありながら、内心の忸怩たる悲運を嘆く様も、少しばかり垣間見せる。

むささびは木ぬれ求むとあしびきの 山の猟夫にあひにけるかも

この歌は兄宮の大友皇子への挽歌とも云われる。壬申の乱で非業の死を遂げた兄宮を罠に嵌ったムササビに重ねたのであろうか。それが本当ならば洞察はさすがのもので、繊細で優しい心と透明な眼で浮き世を見つめていた。

采女の袖ふきかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く

藤原京より旧都飛鳥浄御原宮を偲んだと云われる。まことに哀調な歌である。古京への挽歌としては柿本人麻呂がかつて大津京を偲んだ歌、

淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば 心もしぬに古へおもほゆ

と双璧を成すであろう。飛鳥にはこの歌の歌碑が建っているが、皇子が改めて飛鳥へ赴いたのではなく、静かな田原の領地にて遠い都を偲んだのではないかと私は思う。それは飛鳥でも、藤原京でもなく、この時の都である平城京ではなかったか。ストレートに表すことを憚り、わざわざ古京の飛鳥を充てたのだとすれば、異常なほどの気遣いであるが、要らぬ詮索を免れるためには致し方なかったと思う。

葦辺ゆく鴨の羽交に霜降りて 寒き夕べは大和しおもほゆ

自分の運命を受け入れながらも、静かなる怨嗟を感じなくもない。平城京から一山隔てた田原の里に引き篭もっておられたら、時には鬱々たる気分の日もあったであろう。

志貴皇子天皇に即位はされなかったが、皇位継承の歴史を鑑みるとき、今に続く皇統として、極めて重要な存在であるゆえに、あえて取り上げることにした。 志貴皇子薨去されて五十年あまり後、白壁王は光仁天皇として即位され、その皇統は今上天皇まで連綿と続いてゆくのだから、志貴皇子ご自身も彼の世で驚いておられるのではあるまいか。光仁天皇は父君に春日宮天皇追号を贈っている。また領地である田原の里から田原天皇とも敬称された。

光仁天皇志貴皇子の第六御子で、白壁王と呼ばれた。  隠棲した父とは違い、都へ出て、少しずつしかし順調に官位を昇っていった。世は皇統が変わると予測して白壁王を必要としたのだろうか。白壁王は実務にも長けており、光明皇后の葬儀では葬場造営の責任者である山作司(みやまつくりのつかさ)を務めたり、称徳女帝の紀州巡幸の際には、供奉の責任者たる御前次第司長官(みさきのしだいしちょうかん)を務めた。神護景雲四年(770)八月称徳天皇崩御されると、参議藤原百川の主導で、左大臣藤原永手内大臣藤原吉継らと結託し、白壁王は皇太子に立てられた。道鏡時代に辛酸を舐めた藤氏には天武系に対してのアレルギーが生じており、怨恨と警戒も大いにあったに違いない。称徳女帝子飼いの右大臣吉備真備らはあくまで天武系にこだわり、天武天皇の孫で臣籍降下していた文室浄三を推挙したが、浄三はこの時すでに七十八歳、今ですら高齢で、当時にしたら仙人のような存在である。無論、浄三自ら皇嗣になることを辞退している。これにて白壁王が光仁天皇として同年十一月に即位され、宝亀改元、御年六十二歳であった。これまで何度も述べてきたが、飛鳥時代から奈良時代にかけては皇位継承は命懸けであった。一方を排除して骨肉の争いを繰り広げた結果、嵐の外で息を潜めていた老年の文室浄三や白壁王しか残っていなかった。何とも皮肉なことである。皇族の男子に生まれた者は皆、いつ何時命を狙われるかも知れず、戦々恐々と生きてゆかねばならなかった。刃を上を歩くが如く慎重に。光仁天皇は七十三歳で崩御されるまで、道鏡を失脚させ、藤原氏の権門復帰を後押しし、寺院、僧尼の統制し南都仏教界と政治の癒着から乖離を試みる。さらに管制や地方行政を改革し、蝦夷のことも棚上げにせずに真剣に取り組もうとされた。

一方、妃であった井上内親王は皇后に冊立され、その御子である他戸親王が皇太子に立太子されたが、 皇后と皇太子は、天皇を呪詛したという疑いで位を剥奪される。これには藤原氏の陰謀説がある。代わりに皇太子となったのが山部親王、後の桓武天皇であるが、山部親王を強く推挙していたのが他ならぬ藤原百川であった。藤原百川藤原式家二代目で、白壁王の頃から光仁天皇の腹心であった。光仁天皇は穏健な性格で、橘奈良麻呂の乱恵美押勝の乱に関与した者の流罪を解いたくらいであるから、井上内親王他戸親王を追い込んだのは藤原氏に違いない。光仁天皇大和朝廷最後の天皇だが、その政治はクリーンなものであった。この後を継ぐ桓武大帝への下地は光仁天皇によって整えられたと言ってよいだろう。

さて、去る十一月十四日の宵の口から、十五日の未明にかけて令和の大嘗祭が滞りなく行われた。その大嘗宮が、今、一般に公開されている。先日、私も見学してきた。大嘗宮は皇居東御苑江戸城本丸御殿跡地に造営されている。平成の大嘗宮もここに造営された。それにしてもあれほど装飾を排した建築を私は知らない。大嘗宮を取り囲む周壁には無数の椎の葉が結界として嵌め込まれ、回廊や殿舎の入口は白布で覆われている。大嘗祭については前回も書いたので詳細は省くが、天皇陛下は向かって右の悠紀殿、続いて左の主基殿において、厳かに大嘗宮の儀を執り行われた。大嘗宮は大嘗祭のためのみに造営されるが、江戸時代までは僅か五日で造営されたと云うから、今より遥かにこじんまりとした規模であった。明治時代の登極令により、大正の御大典からは大規模な大嘗宮が造営されるようになる。此度は悠紀殿や主基殿の屋根を茅葺きから板葺きにし、一部の建物がプレハブになるなど、大正、昭和、平成よりもずっと簡素になっている。一生に一度かもしれないゆえに、冷たい雨が降り頻る中でも、多くの人が来苑していた。このあと大嘗宮は破却されて、奉焼されるが、ここにも日本人の信仰と祈りの原点のひとつを見る思いがする。

青春譜〜花輪高校のモルダウ〜

令和元年の全日本吹奏楽コンクールが終わった。先月触れた淀川工科高等学校は、32度目の金賞に輝いた。今年は課題曲Ⅱ「マーチエイプリル・リーフ」、自由曲がラヴェル作曲のバレエ音楽「ダフニスとクロエ第二組曲より夜明け〜全員の踊り」あった。私は後から音源で拝聴したが、やはり淀工、圧倒的なスケールはライブでなくとも伝わってくる。 私が現役の頃は、吹奏楽コンクールの自由曲ではアルフレッドリードが主流で、少しレベルを緩めてバーンズなどが大いに演奏された。吹奏楽曲は吹奏楽のために書かれた楽曲ゆえに、吹奏楽の魅力を最大限に引き出すことができるし、指揮者も奏者も作曲家の表現の意図や楽曲のテーマを汲みし易いのである。同時に果敢に原曲は管弦楽のクラシックに挑戦する学校もあり、それは今も変わらない。むしろ今の方が、全日本の常連校ではクラシックをやるほうが主流のような気がする。これは原点回帰といえるかもしれない。吹奏楽コンクール黎明期には、吹奏楽曲はマーチやファンファーレの類いが多く、コンクール自由曲はクラシックを吹奏楽にアレンジして演奏されることが当たり前であった。長い日本の吹奏楽の歴史は、今や吹奏楽曲のクラシックと云える名曲も数多輩出したが、一般への認知度となるとやはり管弦楽のクラシックには及ばない。誰もが一度は耳にしたことのあるメロディは、間違いなく聴衆を惹きつけるが、同時に知ってる曲であればこそ良し悪しがはっきりとするから、よりパーフェクトな演奏に期待するのだ。

 定演などで自由に選曲して、時には難しいクラシックをやってみるのと違い、コンクールの自由曲を吹奏楽オリジナルと、クラシックから選択するのは慎重に頭を悩ます。たいていはその時の部のレベルを見極めて、指導者が決定するが、近年は部員に自主性を持たせるために部員で相談して、コンクールを最後に引退する最終学年が決める学校も増えている。 淀工をはじめ日本のアマチュア吹奏楽界の最高峰にある中学や高校及び一般の団体は、決まって果敢にクラシックに挑戦する。コンクールは制限時間12分と定めがあり、課題曲が概ね4分〜5分であるから、自由曲は7分〜8分にまとめねばならない。したがってクラシックもアレンジされる。このアレンジは指揮をする指導者がやる場合が多い。アレンジは非常に重要で、各校の力量が反映され、曲の魅力に大きく影響するから、悩みどころであろう。そうして楽曲を自らの音楽に創り上げてゆくと云うのも、吹奏楽コンクールに挑戦する者、我ら聴衆、双方にとり醍醐味と云えよう。

 私はこれまで多くの吹奏楽部の演奏を聴いてきた。淀工がキングであることは既に書いたが、他にも多くの名門校に魅了されてきた。なかで心に強く残っているのが、秋田県立花輪高校である。花輪高校は十和田湖にも近い秋田県鹿角市にあり、昭和三年(1928)創立と云う歴史ある高校。吹奏楽部の創立も学校創立すぐで、1970年代には全日本常連となり名門校になった。1969年から1992年まで22年連続で全日本に出場し、最高賞の金賞を8度受賞している。花輪高校吹奏楽部を最初に全日本へ連れて行ったのが佐藤修一先生で、佐藤修一先生のあとを引き継がれた小林久仁郎先生も、ハチャトゥリアンバレエ音楽「ガイーヌ」に挑戦するなど、このお二人が花輪高校吹奏楽部の黄金期を創造された。

佐藤修一先生が率いた最初の全日本での自由曲はバッハの「トッカータとフーガニ短調」であった。ここですでにバッハを選曲しているのが凄い。吹奏楽コンクールでバロック音楽の極みのような曲を演奏するなど、よほどのスキルと度胸がいる。佐藤修一先生の時代の自由曲は以下、ムソルグスキー交響詩「禿山の一夜」、A.リードの「パッサカリア」、スメタナの連作交響詩「わが祖国」より「第2楽曲 モルダウ」、リムスキーコルサコフの「シェエラザード」より「第2楽章・カレンダー王子の物語」、ムソルグスキー組曲展覧会の絵」より「プロムナード、古城、バーバヤガーの小屋、キエフの大門」、チャイコフスキー交響曲第1番「冬の日の幻想」より「第2楽章」、デュカスの交響的奇想曲「魔法使いの弟子」より、とリードのパッサカリア以外はすべて管弦楽曲であるが、佐藤先生がロシア音楽に強く傾倒していたことがわかる。中でも私が感動したのが、1972年のモルダウである。私が生まれる前の演奏で、音源はOBの方が保存している貴重なものを、運良くインターネットにアップしてくださっていたので拝聴できた。モルダウは個人的に愛聴しており、CDでカラヤン指揮のベルリンフィルで親しみ、その後吹奏楽部でも演奏し、大人になっていろいろなオーケストラから吹奏楽のいろいろな楽団で聴いてきた。スメタナはこの曲を描いた頃には聴力を著しく失っていたが、彼の中では母なる大河モルダウの情景は生涯忘れがたく、源流から河口までの緩急と川音は常に鳴り響いていたに違いないのである。それがモルダウと云う美しく壮大なる楽曲を生み、彼の中に響く音そのものなのである。さまで崇高なる音楽となれば、奏でる管弦楽はもとよりかなりのスキルを要する。まして吹奏楽で演奏することは至難の業である。並の楽団ではよほどの力と度胸がなければ、大概は失敗するであろう。

そんな世界的に超有名なモルダウを1972年の花輪高校吹奏楽部は完璧にやってのけているのだ。あの切なくも優美なるモルダウの主旋律と世界観や壮大さは、花輪高校の吹奏楽においても少しも欠けていない。オーケストラ並のスケールである。それでいて高校生らしい潑剌さも、川面から水しぶきが跳ねるが如くに迸る。私はこの音源を何度聴いたか知れないが、いつも感動する。人を感動させる音楽は千差万別であるが、この時の花輪高校吹奏楽部のモルダウは、そこにいた聴衆全員を惹き込んだに違いない。結果は金賞であった。1972年の花輪高校のモルダウは、日本の吹奏楽の可能性を大きく開いたと私は思う。続。