弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

しばし休筆のお知らせ

新年、あけましておめでとうございます。 年明けより長年挑戦したかった小説の執筆にとりかかります。 ゆえ、当ブログはしばらくお休み致します。足掛け六年このブログを続けて参りました。むろんここでやめるわけではありません。私はこれからも自由にこの…

皇位継承一大乱前夜一

平安時代の天皇は概ね三十代から四十代の壮年で崩御されている。現代では働き盛りであるが、平均寿命が今よりはるかに若い当時、世の人々はだいたい四十代で亡くなることが多かった。人生五十年は本当のことで、そもそも人間の定命とはそのくらいなのであろ…

なおすけの古寺巡礼 腰越満福寺

此処は腰越。京から鎌倉に至る玄関口にあたり、江ノ島は目と鼻である。江ノ電の腰越駅から歩いて3分ほどの小高い場所に満福寺は在る。天平十六年(744)、行基による開山で鎌倉屈指の古寺である。 西海に墜えた平家に代わり、源氏の世が始まろうとしていた…

なおすけの古寺巡礼 龍口寺

鎌倉と藤沢の境目に在る日蓮宗の古刹。江ノ電の江ノ島駅の傍らに在って、車窓からも大寺とわかる。私はかつてこの門前に暮らしたことがあるが、朝夕の鐘を聴きながらも、日蓮にさほど関心がなかった若かりし当時、一度も参詣しておらず、此度改めて御参りし…

寒川神社

かねてより「相模の寒川さんは凄い」と聞いていたので、一度は参拝したいと思っていたが、私の今の住まいからは1時間くらいでゆけることを知って、先月、ようやく参拝した。創建がいつか定かではないと云うたいへん古い社だ。祭神は寒川比古命、寒川比女命の…

なおすけの古寺巡礼 大雄山

先月まさに錦秋の候、私は大雄山最乗寺に参詣した。私は神奈川県も方々歩いたが、南足柄市に降り立つのは初めて。”足柄山の金太郎”で有名な場所だ。小田原から大雄山線に乗って20分、終点の大雄山からはバスに乗って10分ほどで着くが、周辺はまことに長閑な…

なおすけの古寺巡礼 原当麻の無量光寺

JR相模線に原当麻(はらたいま)と云う駅がある。当麻と云えば大和にある當麻寺が思い浮かぶが、私が今棲んでいる武相地域には原当麻のほかにも、大和、奈良、岡上、三輪、小野路、香具山、竹内など大和に通ずる地名が多い。かつて武蔵や相模に国分寺が造ら…

皇位継承一悪左府頼長一

強力な院政を布かれた白河院は、平安時代の終幕を彩る多くのキャストを輩出された。主役となるのは鳥羽天皇、崇徳天皇、そして平清盛である。平清盛については後でまた改めて触れるが、白河院の落胤であるとの噂が絶えず、今もって賛否が分かれる。白河院時…

多摩丘陵に棲む〜禅寺丸と王禅寺〜

都心から多摩丘陵へ越してから、一番困ったのは和菓子屋が少ないことだ。茶を点ててお供の和菓子は欠かせない。仕事帰りに都内の菓子屋で購入して帰ることが多いが、このあたりにも和菓子屋はなくはない。京都や東京の老舗や有名店も良いが、地域密着の和菓…

皇位継承一待賢門院璋子一

平安朝最強の専制君主となられた白河院は、その揺るぎない権勢における実害を身内にまで及ぼされ、さらには平安朝の終焉を導くきっかけを御自ら作られてしまわれる。堀河天皇が崩御されて五歳で皇位を継がれた鳥羽天皇は、祖父白河院の薫陶は受けたが、いく…

なおすけの古寺巡礼 鎌倉瑞泉寺

今年の初夏、久しぶり鎌倉へ出かけた。鎌倉には何度行ったかわからないが、まだ見ぬ寺がある。瑞泉寺もそのひとつである。鎌倉駅や北鎌倉駅周辺、長谷や海岸沿いの寺はほとんど訪ねているが、まだ見ぬ寺はそれらとは逆の鎌倉の奥地にある。鎌倉では谷のこと…

皇位継承一白河院政一

平安貴族の長藤原氏の藤原氏による藤原氏のための政治は終焉を迎えた。期せずして新たに権力を掌握し強固な実権を握ったのが白河天皇であった。ことに譲位されて上皇となられてからの権勢欲は凄まじいもので、およそ四百年も続いた平安時代において白河院ほ…

武蔵御嶽神社

浅田次郎さんの小説に『神坐す山の物語』と云う作品がある。武州青梅に座す”御岳山”にまつわる奇々怪々な説話の短編集で、数ある浅田作品で私が一番好きな本だ。母方が武蔵御嶽神社の神官の家柄と云う浅田さんは、少年時代にしばしば御岳山に登り、宿坊に起…

皇位継承一前九年•後三年の役一

藤原頼道が関白を降りた翌年、治暦四年(1068)後冷泉天皇が崩御された。後冷泉天皇に皇子はおられず、異母弟の皇太弟尊仁親王が践祚、後三条天皇として三十五歳で即位された。頼道の後は弟の教通が関白を七十三歳と云う高齢で継いだ。しかし、天皇との外戚…

多摩丘陵に棲む〜夏極楽〜

梅雨明けの昼下がり、私はまたまた薬師池公園へ出かけた。この時季は、蓮華が盛りを迎えている。薬師池の下には大きな蓮田があって、池一面にびっしりと大賀ハスが植えられている。大賀ハスはハスの権威であった植物学者の大賀一郎博士が、千葉の検見川遺跡…

皇位継承一平等院鳳凰堂一

いよいよ藤原道長が世を去る時がやってきた。道長は死の二年前から東宮妃嬉子、小一条院妃の寛子、子息でただ一人僧籍に入っていた顕信、そして皇太后姸子の四人の子女に相次いで先立たれている。道長の悲嘆はいかばかりであったか。この頃道長は還暦を迎え…

なおすけの古寺巡礼 下野紀行

下野薬師寺 坂東平野の真っ只中にある栃木県下野市。此処は昔、下野国の中心地であった。今も街道筋には白壁の塀や蔵がある古い町並みが遺っており、たしかに歴史ある境域だと実感する。元は毛野国(けぬのくに)と呼ばれていたが、いつしか都に近い方を上野…

一皇位継承一源氏物語一

権勢を極め尽くした道長は政権運営にあたり、廟堂を意のままに操った。『小右記』 には「右衛門督以下恪勤上達部伺候云々、以七八人上達部世号恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟」とある。右衛門督とは斉信のことで、左府が左大臣道長のこと。要するに「斉信以外…

多摩丘陵に棲む~菖蒲と紫陽花~

初夏。多摩丘陵もみどりあざやかな時季に。鳥の囀りを携えて散策の日々。自宅から歩いて5分ほどの場所に”栗木緑地”がある。多摩丘陵の尾根道のひとつで、木々が生い茂るが、道が整備されているので、市民憩いの遊歩道となっている。時折、視界が開ける場所…

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと②

宝泉寺 中央線の日野駅のほど近くに鎌倉時代創建の静かな禅寺が在る。宝泉寺と云い、此処に新選組六番隊組長井上源三郎は眠っている。井上源三郎は、文政十二年(1829)、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として日野の地に生まれた。十八歳で天然理…

一皇位継承一 一家三后 一

この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば あまりにも有名な藤原道長絶頂の歌である。この歌が詠まれたのは、寛仁二年(1018)十月十六日の夜のことと、道長と同時代を生きた藤原実資の日記『小右記』にはっきりと記されているから、確か…

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと①

龍源寺 三鷹市の野川公園の近くの人見街道沿いに、慎ましい佇まいをみせる龍源寺がある。此処に新選組局長近藤勇の墓が在る。近藤勇の墓と称されるところは方々に在るが、此処が菩提寺である。近藤勇は天保五年(1834)、武州多摩郡上石原村(調布市)の豪農…

皇位継承一藤原道長一

藤原道長は摂関政治の完成を実現した。平安と云う時代を代表する人物であり、まさに王朝時代の申し子であったと云えよう。祖父、父が敷設したレールの上を着実に歩んできた道長だが、当初はその本線ではなく支線であった。しかし、兄二人の相次ぐ急死と、本…

多摩丘陵に棲む〜花だより〜

桜は人を酔わせ、惑わせ、狂わせる。 かくいう私も花の便りが聴こえ始めると、つい浮き足立つ。平静を装うふりをしても無駄で、今年何処の花に逢いに行こうと想いを巡らせる。毎年のことだ。 多摩丘陵はそこかしこ桜が植わっている。実際、私の自宅付近もソ…

皇位継承一七日関白一

藤原道隆が亡くなったのは当時流行していた赤斑瘡(あかもがさ)という疫病によるらしい。この病は麻疹だとか。長徳元年(995)のことで、夏には空前の猛威をふるったと云う。道隆の後は嫡男の伊周が継ぐものと、道隆も伊周もその周辺も思っていた。道隆のあ…

多摩丘陵に棲む〜梅ヶ枝〜

週末は自宅近くの多摩丘陵を歩こう。『きつねくぼ緑地』は、バスで毎朝前を通るので気になっていた場所。散歩がてら入ってみた。鶴川街道沿いの入り口を入ると、空気が変わった。武蔵野の面影を多分に残す雑木林や竹林には、たしかに今も狐狸が棲む雰囲気が…

十年

あの日から十年の歳月が流れた。平成23年3月11日14時46分、私は東京中野、自宅近くの商店街で買い物をしていた。あの日は金曜日だったが、仕事は休みであった。携帯で九州の母に電話をかけながら、八百屋で野菜を見ていた時、店の窓がカタカタと鳴…

皇位継承一中関白家一

前回、平安時代の摂関政治を代表する人物藤原道長がついに登場したが、少し話を戻そう。平安時代も此処からが山である。よって少し丁寧に紐解くことにする。そして道長がどのようにして政権を掌握し、また彼の栄華の頃がどんな時代であったかをしばらくは見…

多摩丘陵に棲む〜物を持たぬ暮らし〜

引越しにあたり、私はずいぶん断捨離をした。もうこれでもかと云うくらいに捨てた。新しい場所では、蔵書と茶道具以外はほとんど要らないと云う勢いで捨ててみたけれども、まだけっこうある。引越しは暮らしを見直すには実に有効かつ最大の手段である。掃き…

皇位継承一西国巡礼一

年が明けて令和三年。まだ平安時代である。この連載を書き始めて二年になるが、一年前に平安時代に入って、ようやく平安時代半ばにきた。私の余談も挟むゆえなのだが、何せ平安時代は四百年も続いたのだから、まだまだ先は長い。 今回もハナから余談。私は一…