読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

観音の里

近江にはずっと強い憧憬がある。歴史に想いを馳せるとき、私の心はいつも近江に向かう。古代より近江を制する者が天下人となった。近江宮を造った天智天皇も、それを廃都に追い込んだ弟の天武天皇も転機は近江の地であった。信長や秀吉は近江から天下取りの礎を築いたし、家康も近江は西国と東国を結ぶ蝶番と心得ていた。そして私が日本史上もっとも敬愛する井伊直弼のふるさと、彦根が近江の真ん中にある。

淡海の海 夕波千鳥汝が啼けば 心もしのに いにしえおもほゆ

このあまりに有名な人麻呂の歌を、私は中学二年の古典の授業で覚えた。歌を覚えてからしばらくは、茫漠たる琵琶湖は想像できても、果たして広大無辺な近江に近づくことはできなかった。だが、いつかは戦国の夢のあとや、幕末動乱を生きた人々を辿る旅をしたいと思っていた。後に白洲正子さんの「かくれ里」や「近江山河抄」を愛読するようになって、近江に少しずつ迫っていけるようになった半面、その奥の深さに気づき、圧倒されて、また遠ざかるといった感じである。近くて遠い。容易には掴めない。近江は私が生涯をかけても掴みきれぬ土地であることを思い知ることになった。謎めいた近江に、私は白洲正子と同じように取り憑かれている。

近江は仏像も光芒を放っている。奈良や京都のような洗練された感じはないが、近江のほとけさまは、寺で拝む木仏にも野山に憩う石仏にも言い様のないうぶさがある。それは奈良や京都の王侯貴族や権力者によって培われてきた仏教美術に対して、いかにも名もなき市井の人々の信仰によって造られて、守られたきた土着のほとけたちである。ことに湖北は古くから観音信仰厚きところで、高月の渡岸寺の十一面観音は有名だ。私にとっても観音像の中では一番であり、好きな仏像を挙げても五指に入る。この至高の観音さまが千年以上もひっそりと里人に守り継がれてきたことに私は胸が熱くなる。

先日、芸大美術館で「びわ湖・長浜のほとけたち」という展覧会を見てきた。長浜といえば、私などは真っ先に小谷城長浜城、賤ヶ岳や余呉湖を思い浮かべる。信長や秀吉の天下取りの舞台としてイメージするのだが、一方で長浜は観音の里としても昔から知られたところであった。昨今の仏像ブームも手伝い、東京でも近江の仏像展は何度か開かれており、この展覧会も二度目であった。 最近は上野公園の一角に、「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」なるスペースもできている。天海大僧正が江戸の鬼門の守護として建立した東叡山寛永寺。今の上野公園一帯は全山寛永寺の境内であった。西の比叡山から天台総本山をこの地に移した時に、琵琶湖に見立てたのが不忍池だ。蓮池に浮かぶ弁天堂は竹生島。そんな不忍池のほとりに、平成の今日、長浜の観音様がおられるというのも誠に心にくいが、実にこれ以上のロケーションは東京にはあるまい。

さても展覧会は圧巻であった。合計五十体近くもの仏像が居並ぶと、少々異様であったが、どのほとけさまも純朴な印象で、庶民に守れてきたあたたかみを感じた。なかでも石道寺の躍動感溢れる多聞天持国天は、生き活きとしてすばらしい。石道寺といえば、やはり十一面観音が有名だが、この展覧会の期間中、寺を守る屈強な二天が不在の近江で、待っておられる観音さまは、さぞや心細かろうと思ったりした。

湖北の菅浦を紹介する展示もあった。肉厚の阿弥陀如来座像は力士の如く逞しかった。長くつらい湖北の冬に閉ざされた人々は、あの阿弥陀さまに身も心もすがりつき、心細さの拠り所としたことであろう。荒々しいけれどもどっしりと力強い。きっと阿弥陀さまも人々を暖かく包んでくださったに違いない。「菅浦絵図」も見ることができた。鎌倉時代の菅浦地区の自治境界線を示したこの絵図は、白洲さんが「かくれ里」で紹介されている。白洲さんはその絵図に惹かれて、湖北や菅浦に行ってみたくなったというが、本当に一刷毛で湖北の風景を表現したこの絵図を眺めていると、私も近いうちに菅浦に行って、村の境界線や須賀神社淳仁天皇の伝説、そして目と鼻の間に望む竹生島を見てみたいと思った。

展覧会の最後まで来て私がもっとも感銘を受けたのは、安念寺の芋観音である。朽損仏と呼ばれるもので、手先や腕、胴体が欠けて原形はほとんど留めずに朽ちてしまっており、掘り出したばかりの芋の様なお姿のため芋観音と呼ばれる。安念寺はもともと七堂伽藍を持つ天台宗の大きな寺院であったが、姉川、小谷城と二度の合戦を経て、ついに賤ヶ岳の合戦の折にその伽藍は焼失した。しかし、仏像は信仰の篤い村人たちが、寺から運び出して、川底や田んぼの中に埋めて罹災から守ったとのこと。戦国の世が終わってずっとあとの江戸文政年間に、田の中に埋められていた諸仏を子孫たちが掘り出して、余呉川で洗い清め、借りのお堂を建てて仏像を安置したのが今の安念寺だという。こういう時を超えた村人の信仰心に、私は感動せずにはいられない。これこそが日本仏教本来の信仰のかたちだと思う。歴史好きはついつい戦国乱世に、ある種の浪漫を感じるもので、名におう私もその一人であるが、戦は信仰も奪う。こういうものを見ると、やはり平和を守ることは大切なことだとつくづく思う。それは伝承や信仰を、日本文化をも守ることであり、そこに生きる人々を守ることである。  

近江は石の都でもある。日本国中これほど石の文化が根付いて、穴太衆の卓越した石工技術を継承し、全国に派遣してきた土地もあるまい。一方で寒冷かつ湿潤な風土である近江では、あたたかな木の文化もまた大きく育まれてきた。木地師と呼ばれる木工人が、日本の衣食住を根底から支えていた。近江を大きく分ければ、琵琶湖を中心に湖東、湖南、湖西、湖北の四つの地域になり、それぞれが風土や色彩が微妙に異なる仏国土を形成している。近江は広い。或いは信楽甲賀、葛川や比良山の麓、伊吹山、若狭の入り口までも加えるともう宇宙である。私は近江に憧れてはいるが、専門家ではなく、研究をしているわけではない。近江の歴史と土着の風習と信仰の賜物にただただ興味津々なのである。さながら日本という国の縮図をそこに見出す様だと言いたいが、そんな簡単な言葉で片付くようなところではない。白洲正子は「近江は奈良や京都の舞台裏」だと言った。実に当を得ていると思う。次はいつ、私は近江に近づけるであろうか。