弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 川崎大師

仏教が誕生して二千有余年。あと数十年すると日本へ仏教が伝来して千五百年を迎える。日本人は仏教から多くのモノを得てきた。信仰、経典、美術、音楽、文学。四方の海に囲まれた敷島に、仏教は大陸の文化を運んできた風であった。その風は時に嵐の如く荒々しく、時にはそよ風のようになびきながらこの国に根ざしてきた。日本には古代から八百万の神々がいたが、仏教は土着の神と喧嘩をせず、静かに共存する道を選んだ。正確に言えば、まったく争いがなかったわけではないが、互いに付かず離れず上手に付き合ってきたのだ。連綿と紡がれてきたその理由は何か。信仰だけではあるまい。いや、真実はただ信仰のみなのかもしれない。答えは永遠に見つからぬかもしれないが、ひとまず私なりに探しに行こうと思う。日本仏教の本山と呼ばれる寺院を訪ねてみたい。私はかねてよりずっとそう思ってきた。すでに何度も訪れている寺院も、まだ一度も行ったことがない寺も、宗派を問わず本山寺院を巡礼し、日本仏教とは何かを確かめてみたい。そして二十一世紀の日本仏教を肌で、心で感じる旅である。いつ終わるとも知れぬ長い旅であり、生涯のライフワークとなるであろう。

私は個人的には寺院の大小にはあまり関心はなく、東大寺のような巨大伽藍にも圧倒されるし、浅草寺のような庶民信仰の寺も心惹かれる。また、高野山大徳寺が擁する子院や塔頭にも趣き深い寺が多くある。むしろ好ましいのは江戸や京都の一隅で肩を寄せ合うように立つささやかな寺や庵である。しかし、この旅ではあえてそういう自分の趣味で行きたい寺ではなく、本山を訪ねる旅としたい。本山に行けば、その宗派の根本が何かしら掴めるのではないか。ひいては日本仏教が生き続けて来た意味がわかりはしないだろうか。という至極単純な思いつきなのだが、果たしてどうだろうか。そしてこの旅を通じて自分自身の信仰心を突き止めたいのだ。菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、そもそも仏教に関心を抱くきっかけとなったことは自覚している。数年前には東京生活のすべてを放り出して、一人高野山の宿坊で働いた。だが果たして、それがきっかけで信心深くなることはなかった。これまで信仰心は希薄であったと思う。寺を訪ねても、先祖の墓参りでも熱心にお経をあげることもなかった。寺巡りを始めたのは歴史が好きで、それが昂じていつのまにか日本仏教にも関心を抱くようになったからだ。熱心な信者の方からすれば、にわか物見のような輩なのである。それでもここ最近は、自分が死ぬ時はやはり南無阿弥陀仏真言を唱えるであろうし、私を生涯守護するのは般若心経だと強く思うようになってきた。ここで改めて歴史的興味だけではなく、その寺、宗派に息づく信仰、日本仏教の信仰の形を再発見してみたい。

私は日本の仏教寺院の特色は三つに分けられると思う。

一、先祖の永代供養と葬祭を引き受ける菩提寺
二、祈祷を行い縁日や開帳、祭祀を行う祈願寺
三、座禅や作務から己を見つめ、心身修養を行する禅寺

どの寺院も私にとっては違う魅力があるが、これから向かう巡礼ではこの三つの観点をしっかりと学び、確認しながら、私なりに日本仏教の本質を考えてみたい。順番は向かうところ気の向くままに、全国各地の本山を訪ねていく。日本には本山と呼ばれる寺院がおおまかにわけても七十余りある。そのすべてを訪ねることは容易ではないが、一歩ずつ進んで行こう。そして創建年代は仏教伝来から江戸時代までとする。故にこの巡礼は極めて私の個人的な選定であるが、これを「私の本山巡礼の旅」としたい。

はじめに選んだ寺は川崎大師である。川崎大師には若い頃、近くに友人が住んでいて何度も行ったのでよく知っている。本当はここから程近い鶴見の總持寺からこの本山巡礼を始めるつもりだったが、總持寺の拝観まで少し時間もあり、この巡礼に同行してくれるT君も川崎大師はお参りしたことがないと言うので、ちょっと寄るつもりで行ってみた。私自身も十四年ぶりのお参りであった。改めてじっくりとお参りしてみると、この寺が経てきた長い歴史や格式をまざまざと感じることになった。いかにもこの巡礼の最初に相応しいではないか。それにこの寺は真言宗智山派大本山と掲げている。よって川崎大師からこの巡礼をスタートすることにした。

川崎大師は大治三年(1128)高野山の尊賢上人によって開かれた。正式には金剛山金乗院平間寺と号する。尊賢上人は高野聖として諸国を巡っていた折、多摩川近くのこのあたりである漁師と出会う。寺伝によれば、漁師は名を平間兼乗といい、元は尾張の武士であったが、父の兼豊ともども無実の罪に問われ、生国を追われてこの地に流れてきた。貧しく漁師暮らしをしていたが、兼乗は弘法大師を深く崇拝し、日夜祈願していたところ、ある晩、夢枕に空海と思しき僧が立ち「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられた。翌朝ただちに海に出ると、光り輝いている場所があり、網を投じ引き上げると、果たして弘法大師の木像であったという。尊賢上人はこの霊験を聞いて感涙し、兼乗とともに寺を建立、本尊として木像を祀った。平間寺はこの平間兼乗の姓からで、このあたりは夜光町と呼ぶようになった。今も寺から海の方に少し行ったところに夜光という地名がある。そういえばここより多摩川を少し上流に行くと、平間とか矢向という地名があり、南武線の駅名にもなっている。ひょっとするとあのあたりもかつては寺域だったのであろうか。だとすれば相当に広大であり、頼朝の昔から徳川将軍家まで一目置かれた寺院であったことも頷ける。これが川崎大師の縁起であるが、だいたい日本の寺院創立の起源にはどこも似たような話が多く、ことに弘法大師はこういう話には枚挙に暇がない。すべてを鵜呑みにはできないが、それでもこれだけ長い間人々の尊崇を集めてきたのだから、一概に伝説という言葉だけでは片付けられないと私は思う。

本堂の大屋根には菊の御紋が輝いている。皇室の勅願寺であるため、特別に許されているのだという。これまで戦災や災害で度々焼失してきたが、そのたびに力強く復活してきた。戦後も少しずつ伽藍を復興していき、ついに平成十六年の経蔵の落慶により、七堂伽藍が整った。山門、本堂、八角五重塔も大きくて圧倒されるが、異彩を放つのがインドの寺院を模した薬師殿だ。ここはもともとは自動車祈祷殿であったが、平成十八年に大師線の線路を挟んだ多摩川のほとりにこの薬師殿と同じ様式で一回りほど大きい新自動車祈祷殿が落慶し、こちらは薬師如来を祀る薬師殿となった。この薬師殿では静かに仏教音楽が流れ、香が焚かれている。薬師如来の住むといわれる東方浄瑠璃浄土を再現してあるのか、蒸し暑い晩夏の昼時、ここだけは爽快な空気に満ちていて、眠気を誘う心地がした。 新自動車祈祷殿には毎日たくさんの人と車が交通安全祈願にやってくる。京浜工業地帯のど真ん中で、川向こうの目と鼻にある羽田空港からは頻繁に飛行機が離着陸している。そんなところに川崎大師はある。大師といえば弘法大師。ここはつくづく弘法大師の寺。大師信仰の坩堝と言ってもよい。京急大師線、多摩川にかかる大師橋、首都高の大師インター、大師パーキングエリアまで大師の名を冠している。また、全山が平坦で全国の寺院でもここほどバリアフリーな寺もないのではないか。私は山寺が大好きであるが、こういう街のど真ん中にある寺は、我々の最も近くまで下りてきていて、世俗にどっぷり浸かっているところがありがたい。空海衆生を救わんという願いに呼応していて、これが空海仏教の本来の姿なのではないかと思う。

川崎大師の近くには若宮八幡神社があるが、そこに金山神社という社がある。奇祭「かなまら祭」で有名な神社だが、この社の御神体は鉄でできた男根なのである。境内にはあちこちに男根を象ったモニュメントがあり、思わずはにかんでしまうが、ここまで堂々と存在すると、いやらしさなどは微塵も感じない。日本人は記紀の時代からこうしたものを神聖視してきた。巨石や大樹は男性器や女性器に見立てられ、陰陽石とか胎内くぐりと称して各地に残っている。豊作、子宝、安産、子孫繁栄という切なる願いが込められており、一概に猥雑なものと決め付けるものではない。境内には幼稚園もあり、子供たちが運動会の徒競走の練習をやっていた。あんなに小さいのに、きちんと並んで、走る順番を待つ。そして自分たちの出番が来たら懸命に走る。微笑ましく思うとともに、今も昔も日本の神仏は私たちのすぐ近くで見守っているのだとつくづく思った。

川崎大師は、参道を歩いてみても庶民信仰の寺だという印象が強いが、代々国家権力の祈願所でもあり、やはりそこは真言密教の道場の一つでもある。成田山新勝寺高尾山薬王院と並び真言宗智山派の関東三山であり、西新井大師、香取の観福寺とともに関東の厄除け三大師とも称される。この「厄除け」がこの寺の根本使命であり、あまねく土地から人々が詣でてくる由縁なのである。毎日七度から八度も、護摩修行が行われ、本堂には十数人の僧侶の読経がこだまして護摩の炎が焚き上がる。この度私たちも護摩修行に参列する機会を得た。密教法具で何というか私は知らないが、鉦や鈴を鳴らして、灯明から火種を摂り、護摩壇にくべる。僧侶たちの声明はまるで荘厳な管弦楽のように聴こえてくる。やがて大太鼓と読経の声が乱舞するが如く響き渡り、その声と音が大きくなるに連れ、護摩の炎も大きく高くなってゆく。焔、太鼓、読経のすべてがピークに達すると、井桁に積まれた人々の願いは、黒煙ともにへ天へと昇る。そこで弘法大師衆生を救わんという願いと交わるのであろう。

読経の続く中、私たちも本尊の前まで案内されて、真下で弘法大師空海に手を合わせた。その時である、私は頭のてっぺんから雷に打たれたような感じを受けた。こういう護摩焚きにはこれまでも方々で参加したことがあるが、今回はこれまでとは違う何か特別なものを感じたのだ。先に述べたが、私はいっとき高野山で暮らしたことがあり、これまでも方々の真言密教の寺を訪ねてきた。それは弘法大師空海という人物に並々ならぬ関心を寄せてきたからで、常々一人の日本人として、この国に空海という天才がいたことを誇りに思ってきたからだ。だが同時に当然のことながら空海には容易に近づくことはできないでいた。今でもそうだ。あまりにも大きすぎる存在なのである。それがこの日、川崎大師の本尊前まで歩み寄り、手を合わせた瞬間、私は初めて、少しだけ、ほんの少しだけ空海に近づけたような気がした。同行二人。これが結縁と信じて、私はこれから日本仏教の本山を訪ねる旅を続けて行こうと決心した。