弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

文学VS音楽

今年のノーベル文学賞にボブディランが選ばれた。正直驚いたが、ノーベル委員会もなかなか粋なことをするなとも思う。文学賞は世界中に数多くあるが、ノーベル文学賞はもともと少し異色な気がする。そして今回のボブディランの受賞。さもありなん、世界的権威のノーベル賞が真っ先に革新的な選考をしたことが何とも気持ちが良い。私はボブディランをよく知らないが、「Blowin'The Wind~風に吹かれて~」という曲は好きだ。というより、私はそれしか知らないのだが、この曲はアメリカンフォークソングの極みともいえる一曲であろう。反戦歌であるが、どこか仏教的な慈悲や悟りの境地までをも内包したかのような詞が印象的である。そして風に吹かれて生きていたいという想いは、人間誰もが心に抱き、人生において何度か感じるものであろう。いやもしかすると私たちは、いつも風に吹かれて生きているともいえなくもない。この曲には、詞にも曲にもそういう隠者の孤独の魂と、それへの憧れが凝縮されているように私は思う。

そして改めて痛切に感じたのは、やはり文学は音楽には敵わないのかという、少しばかりやるせない気持ちだ。およそ芸術を一括りになどできないし、するものではないが、やはり音楽には敵わないのだろうか。確かに、文学は読者に読むという作業を強いなくてはならない。これが長編や文献や古典ともなれば、ある種の苦痛すら伴うこともある。好きで読むならば、それもまた楽しであれど、無理強いさせられたのでは、ますます読み手は遠のいてゆく。今もあるのか知らないが、小中学校の読書感想文などはその典型であろう。感想文を書かねばならぬ為に本を読むなど苦行に等しい。その点、音楽はまず耳から入ってくる。歌詞と音が調和し、聴き手の脳髄に響いた時、人と音楽は融合してその詞の世界に入りこむことができる。これが現代音楽の真骨頂だと思う。

ボードレールは言った。「私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家と考える」と。小林秀雄は言った。「音楽における浪漫主義運動は、いわば文学からその富を奪回しようという運動であった。音楽は詩を食べて肥ったが、詩は音楽という魔に憑かれて痩せた」と。ボードレール小林秀雄も、文学の最上位は詩であり、その後に小説などの散文、批評が続くのだという。活字離れが叫ばれて久しいが、実はすでに十九世紀から始まっていたのだ。崩壊とか瓦解とかいうものとは違うが、果たして今、文学と音楽は共存できているのか。またこれから共栄できるのであろうか。音楽に圧倒的な差をつけられているような気がするのは私だけであろうか。ここでノーベル文学賞をシンガーソングライターが受賞したというのも、またいっそう拍車がかかるであろう。ただ、そうとも限らないと私は信じたい。これを天晴れな警告と受け止め、世界中の文士文豪が決起することを私は切に望む。不肖柳橋も、その末端の端くれの端くれとして、奮起奮戦すること厭わぬ所存である。