読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 總持寺

これまで日本各地の寺を訪ねてきた。私は初めて訪れる土地に行く前は、仕事であっても、遊びであっても、必ずその土地の地図を見る癖がある。土地の歴史や史跡、寺社を調べて、時間が許せばちょっと訪ねてみようと地図を広げる。思えば私は地図を見ることは幼い頃からの趣味であった。唯一の趣味といえるだろう。歴史を学ぶこと、史跡や寺社を訪ねること、読書、美術鑑賞などは、自身の明日への糧として培っているものであり、趣味ではない。この夏からは茶の湯の稽古をはじめたが、茶の湯は心身修養であり、決して趣味ではない。地図は気楽で楽しい。眺めているだけで、私はいつでもその場所へ行ける。日本地図も世界地図も飽くことなく延々と眺めていたい。この本山を巡る旅も、地図を眺めながら目的のお寺を訪ねるだけではなく、時に道草を食いながらになるだろう。

川崎大師を後にして、私とT君は鶴見の總持寺へ向かう。私もT君も方々の寺を訪ねてきたが、總持寺にはついぞ行ったことがない。私はかつて横浜の磯子に住んでいたが、一度も行く機会がなかった。電車の窓や首都高横羽線から總持寺の大屋根が見える度に、横浜にもあんな大寺があるのかと感心していた。そのあと都内へ移ったが、總持寺は今の私の住まいからは、中途半端な位置にあるのだ。都心部の寺ほど近くもなく、多摩地区よりもアクセスが不便。私の家から京浜地区には品川方面へ回るか、南武線で川崎へ出るか、いずれも回り道なのである。そしてどうせ横浜方面へ出るならと、鶴見を通り越して鎌倉へ向かってしまう。でも、總持寺永平寺と並ぶ曹洞宗大本山であることは知っていたので、どうしたって行かねばと思っていた。 鶴見駅の周辺は今では京浜工業地帯の真っ只中であるが、江戸の頃は海を臨む東海道筋であり、少しばかり寺社が点在したが、静かな漁村であった。ここより少し横浜方面へ行くと生麦がある。幕末、文久二年八月二十一日、薩摩藩国父の島津久光率いる行列が、東海道を西へと上っていた。久光は幕政改革を唱え意気揚々と江戸へ乗り込んだが、目論みはあえなく潰えてしまい、失意の道中であった。そんな鬱屈した行列と、横浜の居留地から、馬を駆った四人の外国人がすれ違う。四人は川崎大師へ向かうために東海道を下っていたという。薩摩藩の供回りが下馬するように言ったが、相通じず、四人はそのまま乗馬で進行、その後、あまりに藩士が激高するので引き返そうとしたところ、いきなり藩士数人が斬りかかり、乗じて銃声が響いた。女性一人は流れ弾がかすめたが無傷で、何とか居留地へ舞い戻ったが、他三人は負傷。そのうち英国商人のチャールス・リチャードソンが深手を負い死亡した。これが生麦事件である。この事件は薩英戦争の火種となり、英国は徳川幕府にも多額の賠償金を請求。幕府瓦解のいったんとなったのは間違いない。この頃から、このあたりの景色も様変わりしていく。横浜開港後は急激に開発が進み、東海道は文字通り明治維新の大動脈となっていった。明治五年(1872)新橋横浜間に鉄道が開業し、鶴見駅が設置されたことも、このあたりの都市化に拍車をかけた。それから百五十年余り、今では鶴見地区は日本を代表する工業地帯となっている。

話もついつい道草を食ったが、そんなところに日本の禅宗の一翼を担う曹洞宗大本山總持寺の伽藍が甍を並べている。ここは横浜屈指の大寺院である。総門を入り、緩やかに坂を上がると、堂々たる三門が高く聳えている。通称鶴見が丘と呼ばれる山上は、そのまま天へと抜けるように広大で、七堂伽藍が整然と配されている。いかにも禅宗大寺院の風格を備えているが、それに威圧されるというよりも、何か心身をズドンを打ち抜かれるような感覚だ。残暑厳しい中にお参りしたが、境内は意外に緑が多く、禅宗大本山の霊気が涼やかな風を運んでくる。道元禅師によって開かれた曹洞宗は、四世螢山禅師によって広められた。道元は越前に永平寺を開き、螢山は能登總持寺を開いた。 私は二十年ほど前に能登總持寺祖院を訪ねたことがある。どんよりとした暮れの寒い昼さがりであった。日本海は冬の荒々しい波飛沫が、繰り返し岸壁に押し寄せていた。そんな日であったからか、祖院の境内は静寂であった。その時は曹洞禅にさほどの関心もなく、一回りしただけであったが、静かな山内は清清しく、いかにも北陸の寺を思わせる力強くも楚々とした佇まいが印象的であった。付近には門前町というより、寺内町といった風の町並があり、あの地域の人にとって總持寺は今も大きな存在であることがうかがえた。

開山の螢山禅師は鎌倉時代末の文永五年(1268)越前国坂井郡多禰というところに生まれた。弘安三年(1280)十三歳で永平寺二世の孤雲懐奘について得度し、三世の徹通義介について修行をつんだ。十八歳の時、大野の宝慶寺の寂円に参じ、京の万寿寺東福寺さらには紀州の興国寺で、五山派臨済禅を学んだ。やがて越前に戻り、加賀大乗寺に入りさらに禅の修行に打ち込む。一度、阿波国の城満寺に住したが、三度越前へ戻り、大乗寺二世となった。四十三歳で大乗寺を退き、加賀の浄住寺に入ったが、正和二年(1313)熱烈な支持者である能登の滋野信直夫妻に寄進された土地に永光寺を開いた。ここまで見ても流転の僧といった感があるが、曹洞禅のみではあきたらず、臨済禅も学ぶなど、この螢山という人はとても広い心の持ち主ではなかったか。ここに曹洞宗が広がり、今では日本仏教第二位の檀信徒を抱えることになる萌芽があったと思う。

では總持寺はいかにして開かれたのだろうか。かつて奥能登の櫛比庄に霊験あらたかな観音を祀る諸嶽寺という寺があった。元享元年(1321)四月十八日の晩、この寺の住職定賢は不思議な夢を見る。「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と観音菩薩に告げられた。その五日後、能登の永光寺で坐禅をしていた瑩山も同じようなお告げを聴いた。「教院を禅院にするために、一寺を与えよう」と。教院とは諸嶽寺のことで、当時は真言律宗であった。螢山はかねてよりここも禅院にしたいと念じていたという。夢の中で螢山は、諸岳寺へと誘われ、多くの僧や白山権現などの神々に迎えられる。螢山は思わず「総持の一門八字に打開す」と唱えた。しばらくして螢山は諸嶽寺を訪れ、定賢と互いに見た夢告が符合することに感動し、定賢は一山を寄進した。螢山はこれを快諾し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と、寺号を仏法(真言)が満ち保たれている総府として「總持寺」、山号は諸嶽寺にちなんで「諸嶽山」とした。これが總持寺由緒である。以来、五百九十一年もの間、永平寺と並ぶ曹洞禅の道場として能登の地にあった。厳冬期日本海から吹きすさぶ風雪に耐えて、ひたすらに修行する雲水たちの姿が偲ばれる。曹洞宗では開祖で永平寺派派祖の道元を高祖、螢山派派祖の螢山を太祖と尊称する。曹洞宗に禅の厳しくも清浄な息吹を感じるのは、永平寺總持寺も北陸という茫漠の僻地で育ってきたからに他ならないと私は思う。

この日私たちも、修行僧の一人に案内を請うた。盆正月や大きな行事がなければあらかじめお願いしておくと、毎日定時に雲水が諸堂を案内してくれる。この案内が実に丁寧で気持ちがよかった。これも修行なのだろう。巨大伽藍を一時間ほどかけて一巡するが、總持寺の由緒から、雲水たちが日一日をどのように生きているのか、ほんの僅かばかり垣間見ることができる。まずは有名な百間廊下だ。長さ百六十四メートルもあり端から端が霞んで見える。廊下は雲水たちが毎日雑巾がけするため鏡のように輝いている。早い人はここをわずか二十秒ほどで韋駄天の如く駆け抜けるらしい。これだけでも凄いが、雲水たちの雑巾がけは諸堂をつなぐ回廊を一巡するというのだから、私など聞いただけで息が切れそうであった。上山したばかりの雲水はまずこの雑巾がけだけで、満身創痍だろう。だが毎日毎日繰り返すことで少しずつ身体は慣れていき、ひと月もやれば体力も備わってきて、こなせるようになるという。何事も鍛錬次第で人間はこなせるようになるのだと思うが、やはりある程度の基礎体力や気力がないと成せぬこともある。雲水たちはだいたいが十代後半から三十代前半くらいに見える。若さが成せることもあろう。そもそも彼らは上山の日に、屋外で二時間ばかり立ち尽くしたまま、上山の許しを待つのだという。事前に上山願は届けてあるので、これは儀礼的なものだというが、夏の灼熱の下でも、しんしんと降る雪の日でも、新入りの雲水は上山許可を寺の外でひたすら待つ。ここからもう試されているのだ。ここで根をあげるようではとても修行はつとまらない。これは永平寺も同じだと聞く。越前の冬はさらに過酷で想像を絶する。私たちを案内してくれた修行僧も、今年二月に上山したとか。誰もが通る最初の行を経て半年。眉目秀麗でおそらくは二十代後半だろうと思うが、堂々落ち着き払っている。現代社会はいくつになっても浮き足立っている人が多く、何おう私などその典型であるが、ここにいる雲水たちにはそういうモノは感じない。人生は苦難の連続で、迷い道ばかりだが、そういう時にどうすれば、自分の道を見出して、歩き続けることができるのだろうか。人はしばしばこんなことを考え、試し、また転ぶ。そんな時に一番求められるものは、冷静さと待ちの姿勢ではないかと私は思う。結果はすぐには出ないことが多い。待つこともまた人生だ。その待ちの間に良い考えが浮かんだり、或いは風向きが変わる。止まぬ雨はなく、吹く風も決して一定ではない。昔から船乗りは風待ちをやった。自分にとって追い風が吹くまでは、じっと待つのだ。私は雲水たちと接して、自分は出家はせずとも彼らの振る舞いからそういうものを感じた。

百間廊下の真ん中に中雀門があり、そこからちょうど正面にこの寺の本堂である仏殿が屹立している。入母屋二重屋根の中国風の禅宗様式で、大正四年建立というが、百年もたてばさすがに古色蒼然としてきて、七堂伽藍の中心にどっしりと佇んでいる。本尊は釈迦牟尼如来。ここでは月に二度祈祷を行っているらしいが、堂内は一般には非公開で、修行僧も滅多に入ることはできない特別な場所だという。

百間廊下を突き当たると大僧堂がある。この大僧堂こそが、總持寺の禅の根本道場となる場所だ。雲水たちが起居し、食事も、朝夕の坐禅もここで行う。雲水一人の暮らしのスペースは起きて半畳寝て一畳。ここで生きるにはこれだけで十分なのだ。内部はひたすら禅の道で修行する者以外は入れぬ神聖な場所のため、私たちは敷居の外から見学させてもらった。日中は誰もいないのだが、昼でも薄暗い堂内は清浄な空気に満ち、修行僧たちの秘められた根気と禅道に打ち込む静かなる息遣いが染みついている。ここでは多い時には百五十人もの修行僧が寝起きするらしい。無論、エアコンなどなく、夏は蒸し暑く、真冬は極寒であろう。さらに夏場は蚊が多く出るそうで、蚊と線香の煙の苦しみもあると聞かされた。

雲水たちは毎朝四時の振鈴を合図に起床し、顔を洗うと朝の坐禅。それから朝課という朝の勤行が大祖堂である。この間雲水たちの食事を司る典座寮の修行僧は朝食を作る。ここでは食事を作ることも修行で、もちろん食事をいただくことも修行なのである。朝食は粥と胡麻塩と漬物のみ、雲水たちは整然と自分の畳の上に正座し、粥をすする音も、漬物を噛む音もたてずにいただく。昼と夜はそれに多少煮物などの小鉢がつくが、無論、肉魚はない。そして時々、カレーやカレーうどんがお昼に出ることもあると案内してくれた雲水は教えてくれた。それから總持寺では、雲水が檀信徒などの客あしらいから、寺務所での作業、諸堂案内まで行うため、風呂には毎日入るが、一方の永平寺は風呂は月にわずか二、三度だという。朝は寺内の掃除や寺務所での雑務、檀家の案内、諸堂拝観の案内、こういうことはすべて作務になるのだろう。その他、仏道、禅道の勉学、僧として身につけねばならぬ教養、学問、所作、戒律、禅問答、年中行事、時には托鉢まで、睡眠中以外は一日中何かしている。そしてあとはひたすら坐禅する。この時が唯一無碍の境地に入る時なのだ。道元禅師の教えのとおり只管打座、ただ坐禅する。このために日一日を無駄にしない。ここでの雲水たちの生き方、暮らしを見ると、私は何と愚かで、無駄が多い人生なのかと今さらのように痛感する。部屋一つとっても、彼らの畳一畳に比べたらどれだけ広くありがたいことか。三度、三度、好きなだけ御飯をいただけることが何と贅沢なことか。何もしないぼーっと過ごす時間を、さも思索に耽るなどど言って気取っている自分自身の誤魔化しの人生に、半ば呆れ、恥ずかしさも通り越して、嫌悪感すら抱いてしまった。それほど、雲水の生き方は堂に入り、美しく、気高く、眩しかった。

ここで私達も即席だが、参禅させてもらう。大僧堂の隣には、一般の人が坐禅できる衆寮という建物があり、大僧堂より一回り小さいが内部は同じような作りになっている。雲水の声かけにより坐禅。しばし瞑想する。目は閉じずに半開きで斜め四十五度視線を落とす。私は平等院阿弥陀さまをイメージして坐禅した。雲水は頭に何か考えが浮かんできても、後ろに置き去りにしてくださいという。次にまた別な考えが浮かんできたら、それも置き去りにする。そしてだんだんと空になってゆく。ほんの三分ほどであったが、静謐で涼やかな時が流れてゆく。残暑の日で、頬からは汗がしたたるのに、なぜか心身ともに爽やかな心地になる。雲水の静かな声かけで、合掌し坐禅は終わった。根本道場で坐禅を体験できたことは、私にとっても、同行したT君にとっても感慨深いものであった。これから、方々でまた坐禅を組みたいと思っている。それは場所や時にとらわれることなく、己が心のままに。

 諸堂拝観では他に位牌堂である放光堂や、尾張徳川家の屋敷を移築した待鳳館はこの寺の迎賓館だと聞いた。そして圧倒的量感を見せるのが、大祖堂である。私が首都高の車窓から良く眺めたのは、この大祖堂の大屋根であった。緑青の銅板瓦が折りからの夕日を受けてきらきらと光っている。千畳敷の堂内は螢山禅師をはじめ、歴代の祖師を祀り、朝課、晩課はここで行われる。ここがこの寺の芯柱のような印象を受けた。浄土真宗に次ぐ、国内信徒数二位を誇り、現代まで生き続ける曹洞宗大本山たるこの寺の位置づけをまざまざと感じさせられる場所である。

最後に案内されのが、紫雲臺(しうんたい)という大書院だ。ここは住持が宗門の僧侶や檀信徒と引見する部屋で、外観は質朴だが、内部の襖絵は花鳥や山水が鮮やか絢爛に描かれている。東郷平八郎の書も掲げられ、ここが禅寺であることをしばし忘れてしまう。中で私は印象的な人物画を拝観した。明治時代末に總持寺能登から鶴見に移した石川素堂禅師を描いた大きな軸である。紫衣を纏って、見る者を睥睨しておられるが、その眼差しは決して威圧的なものではなく、実に堂々たる慈愛に満ち溢れたお顔である。私はただただ圧倒されてしまった。まるで今、目の前に禅師が座っておられるようだ。生き仏に見える。写真で見るよりもこの絵の方が遥かに生き生きとしており、黙して禅の今を見て、対座する者にその姿のみで心に寄り添ってくれる気がした。

明治三十一年(1898)四月十三日夜、能登總持寺の本堂より出火、瞬時にして全山が紅蓮の炎に包まれた。慈雲閣、伝燈院を残し、伽藍の多くは灰燼に帰した。總持寺、檀信徒、ひいては曹洞宗全体を襲った大災厄であった。明治三十八年五月、本山貫首となられた石川素堂禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、總持寺存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、明治四十年三月に官許を得、明治四十四年(1911)に現在の地に移転を決断した。これは大英断であった。能登ではかなりの移転反対の声があったらしいが、今に曹洞宗の繁栄があるのは、都会に移って、布教に成功したからに他ならない。罹災して力強く復活するには、これで良かったのだと思う。石川禅師には先見の明が合ったのだ。 今から百年前の鶴見は、生見尾村(生麦・鶴見・寺尾)といい、眺望の素晴らしい閑静な漁村であった。その上、帝都東京と開港された横浜の中間にあり、交通の便に恵まれていた。正面は海、遠く房総半島、西南は富士と箱根を望む風光明媚なところで、現地を視察した時の記録によれば、「地味豊穣にして禾黍穣々、樹木は繁茂し、清水は湧き、遠く俗塵を隔だて、解脱悟道の霊場となすに適当なる地勢」と記されている。当時は總持寺を建立するのに相応しい景勝の良さと檀信徒の訪問にも最良の土地であったのだ。更に、鶴見移転が有力になった最大の理由は、副監院の栗山泰音師と、この地にあった成願寺の加藤海応住職が親しい関係であったからだ。能登の住民は總持寺の再建に期待を抱いていたが、明治三十九年七月十日には永平寺貫主森田悟由禅師から移転同意の承諾を得ている。鶴見の住民は移転には大変協力的であった。でも能登の住民には移転は死活問題になりかねない。六百年近くも總持寺と共存してきたのだ。生活も信仰も、地域の絆のためにも總持寺は不可欠で、あまりに大きな拠り所であったことだろう。こうした様々な困難、それこそ禅問答のような議論を経て曹洞宗大本山總持寺は、鶴見が丘に建立されることになり、成願寺が土地を献納した。現在、成願寺は山の麓に移転しているが、總持寺から色衣着用、内部寺院という待遇を受けている。また、總持寺の禅師の交代行列は成願寺から出発することになっている。元来、ここには寺があったのだ。こういう紆余曲折の歴史を調べてみて、私はようやく鶴見移転の意味がわかった。石川禅師は今でも移転を決断した總持寺中興の祖として、雲水や檀信徒に崇敬されている。石川禅師が、臨機応変な時代の流れを読む力を持っておられたのも、やはり明治という日本史上最大の変革期を生き揉まれたからに違いない。總持寺という寺は鶴見に移転する運命だったのだろう。曹洞宗にはやはりどうしても、かの永平寺と鶴見の總持寺の二つの大本山が必要なのだ。一方は曹洞禅の第一道場として、一方は宗門と曹洞禅の世界的な布教のための前線基地として、それぞれが役割をしっかりと担っている。こう考えると実に合理的でシンプルな体制だと思う。これが現代の日本仏教の一つの形と言ってよいだろう。

境内を一巡したあと、私たちは黄昏の大祖堂で今日一日を振り返った。ひと気のない堂内では、新入りの雲水に、先輩の雲水が一所懸命、なにか教えている。朝夕の勤行のためなのか、あるいは仏事の段取りなのか丁寧に指導していた。こうやって何百年も受け継いできたのだろう。千畳敷の大祖堂にこだまするのは若い坊さんの声だけで、ここが横浜であり、それも京浜工業地帯であることを忘れさせる。帰りがけに、もう一度大僧堂の前に行った。庭には小さな日時計の台座のような石のテーブルが置いてある。ここには雲水たちが、小鳥たちのために残してあるご飯を置くのだと聞いた。圧倒的大伽藍にあって、私はここに厳しさと優しさを兼ね備えた曹洞禅を見た思いがする。總持寺には観るべき仏像も、文化財も大したものはない。だが、そんな歴史的価値云々よりも、大切なものがここにはたくさんある。それは現代を生きる私たちに合った、いや必要であるはずの、現代の仏教と禅の姿であった。