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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

面授これもまた一会と心得よ

この秋から私は茶の湯の稽古を始めた。六十ならぬ四十の手習いである。これは大きな決断であった。長年、井伊直弼をはじめとした大名茶人と茶道に強い関心を寄せてきたので、歴史探訪をする折や文章を書くときは付かず離れずであったが、自分が稽古をするとなると、なかなか勇気が持てず、踏み込めずにいた。しかしこの夏のある日、ふと、「今やらねばいつやるか」という気持ちが澎湃として湧き上がってきた。それからは行動が早かった。すぐに稽古場を探し始め、三日後には師匠の門を叩いていた。 今、家から程近い表千家の先生のご自宅に通っている。

本能寺の光秀の如く、時は今、と意気揚々と茶道に取り組んではいるが、何にしてもまだ始めたばかり。茶道のいろはから、袱紗捌き、茶筅通しなどの割稽古中。であるから、何もここで茶の湯のことをだらだらと書き述べるつもりはない。それこそシロウトの何とやらになってしまう。ただ、十一月になり風炉から炉に変わり、いよいよ初冬から正月に向けて、奥深き茶の湯の真髄に触れる想いをいたしたところで、少しばかり「私の茶の湯の初心」を書いてみようと思った次第である。

道元禅師の正法眼蔵に面授の章がある。辞書をひいてみると、面授とは「文章などで広く教えるものではない重要な教えを、師から弟子へと直接伝授すること」とある。 今こういう機会は明らかに少ない。無論、寺の師弟関係とか伝統工芸や伝統芸能を生業として生きる人々は、こうした面授により子々孫々へと教えや技というものを受け継いでいくのだろうが、やはり一般には馴染みが薄い。教科書通り、マニュアル通りが横行し、それが当たり前の今日、パソコン、スマホ、SNS等のインターネットを介する極めて間接指導な世の中を私たちは生きている。それが悪いとは言わない。現に私もこのブログをそれらを駆使して書いているし、もはやSNSを使わない日はない。歴史も昔も好きだが、すべて昔に還る必要もあるまい。しかし、今私の体験している茶の湯の稽古は、真に面授なのである。これはなかなか貴重なことで、おそらくこの先の人生観を大きく変えることであろう。仏道、武道、茶道、華道、香道、芸道など、およそ師と弟子が同じ道を歩み、師の道を弟子が辿る世界においては、教え授かるには面授が唯一であろう。面授でしか真に伝えることはできないと思う。

私も割稽古をしながら、先生や先輩の点前をいただき、そのひとつひとつの所作を見て学ぶ。茶の稽古で私が一番感じ入ったことは面授であった。私は別に人間が嫌いなわけではないし、対人恐怖症でもない。気の合う仲間とはいつでも語り明かしたいけれども、どちらかといえば孤独を愛し、ひと気のないほう無い方へと赴く私にしては、茶の湯の交流が今一番の刺激かもしれない。茶の湯の稽古は普段なるべく人と関わるのを避けがちの私にとって、新鮮でもあり、数少ない社交の場。老若男女が集い、めいめい点前を披露し、一服の茶をいただく。仕事も様々、学生さんもいる。茶室に入れば皆平等に茶の湯に心を寄せる。日常から離れて、悩みも忘れて、ひたすらに茶の湯に専心する。なんと清々しいことか。二時間ほどの正座で脚はひどく痺れるが、稽古が終わるとなんとも晴れ晴れとした気持ちで家路につく。

茶の湯はまた今の私にとって、心身修養の場であり、喧騒から離れて己を開放する場である。存分に季節を感じさせる菓子をいただき、一服の茶を喫する。単純に美味しい。そうなのだ。美味しい、それだけなのかもしれない。余計な考えはいらない。これは總持寺で教わった坐禅とも共通することだ。だが曹洞禅は何も考えないで、浮かんだ考えを後ろに置き去りにして、ひたすらに坐禅するのであるが、茶の湯は少し思考を要する。亭主は客を心からもてなし、客はそんな亭主の心遣いを心身で感じ取る。井伊直弼は大名茶人の大家で有名だが、彼の著した茶湯一会集には、ただひたすらにただこればかりだと言っている。つまり一期一会だ。私などが事新たに、このあまりに有名な言葉にどうこうはないが、一期一会は何も茶事茶会のみではなく、日々の稽古、面授もまたその日、その時限りというものだと、稽古を始めてみて痛感させられている。

茶の湯とは音の癒しである。釜の中の沸き立つ湯音、はぜる 炭音、捌く袱紗の音、湯を汲む音、茶を点てる音、茶を飲む音。何とも心地よい水音が茶室に響く。茶の湯は水音の世界。その音は或る時はどこまでも深く降りてゆき、また或る時はどこまでも高く昇ってゆく。これから私は茶の湯とともに生きていく所存である。