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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 身延山

秋深まりし十月下旬、T君の運転で身延山に向かった。東京から西へ向かう中央道は、私が好きな道のひとつ。日本の屋根に向かってぐんぐん進む。迫る山並みは私好みの旅情に駆られる。「中央フリーウェイ」の歌詞そのままに、調布飛行場、府中競馬場、ビール工場を瞬く間に過ぎると、左手に高尾山が見えてくる。このあたりから急に山の景色となり、相模湖、大月、勝沼を走り抜ければ、眼下にふわっとお釈迦様が手を広げたような甲府盆地が現れる。さすがに果実王国甲州とだけあって、葡萄、梨、栗、柿、蜜柑など果樹園が点在しているのが車窓から見える。もう二十年以上前になるが、真冬の夜、このあたりをドライブした時に私は忘れえぬ光景を目にした。どこか小高い丘の上だったと記憶するが、場所は定かではない。そこからの眺めは、眼下には宝石を散りばめたような甲府盆地の夜景。見上げれば満天の冬の星空で、引っ切り無しに流星が零れ落ちてきた。あの光景は私のこれまで見たどの夜景よりも一番である。私は眺める景色にも一期一会があると思っている。生涯でたった一度の景色。それは同じ場所に何度行っても見ることはできないのだ。狐に抓まれるとはああいう体験をいうのであろうか。あのとき以来、甲府盆地は私にとって桃源郷となった。今でも、隠居するならば近江がいいと思っているが、なかなかこの甲州というのも捨てがたいものだ。あの暖かな光の海の中で暮らしてみたい。私もその光の一つとなりたい。何とも大いに迷うところである。

甲府から富士川沿いに入ると、左の空の彼方に富士山が見えつ隠れつする。この日は晴れてはいたが、快晴ではなく少し靄ががっていた。富士も雲の上に薄い日光に照らされて浮かび上がっている。それは横山大観の富士の絵そのままの光景で、私たちの胸は高鳴った。富士川日本三大急流のひとつである。南アルプス北部の険峻な鋸岳を発し、釜無川と呼ばれて、甲斐の国を流れる支流と合流しながら、富士川町笛吹川と合流する。ここから先は富士山の西側をうねりながら流れて、果ては駿河湾に達するまでを富士川と呼ぶ。明治維新後、日本を訪れたとある外国人は、日本の川は滝であると評した。その流れは、山から一気呵成に駆け下りて、逆巻きながら海へと注ぐからだ。澱まず流れる日本の川だからこそ澄んでいるともいえる。富士川といえば「富士川の戦い」を思い出すが、平家物語源平盛衰記の水鳥の話の真偽はともかく、源平勢力図が変わる決定打となったことは間違いない。そういう由縁かは知らないが、富士川や支流の早川沿いにはいくつかの落人伝説もあると聞く。そういえば富士川をずっと下って、静岡県富士宮市の稲子というところには、平維盛の墓と伝えられるところもあるという。維盛は那智の海へ入水しているはずだから、墓ではなく供養塔だろうが、ひょっとするとここへと落ちてきたのかもしれない。私はこういう伝説をすべて信じるわけではないが、まったく否定もしたくはない。歴史や伝承は否定をすると途端につまらなくなる。滔々たる富士川の流れは、何度も湾曲しながら、多くの秘められた歴史とともに遥かなる駿河の海へと注いでいく。平家はどうも急流に縁が深い。富士川も、宇治川も、壇ノ浦も急流で負けた。早瀬は今は埋もれた多くの歴史をも飲み込んでいったのではなかろうか。富士川を眺めているとそんな想いに駆られずにはいられない。

富士川沿いを身延山へ向けて奥へ奥へと進む。このあたりは川の両側に山々が聳えたっており、平地はほとんどない。川と山の間にへばりつくように集落が点々と続いている。身延は日蓮宗総本山の地であるが、かの木喰上人縁の地でもある。木喰上人は享保三年(1718)身延山近くの古関村丸畑の名主の家に生まれた。縁あって仏門に入り、日本諸国を巡る廻国修行へと旅立つ。何と五十六歳の時であった。北は蝦夷から南は薩摩まで、各地に仏像を残している。廻国中もここへ度々戻っているのをみると、故郷への思慕とやはりこの地の霊的な力を、自らの生きる糧としていたような気がしてならない。そして所願成就した八十四歳の時が最後の帰郷であった。その後、甲州にいくつかの足跡があるが、どこでどう果てたのかわかってはいない。忽然と消息が絶えるという。私もこれまで津々浦々で木喰仏に遭遇してきた。円空仏とはまたちがう、柔和だが芯の強い、ただそこにはいつも笑顔が溢れる優しいほとけたちである。木喰仏は柳宗悦に発掘されてから、にわかに注目されるようになったが、もともとは地元民のみが手を合わせるほとけであった。ゆえに手垢のついていない純真無垢ほとけなのである。木喰上人が木の国で育ったことは、仏像製作の礎となり、夥しい数を彫り上げる霊的な力もまた、樹木から得たに違いない。古代より連綿と続く立木信仰は木喰上人によって完成し、一応の終幕をみたといえるのではないだろうか。木喰上人は目と鼻にある身延山にもおそらく上山したであろう。本当は丸畑の地を訪ねてみたいのだが、今回は先を急ぐので、残念ではあるがまたの機会にしたい。やがて、富士川の右手に険峻な岩肌をあらわにした身延山が見えてきた。

総門をくぐり参道を進むと身延山の山号を掲げる巨大な山門に出た。が、私たちはまず西谷と呼ばれる日蓮聖人の霊廟と草庵跡へ向かう。身延山には今も多くの塔頭があるが、それでも往時からするとずいぶん少なくなったらしい。江戸時代までは百三十六もの末寺塔頭があったとか。今残る塔頭の多くは宿坊も兼ねており、身延山と谷一つ隔てた七面山にも宿坊がある。西谷へ入るには身延川を渡る。山国のこととて、身延川を渡るとさらに冷気は増してゆく。あたりには鳥の啼き声すらなく、ただ風と川の音だけで、その轟音に威圧される。ここはただならぬ雰囲気である。それは霊気でもあろうか。とにかく何かに導かれるようにして、私たちは巨大な日蓮聖人の御廟へとたどりついた。南無妙法蓮華経の御題目が、例の流麗な金字で掲げられた日蓮聖人のお墓の前に出たとき、「いやぁ、凄い!」私は思わず声を上げた。昔から方々の寺社巡りをしている私は、今さらパワースポットとか騒がれている昨今の風潮には、いささか距離を置いているのだが、そんな私が久しぶりに大きく動揺させられたのである。ここは凄まじい霊的な力を感じる場所である。なんであろうか。こういう場所を本当に知っている人であれば、わかるであろう。言葉では言い表せぬ、あの感じ、あの雰囲気である。日蓮聖人の廟を前にして、背後にはおそらく雲の彼方に霊峰富士がこちらを睥睨しているはずだ。私たちはちょうどその間に立っており、前からも後ろからも、圧倒的なパワーを今まさに全身全霊にびしびしと受けまくっているのだ。私もT君もしばし茫然自失としてしまい、これから菩提梯を昇り、奥の院まで行こうという前に、ここだけでも来た甲斐があり、ここだけでもう充分すぎるほど身延山を満喫した心地がした。

御廟の少し下に身延山の原点とも云える草庵跡が残されている。玉垣に囲まれた草庵跡の周りには、いくつもの杉の大木が御神木となって聳えており、どっしりとした日蓮聖人のイメージを彷彿とさせる。日蓮聖人が身延山に入山したのは、文永十一年(1274)五月十七日のことで、鎌倉幕府に国主諫暁(こくしゅかんぎょう)を行うも三度失敗し、失意のうちのことであった。国主諫暁とは、極々簡単にいうと、日蓮の信ずる法華経を尊び、法華経にのみ帰心せよと説く幕府への奏上であり、かの「立正安国論」を引っさげての一大問答であった。だが、そのあまりに激烈で過激な説法は、他宗派を蔑み、排除せよと続けた結果、他宗門徒からは大非難を浴びることになる。幕府中枢もほとんどが日蓮の教えに靡く者はなく、依然として浄土宗系や禅宗系が日蓮の排斥に大きく動いていた。伊豆や佐渡に流されたり、何度も命の危機にさらされながらも、しかし諦めない人日蓮は、この艱難辛苦を乗り越え、その度に大きくなり立ち上がっていった。そんな日蓮を、身延の地を領していた御家人南部長実は積極的に匿い保護した。草庵の地も南部長実が寄進した。鎌倉幕府は無論知っていたと思うが、さすがに鎌倉から遠い山間の僻地までは監視の目も及ばず、ここで九年間日蓮は思索に耽り、弟子を育成し、自身の集大成ともいえる濃密な晩年を送ることになる。聞くところによれば、ここでの暮らしは相当に貧しいもので、食い扶持に困り、弟子の何人かはやむなく下山させたこともあったらしいが、そういう時も何かと便宜を図ってくれたのが、南部長実であった。私が思うには、南部長実は日蓮に帰依していたことには違いないが、鎌倉幕府の信頼も厚いものがあり、幕府もある意味監視させていたのではあるまいか。南部長実の元にあれば日蓮もそうそう動けまいと思っていただろうし、事実そうであった。あれほど行動的な日蓮が九年間もこの地にじっとしていたのである。それは日蓮の生涯に於いて、もっとも長く充実した日々であったに違いない。初めてここにゆっくりと腰を落ち着けて、これまでの我が人生を振り返り、さらに自身の理想と現実との葛藤、法華経へのさらなる信心を完璧に昇華させたのが、この身延山であった。そういう意味では南部長実の功績はとても大きい。少し想像を逞しくすると、まるで日蓮聖人を守護する、仁王の様な人物なのではなかったか。いずれにしろ、この御廟と草庵跡からはとてつもなく大きな霊力を感じずにはいられない。その理由はやはり日蓮聖人がその波乱の生涯において、もっとも円熟し、真に法華経一筋の道がここに極まった場所であるからではないかと私は思う。

霊気はこの山全体を支配するが、私たちもこの雄大な山塊に抱かれるが如き感がしてきた。ここは日蓮宗総本山。身延山妙法華院久遠寺。山門の奥へ歩を進めると、亭々と聳える杉木立の向こうに巨大な壁が現れる。これがかの菩提梯である。私は身延山を訪ねるにあたり、一番楽しみにしていたのがこの菩提梯であった。菩提梯は本堂のある山上の伽藍へと誘う二百八十七段の石段で、高さ百四メートル。これがとてもつもなく急峻でひとつの石段の高さは四十センチもあり、幅はかなり狭い。まるで絶壁のように屹立している。ここで私は再び声をあげた。「これかぁ!やっぱり凄い!」その名も菩提梯。悟りに至る梯子で、ここを昇りきれば涅槃の本堂へと行ける。これまで何人も救急車で運ばれたり、行き倒れた人もいるというこの石段。果たして頂上まで行けるであろうか。私とT君もいざ一歩と昇り始める。男坂とか女坂もあり、キツイ人はそちらから昇ればよいし、今は斜行エレベーターまであるので、いつでも楽に昇れるのだが、やはりここへ来たからには、まず一度はこの菩提梯を昇りきりたい。が、やはりキツイ。歳若のT君は息も切らさずスイスイ昇るが、四十を越して運動不足の私はかなり苦しい。まさに苦行である。それでも途中休憩ができる区切りがあり、休み休み昇ってゆく。菩提梯は、御題目「南無妙法蓮華経」の七文字になぞらえて七区画に区切られている。そしてついに最後の一段を昇りきった。息を切らせながら下を見ると、やはり相当な傾斜で怖かったが、素直にうれしい気持ちのほうが勝る。菩提梯踏破の喜びは、ここでまたひとつ自分自身の殻を破り捨てられた感慨さえあった。

その山上には大伽藍が甍を並べている。明治の頃大きな火災があったとかで、そんなに古い堂宇は残ってはいないが、総本山らしく堂々たる佇まいである。ことさら映える鮮やかな朱色の五重塔は最近になって建てられたものだが、不思議と周囲の山々の緑にしっとりと溶け込んでいる。これも久遠寺の長い歴史の成せる術であろう。本堂内部には天井に巨大な龍。その奥に須弥壇が設けられている。日蓮聖人真筆の「大曼荼羅御本尊」がこの寺の本尊であるが、御会式の時のみ公開される。宝物館には複製があるが、この大曼荼羅御本尊を立体的に表現したのが、本堂の須弥壇である。須弥壇は眩いばかりの黄金に輝いており、どこか東南アジアや中東の王宮のような印象である。ちょうど本堂を御参りした頃に正午となり、お昼のお勤めが始まった。祖師堂や仏殿から御題目が高らかに聴こえてくる。私たちも仏殿の勤行に参加させていただく。日蓮宗の勤行は、密教禅宗のそれとはまた違った猛々しい勤行で、やはり御題目「南無妙法蓮華経」に始まり、「南無妙法蓮華経」に終わる。修行中の若い坊さんもたくさんいたが、廊下や境内のどこですれ違っても、気持ちよく挨拶をしてくれて、それだけでこちらも晴れやかで柔和な気持ちになった。門徒たちは集団でやってくる。私は門徒ではないので、そのあたりの事情に明るくはないのだが、町内会とか婦人会の文字が見えた。地域住民で講のようなものがあるのだろうか。皆歩きながらしきりに御題目を唱えている。さすがに総本山たる風景であるが、最初は少し異色に見えた。だが身延山にいる間、一日中その声を聴いていると、不思議に心地よい音色に聴こえてくる。声に出さずとも、私も心の中では同じように「南無妙法蓮華経」を唱え始めていた。

これまで私は日蓮聖人に対して特別な思いはなかった。寧ろ失礼ながら、あまり良いイメージは持っていなかった。他宗を非難し自分の信念を押し通そうとする気骨の坊さま。悪くいえば法華経被れの荒法師とさえ思っていた。ひいては日蓮宗という宗派自体にも、どうもいつも何かと闘っている教団というイメージが今も拭い切れずにいる。法然親鸞道元など他の鎌倉仏教の祖師には関心を寄せてきたが、日蓮には自ら少し遠ざかってきた感がある。故に訪ね歩いてきた寺も、日蓮宗の大寺院といえば池上本門寺に行ったくらいであった。だが、身延山久遠寺を訪ねるにあたり、また訪ねたことで私の日蓮聖人に対する知識は少しずつ増え、それに伴い日蓮という一人の人間、一人の僧侶について深く考える機会を得た。やはり何事も行ってみるもの、見てみるもの、感じてみるものである。おかげで私の日蓮日蓮宗に対する想いにも変化の兆しが現れ始めている。この巡礼を試みなければ、あえてわざわざ日蓮宗に近づくこともなく、身延山へも詣でる機会はなかったと思う。

賢しらに私如きが日蓮聖人のことを語るつもりはないが、ひとつだけ思うのは、日蓮聖人はいつもがっかりの連続だったのではなかろうか。何か事を起こす度に出鼻を挫かれたり、反対されたり、非難されたり、無視されたり、およそそのくり返しであった。また仏法や教義、仏道修行においても、叡山にも、真言密教にも、浄土系宗派にも、禅宗にも、そして時の権力者にも失望した故に、自ら帰結した正法たる法華経と釈迦への回帰を声高に叫び続け、闘い続けたのではないか。そうした反骨精神が、日蓮を揺り動かし、支えたのだと思う。そしてようやく晩年に至り、この身延の山中で、無碍の境地に達すること叶ったのであろう。身延の山の霊気と閑寂が、日蓮を心身ともにクールダウンした。心から澄み切った日蓮に、もはや敵も見方もなく、ただ一念に自らが法華経を信じていたい。そうすれば後の世まで永劫、その情熱の華は枯れることはないと確信したであろう。明治維新後に開かれた仏教系の新興宗教は、なんと九割以上が日蓮宗系だという。その信仰や教義は如何ともしがたいところもあるかもしれないが、ここに日蓮聖人の願いは大きく華開いたといえよう。

最後に私たちは、奥の院へと足を延ばすことにした。奥の院は標高千百五十三メートルの身延山頂にあり、二時間半ほどかければ歩いて登れるのだが、今は本堂の裏手からロープウェイで七分で行ける。ロープウェイは関東一の高低差と云われる七百六十三メートルを一気に上がる。すぐに五重塔などの伽藍は小さくなってゆき、山裾を這う龍の如くに富士川の流れが遥か下界に見えてくる。この日はすっきりとした晴れではなく、いかにも山の天気という感じで、ひっきりなしに雲が動いてゆく。それでも山上からの眺めはすばらしかった。南にはすぐそばに七面山、西から北にかけては南アルプス八ヶ岳の峰々、東には天守山地が重畳と見渡される景色は、言葉もないほど雄大かつ爽快であった。と同時に、東の方からは物凄い冷気と霊気が真っ直ぐこちらへ向かって放たれてくる。東の天守山地の後ろに聳えるのは霊峰富士。雲の中にいて姿を現さないが、身延山の山頂に立つと富士の圧倒的な霊力が心底わかる気がする。身延山は広い。この山塊の至るところに堂宇や塔頭が点在し、信仰の山、霊山なのであることが、高いところへくると実感として迫ってくる。

奥の院には親を思うと書いて「思親閣」というお堂がある。ここには日蓮聖人の両親、父妙日と母妙蓮が祀られている。参道下には故郷の安房に向かい遥拝する聖人の像があり、背後には聖人御手植えの樹齢七百年を超える杉の大木が見守っている。日蓮聖人は身延入山九年の間一度も下山しなかったが、片時も故郷を思わぬ日はなかった。そしてこの山頂へ度々登り、故郷を遥拝し、両親への思慕に想いを致したのであろう。ここに来ると、日夜朝暮に両親やふるさとのために祈るとても優しい日蓮聖人の姿が彷彿として浮かんでくる。そこにはあの情熱的な荒法師の姿は皆無である。親を思う気持ちは誰しもある。ここに登ってきた時に日蓮聖人はおだやかな気持ちになり、僧籍からも離れることができたに違いない。身延山を降りて安房の地へ赴く日蓮聖人は、池上で力尽きて入滅するが、遺骸はこの身延の地に埋葬するように遺言した。身延を降りる時の日蓮聖人にはもう激烈さはなく、ただ一念に望郷の念に駆られていたような気がする。この地で過ごした九年の月日は彼をおだやかで、包容力のある人間へ変えたのであろう。それが本来のその人であったと私は思う。

個人的な話でまことに恐縮であるが、この寺に来て私がもっとも感じたことを最後に記したい。これを書くべきか書かざるべきか迷いに迷ったが、やはり今の私の心に従い記すことにした。いささか巡礼記からそれることになるがお許し願いたい。

私は両親が離婚し、決して幸せとは云えない幼少期を過ごした。両親ともに再婚していまだ健在である。私は母を思う気持ちは今も変わらないし、年老いた母の面倒もみて、最期も看取るつもりでいる。だが、父に関しては金輪際関わりを持ちたくない。父には強い嫌悪感を持っている。両親の離婚の原因が父にあるからなのだが、ここに今そのことを詳しく書くことはできない。私は今もどうしても父を許すことができずにいる。おそらく、父が私と母と妹を捨てて、今新しい家族と幸せに暮らしていることに対する妬みと、ずっと苦労している母への想いがそうさせるのだろう。極端な話であるが、もしも神仏がこの世の中でただ一人呪詛してもよいと許してくれるならば、私は躊躇なく己が父を呪うであろう。今の私はこうなのである。正直にこれが今の私なのである。この気持ちはここ思親閣に来ても変わらなかった。私はたぶん本当の優しさとか愛情とかを持ち得ずに生きてきた。私はとても冷たく、人にやさしくできない愚物なのである。心から人にやさしくできないのだ。その術も正直わからない。近頃それがとても苦しく思えて仕方ないことがある。私はなんなのだろう。こんな人間が寺参りなぞしてもいいのだろうか。いや、それだからこそ始めた巡礼ではないか。葛藤の日々は続く。でも今はそれしかできない。他に道が見えないのである。いつの日にか、この巡礼を続けていくうちに、もしかしたら父を許せる日が来るのであれば、心から人を愛し、人にやさしくなれたならば、その時こそ、この本山巡礼が本当に意味を持ってくるのかもしれない。今のところそんな気持ちにはさらさらなっていないが、これから様々な寺やほとけさまや信仰の姿に触れることで、この気持ちが変わることがあれば、素直に喜びたいとは思っている。奥の院の足湯に浸りながら、私はそんなことを考えていた。

山の空気を満腹に吸い込んで、私たちは下山した。帰りがけに山門前でもうひとつ、もの凄い光景を目の当たりにする。百人近くの白装束の門徒の一団である。老若男女皆白装束で肩からは御題目の袈裟をかけている。全員大声で御題目を唱え、山内に「南無妙法蓮華経」がこだまする。白い装束は無垢で清くも見えるが、これだけの人々が同じ装いで目的を一にしているのを見ると、どこか少し薄気味悪くも感じた。私はだんだんその光景が夢のように思えてきて、月日が経っても瞼に焼き付いている。あの甲府盆地の夜景を見た夜のように、やはりまた狐に抓まれたのであろうか。