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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録  中山法華経寺

身延山へお詣りして、日蓮聖人と日蓮宗に関心を抱いた私とT君は、千葉県市川市にある中山法華経寺へ向かった。京成線の中山駅で降りるとすぐに表参道に入る。静かな門前町を抜けると「正中山」と山号を掲げる立派な山門が現れる。山門の左脇には、例によって南無妙法蓮華経と刻まれた大きな石碑、右脇には日蓮聖人の大きな立像。いくつもの塔頭を持つ法華経寺は家並の中に忽然とある。でも家はあとから出来たわけで、寺は鎌倉時代からここにある。日蓮聖人の生国は安房小湊。ゆえに上総国下総国には、日蓮宗の寺院が多い。漁師の家に生まれた日蓮は、早くから仏教に関心を持ち、近在の清澄寺にて仏門に入る。清澄寺はもとは天台宗の寺であったが、後に日蓮宗に改宗している。清澄寺で天台仏教を学び、やがて成長した日蓮は、鎌倉で念仏や禅を学び、二十一歳で憧れの比叡山へ登る。この頃はとくに伝教大師に惹かれており、最澄の説く法華経信仰に傾倒していった。巷では法然親鸞道元らが、叡山を下りて開いた仏教が、興隆し始めていた頃である。それでも日蓮は、天台教学が正しいと信じていた。この頃から最澄へ帰れ、さらには釈迦へ帰れと唱える。そして叡山もまた、密教浄土教を取り入れるようになると、最澄の教えこそ正法であり、法華経を一番に据えない他の宗派の教えは、仏教の堕落と考えるようになる。ついには叡山を下りて、関東に帰国。その後は、この考えを一国も早く日本中に広めようと決意して、鎌倉幕府へ何度も嘆願するが、幕府中枢の連中のほとんどは、禅宗か浄土宗系を信心しており、容易にその言葉に耳を貸す者はいやしなかった。それから身延山に入山するまで、ほとんど受難続きである。

中山法華経寺は、もとはこのあたりを領した千葉氏の家人で、この地に館を持っていた大田乗明と富木常忍の土地であった。二人は日蓮に帰依し、布教活動で迫害受難続きの日蓮をこの地で匿った。そして文応元年(1260)に寺とした。日蓮が最初に開いた寺が、この法華経寺であるとも云われるが、この地は日蓮がもっともエネルギー漲っていた当時、闘いの羽を休める安息の地であったのだろう。文応元年といえば、日蓮が、鎌倉最高実力者である前執権北条時頼に、立正安国論を高らかに打ち上げたその年である。一説では、鎌倉を逃れていた日蓮は、この地で立正安国論を構想し、したためたと云われる。実際この寺には、日蓮聖人自らの写しと云われる国宝「立正安国論」が蔵されている。その筆致は実に力強く、自信に充ち満ちている。日蓮立正安国論で、真の法華経信仰が失われたゆえに、天変地異が起こり、飢饉や疫病が蔓延するのだという。また元寇という迫り来る国家的脅威から、敷島を救う唯一の手立ては、ただひたすらに法華経のみを信ずることしかないと説く。そして、念仏禅は誤りだと一貫して主張し、伊豆や佐渡に流されるのである。それでも彼は挫けなかった。この受難こそが、己に課せらせた使命であると感得していた。日蓮は、建長寺蘭渓道隆禅師に宛てて、「四箇格言(しかかくげん)」という手紙を送る。これには「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」としたためてある。つまりは「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗国賊の妄説」と言い切るのである。入滅するまで、その信念を日蓮は堂々と語り続けるのであった。この寺はその名も法華経寺。生国の安房と鎌倉と身延山を結ぶ、扇の要にあたる。この地で、彼の法華経への信念は熟し、後々までの原動力ともいえる立正安国論を起草し、起動した記念すべき場所であった。

この寺は戦後すぐの昭和二十一年(1946)に、一部の末寺とともに日蓮宗を離脱し、中山妙宗を立ち上げ本山となっていたが、昭和四十七年(1972)に日蓮宗に復帰した。どういう経緯でそのようなことになっていたのか、私は詳しいことは知らないが、今では日蓮聖人の聖蹟寺院として、大本山となっており、日蓮信徒たちの崇敬を集めている。日蓮宗には多くの分派があり、少し強引な言い方をすれば、まるで細胞分裂をくり返すように、その数を増やしていった。明治維新後に開かれた、仏教系の新興宗教は、なんと九割以上が日蓮宗系だという。信仰や教義は、如何ともし難いところもあるが、ここに日蓮聖人の願いは大きく華開いたといえよう。いずれそう遠くない日に、日本仏教の信徒数第一位は、日蓮宗に変わる日が来るのかもしれない。

 日蓮宗の寺院はどこも桜の名所が多い。法華経寺も、参道から境内に桜がたくさん植えられている。盛りの頃はさぞかしと偲ばれるが、なかなか秋の紅葉も美しかった。何よりこの季節は、桜の頃よりもずっと静かで、人影もまばらである。境内は思いの外広々としており、池もあり、林もあり、大仏もありと、まるで鎌倉あたりを歩いているような錯覚を受ける。目と鼻の間に中山競馬場があるとは思えない。やはりこの本山巡礼をしなくては、訪ねる機会はなかったかもしれない。 堂宇の建築もなかなか良い。低い檜皮葺きの祖師堂は、猫の耳を思わせる二つの屋根を持ち、関東には珍しいものだろう。ただ、関西のような優美さや、北国のような鋭さは無く、少し重苦しい印象ではある。そんなところに坂東武士の骨太で剛健な気質が垣間見える。日蓮宗寺院の五重塔は、決まって朱塗りで、ここにも徳川初期建立の立派な塔が秋空に映えていた。私がことに気に入ったのは、祖師堂裏手の丘に建つ法華堂である。室町時代の端整な建築で、唐招提寺を思わせる柱が美しい。全体に堂々とした伽藍の中で、ここは簡素ながら、落ち着いた佇まいを見せている。そこからまた、右手に少し昇ったところには、林の中に巨大なストゥーパのような聖教殿が建っている。ここには立正安国論や、観心本尊抄などの寺宝が納められている。普段はここまで登ってくる人は稀のようで、静寂そのものであったが、紺碧の空に屹立する白亜の塔は、身震いするほどの量感で圧し掛かってくる。この塔は築地本願寺などを手がけた、昭和初期を代表する建築家伊東忠太による設計だとか。ここでは、身延山の西谷の日蓮聖人の墓前で感じたのと、似たような感覚を私は覚えた。塔そのものというよりも、日蓮の鬼気迫る想いが、ここに集積されているような気がしてならない。

法華経寺といえば、荒行が行われる寺として知られる。世界三大荒行の一つとも云われるそれは、毎年霜月から如月にかけて、行者たちは三月半の間、荒行堂に籠り、毎日七度の水行をする。寒中のこととて、これまで満行できずに亡くなった方もいると聞く。ここでの行は、日蓮宗では最も厳しいもので、修験道や回峰行にも匹敵すると言えよう。いわば日蓮聖人の受難を追体験しながら、我々のような凡夫衆生の罪や穢れを払うために、行者たち自らが厳しい禊を行うことで、人々の平和な暮らしを祈祷するのだという。荒行堂には注連縄で結界が張られており、何人たりとも中には入れぬ。私たちが行った時は、今年の荒行が始まってからちょうど二週間ほどたった頃。外の美しい紅葉をよそに、行者たちは、日夜修行三昧の日々を送っているのだ。水行、法華経の写経、読経三昧で喉を涸らす。食事は朝夕二度で、白粥と梅干だという。荒行堂の外には、行者たちの一日を記した立て札があり、以下のとおりに書いてあった。

二時五十分 振鈴(起床)
三時 水行
四時 朝課
五時三十分 粥座(朝食)
六時 水行
九時 水行
正午 水行
三時 水行
五時半 薬座(夕食)
六時 水行
七時 夕課
十一時 水行
十一時半 開床(就寝)

補、上記以外の時間は、法華経読誦三昧行とする

結界の向こうからは、行者たちの大きな声が、引っ切り無しに聴こえてくる。穏やかな秋晴れの空に、呻き声のように響くその声を聴いていると、何とも苦しく、切ない気持ちになってくる。彼らは今、己のため、そして私達の穢れまで、自らが行することで、一切を払いのけてくれようとしているのだ。そう思うとありがたい。皆、無事に満行していただきたいと願わずにはいられなかった。並の人間には到底できぬことである。もしかすると彼らは、選ばれし法華経信者の権化で、現在から未来への法華経の真の伝道者なのかもしれない。あるいはまた、日蓮のいう久遠実成の教えの代弁者なのではないか。久遠実成とは、仏教開祖の釈迦は、歴史的存在を超えて、永遠の昔から存在する釈迦であるという。華厳経の毘廬遮那仏、真言密教大日如来と同じような存在といえばよいだろうか。日蓮が、法華経のみを信じ続けて、最終到達した境地こそが、久遠実成ではなかったか。私のような素人には、これ以上入り込む余地はないが、日蓮はその生涯で、法華経と釈迦への回帰のみをひたすらに説き続けた。荒行堂内には、どういうわけか鬼子母神が祀られている。苦行に耐え忍ぶ行者達の、守り本尊なのであろうか。そして壁一面に、歴代の満行した行者たちの写真が飾られていた。古いものでは大正初期のものから、昨年の写真まである。よく見れば、昔はかなり多くの行者がいたことがわかる。百人以上もいたこともあったようだが、だんだんとこの荒行に参籠する人も減り続けているとかで、最近の写真には十人にも満たない年もあるようだった。今、こうしている間も、法華経寺では荒行が行われている。果たして今年は何人が参籠しているのだろうか。東京からすぐのこの地で、こういうことが今も脈々と続いていることに、私は深い感動を覚えた。

この寺にはなんと奥の院まであった。いったん境内を出て、ゆるやかな坂を登りながら家並を抜けると、こんもりと樹木の生い茂る中に、ひっそりと奥の院は佇んでいる。元はここに、富木某の館があった場所とかで、日蓮が始めて説法をしたのも、この場所だとされる。中山法華経寺の原点ともいえる場所である。狭い境内には水子供養のお地蔵様がたくさんいらっしゃる。あとは本堂と、常修堂という法隆寺夢殿を思わせるお堂があるきりの、ささやかな奥の院である。本堂の中では、法華経の読経が聞こえてきて、祈祷が行われていたが、その入り口付近では、信徒の方たちが机の上に、お弁当をひろげて談笑していた。ここには、荒行の行われる日蓮宗大本山の厳粛さは何処にもない。まるで公民館のような雰囲気で、いかにも地域や信徒のために開かれた寺だと感心した。このように人々が集い語らい、寛いだ安らぎの空間を提供する場所こそが、日本の寺の本来の姿なのではないかと私は思う。奈良や京都の、鎮護国家のための巨寺大寺は別としても、各地の檀家や信徒の集うお寺は、こういう形で次世代へもつながっていくのだろうと、私は信じている。

暮れゆく平成二十八年。日本人は季節ごとの風物詩を大切にする。各地の祭や伝承、クリスマスなどのイベントごとまで実に様々で、それらを毎日ニュースでも報じている。中でも、年末の風物詩は盛沢山である。京都南座のまねき上げに始まり、流行語大賞、煤払い、冬至から正月へかけての歳時記、清水寺今年の漢字浅草寺の羽子板市、東寺の終い弘法、方々で行われる歳の市など、新旧綯い交ぜに挙げればキリがない。ところで私の暮れの風物詩といえば、競馬のグランプリ有馬記念である。長年競馬を楽しんできた私にとっては、有馬記念こそが年末最大の風物詩。今では馬券購入は専らネットで、競馬場へ足を運ばなくなった。しかし、かつては毎週のように、競馬場や場外馬券場へ通ったものだ。もちろん中山競馬場にもよく通った。有馬記念の時は辟易の大混雑だが、競馬ファンにとって有馬記念は忘年会なのである。まもなく今年も有馬記念が、中山競馬場で開催される。そんな俗人の中の俗塵のすぐ傍に、中山法華経寺はあった。大変不謹慎かもしれないが、日蓮聖人は最後まで俗の人であったわけで、この地に競馬場があることも、おそらく憂いてなどいないのではないかと、勝手に思ったりしている。梅原猛先生は、日蓮をこう評する。「日蓮には冷たい深い思弁も、柔らかい思いやりの心もあるのである。もし、日蓮のような祖師がいなかったら、日本仏教ははなはだ抹香臭い陰気なものになっているに違いない。」中山法華経寺を訪ねてみて、私も梅原先生にまったく同感だとつくづく思った。