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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 増上寺

私は二十数年東京に住み、私なりに大好きな江戸時代と徳川家を覗き見てきた。そんなワケで、今まで増上寺には数え切れぬほど来ている。東京にいる限りは、毎年暮れに増上寺へ参詣し、初詣は上野の寛永寺と決めている。徳川に心酔している私にとって、この二つの寺と、小石川の伝通院、音羽護国寺は、徳川家ゆかりの江戸四大寺院なので、最低でも年に一度は必ず御参りする。此度の本山巡礼にあたり、浄土宗七大本山のひとつに挙げられるこの寺を、避けては通れまい。年末年始の増上寺は混むため、比較的静かな日時を選んで、一年無事に過ごせたことを感謝する、年末恒例のお礼参りを兼ねて訪ねてみた。増上寺には徳川将軍の霊廟がある。個人的な御参り以外にも、観光に来た人にボランティアで案内したこともあるし、歴史や寺社が好きだという友人を連れて歩いたことも多い。現代の東京に、これほどの巨寺は、増上寺と浅草寺以外に見当たらない。だが、浅草寺と決定的に違うところは、普段の増上寺は、とても静かであることだ。初詣や節分、近頃ではライブとか薪能なんかも催されているが、そんなイベントの日以外は、実に静かなのである。浅草寺のそれはそれでいい。あれが浅草である。増上寺は浅草の賑わいには劣れど、天まで突き抜けるような広々とした境内は、いつ来ても気分が良い。

浜松町から増上寺総門である大門をくぐれば、日比谷通りの向こうに朱塗りの立派な三門が、葵の御紋の帳をはためかせて、その雄姿を見せる。三門は正式には三解脱門という。貪り、怒り、愚かさの三つの毒から離れて、極楽浄土に入る心をつくるための門だと云われる。広重など江戸の一流絵師たちにも、挙って描かれてきた三門は、伽藍のほとんどを戦災で失った増上寺に、平成の今も江戸の残影としてここに在る。私は数年前に、この三門に登ったことがある。階上には、釈迦三尊像十六羅漢像が安置されていた。上からの眺めは、今はビルの群ればかりであるが、江戸の頃は、芝浦の沖から房総まで見渡されたとか。私はしばらくそこから離れられず、遠い昔に想いを馳せたものだ。毎年正月、箱根駅伝の選手は、往復この門の前を走る。この三門が今に残ってくれて本当に良かった。この門があるだけで、浄土宗大本山の名に背かない。三門をくぐると、いつも不思議な感覚になる。本堂にあたる大殿の背後に聳える東京タワーが、あたかも五重塔か、ストゥーパの如き仏塔に見えてくるからだ。京都や奈良ではお目にかかれない、東京ならではの寺の風景である。東京タワーのあたりは、もともと増上寺の墓地があったところだから、鎮魂の塔といってもいいかもしれない。タワーが建ってから五十年以上が過ぎてみれば、今では増上寺にはなくてはならぬ絵となった。

三縁山広度院増上寺は、明徳四年(1393)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により、江戸貝塚(今の紀尾井町あたり)に開かれた。徳川家康が江戸に入り、江戸城の増改築のため日比谷へ移転、さらに江戸城外曲輪が広がるに連れて、付近の寺社はさらなる移転を命じられた。神田明神は湯島へ、山王社は溜池へ、増上寺は芝へ。家康のふるさと三河岡崎にある大樹寺が、もともと徳川家の菩提寺であり、浄土宗であったゆえ、家康が江戸入府の際、割合すんなりと増上寺を菩提寺に定めた。いきさつは諸説あるようで、煩いので省くが、そもそも浄土宗は、鎌倉北条政権以来、武家政権に厚く信仰されてきた。それは権門とも、他宗派とも争わぬ、闘わぬ一派であったからで、浄土宗の開祖法然上人の人柄が、そのまま宗派の教えとなり、色となったように思う。同じ浄土門で、のちに袂を分かつ浄土真宗は、一向一揆を見るように、闘う一団になっていった。同じ浄土門でも、教義や行動に違いがあるのが、いかにも日本仏教らしくておもしろい。真宗のことは、いずれ真宗寺院を訪ねた時にまた書くとして、浄土宗は争わない宗派ゆえに、徳川幕府からも庇護されて、大きくなっていったのだ。思うに古来、農耕民族として生きてきた日本人に流れる血を、もっともよく顕した宗派が浄土宗であり、浄土宗は禅宗と並ぶ、日本仏教の代名詞的存在とも言えるのではないだろうか。因みに、「増上」とは仏語で、「力が加わり増大して、強大であること」を意味する。法然が興した易行念仏の教義は、権力者から民衆まで、余すところなく広がり、今日も信仰され続けている。

いうまでもなく浄土宗総本山は、京都の知恩院であるが、徳川時代の増上寺は、知恩院を凌駕するほど大きな力をつけていた。ここは、常時三千名を超える浄土宗の学僧が修学に励む、関東十八壇林の筆頭寺院であった。壇林とは僧侶の養成所、または学問所で、浄土宗においては、関東十八檀林のみが幕府より許可された檀林であった。知恩院法然聖蹟として、格式は高い寺院であったが、当時は総本山という位置付けは明確ではなく、公方様のお膝元に在る増上寺が、浄土宗の中心であったことは間違いないだろう。徳川将軍十五代で、家康と家光は日光、慶喜谷中霊園に埋葬されたが、残りの六人ずつが増上寺と寛永寺に埋葬されている。増上寺と寛永寺は双璧の菩提寺となるが、江戸開府以前から徳川家に付き従い、家康の葬儀も増上寺で行われたことから、増上寺としては将軍家の菩提寺は当山という自負があり、はじめのうちは寛永寺と悶着もあったらしい。だが、六代家宣を増上寺に埋葬し、以後は交互に歴代将軍を埋葬するというのが慣例となる。さらには寛永寺江戸城の鬼門を、増上寺は裏鬼門を守護するという役割も担っていた。最後まで揉めずに、現実を受け入れる姿勢を持ったところに、浄土宗らしい争わぬ寛容さが垣間見える。それが結果的に、増上寺をさらに大きくし、日本有数の大寺院へと発展させるのである。

今でも境内は一万五千坪以上あるが、往時は二十五万坪もあった。寺領は大名並の一万余石。境内には、四十八の塔頭子院、学寮百数十軒が立ち並び、寺格百万石とも称えられた。かつては伽藍を取り巻くように、徳川家の霊廟が配されていて、日光に匹敵するほどの絢爛な佇まいを魅せていたが、昭和の戦争で灰燼に帰した。当時の古写真が残っており、その壮麗さが偲ばれる。実に残念至極。今、此処にあの荘厳な霊廟があれば、きっと世界遺産であろう。私は明治三十四年に描かれた、増上寺の鳥瞰図を持っているが、今の芝公園から東京タワー、飯倉のあたりまですべて増上寺である。それを見ているだけで心が躍る。

永井荷風は幼い頃に両親とこの霊廟を訪ねて以来、ここに魅せられた一人である。明治四十三年に書かれた随筆「霊廟」では、ヴェルサイユ宮殿にも劣らないと絶賛している。荷風は、同じく徳川家の菩提寺である小石川伝通院の近くで育ち、随筆「伝通院」でも、パリにはノートルダムがあり、浅草には観音堂があり、小石川には伝通院があるという。荷風が、増上寺霊廟も、伝通院も、フランスの世界的名建築と比較しても劣らないと言ったのも、いかにも明治人として、西洋への対抗心を露にした感があるが、これはあながちハッタリとも思えない。かつてそれほどのものが、圧倒的存在感を放ちここに建っていたことは事実である。鬱蒼たる森に囲まれて、歴代将軍と徳川一族の霊廟が、燦然と点在していたのだ。増上寺は徳川家の総菩提所であった。

二代秀忠の正室お江と、十四代家茂の正室和宮。いずれも御台所として、一人は戦国を生き抜き、徳川政権初期を支え、一人は幕末動乱を生き、江戸無血開城と徳川家存続に多大なる働きをした。この二人の波乱に満ちた生涯は、実にドラマティックで、いつか私も描いてみたい人物である。二人とも今は、一箇所に肩を寄せ合うように並べられた徳川家霊廟で、最愛の夫の横で安らかに眠っている。大殿に隣接する安国殿には、家康の念持仏として有名な黒本尊が安置されている。黒本尊は長い間、香に燻されて黒いお姿となった阿弥陀如来立像で、和宮は家茂が上洛の折、この黒本尊を大奥へ勧請し、毎日御百度を踏み、熱心に夫の無事を祈願されたと云われる。明治以前、男たちの荒らした後の始末は、女たちが担うのが、この国の伝統であった。昔の人は、男も女もそれを重々わかっていたから、あえて男尊女卑な振る舞いを許し、名目上は男を立てて誤魔化したのかもしれない。そのあたりが、今、声高に叫ばれる男女同権よりも、はるかに格好良く、日本人には合っていると私は思う。本当にここぞという時に、力を発揮するのに男女の別などありはしない。ひけらかす今の風潮に、先人たちは何を思うであろうか。

巨大な増上寺の伽藍にあって、圓光大師堂は、最近の増上寺で、私が一番のお気に入りの場所である。いつも閑散としていて、静かなのが何よりで、大殿のいかめしい甍を眺めながら、ぼんやりと佇むのは心地よいものだ。景光殿に寄り添うように、和宮ゆかりの貞恭庵という茶室があり、このあたりにさらに落ち着いた風情を添えている。

増上寺周辺には、江戸時代からの見所も多い。今ではずいぶん数が少なくなったものの、戦前までは多くの子院塔頭がひしめいていて、寺町を形成していた。秀忠廟の手前には今も残る芝東照宮がある。今はこじんまりと佇む芝東照宮だが、神君家康公を祀る東照宮は、昔はかなり大きく、家康の院号から東照宮安国院殿とも呼ばれていた。

大門の近くには、芝神明宮がある。関東のお伊勢様と呼ばれ、幕府大名から江戸庶民に崇敬された。このあたりには昔、岡場所や陰間茶屋などの売春宿から、芝居小屋まであり、東海道往来の旅人や、おかげ参りをする人々で大いに賑わった。芝居や講談で有名な「め組の喧嘩」の舞台はここである。

北に少し、江戸城の方に行けば愛宕山がある。山頂には、家康が京都の愛宕山より勧請した愛宕神社が鎮座している。私はここが大好きだ。江戸の名残を随所に感じることができる。漂う空気が江戸なのである。愛宕山は東京23区で最も高い山で、出世の石段と呼ばれる階段は、相当に急な傾斜である。この日もちょっと寄ってみたが、身延山久遠寺の菩提梯には及ばぬものの、久しぶりにそれを思い出しながら登ってみた。愛宕山は江戸時代、八百八町をみはるかす風光明媚な名所中の名所であった。浮世絵や錦絵にも多く描かれている。また、幕末の桜田事変の当日、決行の浪士たちは、品川宿の旅籠を三々五々に出て、愛宕山頂に集い、降り頻る雪の中、桜田門へ向かった。境内にその記念碑があるが、愛宕神社の裏手には、その時の烈士たちの血の気を含んだ、怨念のようなものを感じる薄気味悪い一角が確かに今も存在する。

愛宕山から増上寺へ歩いていく途中に、曹洞宗の古刹青松寺がある。青松寺はもともと増上寺と同じく貝塚の地にあったが、江戸城拡張により移転、おそらくは増上寺とともに移転したのだろう。あの駒澤大学の前身となった寺であり、今でも東京を代表する曹洞禅の寺である。江戸時代には、高輪泉岳寺駒込吉祥寺と並び江戸曹洞宗の三大道場であった。寺伝によれば、寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。明治八年(1875)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校し、翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併して、今日の駒澤大学へとなったとある。増上寺にしろ、青松寺にしろ芝愛宕の地は、江戸時代の総合大学であり文教地区でもあった。

増上寺の近くで、もうひとつ私好みの江戸へ行ける場所がある。神谷町駅から程近いところにある西久保八幡神社である。ここも大いに江戸の残り香漂う所で、やはり急な石段の上に、ぽっかりと広がる境内はいつ来ても静かである。江戸名所図会にも描かれており、当時は茶店が立ち並び賑わっていた。この神社は池波正太郎の作品にも登場する。芝神明も西久保八幡も寛弘年間(1004~1012)の創建と云われるから、増上寺より遥かに古い社である。増上寺の表を芝神明が、裏手を西久保八幡が守るように鎮座しているのも興味深い。

最後に永井荷風の随筆「霊廟」から、増上寺と現代の江戸東京を語るにもっとも印象的、かつ相応しいと感じた文章を、少し長いが原文のまま引用したいと思う。

「己に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山の大伽藍を灰燼となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くて美しいものは見る見る滅びて行き新しくて好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接しえるのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在なるの道を照す燈火である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処に頼るべき途があろう。」

かつて私は、この一文を読んで、とてつもない感銘を受けた。そして、ただ好きな歴史、日本史を漫然と趣味としてやるのではなく、これから先を生きる未来の日本人から、私の生きた時代が「恥ずべき時代」と罵られないためにも、しっかりと歴史と先人達を見て、学び、確かめながら、守るべきものは護り、受け入れるべきものは寛容に、上手に受け入れながら、次世代へとつないでいかねばならぬと心に誓った。私の出来る事といえば、文章を書くことくらいであるが、百年後、千年後の人々から、二十一世紀とはどういう時代であったのかを、今、同時代を生きる人々と共に、誇らしく知らしめてやりたい。それが私の一番の野望であり、願いである。この日本仏教本山巡礼も、そうしたモニュメントのひとつとなれば幸甚の至り。増上寺という寺が、年始のカウントダウンのイベントをはじめ、現代東京の市井の人々に寄り添い、また浄土宗信者の崇敬を集めながらも、今も高尚な威厳を維持している意味がよくわかった。増上寺は、浄土宗大本山として、徳川家の寺として、東京の寺院の王者としての風格を纏い、二十一世紀も大東京の真ん中に君臨する。