弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

掛け違いから得たもの

先日、職場で得難い体験をした。私は、自分の業務上、十分に理解していたことを、失敗したくないがために、念のための確認のために、上司にお伺いを立てた。すると、上司は、私と目もあわせずに、「はいそうですね。」とだけ答え、黙々と自分の仕事をしている。その時の上司の態度に、私は、ついイラっとしてしまい、同時にがっかりもした。人間関係とは、慣れてくれば、こんな態度になるのかと思った。しかしよくよく考えてみれば、もっともであると納得もした。私自身、もっと自分に自信を持って、仕事に挑めばよかったのである。実際、お伺いを立てるほどの案件でなく、その程度の確認であった。あとから思えば、あの時、上司の虫の居所が悪かったのかもしれないし、私としても、わざわざ確認しなくてもよかったと後悔し、その日は一日気分が晴れなかった。このときのやりとりでふと思いついたことがある。

もしかすると、元禄赤穂事件でも、吉良上野介浅野内匠頭の間には、ほんの少しの隙間があり、それを埋める間もなく、事態が進行した結果、あの様な次第になったのではなかろうか。過去に起きた歴史的大事件も、ほんの少し会話がすれ違い、相互の考えやモノの捉え方に一瞬の齟齬があり、それが追い討ちのように相手への態度となって現れる。こうしたことがボタンの掛け違えとなり、軋みが生まれて、ひいては相手への思いやりは、消え失せてしまった。その結果だったのかもしれない。平治の乱も、南北朝の争いも、応仁の乱も、本能寺の変も、桜田門外の変もまた然りである。もちろんそこには、現代では思いもよらぬ、政治的思惑や、熾烈な覇権争いも絡んでくるわけだが、こうしたことは過去から現代まで枚挙に暇もなく、これからも変わらぬ人間の性であろう。我々人間が生きている間、普遍的に起こり続けるているのである。だから、未だに争いは絶えない。

だが一方で、日本人は聖徳太子以来、和を尊ぶ民族である。それが、今を生きる私たちにも、間違いなく平等に染み付いていると私は信じたい。こんな風に気持ちを改めるのも、日本人ならではの民族性を、持っているからだとつくづくと思う。今回の職場での体験から、学ぶべきことは多かった。それにしても、歴史や過去、すでに鬼籍の方々は偉いものだと思う。今を生きる我らより、あちらの人々の方が数も多く、増え続ける一方で、いずれ私も、今を生きる者すべてが、等しくあちらへ旅立つ。生身の我らは少数であり、なんと孤独で寂しいことか。こういうチマチマしたことで思い悩むのも、馬鹿げている。私は、死の苦しみが怖くないといえば、嘘になるが、あちらへ行くのは楽しみで仕方がない。偉大なる歴史上の人物、尊敬する作家、愛する家族や友達や動物たち。逢いたい人がたくさんいる。でも今、生きている中でどれだけのことを成せるのか。せめて、己の役割をほんの一つ、いやほんの一匙でも果たして、みんなに逢いに行きたいとは思っている。