弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 寛永寺

私は家でよく香を焚く。香煙をくゆらせると、穏やかな気持ちになれるし、書くことや読むことにも集中できる。伽羅や沈香が好みであるが、高価なのでなかなか手が出せない。そんな時に見つけたのが、「東叡香」という寛永寺の香である。箱のデザインからして、比叡山の「叡山香」とだいたい同じ物だと思うが、叡山香の半額で、二百本も入っている。一箱で半年ほどは楽しめる。その香りはおごそかで、心休まる白檀の香り。東叡香は線香で、本来は仏前にあげるものだが、私は気に入って、普段使いの香として、ありがたく愛用させてもらっている。

東京で一番好きな寺はどこかと訊かれたら、私は迷わず寛永寺と答える。それほど、この寺への思い入れは深い。徳川家の菩提寺は、増上寺や伝通院など、江戸にいくつかあるが、寛永寺にある特別な想いを抱くのは、この寺が重い重い歴史に埋もれているからだ。私は毎年元日に、寛永寺にお詣りするのがここ数年の恒例だ。そして参詣後に、東叡香をいただいて帰る。展覧会で上野に行く度にお詣りするから、寛永寺はとても身近な寺である。寛永寺のことはずっと書きたかった。だが、好きな寺であるがゆえに、簡単には書けなかった。好きなモノ、愛しい人については、なかなか言い表せぬものだ。寺もまた同じである。こういう寺が私にはいくつかあるが、寛永寺もそうであった。

平成二十九年元日。風一つない穏やかな快晴。今年も寛永寺へ初詣だ。そして、昨年から始めた日本仏教の本山を巡る旅。今年最初は、何おう天台宗大本山で、関東総本山である寛永寺である。今回はT君に加え、旅仲間のI子さんにも同行してもらう。正月の寛永寺参詣で、何が一番良いかと言えば、とても空いているということ。一年の初めから、雑踏に飛び込んで辟易するなんて、真っ平御免蒙りたい。私にとって寛永寺は、心静かに初詣できる浄土である。もっとも、お詣りする時間も、元日の午後からであるから、人出も減っているのだろう。大晦日、除夜の鐘を撞く頃は、この寺も行列ができるらしいが、それを避ければ静かなものだ。敢えてそんな寛永寺に行く。だいたい、普段から混雑する寺ではない。寛永寺は今でも、徳川宗家の菩提寺であり、明治以降は広く一般にも檀家を募ったので、徳川家のみならず、多くの人々の菩提寺である。これほど有名な寺なのに、観光寺院ではない。寛永寺墓地には、犬公方や、天璋院篤姫も眠るが、徳川家霊廟は団体予約しなくては参拝できないし、十五代慶喜が謹慎したと伝わる「葵の間」も、同じく予約制なので、簡単には拝観できない。このあたりが、この寺から喧騒を追いやっている一因でもあろう。そしてまたどこか物寂しい印象がある。増上寺は今も誇らしげに大伽藍を見せつけているが、寛永寺にそんな雰囲気は皆無。静かな寺である。

寛永寺を憶うとき、諸行無常という言葉が、実感としてまざまざと迫ってくる。この寺は幕末まで、徳川将軍家の祈願所兼菩提寺であり、比叡山に代わり天台宗総本山であり、山主は天皇の皇子(法親王)から選ばれる門跡寺院でもあった。おそらく、江戸時代を通して、これほど巨大な力を持った寺は、寛永寺をおいて他になかったであろう。山主は輪王寺宮と呼ばれ、将軍継嗣問題にも口を出せるほど、幕府の信頼は絶大で、御三家を凌ぐ権勢を誇ったという。 ゆえに寺領も広大であった。今の上野公園と、谷中霊園一帯のほとんどが寛永寺の境内であり、多くの子院塔頭がひしめいていた。今は塔頭の数もずいぶんと減り、開山堂の裏手の一角に、十ヶ寺ほどが肩を寄せ合って建っているが、傍目には民家のようで、よくよく見ないと寺とは気づかない。上野を俗に「お山」と呼ぶのは、東叡山があるからである。 徳川三代に仕え、幕藩体制の礎を築いた天海大僧正は、京都に倣い、江戸の町づくりにも陰陽道や風水を取り入れた。江戸城を中心に、鬼門の直線上に神田明神寛永寺→日光山を配し、裏鬼門に山王社→増上寺久能山を配する。とりわけ上野には力を入れた。北から南への一筋を軸として、江戸城から「の」の字を描く放射状に、町は拡大し続けてゆく。それは明治から戦後へ、そして今の首都圏発展にもつながっている。

慈眼大師天海は、その生い立ちも諸説ある。出生年は定かではないが、陸奥国大沼郡高田(福島県会津美里町高田)の、豪族蘆名氏の一族に生まれたことは、概ね違いないようだ。幼少から英邁といわれ、出家して随風と称した。十一歳で宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、やがて比叡山へ登る。その後も、三井寺興福寺へも出入りして、倶舎、三論、唯識、華厳、禅、密教と幅広く修した。元亀二年(1571)、織田信長比叡山焼き打ちのあと、武田信玄の招きを受けて甲斐国に移住。その後、天正十九年(1591)には、茨城稲敷の江戸崎不動院に入り、慶長四年(1599)に川越の仙波喜多院に入った。このあたりから、僧侶としての名声が聴こえ始め、徳川家康の知遇を得て、ブレーンに抜擢される。関ヶ原勝利のあとは、徳川幕府の宗教顧問となり、叡山探題となって、信長焼き討ち後の復興に尽力する。延暦寺の再興を果たした天海は、一時は栃木の宗光寺、群馬の長楽寺など、北関東の寺に住するも、老骨なんとやらで、しょっちゅう江戸や駿府に出てきて、政に参画していく。

関ヶ原を制した家康は、征夷大将軍となり、江戸を政治の中心に定めた。着実に地盤を固めていった家康には、その政権を支える多くのブレーンが存在した。その一人ひとりが、実に個性的かつ有能で、皆が己が役割と、分をわかっていたように思う。それが徳川一強の源泉ではなかったか。特に天海と、南禅寺の以心崇伝は重用され、徳川政権発足当初の法整備や、征夷大将軍の権威作りに大きな功績がある。武家諸法度、諸士法度、禁中並公家諸法度、寺院法度など、天海が助言して、崇伝が起草し取りまとめている。そして、豊臣家を滅亡に追い込んだのも、方広寺の鐘の問題も含めて、策謀を廻らしたのは、この二人であった。だが、家康が亡くなって、神として祀ることになった時、二人は対立することになる。崇伝が神号を明神とすべきと言ったのに対し、天海は権現とすべしと言う。明神は、豊臣秀吉豊国大明神と同じであり、豊臣家は滅亡したのだから不吉であると言い、何よりも自分は家康から直々に遺言を受けていると言う。この一言で決着がつき、崇伝は失脚した。以後も天海は、秀忠と家光に重用されて、百八歳まで妖怪の如く日本仏教界に君臨し、幕府の威を借りて号令をかけた。明智光秀ではなかったか?など、様々な言い伝えがあるが、これは眉唾で、一介の僧侶ではないところから出た噂にすぎない。しかしそう思われても、致し方ないほど、妖しいまでの世渡り上手であった。そしてまた、僧侶としての高い見識と仁徳が備わっていて、権力者をも惹きつける、魅力ある人物であったと想像される。こうして、寛永寺の完成をみて、徳川幕藩体制も仕上がったとみてよい。 天海とはいったい何者であろうか。はっきりした部分もあり、謎の部分もまた多い。

家康亡き後、大僧正となり日本仏教界に隠然たる影響力を誇示するようになった天海は、いよいよ総仕上げにかかる。寛永二年(1625)、大御所秀忠や三代家光に進言し、藤堂高虎に忍ヶ岡の土地を寄進させて、寛永寺を建立。自ら初代山主となる。山号は東の叡山、東叡山。延暦寺に倣い、寺号は時の元号から寛永寺とした。不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島と同じく弁天を祀り、山内には清水寺に見立てて、懸造の観音堂を建立。諸大名も挙って堂宇を寄進し、法華堂、常行堂、鐘楼、大仏、東照宮も建てられた。これでもかの念の入れようだが、こうして江戸幕府は、二百六十四年続いたのだから、四神相応は果たされていたといえよう。 そして天海の最後の野望は、天皇家より山主を迎え門跡寺院とし、寛永寺に格式と箔を付与することであった。実現すれば公武の絆となる。さらには、徳川幕府繁栄の扇の要は、ここ寛永寺であると誰もが認識するであろう。幕府がある限り、寛永寺天台宗の一派は力を保持できるのだ。それこそが天海の狙いであったと私は思う。少し想像を逞しゅうすれば、天海は最澄への回帰を願いながら、その僧名からも、空海にも憧れていて、この平安仏教界の両巨人の良いところを、自身に擬えていたのではなかろうか。その最後の願いは、天海が入滅後、四代家綱の御代に実現する。正保四年(1647)、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が山主となると、東叡山は、日光山、比叡山と併せて三山と呼ばれ、天台宗を管掌した。増上寺も江戸時代を通して、知恩院よりも力を持っていたが、ここ寛永寺も、比叡山から総本山のお株を奪っていた。浅草寺も傘下におさめて、徳川将軍家の祈願所であり、菩提寺であり、何にしても将軍のお膝元にあることで、その威容を誇ったのである。天海亡きあとも、その意思は引き継がれて、五代綱吉の御代に、巨大な根本中堂が落慶。ここに東叡山寛永寺が完成した。八代吉宗の御代には、堂塔伽藍三十余り、子院塔頭三十六坊、境内寺域三十万五千坪、寺領一万一千七百石に及び、増上寺を凌ぐ江戸一番の巨刹であった。江戸一番ということは、すなわち日本一の大寺院である。それはまた、日本一徳川の色濃い寺で、「徳川の徳川による徳川のための寺」、それが東叡山寛永寺であった。が、皮肉なことに、後にそのことが、この寺の運命を狂わせることになる。

ここで最盛期の寛永寺を見てみよう。下谷広小路(現上野広小路)の先には、不忍池から流れ出た掘割があって、三橋と呼ばれる三本の橋が架かっている。真ん中の橋は将軍専用で、寛永寺御成の時に使用した。その先には黒門と呼ばれる総門がある。黒門は冠木門になっていて、寺の門というよりも、まるで山城か戦場の砦の門のようで厳しい。その先の石段を上がれば清水観音堂、大仏、東照宮五重塔が順番に現れる。

花の雲鐘は上野か浅草か 

この芭蕉の有名な句の「上野」とは、大仏の傍にある「時の鐘」のことで、今でも正午と朝夕六時に時を告げている。鐘楼の下には、花園稲荷と五条天神社がある。ここのお稲荷さんは、私の大好きな場所だ。上野公園に行ったならば、ここはぜひとも訪れてほしい。本殿の先には、洞穴のような奥社があり、まことしやかに、狐が出入りするといわれる穴が御神体となっている。その穴の奥からは、ただならぬ冷気と、霊気が漂ってくる。あたりは昼間までも仄暗く、たくさんの狐の像が祀られていて、現代東京に在って、まったくミステリアスな雰囲気に満ち満ちている。その薄気味悪さが、何とも浮き世離れしており、私はいつも江戸へ還ったような気分になる。あそこは時空を超えて、江戸と東京を行き来できる魔所である。上野大仏は、寛永八年(1631)に最初に造られたが、地震で倒壊、そして元禄年間に再建され、大仏殿まで建立された。しかし幕末の上野戦争で、堂宇は焼けて、大仏さまは露座となり、さらに関東大震災でお首が落ちて、昭和戦争の金属供出で胴体は徴用されてしまったという。今はお顔のみが残り、祀られている。大仏さまのお顔は壁に嵌め込まれて、いかにも窮屈そうだ。ありがたいというよりも、とても気の毒に思えてくる。そのお顔には、何度となく天災や人災に巻き込まれて、すべてをつぶさに見てこられた大仏さまの、怒りと哀しみが滲み出ている。さらに進むと上野東照宮と、今では動物園の中に納まる五重塔がある。五重塔上野戦争でも焼けずに、三百八十年近い昔から残ってくれている。上野東照宮は、何年か前に修復されて、往時の輝きを取り戻した。本殿の威風堂々たる佇まい、彫刻の数々は日光や久能山にも劣らずすばらしい。ことに唐門に彫られている昇り龍と降り龍は、夜な夜な不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、あまりに精緻すぎて今にも蠢きそうな迫力がある。東照宮参道の敷石や、諸大名が寄進した灯篭も一見の価値あり。桜の頃や、紅葉の頃、古色蒼然とした五重塔を、この東照宮の参道から眺める時ほど、江戸のよすがに浸れる所はない。かつてはこのあたりに、山門にあたる吉祥閣が屹立していた。

いよいよ寛永寺の中心伽藍である。吉祥閣の奥には、東の釈迦堂と西の阿弥陀堂を渡り廊下でつないだ優美な文殊楼があった。その先には、左に六角塔、右に多宝塔。そしてその奥の光景に、参詣した人々はさぞや圧倒されたことであろう。目の前の巨大建築に、言葉も出なかったに違いない。ここが本堂である根本中堂である。根本中堂は、今の上野公園の大噴水のあたりに、間口四十五・五メートル、奥行き四十二メートル、高さ三十二メートルもの堂々たる佇まいで建っていた。コの字に回廊が巡らされていて、比叡山の根本中堂とほぼ同じ様式であった。中央に巨大な「瑠璃殿」と揮毫された扁額をかかげ、内部には薬師如来を本尊として、日光月光両菩薩、十二神将が居並び、葵の御紋があちこちに配されている。まさに本家の比叡山延暦寺を彷彿とさせ、東大寺の大仏殿にも負けないほどの大伽藍である。実に惜しい。今ここに根本中堂があれば…。私はこのあたりを歩くとき、毎回そう思わずにはいられない。そしてかつて、ここに日本一の大巨刹が、確かに存在したことを想い、瞼の奥に想像し焼き付けるのである。

そういえば寛永寺では、元禄赤穂事件に類似した刃傷事件も起きている。それも赤穂事件からわずか八年後のことだ。宝永六年(1709)六代家宣が、先代綱吉の法要を寛永寺で行った。この時朝廷からは、勅使、院使、東宮使、女院使、中宮使、大准后使が遣わされた。一同は法要に列席し、霊廟に詣でた後、子院顕性院で、幕府による饗応を受ける予定であった。事件は、中宮使の御馳走役を務める前田采女利昌と、大准后使の御馳走役を務める織田監物秀親との間にいざこざがあり、前田采女が織田監物に「このほどの遺恨、覚えたか」と言って刺し殺した。原因は、赤穂事件よりもずっと明らかになっている。家宣将軍の妻、近衛煕子の敬称を、将軍宣下の前は御廉中様と呼ぶか、御台様と呼ぶかで意見がわれたことから二人は対立。采女は御廉中様、監物は御台様と呼ぶべきと言い張る。織田監物はこの時四十八歳、信長へつながる名門で、大和柳本一万石の藩主であったが、いかんせん一万石に不服があったのか、織田家近衛家と信長の時代から深いつながりあり、煕子夫人が輿入れ後も何かとご機嫌伺いをたてて、虎視眈々と名家の復興を目論んでいたふしがある。一方で、前田采女はこの時二十六歳、加賀百万石前田家の血筋であり、大聖寺藩主前田利直の実弟。分家を立てて、こちらも一万石を領した。役者のような美男子であったというが、親子ほども年の離れた二人が、方や権力や名声に執着し、方や眉涼やかな好青年と謳われているのも、赤穂事件に類似している。ほんの些細なきっかけが、掛け違いとなってゆくのだ。監物が采女に対して、饗応当日までに、まるで赤穂事件の時代劇そのままに、いじめや嫌がらせをやって、采女に深い遺恨を与えたといわれる。赤穂事件と違うところは、采女は監物をしとめていることで、その後、幕府から切腹を言い渡され、素直に応じている。無論、采女は覚悟の前であろうが、八年前の赤穂事件で、威信をつぶされかけた幕府は、事を処理するにあたり、内心ひやひやであったと思う。一説では、采女は大奥を取り仕切る年寄絵島と昵懇で、監物殺害を絵島にたきつけられたとも云われる。当時、御台所煕子(後の天英院)と、絵島が付いている左京の方(後の月光院)の派閥抗争に巻き込まれたとのことだが、真相やいかに。もしかすると、後の絵島生島事件の源流は、この時にあったのかもしれない。

根本中堂の裏手が、今の東京国立博物館であるが、ここに寛永寺山主の住まいである御本坊が建っていて、その規模は並の大名屋敷を凌ぐほどであった。今、博物館を一巡していると、裏手に美しい日本庭園や、茶室を見ることができるが、あそこは寛永寺御本坊時代の名残である。そして、その御本坊のさらに裏手が、歴代将軍の眠る徳川家霊廟であった。ここには四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定とその御台所や家族が眠っている。今でも霊廟の勅額門や、手水舎は残っていて、往時の壮観を偲ばせている。

霊廟は、増上寺と同じくほとんど戦災で焼けてしまって、今では周囲を囲む高い石垣のみが残るが、何せ高い石垣と、樹木に覆われているため、容易に中を伺うことはできない。そのおかげで、歴代将軍や、御台所の安眠を妨げてはいないと思う。中で、特筆すべきは、十三代家定正室天璋院篤姫であろう。動乱の只中に徳川家に嫁入りし、夫亡き後の徳川宗家の屋台骨となって、力強く幕末を生き抜いた、稀有な女性であった。共に戦った皇女和宮と、江戸無血開城、徳川家存続、慶喜の助命嘆願などに尽力した功績は大きい。しかし、天璋院和宮も、その波乱の生涯でもっとも辛かったのは、夫をはじめとした多くの愛する人々に先立たれたことではなかったか。その苦しみ、哀しみは計り知れない。歴史的功績よりも、そうした哀しみを乗り越えて、人生を全うした精神力にこそ、私は大いなる魅力を感じる。最初は何かと悶着もあった二人だが、やがて生涯で唯一無二の戦友となった。和宮が病気療養中の箱根で没した時、 天璋院は見舞いに訪れる道中で訃報を聞いた。その時天璋院は、挽歌ともいうべき次の歌を残している。

君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな

同志を失った悲哀が切々と迫ってくる。天璋院は嫁入りしてからも、何度か薩摩へ里帰りする機会もあったが、結局は一度も帰還しなかった。最後まで徳川の人間であり続けたのである。明治十六年(1883)千駄ヶ谷の徳川宗家で、四十七歳でひっそりと亡くなるが、手元金は僅か六万円ほどであったとか。すべてを見尽くして、頂点を極め、その後流転の人生を送った人の、実に潔い最期を憶うとき、私はやはり畏敬の念を抱かずにはいられない。

今は昔。先に述べた寛永寺総門たる黒門は、上野戦争で夥しい弾丸を浴びた。黒門は今、三ノ輪の円通寺という寺に移築されており、たった一日で終結したとはいえ、その弾痕を見ると、戦闘がいかに激しいものであったのかがわかる。最初から幕軍の負け戦であったが、止めは本郷台地からのアームストロング砲の砲撃であったという。大砲が止めとは、徳川が豊臣を滅ぼした大坂の陣に同じである。寛永寺江戸城の身代わりとなって、官幕両軍の鬱憤を受け止めてくれた。まさに、仏が身代わりとなったのである。ここで闘ったのは、最後まで江戸と徳川家を死守しようとした、若人たちであった。無血開城後、いったんは治安もよくなりつつあったが、やはり血気盛んな幕臣や浪人の若者には、抑えきれぬ衝動があった。そして、またそこに付け入ったのが、官軍の血気逸る連中であった。お山を焼いた官軍参謀の西郷さんの銅像が、公園のシンボルのように建っているのも、思えば奇縁である。そしてすぐそばには、彰義隊の墓が江戸城の方を向いて建っている。明るく、人通りも絶えぬ場所に在るのに、私はここに来ると、どうしても重苦しい気持ちになる。これは、会津の白虎隊士の墓の前でも感じたことだ。彰義隊、遊撃隊、二本松少年隊、白虎隊、西南戦争、そして時代はずっと降って太平洋戦争まで、若く輝く美しい命が、無残に散っていった。その始まりともいえるのが、日本の場合は、上野戦争であったかもしれない。人間は追い込まれると、結果的に若く幼い命が犠牲になるのは、今日も、世界で起きている紛争を見れば明らかである。寛永寺を訪れて、彰義隊の墓参をすると、私はいつもそんなことを考えてしまう。

上野戦争で壊滅的被害を受け、大檀家たる徳川家は駿府へ転封、さらには維新後の廃仏毀釈で、寛永寺も荒れ放題となり廃寺寸前となったが、なんとか踏み止まり、世も落ち着いた明治半ばからは、少しずつ復興してきた。今、寛永寺本堂の根本中堂が建っているのは、慶喜が恭順謹慎していた、大慈院という子院のあるところで、本堂は川越喜多院から移築したものである。今の中堂は、往時の中堂には及ばないが、よくみれば実に堂々たる建築で、かつて日本仏教界の頂点に君臨し、今でも天台宗大本山、関東総本山の名に背かぬ佇まいである。中堂内には、本尊の薬師三尊像が厨子の中に安置されているが、秘仏のため、お前立ちの薬師如来を拝む。本尊は、最澄の自作とされ、近江の石津寺に祀られていたものを、根本中堂の建立時に迎えたという。また脇待の日光月光両菩薩は、立石寺から迎えたとか。さらに須弥壇の両脇には、見事な四天王像と、薬師眷属の十二神将が祀られており、なかなか壮観である。東京でこれだけの仏像を一同に拝めるのもうれしい。この中堂では、毎年正月三が日に、歴代将軍の肖像画がお目見えする。油彩で描かれたものだが、場所が場所だけに、まるで歴代将軍に拝謁しているかのような錯覚に陥る。旧中堂の「瑠璃殿」の扁額は焼け残り、今の中堂に掲げられているが、いかにも大きすぎて、ややアンバランスに見えるものの、旧中堂がどれだけ巨大であったのかを偲ぶためには、あそこにあって然りである。境内には、旧中堂の鬼瓦など遺稿も置かれているので、ぜひ見てもらいたい。

今の中堂の裏手が、慶喜が謹慎した「葵の間」がある大慈院だ。慶応四年(1868)二月十二日から、江戸無血開城当日の四月十一日まで、慶喜はここで恭順謹慎を貫いていた。大政奉還、辞官納地をしても許されず、勤皇の水戸家に生まれながらも、屈辱的に朝敵の汚名を着せられた十五代将軍慶喜。初代家康から続いてきた天下人の座を、ついにここ寛永寺を出る時に手放したのである。その時の慶喜の心中ほど図り難いものはない。鬱屈した悔しさであったろうか、はたまた晴ればれとした開放感であったろうか。思えば、この人ほど長い余生を送った人も稀である。大正二年(1913)に亡くなるまで、実に四十五年もの余生である。将軍を辞して、宗家の家督を田安亀之助(十六代当主家達)に譲ってからは、流転の日々を送る。後に明治天皇に許されて、公爵になり、貴族院に列したが、あまり目立つことはなかった。それよりも狩猟、写真、釣り、自転車、顕微鏡、油絵、手芸などの趣味に興じ、いずれも一流で徹底したという。慶喜は家族を愛し、風雅な遁世者としての生活を楽しんでいたようにも思うが、天璋院と同じく、すべてを見尽くした人にしか到達できぬ、冷え寂びた本心を持ち合わせていたのではないか。今に残る隠居後の写真の面差しからは、そんな印象を受ける。

他に開山堂、護国院、現存する堂宇や寛永寺墓地を入れても、現在は三万坪ほどしかないというから、寛永寺は、最盛期の十分の一にまで小さくなってしまった。それでも三万坪もあれば、現代東京ではかなりの大寺院である。何度も言うが、かつての威容を一目でいいから見てみたかった。寛永寺境内には、維新後も戦後も、ビルや民家が建つことはなく、公園として整備されたことは、せめてもの救いである。広大な空と森に囲まれて、清々しい気分に浸れるのは何よりだ。そして私は、今の威張っていない寛永寺も大好きだ。公園の隅に追いやられて、いかにも肩身が狭そうだが、楚々した静かな佇まいが心地よい。寛永寺は、今も上野のお山に在る。私にとって寛永寺は、永遠に追憶の中の巨刹である。私は寛永寺を愛してやまない。