弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

遠き道程

東日本大震災から六年が過ぎた。まことにあっというまの六年。あの日の記憶は、私たちの脳裏に依然として生々しい。ほんのわずかばかり復興はしているが、それでも、震災前に比べたら、いかにも道半ばである。ことに、原発事故の避難地域は、完全に廃墟になっていたり、汚染土が堆く積まれていて、見るに忍びぬ有様だと聴く。飯館村など、原発周辺の町は、徐々に避難指示が解除されているが、果たしてどれだけの人が帰ってくるのだろうか? 昨日の報道ステーションで、飯館村の酪農家の現状をまざまざと見せつけられて、私は大いなる失望と、己の無知無力に、改めて苛まれている。酪農家の男性は、四十年かけて一代で築き上げたものを、原発事故ですべて捨てなければならなかった。人生は無情とは知れど、あまりに惨たらしい。似たり寄ったりこうした方々が、今まだ多くいることを、忘れてはならない。来月は熊本地震から一年である。東北にも、九州にも、被災地には美しい自然があって、そこで育まれてきた重い歴史に溢れている。それは、彼の地の人々が、先人から受け継いできた宝である。さすがに大自然は、人智の及ばぬ逞しさであるが、人間の暮らしは簡単には取り戻せない。飯館村の酪農家の男性は、「わしが生きとる間は、あの汚染土の山は見続けねば仕方ない」と言った。でも、安全基準とされる一人あたりの放射能被曝の年間数値が、全国が1ミリシーベルトなのに、飯館村が20ミリシーベルトであることに、憤りを感じると言われたことが、とても心に残る。そのあたり国は何とするのか。今のところ回答はない。こうして当たり前のことが、曖昧に歪められていることが、実はまだまだ多くあるはずだ。妥協することもまた必要だろうし、そうしないと前に進まぬこともあろう。元通りの暮らしに戻ることは、おそらく向こう百年近くは不可能だろう。でも、かつて我々は多くの震災、戦災から力強く立ち上がってきた。そこに信じたい気持ちもまたある。あの大震災を経験した我々は、多くを失ったが、また同時に何かを得たはずである。現に被災地の子どもたちは、よほど逞しく、しっかりと未来を見据えていることに、私は感動せずにはいられない。ゆえに、この日が来るからだけではなくて、いつも気にかけてゆかねばならぬと痛感している。でなければ、ほったらかしとか、蔑ろにされる人々生まれてしまうのだ。 オリンピックもけっこうなことだが、あの日からまだ、身も心も戻って来れない人がいることを、日本人は肝に銘じて生きていかねばならない。あの時から盛んに叫ばれた絆とはなんだったのか。言葉なんていらぬ。空虚なだけだ。真の気持ちが欲しいのである。左すれば、自ずと答えは出るに違いないと私は思っている。私も、近くじっくりと被災地を訪れてみたい。