弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 豪徳寺

平成があと二年ばかりで終わるかもしれない。こうしてはいられない。何か平成日本を生きた証を残したい。昭和の終わりに生まれて、思春期、青春期、そして壮年期に入った今、人生のほとんどを平成という時代と共に歩いてきた。私が平成時代三十年を生きた証を、次へと伝えたい。とはいえ、私には文章を書くことくらいしか、残せるものはない。昨年来、日本仏教の本山巡礼と坂東三十三観音巡礼をしているが、それとは別に、個人的に行きたい寺社や町について、自由に記してみたい。題して「なおすけの平成古寺巡礼」。平成まで生き存える古寺を訪ねながら、平成日本を眺望してみよう。ただしここでは、抹香臭い仏教の話よりも、私が見つけた、私好みの寺社の風景、興味深い歴史を擁する町、魅力ある人物などについて触れてゆく。これまで訪ね歩いた土地、そしてこれから先に向かう旅の記録となるだろう。話もいろいろと横道に逸れると思うが、あしからず。

 世田谷区は東京でも屈指の人気のある街。だが意外にも区内には九品仏、奥沢神社、等々力不動、目青不動、龍雲寺、世田谷八幡宮、勝光院、烏山寺町など、数多の古社寺が点在する。瀟洒な世田谷に在って、ひっそりと佇む寺社に心惹かれて、私は時々世田谷を歩くのである。そして私が、世田谷区でもっとも足しげく通う寺が、豪徳寺である。

これまで何度か書いてきたが、私は井伊直弼公に私淑している。なぜかを語れば延々なのだが、一言でいえば、覚悟の人であったということに尽きる。大老や藩主としての政治家の顔、居合の達人、そして何よりも茶の湯を愛し、その道を極めんとした半生。どれをとっても格別な魅力に溢れる人だ。私が死んだら、まず初めにお目にかかりたいと願ってやまない。私は、井伊直弼大老就任後、幕政を一手に担い、開国へと舵を切ったことが、まさしくこの国の夜明けそのものであったと信じている。彼のやったことは、あの時の情勢では、本人曰くのとおり「致し方ない」ことであった。

桜田事変について、事新たに述べることはないが、ここから明治維新までわずか八年。桜田事変が、幕末の動乱の呼び水となったことは間違いない。安政七年(1860)三月三日。上巳の節句。江戸在府の諸侯は、節句の日には将軍へ賀詞の拝謁があり、総登城が定められている。陽暦では三月二十四日で、そろそろ 桜の綻ぶ時節。なのに江戸は大雪であった。幕府最高権力者の住まう彦根藩上屋敷は、今の国会前庭のあたりに、広大な敷地を有し建っていた。表門は本郷の加賀藩邸と同じような堂々たる赤門で、三宅坂から桜田門方面を睥睨している。それはいかにも譜代筆頭、大老家に相応しい構えであった。ここから江戸城桜田門までは、わずかに五町(600メートル)ほどだ。大名諸侯の行列は禄高、家格により定めがあり、ことに江戸市中では厳格に守られていた。井伊家は供回り侍二十六人、その他足軽や中間小者併せて六十人余りであった。江戸市中での大老や老中などの幕閣の行列は、「刻み足」と言って、歩幅の小さい早足で歩く。これは、平時から早足ならば、非常時でもそれと悟られぬための手段であった。そして一行は、桜田門前の豊後杵築藩松平大隅守邸前にさしかかる。場所は今の警視庁前。桜田門は目の前である。襲撃開始からわずか三分ほどで首を捕られた直弼の遺骸は、まず胴体だけ藩邸に戻ってきた。

首を持ち去ったのは、唯一の薩摩脱藩士の有村次左衛門。有村自身も後頭部に致命傷の深手を負っており、辰ノ口の遠藤但馬守邸前まで来て力尽き、遠藤邸の門番に首を預けて自刃した。桜田門から辰ノ口の遠藤邸までは、十五町(約1.6キロ)ほどある。この時点で遠藤邸では、いったい何が起きたのか、誰の首なのかなど無論解らず、邸内は混乱した。やがて追ってきた彦根藩士から、半ば強引に引渡しを要求されて、首は胴の待つ彦根藩邸へ帰ってきた。藩医の岡島玄達が、首と胴を縫合し、検死した。その検死録によれば、右の臀部から腰椎へ貫かれた弾痕があると記されている。銃撃したのは、水戸浪士の森五六郎。襲撃犯たちは、まず行列先頭にて彦根藩士らをひきつけておいて、大老の駕籠脇が手薄になったところで、森は直訴状の下に拳銃を隠して近づき、至近距離から発砲したと、近年の研究で解ってきた。弾丸は身体を抜けていたが、直弼はこの一発の弾丸で、ほぼ致命傷を負っていた。下半身は麻痺して、身動きをとれずにいたと思われる。さしもの居合の達人も、どうすることも叶わなかった。

幕府はしばらくの間、大老暗殺を半ば堂々と隠蔽して、取り繕ったことは周知のとおり。よって豪徳寺に葬られたとされ、正式にもここが直弼公の墓所とされるが、数年前に調査した時には、墓に遺骨はなかったという。一説では、惨憺たる状況を鑑み、遺骸は秘密裏に彦根清凉寺や天寧寺、在るいは、彦根藩領である栃木佐野の天応寺へ埋葬されたとも云われる。詳しくは未だ明らかではないが、私もこのあたりは調べてみたいと思っている。しかし、やはりここ豪徳寺こそが、直弼公の墓であることに変わりはない。大老の墓の後ろには、これを守護するように「桜田殉難八士の碑」。その横には直弼の忠僕として、墓守をした遠城謙道の墓がある。彦根藩足軽であった謙道は、主君の死後、忠節を持って、開国論の正しさを同志とともに訴えるなど、その生涯を井伊直弼に捧げた。直弼の政敵であった一橋派が政権を握ると、彦根藩は十万石の減封、京都守護の罷免などあからさまに幕府から虐げられた。これに激怒した謙道は、決起して老中井上正直邸に自訴し、自害する企てをするも、事前に発覚して、彦根にて謹慎となる。ここで悲憤した謙道は、出家して、豪徳寺で直弼公の墓守となった。墓の門前に起居し、朝に夕に墓を掃除して、主君の供養三昧の日々を送る。明治三十四年(1901)に七十九歳で亡くなるまで、三十七年も墓守を続けたという。その間、直弼公直伝の和歌、俳句、書画を嗜み、その作はわずかばかり残されている。

この庵に住むこそ無二の浄土なれ

謙道は、おそらく茶の湯や居合の心得も持ち合わせていたであろう。謙道の画賛に自らを描いたものがあり、それをを見ると、冷え寂びた遁世者の面影が如実に感じられる。それはすべてを見尽くした人にしか成せぬ、成れの果ての姿であった。

豪徳寺のすぐ近くに、世田谷城址公園がある。かつて一帯を本拠としたのは、鎌倉公方に仕えた奥州吉良氏で、応永年間にこの地に世田谷城を築いた。今も壁のような土塁や、深い堀の址を、生々しく見ることができる。世田谷城は、要塞のような、出城のような、なかなかに堅固な砦であったと思われる。秀吉の小田原征伐の際、吉良氏は北条方に味方し、戦後世田谷城は没収されて廃城となった。文明十二年(1480)、この地を治めた吉良忠政は、伯母である弘徳院への孝養のため寺を建立。長らくこの寺を弘徳院と称した。臨済宗の昌誉上人を開山に迎え、百年後の天正十二年(1584)に、門庵宗関によって臨済宗から曹洞宗に改宗された。徳川時代には、この地が井伊家の領地となり、二代藩主直孝がこの寺に縁があり、堂宇を寄進した。直孝はここに葬られ、その時に寺名を直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に肖り、豪徳寺に改めたという。豪徳寺の目と鼻の先には、茅葺屋根の代官屋敷が江戸時代の面影をとどめて建っているが、あそこが彦根藩の代官である大場氏の館であった。

井伊の赤備えの力を、存分に見せつけるかの威容を誇る豪徳寺。その雰囲気は今も失われてはいない。参道には美しい松並木があり、奥に山門を眺めれば、なるほど古寺の風格を感じる。山門を入れば、すぐ左手に三重塔。十二年ほど前に再建されたもので、出来たばかりの頃は、木の香のむせた塔も、十年の歳月を経てすっかり古寺に馴染んでいる。正面に延宝五年(1677)に建立の仏殿が、堂々たる姿を見せているが、仏殿以外は奥の本堂や、僧堂は戦後に復興されたものだ。本堂は、本山の鶴見總持寺の大祖堂を小振りにしたような趣きで、のしかかるような大屋根は、男性的な力強さを感じる。確かに日本の建築は、木造がもっとも美しく、そこにあるべきものとして、自然と喧嘩をせずにすむのかも知れない。が、今のコンクリートで作った堂宇も、見様によっては、それほど悪くもなく、むしろ現代の禅宗寺院には、このくらいの重く硬い力強さが要されてもよい。書院と庫裏は古色蒼然として、相当に大きく立派である。聴くところによれば、旧佐倉藩堀田家の江戸屋敷内にあった建物を譲り受けて、関東大震災後に移築再建したものらしい。書院造と数寄屋建築の特徴を併せ持つ二階建てで、幕末の建築であると推測されている。江戸の武家屋敷の面影を随所に感じられ、天下の総城下町江戸のよすがを垣間見ることができる。

豪徳寺は招き猫の寺として有名である。三重塔のそばに招福殿と呼ばれる猫観音を祀るお堂があり、昔から商人や花柳界の人々に信仰されてきたが、どういうわけか最近は若い人から外国人にも、秘かな人気を集めている。久しぶりにそこへ行ってみたが、私は奉納された招き猫の数に仰天した。その数は年々増え続けている。ここで貰った招き猫は、願いが叶えば、こちらのお堂脇にお返しするのが慣わしらしいが、以前よりもずっと数が多くなっている。人気に火が点いている証であろう。これだけの招き猫を見ると、少し薄気味悪い感じもするが、不思議と違和感は覚えない。ここがなぜ、招き猫の発祥と云われるのか。井伊家二代藩主の直孝は、在る夏の昼下がり、郎党を引き連れて、武蔵野に遠乗りに出かけた。砂塵を蹴り立てて、弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに手を拱いている。これを見た郎党の若衆は、無礼千万、挙動怪しく、変化の類ではないかと、まさに抜打ちにしようするのを、直孝は「しばらく」と言ってこれを止めた。行き過ぎんとすると、猫は再び招くので、寺内に入ると、一天俄かに曇り、雷鳴豪雨と相成った。この危難を免れたことで、直孝は奇縁を感じて、以後も度々訪れて、いつか井伊家菩提寺となったという。この猫は当時の住職の愛猫でタマといった。この猫の招きが豪徳寺にも福を招き、その後の隆盛となった。猫は如意輪観音の化身だという伝説もあり、猫塚は信者から奉納された招き猫や絵馬で埋め尽くされているが、そこに美しい如意輪観音の石仏があって、あたかも招き猫たちは、この観音さまを守る眷族の如く付き従っているように見える。豪徳寺は今、曹洞宗の禅寺とか、井伊家菩提寺というよりも、招き猫の寺としての人気を確立しつつある。

井伊直弼は、彦根藩十三代直中の十四男として生まれ、兄弟たちは本家や分家を継ぎ、或いは他家の養子となったが、直弼だけが居残ってしまう。これも運命といえようか。十七歳から三十二歳までの十五年間を、三百俵の部屋住みとして過ごした。彦根城三の丸の尾末町御屋敷を「埋木舎」と名付けたが、私は決してその時の直弼に、ただの不遇を感じないのである。もちろんその時、当の本人は、歯がゆい思いを抱いていたであろうが、何となく、いずれ自分が表舞台に上がることを予感していたような気がしてならない。故に普段から、そのための準備と稽古を怠らなかった。早朝から夜遅くまで、曹洞禅、書画、和歌、茶の湯能楽兵学、居合、槍術、さらに長野主膳に師事し、国学をはじめとした学問の修養に勉めた。睡眠時間は一日五時間あれば十分といい、寝る間を惜しんで勤しんだ。まさしく文武両道、いずれも一流の域に達していたという。これらは文化人として生きてゆくという決意と同時に、いつでも表舞台へ立つ用意でもあったはずだ。直弼ほどの人物ならば、そう考えるのが自然であろう。泰然自若たるを弁えていたのも、清凉寺の仏洲仙英禅師を師と仰ぎ、少年時代から参禅し続けて身になったからに違いない。そして、なんと云っても、彼を語るに極めつけは、茶の湯であろう。茶の道を極めんと、ひたすらに精進した。直弼の墓に刻まれた戒名「宗観院柳暁覚翁大居士」は自ら考えたものだが、宗観とは直弼の茶の号である。一期一会、独座観念に至る極意は、平成の今を慌しく生きる私たちに、時と、場所と、出逢いの大切さを教えてくれる。直弼の精神の根幹には、禅と茶の湯があった。

直弼は歌もまた多く詠んでいる。私の好きな歌をここにいくつか挙げたい。

茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ心の水をともにこそ汲め

何をかはふみもとむべきおのづから道にかなへる道ぞこの道

霞より花より春の色をまつきしにみせたる青柳の糸

そよと吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳

雨雲は立覆ふとも望月のくもらぬ影ぞ空に知らるる

影見せて過ぎし蛍の名残りかも蓬が窓の露の白玉

梓弓かけ渡したる一筋の矢たけ心ぞ武士の常

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

春浅み野中の清水氷ゐて底の心を汲む人ぞなき

咲きかけしたけき心の花ふさはちりてぞいとど春の匂ひぬる

これらの歌からは、何も語らずとも直弼の為人が知れよう。井伊直弼の人生は、舟橋聖一氏の小説のとおり、まさしく花の生涯であった。私にとって井伊直弼は、人生の手本であり、茶道の師匠であり、哲学者でもある。私はこれからも一生をかけて、その生涯を追い続ける。豪徳寺もまた花の寺。此度は仏殿前の梅の木が、残んの花を散らせていた。境内はまもなく桜が咲こう。ことに庫裏の前の大枝垂は、溜息ばかりの見事さである。思えば、井伊直弼が散ったのは奇しくも桜田門外。江戸城には他にも多くの門があるが、あの事変は桜田門でなければ収まりがつかない。桜田門が舞台であることに、私は何か歴史が成せる業を感じずにはいられない。豪徳寺には、桜がもっとも似つかわしい。