弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

世界は何処へ向かうのか

3月にロンドンで起きた暴走車によるテロで、轢かれたあげくに、ウエストミンスター橋からテムズ川に転落した女性が、先日亡くなった。半月ほどは、生命維持装置により延命していたが、恋人や家族の意思で、装置は取り払われた。遺族の遣る瀬無い想いや如何許りか、察しもつかないほどである。彼らはこの後、どうして生きてゆけるのか。何の罪も無い人たちが、次々にテロや戦争の犠牲となってゆく。 シリアでは自国民に対し、化学兵器が使われて、白目を剥いた子供たちの映像は、目も当てられなかった。これはNHKの「映像の世紀」ではなく、我々の生きている今、現実に起きていることだ。現実なのである。サンクトペテルブルクでも、地下鉄で爆破テロがあり、古代から今日まで中東は揉め続けている。それらの国の背後から、死神の如く操り迫る米露中。北朝鮮は、この五十年で最も危険な状況に相成り果て、第二次朝鮮戦争は目前に迫っている感が濃厚だ。そんな時に韓国は、大統領が罷免され、国家の足元が極めてぐらついているため、必然的にアメリカが動かざるを得ない。

日本はといえば、相変わらず政治と金の話題ばかり。オリンピックも結構だが、あまり浮かれていては、とんでも無い目に遭うと思う。起きてからでは遅いのだ。この国はいつも、後手後手が得意だから、対岸の火事としらばっくれて様子見を決め込む。かねてより、時代に即したなどど言うのであれば、日本人一人ひとりが今を見据えて、或いは長期的に、建設的に物事を捉え、気づき、進んでゆかねばならないと思う。一方で、熊本地震東日本大震災で、時が止まったままの日本人がいる。置き去りの人がいるのに、自分のことばかりの輩が多すぎるのが、この国の現状だ。置き去りにしてる人が悪いわけではない。どちらも気の毒である。そんな世の中になったのは、戦後からここまでの道程に、大きな歪みが生まれたからに他ならない。が、立ち止まってばかりもいられぬほど、事態は逼迫している。どうしたら、お互いが滑らかに寄り添えるのかを考えることも必要だと思う。世界だけではなく、日本国内でも、貧困、孤独、被災、虐め、無差別殺人などで苦しんでいる人が多勢いる。そのすべてに寄り添うことは無理でも、自己主義、利己主義は棄て去らねば、本当に行き止まりになってしまうだろう。夏目漱石や、司馬遼太郎が指摘したように、日露戦争以降の四十年間、国民は政府や軍部、或いはマスコミに踊らされた。でもまた同時に、それらを信じて、買い被り過ぎた国民も、今思えば、洗脳と半狂乱の間に居たと言わざるを得ない。 日本人は歴史に学んできた。人間の歴史が繰り返すのは定めであるが、思考して問題解決の糸口を探ることができるのもまた人間である。繰り返さないことも今ならば、今の私たちならばできるであろう。ポピュリズムが扇状に広がり過ぎて、その要は外れてしまった。民主主義はもう飽和状態。崩壊はそう遠くないかもしれぬ。その前に、これまでの日本の歩みを見直して、これからどう進み、降りていけばいいのか、真剣に考える時は今だと思う。