弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

スラヴ叙事詩

私は学生時代に吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。その時に、チャイコフスキーのスラヴ行進曲を演奏したことがある。不気味な低音からやんわりと始まり、何とも暗く重苦しい主旋律を奏でる。あのメロディは一度聴いたら忘れ得ず、私の頭の中を終始駆けめぐっていた。曲はスラヴ民謡を謳いながら、時に勇ましく、時に優しく展開して、最後は華々しく幕を閉じる壮大な叙情曲である。また或る時は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲を演奏した。物哀しい旋律だが、ひとときの安らぎも感じさせる曲である。スラヴ行進曲もスラヴ舞曲も、自分で演奏していても感動したが、後にカラヤン指揮のベルリンフィルの録音を聴いて、その荘厳な響きに心を打たれた。それは中学二年の夏で、初めてスラヴという言葉を知り、スラヴ人とかスラヴの歴史に少しばかり触れたのを想い出す。以来、折々にスラヴの事を知ったり、聞いたりするうちに、私の中にはスラヴや東欧への関心が芽生えていった。 東欧は西欧に比べて、何となく陰湿で、寒々しいイメージがあるが、私はそういうところにこそ大いなる魅力を感じる。未だ訪れてはいないが、いつかは方々旅してみたいと願っている。東欧は音楽の都ウィーンを擁し、オーストリアだけではなく、ヨーロッパ王家や民族が複雑に入り混じり、重厚で濃密な歴史が秘められている。西欧とロシアと中東に囲まれた東欧は、ユーラシア大陸の臍のような場所で、小国が集まり大国に睨まれて、人々は小さく慎ましやかに暮らしている。時にはその小国同士がくっついたりすることがあるが、人種も多様なため、なかなかうまくはいかない。

今、国立新美術館ミュシャ展が開催されている。晩年の大作「スラヴ叙事詩」全二十枚が、母国チェコ以外では初めて同時公開されるとあって、毎日盛況である。私も楽しみにしていたので、先日、夕方から出かけてきた。これほどの大作を目の前にすると、誰もが息をのむであろう。それほど圧倒的存在感を放つ作品群である。スラヴ叙事詩の前に立つと、またスラヴ行進曲を想い出した。眺めている間中ずっと、スラヴ行進曲やスラヴ舞曲が私の中で流れている。私はそれらの音楽とミュシャの描いたスラヴ叙事詩だけで、スラヴやスラヴ人のことを解ったつもりは毛頭ない。その程度でわかるはずもない。だが、果てしなく遠い東欧に対する憧憬と、一筋縄では辿れぬ重き歴史に想いを馳せるには充分であった。

単一民族たる日本人でも、アイヌや島の人々との揉め事はある。でも、スラヴ人とかユダヤ人とかイスラム圏の人々のように、何千年も血腥く混迷を繰り返しているわけではないので、彼の地の人々の気持ちや文化などは計り知れない。一つ言えるのは、大きい方が譲り、小さい方を受け入れてゆかねば、何も始まらないだろう。残念ながらそれは難しいことで、人類の永遠の課題である。人類とはそれを課せられた種であり、我々が滅亡するまでは解けぬ呪縛なのかもしれない。

スラヴとはどのあたりかといえば、あまりにも漠然としてしまうが、何となくあの辺りとは想像できる。スラヴ人の歴史は古く、先史時代に遡るとされるが、一口にスラヴ人と断定するのも大変難しい。東欧、中欧に暮らし、東スラヴ人、西スラブ人、南スラブ人に大別される。万年流浪の民ともいえ、血塗られた哀しい歴史は果てしなく今も続く。一説では、スラヴがギリシャ語を介して奴隷を意味する原語となったとも云われる。私などには、想像もつかないが、いつの世も小国は大国に翻弄され、巻き込まれて、代理戦争の犠牲となる。もしかするとユダヤ人以上に、長く暗い民族の性を引き継いできたのかもしれない。

スラヴ叙事詩は、私のようなスラヴのことに無知な人間にも、大変わかりやすく、スラヴの歴史を端的に見せてくれる。それは、「原故郷のスラヴ民族」という衝撃的なシーンから始まる。異民族の襲撃に怯え隠れるスラヴ人の男女の恐怖の眼差しが、絵と向き合う者に助けを求めてくる。迫りくる異民族は、まるで悪魔の様で、絵画なのにとても不気味で恐ろしい。あの眼差しは助けを求めているのか、もしかしたら異民族に対する憎悪なのか、平和に暮らす者達への嫉みの眼差しなのか。或いは現代人への警告なのか。本当の恐怖の前では、人は固まるという。この絵からは、そんな人間の本質が、表裏一体となって抉りとられている。スラヴ叙事詩はこの一枚に極まると言っても良いほど、単刀直入にスラヴ民族の艱難辛苦を表現している。スラヴの歴史を二十枚もの大作で描き切るが、ほとんどが戦闘、逃亡、戦死、征圧、従僕に焦点されていて、悲哀に満ちた一枚一枚に胸を打たれる。しかし、スラヴ人には厚き信仰があり、それを糧とし望みとして、最後は奴隷解放からスラヴ民族の独立と平和、人類友愛の希望と、神の後光に包まれながら、壮大なスラヴ叙事詩は幕を閉じる。まるでスラヴ行進曲をそのままを辿るようで、絵画と音楽が融合してスラヴ人の偉大なる忍耐力を見せつけられた思いがする。最後は共にスラヴの夢を謳い、まるで西方極楽浄土へと誘われているかの様な気分になり、強く強く私の心に残った。

アルフォンス・ミュシャといえば、アールヌーヴォーを代表するアーティストで、二十世紀から現代絵画へとつながる先駆けとなった画家でもある。ミュシャは1860年にオーストリア帝国モラヴィア(現在のチェコ)で生まれた。二十八歳でパリへ赴き、花の都で洗練された彼は、一気に時代の寵児へと駆け上がる。パリ万博から、有名劇場の公演のポスターを多く手がけ、アールヌーヴォーの旗手として世界中にファンを生んだ。その作品は日本にもあり、堺市美術館には多くのポスターが蔵されている。伝説の舞台女優サラ・ベルナールは、自ら指名してミュシャに自分の舞台公演のポスターを依頼した。中で、極めつけともいえるのが、1896年に描かれた一枚で、妖艶な自信に満ち溢れたその表情から察するに、サラ・ベルナール絶頂の時に違いない。そこを見事正確に捉えたミュシャの筆にも充足感が漂っていて、女優というよりも、今、降臨した女神の如くにみえる。ミュシャは以後も、何作も彼女の舞台のポスターを手がけている。

人気実力ともに最高の時を迎えたミュシャだったが、人はそんな時にこそ、ある種の空虚な気持ちに襲われるものだ。パリで成功し、誰にも慕われ、富も名声も築き上げた彼は、愛されれば愛されるほど、言い様のない孤独感に苛まれたのかもしれない。まして今の自分とは対象的な己の出自を鑑みて、或る時、行動せざるを得なくなったのだろう。民族への誇りと慰めと尊敬が、必然の衝動としてミュシャを動かしたのだ。一説では、スメタナ組曲「わが祖国」を聴いて、インスピレーションが沸いたとも云われている。いずれミュシャは沖へ戻る波のように、1910年に故郷へと帰った。 スラヴ叙事詩という大作を描く着想を得たミュシャは、パリ時代からのパトロンで、アメリカの富豪チャールズ・クレーンから資金援助を受けながら、ツテを頼りプラハ郊外のズビロフ城を借りて居住。天井の高い広々とした古城の一室を、スラヴ叙事詩を描くためのアトリエにした。そこでこの二十枚の集大成を、二十年の歳月をかけて描き切ったのである。ミュシャの画家としての執念と、直向きさには感服するし、快く城を明け渡して、協力した人の心意気にも感動する。何れにしろ、この大作を日本で見られることは当分ないだろう。見逃すべからず。私はいつかチェコに行って、スラヴ叙事詩が誕生した彼の地で、再会したいと思っている。その時は、また違う心持ちとなるのだろうか。