弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 榛名山

四月の末、坂東三十三観音巡礼で群馬県にある二箇寺へお参りした。十五番白岩観音と十六番水澤観音である。坂東巡礼記は満願の暁に記すつもりだが、巡礼のついでに寄り道した土地や寺社については、ここで書いてみたいと思う。群馬県は関東でも特に広々としたイメージがある。埼玉の大宮あたりを過ぎると、高層建築や住宅も減って、遠くの山並が遥か見渡されるようになる。確かに、関東平野の真っ只中にいることを、誰もが実感するであろう。いかに広大な関東平野を覚るはずだ。そして利根川を越えて、群馬県に入れば、信州や越州との境のキワまで平地で、その先にはまるで関八州を護る砦のように、山壁が連なっている。上州は名峰が多いが、上毛三山とは、赤城山妙義山榛名山の三つの山で、いずれも神山として古代から崇められてきた。高崎や前橋のあたりからは、上毛三山をみはるかすことができる。いずれも、神の坐す山に相応しい山容をしている。私には、妙義山は荒々しく男性的で、赤城山はなだらかで女性的、榛名山は男女どちらも兼ねた両性具有の山に見える。赤城山妙義山は連山の呼称だが、榛名山は独立峰だ。この日も春霞の彼方に、まるで水墨画のように、上毛三山が神々しく浮かんで見えた。

まずは太田市の世良田東照宮へお詣りする。世良田東照宮は、寛永二十一年(1644)の創建で、日光東照宮の旧社殿が移築されている。つまりは、徳川二代将軍秀忠が建てた社で、三代家光が今の絢爛な社殿に改築したことで、ここへ移築された。日光よりもずっと小ぶりだが、朱塗りの低い屋根は徳川の威風を示すには十分。堂々たる建築である。よく見れば、各地の東照宮と同様に、細かい細工や彫刻があったり、内部には三十六歌仙の額が奉納されている。それでも決して主張し過ぎないところが、何事も質素を好み、控えめな二代将軍の色が反映されていると云えようか。社殿も境内も美々しくて気持ちが良い。また、一人の参拝客もおらず静かであった。このあたりは、律令時代から新田荘という荘園があって、東照宮の建っているところに、主の新田氏の居館が在ったとされる。境内を含む周辺が、新田荘遺跡として国の史跡となっており、新田氏縁の寺社が点在する。世良田東照宮と地続きの敷地には、長楽寺という寺があり、ここの住持だったのが天海大僧正である。それが縁で日光改築の際、この地に社殿が移築されたのだ。家康は駿府城で亡くなると、その日のうちに久能山に葬られたが、遺言により一年後に日光山に改葬された。改葬ルートは、久能山から三島、小田原、中原、府中、川越仙波、忍、佐野、鹿沼、日光という道程であった。忍や佐野は世良田とは目と鼻であり、川越も天海と関わりある喜多院があるのをみると、久能山から仙波、世良田、日光に東照宮を建立し、家康改葬の聖なる道筋としたのではあるまいか。ここにも徳川の威光を天下に知らしめたプロデューサー天海の尽力があった。長楽寺の庭は、草木も池もあまり手を入れず自然に任せてある。ちょうどツツジが満開で、若葉に包まれた庭は、噎せ返るほど晩春の気が充満している。長楽寺は、承久三年(1221)臨済宗の寺として創建された。開基はこの地を治めた世良田義季、開山が臨済僧栄朝。鎌倉から室町時代にかけては、新田家や鎌倉公方足利家の帰依を受けて、一時は臨済宗関東十刹に数えられた。元々この地は徳川家と縁が深い。世良田義季は、徳川氏の祖とも云われる。徳川家康は関東に入府すると、自らは新田氏から分かれた世良田氏の末裔であるとした。律令時代からの由緒ある血筋であり、清和源氏たる新田氏と同筋であることを、半ば強引にも示したかったのだろうか。世良田氏鎌倉幕府滅亡から動乱に巻き込まれてゆく。南北朝時代には一時南朝方に付いて、三河の松平郷に住したというから、このあたりがルーツとなったのだろう。世良田東照宮から車で五分くらいの早川の畔に、徳川町という集落があり、徳川氏発祥の地と云われている。ここには縁切寺でも名高い満徳寺という寺があり、同じ場所に徳川東照宮が鎮座している。赤城山を望む畑の真ん中にひっそりと佇む徳川東照宮は、ささやかながらも由緒を感じさせる。

このあと水澤観音へお詣りして、名物の水澤うどんで腹ごしらえ。水澤はその名のとおり、名水の湧くところで、観音様の境内にも、清らかで甘い水が止め処なく湧いている。源泉はおそらく榛名山にあるのだろう。渾々と湧き出でる水を眺めていると、榛名の鼓動とも血流とも思えてくる。榛名は生きているのだ。うどんはいい按配のコシで美味しかった。うどん屋を出て、伊香保温泉は素通りして榛名山へ登る。伊香保榛名山の恩恵を受ける名湯である。榛名山は有史以前から度々噴火を繰り返してきた。近年、六世紀の火砕流に巻き込まれたと思われる甲を着装した成人男性の人骨が発掘されたり、近くで遺跡も見つかっていることから、日本のポンペイとも称されている。榛名山山麓に、温泉、水、肥沃な土地を与えている。まさしく古代から崇められた神山に相応しい。麓は良い天気で、快適なドライブであったが、榛名山に登り始めると、急に空模様が怪しくなり、物凄い勢いで雲が棚引いてゆく。途中の展望台からは、赤城山から、谷川連峰、雪を冠する白根の山々まで遠望できて、身も心も解放された。が、背後にはこれから向かう榛名山の頂が、相変わらず不気味に雲間から見えつ隠れつしている。榛名湖までたどり着いた時には、暴風雨になり、荒ぶる湖面からは白波が押し寄せる。まるで、榛名山が私達の入山を拒んでいるかの様だ。こんな所に長居は無用。榛名の神の怒りなのか、歓迎なのかわからぬが、山頂へは登らずに、そそくさと山を下りた。 来た道とは反対に下って、榛名神社にお詣りする。用明天皇元年(586)の創建という榛名神社は、さすがに堂々たる社であった。長い参道からして歴史を感じさせるが、楼門から本殿まで行けども行けどもたどりつかない。途中、滝があったり、広重にも描かれた修験者の行場があったりする。参道には五重塔もあり、修験道の山では今も神仏混淆が失われていない。徳川時代には、東叡山寛永寺の傘下となって幕府からも庇護された。おそらくは庶民が講を組んで参詣したのだろう。故に、広重にも名所として描かれた。修験者のみならず庶民にも崇められたのも、徳川幕府の力によるが、赤城山妙義山と、世良田東照宮や長楽寺との位置関係を考えてみれば、榛名山こそが上毛の信仰の中心であることがはっきりする。さらには上毛三山を三尊仏に見立てると、榛名山が中尊であり、曼荼羅の核とも見える。古代から神山とされたことも、この地に立ち、ここで暮らせばわかるであろう。そしてまた榛名山修験道の霊地でもある。それを物語るかのように、神社全体が巨巌に取り囲まれて、それに守護されるように建っている。境内には巨石が累々と屹立し、恰も天狗の鼻のような歪な石があったり、仁王像の如く直立不動の岩もある。ただならぬ榛名の山の霊気に接する思いで眺めていたが、折からの青嵐が、尚更、巌の群れを厳粛に見せるのであった。

ここから白岩観音へと下り、ついでに安中市の北野寺に寄ってみる。彦根藩の二代藩主井伊直孝は、幼少の一時期をこの寺で過ごした。北関東には、井伊家の飛び地がいくつかあって、ここもその一部であった。井伊直政の嫡男直勝と同年の天正十八年(1590)に生まれた直孝は、生母の実家や親戚宅などで数年を過ごしていた。生母は直政の正室の侍女で、正室や直勝への遠慮があったという説もあるが、関ヶ原の合戦の頃、直孝はまだ幼く、世情不安定な時に我が子を守るために、関西から遠いこの地に密かに匿われたのだろう。直政はこの地の萩原図書という家臣に、北野寺で直孝の養育を任せた。直孝は、地元の子どもたちを集めて合戦ごっこに明け暮れる活発な少年であった。幼いころから直勝よりも聡明であった直孝を、いずれは後継者にと、直政も主君である家康も考えていた節もある。直孝は直勝よりも家臣団を率いる統率力を備えていたとも云われ、いつのまにか彦根の本領を直孝に、安中のこの地が直勝へ与えられた。譜代筆頭の礎を築く時には、何といっても主君徳川の命は絶対で、幕藩体制の見本となるべく奔走した井伊家は、御家騒動には発展せずに、見事に丸く収めてゆく。隠蔽したのか、握り潰したのかは知らないが、直孝も直勝も、己の道と、生きる術をわきまえていたような気がしてならない。私には、井伊家の存在を確かめる時、それが井伊家の家訓であったと思う。そしてまた直虎、直政、直孝から歴代藩主へと受け継がれてゆく、井伊の家風でもあった。井伊家当主は代々、直の字を用いるが、その名のとおり幕末の直弼まで、実直に徳川家の御恩に報い、奉公したのである。直孝は、幼い日に北野寺で過ごした恩を忘れず、その後も井伊家は北野寺を庇護した。永和元年(1375)、醍醐寺の僧慶秀により開山された北野寺。境内は楚々した佇まいで、実に良い雰囲気の寺である。私が行った時は、残んの八重桜が新緑に映えていた。本堂の隣には威徳神社という社が建っている。祭神は菅原道真で、すなわち天満宮である。創建は建治二年(1276)で、江戸時代までは北野天満宮と呼ばれていて、明治になって改称したらしい。北野寺もこの社から命名されたのであろう。ここでも神仏は合祀されている。上毛は廃仏毀釈に対して大人しい地域であったのか。北野寺の西には、妙義山がすぐに迫る。あの奇岩の山は、見様によっては涅槃図や、観音様の横顔に見える。北野寺開山の慶秀という坊さんは、この地に何か霊的な力を感じたに違いない。上毛の地は、まだまだ秘められた歴史がありそうだ。私の興味は尽きない。