弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

空を摑んで

先日、母方の祖母が亡くなった。享年九十二歳の大往生であった。私は祖母の臨終に立ち会うことは出来なかったが、亡くなる前日から、祖母は目を閉じたまま、しきりに空を摑もうとしていたらしい。食事もほとんど摂らず、寝たきりとなっていた祖母が、何度も何度も手を挙げて、何かを摑み切れずに溜息をつく。それを繰り返し千回以上もやったというから、驚きであった。か細くなった身体のどこにそのような力が残っていたのだろう。本当に最後の力を振り絞ったのだ。捉えたい空の中に何が見え、何が在ったのか知る由もないが、きっと先に逝った祖父か、最愛の息子の幻影が現れたに違いないと私は思う。繰り返すうちに、ついに祖母はその向こうの誰かと、手を携えること叶ったと信じたい。その時、安らかに息をひきとったのだ。奇しくも、祖父の命日に召された祖母。祖父が迎えに来てくれたのだろうと、親族の誰もが思った。

 祖母は若い頃から文句ひとつ言わずに、専業主婦を全うした。両親の仕事の都合で少女時代は、台湾で過ごしたと聞いた。だが、その台湾で戦火に巻き込まれて、肩先を被弾した。散弾銃の生々しい傷跡は、終生消えず、私は幼い頃一緒に風呂に入った時に見て、その事を教えてもらった。今から三十年近く前には、姉妹でその時の思い出を辿る台湾旅行にも行った。その時の写真は穏やかな表情をしている。私にはいつも優しくて、お洒落で、料理がとびきり上手な祖母であった。今、私は料理が好きで自炊しているが、料理の手ほどきは亡くなった祖母から受けた。祖母の作る料理の味を、私の舌は覚えている。ことに、鯵の南蛮漬け、冬瓜のスープ、彼岸に作るおはぎ、毎年漬けていた梅干しは絶品だった。そして、正月には重箱のおせち。伊達巻、田作り、きんとん、金柑の煮付けなどなど、今ではとんと見かけなくなった、御節料理がいつもあった。いわゆる昔ながらの日本の正月を、祖母のおかげで辛うじて私は経験できたのである。こうして私に、旬の物を食すという習慣を、自然に植え付けてくれた。感謝してもしきれない。私には子供はいないが、目に入れても痛くないほどかわいい姪っ子が二人いる。私の役割は、祖母の味や想いを彼女たちに少しでも教え、繋げることだと思っている。手料理、節句、風物詩、そして旬ということ。祖母から得た教えを継ぐことが、私の祖母への唯一無二の手向けだと信じたい。六十過ぎからはリュウマチに苦しんだが、よくここまで色々諸々を辛抱して、生き抜いたと思う。心から感謝の意と、冥福を祈るばかり。ちなみに父方の祖母は、大正六年生まれの御歳百歳。いまだ健在である。