弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

弔辞

次の東京五輪、選手の活躍は大いに期待し、まことに楽しみであるが、開催過程には目も当てられないほどケチがついた。負の遺産ばかりが目立つ。そして、ついにもっとも激烈で、あってはならぬ事が起こってしまった。すったもんだの挙げ句、昨年末から始まった新国立競技場の建設現場で、とうとう死人が出てしまう。しかもまだ、二十三歳のうら若き青年が、過労のために、鬱になってしまい、自ら命をたったのだ。事故ではなく、自殺なのである。何たることか。オリンピックは若者が夢を抱き、叶え、楽しむ最高の舞台のはずが、哀れなりこの始末。日本社会の歪みここに極まれり。政治の腐敗、利権闘争が引き起こしたに他ならない。青年は、昨年から新入社員として、建設会社に入り、新国立競技場の現場の一部の監督助手のような立場であった。亡くなる前、一ヶ月前後は、毎日朝四時に起きて、帰宅は夜中、休むのは深夜一時だったとか。こんな事が、少しばかり報道されて、罷り素通りしてゆく日本とは、今どんな国なのか。残念というよりも、惨憺たる薄気味悪さである。私たちは、このまま2020年を歓喜して迎えてよいのか。私にはとても無理そうである。過労と精神的に追い込まれて自殺者を出してしまった五輪なんか、祭典ではない。そもそもが、東日本大震災の復興五輪なぞと嘯き、現地は道半ばというに、挙げ句、現場でもこのザマ。沙汰の限りである。もううんざりだ。

現在、件の国立競技場は、まるでプロントザウルスが林立するかの如く、巨大なクレーンが首をひっきりなしに動かしている。この首の下では、男たちが、女たちが身を粉にして戦っているのだ。国立競技場だけではない。これから、さらに整備を急ぐ施設がまだたくさんある。過労死、長時間労働、イジメ、大丈夫か?日本。こんなことでは、身体は酷使して削がれ、心は乱れてやがて砕けてしまう。ゆとりなど露ほどもない。日本人は時代を逆行どころか、人間として退化してしまったように映る。世界に目を向ければ、日本人よりもはるかに経済的に困っている人々がいる。混沌とした情勢は、さらに混迷の度合いを深めているのも空恐ろしい。であればこそ、こんな時代だからこそ、このような事件が起きてしまったことに、凄まじい怒りを覚える。八月がやってくる、予々申し上げてきたが、日本の八月とは、供養の月。その前に七月には祇園会、山笠、隅田川花火などの夏祭りが各地で開かれた。祭とは五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄、神々への感謝とともに、死者への鎮魂の意味も込められている。私たち日本人は、昔からそうして祖先を敬い、追い落とした敵をリスペクトし、成し得るまでに柱や踏み台となった人を慰撫したのである。2020年東京五輪は、亡くなった彼の屍の上で行われるという事実を、我々は肝に銘じておかねばならない。それを忘れて、失くして、見て見ぬ振りをしてしまえば、日本に明光な未来はあるまいと私は思う。日本人、東京人、曲がりなりにも一人の大人として、私は亡くなった彼に詫びたい。心より彼の冥福を祈り、ご遺族には謹んで哀悼の意を表します。