弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 天應寺

盛夏の候、三ヶ月ぶりに坂東巡礼に出かけた。此度は、栃木県の満願寺、中禅寺、大谷寺の三ヶ寺にお参りして、帰りがけに佐野市の天應寺に立ち寄る。江戸期、このあたり一帯は彦根藩の飛び地で、天應寺は井伊家の菩提寺とされた。下野国は奥州道が貫く要衝の地ゆえ、関東の地固めをする者には、まさに鬼門であった。それは徳川幕府にとっても例外ではなく、家康は自ら鬼門を封じるべく東照大権現と相成り、日光山に鎮座した。下野国に封じられた大名も錚々たる顔ぶれで、譜代筆頭の井伊家がこの地を領したのも、宜なるかなと思う。

現在の佐野市は、市町村合併でずいぶん広い町になった。天應寺は佐野市堀米という地区にある。堀米から少し北へ行くと、田沼という駅があって、ここが旧安蘇郡田沼町だ。徳川中期、六百石の小姓から五万七千石の大名に上り詰め、老中首座となり幕政を主導したのが田沼意次である。この時代を田沼時代と呼ぶ。私は田沼意次が好きだ。成り上がりとは彼のことだろうが、成り上がりでも何でも、泰平の徳川幕閣で田沼意次ほど先を見据えて仕事をした政治家はいない。近年では賄賂政治家の疑惑もずいぶん晴れたが、歴史に関心が無ければ、やはり田沼意次=賄賂という印象を持つ人も多い。さらなる疑惑払拭に努めるのが、意次を敬愛する私の役割とも思い始めている。田沼町はその田沼意次に所縁の地である。田沼氏はもとはこの地を領した佐野氏の分流で、家臣筋であった。家祖とされる佐野庄司政俊から六代あとの壱岐守重綱がこの地に移り住み、田沼を名乗ったのが始まりと云われる。その後、鎌倉から室町時代にかけては鎌倉公方に仕え、戦国時代は上杉家、武田家など主家を転々とした。大坂夏の陣から徳川家に仕え、家康からも信頼されて、紀州藩初代となる徳川頼宣の家臣団に加わった。八代将軍吉宗に取り立てられて、意次の父意行の代からさらに芽を伸ばしてゆく。このあたり、平氏が平家にのし上がってゆく経緯と実によく似ており、田沼家もまた似た様な栄枯盛衰を味わうのである。一方、佐野氏の本家は当地に細々と残って、徳川時代もなんとか最下級の旗本として存続した。意次の嫡子で若年寄田沼意知は、天明四年(1784)江戸城内で、佐野氏子孫の佐野善左衛門政言という旗本に切られて死んだ。佐野善左衛門がなぜ殿中で刃傷に及んだのか、憶測は様々で、田沼氏が佐野氏に連なる家系図を借りて返さなかったとか、田沼にあった佐野大明神を田沼大明神に改称したとかいう説がある。佐野善左衛門は、田沼意次の権威に何度も取り入って、自身の出世と佐野家の家格向上を目指したが、田沼家からは無碍にされたという。その恨み、妬み、嫉みは凄まじく、殺意は意次ではなく、敢えて嫡子意知へ向けられた。それはこの先、田沼家を没落させんがために巧妙に企てられた事であったと私は思う。この一件は後に改めて書いてみたいと思う。

話がずいぶんと寄り道したが、天應寺は県道から少し入った田圃の奥のささやかな丘の上に建っていた。門前には青い稲穂がすくすくと育ち、田圃のキワには、蓮が植えらていて、ちょうど盛りを迎えていた。寺へのアプローチとしては申し分ない風景である。天應寺は曹洞宗の禅寺で、寛永年間に井伊家二代目の直孝によってこの地に建てられた。今では、地域の檀信徒の寺らしい佇まいだが、楚々とした中に気品が感じられるのも、井伊家菩提寺たる格式を失っていないからであろう。境内は本堂と庫裏があるだけで、あとは裏手に広大な墓地が広がっている。その突き当たりは、ひときわ高い丘になっていて、その場所が井伊家の墓所らしい。長らく佐野家が納めたこの地だが、徳川家にとっては外様の佐野家から没収して、大直参の井伊家に与えた。 墓所の丘へ登ってみた。振り返れば、暑さを忘れる涼やかな風が吹き抜けてくる。さほど高くもない丘だが、あたりが広大な下野の原なので、ここに立つと、下野一円を手にした心持ちになる。この良きところに、井伊の殿様のうち、二代直孝、三代直澄、十三代直弼の三人の墓がある。

安政七年(1860)三月三日、桜田門外の変で散った井伊直弼は、襲撃開始からわずか数分で首級を捕られた。時の最高権力者で、居合の達人でもある直弼にしては、あまりに呆気ない最期であった。最近の研究では、襲撃合図の一発の弾丸ですでに瀕死の重傷を負っていたという。森五六郎という水戸浪士が、直弼の駕籠のわずか数メートルの至近距離から発砲し、弾丸は右の臀部から脊髄へ抜けた。脊髄を損傷したことで、この時点で直弼は下半身が麻痺して、身動きできぬ状態であった。薩摩浪士有村次左衛門に奪われた首は、桜田門から和田倉門近くの近江三上藩遠藤胤統邸前まで持ち去られたが、有村も後頭部に深手を負っており、ここで力尽きて、門番に首を預けると自刃した。誰の首かもわからぬまま、押し付けられた遠藤家ではてんやわんやの大騒ぎとなる。下手をすれば、自藩も騒動に巻き込まれる恐れもあった。すぐに、彦根藩邸から追手が来て、遠藤家に首を引き渡すよう要求。通常こうした場合、然るべき手続きを踏んだ上で、慎重に時間をかけて引き渡す定まりで、この時も彦根藩士の再三の引き渡し要求に、遠藤家側は断固拒否、いったん公儀へ届出し、誰の首かを確認できるまでは渡せぬと引かなかった。幕府、井伊家、遠藤家の三者で相談して、同じくこの事変で亡くなった彦根藩士加賀九郎太の首と偽って、ようやく大老の首を取り戻したという。遠藤胤統は若年寄で直弼の部下でもあり幕閣の一員。最高権力者の顔を知らぬはずもなく、きっと直弼と分かってはいたことだろう。しかし遠藤家としても、これが一大事であることは心得ていたに違いなく、咄嗟に幕府や井伊家と示し合わせて、一芝居打ったのかもしれない。首を引き渡した遠藤家は、正直、ホッとしたことだろう。

かくして井伊直弼の首は、無残に分断された胴体の元へ帰ってきた。すぐ様、藩医の岡島玄建にて検死が行われて、首と胴体を縫合した。このあと、直弼の遺体はしばらく藩邸に霊安され、幕府は公式発表では、瀕死の重傷で伏せているとした。大老暗殺による幕府の権威失墜を恐れたのである。夕方には将軍家より見舞いが届いたが、白昼のこととて、目撃者も多く、大老暗殺のニュースは江戸中に知れ渡っていた。文字通り取り繕うしかない幕府は、とりあえず嫡子直憲が跡目と確定した三月二十八日まで、床に伏せていると誤魔化し、大老の死を隠匿した。

直弼の墓所は世田谷の豪徳寺と定り、現在も正式には豪徳寺が墓となっている。しかし一説によれば、遺体はこの天應寺とか、彦根にある井伊家菩提寺清凉寺、もしくは天寧寺、或いは龍潭寺へ埋葬されたとも云われている。ここからは、あくまでも私の推理であるが、直弼の死を隠匿することと、新たな刺客に備えるために、幕府と彦根藩で談合の上、埋葬地を明らかにせず、様々な噂を振り撒いたのではないか。豪徳寺は江戸近郊すぎるし、彦根はあまりにも遠い。とすれば、この佐野の地は東北の佐幕グループ(奥羽列藩同盟)にも近く、この時は未だ安全な地であったことを考えれば、一時的に遺体を避難させるには絶好の場所であったと思う。天應寺の直弼の墓には、遺髪が埋葬されていると聴いたが、はじめは遺体を仮埋葬し、時勢が落ち着いた後に、遺髪のみを当地に残して、骨は豪徳寺彦根へ分骨改葬されたのではないか。ところが、何年か前に、豪徳寺で直弼の墓の調査をしたところ、何も無かったというから、謎は深まるばかりである。

これも邪推にすぎないが、遺髪は天應寺、遺体はより安全で静かな彦根のどこかへと運ばれたのでないかと思う。正式には豪徳寺が墓であるが、直弼の本当の墓は、もしかすると永久にわからないかもしれない。しかし、直弼の魂は彦根に在り、江戸に在り、ここ天應寺にも密かに在る。少なくともこの日天應寺を訪ねてみて、私はそう感じたのであった。幕末の一時期、この国の最高権力者は相違なく井伊直弼であった。彼ほどの人物でも本当の墓場がどこかなのかわからない。藤原道長もそうらしいが、日本史に確かな足跡を残した人物が、どこで眠っているのか知れないというところが、私などには底知れぬ興味と、大いなる空想を掻き立てられる。謎めいた現地を訪ね歩いてみれば、尚更その思いは増してゆくのであった。