弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

胡耀邦という人

先日、NHKスペシャルで、中国の胡耀邦元総書記をやっていた。三十年前の中国の指導者について、私はほとんど無知であったが、今回少しばかり胡耀邦のことを知って、あのように親しみやすく、大らかな中国指導者がいたことに感銘を受けた。胡耀邦が掲げた政治スローガンこそが、いわゆる改革開放であった。当時、発展道半ばの中国にとって、何よりも経済成長を遂げることが、人民のためと信じて疑わなかった。それは、胡耀邦自身の政治家として、中国共産党の一員として、てっぺんまで登りつめるまでの苦労と経験から、身をもって悟ったことらしい。若い頃は、田舎の不毛地帯へ赴任して、畑仕事などの農作業にも従事した。そこで貧しい人々と共に、中国の現実を見つめ、地方の疲弊と辛酸を味わった。持ち前の向上心と努力、そしてその人柄から知己を得て、少しずつ頭角を現し、中央政界へと進出。柔和な物腰と思考の反面、中央地方一体で発展させねばならないという強い信念と、反骨精神を併せもっていた。何よりも雑巾掛けを惜しまなかったから、総書記の地位まで昇ったのであろう。戦後目覚ましい発展を遂げ、当時、世界第二位の経済大国となった、かつての敵である日本から、多くを学ぼうと努めた。日本と親しく、優しく、果敢に交流した。北京には、三千人の日本の若者を招待したり、日本人を前にした演説でも、日中友好と両国の互恵繁栄を高らかに叫んだりした。

作家の山崎豊子は、「大地の子」の執筆のため、長らく中国で取材をしていた。その時、胡耀邦に何度かインタビューしており、靖国神社のことまで聴いている。胡耀邦は、靖国に合祀された戦犯全員を分祀すれば、日中関係は安泰だ。少なくとも、まずはA級戦犯だけでも分祀すれば、関係が悪化したり滞ることないと断言した。もっともこうした発言が、保守派の不審と反発を招き、失脚への源になってゆくのだが、胡耀邦は本気であった。靖国問題は今に続く問題で、私自身は戦犯の分祀にこだわりもなく、中韓があまりに騒ぎすぎとも思ってしまうが、胡耀邦の柔軟な考え方や未来志向には感心した。歴史には一時代を四十年という周期で、捉える見方がある。胡耀邦は、あの当時、つまり1980年代当時には、非現実的なことも、四十年先の人には理解できるか、当たり前になっているだろうと言った。或いは、自分の目指す国家像の実現には四十年かかるともとれる。

これまで、私は改革開放路線を邁進したのは、当時の中国共産党の最高実力者である鄧小平だと思っていた。しかし、まことの改革者は胡耀邦であった。胡耀邦を失脚に追い込んだ張本人が、鄧小平である。鄧小平は、結党以来の幹部で八大元老と呼ばれた長老たちを束ね、自らが総書記や、国家主席に就くことはなく、キングメーカーの如く、隠然たる影響力を誇示した。鄧小平が、首を縦に振らねば政治はできない。胡耀邦が勝てる相手ではなかった。八大元老や保守派は、胡耀邦の経済、言論の自由などの改革に異を唱えて、進言や苦言を呈したが、結果的には胡耀邦を引き摺り下ろしてしまう。胡耀邦中国共産党序列一位から、五位に降格し、それこそ戦犯のように扱われてしまう。だが、彼らは意気消沈せず、なおも改革に意欲をみせていた矢先に急死。これが、引き金となり、民主化、改革を求める若者が徒党を組んで、六四天安門事件に発展するのだ。中国は、清王朝末期にも類似の事件が起きている。西太后が、甥の光緒帝に親政を許した途端、光緒帝と側近の若手官僚らは、あまりにも改革を急ぎすきだ挙句、西太后頤和園に幽閉しようとした。だが、事前に察知した西太后は激怒。さっさと頤和園を脱出し、紫禁城に乗り込んだ。クーデターは失敗。逆に光緒帝が幽閉され、若手官僚は失脚した。八十年後の中国でも、形や組織は違えど、そっくりな出来事が起きたのである。 胡耀邦は笑顔の人である。あの面差しは実に良い。あんな穏やかで、友愛に満ち溢れた中国の指導者は、私の知る限り、周恩来胡耀邦だけである。胡耀邦が亡くなって三十年。彼の理想とした国家と、日中関係には程遠い現実。あと何年かしたら、胡耀邦が目指した変革思想から四十年である。果たして、今の私たちは、すんなりとそれに向き合えるのだろうか。折しも、北朝鮮情勢が極めて不安な時、日本は解散総選挙となった。日中両国とも自国のことばかり、党も政治家も、私利私欲を貪り、頼り気もない馬鹿丸出しの輩しかいない。胡耀邦から四十年後とは、おとずれるのであろうか。