弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

涅槃図

徳川時代の絵師は百花繚乱。絵師としての実力、個性、人気、生き方、いずれも途轍もない光芒を放つ。様々とは彼らのためにある言葉に思えてくる。師宣、春信、清長、栄之、北斎、広重、国芳、私もお気に入りの絵師がたくさんいるが、彼らと一味違う異才が英一蝶である。英一蝶が、先に挙げた絵師たちと異なる最たる点は、いわゆる版画を描かなかったことだ。描かなかったのではなく、描けなかったというのが真相かもしれない。それには、彼の出自と、浮世絵の創始者の一人とされる菱川師宣へのリスペクトがそうさせたのではないかと思う。でも、おそらくはジレンマを抱えていたに違いなく、迷いながらも到達したのが、版画よりも一画入魂を良しとしたのであろう。いかにも英一蝶らしく、彼の人生を覗けばそういう絵師になったのも必然といえる。

そんな彼の経歴はたまらなくおもしろい。英一蝶は、伊勢亀山藩藩医の子として生まれ、藩主石川憲之とともに一家で江戸に出た。早くから絵の才能を認められ、殿様にも知られて、狩野派に入門した。だが、後に頭角を現す破天荒ぶりは、若かりし頃から垣間見られたようで、狩野派を破門されてしまう。以後は、独自に絵描きに専心し、町絵師としての画風を立てていった。吉原通いが好きで、高じてと言ってよいのか?だが、そのまま吉原で幇間として働くようになった。幇間とはいわゆる太鼓持ちのことで、男芸者とも呼ばれた。文字通りの芸者で、女芸者と違い艶っぽい芸ではなく、大道芸やチンドン屋のような見世物芸をして、宴席を盛り上げた。今でも浅草には、何人か幇間がいるらしい。一蝶は、根っからの遊び好きであって、縁あって吉原で働くことが嫌ではなかった節がある。さらには、吉原に来る大名、旗本、豪商、文化人に知己を得ることで、自分のスポンサーを探していたに違いない。一蝶には、そういう計算高い一面もあるのだ。また当時、吉原ほど色彩豊かな所はなく、絵描きとして、色の種類や明暗を学ぶには絶好の場であった。

英一蝶は二度も流罪の憂き目を経験している。理由は諸説あり、幕府を風刺する絵を描いたとか、生類憐みの令に背いたためとも言われるが、流刑地の三宅島でも絵を描くことをやめなかった。そこには、必ず生きて江戸を戻るという信念と、例えそこで朽ち果てようとも、残すものはあるという絵師としての気骨の両方が感じられる。英一蝶とは、実に無駄の無い人生を送った人だと思う。見る物、やる事、出会う人、すべてを己の絵描きの糧と為したのである。一蝶は俳諧にも顔を出し、芭蕉や其角とも親しくなった。私には、当代一の数寄者たる芭蕉と交わることで、英一蝶という絵描きが完成したと思われてならない。英一蝶の絵は、人間として生きる喜びがあり、憂いがある。楽観と悲哀、栄華と没落、俗世と遁世というものが、複雑に入り組んで渾然一体となっている。英一蝶は、紆余曲折の人生を大胆に謳歌しながら、かつて誰も手に入れたことがない絵心を獲得していったのだ。

その最高峰ともいえる作が、ボストン美術館に蔵されている「涅槃図」である。先月、上野の美術館に百何十年ぶりに里帰りしていたので、拝みに行ってきた。懸命に修復された「涅槃図」の前に立って、その圧倒的筆致に、私は我を忘れて佇んでしまった。言うまでもなく涅槃図は宗教画である。寺に掛けられて、経と香を手向け、人々が礼拝する画である。この「涅槃図」も元は、愛宕下の青松寺の塔頭にあったもので、明治期に流出してしまった。 それにしても力漲る凄い涅槃図である。沙羅双樹の下で、涅槃に入る釈迦を取り巻く弟子、菩薩、多くの獣や鳥たちが、目にも鮮やかに丁寧に描かれている。釈迦涅槃という悲しみの極みの場面であるのに、どこか安らぎを感じさせる。極楽浄土とはこういう場所なのではないかと思った。それこそが英一蝶の力量なのである。また、他の涅槃図には描かれていない猫が描かれているのも興味深い。その猫は、周りの弟子たちや動物たちが、釈迦を見つめたり、号泣したりしているのに対して、ひとり此方を見つめているのである。まるで、この状況をただひとり冷静に眺め、何やら悟りすましている様だ。或いはあの猫は、英一蝶のその人なのかもしれない。宗教画であるのに全く抹香臭くない。市井の人や動物の日常を、あたかも浮世絵の如く描いている。とても穏やかに。だが、同時に崇高であって、やっぱり礼拝せずにはいられない。仏画なのである。涅槃図であり仏なのである。仏涅槃図とか釈迦涅槃図は、方々の寺や博物館で拝んできたが、英一蝶の「涅槃図」は、世界一の涅槃図であった。

英一蝶 承応元年(1652)〜享保九年(1724)。大往生。