弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

図書館にて

先日、知人から朗読会の誘いを受けて出掛けた。朗読会は私の家の近所の図書館で開かれる。知人は某ラジオ局のパーソナリティーで、時々、こうした朗読会にも出演している。知人の他にも、有志の語りのプロが数人出演した。最近は朗読会が盛んらしい。私は、今回が初めてであったが、なかなかに良いものだと感心した。今回は、作家H氏がこの日のために書き下ろした作品と、山本周五郎藤沢周平の小品が朗読された。それに、ギターの生演奏が彩りを添える。出演者の朗読は、知人を含めてさすがにすばらしかった。目を閉じて、耳を傾けていると、良い心地になってくる。良い声で本を読んでもらうと、ついうとうとしてしまう。それも朗読の魔法であり魅力であろう。自分で読むのとは別の入り方で文学に触れ、物語や文章を追体験できる。それは、視覚から物語を辿る映像や紙芝居とは違う。聴覚のみで人は多くの事が判るのであって、想像も空想もその自由さは視覚を遥かに凌駕はするのではあるまいか。今回の朗読会は図書館で開かれたというのがまた良い。朗読会はホールや寺社でも開かれているが、私は地域の図書館で、少人数を集めて行われるのが、朗読会の趣旨でもあろうし、優しく癒される空間演出にはベストであると思った。時節柄、こうしたイベントに参加してみるのも悪くない。

私自身は時節に関係なく本を読み漁るので、図書館もよく利用する。私の自宅近くにも徒歩圏内に二つの図書館があり、いかにも昭和の昔からそこに在って、地域に根差した図書館である。近年は図書館も様変わりして、明るく開放的な図書館が増えた。カフェを併設したり、古建築をリノベーションしたりと洒落た図書館は人気も高い。無論のこと、蔵書も閲覧検索のシステムも充実しており、大変使い易い。大学の図書館も、ほぼこの様な図書館に生まれ変わりつつある。本離れが叫ばれて久しいが、出版業界、書店業界のみならず、図書館が国や自治体と協力して、良い方向へ進んでいる姿勢には大いに共感できるし、利用者としても応援したい。だが、私は私の街にある地域の小さな図書館も大好きだ。鄙びたと言っては失礼だが、さほど大きくはなくとも地域の人々と共通の蔵書があることで唯一、同じ地域に住まう者同士の連帯と誇りを思うのである。

それにしても、公立図書館の予算は削減されているのだろうか。私の街の図書館もずいぶんと設備が老朽化している。箱自体は耐震補強をしっかりとしていれば建替の必要はないが、トイレや水まわり、閲覧室や座席は、改めていただいても良いのではと思う。東京五輪の影響なのか、ほとんど無駄とも疑問符のつく新しい箱物ばかりに、多額の税金を湯水の如く投入しているが、そんな施設は私達にはちっとも身近ではない。どうせ金を使うならば、私達が普段利用する施設にも、もう少し目配りをしてほしい。が、図書館を利用しない人も大勢いるわけで、むしろ利用者の方が少ないかもしれない。それこそ、図書館に金を使うならば、別に使ってほしいと願う人もいるはずだ。そのあたりがまことに難しい。私は幼い頃から図書館が好きである。本に囲まれて、本の匂いに包まれて、好きな本を読んだり、調べたりする時間ほど大切で、至福の時はない。もっとも落ち着く場所は、意外と住まい近くの図書館かもしれない。私は私なりに、これからも図書館を利用し、地域の図書館が存続できるべく、できることを考えて、行動し、見守り続けていきたいと思う。今の場所を離れても、どこに住もうとも、それは変わらないだろう。