弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 成田山


千葉県は南関東でもっとも広い。房総半島を丸々抱いて、内陸も奥深い。上総、安房の全域と下総の一部が現在の千葉県である。千葉県には都道府県で唯一、海抜五百メートル以上の山地がない。習志野原と房総の海外線、あとは鋸山ほどの山と、なだらかな丘陵があるだけの穏やかな地形である。東京のベッドタウンとして人も住宅も増え続けているが、街道筋を少し外れると自然の宝庫であり、静かな農村や漁村が顔を出す。近江国が、奈良や京都の舞台裏だと言ったのは白洲正子さんだが、東京湾を挟んで反対側の房総半島には、挙兵した源頼朝が劣勢挽回を図るなど、秘められた歴史が埋もれていて、坂東武士の舞台裏と云えるかもしれない。

成田市は県の北部中央にあって、そこから八の字に千葉県は広がっている。成田空港は、羽田空港の再国際化や、近隣国のハブ空港化に伴い、日本の空の玄関としての名が低下しつつあるが、現時点では日本一の国際空港である。大空港成田山のお膝元にある。私は二十数年ぶりに成田山を訪ねた。T君の運転で、夜中の三時半に東京を出た。早朝六時からの護摩祈祷に参加するためである。松戸、柏、白井を過ぎたあたりから、景色は一変する。長閑な田舎であったこのあたりは、この三十年くらいで北総ニュータウンとして開発された。滑走路のように広々と真っ直ぐに伸びた道路が街を貫ぬき、今後ますます発展する気配が漲っている。

ニュータウンを走り抜けると、ようやく北総らしい丘陵や森が見えてきて、懐古的な牧場や田畑も現れる。車が成田山に近づくに連れて、濃い霧に包まれてゆく。寺に着いても、霧は晴れる気配はない。成田山はまだ霧中に眠っているが、大伽藍は蜃気楼か南画の如く暁天に浮かんで見える。境内には、大本堂へと列を成して朝の護摩祈祷に向う僧たちの下駄音が響く。秋の朝一番にしかお目にかかれぬ、まことに幻想的な光景だ。あの霧の成田山に身を漂わせることができただけで、私たちは幸せであった。此度の成田山詣で、改めて寺参りが私の生甲斐なのだと心から思えた。

あの様な言葉もない光景を目にしては、成田山の歴史など、語るに及ばないかもしれぬが、この巡礼は寺の歴史を辿り、今の日本仏教を噛み締めているので、少しばかり述べたい。成田山新勝寺は、川崎大師、高尾山薬王院と合わせて、真言宗智山派の三大本山とされる。平安中期の天慶三年(940)、東国において平将門の乱が勃発した。藤原摂関家に仕えた将門は、検非違使になることを望んだが、忠勤も虚しく、望み叶わず東国へ都落ちした。将門は下総国に陣取り挙兵。自らが新天皇であると宣言し朝敵となった。時の天皇朱雀帝は、嵯峨広沢の遍照寺の僧寛朝に、真言密教護摩祈祷による乱の平定と、将門の調伏を命じた。余談だが、この寛朝という坊さんは、宇多天皇の孫にあたる。天皇家の後継者争いには無縁で、十一歳で仏門入り。仁和寺、東寺、西寺、東大寺別当を務め、高野山座主にまで上り詰めた。さらに、真言宗では初の大僧正の尊号を賜わっている。寛朝は、高雄神護寺弘法大師が彫ったとされる霊験あらたかな不動明王を奉持して、下総へ下った。大坂から船で房総半島の尾垂ヶ浜に上陸。寛朝は、今の成田山から三キロほど離れた公津ヶ原という地に不動明王を奉安して、二十一日間護摩祈祷した。結果、乱は鎮圧され、将門も自害する。寛朝が再び不動明王と共に京都へ帰ろうとしたが、不動明王はその場を動こうとしない。そして不動明王は、寛朝にこの地にとどまると夢告したと云われる。これを聞いた朱雀天皇は、国司に命じて堂宇を建立し、不動明王を厚く祀った。新勝寺という寺号も、戦いに勝ったと云う意味で朱雀天皇が命名した。その後永禄年間に当地へ遷座し、東国の権力者、徳川幕府、歴代の市川團十郎、そして多くの庶民の厚い信仰を受けて今に至る。

真言宗智山派の総本山は京都智積院だが、三大本山がすべて関東にあるのは何故だろうか。この事は私の積年の疑問であったが、昨年から始めたこの本山巡礼で、先に川崎大師、高尾山と訪ね、そして成田山までやって来て、私なりにこう解した。かつて都から遠い関東において、仏教が庶民に浸透し根差す時間は、畿内よりも柔軟かつ早かったように思う。無論、時代でいえば畿内の方がはるかに前から庶民にまで信仰は広がっていたのだが、私が言いたいのは布教のスピードである。関東の寺の王者たる浅草寺の縁起も、二人の漁師がきっかけであるし、ずっと後の世、常陸国に腰を据えた親鸞によって広まった浄土真宗も、庶民仏教を象徴する存在であり続けている。関東仏教は庶民信仰から湧出し、育まれていったというのが、私の持論である。質朴な寺の雰囲気からして、明らかにそうした匂いを強烈に感じるのだ。真言宗智山派を代表する三つの大本山は、川崎が弘法大師、高尾山が天狗、成田山不動明王を尊び、名もなき民に信仰された。確かに真言宗の寺では、心願成就を護摩祈祷に託すが、そこには真言密教の難解な教義はなく、民衆は祈祷僧の読経と護摩の炎に祈りを捧げるのみ。或いはまた不思議と抹香臭もない。すなわち空海の目指した現世利益を、ひたすらにわかりやすく、寺ごと体現してみせているのだ。私が川崎大師、高尾山、成田山に共通して感じたことである。

成田山は末寺三千余り、年間一千万の参詣客、そして正月三ヶ日の初詣客は三百九万人と、明治神宮に次いで全国二位、仏閣では堂々の日本一を誇る。各界の著名人が集う節分の豆撒きも有名だ。これだけの大寺、境内には新旧織り交ぜた多くの伽藍が建ち並び、壮観である。成田山には歴代の本堂が三つもある。現在は大日如来を祀り光明堂と呼ばれるお堂が、元禄十四年(1701)に建立され、安政五年(1858)に現在の釈迦堂が建立されるまで本堂であった。そして釈迦堂も昭和四十三年(1968)に現在の大本堂が落慶するまで、当山の本堂であった。徳川時代から三百年間の本堂が、今もすべて在ることはありがたくもおもしろい。大本堂前の三重塔も正徳二年(1712)の建立で、いかにも密教的な彩色と精緻な彫刻が施されていて、山内随一の気品を放っている。奥之院の先には平和の大塔がある。高野山の壇上伽藍にある根本大塔と、よく似た巨塔からは、成田山全体を見渡すことができて、実に爽快な眺めである。成田山は今も続々と新しい堂宇が建立されており、二十一世紀も進化中である。新旧織り交ぜの伽藍を拝見して、千年以上の歴史ある古刹であって、現代をしっかりと受け止めつつ、未来を見据え、人々を守護する。成田山にはそんな印象が強く残った。

大正から昭和初期に活躍した劇作家の倉田百三は、浄土真宗に帰依し、歎異抄を研究、それをモチーフに「出家とその弟子」という戯曲を著した。「出家とその弟子」が世に出たのは、大正六年(1917)であるから、ちょうど今から百年前である。当時はベストセラーとなったらしい。易行、他力、念仏、およそ浄土真宗の信を突き詰めた倉田であったが、実は易行の仏道、信仰こそが寧ろ難解で、我々のような衆生は、苦行荒行を行って心身を研ぎ澄まし、肉体的に信を得る方が、易しいのではないかと考えるようになる。悩んだ倉田は、成田山に二十一日間参籠し、断食、水行、読経に打ち込み、無事に満行した。元来、病弱だった倉田が良くぞ二十一日もの荒行をこなしたと思うが、果たしてその後、彼がどうした考えに至ったのか。このことは、もう少し調べてみたい。私も「出家とその弟子」は読んだが、あれを著した時と、成田山にて荒行を満行したあとで、倉田百三がどう成ったのか、とても興味がある。そして、何故倉田百三が自らの行場として故郷の広島や、長らく暮らした関西ではなく、ここ成田山を選んだのかも気になるところである。

さて、朝一番に体験した護摩祈祷について触れておきたい。成田山では、一日に何度も護摩祈祷が行われる。密教寺院ではどこも同じく護摩供養や護摩法要が行われているが、この成田山護摩祈祷も、当山の代名詞とも云えるほど有名だ。六時の鐘を合図に紫衣や黄衣を纏った坊さんたちが、続々と大本堂へ上がってゆく。私たちも後へ続いた。大本堂外陣には、まだ薄暗いこの時間でも、すでに三十人ほどの参詣客がいた。中には外国人も数人いる。皆、きちんと正座して待っている。内陣には居並ぶ僧侶。五十人近くはいただろうか。おそらく、朝一番の護摩祈祷は、貫首以下成田山のほとんどの坊さんが参加するのであろう。これだけの坊さんの後姿はなかなか見られない。実に格好良い。私の気分も落ち着き、見惚れていると、突然、ドーンと大太鼓が打ち鳴らされた。私の前に座る外国人の女性は、吃驚仰天して飛び上がった。それも束の間、すぐに勤行が始まる。貫首が中央の台座で、種火から火をとって、護摩壇に焚べる。次第に焔は燃え盛る。同時に坊さんたちの読経の声は高くなる。太鼓が連打され、読経とともに大本堂にこだまする。まるでコンサートホールで、格別のシンフォニーを聴いているかのような錯覚に陥ったかと思った瞬間、読経と太鼓と焔が三位一体となってピークに達した。私たちも皆で不動明王真言を唱えて祈り、僧たちは希望者の持ち物を護摩の焔にかざして厄払いしてくれる。読経も太鼓も焔も少しずつ鎮まり、二十分ほどで朝の護摩祈祷は終わった。居並ぶ坊さん達が整然と退出し、私たちも大本堂の外に出ると、嘘のように濃霧は消え去り、全山が秋の爽やかな光に包まれている。堂宇の軒先や境内の草木には朝露が煌く。恐るべし、これも護摩祈祷の賜物か。

私たちは成田山を総門から出て、風情ある朝の門前町を散歩した。辺りは意外に交通量が多くて驚いた。近所の子供たちは成田山の境内を突っ切って小学校へ登校するらしいが、ひっきりなしに通る車など、気にも留めずに男の子は遊びながら、女の子はおしゃべりしながら、フラからと歩いてゆく。これも毎朝の成田山の風景なのだろう。彼らもまたお不動様に守護されている。門前町を一巡して駐車場に戻った時、成田空港から飛び発ったばかりの銀色の機影が、はっきりと私の目に映った。私たちは幻想から覚めたのであった。