弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

白河関

司馬遼太郎の「街道をゆく」は、私の旅の友である。司馬さんは世界中を旅され、大紀行を記した。司馬さんならではの視点、考えは実に興味深い。私はいわゆる司馬史観を肯定も否定もしない。司馬さんの本では、司馬さんと同じ目線で歴史を辿れば良い。ゆえに私はその間、司馬史観の虜となっているだろう。「街道をゆく」の追体験をする旅もまた心踊るものだ。司馬遼太郎という巨星の足跡も、私にとっては歴史の一頁である。印象に残る地は多いが、その一つである白河関址を訪ねることができたのは、この秋口であった。

陸奥=みちのくという響きは、まことに旅情に駆られる。そして何となく物寂しい。日本人は古くから、陸奥に畏怖と憧憬を抱いてきた。それは律令時代から未知未開の地であったから、蝦夷に対する警戒と同時に、広大無辺な理想郷を思い描いていたのかもしれない。その陸奥の入口と云われ、また多くの日本人がそう認めてきたのが白河関である。白河関より南が坂東下野、北が陸奥である。それは今も変わることなく、栃木県と福島県の県境であり、関東と東北の境である。 T君の運転で、東北自動車道白河インターから、南に八キロ程行くと、なだらかな丘陵地帯が現れる。丘陵に抱かれるようにして、今、我々は二つの白河関址を見ることができる。不思議なことに白河関址は、ひと丘越えて二箇所に在るのだ。何故か?ミステリアスな関址は私を強く惹きつける。

私たちはまず、旧陸羽街道の白坂峠に在る境の明神へ向かった。この道は、奥羽諸藩が参覲交代で通り、幕末には、会津攻めに向かう官軍が行軍した道である。そう思うと何とも複雑な感慨が湧く。この道は実に良い景観だ。丘陵に囲まれた土地には、清々しい秋の空気が揺蕩う。車は陸奥から坂東へ向かって走る。やがて緩やかなカーブの先に坂があって、鬱蒼たる森が現れた。坂の向こう側は、坂東下野である。坂のてっぺんが県境で、まさに白河と下野の境なのである。県境を挟んで各々に境の明神という社が建っている。「街道をゆく」で司馬さんも挙げられた、地政学者の岩田孝三氏の「関址と藩界」を私も読んでみた。それによれば、日本には要所要所に古関があるが、だいたい関を境に男神と女神を対で祀ってきたと云う。女神は内で国を守り、男神は外で敵を防ぐという信仰に基づくものらしい。日本の国境(くにざかい)は、峠の上や、狭隘に多く、坂と坂の合う場所が坂合と呼ばれ、境に転じた。そのような場所には手向という道祖神が祀られ、多くは男女神二つの祠があった。不破、鈴鹿、逢坂、愛発など、名だたる古関にも似たような址があり、今も名残をとどめているところもある。

 車を降りて、境の明神へ参拝する。ここに来たかった。約三十年前に司馬さんが訪れた時は、幽邃の場所だったそうだが、今は国道294号である旧陸羽街道をひっきりなしに車が走る。街道を見守り続けてきた社は、今もここに在って、境神社と称する。陸奥側に祀られている女神は玉津島明神で、紀州和歌の浦より勧進された衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)。坂東下野側の男神住吉明神中筒男命(ナカツツオノミコト)である。ことに立派に残るのが玉津島明神で、司馬さんも、戊辰の官軍も、参覲交代の諸侯も眺めたであろう美しい石垣の上に、神さびた社が建っている。亭々と聳える木立の中に、古色蒼然とした楼門と、覆堂に囲まれて三つの社殿が並んでいる。雪国ならではの珍しい様式だろう。石段は少し傾いていた。如何にも道すがらの道祖神いう、神威解けた境内に立ってみれば、立ち去りがたい思いが溢れてくる。司馬さんも「こんな良いところへ来るというのも、生涯何度あるかわからない」と書いておられるが、まったくそんな場所であった。中で私の目を惹いたのは石灯籠であった。猫額の様な小さな境内に、およそ相応しくない立派な石灯籠は異様に見えた。ここを通る大名か、白河楽翁が寄進したものか。

道を挟んで社の反対側には、白河二所之関址の碑が建っている。相撲の二所ノ関部屋は、ここの境の明神からとられたと云う。江戸中期、南部藩お抱えの二所ノ関と云う力士がいて、親方になって部屋の名として残ったと云われる。この石碑を建てたのは、かつて此処にあった南部屋という茶店の子孫石井浩然氏で、父勝弥氏の代から、「関址と藩界」の岩田孝三氏とも交流があったらしい。岩田氏と石井氏は、白河関のことを調べ、由緒あるこの地に誇りを抱き、この白坂峠こそが、古代から続く白河関であると言い続けた。 もう一箇所の旗宿の白河関は、江戸中期の白河藩松平定信によって、白河古関址とされた。以来、旗宿か白坂か、関址を巡る議論は二分する。勿来関、鼠ヶ関とともに奥羽三古関の一つとされる白河関は、律令時代に陸奥と下野の国境に置かれて、人や物の出入りを取り締まった。諸説あるが、この白坂峠の境の明神から東南へ六キロばかり行った旗宿関ノ森と云う所に、松平定信白河藩主となってから、白河古関と断定し石碑を建立する。もっとも定信は、白坂峠にも「従是白河領」なる石碑を建てているから、白坂を軽視したわけではないだろう。議論がついに決着をみたのが、昭和三十四年から三十八年にかけて行われた旗宿の発掘調査によってである。旗宿からは、土木工事の痕跡が見つかり、平安初期のものと推定される縦穴住居群、鍛冶場、土師器、陶器などが多く出土した。白河関は、いつ設けられたのか定かではないが、律令時代の終わりを前にして早くも廃れていたという。しかし、それから後も、奥州の砦として一定の役割を果たしていたと思われる。

将軍になり損ねた松平定信は、白河藩主におさまり、宿敵の田沼意次が失脚すると老中に就任した。田沼時代の粛清に闘志を燃やし、寛政の改革を行うも、それは改革ではなく、極めて保守的な武家社会のための復古政策であった。ゆえに功を見ずに、定信もまた失脚して隠居。白河楽翁と呼ばれた。名は体をあらわすと云われるが、定信という名前からして、彼が革新的な思想とは相容れない人であると想像がつく。しかし、多くのヒール役がそうであるように、定信もまた白河藩主としては名君の誉れ高い。馬産を奨励し藩財政を建て直し、子供の間引きを禁じ、養育に力を入れた。天明の飢饉では、江戸、越後、会津、大坂から米を取り寄せ、藩内の庄屋や豪農に寄付を募り、領民に配給したおかげで、白河藩は一人の餓死者も出さなかった。そして白河藩のネームバリューを高めるべく、歌枕の里として白河関を宣伝し、場所の特定をして石碑まで建立したのである。

私たちは、白坂峠から旗宿の方へ廻った。朝霧漂う狭隘の白坂峠は、陰湿な印象であったが、旗宿のあたりは、明るく開けた田園地帯で、黄金色の稲穂が重そうに首を垂れて広がっている。はるか東南には、霊峰八溝山塊が堂々たる尾根をひいて横たわる。真っ青な空と、なだらかな丘に囲まれた旗宿の里は、まさに桃源郷のように思われた。こちらにも来て良かったと私たちは異口同音した。小さなせせらぎの向こうに、こんもりとした丘があって、その中に定信が建立した白河古関の石碑があるらしい。一帯は白河神社となっていて、入口に鳥居と狛犬があるが、その向こうはまだ薄暗い闇の参道である。中へ進むと、すぐ右手に例の石碑があった。参道は長くゆるい登りになっていて、登ってみると白河神社の社殿があった。遺跡の森のてっぺんに在る不思議な神社だ。だが、参道も杉木立の森も実に素晴らしい。明るくもなく暗くもない。早朝のこととて、誰一人としていない。私たちはしばし浄域に身を沈めた。

道は神社の裏へと続いていて、土塁の尾根を歩けるようになっている。なかなかの高さで、下には濠址が確認できた。歩いてみて、かつて此処が、軍事的要塞であったことがはっきりした。坂上田村麻呂らによって蝦夷討伐がなされ、大和政権の陸奥に対する警戒は緩んだのであろう。だがその後、奥州藤原氏も、ずっと後の奥羽列藩にとっても、白河関は奥州への入口であり、第一関門と考えていたことは間違いあるまい。古代から律令時代にあった白河関は旗宿で、近世になってこの枢要な地にはやはり関所が必要とされて、白坂峠へ新関が成ったのであろう。街道は時々によって変遷し、今では陸羽街道も、東北自動車道もさらに西へと移っている。余談だが、国道4号には白河検問所があって、道路交通を取り締まっているが、検問所を作った当初は、関東から悪い人や物が東北に入らぬために設置されたという。本当かどうか知らないが、現代社会においてもなお、白河という地には関所が置かれているのだ。

都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師の有名な歌だが、能因は白河関を訪ねてはいないという逸話がある。能因は数ヶ月も家に引き篭もって、庭で真っ黒に日焼けしてから、陸奥へ行ってきたのだと言ってこの歌を披露したという。歌に対する徹底ぶりには脱帽するばかりだが、歌道徘徊ではよくあることで、望郷や憧憬が歌となり、いつの日か独り歩きを始めて名歌に育つ。やがて詠まれた場所は歌枕の地として、人びとを惹きつけたのである。西行芭蕉もそんな数寄者の一人であった。一方で、能因は実際に陸奥へ旅をしており、先の逸話の方が嘘であるという研究者もいる。事の真相はどうあれ、歌枕の地として白河関の名を高めた能因の功績は大きい。能因は実際に方々の名所旧蹟と訪ね歩き「能因歌枕」を著している。

西行は、青年時代と晩年の二度陸奥へ旅をした。そして白河関では、能因への強烈な憧れと、歌枕の地を訪ねて感慨に浸る西行の喜びと、能因が来ていないとすれば、自らは実際にここへ辿り着いたという自尊心が伝わってくる歌を詠んでいる。

白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むるなりけり

みやこ出てて逢坂越えし折までは心かすめし白川の関

現在、旗宿の白河関址は史跡として美々しく整備されており、広い公園となっている。中央には、芭蕉曽良の小さな銅像まで建てられていた。芭蕉奥の細道で、白河関の印象をこう綴る。

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心さだまりぬ。いかで都へと便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴れ着かな(曽良

奥の細道で、私はこの白河の関の文章が殊の外見事であると思う。ここでは芭蕉自身の句ではなく、曽良の句を入れたのは、当時はすでに大歌枕の地であった故の感慨と、当代一の数寄者としての拘りの遠慮があったのでないか。芭蕉白河関への憧れを多分に抱いて、足を踏み入れたに違いないのである。人はあまりに感動したり、積年の思いが果たせた時は言葉が出ないものだ。芭蕉にとっては白河関はそういう場所であった。その点、師に寄り添う曽良はクールでもあり、師よりも自由闊達に、また素直に詠む人であった。さらには、これまで坂東を北へと向かって歩き、いよいよ此処から「奥の細道」が始まるという覚悟が、芭蕉の旅心を定めた。松尾芭蕉という人は、実際真面目そのものであった。

芭蕉奥の細道白河関の一節で、この地の歌枕をいくつか例に取り上げて文章にした。

「いかで都へ」とは、平兼盛の、

便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと

「秋風を耳に残し」とは、先に挙げた能因の歌。

「紅葉を俤にして」、「青葉の梢なほあはれなり」とは、源三位頼政の、

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関

卯の花」とは、藤原季通の、

見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関

「雪にも越ゆる」とは、久我通光の、

白河の関の秋とは聞きしかど初雪分くる山のべの道

これでもかと白河関を歌枕にした例を挙げて、この場所に対する並々ならぬ思慕が感じられる。芭蕉はこの先の須賀川まで行って、ようやく興奮が沈静したのか、土地の俳人等窮に「白河関ではどんな句ができたか」と訊ねられて、こう詠んだ。

風流の初めや奥の田植うた

いにしえの数寄者たちへの澄み渡る尊敬と、自らはそれを超越したと、いささかの疑念なく得心したやもしれない。芭蕉はここで豆柄から弾けて、いよいよ奥の細道へと分け入っていった。

私たちは、芭蕉曽良の像の傍らにある日当たりの良いベンチに腰を下ろして、おにぎりを頬張った。急きょコンビニで調達したおにぎりだったが、悠久の白河古関にて、黄金田を吹き抜ける爽やかな風に吹かれながら食べたおにぎりは、美味かった。