弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

班長旗

子供のいない私にとって、二人の姪っ子は可愛くて堪らない。上の子が小学一年、下の子が四歳になった。離れて暮らしているが、姪っ子二人のことは常に気にかかるし、彼女達の行く末を慮る毎日である。私は何かをできるわけではないのだが、幼き今は無用でも、いずれ大きくなった時、力になってやれる時が来るかもしれない。その時まで、私なりに力を蓄えておきたい。もっとも日々成長する彼女達の方が、私などより余程逞しく、懸念には及ばぬだろう。寧ろそれは喜ばしいことである。

上の子は小学一年生で、間もなく二学期が終わる。彼女は、毎朝徒歩で三十分ほどかけて通学している。入学してからしばらくは、近所の子らと集団登校をしていた。集団登校では、五人から十人前後が一班となり、上級生が班を束ね、下級生を引き連れて登校する。地域によって差異はあれ、日本の小学校ではだいたい何処も似た様な朝の光景だ。六年生が班長となって、一列にならんで行儀良く、整然と登校する様は、マナー知らずの我ら大人が、恥ずかしくなるほどしっかりていて感心する。かつては私もそうしていたのに、いつからか今の体たらくになったのか。大人になるとは、堕落の始まりで、堕落せぬためには、哀しくなるほどの気力を要するのだ。いつか、彼女達も、その道を歩まねばならぬのかと思うと、それもまた哀れである。

話が逸れたが、先日、姪っ子はこの集団登校から離脱する事になった。姪っ子の母である私の妹によれば、子供会をやめることにしたため、集団登校には加えてもらえないらしい。子供会は、地域によって様々な形態で活動しているが、姪っ子の学区では、夏祭やクリスマスなど年数回のイベントがあったり、保護者会や地域清掃もある。年会費もいくらか納める。この子供会に参加しなければ、集団登校にも加えてもらえず、自主登校となるらしい。妹は諸事情があり、どうしても定期清掃や会合に参加出来ない時がある。それでも一律徴収される会費のこともあり、考えた末に離脱を決めたらしい。参加は強制ではなく、自由であるから、よその家でも参加していない子供もいる。私もそのあたりは自由で良いと考える。が、一つ腑に落ちないのは、集団登校のことだ。なぜ、子供会に参加しなければ、集団登校に入れてくれないのか?誠にもって馬鹿げた話である。村八分とはこの事で、もはやイジメとしか思えない。姪っ子は、私と同じ小学校に通う。私の後輩なのだが、私が子供の頃は、子供会なんぞなかった。だが、集団登校はあった。私の記憶では、小学校が集団登校を推奨し、実行していたはずだ。 私が一年生の時は、大きな六年生の兄さん姉さんを先頭に、すぐ後ろに一年生、真ん中に二年生や三年生、そしてしんがりを四年生や五年生が務めた。決められた時間に集合場所に行くと、誰よりも早く六年生が待っていた。六年生は班長として、下級生を安全に学校へと導く。校門に入ると解散する。これが毎朝の登校風景である。六年生がいない場合は、五年生や四年生が班長となった。実に規律ある、安全な登校であった。

班長には、班長旗が授けられる。黄地に緑色の線が入った班長旗には「交通安全 〇〇小学校 〇班」と書かれている。班長旗を貰うと、細竹を良い按配に削り、旗を差し込む。常は旗を竹の棒に丸めておくが、横断歩道を渡る時などは、旗を広げてゆくのである。果たして私も、最上級生になると班長となった。班長旗を貰った日は、なんだか少しばかり大人になった気がして嬉しかった。同時に班長としての重責を感じた。思えば、責任ということを、生まれて初めて自覚したのは、班長旗を持たされた時であった。私も、後輩達を導いて一年間班長を務めた。班長は皆の手本であり、護り人であるから、学校を休むこともままならない。しっかりと体調管理をして、毎朝、班の誰よりも早く集合場所に立った。班長がいることで、下級生は安心し、また緊張感を持って歩くから、安全に登校できるのだ。親もそれを知っているから、家を出たら我が子を班長に託した。班長の歩き方、行動を下級生はちゃんと見ている。それを学び、己がモノにしてゆく。班長になることは誠実に誇り高きことであり、班長旗はその証であった。姪っ子達は、このままだと自らも班長にはなれず、班長旗を授かることはない。私にはそれが哀しい。私の子供時代は、親と学校が遠からず近からず子供をサポートした。子供会なんかなくても、学校が当たり前に集団登校をさせてくれた。それで良かったはずだ。今、なぜ集団登校をわざわざ子供会の世話にしたのか?さっぱり意味が知れない。村八分を復活させ、助長する悪しき例だと思う。何とかできぬものか、私も考えてゆきたい。

このクリスマスイブに、上の子は七つになる。昔の人々は、子供は七つまでは神様からの預かり物で、七つを過ぎて初めて、人に成ると思っていた。だから、町内地域の皆で、分け隔てなく子供を可愛がり、大切にした。皆で目配りをして、皆で育てたのである。かつて日本人に存在したこの美しく、優しい気持ちはいったい何処へ行ったのだろうか。