弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

深川八幡に奉ずる文

年の瀬には奇怪な事件が多いが、今年の暮れも実に不気味、不愉快、不謹慎な事件が起きてしまった。事件の舞台が、深川の八幡様として四百年近くも庶民から崇敬されてきた富岡八幡宮で、その宮司の位を巡る富岡家の骨肉の争いに呆然である。それにしても神社仏閣は、税金面で優遇されているとはいえ、相当な実入りなのだろう。都会の寺社は金回りが良い。

深川は江戸期から漁師町、職人の町としての伝統が守られて、色濃い江戸の人情味にありつける町だ。深川不動があり、永代寺、霊巌寺、深川神明があり、そして富岡八幡宮がある。かつては江戸三十三間堂もあった。此処ぞとばかりに門前仲町と呼ばれるのも至極当然である。ソウルフード深川めしも旨い。最近は自家焙煎の美味しい珈琲を飲める店も増えて人気だ。芭蕉も深川を気に入って江戸の居とした。紀伊国屋文左衛門が造り、のちに大名家から岩崎弥太郎に渡った清澄庭園は、深川の緑陰として親しまれている。近くの深川江戸資料館もコンパクトながら充実の展示で、大江戸八百八町の暮らしを体験できる。

深川には仙台堀川小名木川、大横川など江戸初期から掘削されてきた運河や堀が縦横に走り、各所に水の交差点や丁字路がある。今では埋め立てられたり、暗渠になってしまった水路もあるが、親水の町深川は、水都江戸を思い出させる。その様な深川の町並みが好きで、私も度々訪れる。徳川家康摂津国から呼んだ深川八郎右衛門に、葦生い繁る湿地帯の開拓を託した。いつしか一帯は深川村と呼ばれるようになる。江戸初期、深川は江戸の郊外であり、開墾途上の漁師町と農村であった。隅田川より以東は、「川向う」と呼ばれ、だいたい似たようなものだった。江戸湾の波打際が、門前仲町、木場、洲崎にかけての一帯で、その先が砂村であった。砂村には富岡八幡宮の元宮と云われる、富賀岡八幡宮が鎮座する。これも摂津国の砂村新佐衛門が、この地を開拓し砂村新田と呼ばれた。家康は、江戸入府に際して、三河や上方から人材を募り、未開地の開拓を託した。深川、砂村、佃島など漁師町は皆、摂津国から人を集めている。住吉三神を崇める摂津の漁師達は、漁業もよほど優秀で、新田開発にも長けた人々であったから、家康からの信頼が厚かったに違いない。彼らに任せておけば、江戸は勝手に大きくなることを家康はわかっていた。砂村には八幡社が建てられたが、すぐそばには荒川、中川、江戸川と幾筋も大きな川があり、洪水に見舞われる危険もあったため、西の深川に移築したと伝わる。深川に移築後も、砂村の鎮守としてささやかな社は残され、砂村元八幡と呼ばれた。広重の江戸名所百景にも「砂むら元八まん」のタイトルで描かれている。房総半島までみはるかす景色は、広重もう一幅の「深川州崎十万坪」とともに、いかにも広大だがもの寂しい、深川の先は江戸の果つる所であったことがよくわかる。以前、元八幡にも行ってみたが、南砂町駅から歩いて少々、今ではなかなか立派な神社で、富士塚も残されていた。

発展した深川には岡場所が現われ、公儀もそれを黙認した。深川は江戸最大の岡場所となり、一時は吉原を凌ぐほどの賑わいをみせたこともある。あまりの繁盛ぶりに、吉原から公儀へクレームが入って、一旦解散となるが、いずれどこでも遊里は不死鳥である。深川には最盛期五百人近い遊女と、三百人近い芸者がいた。深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれた。この地が江戸城から見て辰巳の方向にあるからだ。辰巳芸者は、江戸ならではの男堅気な気風の良さが売りであり、色気よりも粋で名を馳せた。辰巳芸者は、芸は売っても色は売らなかった。今でも、その伝統を受け継ぐ人が僅かながらいると聴く。こうして深川は江戸郊外ではなくなり、両国とともに、川向う随一の盛り場として発展してゆく。明治以降、岡場所は廃れたが、少し先の洲崎弁天町(今の東陽一丁目あたり)には、明治二十一年(1888)根津遊廓が移転して、洲崎遊廓が現れた。後に洲崎パラダイスと呼ばれる不夜城は、吉原と凌ぎを削り、昭和三十三年(1958)四月一日、買春禁止法の施行に伴い、吉原とともに落城した。さすがに吉原は、手を替え、品を替えて曲がりなりにも復活を遂げたが、洲崎パラダイスは殆ど跡形もなく此の世から消え失せた。

深川は江戸以来、様々な形で庶民のための娯楽を提供してきた町である。その楽園の総鎮守が富岡八幡宮である。富岡八幡宮は正式には富ヶ岡八幡宮で、深川の八幡様と通称される。創建は寛永四年(1627)だから、さほど古い社ではないが、徳川将軍家武家からは、軍神として崇める八幡信仰が代々あって、手厚く保護をされた。先に述べたとおり、砂村の元八幡から移築されたと云われるが、横浜市金沢区にも富岡八幡宮があり、こちらから勧請されたとも聴いたことがある。私が思うに鎌倉の鶴岡八幡宮から、横浜の富岡八幡宮、砂村の元八幡、そして深川の八幡という流れではなかろうか。もっとも、江戸には多くの八幡社があるから、諸説あるのだろう。深川の町の発展とともに、ついには江戸最大の八幡社となる。江戸三大祭に数えられる深川祭は、俗に水かけ祭りと呼ばれ、神輿の担ぎ手に沿道から清めの水を浴びせる勇壮な祭だ。この社は、江戸勧進相撲発祥の地とも云われ、境内に巨大な横綱力士碑があって、歴代横綱の名が刻まれて顕彰されている。今年も稀勢の里が奉納土俵入りを行なった。

先に挙げた永代寺は、富岡八幡宮別当寺で、江戸時代は今とは比ぶべくもなく大きく、深川は神仏混淆の聖地となった。永代寺では、成田山の成田不動の江戸出開帳が、元禄から安政にかけて十一度開かれ、市川團十郎の帰依も厚く、深川は不動信仰の地ともなってゆく。明治の廃仏棄釈で永代寺は廃れたが、不動信仰は揺らぐことなく、深川不動堂として、成田山別院となった。今、永代寺も復活して高野山真言宗の寺となっているが、深川不動の塔頭かと見間違うほど、ささやかな御堂は、逆に好ましい佇まいである。

私は深川が好きだ。あの飾らない風情がたまらない。江戸下町の代表の一翼なのに、それをひけらかしていないところが、実に気持ちが良い。そんな愛すべき深川で、その中心で、なんとも凄惨な事件が起こった。哀しくもあり、またその町の顔となって地域を見守り、尊敬されなければならない人物の物騒な凶行には憤りを感じる。深川を傷つけて何とするか。卑しくも、神に仕えた身である。弁えて欲しかった。が、深川は廃れない、寧ろこれからは清浄な地となるであろう。私はこれからも深川へ参る。