弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

花月

茶の湯の稽古を始めて一年半近く経った。我ながら珍しいことで続いている。面白くて仕方がないという単純明快な理で続けているが、稽古の度に茶の湯の奥深さを味わい、同時に苦闘しながらお点前をする事夥しく、何故にもっと早くから始めなかったかと悔やむ日々である。それほどに若さとは偉いもので、老いさらばえてゆく我が身を受け容れながらも、口惜しくも思う。茶道に限らずおよそ道と呼ばれる稽古は、若年から始めた方が圧倒的に習得する早さも、覚えも良いだろう。六十ならぬ四十の手習いで始めてみたが、元来何事にも不器用な私など、先生からまったくの手取り足取りで教授していただき、一つひとつ所作を確認しながら、覚えては忘れを繰り返している。まさに一進一退である。だが、それがまた面白くて、私は茶道に専心しているのである。まずは型をしっかりと身につけること、この基本が難しいわけだが、むしろ型を自分のモノにしなければ、己の茶の湯は生まれない。自由ほど不自由なものはないと思う。

年明けこの若輩者が、初釜に参加することになった。初釜は、新年に初めて釜をかける茶事だが、今は広く新年初の茶会や稽古初めの事を云う。表千家では、元日の深夜、家元自ら邸内にある井戸で若水を汲み、残月亭に勢揃いした家族と高弟に濃茶が振舞われる大福茶を行う。その後、門弟や同門会の人々を招いて数日に渡り初釜が行われる。時には東京で、首相や著名人を招くこともある。初釜は年始を寿ぐ華やかで、盛大な茶会なのである。私の先生の社中でも、毎年正月半ばに初釜式がある。初参加の私は今から緊張しきり。無論、茶道はいつでも漲る緊張感を携えて行うものだが、稽古ですら余裕がないものだから、当日は如何なものか。しかし私は、残りの人生で、自分の出来得る限り、茶の道を極めたいと決意している。これからはこうした茶事にも、積極的に参加したい。当日は羽織袴にて参加する所存。これがまた大変だ。着物は何度か着てきたが、茶道の着物は着たことがない。茶道の着物、男子の場合は基本的に無地の単衣か袷に、袴をつける。稽古は着流しでも良いが、初釜などの茶事茶会では袴をつける。十徳を羽織ることを許されるのは家元や宗匠で、男子は袴が基本である。初めての茶事の着物をどう取り合わせるかを考えて、決めることも誠に気を使うが、楽しい難儀と言えようか。

初釜では七事式の一つ「花月」を演る。日本の茶道は禅堂から始まり、禅宗に帰依した武家の嗜みとなった。室町将軍たちは、三代義満が日宋貿易で得た巨万の富で唐物を買い漁り重宝した。ことに八代将軍義政は、政治や権力闘争に嫌気がさして将軍職を投げ出すと、東山に銀閣や東求堂を建立し隠棲した。侘びの茶を先駆け、自ら積極的に茶の湯を楽しんだという。義政の残した茶道具は東山御物と云われ、当代一の数寄者として茶道の歴史に彩りを添えている。織豊時代には茶の湯は嗜好から権力者の権威となるが、徳川時代になると、公家や武家に留まらず、町人たちにまで普及した。茶の湯は本来身分の隔たり無く楽しむもので、広く普及したのは良かったが、一方で作法が形骸化し、遊芸志向となったことを憂慮した表千家七代如心斎と、裏千家八代又玄斎一燈が、新たに稽古の規範とすべく七つの修練作法を考案した。これが七事式である。花月はその一番目の式作法で、あとに、且座(さざ)、廻り炭、廻り花、茶かぶき、一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)と続く。廻り炭は炉の季節に行い、風炉の季節は代わりに花寄せを行う。七事式はそれぞれ、普段の稽古や一人点前と異なり、数人が一組になり、交代で茶を点て、茶を飲む。七つ通して行っても良いし、一事単独で行っても良い。闘茶を原型としたものだろう。

花月は、折据と呼ばれる正方形に折られた箱に、木札が入っていて、クジ引きのように木札を引いて茶を点てる者、茶を飲む者の順番を決める。木札は、すべて松の絵が描かれていて、裏返すと、花と月と一から三まで数字が描かれている。木札を引いて、一斉に裏返して、花を引いた人から、「花」、次いで「月」と宣言し、数字の人は末座から「松」と宣言する。花の人が茶を点て、月の人が茶を飲む。松の人は待つ。実に単純だが、初めから終いまで決まった立ち居振る舞いがあり、ボーッとしていたら皆に迷惑をかける。立ち位置、座る位置、折据の持ち方、送り方、札の返し方まで細かい型と決まり事があり、各自が整然と構えて、皆を待たせずに進行しなくてはいけないため、片時も気は抜けない。一方、茶を飲む際は、礼も拝見もなく淡々と飲み干す。如何に逸し乱さずに、茶を点て、茶を飲むかを型を守りながら演るのだ。新年の茶会で、楽しみながら演ればよいと先生はおっしゃるが、自分一人で演る点前ではなく、チームワークを大切にしなくてはいけないため、やはり緊張する。 一人で点前を稽古する時は、所作を忘れてしまいやり直したり、だらだらとつい自分のペースになってしまうことも間々ある。しかし、茶の湯は本来、招いた客へ至高のもてなしをすることを一としているわけで、点前をだらだらとやっていては話にならない。点前は美しく、丁寧に、速やかに行わねばならない。いざ茶室に入って、点前を始めたら客を待たせてはいけないのだ。花月を演って修練することは、今後の私の点前において極めて有効であろう。初釜まで、ほぼ毎日稽古しているが、当日はどうなることか。いろんな意味で楽しみにしている。今年も心より茶道に想いを寄せてきた。今の私には、一番必要な大切な道である。