弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

転生

平成二十九年大晦日。明日から平成三十年だが、その平成も残りおよそ一年半で幕を降ろす。思えば二十九年はあっという間であったが、平成元年からこれまでを鮮明に思い出せるのは、私がこの時代を我が人生において、最も多感な時期に過ごしたからだろう。しかし、来年から再来年卯月末日までは、知らぬ間に通り過ぎるであろう。平成を噛み締めながら生きたいのだが、今の時勢、私の生活環境がそれを許してくれそうもない。来年から再来年にかけては、天皇御退位と新天皇御即位に伴う改元のみならず、その先、新元号の下で開かれる東京五輪まで、実に様々な催しが国内外で予定されている。ここにいちいち挙げるのは控えるが、或いは突発する出来事が、激流のように目紛しく起こりそうな気がしてならない。その時、私はどういう心持ちでいられるのだろうか。

人間は時代時代で修羅場に遭遇してきた。人間にとっての修羅場とは、天災、戦争、人災(テロ、殺人、恐慌、環境破壊等)の三つである。個々の修羅場はまた別で、それは多くが家族、仕事、対人関係においてであろう。修羅場は連続ではないが、断続であって、不可思議な連鎖を起こす。火は火を呼ぶのである。その火がすべてを焼き尽くした時、生まれ変わることができるのであろうか。起きてみなくては解らないことだが、歴史を鑑みれば現実でもある。徳川時代までの日本では、禍事や凶事が続くと、宮中や社寺で祈祷が行われ、改元することで、邪気を祓い、新たなる活路を見出そうとしてきた。改元がなく元号が長く続く時は、余程泰平であったのだろう。幕末になると、一年から三年ほどで頻繁に改元されていることからも、当時の人々の不安感が察せられる。明治になり、一世一元となり、天皇の代替わりによってのみ、改元されている。維新前とはずいぶんと改元の意味合いが変わったが、改元の重みは昔よりも増した様に思う。来年秋までには、新元号が発表されるというが、果たしてどんな元号となるのか。昭和後期生まれの私だが、まさに昭和は遙かに遠くなる。

時に平成の天長節も残り来年あと一回。先日の天長節、私は東京小平市にある平櫛田中彫刻美術館に出かけた。平櫛田中は、私がもっとも好きな日本の彫刻家である。以前、上野の芸大美術館で平櫛田中の展覧会があった。その時、私は別の仏像展に来ていたのだが、同時開催されていた平櫛田中の展覧会もついでに覗いた。が、ついでなんて誠に失敬なことで、気魄溢れる彫像群に茫然自失としてしまい、すっかり平櫛田中の虜になってしまった。平櫛田中は、明治五年(1872)、岡山県後月郡、今の井原市に生まれた。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中である。十歳で広島県福山市の親戚平櫛家の養子となり、後に旧姓と新姓を併せて平櫛田中と称した。二十一歳で大阪の人形師中谷省古に弟子入りして木彫を学び、その後上京して、高村光雲の門下生となる。木彫、ブロンズ、石膏と何でもやった。静謐な躍動感を湛える平櫛田中の作品からは、彫刻がまったくの自然にできて、如何にも楽しかったに違いないことが、見る者に伝わってくる。そして田中は岡倉天心と出逢う。天心には歴史から日本美術史を師事した。物凄い勢いで彫刻を修練し熟達した田中は、帝室技芸員になる。その後、岡倉天心の創立した東京美術学校、今の東京芸大の教授となり、天心を敬愛し、天心の彫像も多く制作した。自らが彫って芸大の六角堂に安置された岡倉天心像に、田中は毎朝敬礼していたという。また、禅僧の西山禾山に私淑し、仏教や中国故事にちなんだ、独自の精神文化を作品に投影するようになる。

代表作は数多あるが、何といっても戦前から二十二年の歳月をかけて制作された「鏡獅子」は圧巻である。六代目尾上菊五郎をモデルにして、いくつもの試作をし、ついには菊五郎を褌一丁にして、装束の中身たる身体全体の筋肉や肉付きを観察しながら、装束を着けていない丸裸の鏡獅子まで試作する。妥協を許さぬ徹底ぶりには驚嘆するよりほかはない。この「鏡獅子」は国立劇場のロビーに展示されているが、生身の役者よりも迫力があり、六代目菊五郎が目の前に現れたようだ。九十歳で文化勲章を授かった平櫛田中は、晩年、小平市に移り住み、昭和五十四年(1979)百七歳で大往生を遂げた。田中は百歳を超えてなお、創作意欲盛んで、小平の自宅に、向こう三十年以上制作できる材木を運び込んでいた。現在その一部が、美術館に隣接する自宅の庭に置かれており、それはまるでオブジェのような巨木である。田中は最晩年まで彫り続けた。小平の家は美しく広々とした平屋住宅で、茶室もあって、彼の精神の集約とゆとりの均衡をとるための家であることがわかる。居間兼仏間に安置されているのは、自ら彫った新薬師寺の模刻の薬師如来立像で、像の真後ろが彼の寝所となっている。陽だまり溢れる実に快適な住宅で、近頃こんなに暖かな家を見かけない。縁側の陽だまりが、人を長生きさせるのだろうか。アトリエには、今も黙々と仕事をする田中が、そこに居そうな空気が漂っていた。

数多ある田中の作品で、私が強く惹かれて止まないのは、「転生」というブロンズ像である。「転生」は鬼が舌を出して、如何にも不味そうな怪訝な表情で、私たちを見下ろしている。芸大美術館の展覧会で、一番奥に展示されていたが、遠くからでもその圧倒的存在感に惹かれて、吸い寄せられるようにその前に立った。今回よくよく見ると、鬼が口から吐き出しているのは、舌ではなく逆さまになった人間であった。生ぬるい人間を食べた鬼が、あまりの不味さに吐き出しているところだと云う。生ぬるい人間とは、いい加減で、自己中心的な人間で、田中が幼い頃に聞いた説話を元に彫ったと云う。怒髪天を突く鬼は、見様によっては薬師如来眷属の十二神将や、不動明王にも見える。平櫛田中の仏教への造詣は極めて深かったことが覗える。「転生」が作られたのは、大正九年(1920)で、田中はまもなく五十を迎えようとする頃だ。まさに熟練となってきた頃の力作である。鬼気迫るとはこのことで、それを眼前で体験すれば、誰もが凍りついてしまうであろう。第一次大戦後、世界情勢は混沌としていたが、日本は明治の日露戦争以降、疲弊しきっていた経済が、第一次大戦に参戦し、戦勝国となったことで景気が上向き、大正デモクラシー大正ロマンといった、民衆から澎湃として起こった主義思想が巷を跋扈した。が、大正九年に株価が暴落し、昭和恐慌の前触れが始まる。その後は、関東大震災から昭和の戦争時代へ、日本は暗闇へ進むのであるが、平櫛田中はそれを密かに予感していたのかもしれない。あれほど感受性の高い人である。この時から昭和二十年までを予測するかの如く、「転生」を彫り上げたのではなかったか。そこには愚かな人間は、鬼も喰わぬと云う、正鵠を射た皮肉と憤りと悲哀がある。同時に、鬼に吐き出された人間は、新たに生まれ変わるチャンスを得て、転生すること叶うかもしれないのだ。そうした願いも込められているように思う。

大往生した平櫛田中座右の銘は、 「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」

 また百歳を超えてよく揮毫した言葉は、

「不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから」

平成二十九年歳末、再び平櫛田中に接触した私は、私自身のこれからに、まことに大きな援助を得た思いがした。奇しくも先月、我が祖母も百歳を迎えた。祖母は大正六年の生まれである。祖母が改元まで元気ならば、大正、昭和、平成、新元号と四時代を生きる。四度目の転生である。