弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 善光寺

昨年秋、坂東三十三観音巡礼を結願した。西国、坂東、秩父などの観音巡礼に結願すると、信濃善光寺と、別所の北向観音へ御礼参りするのが慣わしである。私とT君は師走間近の晩秋、信濃路へ旅立った。夜中に東京から関越道に乗り、上信越道の上田あたりで明け染める。朝焼けに映える山々の頂きには、グラニュー糖を振りかけたように薄っすらと雪。雪の下は赤や黄や橙の広葉樹と、濃い緑鮮やかな針葉樹が混在して、あの山もこの山も、大きなクリスマスツリーの様である。信州はもう冬であった。早朝に長野市に入り戸隠神社へ向かうが、昨夜来、かなりの雪が降ったようで、市街地を抜けると樹氷の森が現れ、戸隠への七曲り道を登りきったところで、路面は凍結していた。雪道が不慣れな我々は、その日は戸隠行きを断念し、明日雪が溶けることを願いながら善光寺へと向かう。

私は、日本仏教の本山と名の付く大寺院を訪ねる旅も続けている。が、果たして善光寺を加えて良いものか考えた。しかしこの寺は無宗派である。私の本山巡礼も宗派を問わない。善光寺こそもっとも相応しい寺ではないか。善光寺について、こと新たに述べることはないが、私は此度初めての善光寺詣である。善光寺を味わい尽くしたい。大本堂にも山門にも雪が被っている。空は快晴、冷たく澄んだ空気が寺域を充満し、私たちを心身ともに浄めてゆく。善光寺独自の縦長の大本堂は、これだけ大きいのに、瓦屋根ではなく桧皮で葺いてあることが、重苦しさを排除し、柔和な印象にしている。巨刹にある威圧感は皆無であるのに、包容力はとめどがない。大本堂に上がるとすぐに、賓頭盧尊者の木像がある。何十年、何百年と人々に撫でられた体は艶々に痩せ細り、顔はのっぺらぼうになっていた。大本堂内部の内陣には、東に地蔵菩薩、西に弥勒菩薩の坐像が参拝者を迎える。二体とも本尊や諸仏と違って、この寺では珍しく巨大な坐像で、大本堂の重石の様である。本尊阿弥陀三尊のおわす荘厳な極楽浄土が現出する内陣と内々陣は、殊に彫刻が美しい。一枚が畳ニ畳ほどもある内陣欄間には、極楽往生へと導く金色の二十五菩薩が雲に乗って浮かぶが、一つだけ菩薩が乗っていない雲がある。これは、我々衆生が乗るための雲であると云う。そうゆうさりげない優しさに、衆生は感動し信仰を厚くする。

三國伝来の請来仏で、我国最古の仏像と云われる善光寺の本尊一光阿弥陀三尊像は、絶対秘仏であり、住職すら拝したことはない。インドから朝鮮半島に渡り、日本の皇極天皇へと渡った。天皇は崇仏派の蘇我馬子にこの仏像を授けた。当時、日本は崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏が争っていたが、疫病が蔓延すると、物部氏は他国の異教が入ってきたことが原因だとして、蘇我氏の建立した寺を破壊し、この仏像を難波の堀江に投げ込んでしまう。が、結局この争いは崇仏派蘇我氏が征し、物部氏は失脚する。その後、信濃国司の供として都に上った本田善光が、難波の堀江を通り過ぎようとした時、水中から阿弥陀三尊が現出し、善光に信濃へ連れてゆくようにと言った。善光は言われたとおりに、信濃飯田の我が家にて阿弥陀三尊を手厚く祀った。ある日、息子の善佐が病で急死するも、阿弥陀如来は彼を甦らせた。善佐は黄泉の国からこの世へ還る途上、鬼に引きずられて地獄へ墜ちようとする高貴な女性に出会う。何おうこの女性は皇極天皇であった。甦えった善佐は、このことを父母に話して聞かせ、一家阿弥陀如来皇極天皇の命乞いをした。すると天皇は甦り、阿弥陀三尊のご威光と、善光親子の徳を讃え、天皇の発願により皇極元年(642)、飯田の御堂を現在地に遷し、寺名を本田善光からとって善光寺とした。善光寺無宗派で、庶民信仰から始まり、貴賎の別なく、女人救済にも隔たりがないのは、縁起からして当然であろう。大本堂の裏手の梅林には徳川家大奥の供養塔が建っていた。生涯を奥女中として過ごした女たちの、極楽往生を願う気持ちが込められている供養塔である。他にも佐藤継信、忠信兄弟の供養塔、真田家供養塔、中には迷い郵便の供養塔まである。どこまでも懐深い寺である。

本尊のお前立ちも普段は秘仏で、七年ごとに御開帳される。御開帳は信州一の盛儀であり、昔から「牛に引かれて善光寺参り」とか、御詠歌にも「遠くとも一度は詣れ善光寺」とある。内々陣には向かって左手に本尊を祀る瑠璃壇があり、右手には善光寺開基である本田善光と、妻弥生、息子善佐の親子三人の木像が安置されている御三卿の間がある。ほとけさまと人間が、区画は隔てられているが横並びに安置されている。この様な祀り方は他の寺では見たことがない。それに善光親子の表情が良い。一般に寺の開基や開祖は、高僧や貴人と決まっていて、そうした木像は人間臭くて薄気味悪いものだが、この三人は柔和で親しみ易い面立ちをしている。いかにも争いや権威権力とは無関係な、善光寺を象徴する像だと思う。思えば、庶民の名前が寺名になっているこれほどの巨刹もあるまい。日本の寺でこの規模の寺院は、南都の官寺、各宗派の本山、天皇家藤原氏の氏寺、京都や関東の禅刹、徳川家の菩提寺など、そのほとんどが権門と繋がって建立された。善光寺とて、後々は、各権門から寄進や寄付があって、今のような巨刹になったが、始まりは本田善光の家であり、まことに小さな仏堂であった。私は浅草寺清水寺にも似た雰囲気があると思っている。

善光寺と云えば、「お朝事」と呼ばれる毎早朝の勤行が有名だが、それは翌朝参加する予定だ。このあと、大本堂のお戒壇巡りをやる。大本堂の地下に延長四十五メートルの回廊があって、ちょうど中程に、「極楽のお錠前」と云う取っ手のようなモノがある。これを握ることで、本尊と結縁できて、極楽往生が約束されるというありがたいものだ。だが、回廊内部は灯が一切なく、手探りで壁を伝い、闇を彷徨いながら、お錠前を探すのである。今さら痛感させられたことだが、闇とは真に恐ろしいものだ。戒壇内部は大人が歩けると分かってはいても、ついつい屁っ放り腰となってしまい、恐る恐るの暗行である。わずか四十五メートルが、やたらと長く感じる。まさに暗行と呼ぶに相応しい。何がいるとか、何かにぶつかりはしないかとか、そういう怖さではない。ただ闇が怖いのである。初めてのこととて、自分の臆病さには半ば呆れた。あげく私は、お錠前を通り越そうとした。が、後ろにいたT君が声をかけて、引き戻してくれた。おかげさまで、私もお錠前を掴むこと叶ったのである。戒壇巡りは人生の縮図である。とかく一生は、暗闇を手探りで歩いてゆく様なもので、周囲に気を取られていたり、逃げ腰でいれば、本当に大切なモノを見逃してしまうのだ。そんな時、一人では気付けないことを、誰かが気付かせてくれることがある。それは家族か、友人か、一期一会の他人かも知れない。或いはその人は、この世の人ではなくて、神や仏かも知れない。人は愚かである。人生において大事な地点を通り過ぎたり、一人では戻って来れない場所へ踏み込むこともある。私も若い頃にそういう経験があった。だが、其処から連れ戻してくれた友人がいた。信じてくれた家族がいた。ゆえに今がある。善光寺戒壇巡りをして、お錠前を一人では探し当てることができなかったことは、悔しいとか、恥ずかしいとか、哀しいとかではなくて、友に導かれて辿りついたことが、何より嬉しかった。この夜は、善光寺から歩いて十分くらいの高台にある山の神温泉に泊まった。部屋からは、善光寺の大屋根が真後ろから見下ろせた。夜の帳が下りると善光寺平に明滅する灯は、言葉にならぬ煌めきである。それを眺めながら、T君と坂東巡礼結願と善光寺北向観音への御礼詣りが叶った祝い酒を呑む。本当に美味かった。

 翌朝、五時過ぎに起床し、「お朝事」に参加する。善光寺無宗派だが、各宗派を代表して天台宗と浄土宗がこの寺を守り営んできた。住職も二人おられる。お一人は天台宗大勧進貫首様、もうお一人は浄土宗大本願の上人様である。大勧進貫首は、天台宗の高僧から選ばれる。大勧進本坊は、山門に向かって左手に、濠を廻らせて威風堂々と男性的な佇まいで建っている。一方の大本願住職は、代々尼僧が務め、日本で唯一の女性上人である。皇極天皇蘇我馬子の娘を召して、自らに代わって御仏にお仕えするように言われ、善光寺へ派遣された。以来、大本願上人は、女性皇族や高位の公家の女性が務めてきた。大本願本坊は、山門から南へ一丁ほど行った仁王門左手にあり、寺院というよりも御座所のようで、いかにも格調高い趣である。お朝事は大勧進大本願両住職が毎朝大本堂に出仕し、三十分交代で行われる。この寺でもっとも厳粛な勤行である。善光寺のお朝事は、密教寺院のように盛んに護摩を焚いたり、太鼓を打ち鳴らして悪鬼羅刹を調伏するのでもなく、禅刹のように座禅をしたり、全僧侶による荘厳な読経があるわけでもなく、真宗寺院のように門徒が声高に御念仏し、坊さんが説教するのとも違って、まことに静かで穏やかなお勤めである。だが、静かなる読経はしっかりと大本堂の隅から隅まで染み渡り、ピンと張り詰めた柔らかな気が堂内を包みこむ。私たちは遠慮して外陣から拝したが、突然女性に背中を叩かれて、「もうすぐ扉が開きますから、どうぞ瑠璃壇正面の方へ」と促された。言われるがままに、瑠璃壇正面へ来て合掌していると、果たして厨子を覆った幔幕が上がり、貫首様が厨子の扉を開かれた。私は目を疑った。確かにお厨子が開いて中の阿弥陀三尊像が見える。私は目が悪く、眼鏡をかけているが、遠くが見えない。外陣からであったし、何度も目を凝らしてみたが、やはり厨子の扉は開いている様に見える。あれは、お前立ちのお前立ちなのだろうか。やがて、貫首様が私たちの方を向かれ合掌し、南無阿弥陀仏。私らも合掌し南無阿弥陀仏。ほんのいっときであった。顔を上げると厨子の扉は閉じられていた。私たちに、瑠璃壇正面へと促した女性もどこにもいなかった。後からいろいろ調べてみたが、お朝事で厨子を覆う幕は上がるが、扉が開くとはどこにもない。あれは夢であったのか。思えば、あの女性は寺の方なのか、信者なのかも定かではない。或いは皇極天皇か弥生御前とまで、いろいろと考えてみたが、もしかしたら観音巡礼結願の御礼参りに来た私たちに、観音様が化身されて来られたのだろうか。ありがたくも不可思議な体験をしたと思う。お朝事の際、信者が心待ちにしているのは、「お数珠頂戴」である。貫首様や上人様が大本堂へ出仕の際に、参道に跪いた信者や参詣人の頭に、「南無阿弥陀仏」と唱えながらお数珠を翳してくださる。これもまた極楽往生への切符となるらしい。私たちも皆に倣い、冷たい大本堂の板に跪いて合掌し、両住職へお数珠頂戴を希う。そこにはひとつの穢れもなく、純粋無垢な感激と謝恩の心があった。これが迷いなき信仰というものなのだと、今、こうして書いてみて得心した思いである。

境内の片隅には、歴代の大回向柱が置かれている。置かれているというよりも、しっかりと土に埋めてあって、直近の柱が一番背が高く、時代を遡るにつれて、ほとんどが土に還り、頭だけが地上に出ている柱もある。その一本一本に私は触れてみた。外気は冷たいが、柱は温かい。大回向柱は御開帳中に大本堂の前に立てられて、前立ち本尊の阿弥陀如来の右手と紐で繋がっている。人々は大回向柱に触れて、御仏と結縁するのだ。大回向柱は御仏と衆生の本願の接点である。次の前立ち本尊御開帳は、今から四年後の西暦二千二十年である。その時はもう平成ではなく、新元号である。

善光寺には三十六もの宿坊があるという。それらが周囲を情緒ある町並みにしている。ここから善光寺平の街並みは広がっていった。長野市は日本一大きな門前町である。弥陀の本願にただひたすらに縋りついた親鸞も一遍も善光寺にしばし逗留した。川中島で互いに切磋琢磨して戦った信玄と謙信も善光寺を敬愛した。旅を愛し己が数寄の道を歩いた芭蕉善光寺へやって来た。そして小布施の岩松院に八方睨みの鳳凰を描きに来た晩年の北斎もきっと善光寺へも詣ったであろう。彼らは皆一様に、善光寺阿弥陀三尊との結縁を喜んだに違いない。長野五輪開会式は善光寺の梵鐘が突かれて始まったが、この寺が草創した時から、響き続けている信仰の音は、今も、これからも消えることはないであろう。