弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

公共の福祉と言論の自由

大寒の候。東京では大雪が降る。先日、小室哲哉さんが音楽活動を引退した。週刊文春に不倫疑惑を掲載されて、自らの望んでいた勇退とは違う、惨めで哀れな末路となった。個人的には小室さんの引退はとても寂しい。小室哲哉の音楽は、私の思春期から青春期に傍にあった音楽である。その対局にあるMr.ChildrenGLAYとともに、これまでもこれからも、私は小室哲哉の音楽を携えてゆくだろう。若い頃に出逢った文学は一生忘れないものだが、音楽もまた然りである。小室さんは満身創痍の会見で、しどろもどろになりながらも、今の自分と疑惑について、闘病中のKEIKO夫人のこと、そして己の才能の限界と涸渇について赤裸々に告白した。小室さんは真面目な人である。少なくとも私には昔からそう見える。真面目過ぎる故に、トラブルや墓穴を掘ることも多いと思う。そして、誤解を招く事もあろう。かつて金銭トラブルで詐欺罪に問われ逮捕され、裁判になった時も、真面目さが不器用と相まり、それが祟った結果だと私は思っている。しかし、誤解を招く行動や、結果的にその行動によって損害や心痛を被った人もいたわけで、そうした行動は慎み、その点は素直に反省すべきである。人としてごく当たり前の事であり、政治家とか芸能人とかは問題ではない。事実小室さんは猛省したし、世間は才気の再起に期待したのだが、此度も猛省の結果、引退となった。

 昨年来、各界で不倫や淫行が新聞雑誌で暴かれているが、こうした疑惑をすっぱ抜くことが得意なのが週刊誌であり、昔から彼らの専売特許である。しかし、ここのところの週刊誌やマスメディアのやり方、過熱報道、取材と公表の在り方には少しばかり疑問符が付く。確かに我国は表現の自由言論の自由が最高法規たる憲法で保障されている。日本国憲法第三章第二十一条で、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならないとある。日本は明治維新から近代国家として歩み成長した。昭和戦争では死に体となるが、戦後新しい憲法を携えて、国民一人ひとりが次の「坂の上の雲」を追いかけて、努力を怠らなかったから今がある。マスメディアも戦時下の言論統制から解放されて、存分に叫び、諭し、伝えてきた。必死で這い上がろうとする国民は脇目も振らずに走ってきた。その背後からは高度情報化社会という、日なたの様で闇夜の如き大波に飲み込まれることも気づかずに。気がつけば今、腐敗したマスメディアに操作され、洗脳され、汚染された世の中に成り下がってしまった。

憲法は第十条で法治国家を宣言し、第十一条で、基本的人権を侵すことのできない永久の権利とし、第十二条で、憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持し、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふとし、第十三条で、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするとし、第十四条で、法の下に平等と謳う。私自身、日本国憲法は第九条から十四条までが、戦後現代日本の国是を表し、国民を守護し、国民一人ひとりの自由を許す至高の精神であり、銘文であると思う。故に報道も表現もまた自由には違いない。だが、過熱報道、捏造、某国の大統領の言うフェイクニュースも時に混在しているとも思う。それほどに、個人攻撃が鋭い。無論、公人や芸能人は自身の行動に対する責任と戒めが肝要であり、報道される覚悟もまた必要と心得なければならない。某大統領のようにいちいちマスコミと言い争うのも低次元であるが、やはり行き過ぎた取材、報道にはいささか辟易する。空虚なのだ。しかしながら、我々は知る権利を有し、報道、表現には自由がある。それもまた憲法が保障している。

そこで考えねばならぬのは憲法にもある「公共の福祉」という事だ。「公共の福祉」とは実に漠然たる表現ともいえるが、言い得て妙であり、これ以上の表現はないだろう。時に人権と人権は衝突をする。私の人権は、当然相手にも同権がある。双方保障せねばならぬから、互いの人権は一定の制約を受ける。すべての人の人権が法の下に平等に保障されるために、人権と人権の衝突を調整する事を、憲法は「公共の福祉」としたのである。我々は「公共の福祉」に反しないように互いを尊重し、互恵関係を築かねばならない。少なくとも現行憲法で生きてゆく限り、日本人はそのように生きてゆくべきであろうと私は思う。我々には今少し真面目さと優しさが足りないのではないか。皆が己が事しか考えていない。逆を言えば、己が事で精一杯なのである。我々は二十一世紀という極めて複雑怪奇な時代の畝りの中に在って、併せて混迷を見せる世界情勢を眼前にして生きている。今、国内でくだらぬ虐待をしている場合ではない。マスメディアの責任は果てしなく重いが、我々標的となる民衆も自戒と覚悟が必携である。双方が温かくも冷え錆びた感覚が要求される時代である。そうせねば、あっという間に潰されて、消されゆくのだ。浮世とは何とも哀しいものだ。

私にも言論の自由はある。ゆえに此度はかく語らせてもらった次第である。