弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本一の参道

昨年秋の信州旅行で、かねてから気になっていた戸隠神社まで足を伸ばした。善光寺の御朝事に参加して、雪解けの山道を戸隠へ向かう。本当ならば前日に戸隠に行くはずであったが、大雪のために断念。幸いに良く晴れたので路面の雪解けは進んだようだ。善光寺の裏手から七曲峠を登る。昨日は峠のてっぺんまで来て断念したが、今朝はノーマルタイヤでも先へ進めるほどになっていた。が、慣れぬ雪道、慎重にゆっくりと峠を越えた。車窓から見える山々の雪景色は素晴らしかった。十一月末であったが、戸隠の山峰が近づくに連れて雪深くなり、広がる雪原と白樺の樹氷が朝陽に映えて眩しい。山はもう冬の眠りについていた。

同行してくれたT君から戸隠の事は予々聴いていた。何しろ参道がすばらしいという。私は寺社の参道が好きだ。清潔な参道は歩いていて実に気分が良い。参道が長ければ長いほど私はうれしい。本堂や社殿へ向かうアプローチを歩いている時、この先にまだ見ぬ何かがあると思うと胸が高鳴る。あの高揚感に勝るものはなかなかあるまい。歴史好きが昂じて、日本の寺社を巡っているうちに、いつの間にか寺社の魅力に取り憑かれてしまった。目紛しく風景が変わりゆく当世において、まだ少しばかり昔の佇まいを遺してくれているのは寺社くらいである。寺社は史実を探り、追憶に耽るには絶好の場所なのである。さらには美々しい境内や参道を歩けば、心が躍り洗われる。寺社は薄汚い人や町から逃れるためのシェルターであり、文字通りの駆け込み寺なのだ。

さて戸隠である。戸隠山は太古から神山として崇められている。ことに修験道の霊山として有名で、戸隠連峰飯縄山などを含めて大規模な結界があり、一帯を戸隠曼荼羅と称した。私の故郷の日向国は、神話と伝説の国と呼ばれ、古事記や日本書記、風土記に著されている物語の舞台が彼方此方にある。神社や神宮が多く、仏閣は小規模で大寺院はない。幕末までは仏教もあまり盛んではなく、南九州を統治した島津家は、念仏を禁教としたため、信者は洞穴や床下で秘かに隠れ念仏をした。私の生家の本家にも隠れ念仏洞が残っていて、幼い頃の遊び場となっていた。その反動で明治維新以降、南九州には各地からの宣教者がなだれ込む様にやってきて、特に北陸からは盛んに浄土真宗を布教したため、今では浄土真宗の寺ばかりになった。曹洞宗、浄土宗、日蓮宗なんかもあるが、寺は浄土真宗が圧倒している。が、今でも寺よりも神さびた社の方が多いのではないかと思う。その様な場で生まれると、日本の神話にはずいぶん親しんで育った。幼稚園や小学校では、日本神話の紙芝居や絵本をよく見たものだ。古事記の上つ巻は、神武天皇以前の神代から天孫降臨までの物語が記されていて、日本神話の源泉に触れることができる。

日本の神話でもっとも有名なシーンは、イザナギイザナミの国生みと神々の生成、黄泉の国、スサノオの八岐大蛇退治、天孫降臨、そしてアマテラスの岩戸隠れであろう。アマテラスは弟のスサノオの悪行に堪えかねて、岩屋に引きこもってしまう。太陽神が隠れてしまったため、此の世は彼の世の如く昼が消え失せ、闇夜となってしまった。天地は凍てつき、作物は枯れ、疫病が蔓延し、魑魅魍魎が跋扈した。困り果てた高天原の神々は、相談して、岩屋の前で宴を催した。アメノウズメが乳房も露わにして妖気に踊ると、神々からは歓声があがった。岩屋の中のアマテラスは、光である自分が居なくて外は闇黒の世界なのに、皆は何故あんなに楽しそうなのかと不審に思った。アマテラスは岩屋の戸をほんの僅かに開けて外を覗いてみた。すると正面には、自分とそっくりの光り輝く女神が立っている。これは鏡に映ったアマテラスなのだが、自分の代わりがいることに驚いたアマテラスは再び岩戸を閉じようとした。その瞬時、高天原一の力持ちのタヂカラヲが、岩戸の隙間に手をかけて豪快に戸をこじ開けてアマテラスを外へ迎えた。そしてタヂカラヲは、岩戸を剥ぎ取って、遥か彼方に投げ飛ばしてしまった。これにて、高天原にも下界にも再び光が満ち溢れて、神々は安堵したという話である。高天原での出来事であるが、この岩戸隠れの現場は伊勢をはじめ日本の各地に伝承されている。日向国の高千穂にも天岩戸神社があって、岩屋とされる洞窟があり御神体とされている。

タヂカラヲが遥か彼方に投げ飛ばした天の岩戸が落ちた場所も各地にあるが、信濃の戸隠にもそういう伝説がある。岩戸を隠した場所であるから戸隠なのか。修験道が盛んになって後に、岩戸伝説が付与されたに違いないが、修験道では不動明王蔵王権現、天狗など屈強で強面の神仏が崇拝されるから、戸隠は手力雄命を拝し、同時に戸隠連峰の九頭龍山の九頭龍社を勧請して拝んだのであろう。戸隠山には九頭龍伝説も残っていて、その昔、人々を恐怖に貶めた九頭龍を、学門という僧が戸隠山に封印した。以来、九頭龍は水神となり、邪神から善神に生まれ変わって人々に崇められたという。いずれ古くから信仰の地として名高い戸隠には、聖地ならではの張り詰めた気が充満している。下社にあたる宝光社に着いた時から、そうした空気があたりを覆い、さらには清白の雪が、此の場所が潔斎の域であることを高めている。宝光社、火之御子社、中社の順にお参りする。宝光社の二百七十段あまりの急勾配の階段には、誰も踏まない大雪が降り積もっていて、慎重に足を運んだ。だが、もしここで足を滑らせて転げ落ち、死んでしまっても、それが私の命運であると、神妙に納得した。雪は戸隠全体を覆い隠すが、社殿と雪のコントラストは絶妙であった。日本の古い寺社建築は、この国の四季折々の風情というものを、細微に考えて造られたのではないかと思わせるところがある。私はそうした風景に出逢う度に、いつも唸って感動している。

さらに上へと登ってゆき、やがて念願の奥社参道の入り口へ達する。この少し手前には女人堂跡や女人結界碑がある。例によって戸隠も、かつては女人禁制であった。奥社までの参道は全長ニキロほど。緩やかに登ってゆく。天は碧空、道は白道。まことに幻想的かつ、神仏混淆の光が射した様な参道は、私がこれまで歩いてきたどの道よりも美しく、清浄であった。同行してくれたT君は以前来たのは夏で、その時とはまったく別の参道に、感激を新たにした様だ。我々は童子の如くはしゃいでしまい、興奮しながら歩いていった。参道のちょうど半分ほどのところに、茅葺で朱塗りの隋神門がどっしりと、厳かに建っている。あたりは風も止み森閑としている。雪を冠る隋神門の佇まいは、極めて日本らしい風景であり、戸隠もいつかきっと世界遺産となるであろう。

隋神門までと隋神門から先とでは、全く改まった趣となる。隋神門より内は、さらに厳粛な雰囲気に満ち溢れ、深呼吸をすれば確かに浄域の透明な空気が味わえるのだが、油断をするとその浄域に我も呑み込まれてしまいそうだ。どうやら隋神門は結界のようである。ここまでの一キロの道のりもとても素晴らしいのだが、どうしても序章であり、茶事に喩えれば初座で、隋神門を潜り抜けたその先こそが後座といえようか。或いは戻りの反対側から見れば、隋神門より内が濃茶、隋神門より外は薄茶といった感じである。隋神門を潜り先へ進もう。道の両側には杉の巨木が並び、それがずっと先まで続いていて、終点は見えない。ここが私がずっと歩いてみたいと願っていた、戸隠神社参道なのだ。杉並木は、四百年ほど前に有志によって植林されたというが、亭々と並ぶ巨木には、途轍もない神力が宿っているようで本当に圧倒される。しかし、きっとあの日見た参道は、あの日限りの参道であったに違いなく、次に来た時はまったく別の顔を魅せるであろう。戸隠の参道を見ずして、参道を語るなかれである。

戸隠神社は、奥社、中社、九頭龍社、火之御子社、宝光社の五社からなり、創建年は定かではないが、少なくとも二千年余りの歴史がある。神代から崇められ、平安末には修験道の霊地として都にまで知れ渡るようになる。やがて神仏混淆の道場となって、天台宗真言宗が戸隠の覇権を競い合ったというが、いずれも信濃から北上するための中継拠点としたかったのではなかろうか。幕末までは戸隠山顕光寺と称し、境内には多くの堂宇坊舎が建ち、戸隠谷三千坊とも呼ばれた。その坊舎は、私たちが歩く奥社参道の両側にびっしりと建ち並び、向かって左手が真言宗、右手が天台宗であったという。比叡山高野山と共に三千坊三山と言われ隆盛した。徳川家康からも手厚く保護されて、江戸幕府から一千石の朱印状をもらい、東叡山寛永寺の末寺となって、水神と農耕の神として江戸庶民にも崇敬された。おそらく善光寺と併せてお詣りに来たはずである。当時の坊舎が建ち並ぶ参道は想像するに壮観で、神仏混淆の象徴的な聖地として稀有の存在であったに違いない。その様子は今は知る由もなく、〆縄張りの隋神門だけが往時を偲ばせるのみで、静謐な神の森となっている。かえってそれが今の戸隠の神秘性を守護している様に思えてならない。

雪は奥へ進むほど深くなる。奥社はまだ見えない。行けども行けどもたどり着かない。それにしても、どこまでも長く美しい参道である。やがて、やや急な登りがあって、おそらく雪の下は岩場であろうが、それを上り詰めると、左手に九頭龍社、右手に手力雄命を祀る奥社が鎮座していた。社は普請中であったが、すぐ裏にはもう戸隠山の荒々しい岩肌が迫っていて、真下から見上げると、なるほど巨大な岩戸がすっくと立っている。戸隠はやはり堂々たる神山だ。ここまで辿り着いた安堵と喜びが、澎湃として湧き上がってくる。何とも清々しく心地良い時であった。参拝をして振り返ると、冬の優しい陽光がさんざめいていた。

帰りがけに、奥社参道の入り口に構える戸隠そばの店に入った。店名が何と「なおすけ」であった。名物の蕎麦をカケでいただく。雪の参道を往復四キロも歩いて、すっかり冷えきっていた身体には、殊の外温かく、美味かった。窓の外には、戸隠神社の鳥居と今来た雪の参道があって、その向こうにはもう見えない奥社と、その上にそそり立つ戸隠の峰々が壁の如く見える。感無量の贅沢なひとときであった。私たちは其処を去り難く、いつまでも飽かずに眺めていた。