弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(二)

すっかり北関東の寺社に魅了されて、別の日にまた出かけた。深夜に東京を発ち、T君の運転で東北道を北に向かう。もう何度このルートを走っているかわからない。奇縁なことに天気はいつも晴朗で、行きは夢のような朝焼けを、帰りには厳かな夕焼けを拝みながらのドライブは、旅の何よりの宝となった。毎回、早朝から夕方まで車を運転してくれるT君のおかげであり、方々つきあってくれた彼には感謝しかない。

 この日はT君の提案で、まず栃木県茂木町にある鎌倉山に雲海を観に行った。雲海の名所は各地にあるが、鎌倉山のことは此度初めて知った。明けの明星の瞬きを見ながら、北へと向かっていた車が、少し東へと方向を変える頃、空にはうろこ雲がたなびき、人間には作り得ない赤い色の朝焼けが、西へ向かって空恐ろしいスピードで流れゆく。鎌倉山の麓に着いた時には、一帯は濃霧に覆われていた。鎌倉山那珂川を見下ろすように立っている。二百メートルほどの低山だが、周りにはこれより高い山はないため見晴らしが良いらしい。那珂川の川面から、もの凄い勢いで水蒸気が昇ってゆく。これが溜まって、雲のように山々を取り巻き、雲海となり、町を包むのだとわかった。車を那珂川のほとりに停めて、沢を渡り、キツイ傾斜の杣道を登る。あたりは鬱蒼たる樹林だ。年若のT君はぐんぐん登る。私もそれに着いて半分ほど一気に登ったが、酸欠になってしまい、だんだん苦しくなる。少し息を整えて、ようやく九合目あたりに来た時、岩場になり視界が開けた。先を歩くT君が歓声をあげる。連れて私も俯瞰して観ると、どうだろう、鎌倉山の首から下はまったく白雲に包まれている。雲とも霧ともつかないのだが、恐らくは濃霧が下から立ち昇っているのだと思う。実に幻想的な光景で、酸欠となっていたことも忘れた。そして思いっきり深呼吸をして、山の朝霧を身体に充満させた。ちょうど御来光の時であり、遥か遠くに見える山々も首から下はすっぽり雲の中なので、本当に海に浮かぶ島の如く見える。しばらくの間声も出なかった。これほど爽やかな朝は何年ぶりだろうか。頂上まで行ってみると、ささやかな社が。菅原神社とあるから天満宮だろう。後でわかったのだが、私たちが登ってきた道とは反対側にも舗装された広い登山道があって、頂上までは容易に車で登れるらしく、雲海のシーズンは大変な混雑らしいが、この時はまだ雲海も出始めとのことで、人は疎らであった。坂東には鎌倉を冠する鎌倉街道があり、鎌倉山という山もいくつかある。坂東が鎌倉幕府のお膝元であれば宜なるかなだが、茂木町の鎌倉山も、この地を治めた某氏の物見山としての役割を果たしたのではないだろうか。

鎌倉山を降りて、茨城県笠間市西念寺へ向かった。筑波山塊の北側に稲田郷というところがある。今もその名に背かぬ美しい田園地帯である。この一ヶ月ほど前に、すぐ近くの坂東二十三番札所の観世音寺と笠間稲荷に参詣したのだが、その時は時間がなくて寄れずにいた。この辺りは古くから開けた農地であったに違いなく、稲田という地名や、農耕神である稲荷が笠間に鎮座することからも類推できる。国道から木々の間に寺の甍が見えた時、大きな寺に違いないことはわかったが、あとから調べて、ここが親鸞の坂東の布教の拠点となった場所であり、教行信証の執筆を開始し、妻恵心尼とともに子を育て、足かけ二十年も滞在した稲田草庵であることを知り、ぜひとも訪ねたいと思っていた。その願いは一ヶ月あまりで叶った。思えば来るべくして来る寺であったのだろう。その縁を嬉しく思いながら、美々しい敷石の参道を歩き、茅葺の山門を潜った。現在の本堂は平成七年(1995)の築だが、二十年余りの歳月は、すっかりと古寺に馴染んでいる。ひときわ目を惹くのが真宗寺院でよくみかける太鼓楼で、一見すると城の櫓のようである。天保十四年(1843)の建立で、法要の開催などを近隣住民に伝えた。境内はゆるやかな丘陵地にあって、本堂裏手の丘には親鸞が生涯慕った聖徳太子を祀るお堂がある。ここから西念寺の大屋根越しに眺める稲田と筑波の裏山の風景は良い。西念寺は巨刹ではないが、こじんまりとしているわけではなく、程よく立派な寺である。一年中仏教講座や市民講座が開催されていて、宿坊もあり、門徒のみならず、学生の合宿にも使われるらしい。私は圧倒的な巨刹も好きだし、寂寞とした小さな草庵も好きだ。が、西念寺のように大きすぎず小さすぎずの私にとって程よい寺が、なんとなく一番落ち着くのだ。それは私が凡夫故であろう。巨刹は私の様な無知で小心者には威圧され潰れそうになるし、無碍の境地など生涯会得できぬ愚物には、厭世的な草庵もまた似合わぬ。この規模の寺が、覚束ない人生を歩く私には、安心してほとけ様へ心身を委ねることができるのかもしれない。

西念寺は、真宗門徒からは通称稲田御坊とか稲田禅坊と呼ばれ、浄土真宗開祖親鸞聖人の聖地とされている。真宗では珍しくいずれの派にも属さない単立寺院で、稲田の草庵として広く門戸を開いている。承元の法難により、親鸞は師の法然らとともに流罪となり、建永二年(1207)越後に流された。僧籍を剥奪された親鸞は、藤井善信の俗名を与えられるも、自ら「愚禿親鸞」と名乗り、非僧非俗であると宣言した。忸怩たる思いで配流生活を送り、やがて赦免された親鸞は、京都へは帰らずに、妻恵信尼ら家族を伴い、東国にて布教活動を行うことを決心した。決心というよりも、己の信ずる仏道は念仏であって、自身もただ念仏にすがりついて生きてゆきたいと思ったのだ。はじめは本当にそれだけであったと私は思う。建保二年(1214)に家族や門弟と越後を発し、信濃善光寺へしばし逗留した。その後、伝手あったのか、常陸国へ向かった。今の下妻市小島に草庵を結び、坂東の地での布教を開始、次第に評判が流れて、稲田郷の領主稲田頼重に招かれて、新たに吹雪谷と呼ばれたこの地へ草庵を結び、東国での拠点とした。親鸞に篤く帰依した稲田頼重が、多分にスポンサーとなったことは想像に難くない。親鸞はここで立て直し、一家や弟子の暮らし向きも落ち着いたことで、地に根差して布教活動ができた。そしてこの地で四年の歳月をかけて、彼の代表作「顕浄土真実教行証文類教行信証」を起草した。教行信証には、親鸞が学び、読み、思索してきた浄土信仰の魅力と念仏門の正しさが丹念に書き著されている。全六巻の教行信証は、浄土真宗の根本を成す聖典とされる。親鸞の思う親鸞の仏教を様々なアプローチで書いているが、複雑で膨大な文章を、我々が簡単に理解するのは難しい。むしろ我々には弟子唯円の著した歎異抄にこそ、親鸞をすぐ近くに感じることができるし、易しく真宗の仏教へ誘ってくれる。だが、教行信証が不可思議に面白いことは、あれほど、弥陀の本願にお任せし、ただひたすらに念仏せよという、易行念仏を説いた親鸞が、これほど綿密に多角的に論じているということに、あらためて驚愕することだ。叡山に登り、法然という師を得て、法然と同行と誓った親鸞という人の宗教観、教養、己が見つけた仏道への自信というものを感じずにはいられない。

親鸞は流転の日々から、この稲田郷においてようやく安穏を得ることができた。おかげでこれまで見てきた人間の業、人間の性というものを改めて考えて、思想思索を整理することができたのである。そして、迷いも完全に払拭され、生涯を己が仏道と、念仏門の布教に捧げることを誓った。寺から少し北へ行ったところに、稲田神社という社があって、どうもそのあたりが教行信証の執筆を始めた場所ではないかといわれている。いかにすれば極楽往生を遂げられるのか、大真面目に考え、悩んだ末に教行信証をまとめ、二十年の間に多くの弟子と信者を得た。都の文化果つるところといわれた常陸国において、成し遂げた親鸞は還暦を過ぎた。そして突如として恵信尼や家族と別れて、都へ帰還する。親鸞は自分の故郷でもある京の都において、余生の余力をすべて注ぎこんでみたい、そういう挑戦の気持ちが沸々と湧いていて、いざ実践しようと思ったのではなかったか。いずれにしても、九十年の親鸞の生涯において、もっとも熱く情熱的に、かつ冷静に生きたのが、ここ稲田郷であったのだと思う。寺の外の田の中に、見返り橋の跡がある。親鸞は京都へ旅立つ朝、稲田の里に名残を惜しんで、その橋の上にしばし佇んでいたと云う。立つ瀬を得た稲田を去りがたい気持ちと、生まれ故郷への望郷の念が、親鸞の心身を複雑に交錯したに違いない。

 稲田御坊から車で四十分ほど西へ走り、再び栃木県へ戻って、真岡市にある高田山専修寺へ向かう。真宗高田派の本山は、三重県津市の一身田に寺内町を構えて勇壮な大伽藍があるが、ここが草創の寺で、高田派では本寺と呼ぶそうである。今は真岡市となったこのあたりは、以前は芳賀郡二宮町で、あの二宮尊徳が小田原からこの地へ赴任して、二十六年間暮らしたとされる桜町陣屋という古民家が残されていたり、二宮神社があったりもする。二宮尊徳は、小田原藩で酒匂川の氾濫の被災復興に尽力し、百姓の子として生まれたにも関わらず、勤勉に勉め、藩の誰よりも農政に精通し、思想もよほど賢かった。経世済民とは何たるかをわかっていた。それを買われて、小田原藩飛地であったこの桜町が荒廃しているため、藩から派遣されたのだという。尊徳が仏教や真宗の専修念仏に関心があったかはともかく、この地で復興事業の傍ら、おそらくは専修寺にも参詣したのではあるまいかと思う。北関東道からほど近くの住宅地の只中に、こんもりとした森がある。このあたりを高田というそうで、寺は森の中に埋もれるようにひっそりと在った。が、さすがに歴史ある寺に違いなく、広々とした境内は風格を備える。茅葺の門や庫裏、スマートな山門などは坂東らしい簡素な趣きである。三重の一身田の専修寺も室町以降に本山となってから、寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残しているが、ここ高田の本寺も、寺の周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成である。また、少し離れてはいるが、真岡鉄道に寺内(てらうち)という駅があって、各地の真宗寺院のように、この一角はひとつの寺内町であったことを示している。

本堂の如来堂と親鸞を祀る御影堂、総門、山門、真佛上人像と顕智上人像はいずれも国の重文。如来堂は元禄十四年(1701)の建立で、小ぶりだが寺の堂宇というよりも、外観は完全に神社の社殿である。きっと神仏混淆の遺産ではないかと思う。本尊の阿弥陀三尊像については諸説あるが、一説では親鸞が夢告により、信濃善光寺より迎えたという。善光寺の前立ち本尊と同じように、一つの光背の中央に阿弥陀如来、向かって左に勢至菩薩、右に観世音菩薩が並ぶ一光三尊仏である。桜町、後桜町、後桃園、光格、仁孝、明治の六人の天皇が拝したとされ、別名は天拝一光三尊仏と云う由緒あるほとけである。秘仏とされ、十七年に一度御開帳されるが、普段は本尊を模した美しいお前立ちを常拝できる。真宗寺院は阿弥陀如来を祀る本堂よりも、宗祖親鸞を祀る御影堂の方が大きいのが特徴だが、この寺も御影堂が阿弥陀堂よりも四倍くらい大きい。昔は御影堂も茅葺だったらしいが、今は銅板葺に変わっている。重厚感溢れる御影堂内部は、シックな外観とは異なり眩しいほどに立派であった。親鸞を祀る須弥壇には精緻な彫刻、絢爛たる装飾があって、本山に劣ることはない。この寺が浄土真宗の聖地の一つであって、真宗十派のうち、本願寺派大谷派を除く八派では最大勢力とされる高田派の歴史の重みと、信仰の力を感じさせるものがある。

真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒や地域の檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。高田の本寺専修寺も多分にその色を強く感じた。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も私たちだけで独占させていただき、坂東の古刹の空気を存分に堪能した。親鸞は四十二歳頃から、およそ二十年、稲田の草庵に腰を落ち着けながら、坂東各地を行脚し専修念仏を広めた。寺伝によればここへ来たのは五十三歳の時で、この地で真佛など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立し、善光寺から迎えた阿弥陀三尊像を本尊としたとされる。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時。建立当初は専修阿弥陀寺と称し、およそ七年間親鸞はこの寺をベースキャンプにした布教活動を行った。小貝川のほとりには、親鸞が寝泊りした三谷草庵があって、道場ができるまでの仮住まいとしていた。坂東には各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそうして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。ここ高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽したのである。真宗の本流というわけである。門弟は高田門徒と呼ばれ、真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除され小さくなり、まことに不遇であった。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院とした。この寺が後に本山専修寺となる。本寺の専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。その後、江戸期にようやく高田の専修寺も復興された。私は浄土真宗の始まったこの寺で、改めて真宗の長く、複雑な歴史に思いを馳せた。今や宗派間の対立などキナ臭い歴史を封印するかのような穏やかで静かな時が流れている。

門を出る前に、涅槃堂というお堂に入ってみた。ここでは誰でもあっと驚きの声をあげずにはいられないだろう。お堂の中で横たわるのは、三メートルに及ぶ大きな釈迦涅槃像である。その大きさに驚き、しばらく拝んでいるとその御姿に感動するはずだ。涅槃像は元禄時代の木像で金箔が施されているが、その御顔はまことに優しい。いつまでも尊顔を拝していたい気持ちになる。作者は江戸湯島九兵衛と墨書にあるらしいが、江戸の湯島九兵衛なのか、江戸湯島の九兵衛なのか、私は知らない。いずれにしても全国的に名の知れた仏師ではなく、江戸期の職人らしい純朴さを涅槃像からも感じることができた。友愛と簡単に言う人がいるが、こちらの御釈迦さまにこそ、私は広大無辺の友愛と、御慈悲を賜ったような気がした。まもなくこの寺は草創八百年を迎える。浄土真宗という日本仏教最大の宗派は、親鸞の波乱に満ちた生涯のおかげといっては失礼かもしれないが、親鸞の境遇、その偶然によって、広大な坂東の平野から、日本全土へ広がっていったのである。いわばここが浄土真宗の核であり、源泉なのであった。よくよく考えてみれば、それは偶然ではなく必然であったのだと思う。